西谷 金蔵(金藏、にしたに きんぞう、1858年9月24日(… 西谷 金蔵(金藏、にしたに きんぞう、1858年9月24日(安政5年8月18日)- 1933年(昭和8年)12月15日)は、明治から昭和初期の大地主・実業家・政治家。衆議院議員、鳥取県東伯郡北谷村長。幼名・亀吉。「西金」と称され鳥取県政界の指導的存在であった。 伯耆国久米郡、のちの鳥取県久米郡北谷村(東伯郡北谷村を経て現倉吉市)で、大地主、庄屋・西谷萬市の長男として生まれる。1884年(明治17年)1月、家督を相続し金蔵に改名。漢学を修めた。農業を営む。 1879年(明治12年)三徳ほか21ヵ村戸長に就任。北谷村長、北谷村会議員、同議長、東伯郡会議員、同議長、数郡連合会議員、郡会大地主議員、衛生会委員、学務委員、徴兵参事員、所得税調査委員、日本赤十字社委員などを務めた。
田村 順之助(たむら じゅんのすけ、1858年9月23日(安… 田村 順之助(たむら じゅんのすけ、1858年9月23日(安政5年8月17日)- 1939年(昭和14年)1月19日)は、明治・大正期の政治家。衆議院議員。 下野国都賀郡、のちの栃木県下都賀郡水代村(大平村、大平町を経て現栃木市)で、農業・田村政七の長男として生まれる。松本暢に学んだ。1882年(明治15年)7月、家督を相続。自由民権運動に加わり、1883年(明治16年)自由党に入党した。1884年(明治17年)官吏侮辱被告事件に関与したが免訴となり、加波山事件に連座し投獄された。同年、栃木県会議員に選出され、1892年(明治25年)まで在任し、1890年(明治23年)副議長となった。 大同団結運動に加わり、下野有志懇親会の発起人に就任。
寺田 利吉(てらだ りきち、1857年10月20日〈安政4年… 寺田 利吉(てらだ りきち、1857年10月20日〈安政4年9月3日〉 - 1918年〈大正7年〉12月10日)は、日本の実業家。寺田銀行頭取。寺田紡績工廠社長。高野登山鉄道、岸和田紡績、和泉水力電気各取締役。族籍は大阪府平民。 大阪府岸和田市、寺田甚与茂の異父弟。1880年、分家して一家を創立する。住所は大阪府泉南郡岸和田浜町(現・岸和田市) この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
榊 俶(さかき はじめ、安政4年8月28日(1857年10月… 榊 俶(さかき はじめ、安政4年8月28日(1857年10月15日) - 明治30年(1897年)2月6日)は、明治期の医師、医学博士。幼名は善太郎。父は蘭学者の榊令輔。弟の榊順次郎と榊保三郎も医学者である。 はじめ駿府において堀越愛国のもとで英学を学んだとされる。明治13年(1880年)に東京大学を卒業後、明治15年(1882年)にベルリン大学に留学し精神病学を専攻した。明治19年(1886年)に帰国、帝国大学医科大学教授に就任し、精神病学教室を開設、帝国大学医科大学草創期において精神病、精神衛生、小児精神論、看護法を講じ、剖検、司法精神鑑定相馬事件など幅の広い活動を行なった。墓所は染井霊園(1イ-5-8)。
阪田 貞一(さかた ていいち、1857年10月14日(安政4… 阪田 貞一(さかた ていいち、1857年10月14日(安政4年8月27日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、明治-大正期の日本の工学者。 江戸(後の東京府東京市、現・東京都区部)生まれ。阪田長十郎の二男、阪田貞明の叔父。工部大学校(東京大学工学部の前身の1つ)卒業。1890年、欧米に留学し機械工学を研究。帰国後、東京工業学校教授。のち同校の校長や後身の東京高等工業学校(現: 東京工業大学)校長などを務めた。 日本機械学会の第3、15、18、20、23期幹事長を務めた。 1920年12月1日、胃潰瘍の療養中に心臓麻痺で死去、享年63歳。
