川合 直次(かわい なおじ、1874年(明治7年)2月21日… 川合 直次(かわい なおじ、1874年(明治7年)2月21日 - 1938年(昭和13年)8月4日)は、衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→立憲民政党)、新潟県高田市長。 新潟県頸城郡直江津町出身。1899年(明治32年)、中頸城郡会議員に選ばれ、1903年(明治36年)には新潟県会議員に選ばれた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選された。 1924年(大正13年)、高田市長に選出され、1936年(昭和11年)に辞職するまで3期務めた。在職中は上下水道の整備に尽力した。 市長退任後、第19回衆議院議員総選挙(新潟県第4区)に出馬し、当選。
安芸 晋(あき すすむ、旧字体: 安藝 晉、1873年〈明治… 安芸 晋(あき すすむ、旧字体: 安藝 晉、1873年〈明治6年〉3月18日 - 1947年〈昭和22年〉12月15日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 徳島県名東郡徳島出来島町(現徳島市)の水野静宜の二男として生まれる。1878年(明治11年)、先代の安芸弘栄の養子となり、1910年(明治43年)に家督を相続する。1896年(明治29年)、陸軍士官学校第7期卒業。のち1902年(明治35年)11月に陸軍大学校第16期卒業。 参謀本部部員、関東都督府陸軍参謀、歩兵第14連隊附、同大隊長、第17師団参謀、歩兵第66連隊附、朝鮮駐箚軍参謀。1916年(大正5年)11月に陸軍歩兵大佐・京都連隊区司令官。
白滝 幾之助(しらたき いくのすけ、1873年〈明治6年〉3… 白滝 幾之助(しらたき いくのすけ、1873年〈明治6年〉3月17日 - 1960年〈昭和35年〉11月25日)は、兵庫県出身の日本の洋画家。作風は写実的作品を発表し続けた。 1873年(明治6年)3月17日、但馬国豊岡県朝来郡(現・兵庫県朝来市)生野奥銀谷町に生まれる。幼少時に父を亡くし、女手一つで育てられた。 1890年(明治23年)、17歳時に鉱山技師を目指して上京、築地の工手学校に入学。1894年(明治27年)、第4回内国勧業博覧会にて「待ち遠し」が入選。褒状を受け有栖川官家に買い上げ。1896年(明治29年)、下宿先で同居していた同郷の和田三造に誘われて山本芳翠の生巧館画塾に入る。後に生巧館画塾が黒田清輝に譲られ、天心道場となった後、黒田清輝に師事。
丹下 梅子(たんげ うめこ、1873年3月17日 - 195… 丹下 梅子(たんげ うめこ、1873年3月17日 - 1955年1月29日)は、日本の栄養学者、食品化学者。東京帝国大学農学博士。辻村みちよに次いで日本人女性として2人目の女性農学博士である。女性初の帝国大学(東北帝国大学理科大学)に入学・卒業した3名のうちの一人。丹下ウメ子、丹下ウメの表記を採る資料もある。 1873年(明治6年)に鹿児島県鹿児島府下金生町ほか十四町(現在の山形屋鹿児島本店付近)の商家、戸高丹下伊左衛門と丹下エダの三女として生まれる。幼年時にままごとの竹箸を持ちながら走っていたときに転倒して竹箸が右眼に刺さり、失明する。 鹿児島県立女子師範学校(現在の鹿児島大学教育学部)を卒業後、当時の女子師範附属尋常小学校(現在の鹿児島市立名山小学校)の教師になる。
気賀 勘重(きが かんじゅう / けが かんじゅう、1873… 気賀 勘重(きが かんじゅう / けが かんじゅう、1873年〔明治6年〕3月15日 - 1944年〔昭和19年〕11月11日)は、日本の経済学者(専攻は農業経済学・農政学)・政治家。法学博士、慶應義塾大学経済学部長・学事顧問、衆議院議員。静岡県出身。 静岡県浜名郡都盛村(現・浜松市中央区)の農家・三輪家に生まれる。西遠銀行頭取・気賀敬太郎の婿養子となる。19歳まで農業に従事したのち東上して、1895年(明治28年)に慶應義塾大学部文学科を卒業し、翌年普通部教員、1898年(明治31年)に理財科教務主任となる。1899年(明治32年)に慶應義塾が行ったドイツ留学派遣の第1期留学生として選抜され、ゲッティンゲン大学、ライプツィヒ大学、ベルリン大学で、経済学者カール・ビュヒャー (Karl Bücher) および財政学者のグスタフ・コーンらに師事し、論文 Das Bankwesen Japans(「日本の銀行制度」)にて博士学位を取得し、1903年(明治36年)に帰国した。
山本 平三郎(やまもと へいざぶろう、1873年〈明治6年〉… 山本 平三郎(やまもと へいざぶろう、1873年〈明治6年〉3月15日 - 1931年〈昭和6年〉1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 京都府桑田郡、のちの南桑田郡曽我部村(現亀岡市)出身。鉄工業、建築請負業、海運業を営み、神戸市会議員となる。兵庫県土木建築請負業組合長、神戸市土木建築請負業組合相談役、神戸商工会議所議員兼常任議員、桜麦酒(株)監査役、相良銀行、相良運輸(株)取締役を務めた。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において兵庫2区(当時)から立憲民政党公認で当選、1期務める。当選した翌1931年1月に死去した。
