亀井 喜一郎(かめい きいちろう、1877年(明治10年)9… 亀井 喜一郎(かめい きいちろう、1877年(明治10年)9月11日 - 1935年(昭和10年)8月2日)は、日本の銀行家。函館製綿監査役。函館貯蓄銀行支配人・同行取締役。族籍は北海道平民。評論家亀井勝一郎の父。 北海道・工藤嘉七の叔父。1906年、先代亀井ミヤの入夫となり、家督を相続した。東京専門学校(現・早稲田大学)邦語行政科卒業。函館貯蓄銀行支配人をつとめ、1919年に辞任する。北海道函館市元町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
森竹 邦彦(もりたけ くにひこ、1877年9月9日 - 没年… 森竹 邦彦(もりたけ くにひこ、1877年9月9日 - 没年不詳)は、日本の実業家。森竹商店経営者、京新聯合会(現・銀座通連合会)初代会長。銀座繁栄の立役者で、銀座通連合会共通商品券の発行等を進めた。 1877年9月9日、機械金物商と熱海にて植林事業を営み公共の為尽くした森竹五郎の長男として生まれる。 慶應義塾、立教大学で学ぶ。その後、横浜にて機械商の見習いを務める。 1898年、英国マンチェスター工業学校(Manchester Technical School、現・マンチェスター大学)で学び、帰国後、家業に従事し、森竹商店の経営者を務める。 森竹商店は、小売りもしていたが、東京市営の水道敷設工事に使用する材料一般を請け負い、水道局へ納入していた。
谷津 直秀(やつ なおひで、1877年9月8日 - 1947… 谷津 直秀(やつ なおひで、1877年9月8日 - 1947年10月2日)は、日本の動物学者。日本の動物生態研究の礎を築いた人物。Ph.D.(コロンビア大学)。東京帝国大学名誉教授。 東京で生まれる。その後、親と共に北海道に渡り、北海英語学校で学ぶ。1894年(明治27年)尋常中学共立学校卒業。1897年(明治30年)第一高等学校 (旧制)卒業。1900年(明治33年)東京帝国大学理科大学を卒業後、浅羽靖の援助によりアメリカ・コロンビア大学のE・B・ウィルソン(英語版)のもとで実験形態学の研究を行い、Ph.D.(博士号)の学位を得た。1907年(明治40年)に帰国し、東京帝国大学理科大学講師を嘱託され、1910年(明治43年)には同助教授となった。
野々村 戒三(ののむら かいぞう、1877年(明治10年)9… 野々村 戒三(ののむら かいぞう、1877年(明治10年)9月7日 - 1973年(昭和48年)11月21日)は、日本の歴史学者、能楽研究者。号は「蘆舟」、「芥叟」。クリスチャンであった。 1877年、大分県生まれ。父・野々村卓二は塩谷宕陰の門人で、母は三浦梅園の玄孫に当たる。1896年、立教学校(現・立教大学)卒業。その後、東京帝国大学文学部史学科に進み、西洋中世史を専攻した。1901年(明治34年)に東京帝国大学を卒業。 卒業後は立教中学校の教員として勤務。中学校長の元田作之進の依頼で自宅を謡の稽古場として貸すこととなり、能との関わりを持つこととなる。その稽古場で教えていた師匠は池内信嘉であった。
漢那 憲和(かんな けんわ、1877年(明治10年)9月6日… 漢那 憲和(かんな けんわ、1877年(明治10年)9月6日 - 1950年(昭和25年)7月29日)は、日本の海軍軍人、政治家。衆議院議員、平沼内閣内務政務次官。最終階級は海軍少将。海軍兵学校27期卒。沖縄県出身。 大正年間に当時の皇太子(昭和天皇)の欧州遊学の際、御召艦「香取」の艦長を務めた事で知られる。退役後は地元の沖縄県から選出され、衆議院議員となった。戦前最後の沖縄県選出議員の一人である。 1877年(明治10年)、漢那憲慎・オトの長男として琉球国那覇西村(現・沖縄県那覇市西)に生まれる。先祖は福州との貿易に従事していた。 1892年(明治25年)、沖縄県尋常中学校(後の沖縄県立第一中学校、現在の沖縄県立首里高等学校)に入学。
高崎 三重郎(たかさき さんじゅうろう、1877年〈明治10… 高崎 三重郎(たかさき さんじゅうろう、1877年〈明治10年〉9月4日 - 1958年〈昭和33年〉11月11日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 茨城県行方郡、のちの麻生町(現行方市)出身。高崎新蔵の長男として生まれ、1894年(明治27年)7月に祖父三郎右衛門の後を受け家督を相続する。農業を営む。 麻生町会議員、行方郡会議員、同郡教育会副会長、麻生町労務委員、茨城県農工銀行監査役、佐原興業銀行取締役を歴任した。 1911年(明治44年)には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで1期務めた。