立川 雲平(たつかわ うんぺい、1857年10月14日〈安政… 立川 雲平(たつかわ うんぺい、1857年10月14日〈安政4年8月27日〉 - 1936年〈昭和11年〉1月24日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(3期)。『破戒』(島崎藤村)に登場する市村代議士のモデルといわれる。 1857年(安政4年)、淡路国三原郡立川瀬村(後賀集村、現兵庫県南あわじ市賀集立川瀬)で、立川伝平の長男として生まれる。伝平は百姓出身だが足軽の株を買って洲本に移った。雲平は洲本の藩校を経て、1871年、徳島師範学校入学。1876年、京都へ遊学。岸田俊子、小室信介など民権派の人々と交遊関係を深める。1881年、明治法律学校入学。1882年、代言人試験合格。翌年、郷里で弁護士事務所を開業。
武政 藤太郎(たけまさ とうたろう、1857年10月12日(… 武政 藤太郎(たけまさ とうたろう、1857年10月12日(安政4年8月25日) - 没年不明)は、日本の政治家、銀行家。埼玉県大里郡榛沢村長。深谷銀行取締役。族籍は埼玉県平民。 埼玉県大里郡榛沢村(のち岡部町、現・深谷市)出身。兵助の嫡男。寺子屋に学び、私塾等にて漢学を研修する。農業を営む。戸長連合村副戸長を歴任する。 榛沢村助役に推され、10数年に亘り勤続して村長を補佐する。1894年4月に榛沢村長に就任し、1902年10月に退職する。榛沢村会議員を4期つとめる。 村政の元老で、多年自治開発に努力精進して名望が高かった。 武政家は旧幕時代、組頭をつとめた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
岩垂 邦彦(いわだれ くにひこ、安政4年8月15日(1857… 岩垂 邦彦(いわだれ くにひこ、安政4年8月15日(1857年10月2日) - 昭和16年(1941年)12月20日)は技術者、日本の実業家。日本で最初の外資との合弁企業である日本電気(NEC)の創業者。勲五等。 豊前国豊津(現在の福岡県京都郡みやこ町、旧・豊津町)に小倉藩士・喜田村修蔵の次男として生まれる。兄・寛治(娘婿・喜田村朔治の養父)は豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)教師であった。 父・修蔵は岩垂家から喜田村家に婿養子として入ったが、岩垂家の後嗣がなかったため、邦彦が岩垂家を継ぐこととなった。1868年(明治元年)[要検証 – ノート]に修蔵が東京で暗殺されたため、仇討ちを志して兄とともに上京した。
巌谷 立太郎(いわや りゅうたろう、1857年10月2日(安… 巌谷 立太郎(いわや りゅうたろう、1857年10月2日(安政4年8月15日) - 1891年(明治24年)1月24日)は、明治期の鉱山学者、日本新聞社創立発起人。東京大学理学部教授・農商務省鉱山局技師として採鉱冶金術の改良に貢献した。滋賀県出身者で初の工学博士(博士登録番号10番)。 旧暦安政4年8月15日(1857年10月2日)、近江国水口で生まれる。巌谷家は代々水口藩典医を務め、祖父は巌谷玄通、父は明治維新後太政官一等書記・貴族院議員を務めた漢学者の巖谷一六(本名は修、明治の三筆の一人)。立太郎は長男として誕生した。 6歳より水口にて藩儒中村栗園に学び神童と称され、明治元年(1868年)京都で神山鳳陽に師事して漢学を学んだ。
神藤 才一(かんどう さいいち / しんどう さいいち、安政… 神藤 才一(かんどう さいいち / しんどう さいいち、安政4年8月15日(1857年10月2日) – 昭和9年(1934年)1月5日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→猶興会→立憲同志会)。大日本帝国陸軍軍人、最終階級は陸軍歩兵大尉。 相模国高座郡相原村(現在の神奈川県相模原市)出身。1879年(明治12年)、陸軍士官学校(旧3期)を卒業し、同年12月22日、陸軍歩兵少尉に任官。1884年(明治17年)に甲申政変に出征し、帰国後は山地元治将軍の幕僚を務めた。1886年(明治19年)にフランスに留学して軍事学を学ぶが、やがて法学に転じ、1895年(明治28年)にリヨン大学を卒業し、法学博士の称号を得た。