小原 新三(おはら しんぞう、1873年(明治6年)3月13… 小原 新三(おはら しんぞう、1873年(明治6年)3月13日 - 1953年(昭和28年)6月27日)は、日本の内務・朝鮮総督府官僚。官選県知事、錦鶏間祗候。俳号・烏兎(うと)。 東京府出身。新潟県庶務課長を務めた小原実の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1897年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。貴族院事務局に入局した。 1898年、貴族院事務局書記官兼内務省参事官に就任。以後、青森県事務官、奈良県内務部長を歴任。1910年10月、朝鮮総督府に転じ内務部地方局長に就任。さらに、忠清南道長官を経て、1916年10月、総督府農商工部長官となる。
柴崎 雪次郎(しばさき ゆきじろう、1873年(明治6年)3… 柴崎 雪次郎(しばさき ゆきじろう、1873年(明治6年)3月13日 - 1929年(昭和4年)8月10日)は、日本の教育者、新潟市長。 埼玉県比企郡東吉見村(現在の吉見町)出身。1894年(明治27年)、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。高田商会勤務の後、1897年(明治30年)に京都府商業学校教諭となり、新潟市立商業学校教諭、1899年(明治32年)同校長を歴任した。1901年(明治34年)より海上運送学研究のため、イギリス・フランス・ベルギーに留学。1905年(明治38年)に帰国し、神戸高等商業学校(現神戸大学)教授を務めた。1909年(明治42年)、長崎高等商業学校(現長崎大学)校長に転じ、1913年(大正2年)まで務めた。
青柳 栄司(あおやぎ えいじ、1873年3月12日 - 19… 青柳 栄司(あおやぎ えいじ、1873年3月12日 - 1944年8月22日)は、日本の電気工学者。送配電に関する研究に従事し、半真空電球やタングステンアーク灯などを発明。窒素バリウムの製法と適用法を確立した。また電気工学講習所などの設立に尽くした。信濃国安曇郡上堀金村(現:長野県安曇野市)生まれ。
幸田 成友(こうだ しげとも、1873年3月9日 - 195… 幸田 成友(こうだ しげとも、1873年3月9日 - 1954年5月15日)は、日本の歴史学者。
4代 藤井 善助(ふじい ぜんすけ、1873年(明治6年)3… 4代 藤井 善助(ふじい ぜんすけ、1873年(明治6年)3月8日 - 1943年(昭和18年)1月14日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家、美術品収集家。衆議院議員、滋賀県神崎郡北五個荘村長。前名・善三郎、号・静堂。 滋賀県神崎郡宮荘村(北五個荘村宮荘、五個荘町を経て現東近江市)で、絹織物洋服生地製造販売業・藤井周次(3代善助)の長男として生まれる。1903年(明治36年)7月、家督を相続し善助(4代)に改名した。1887年(明治20年)京都第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業し、さらに上海の日清貿易研究所で学んだ。 京都の自店で働いていたが、1901年(明治34年)京都倉庫監査役、大阪金巾製織会社監査役に就任。
田中 萃一郎(たなか すいいちろう、1873年〈明治6年〉3… 田中 萃一郎(たなか すいいちろう、1873年〈明治6年〉3月7日 - 1923年〈大正12年〉8月13日)は、大正期の歴史学者、東洋史学者、法学博士。日本における東洋学の草分けで、専門は近世中国研究。 静岡県田方郡大竹村(現函南町)で、後に衆議院議員を務めた田中鳥雄の長男として生まれる。 明治25年(1892年)、慶應義塾大学部文学科を卒業。在学中はドイツ人のお雇い外国人・ルートヴィヒ・リースに師事。卒業後、静岡県伊豆学校(現在の静岡県立韮山高等学校)校長となり、その間に『東方近世史』を執筆。明治38年(1905年)からイギリス、ドイツ、フランスに留学し、ライプツィヒ大学で高名なカール・ゴットハルト・ランプレヒト(英語: Karl_Lamprecht)博士に師事し、研究を開始。
岡田 庄作(おかだ しょうさく、1873年(明治6年)3月6… 岡田 庄作(おかだ しょうさく、1873年(明治6年)3月6日 - 1937年(昭和12年)5月4日)は、日本の裁判官、弁護士、法学博士。 1873年3月、島根県邇摩郡波積村生まれ。 島根県師範学校を卒業後、小学校校長となるが、1900年に上京し、1902年に明治法律学校を卒業。大分、熊本、水戸、東京の各地方裁判所検事を歴任。1909年、ドイツに留学してミュンヘン大学に学び、帰国後東京控訴院判事となる。 1919年、裁判所を退職して弁護士を開業。東京弁護士会会長となり、のちに明治大学教授。1924年、明治大学より法学博士号を取得(論文タイトルは『錯誤論』)。 1937年5月4日死去。65歳。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