桐谷 洗鱗(きりや せんりん、1877年9月1日 ‐ 193… 桐谷 洗鱗(きりや せんりん、1877年9月1日 ‐ 1932年7月19日)は、明治時代の口絵画家、大正時代から昭和時代にかけての日本画家、版画家。仏画の権威として活躍したが、急逝した。 富岡永洗及び橋本雅邦の門人。新潟県三島郡宮本町(現・長岡市)に生まれる。本名は長之助。深見和久太の四男であったが桐谷姓を継いだ。20歳の時に上京、永洗に師事している。永洗が没した時、その夭折を惜しむ記事を投稿している。 その後、雅邦に就いて東京美術学校日本画家選科を卒業し、1907年に文展に入選。翌年から京都、奈良の寺院をめぐり、1909年、「訪古画帖」を作る。仏教画の方に進み始めた。この間、京都の「日出新聞」に挿絵を描く。
近藤 豊吉(こんどう とよきち、1877年(明治10年)9月… 近藤 豊吉(こんどう とよきち、1877年(明治10年)9月1日 - 1930年(昭和5年)4月15日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 愛媛県桑村郡、後の周桑郡吉岡村(現西条市)で農家・近藤保太郎、フサ夫妻の三男として生まれる。父の事業の失敗で家産が傾き、家族総出で行商などを営む。1897年11月、歩兵第22連隊に入隊し、1898年10月、台湾守備隊に編入され渡台。1900年に除隊となるが、内野辰次郎中隊長の勧めで憲兵隊に志願するも馬術訓練中の事故で骨折し、その後の経過が思わしくないため、同年11月に後備役免除となった。 その後、北海道空知郡滝川村江部乙に移住していた兄・桝太郎の勧めで、1901年、母、妹と共に江部乙に移転。
井上 達三(いのうえ たつぞう、1877年〈明治10年〉8月… 井上 達三(いのうえ たつぞう、1877年〈明治10年〉8月29日 - 1950年〈昭和25年〉7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 井上成美海軍大将の実兄。妻は荒城二郎海軍中将(海兵29期、米内光政海軍大将とクラスメートかつ親友)の妹。井上達三の家族関係については、井上成美#親族を参照。 本記事の出典は、特記ない限り、井上成美伝記刊行会編著 『井上成美』 井上成美伝記刊行会、1982年(昭和57年)、17-19頁。 宮城県仙台に生まれる。小学校時代は山梨勝之進海軍大将と同級。 東北学院を経て、陸軍士官学校に進んだ。士官候補生(士候)11期、1899年(明治32年)11月卒業。陸軍砲兵少尉に任官。
浅井 虎夫(あさい とらお、1877年〈明治10年〉8月23… 浅井 虎夫(あさい とらお、1877年〈明治10年〉8月23日 - 1928年〈昭和3年〉12月1日)は、日本の歴史学者。専門は中国法制史、日中関係史。 1877年(明治10年)、兵庫県神戸に生まれた。1896年、兵庫県尋常中学校を卒業し、熊本の第五高等学校に入学。1899年、東京帝国大学文科大学漢学科史部に入学。大学では東洋史の市村瓚次郎、国史の星野恒、経済史の内田銀蔵、法制史の宮崎道三郎らから学び、1902年(明治35年)に卒業。同大学大学院に進学した。 1905年、台湾総督府に設置された臨時台湾旧慣調査会の嘱託となり、『清国行政法』の編纂に従事。1915年(大正4年)、『清国行政法』完成と同時に調査会を辞職し、帰郷した。
奥村 千太郎(おくむら せんたろう、1877年8月23日 -… 奥村 千太郎(おくむら せんたろう、1877年8月23日 - 1954年5月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。1897年、東京専門学校政治経済科卒。大阪朝日新聞記者、同客員となる。中国に渡り、天津取引所常務取締役、天津信託(株)取締役、天津商業会議所評議員となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀4区から無所属で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1954年に死去した。
慶松 勝左衛門(けいまつ しょうざえもん、前名・勝太郎、18… 慶松 勝左衛門(けいまつ しょうざえもん、前名・勝太郎、1876年(明治9年)9月21日 - 1954年(昭和29年)1月28日)は、日本の薬学者、政治家。貴族院議員。参議院議員(1期)。薬学博士。 京都府出身で、都二条烏丸の薬種街の慶松衛生堂にて生まれる。先代勝左衛門の長男。1901年、東京帝国大学医科大学薬学科卒業。同年同大学の助手となる。 その後東京衛生試験所技師、関東都督府中央試験所長、南満洲鉄道中央試験所長を経て、1915年10月1日第一製薬の前身であるアーセミン商会を創業。梅毒の治療薬である駆梅剤アーセミン®を発売した。その後1922年東京帝国大学薬学科教授に就任した。この他京都帝国大学講師も務めた。
中野 種一郎(なかの たねいちろう、1876年 <明治9年>… 中野 種一郎(なかの たねいちろう、1876年 <明治9年> 9月20日 - 1974年 <昭和49年> 1月24日)は、日本の政治家、実業家。伏見町長、伏見市長を経て、衆議院議員や、京都放送会長、京都商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭、関西経済連合会副会長などを歴任した。 京都府乙訓郡調子村(現・長岡京市)生まれ。佛教専門学校(現佛教大学)卒業。家業の酒造業に従事する。1908年に紀伊郡会議員となり、以後4期務めた。また、1909年3月からは伏見町会議員となって、3期務めた。1914年からは郡会議長も務めた。1923年の郡制廃止まで郡会議長と議員を務めた。1926年8月3日に伏見町長に就任した。