金森 通倫(かなもり みちとも / つうりん、安政4年8月1… 金森 通倫(かなもり みちとも / つうりん、安政4年8月15日〈1857年10月2日〉 - 昭和20年〈1945年〉3月4日)は、日本の牧師、伝道者、宗教家。別名はポール・カナモリ。明治初期の日本のプロテスタント派の3つの源流の1つである熊本バンドの中心メンバーの一人であった。晩年は湘南の嶺山に隠居し、原始的な洞窟生活をして「今仙人」といわれた。 第102代内閣総理大臣・石破茂の母方の曾祖父である。 肥後国玉名郡小天村(現・玉名市天水町小天)に郷士・金森繁蔵の次男として生まれた。その後、理由は分からないが一家は託麻郡本山村(現・熊本市中央区本山)に移り住んでいる。 明治4年(1871年)、日新堂に入塾。
吉田 定之助(よしだ さだのすけ、1857年10月1日(安政… 吉田 定之助(よしだ さだのすけ、1857年10月1日(安政4年8月14日)- 1918年(大正7年)9月20日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、福島県会議長。 陸奥国岩瀬郡、のちの福島県岩瀬郡須賀川町(現須賀川市)で、吉田勝太郎の長男として生まれる。私塾で学んだ。 1889年(明治22年)2月、家督を相続し、以降、須賀川町会議員に8期在任。岩瀬郡会議員、福島県会議員、同議長、破産管財人、所得税調査委員なども務めた。1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙(福島県郡部、立憲政友会)で当選し、1915年(大正4年)3月の第12回総選挙(福島県郡部、立憲政友会)では次点で落選し、衆議院議員に1期在任した。
井上 敏夫(いのうえ としお、1857年9月29日(安政4年… 井上 敏夫(いのうえ としお、1857年9月29日(安政4年8月12日) - 1924年(大正13年)3月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。予備役後は衆議院議員を2期務めた。 安政4年8月12日、加賀藩士の切米3俵の中間井上栄信の次男として現在の金沢市で生まれる。1872年、海軍兵学寮に入学する。1874年の台湾出兵では高尾丸に、1877年の西南戦争では筑波に学生の身分で乗船した。1878年7月、海兵を卒業する(5期)。1881年、海軍少尉に任ぜられる。 各艦で海上勤務のほか、1886年(明治19年)から1889年(明治22年)には海軍兵学校航海術教官となる。日清戦争直前の数年間、在清国公使館付武官として諜報活動に従事し、開戦とともに帰国。
平賀 義美(ひらが よしみ、安政4年8月6日(1857年9月… 平賀 義美(ひらが よしみ、安政4年8月6日(1857年9月23日) - 昭和18年(1943年)3月2日)は、日本の応用化学者。初名は石松决(いしまつ さだむ)。 筑前国(現・福岡県)出身。福岡藩の貢進生として1870年に大学南校入学。ロバート・ウィリアム・アトキンソンに師事して理化学を学び、1878年東京大学化学科卒業。その後、イギリス・オーエンス大学に留学し、有機化学と染色を学んだほか、現地の縫製会社で働いて実地研修をした。 帰国後の1881年に東京職工学校教諭。1882年に親戚の判事・平賀義質の死去の際、その娘婿となり、名前を平賀義美に改名。1890年、農商務省技師となる。商工局第三課長時代に、新しく農商務大臣に就任した後藤象二郎が局長人事に不満をもったことから1893年に退職し無職となったが、1894年に大阪府立商品陳列所長となり、大阪府の工業顧問にも就任した。
寺田 徳三郎(てらだ とくさぶろう、1856年10月21日〈… 寺田 徳三郎(てらだ とくさぶろう、1856年10月21日〈安政3年9月3日〉 - 没年不明)は、日本の醸造家、実業家、政治家。貝塚銀行取締役。和泉水力電気監査役。貝塚町会議員。族籍は大阪府平民。 大阪府岸和田市の人・寺田甚与茂、寺田元吉の弟。寺田甚右衛門の三男。1881年の分家の際は岸和田本町に居を構え、綿糸商を営む。1882年に現住邸宅を買収し住所を変え、酒造業を営む。 家業の傍ら会社銀行等の営利事業に関与する。貝塚銀行については創立当時監査役だったが、数年ならず取締役に転じた。1892年より10年余町会議員をつとめた。郡会開設の当時、議員に挙げられ、1期間就任した。 分家して一家を創立する。