日満(にちまん、1873年3月5日 - 1951年1月7日)… 日満(にちまん、1873年3月5日 - 1951年1月7日)は、大石寺第63世法主。讃岐阿闍梨。自照院。道号は慈円。秋山姓。
河野 清丸(こうの きよまる、1873年(明治6年)3月3日… 河野 清丸(こうの きよまる、1873年(明治6年)3月3日 - 1942年(昭和17年)8月21日)は、日本の教育学者。 愛媛県周桑郡周布村(現在の西条市)出身。1891年(明治24年)、愛媛県師範学校に入学。卒業後、高等小学校訓導、校長を務めた。1903年(明治36年)、愛媛県立商業学校助教諭に転じ、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験に合格して、同校教諭となった。1906年(明治39年)、東京帝国大学文科大学哲学科選科に入学し、吉田熊次のもとで教育学を学んだ。またそのかたわら大成中学校修身科講師を務めた。1910年(明治43年)に卒業し、また高等学校卒業試験にも合格して、文学士となった。
楠本 海山(くすもと かいざん、1873年(明治6年)3月2… 楠本 海山(くすもと かいざん、1873年(明治6年)3月2日 - 1921年(大正10年)2月5日)は明治から大正にかけての儒学者。楠本端山の子で、楠本正継の父。名は正翼(まさすけ)、字は君翔、別号は晦堂、俟斎主人、遜斎主人、鳶魚斎。 1873年(明治6年)3月2日午後、楠本端山の子として長崎県松浦郡平戸村稗田(平戸市)に生まれた。側室腹だったが、正室には男子がなく、嫡子として育てられた。将来「其の祥翼を正張し、千仞の上に翺翔」することを願って、父に名を正翼、字を君翔と名付けられた。 1881年(明治14年)春、父が松浦詮私塾猶興書院を退職し、故郷針尾島(佐世保市)に移ったため、これに従った。
尾崎 勇次郎(おざき ゆうじろう、1873年〈明治6年〉3月… 尾崎 勇次郎(おざき ゆうじろう、1873年〈明治6年〉3月1日 - 1956年〈昭和31年〉5月19日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事。旧姓・片山。 後の兵庫県多紀郡篠山町(現丹波篠山市)で片山新三郎の二男として生まれ、1878年に尾崎文七の養子となる。第一高等学校を卒業。1899年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し地方局属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1900年9月4日、和歌山県参事官となる。以後、宮城県参事官、福島県警察部長、香川県警察部長、樺太民政署事務官、同民政・事業部長、専売局主事、樺太庁内務部長、北海道庁内務部長などを歴任。
井伊 直方(いい なおかた、1873年(明治6年)2月28日… 井伊 直方(いい なおかた、1873年(明治6年)2月28日 - 1936年(昭和11年)2月3日)は、大正から昭和戦前期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧与板藩主・井伊直安の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1922年(大正11年)11月30日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を卒業し、東京帝国大学法科大学政治学科を修了した。内親王浴場之儀鳴弦控、皇子浴場之儀鳴弦などを務めた。 1928年(昭和3年)1月19日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し死去するまで在任した。 共保 - 共宗 - 宗綱 - 共章 - 共家 - 共直 - 惟直 - 盛直 - 良直 - 彌直 - 泰直 - 行直 - 景直 - 忠直 - 直氏 - 直平 - 直宗 - 直盛 - 直親 - ※(直虎) 直政 - 直孝 - 直澄 - 直興 - 直通 - 直恒 - 直治 - 直惟 - 直定 - 直禔 - 直定 - 直幸 - 直中 - 直亮 - 直弼 - 直憲 - 直忠 - 直愛 - 直豪 - 直岳 直勝 - 直好 - 直武 - 直朝 - 直矩 - 直陽 - 直員 - 直存 - 直郡 - 直朗 - 直暉 - 直経 - 直充 - 直安 - 直方 - 英彰 - 修 - 達夫
河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873年(明治6年)… 河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873年(明治6年)2月26日 - 1937年(昭和12年)2月1日)は、日本の俳人・随筆家。本名は秉五郎(へいごろう)。 正岡子規の高弟として高浜虚子と並び称され、俳句革新運動の代表的人物として知られる。 伊予・松山藩士の五男として生まれる。父は正岡子規の漢学の師。高浜虚子とは中学時に同級であり、後に子規の門下生となるまで、行動をともにした仲の良い友人であった。 子規没後、虚子は「ホトトギス」の経営を、碧梧桐は新聞「日本」の俳句欄を担当。やがて新傾向運動を展開し、季題趣味と定型を打ち破った自由なリズムによる俳句を推進した。1906年から3年間の全国行脚で多くの賛同者を得たが、大正期に至って、虚子が俳壇に復帰し、守旧派の立場から激しい攻撃を浴びせた。