胎中 楠右衛門(たいなか くすえもん、1876年(明治9年)… 胎中 楠右衛門(たいなか くすえもん、1876年(明治9年)9月20日 - 1947年(昭和22年)3月22日)は、日本の大正・昭和期の政治家、実業家、自由民権運動家。農林審議会議員、米穀統制調査会委員、大日本国粋会幹事長、藤原製材会社社長。 明治9年(1876年)9月20日、旅館業を営む胎中弥平の次男として、高知県安芸郡安芸町(現安芸市)に生れる。母は芳子。 この明治9年(1876年)9月は、折しも明治天皇が国憲草案起創の詔勅を元老院へ御下賜された時にあたり、楠右衛門はことあるごとにそれを深く認識するようになり、晩年「憲政碑」の建立へもその思いがつながっている。 明治23年(1890年)、上京し、神奈川県愛甲郡厚木町(現・厚木市)に居を定めた。
吉田 博(よしだ ひろし、1876年(明治9年)9月19日 … 吉田 博(よしだ ひろし、1876年(明治9年)9月19日 - 1950年(昭和25年)4月5日)は、日本の洋画家、版画家。自然と写実そして詩情を重視した作風で、明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者として活躍した。
藤谷 功彦(ふじたに いさひこ、1876年(明治9年)9月1… 藤谷 功彦(ふじたに いさひこ、1876年(明治9年)9月19日 - 1914年(大正3年)2月28日)は、日本の薬理学者である。 藤谷家の子爵であった藤谷為寛の甥(為寛の弟の子)として京都の上京に生まれる。1900年(明治33年)に京都府立医学専門学校(現在の京都府立医科大学)卒業後、京都帝国大学(現在の京都大学)の助教授として教鞭を執った。 1902年(明治35年)には母校の京都府立医専に教授として回帰し、薬学および医化学を専門に教鞭を執る。1911年(明治44年)には医学博士を取得した。 この項目は、薬学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:薬学/Portal:医学と医療/Portal:化学)。
八杉 貞利(やすぎ さだとし、1876年9月16日 - 19… 八杉 貞利(やすぎ さだとし、1876年9月16日 - 1966年2月26日)は、日本のロシア語学者。 1876年、東京府で生まれた。1888年8月、高等師範学校附属小学校高等科(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1894年に高等師範学校尋常中学科(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業し、第一高等学校を経て、東京帝国大学言語学科に進学、卒業した。卒業後はロシアに留学し、比較言語学、スラブ比較文法を学んだ。 帰国後の1903年に東京外国語学校教授となり、母校である東京帝国大学、早稲田大学でも講師を務めた。言語学の研究者として研究を進めると同時に、米川正夫、中村白葉、昇曙夢、木村彰一などのロシア文学者を育成した。
相馬 黒光(そうま こっこう、1876年(明治9年)9月12… 相馬 黒光(そうま こっこう、1876年(明治9年)9月12日 - 1955年(昭和30年)3月2日)は、夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家である。旧姓は星、本名は良(りょう)。 旧仙台藩士・星喜四郎、巳之治(みのじ)の三女として仙台に生まれた。星家の婿養子だった父は仕事のため別居していた。8歳のときに一家の柱であった漢学者の祖父が死去、十代前半には姉の発狂、父親の癌発病、弟の病気による右足切断が立て続けて一家を襲い、笑わない子となる。少女期より横浜バンド出身である押川方義の教会「仙台日本基督教会」へ通い、14歳で洗礼を受けた。 小学校初等科卒業後、裁縫学校に進むが、進学を強く希望し、1891年に、学費の安かったミッションスクール宮城女学校(現・宮城学院中学校・高等学校)に入学が叶った。
亀田 次郎(かめだ じろう、1876年〈明治9年〉9月11日… 亀田 次郎(かめだ じろう、1876年〈明治9年〉9月11日 - 1944年〈昭和19年〉2月8日)は、日本の国語学者、書誌学者。 兵庫県印南郡曽根村(現・高砂市曽根町)に生まれる。父・猪之介、母・チヨ。母方の祖父は亀田五一郎といい、幕末に塩田開拓などで成功し、南画家の田能村直入などの文人と交流のあった素封家であった。 大阪尋常中学校から熊本の第五高等学校を経て東京帝国大学文学部に進学。友人に新村出がいる。大学を卒業後は恩師・上田萬年が主事を務めていた国語調査委員会嘱託として実務にあたった。1908年に七高へ赴任(同僚に山田準・武藤長平・伊波普猷らがいた)。その後、大阪外国語学校・大谷大学に教授として勤務した。