長谷川 宗治(はせがわ そうじ / むねはる、1856年10… 長谷川 宗治(はせがわ そうじ / むねはる、1856年10月19日(安政3年9月21日)- 1936年(昭和11年)11月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県大里郡御正村長。旧姓・多田。 武蔵国大里郡原島村(のち埼玉県大里郡大幡村、現:熊谷市)で、多田貞助の長男として生まれ、大里郡三ッ本村(のち御正村、現:熊谷市)の長谷川貴重の養子となる。普通学を修めた。熊谷商業銀行取締役を務めた。 三ッ本村戸長、御正村会議員、同助役、同村長を歴任。1894年から埼玉県会議員に25年間在任し、この間、同参事会員、同議長(2回)を務めた。1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で埼玉県第三区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
清水 宜輝(しみず よしてる、安政3年9月13日〈1856年… 清水 宜輝(しみず よしてる、安政3年9月13日〈1856年10月11日〉 - 1934年〈昭和9年〉9月7日)は、明治から昭和初頭にかけて活動した日本の銀行経営者・実業家である。十五銀行支配人・取締役や中央電気第2代社長などを務めた。新潟県出身。 清水宜輝は、安政3年9月13日(新暦:1856年10月11日)、越後高田藩士・清水宜義の長男として生まれた。生家は高田。1873年(明治6年)上京し中村正直(敬宇)の「同人社」に学ぶ。1874年(明治7年)には大蔵省銀行局の官費生に選ばれ、4年間ヨーロッパで経済学を学んだ。 1877年(明治10年)、華族に交付された金禄公債を原資として第十五国立銀行が設立された。
大隈 英麿(おおくま ひでまろ、安政3年9月11日(1856… 大隈 英麿(おおくま ひでまろ、安政3年9月11日(1856年10月9日) - 1910年(明治43年)5月14日)は、明治時代の教育者、政治家。東京専門学校(早稲田大学の前身)初代校長(1882年 - 1886年)や衆議院議員を務めた。陸奥盛岡藩主南部家に生まれ、一時期は大隈重信の婿養子になったが、後に離縁した。 1856年10月9日(安政3年9月11日)、第14代盛岡藩主南部利剛の次男として盛岡城内に生まれる。幼名(初名)は剛建。1870年(明治3年)、14歳のときに姉・郁子の夫である華頂宮博経親王に従って渡米する(従者に五十川基)。現地の小・中学校を経てダートマス大学へ入学して天文学を専攻、のち指導教授の転任に伴いプリンストン大学に移り、数学を修めた。
松島 廉作(まつしま れんさく、安政3年8月29日(1856… 松島 廉作(まつしま れんさく、安政3年8月29日(1856年9月27日) - 昭和14年(1939年)4月22日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党)。 遠江国豊田郡美川村(現在の静岡県袋井市)に金井文平の二男として生まれ、長上郡五島村(現在の浜松市中央区)の松島五右衛門の養子となった。東京専門学校(現在の早稲田大学)で政治学・経済学を学んだ。1886年(明治19年)、静岡県会議員に当選した。1892年(明治25年)、第2回衆議院議員総選挙に当選。以後、当選回数は6回を数えた。 また、静岡民友新聞社を創設し、社長を務めた。
南部 球吾(なんぶ きゅうご、1855年10月15日〈安政2… 南部 球吾(なんぶ きゅうご、1855年10月15日〈安政2年9月5日〉 - 1928年〈昭和3年〉11月4日)は、明治から大正に活動した日本の鉱山技術者。 越前国福井藩士で、維新後官吏となった南部広矛の次男として生まれる。 慶応2年(1866年)、藩の英学者の瓜生寅のもとで英学を修めた。1869年(明治2年)、開成学校に入学する。1870年(明治3年)、大学南校に移り化学を専攻した。 1875年(明治8年)、文部省の第1回アメリカ合衆国への留学生となり、長谷川芳之助とともにコロンビア大学で鉱山学を学んだ。1880年(明治13年)10月に帰国後、三菱に入社し、高島炭鉱の坑長を務め、工学博士となった。