吉村 友之進(よしむら とものしん、1873年(明治6年)2… 吉村 友之進(よしむら とものしん、1873年(明治6年)2月24日 - 1951年(昭和26年)4月13日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。吉村角次郎の子。 地元の旧家で実業家・貴族院議員の吉村角次郎の長男として和歌山県那賀郡、のちの岩出村(岩出町を経て現岩出市)に生まれ、1891年(明治24年)東京法学院を卒業する。1902年(明治35年)5月、家督を相続する。農業を営む傍ら、家業の製糸業を継ぎ、吉村製糸社長、和歌山紡績取締役、南方酒造監査役などを歴任した。 1939年(昭和14年)和歌山県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
森 広蔵(もり こうぞう、1873年2月24日 - 1944… 森 広蔵(もり こうぞう、1873年2月24日 - 1944年1月12日)は、日本の実業家。台湾銀行頭取等を経て、安田保善社理事に就任。昭和初期に安田財閥の最高経営者として組織・人事の再編成を行った。東京銀行集会所会長、経団連副会長等も務めた。 1873年(明治6年)2月24日に鳥取市本町の商家に生まれる。同郷の奥田義人特許局長の玄関番となり特許局で働きながら予備校で学んで、東京高等商業学校(現一橋大学)に入学すると旧藩主による奨学金・寄宿舎に頼りながら、銀行家を目指して学ぶ。1897年(明治30年)7月に卒業すると、高橋是清副頭取の口添えで横浜正金銀行に就職した。1898年(明治31年)3月から上海支店に勤務し、1905年(明治38年)春に満洲の牛荘支店副支配人となった。
坂本 政五郎(さかもと まさごろう、1873年(明治6年)2… 坂本 政五郎(さかもと まさごろう、1873年(明治6年)2月22日 - 1942年(昭和17年)12月18日)は、日本の政治家。徳島市長。徳島県三好市出身。 旧三好郡池田町三縄中西(現在の三好市)生まれ。 1913年(大正2年)、三縄村長に選ばれ1920年(大正9年)まで2期を務めた。その後、三好郡会議員を経て1919年(大正8年)に徳島県会議員に当選、5期連続で県会議員に当選し徳島県会議長も務めた。 1931年(昭和6年)、立憲民政党所属で徳島市長に就任し、1933年(昭和8年)まで務めた。市長退任後は又美馬水力電気会社社長となった。 1942年(昭和17年)12月18日、70歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
三浦 倫吉(みうら りんきち、1873年(明治6年)2月21… 三浦 倫吉(みうら りんきち、1873年(明治6年)2月21日 - 1916年(大正5年)8月7日)は、衆議院議員(立憲同志会)、弁護士。 島根県那賀郡浜田町(浜田市)出身。山口高等学校を経て、1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。卒業後は司法官となり、岡山区裁判所判事、京都区裁判所兼地方裁判所判事を歴任した。1904年(明治37年)に退官した後は、京都市で弁護士・弁理士・破産管財人として活動した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
児玉 好熊(兒玉、こだま よしくま、1873年(明治6年)2… 児玉 好熊(兒玉、こだま よしくま、1873年(明治6年)2月20日 - 1924年(大正13年)9月10日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員(立憲政友会)。 鹿児島県伊佐郡東太良村(現在の伊佐市)で、児玉藤吉の長男として生まれ、1909年(明治42年)7月、家督を相続した。中学造士館を経て、1894年(明治27年)慶應義塾を卒業。慶應義塾の助教授となるが、持病を理由に1896年(明治29年)に帰郷し、英語や数学の塾を開く。 1899年(明治32年)より鹿児島県会議員、同参事会員、同副議長を歴任し、1912年(大正元年)11月、第14代県会議長に就任した。また1910年(明治43年)より鹿児島新聞社理事を務めた。
矢崎 千代二(やざき ちよじ、1872年3月20日(明治5年… 矢崎 千代二(やざき ちよじ、1872年3月20日(明治5年2月12日) - 1947年(昭和22年)12月28日又は12月29日)は、日本の洋画家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