奥山 亀蔵(旧字体: 奧山 龜藏、おくやま かめぞう、187… 奥山 亀蔵(旧字体: 奧山 龜藏、おくやま かめぞう、1876年(明治9年)9月10日 - 1941年(昭和16年)5月17日)は、日本の土木技術者、内務技官、実業家、政治家。衆議院議員。 1876年(明治9年)9月10日、山形県田川郡古関村(東田川郡大和村、余目町を経て現庄内町)において、豪農・奥山重右衛門の三男として生まれた。 22歳の時に荘内中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)を卒業し、翌年に石川県金沢市の第四高等学校大学予科二部に入学した。1年間の旧額なども経て、1902年(明治35年)7月に第四高等学校を卒業した。その後は東京府土木課の雇員として、多摩川工区や墨田川工区の現場監督を務めた。
伊藤 証信(いとう しょうしん、1876年(明治9年)9月1… 伊藤 証信(いとう しょうしん、1876年(明治9年)9月10日 - 1963年(昭和38年)1月14日)は、日本の仏教思想家、社会運動家。青年期には出家した僧であった。 三重県員弁郡久米村坂井(後の桑名市坂井)の農家に生まれ、幼名を清九郎といった。 13歳で出家して真宗大谷派円授寺で得度し、僧となって、名を証信とした。岐阜県大垣の美濃教校、京都市の真宗中学校を経て、真宗大学(大谷大学の前身)に学ぶ。在学中から清沢満之に師事し、大学の東京への移転を機に上京する。大学卒業後は、清沢が唱えた「精神主義」の運動に加わった。 1904年、父の看病のために久米村へ帰郷した際、霊感体験をし「無我の愛」を悟ったという。
木間瀬 策三(きませ さくぞう、1876年〈明治9年〉9月9… 木間瀬 策三(きませ さくぞう、1876年〈明治9年〉9月9日 - 1956年〈昭和31年〉12月10日)は、明治末から昭和期の内務官僚、実業家。官選富山県知事。 千葉県出身。従五位勲五等の官吏木間瀬柔三の五男として生まれる。富山中学校で中学1年に在学。第一高等学校を卒業。1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し宗教局属となる。 以後、三重県事務官、愛知県事務官、千葉県事務官・第二部長、茨城県事務官・第四部長、同県事務官・警察部長、同県事務官・内務部長、新潟県内務部長、大阪府内務部長などを歴任。 1915年(大正4年)8月12日、富山県知事に就任。
門田 新松(もんでん しんまつ、1876年(明治9年)9月7… 門田 新松(もんでん しんまつ、1876年(明治9年)9月7日 - 1959年(昭和34年)4月11日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 広島県沼隈郡水呑村(水呑町を経て現福山市)で、門田伝吉の三男として生まれる。1892年(明治25年)鞆高等小学校(廃校)を卒業。1894年(明治27年)水呑小学校雇教師となり、1896年(明治29年)准訓導に進み、1898年(明治31年)呉高等小学校に異動した。1903年、東洋協会専門学校を卒業。 日露戦争に海軍嘱託として従軍。その後、大連市で日清興信所を設立。その他、関東州経済調査委員、大連株式商品取引所理事長、大連郊外土地監査役、大連株式信託ハルピン取引所監査役、教育貯蓄銀行監査役、大連商品信託取締役、満州不動貯金取締役、第一無尽社長、日清印刷所社長などを務めた。
鈴木 周三郎(すずき しゅうざぶろう / しゅうさぶろう、1… 鈴木 周三郎(すずき しゅうざぶろう / しゅうさぶろう、1876年(明治9年)9月2日 - 1940年(昭和15年)12月16日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員、福島県信夫郡杉妻村長。 福島県信夫郡伏拝村(杉妻村を経て現福島市伏拝)で、地主・鈴木清次郎の長男として生まれる。1908年(明治41年)家督を相続した。 福島商業会議所議員、福島県農会副会長、鈴木実業銀行頭取、福島紡績社長、福島商業銀行頭取、川俣銀行取締役、福島電灯取締役、福島瓦斯取締役、磐城水電取締役、霊山電気取締役、福島羽二重取締役、鈴木商事取締役などを務めた。 政界では、杉妻村長、同村会議員を務めた。
佐伯 矩(さいき ただす、さえき ただす、1876年〈明治9… 佐伯 矩(さいき ただす、さえき ただす、1876年〈明治9年〉9月1日 - 1959年〈昭和34年〉11月29日)は、日本の栄養学者、医師。医学博士。「栄養学の創始者」、「栄養学の父」と称される。世界に先駆けて医学から栄養学を独立させ、栄養研究所、栄養士制度を発展させた。 栄養は保健・経済・道徳の基本をなすと「栄養三輪」を唱えた。著書『栄養』では、栄養学だけでなく食糧政策にも言及し、魚類を重んじ畜産は小動物にすべきとしている。自分で料理をすることはほとんどなかった。 佐伯が少年時代に育った愛媛県郡中町(現・伊予市)の栄養寺には、佐伯の筆による「栄養」の書と「栄養」顕彰碑が建立されている。 1876年9月1日、愛媛県新居郡氷見村(現・西条市)の医師の家に生まれる。