宮崎 道三郎(みやざき みちさぶろう、1855年10月14日… 宮崎 道三郎(みやざき みちさぶろう、1855年10月14日(安政2年9月4日) - 1928年(昭和3年)4月18日)は、三重県津市出身の法学者。法学博士。東京帝国大学教授(法制史)。日本法律学校(現・日本大学)創立者(総代)。 1855年(安政2年)9月に、伊勢国安濃郡津新道(現在の三重県津市)にて出生。藩校有造館で漢籍や国史などを学んで、1872年(明治5年)に上京。日本法律学校(現日本大学の前身)の創立時には、設立評議員の一人である司法大臣山田顕義らによって、宮崎は若手の法律学者11名とともに設立者の代表として創立に深く関与している。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
須永 武義(すなが たけよし、1855年10月2日(安政2年… 須永 武義(すなが たけよし、1855年10月2日(安政2年8月22日) - 1925年(大正14年)10月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功三級。 武蔵国幡羅郡飯塚村(埼玉県幡羅郡太田村、大里郡太田村、妻沼町を経て現熊谷市)出身。士族・須永宗司の長男。陸軍兵学寮に入り、1877年(明治10年)4月、陸軍歩兵少尉に任じ、参謀本部第2局員、近衛歩兵第2連隊長、陸軍教導団長、第9師団参謀長を経て、1899年(明治32年)8月、大佐に進んだ。この間、日清戦争に従軍した。日露戦争が勃発すると西島助義に代わり、1904年(明治37年)9月、陸軍少将に進級と同時に歩兵第7旅団長に補され、遼陽会戦から参戦。
末松 謙澄(すえまつ けんちょう、1855年9月30日〈安政… 末松 謙澄(すえまつ けんちょう、1855年9月30日〈安政2年8月20日〉- 1920年〈大正9年〉10月5日)は、日本の明治から大正期のジャーナリスト・政治家・歴史家。正二位勲一等子爵。帝国学士院会員。幼名は千松(または線松)、号は青萍。 豊前国京都郡前田村(現在の福岡県行橋市前田)に大庄屋役末松房澄と伸子の4男として生まれる。1865年(慶応元年)より地元の碩学村上仏山の私塾水哉園にて漢学・国学を学んだ。1866年(慶応2年)の第二次長州征討(小倉戦争)時には、末松家は戦火で焼け出された。 1871年(明治4年)に上京、佐々木高行宅の書生となり、佐々木の娘・静衛がグイド・フルベッキの娘に英語を教わっていた縁で、フルベッキ家に居候していた高橋是清と親交を結んだ。
饗庭 篁村(あえば こうそん、安政2年8月15日(1855年… 饗庭 篁村(あえば こうそん、安政2年8月15日(1855年9月25日)- 1922年6月20日)は、明治時代の日本の小説家、演劇評論家。根岸派の重鎮。本名は與三郎。別号は竹の屋主人、龍泉居士、太阿居士。居住地の南傳町二丁目より南傳二とも。日本人として初めてポーの作品を翻訳した人物としても知られる。 ほぼ独学ではあるが和漢学に造詣が深く俳諧の道にも明るかった。作家としては「戯作者」世代と坪内逍遥、幸田露伴ら新時代の作家たちとの過渡期に位置づけられる。篁村はこの時期の代表的な作家のひとりと見られており、幸田露伴は、饗庭篁村と須藤南翠が明治20年前後の「二文星」、「当時の小説壇の二巨星」であったと記し、江見水蔭は「篁南両大関時代」としたという。
荒木 三郎(あらき さぶろう、1855年9月24日〈安政2年… 荒木 三郎(あらき さぶろう、1855年9月24日〈安政2年8月14日〉 - 1882年〈明治15年〉7月4日)は、日本の警察官である。戦国大名荒木村重の子孫で、西南戦争を戦ったのち殉職した。警察官としての階級は一等巡査(現在の警部補相当職)。 荒木家は荒木信重が保科正之に仕えて以来、江戸時代を通じ会津松平家家臣であった。父は重義と名乗り、会津戦争において会津若松城に籠城したが、開城後ほどなく病死している。荒木三郎重謹はその三男であった。母とともに斗南へ移り開墾に従事したが、約六年の斗南生活を終えて上京した。巡査となった荒木は西南戦争において勅使として派遣された柳原前光に従って鹿児島へ向かい、のち別働隊に加わり度々功績を挙げた。
辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日〈嘉永7… 辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日〈嘉永7年8月22日〉- 1919年3月25日) は、日本の建築家である。
11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年1… 11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年10月12日(安政元年8月21日)- 1905年(明治38年)10月15日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・卯之助、六太郎。号・顕堂。 伊賀国阿拝郡上野福居町(三重県阿拝郡上野町福居町、阿山郡上野町、上野市を経て現伊賀市)で、商業、10代・森川六右衛門(顕斎)、欽子の息子として生まれる。熊田二爻に学び、さらに猪飼箕山(猪飼敬所の子)、富士林東峡、速水謙堂、山中房之助などにつき和漢学を修めた。津藩武術指南役・太田小源太、橋本佐源太らにつき剣術砲術を修めた。 1869年(明治2年)津藩から米問屋役を命じられた。1873年(明治6年)私塾を開いて漢学、数学を伝授した。
団野 記平治(團野、だんの きへいじ、1854年10月8日(… 団野 記平治(團野、だんの きへいじ、1854年10月8日(安政元年8月17日)- 1923年(大正12年)12月3日)は、明治期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、兵庫県多紀郡城南村長。 丹波国多紀郡八上内村(兵庫県多紀郡八上内村、八上村、篠山町、篠山市を経て現丹波篠山市八上内)で、中川儀十郎の二男として生まれた。漢学、数学を修めた。1879年(明治12年)同郡小枕村(城南村、丹南町、篠山市を経て現:丹波篠山市小枕)の素封家・団野仲右衛門の養子となり、農業・酒造業を営む。 酒造組合長、城南村農会長を務め、村落の共有林の松を杉檜に植替えるなど造林の振興に貢献した。 政界では学務委員、城南村会議員、学区組合会議員、郡組合会議員、多紀郡会議員、同副議長などを務めた。
高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月6日(嘉永7年… 高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月6日(嘉永7年/安政元年8月15日)- 1910年(明治43年)2月22日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。 会津藩上士(150石)の長男。幼時より英才を発揮し、1868年(明治元年)には数え14歳で会津藩小姓に抜擢され、戊辰戦争を戦った。 慶應義塾(現・慶應義塾大学)の塾生・教員を経て、師範教育調査のため文部省によりアメリカ合衆国へ派遣され、オスウィーゴ師範学校(現・ニューヨーク州立大学オスウィーゴ校 SUNY Oswego)に留学。帰国後は東京師範学校及び東京高等師範学校(ともに現・筑波大学)で教員・校長を務め、ペスタロッチ主義教育(開発教授)の導入と師範教育の近代化を推進した。
中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈… 中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈1854年10月4日〉 - 1901年〈明治34年〉10月7日)は、明治時代の官吏、実業家、ジャーナリスト。三井財閥の工業化と三井銀行の不良債権処理を推進し、三井家の最高議決機関である「三井家同族会」を設置。「三井中興の祖」として高く評価されている。従五位。三井合名理事長。福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。名字の読みは「なかかみがわ」とされたものもあるが、正しくは「なかみがわ」である。 現在の大分県中津市金谷森ノ丁に豊前中津藩士・中上川才蔵・婉夫妻の長男として生まれる。婉は福澤百助の娘で、諭吉の姉にあたる。