武田 徳三郎(たけだ とくさぶろう、明治5年2月10日(18… 武田 徳三郎(たけだ とくさぶろう、明治5年2月10日(1872年3月18日) - 昭和25年(1950年)5月23日)は日本の政治家、新聞記者。衆議院議員(6期、立憲政友会) 1872年(明治5年)2月、新潟県東頸城郡大島村(現在の上越市)に生まれる。和仏法律学校(現在の法政大学)を卒業し、福岡日日新聞記者となる、その後、日露戦争に従軍し、日本新聞記者を経て、高岡日報社を創立し、その主幹となる。また、関川電力・高岡ステンレス各取締役、頸城鉄道・中央電気各監査役などを歴任する。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選(以後6期当選)。山本悌二郎農林大臣の秘書官を務めた。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。
西田 天香(にしだ てんこう、1872年3月18日(明治5年… 西田 天香(にしだ てんこう、1872年3月18日(明治5年2月10日) - 1968年(昭和43年)2月29日)は、滋賀県長浜市生まれの宗教家・社会事業家、政治家。一燈園の創始者。参議院議員。本名は市太郎。 明治5年(1872年) 滋賀県長浜の紙問屋「玉屋」に生まれる。杉蔭塾で杉本善朗氏から漢籍、珠算等を習う。また長浜キリスト教会の堀貞一牧師から西洋史、英語等を習う。 明治19年(1886年) 長浜旧開知学校高等科を卒業する。翌20年に義母を亡くす。 明治24年(1891年) 父、保三の死亡により家督を継ぐ。同年結婚。小川のぶ(15歳)と結婚。青年団の幹事長に選ばれその後、二宮尊徳の信奉者であった県知事の大越亨に見込まれる。
黒岩 淡哉(くろいわ たんさい、明治5年2月8日(1872年… 黒岩 淡哉(くろいわ たんさい、明治5年2月8日(1872年3月16日) – 昭和38年(1963年)3月1日)は、明治時代から昭和時代にかけての彫刻家(彫塑家)。本名は高木倉吉(のちに黒岩家の養子となる)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
田熊 常吉(たくま つねきち、1872年3月16日〈明治5年… 田熊 常吉(たくま つねきち、1872年3月16日〈明治5年2月8日〉 - 1953年〈昭和28年〉12月22日)は、日本の実業家、発明家。独自のボイラー(タクマ式ボイラー)を発明した。株式会社タクマ創立者。 1872年、鳥取県東伯郡大誠村(現北栄町)で生まれる。医師の下働きから商人を目指し、30歳すぎには材木商として成功を収める。30歳代後半に製材用のボイラー製造事業に出資するも失敗して多額の負債を負う。その後は独自にボイラーの研究を独力で進め、1912年にタクマ式ボイラーを発明。翌年には特許を取得。1914年4月に大阪で開催された第2回発明品博覧会に出品して金賞を取ると、事業化を図り外国製ボイラーの輸入に歯止めがかかる規模の成功を収めた。
石原 重俊(いしはら しげとし、明治5年2月3日(1872年… 石原 重俊(いしはら しげとし、明治5年2月3日(1872年3月11日) - 1944年3月1日)は、日本の郷土史家、教育者、小学校校長。 明治5年2月3日(1872年3月11日)鶴岡代官町に、石原多次馬重威の長男として生まれる。朝暘学校卒業、1892年(明治25年)荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校)卒業(初代卒業生)。朝暘小学校準訓導となり、1908年(明治41年)朝暘第二小学校校長、1918年(大正7年)西郷第一小学校校長。1926年(大正15年)同職を退任すると、図書館に勤務。郷土史研究に打ち込み、阿部正己らと共に本楯遺跡の調査をする。 1944年(昭和19年)3月1日死去。鶴岡の井岡墓地に墓がある。
吉田 恒三 (よしだ つねぞう、1872年3月11日(明治5… 吉田 恒三 (よしだ つねぞう、1872年3月11日(明治5年2月3日) - 1957年(昭和32年)5月16日)は、日本の声明研究者、作曲家。福井県出身。 明治5年(1872年)敦賀県遠敷郡小浜鹿島町(現在の福井県小浜市鹿島)に生まれる。 明治27年(1894年)、福井師範学校(現・福井大学)卒業。 東京高等師範学校附属音楽学校師範科卒業。明治30年(1897年)福井師範学校附属小学校訓導を経て教諭となる(音楽科担当)。 明治34年(1901年)京都師範学校(現・京都教育大学)教諭となり、30年勤続。 浄土宗立仏教専門学校(現・佛教大学)講師。昭和25年(1950年)比叡山延暦寺に音律研究所を設立。
松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明… 松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明治5年2月2日) - 1939年(昭和14年)6月14日)は、明治から昭和初期にかけて活動した官僚、実業家。台湾電力社長。族籍は愛媛県平民。動物学者の青木淳一は孫。 愛媛県周桑郡楠河村大字河原津(現在の愛媛県西条市河原津)出身。松木操平の長男。松木家は予州の豪族河野通有の後裔である。旧制愛媛一中、旧制三高を経て1896年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。法学士の称号を得る。 逓信省書記官、広島郵便局長、帝国鉄道庁参事、鉄道院理事、東京市参与同電気局長を歴任。1918年、山下合名会社総理事となり、山下汽船、福島炭鉱各会社代表取締役、山下鉱業、浦賀船渠会社取締役に挙げられた。