天沼 俊一(あまぬま しゅんいち、1876年8月31日 - … 天沼 俊一(あまぬま しゅんいち、1876年8月31日 - 1947年9月1日)は、日本の建築史家。京都大学名誉教授。古建築の調査に従事した。東京出身。 奈良県技師時代に始めた装飾文様などの細部にわたる古建築研究は、初の日本建築史の概説書『日本建築史要』に実り、身近なものとして古建築の存在を広く知らせた。 東京生まれ。河東節名跡の6代目十寸見蘭洲(本名:天沼熊作)の長男。弟は慶応義塾大学教授の天沼貴彦、妹は画家の天沼青蒲。 1893年東京府尋常中学校(現:東京都立日比谷高等学校)卒。1902年東京帝国大学工科大学建築学科卒、大学院に進む。1905年陸軍歩兵少尉。1906年、奈良古社寺修理技師。1918年、京都府古社寺修理監督技師。
依仁親王妃 周子(よりひとしんのうひ かねこ、1876年〈明… 依仁親王妃 周子(よりひとしんのうひ かねこ、1876年〈明治9年〉8月29日 - 1955年〈昭和30年〉3月4日)は、日本の旧皇族。東伏見宮依仁親王の妃。岩倉具定公爵令嬢。母は澤為量子爵令嬢・久子。旧名は、岩倉 周子(いわくら かねこ)。皇籍離脱前の身位は親王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇籍離脱後の名は、「東伏見 周子(ひがしふしみ かねこ)」。 1876年(明治9年)8月29日、岩倉具定公爵の長女として誕生。はじめ華族女学校に学ぶが、東京女学館に転校して卒業。安井春子(広瀬武夫夫人)に漢学を、西川清子(西川虎之助の長女、ヴィッカース慶大教授夫人)に英語とピアノを、中島歌子に和歌を、野口小蘋に絵画を、それぞれ師事した。
坪井 九八郎(つぼい くはちろう、1876年(明治9年)8月… 坪井 九八郎(つぼい くはちろう、1876年(明治9年)8月27日)- 1928年(昭和3年)10月7日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・坪井航三の長男として生まれる。父の死去に伴い、1898年(明治31年)2月15日、男爵を襲爵した。 1919年(大正8年)7月、京都帝国大学法科大学を卒業。その後、月島機械取締役、台東製糖取締役、愛国貯金銀行取締役、天津取引所監査役、天津信託監査役などを務めた。 1911年(明治44年)3月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し、死去するまで4期在任した。その他、第2次大隈内閣・農商務副参政官、米価調節調査会委員などを務めた。
埴原 正直(はにはら まさなお、1876年〈明治9年〉8月2… 埴原 正直(はにはら まさなお、1876年〈明治9年〉8月25日 - 1934年〈昭和9年〉12月20日)は、日本の外交官。外務次官、駐アメリカ大使、ワシントン会議全権委員。位階および勲等は正三位・勲一等。洋画家の埴原久和代は妹。 山梨県中巨摩郡源村(現・南アルプス市)生まれ。1897年(明治30年)に東京専門学校卒業後は東洋経済新報社に勤務し、日本最初の外交専門誌『外交時報』を刊行する。 翌1898年(明治31年)に第7回外交官及領事官試験に合格し外務省に入省。同期に田中都吉、本多熊太郎らがいる。清国(現・中国)アモイ領事館補を皮切りに、以降順調に昇進を果たす。外務次官時代には当時の海軍大臣・加藤友三郎や駐アメリカ大使・幣原喜重郎とともにワシントン会議の全権委員に選任された。
奥村 安太郎(おくむら やすたろう、1876年(明治9年)8… 奥村 安太郎(おくむら やすたろう、1876年(明治9年)8月24日 - 1946年(昭和21年)12月11日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・木島。 京都府京都市で、旧淀藩士・木島行吉の息子として生まれ、1901年(明治34年)8月、奥村つる の養子となり、その後家督を相続した。1903年(明治36年)京都法政大学(現立命館大学)法律科を卒業した。 1906年(明治39年)奥村合名会社を設立し代表社員に就任。清国、朝鮮に支店を設けた。1909年(明治42年)4月、三等郵便局長に任じられ1911年(明治44年)6月まで在任。その後、京都電気取締役、日本陶料取締役、朝鮮無煙炭礦取締役、阪東土地取締役、摂丹鉄道社長、台湾農林社長、京都火災保険社長、国民銀行頭取、西宮土地監査役、台湾総督府嘱託、樺太庁嘱託などを務めた。
伊丹 松雄(いたみ まつお、1875年(明治8年)9月22日… 伊丹 松雄(いたみ まつお、1875年(明治8年)9月22日 - 1958年(昭和33年)6月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 岡山県岡山市桶屋町出身。鹿児島県士族の伊丹親恒の長男として生れる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業、翌年1月歩兵少尉に任官し、歩兵第20連隊付となる。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵大尉に昇進し歩兵第20連隊中隊長に就任。参謀本部出仕、参謀本部員を経て、1904年(明治37年)4月、第10師団参謀に発令され日露戦争に出征した。