下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐〈ひらお せき〉… 下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐〈ひらお せき〉、1854年9月29日〈嘉永7/安政元年8月8日 - 1936年〈昭和11年〉10月8日)は、日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者、歌人(号は香雪)。女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎も築いた。祖父は儒学者東条琴台。 美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市)にて、岩村藩士平尾鍒蔵と房子(挙母藩武久氏)の長女として生まれる。実弟は平尾鍗蔵。 祖父東条琴台は江戸の医家から平尾家に婿入したが、鍒蔵が生まれた後、藩内学閥との確執から離縁。鉐の幼少期、父鍒蔵(1818–1898)は尊王攘夷論を説いたため、安政4年と明治元年に2度謹慎処分を受け、計10年の蟄居を強いられた。
佐々木 勇之助(ささき ゆうのすけ、1854年9月29日(嘉… 佐々木 勇之助(ささき ゆうのすけ、1854年9月29日(嘉永7年8月8日) - 1943年(昭和18年)12月28日)は、東京(江戸)出身の銀行家、実業家。号は茗香。 嘉永7年8月8日、武蔵国江戸本所六間堀(現 江東区新大橋)で生まれる。幼名清松。父は旗本浅野伊賀守の家臣佐々木直右衛門。 幼くして藤沢次謙に算術の手ほどきを受け、のち幕府講武所傘下で築地にあった軍艦操練所で数学始め西洋実学を修得。さらに青木松次郎福軒の塾で漢学を習い、余暇に剣術を学ぶといった当時の武士の子弟の教育を受けて育つ。 明治維新後、三井小野組の為替方に入り1873年(明治6年)に三井小野組を中心とする第一国立銀行が創立されると、それに伴い同行へ移籍。
大島 信(おおしま しん、1853年10月18日(嘉永6年9… 大島 信(おおしま しん、1853年10月18日(嘉永6年9月16日)- 1899年(明治32年)3月14日)は、明治期の日本の内務官僚、政治家。衆議院議員。 琉球国薩摩藩領大島郡瀬名方中勝村(鹿児島県大島郡中勝村、龍郷村を経て現龍郷町中勝)で生まれた。造士館、駒場農学校、専修学校で学んだ。 埼玉県属に就任。その後、内務属に転じ、佐賀県東松浦郡長に就任した。 1887年(明治20年)、奄美大島の黒砂糖を鹿児島商人が独占していることを批判した「大島郡糖業意見」を発表した。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(鹿児島県第7区)で初当選し、以後、第4回総選挙まで再選され、最後に公同会に所属して衆議員議員に連続3期在任した。
宮井 茂九郎(みやい もくろう、1853年10月9日(嘉永6… 宮井 茂九郎(みやい もくろう、1853年10月9日(嘉永6年9月7日)- 1906年(明治39年)11月17日)は、明治期の地主、農業経営家、実業家、政治家。衆議院議員、初代香川県鵜足郡坂本村長。 讃岐国鵜足郡川原村(香川県鵜足郡坂本村、綾歌郡坂本村、飯山町を経て現:丸亀市飯山町川原)で生まれる。漢学、数学を修めた。明治2年5月(1869年6-7月)鵜足郡川原真時両村庄屋役に、明治4年10月(1871年11-12月)鵜足郡大庄屋役に任じられた。 実業界では、寒川郡志度村製糖会社取締役、高松砂糖会社取締役、宇足津塩田会社取締役、讃岐紡績会社取締役、讃岐鉄道会社監査役、香川県農工銀行取締役などを務めた。
有田 源一郎(ありた げんいちろう、1853年10月7日(嘉… 有田 源一郎(ありた げんいちろう、1853年10月7日(嘉永6年9月5日)- 1914年(大正3年)12月15日)は、幕末の佐賀藩武雄領主・武雄鍋島家家臣、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国杵島郡、後の朝日村(現佐賀県武雄市朝日町)で武雄鍋島家家臣・有田(河原)竜左エ門の子息として生まれる。立野元定、草場佩川に師事し漢学を修める。 明治維新を迎え、小学校教員となるが、1886年、同志四名が各々米二百俵を出資して貸金業・甘久共同会社を設立し、同社は後に佐賀銀行の前身の一つ佐賀興業銀行に発展した。 1886年、佐賀県会議員に選出され、県議を五期、また参事会員も務めた。1908年5月、第10回衆議院議員総選挙おいて佐賀県郡部から出馬して当選し、立憲政友会に所属して衆議院議員を一期務めた。