米沢 与三次(米澤 與三次、よねざわ よそじ / よさじ、1… 米沢 与三次(米澤 與三次、よねざわ よそじ / よさじ、1872年3月10日(明治5年2月2日)- 1947年(昭和22年)1月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・伊東、幼名・貞三。 新川県新川郡沼保村(富山県下新川郡泊町沼保を経て現朝日町)で、伊東次郎左衛門祐明の三男として生れ、1890年12月、同郡入善町入善の米沢家の養子となり与三次と改名した。1895年、専修学校(現・専修大学)理財科卒。農業を営み、入善町農会長、入善商工会長、下新川郡教育会副会頭、泊銀行、入善銀行各頭取、入善倉庫、富山水力電気各(株)社長、生地銀行、富山県模範織物工場、小川温泉各(株)取締役、越中銀行、茨木商店各(株)監査役となる。
篠原 温亭(しのはら おんてい、1872年3月9日(明治5年… 篠原 温亭(しのはら おんてい、1872年3月9日(明治5年2月1日) - 1926年(大正15年)9月2日)は、俳人、小説家。 1872年(明治5年)、熊本県宇土郡宇土町(現・宇土市)に生まれる。本名は英喜。別号に松濤、家巣など。父親は漢学塾長。京都本願寺文学寮(現・龍谷大学)に学んだのち上京し、徳富蘇峰が主宰する「國民新聞」に勤め活躍した。 その傍ら、ホトトギス同人となり、正岡子規、高浜虚子らに俳句を学んだ。温厚な人柄で、人望があった。1922年(大正11年)、俳誌「土上(どじょう)」を嶋田青峰らと共に刊行した。俳句は「温籍高雅」の作風で、虚子編「新歳時記」には27句が採用されている。1926年(大正15年)、55歳で脳溢血により没した。
堀口 助治(ほりぐち すけはる、1872年3月8日〈明治5年… 堀口 助治(ほりぐち すけはる、1872年3月8日〈明治5年1月29日〉 - 1935年〈昭和10年〉3月11日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選福島県知事、福岡県八幡市長。 後の宮崎県東諸県郡高岡村(現宮崎市)で、士族堀口貞由の長男として生まれる。1897年(明治30年)7月、第五高等学校を卒業。1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し警視庁属兼同警部となる。1901年(明治34年)11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、警視庁警視・板橋警察署長、四谷警察署長、岡山県事務官、富山県事務官・第四部長、埼玉県事務官・第四部長、同県事務官・警察部長、福岡県港務長、栃木県事務官・内務部長、福岡県内務部長などを経て、1914年(大正3年)4月、熊本県内務部長に就任。
浪越 鷹太郎(なみこし たかたろう、1872年〈明治5年〉3… 浪越 鷹太郎(なみこし たかたろう、1872年〈明治5年〉3月5日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家、香川県多額納税者。香川県三豊郡仁尾村長。南海舎密工業社長。仁尾塩田専務取締役。讃岐米肥料取締役。 香川県三野郡仁尾村(現・三豊市)、浪越家の長男。1896年、村会議員に当選する。1898年、家督を相続する。農会長としてその創設当初より多年に及び郡農会代議員、評議員等を歴任する。1907年、仁尾村長に就任する。 農業を営み、傍ら会社の重役であった。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は香川県三豊郡仁尾町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
内田 銀蔵(うちだ ぎんぞう、1872年3月4日(明治5年1… 内田 銀蔵(うちだ ぎんぞう、1872年3月4日(明治5年1月25日) - 1919年(大正8年)7月22日)は、日本の歴史学者。専門は日本経済史。文学博士。日本経済史学の先駆者。 明治5年(1872年)1月、東京府足立郡千住宿中組(現在の東京都足立区)の旧家に生まれる。明治22年(1889年)、東京専門学校(現:早稲田大学)邦語政治科卒業。第一高等中学校(のちの一高)に編入し、1896年(明治29年)に帝国大学文科大学国史科を卒業した。国史科の同期に、喜田貞吉・黒板勝美・笹川種郎・原勝郎・幸田成友らがいた。帝国大学卒業後、同大学院に進学し、「日本経済史及び史学と経済学との教育的価値」をテーマに研究した。
比田井天来(ひだい てんらい、1872年3月2日(明治5年1… 比田井天来(ひだい てんらい、1872年3月2日(明治5年1月23日) - 1939年1月4日)は、日本の書道家。「現代書道の父」と呼ばれる。本名・鴻。雅号は天来、別号に画沙(かくさ)、大朴(たいぼく)、象之(ぞうし)、淳風(じゅんぷう)も用いる。 長野県北佐久郡片倉村(現・佐久市)生まれ。幼名は常太郎。古碑法帖を多角的に研究し、古典臨書の新分野を開拓し、その集大成として『学書筌蹄』がある。俯仰法の解明をし、剛毛筆を使用して古典を分解再構築し、新しい造形世界を展開したその活動は、近代日本の書道界において新境地であったとされる。また、仁和寺伝来の三十帖冊子の橘逸勢筆の部分を看破したことでも有名である。