奥村 信太郎(おくむら しんたろう、1875年9月22日 -… 奥村 信太郎(おくむら しんたろう、1875年9月22日 - 1951年3月4日)は、日本のジャーナリスト、元毎日新聞社社長。 東京府荏原郡品川村大字北品川宿(現東京都品川区北品川)で父奥平昌邁、母岡見りきの間に生まれ、奥平家の菩提寺である清光院住職奥村成岳の長男として入籍。慶應義塾幼稚舎を経て1896年12月慶應義塾大学文学部を卒業。在学中に森鷗外から美学を学んだ。1897年1月博文館編集局に入社。1899年に退社して真宗日報(後に広島日報)主筆として広島に赴任したが、翌1900年、道楽が原因で夜逃げし、東京に戻る。1901年4月、慶應義塾長鎌田栄吉の紹介で大阪毎日新聞社に入社、通信部員となる。
杉山 金太郎(すぎやま きんたろう、明治8年(1875年)9… 杉山 金太郎(すぎやま きんたろう、明治8年(1875年)9月19日 - 昭和48年(1973年)3月10日)は、日本の実業家。豊年製油(現J-オイルミルズ)会長。
青山 寛(あおやま ひろし、1875年(明治8年)9月19日… 青山 寛(あおやま ひろし、1875年(明治8年)9月19日 - 1946年(昭和21年))は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 愛知県愛知郡長湫村(現長久手市)で、青山甚兵衛の長男として生まれる。1896年(明治29年)陸軍士官学校第8期卒業。日露戦争に出征。 1917年(大正6年)8月に大阪連隊区司令官、1919年(大正8年)7月に陸軍歩兵大佐、1920年(大正9年)8月に近衛歩兵第4連隊長を経て、1924年(大正13年)2月に陸軍少将・第10師団司令部附となる。その後、1925年(大正14年)4月に歩兵第22旅団長を経て、1928年(昭和3年)3月8日に待命、同月29日に予備役に編入した。
伊藤 長右衛門(いとう ちょうえもん、1875年〈明治8年〉… 伊藤 長右衛門(いとう ちょうえもん、1875年〈明治8年〉9月13日 - 1939年〈昭和14年〉8月30日)は、日本の土木技術者。「港湾工学の父」と呼ばれる広井勇の小樽港建設における後継者であり、小樽港をはじめとする北海道の港湾建設に生涯を捧げた。「小樽港の生みの親」といわれる広井と共に「小樽港の育ての親」ともいわれる。出生名は伊藤 長市(いとう ちょういち)。福井県大野郡富田村(後の大野市)出身。 江戸時代は庄屋、明治時代には戸長や村長として地域のために尽くした伊藤家の長男として誕生。少年時代は勉強に励み、学業では地元で右に出る者なしとまでいわれた。 一家の長男が家を継ぐのが当然の時代ではあったが、近代化の進む当時の日本にあって、父は旧来の慣習には囚われず、長男である伊藤に、自分の好きな道へ進むよう告げていた。
尾上 松之助(おのえ まつのすけ、1875年(明治8年)9月… 尾上 松之助(おのえ まつのすけ、1875年(明治8年)9月12日 - 1926年(大正15年)9月11日)は、日本の歌舞伎役者、映画俳優、映画監督。本名は中村 鶴三(なかむら かくぞう)。 日本映画草創期に活躍した時代劇スターであり、日本初の映画スターといわれる。旅役者から牧野省三に認められて映画界に入り、『碁盤忠信 源氏礎』でデビュー。牧野とのコンビで横田商会、日活の2社で1,000本以上の映画に出演、大きな目玉を向いて見得を切る演技が評判を呼び「目玉の松ちゃん」の愛称で大衆に親しまれた。立川文庫や講談でおなじみの英雄・豪傑・義人・侠客のほとんどに扮しており、トリック撮影を駆使した忍術映画では年少ファンのアイドル的存在となった。
大江 スミ(おおえ すみ、明治8年(1875年)9月7日 -… 大江 スミ(おおえ すみ、明治8年(1875年)9月7日 - 昭和23年(1948年)1月6日)は、明治から昭和にかけて活躍した教育家。女子教育の先覚者。東京家政学院(現・東京家政学院大学)創立者で、日本における家政学の先駆者。旧姓・宮川。東洋英和女学院中学部・高等部、お茶の水女子大学卒業。文部省の国費にてロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校に留学。 1875年(明治8年)9月7日、宮川盛太郎とカネの二女として長崎県十善寺(現在の長崎市)に生まれた。1880年、父が宮内省大膳職へ転じたことにより一家は長崎より上京し、芝の栄町(現在の港区芝公園三丁目)に構えた家に住んだ。1891年、芝鞆絵小学校に入学。
奥澤 勘一(おくざわ かんいち、1875年(明治8年)9月7… 奥澤 勘一(おくざわ かんいち、1875年(明治8年)9月7日 - 没年不明)は、日本の柔術家。柔道師範、戸田流(気楽流)17世、天神真楊流、戸田流(気楽流)の柔術家、柔道整復師として知られた。 戸田流(気楽流)の奥澤七事斎良重の孫。戸田流、天神真楊流の柔術家であり、ほねつぎを営んでいた父、奥澤敬太郎より、東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)湯島天神下同朋町の修心館を引き継いだ後、大正7年7月に浅草仲町24番地に道場を移し柔道を教授。 1921年(大正10年)駒込妙義坂下町に整骨院を開院、後に駒込富士前町に移転した。父、奥澤敬太郎とともに、柔道整復師の法制化に尽力。 昭和9年に古武道振興会主催の古武道型奉納大会で井上縫太郎と共に天神真楊流柔術の極意上段を演武した。
永田 亀作(ながた かめさく、1875年(明治9年)9月6日… 永田 亀作(ながた かめさく、1875年(明治9年)9月6日 – 没年不詳)は、日本の内務官僚。神戸市助役。 静岡県榛原郡菅山村(現在の牧之原市)出身。第一高等学校を経て、1902年(明治35年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、大学院に進んだ。翌年11月、文官高等試験行政科試験に合格。千葉県立千葉中学校教諭、青森県視学官、同事務官、同警察部長、福岡県事務官、沖縄県事務官、同内務部長、岩手県内務部長を歴任し、1919年(大正8年)に休職となった。 その後、1921年(大正10年)から神戸市助役を務めた。
木島 岩太郎(きしま いわたろう、1875年〈明治8年〉9月… 木島 岩太郎(きしま いわたろう、1875年〈明治8年〉9月5日 - 1957年〈昭和32年〉)は、日本の会社役員、地主、銀行家、政治家。 鳥取県八頭郡若桜村大字若桜(現・若桜町)出身。木島嘉七郎の長男。因幡高等小学校に学ぶ。貨物運送業、倉庫業、木材製造販売業を営む。1902年、若桜赤松組合村会議員となり、以来継続して若桜町会議員となる。 1911年4月に若桜町助役、1912年5月に辞任する。八頭郡所得税調査委員を4年つとめる。八頭郡会議員に6年在職し、副議長を1年つとめる。 合資会社若桜銀行業務担当社員、木島合名会社社員、因幡木材合資会社有限責任社員となる。1918年4月、同志と共に若桜運送を創立し、その監査役となる。
板谷 勘右衛門(いたや かんえもん 1875年9月4日 - … 板谷 勘右衛門(いたや かんえもん 1875年9月4日 - 1941年5月1日)は日本の政治家。 1875年地元の地主である板谷助右衛門の長男として生まれる。新潟商業学校を卒業後農業に従事していたが、1913年剱地村会議員選挙に出馬し当選、さらに鳳至郡会議員、1919年には立憲政友会に属して石川県会議員に当選。その後長らく剱地村長をつとめたのち、長年地方自治に尽くした功績で1939年8月1日紺綬褒章を受章した。1941年5月1日に76歳で死去。きく夫人との間に3男2女がある。 『石川県議会史 第2巻』1968年
高橋 偵造(たかはし ていぞう、1875年9月2日 - 19… 高橋 偵造(たかはし ていぞう、1875年9月2日 - 1952年9月26日)は、日本の農芸化学者。 長野県水内郡常盤村(現飯山市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、第一高等学校を経て、1900年東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。1907年農学博士となる。 大蔵省醸造試験所勤務を経て、1922年(大正11年)母校教授となり、農学部長をつとめ、発酵学、醸造学の講義を担当した。清酒や醤油、味噌などの自然純粋培養による菌学的研究を確立させた。日本農芸化学会会長、学士院会員を歴任。 1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。新会員一同は、昭和天皇から皇居に招かれたが高橋は欠席した。
平塚 広義(ひらつか ひろよし、旧字体 : 平塚 … 平塚 広義(ひらつか ひろよし、旧字体 : 平塚 廣義、1875年9月2日 - 1948年1月26日)は、日本の内務官僚。1府3県の知事、台湾総督府総務長官、貴族院勅選議員などをつとめた。正三位勲二等、山形県士族。父は新庄藩士の平塚榮次郎、弟は蚕糸学者で文化功労者の平塚英吉、長男は俳優・著述家の九重京司(本名・平塚広雄)である。
林 七六(はやし しちろく、1875年〈明治8年〉9月2日 … 林 七六(はやし しちろく、1875年〈明治8年〉9月2日 - 1950年〈昭和25年〉2月9日)は、大正から昭和時代前期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員、岡谷市会議長、長野県岡谷市長。 林新一郎の長男として長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)に生まれる。1890年(明治23年)岡谷学校中等科を卒業。家業の醸造業を継ぎ、1928年(昭和3年)南信塩元売捌代表社員、長野県酒造組合連合会代議員、1935年(昭和10年)全国醤油醸造組合連合会理事、1939年(昭和14年)全国酒造組合中央会常任評議員、1940年(昭和15年)長野県石油配給会社社長など要職を歴任した。 この間、政治家としては、諏訪郡会議員、平野村会議員、長野県会議員(2期)を経て、1930年(昭和5年)2月、第17回衆議院議員総選挙(長野県第3区、立憲政友会公認)で当選し、衆議院議員に1期在任。