千葉 宮次郎(ちば みやじろう、1872年2月29日〈明治5… 千葉 宮次郎(ちば みやじろう、1872年2月29日〈明治5年1月21日〉 - 1933年〈昭和8年〉5月6日)は、日本の政治家、実業家。 兵庫県津名郡野島村(現・淡路市)生まれ。明治法律学校(現・明治大学)卒業。 実業家として、多数の企業の経営に参画し、淡路鉄道、淡路実業銀行、阿淡連絡汽船などの取締役、全淡自動車(後の淡路交通)の社長などを務めた。 野島村長、岩屋町長、津名郡会議員、同議長を歴任した。 1903年(明治36年)9月25日、津名郡選出の兵庫県会議員となった。最終的に1924年(大正13年)5月10日に辞職するまで務めた。この間、1920年(大正9年)12月から1923年(大正12年)9月まで第26代兵庫県会議長を務めた。
鳥羽 源藏(とば げんぞう、1872年2月28日〈明治5年1… 鳥羽 源藏(とば げんぞう、1872年2月28日〈明治5年1月20日〉 - 1946年〈昭和21年〉5月23日)は、日本の明治から昭和初期にかけて活躍した博物学者、教育者である。植物・昆虫・鳥・貝類などの分類学者であり、標本収集者だった。号は三枝。姓の「羽」は「羽」の旧字体だがJIS X 0208には収録されておらず、名の「藏」は「蔵」の旧字体であるため、新字体を用いて鳥羽 源藏、鳥羽 源蔵とも表記される。 明治5年1月20日(グレゴリオ暦1872年2月28日)に岩手県気仙郡小友(おとも)村(現在の陸前高田市小友町)で清左衛門とアヤメの長男として生まれた。生家は「源氏屋」と呼ばれる名門であり、財産家であったともいわれている。
山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治… 山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治5年1月19日)- 1960年(昭和35年)8月31日)は、日本の銀行家。大蔵省主計局長~台湾銀行理事東京支店支配人、満州中央銀行副総裁等を歴任した。 岡山県後月郡芳井村大字簗瀬(現井原市芳井町)生まれ。芳井小学校を経て、興譲館中学校卒業後、従兄阪谷芳郎の書生となる<name=ito />。十代で脳溢血を経験。1890年に東京高等商業学校(現一橋大学)主計科を卒業後、大蔵省入省。 三十四銀行台湾支店長、台湾銀行神戸支店長、台湾銀行大阪支店長、台湾銀行総務部助役を経て、1913年から台湾銀行理事兼東京支店総支配人を務め、投資信託の開発に尽力し、その後投資信託創設のため法制審議会委員として台湾銀行法の改正にあたるなどした。
蓮井 藤吉(はすい とうきち、1872年2月26日(明治5年… 蓮井 藤吉(はすい とうきち、1872年2月26日(明治5年1月18日)- 1941年(昭和16年)7月9日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員。 香川県寒川郡神前村(大川郡寒川村、寒川町を経て現さぬき市寒川町神前)で、蓮井吉平の長男として生まれた。 大川郡会議員、同郡参事会員となる。1898年(明治31年)香川県会議員に選出され、以後6期在任し県会議長、参事会員も務めた。1902年(明治35年)神前村会議員となり、6期務めた。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に香川県第四区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。 また、香川地方森林会議員、香川県水産組合長、屋島登山鉄道常務取締役、日本殖産監査役などを務めた。
佐々木 安五郎(ささき やすごろう、1872年2月25日(明… 佐々木 安五郎(ささき やすごろう、1872年2月25日(明治5年1月17日) - 1934年(昭和9年)1月1日)は、日本の政治家、大陸浪人。衆議院議員(東京府第8区選出、当選4回)。号は照山。蒙古王の異名をとった。族籍は山口県平民。 山口県豊浦郡阿川村(現下関市)に生まれる。10代後半の時に政治に関心を持ち「点燈会」を作った。隣村の滝部村で小学校の代用教員をしていたが、熊本の九州学院に入学し中国語を学んだ。1894年(明治27年)に卒業し、日清戦争に陸軍の通訳として従軍、戦後は台湾総督府の吏員となった。しかし、乃木希典が総督を退くと総督府を辞職し、1898年(明治31年)には雑誌『高山國(たかさご)』を発刊した。
三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872… 三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872年2月24日) – 昭和16年(1941年)4月4日)は、日本の外交官。駐スイス公使。 千葉県出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。外交官補、ブラジル公使館三等書記官、オランダ公使館三等書記官、馬山領事、京城理事庁理事官・統監府書記官、スウェーデン公使館一等書記官、駐フランス大使館一等書記官、アメリカ合衆国大使館参事官を歴任した。1916年(大正5年)より駐スイス公使を務めた。その後、平和条約実施委員となった。 退官後は弁護士を開業した。