阿部 亀彦(あべ かめひこ、1875年(明治8年)9月1日 … 阿部 亀彦(あべ かめひこ、1875年(明治8年)9月1日 - 1928年(昭和3年)7月26日)は、日本の内務官僚。官選県知事。板垣伯銅像記念碑建設同志会会長。 大分県出身。藩士・阿部寛平の四男として生まれ、伯父・阿部富太郎の養子となる。第五高等学校を卒業。1904年、東京帝国大学法科大学を卒業。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、宮崎県事務官、栃木県事務官・第二部長、福島県事務官・警察部長、埼玉県内務部長、宮城県内務部長、兵庫県内務部長などを歴任。 大正8年(1919年)4月、高知県知事に就任。1922年10月、広島県知事に転任。1923年10月、知事を辞任し退官した。
森 賢吾(もり けんご、1875年(明治8年)9月1日 - … 森 賢吾(もり けんご、1875年(明治8年)9月1日 - 1934年(昭和9年)1月19日)は、日本の大蔵官僚、貴族院勅選議員。 佐賀県出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学卒業。同年7月に大蔵省に入り、11月に文科高等試験に合格した。司税官・大蔵書記官・大臣秘書官・参事官・馬政局書記官・専売局主事・日本銀行監理官などを歴任した。その後、財務官となりイギリス・フランス駐在を命じられた。 1919年(大正8年)、パリ講和会議全権委員に任命され、翌年には国際経済会議委員や第一次世界大戦の賠償に関するジュネーヴ会議政府代表に任命された。1922年(大正11年)、ジュネーヴ経済財政会議全権委員。
関藤 謙治(せきとう「せきどう」 けんじ、1875年9月1日… 関藤 謙治(せきとう「せきどう」 けんじ、1875年9月1日 - 1964年8月2日)は、岡山県笠岡市出身の実業家。元井笠鉄道代表取締役社長。 1875年9月1日、笠岡市西浜で生まれる。 1908年、井原笠岡軽便鉄道(後の井笠鉄道)の設立に尽力し、1934年、井笠鉄道取締役、1935年、専務取締役を経て、1941年、代表取締役社長となり、地方交通の発展に尽力した。 また、笠岡湾の浚渫、防波堤の築造、富岡湾の干拓などの事業に協力し、井笠地域の発展に尽力した。 1964年8月2日死去。享年88。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
関口 八重吉(せきぐち やえきち、1875年8月29日 - … 関口 八重吉(せきぐち やえきち、1875年8月29日 - 1949年12月24日)は、日本の機械工学者。東京工業大学機械工学科教授や、衛生工業協会会長、日本機械学会会長を務めた。 東京府出身。1896年東京高等工業学校(現東京工業大学)機械科卒業。1898年同校助教授。1902年からイギリス、アメリカ合衆国に留学し機械製作を研究し、コーネル大学大学院修了、修士。1905年に帰国し、教授に昇格。1921年工学博士。1929年東京工業大学機械工学科教授。1933年衛生工業協会会長。1935年日本機械学会会長。1943年蔵前工業会理事長、蔵前工業会館代表取締役会長。1949年勲二等旭日重光章受章。門下に中田孝東京工業大学名誉教授など。
田宮 嘉右衛門(たみや かえもん、1875年8月29日 - … 田宮 嘉右衛門(たみや かえもん、1875年8月29日 - 1959年4月13日)は、日本の実業家。初代神戸製鋼所支配人、第5代神戸製鋼所社長。 愛媛県新居郡立川山村(現:新居浜市)出身。1890年、別子山村の小足谷尋常高等小学校卒業。1904年、鈴木商店入社。1905年、神戸製鋼所支配人となり、1911年、神戸製鋼所が鈴木商店から分離独立して株式会社となると、常務取締役に就任。1928年に専務取締役、1934年に取締役社長となり、1945年に社長を退いて相談役となった。戦後の1947年に公職追放指定を受けたが、1951年の解除後は再び相談役に就任した。また、播磨造船所社長、神戸銀行取締役などを歴任し、経済同友会名誉会員、神戸商工会議所顧問などもつとめた。
米田 甚太郎(よねだ じんたろう、1875年(明治8年)8月… 米田 甚太郎(よねだ じんたろう、1875年(明治8年)8月27日 - 1938年(昭和13年)3月4日)は、日本の内務官僚、朝鮮総督府官僚。実業家。 富山県出身。1898年(明治31年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、翌年に判事検事登用試験と弁護士試験に合格した。司法官試補、宮津区裁判所判事、札幌区裁判所・札幌地方裁判所検事を務めた。1905年(明治38年)に北海道庁警視に転じ、栃木県事務官・警察部長、秋田県内務部長、石川県内務部長を歴任した。さらに朝鮮総督府に移り、忠清北道知事、平安南道知事、京畿道知事を務めた。 退官後は、朝鮮水力電気株式会社社長、朝鮮電気株式会社取締役、天安電灯株式会社取締役などに就任した。