渡辺 海旭(わたなべ かいきょく、明治5年1月15日(187… 渡辺 海旭(わたなべ かいきょく、明治5年1月15日(1872年2月23日) - 昭和8年(1933年)1月26日)は、東京・浅草出身の学僧。浄土宗の僧侶。社会事業家。阿雷狂史・壺月と号す。 前田和男『紫雲の人、渡辺海旭』巻末の年表によると、以下の通りである。 明治5年(1872年)、東京の浅草の田原町にて、渡辺啓蔵、トナ夫妻の長男として生まれる。明治14年(1881年)に抜嫡届けが出され、翌明治15年(1882年)に抜嫡届けが受理され、浅草松清町の萬照寺に入る。 明治20年(1887年)、小石川区初音町の浄土宗源覚寺住職、端山海定のもとで得度。海定の一字をもらいうけて、海旭となる。同年9月、浄土宗学東京支校(のちの芝中学校・芝高等学校)に入学。
坂口 昂(さかぐち たかし、明治5年1月15日(1872年2… 坂口 昂(さかぐち たかし、明治5年1月15日(1872年2月23日) - 昭和3年(1928年)1月28日)は、西洋史学者。 1872年、兵庫県有馬郡日西原村(現・神戸市)生まれ。1894年、帝国大学を卒業した。 1907年、京都帝国大学文学部助教授に就任。原勝郎とともに西洋史学講座を創設し、後進の育成にあたった。ドイツ、フランスに留学ののち、1912年に教授昇進。1924年からは文学部長をつとめた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
平櫛 田中(ひらくし〈又は ひらぐし〉でんちゅう、1872年… 平櫛 田中(ひらくし〈又は ひらぐし〉でんちゅう、1872年2月23日〈明治5年1月15日〉 - 1979年〈昭和54年〉12月30日)は、日本の彫刻家。本名は平櫛 倬太郎(ひらくし たくたろう)。旧姓は田中。戸籍では「ひらくし」と濁らない。 写実的な作風で、高村光雲、荻原碌山、朝倉文夫などと並び近代日本を代表する彫刻家の一人である。ゆかりの地で名誉市民とされているのは、故郷である岡山県井原市(1958年)、広島県福山市(1965年)、晩年を過ごした東京都小平市(1972年)。作品を所蔵する施設として井原市立平櫛田中美術館、小平市平櫛田中彫刻美術館がある。 107歳で亡くなった時点では男性長寿日本一の人物だった。
平林 武(ひらばやし たけし、1872年2月22日(明治5年… 平林 武(ひらばやし たけし、1872年2月22日(明治5年1月14日) - 1935年(昭和10年)4月26日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。兵庫県神戸市生まれ。 1898年東京帝国大学理科大学地質学科卒業。工学博士。農商務省技師を経て1918年東京帝国大学工科大学採鉱冶金科教授に就任。農商務省技師の時代から、日本全国の鉱床、特に黒鉱鉱床の調査を綿密に行い、多くの知見を明らかにしている。平林は当時黒物と呼ばれていた鉱石の鉱床学的特徴を明らかにし,学術用語としての「黒鉱」を定義し、今日一般に使われ、定着している「黒鉱鉱床」なるものの成因解明に端緒を開いた。 平林武の遺族から東京大学総合研究博物館に寄贈された資料は、フィールドノート50余冊、調査した鉱山やダムなどの調査資料・地質図など約1万点、その他講義資料、執筆原稿・別刷り・古写真などからなり、いずれも明治末から昭和初期にかけて、平林が日本の数多くの鉱山やダム工事現場を調査して収集した極めて貴重な資料群である。
戸津 高知(とつ たかとも、明治5年1月13日(1872年2… 戸津 高知(とつ たかとも、明治5年1月13日(1872年2月21日) - 1959年12月30日)は、日本の政治家、教育者。学校法人北海学園元理事長であり、札幌商業学校(現・北海学園札幌高等学校)の創設者。 1872年、伊達藩士の長男として仙台に生まれた。北海英語学校を経て、1890年に札幌農学校に進学。 卒業後は、札幌尋常中学校に教諭として勤務。1901年、浅羽靖に望まれて北海英語学校中等部教頭に就いた。1915年、北海中学校校長に就任。また同1915年からは財団法人北海中学校理事(1923年まで)。 1920年、札幌商業学校(戦時中、札幌豊陵工業学校と改名)が創設となると、初代校長に就任。
深町 錬太郎(ふかまち れんたろう、1871年3月17日(明… 深町 錬太郎(ふかまち れんたろう、1871年3月17日(明治4年1月27日)- 1918年(大正7年)9月25日)は、明治後期から大正前期の逓信官僚、内務官僚。官選愛媛県知事。 加賀国金沢下高儀町で加賀藩士深町鉄五郎の長男として生まれる。第四高等学校を首席で卒業。1896年(明治29年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。逓信省に入省し通信局属となる。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。 1897年(明治30年)逓信事務官となる。以後、通信事務官、鹿児島郵便電信局・大阪郵便電信局・札幌郵便電信局の各勤務を歴任。1899年(明治32年)内務省に転じ、愛知県事務官、茨城県事務官、栃木県事務官、新潟県事務官・内務部長を務めた。