村上 敬次郎(むらかみ けいじろう、嘉永6年9月4日(185… 村上 敬次郎(むらかみ けいじろう、嘉永6年9月4日(1853年10月6日) - 昭和4年(1929年)2月15日)は、安芸国(現広島県)出身の官僚、大日本帝国海軍軍人。貴族院議員、男爵、勲一等旭日大綬章。
青山 準二郎(あおやま じゅんじろう、嘉永6年9月3日〈18… 青山 準二郎(あおやま じゅんじろう、嘉永6年9月3日〈1853年10月5日〉 - 没年不詳)は、明治時代に活躍した長老派系の日本基督教会の牧師。北海道の宣教で活躍した。 越後国村上藩士中山湛斉の3男として生まれる。1878年(明治11年)エディンバラ医療宣教会宣教師T・A・パームと押川方義に出会いキリスト教に回心する。1880年(明治13年)3月にパームより洗礼を受ける。 パームの薫陶を受けて、伝道者になることを決心して、1883年(明治16年)に上京し、東京府築地の東京一致神学校に入学する。上京して間もない5月には第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として参加し、植村正久や内村鑑三と一緒に写真と取っている。
香川 富太郎(かがわ とみたろう、1853年9月25日(嘉永… 香川 富太郎(かがわ とみたろう、1853年9月25日(嘉永6年8月23日) - 1937年(昭和12年)12月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。安芸国(現・広島県)出身。
2代 辻 兵吉(にだい つじ ひょうきち、旧姓・山内、185… 2代 辻 兵吉(にだい つじ ひょうきち、旧姓・山内、1852年10月22日(嘉永5年9月10日) - 1926年(大正15年)4月26日)は、日本の実業家、秋田県多額納税者。秋田銀行、秋田貯蓄銀行各頭取。秋田農工銀行取締役。族籍は秋田県平民。 出羽国雄勝郡(現・秋田県湯沢市)出身。山内三郎兵衛の五男。本間金之助の弟。辻兵吉の養子となった。1880年、家督を相続し、先代の名を襲名した。商業を営んだ。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。1925年6月1日現在の直接国税総額金は「14648円65銭」である。住所は秋田市大町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
6代 色部 義太夫(いろべ ぎだゆう、嘉永5年9月9日(18… 6代 色部 義太夫(いろべ ぎだゆう、嘉永5年9月9日(1852年10月21日) - 1915年(大正4年)3月14日)は、明治時代の政治家、大地主。貴族院多額納税者議員。幼名・吉郎治、本名・義智(よしとも)。 信濃国埴科郡杭瀬下村(長野県埴科郡埴生町、更埴市を経て現千曲市)で、大地主・豪農の5代色部義太夫義祐(よしすけ)、義江子夫妻の長男として生まれる。山寺常山に師事し漢学を修めた。後に6代義太夫を襲名し、正式名には義太夫を用いた。 1873年(明治6年)5月、長野県の地券取調所出仕となり出納課附属となる。1876年(明治9年)2月、地租鑑定を命ぜられ、同年12月に長野県を辞した。1884年(明治17年)2月の補選で長野県会議員となり、同年10月、埴科郡連合町村会議員となる。
田 艇吉(でん ていきち、1852年10月18日〈嘉永5年9… 田 艇吉(でん ていきち、1852年10月18日〈嘉永5年9月6日〉- 1938年〈昭和13年〉11月17日)は、日本の政治家、実業家。号は楓軒、松鶴。 丹波国氷上郡柏原藩領の下小倉村(現在の兵庫県丹波市柏原町下小倉)にて、農家の田文平の長男として生まれる。8歳より村医だった長沢順方に師事して読み書きを学ぶ。12歳の時に小島省斎に入門。父親の病のため、13歳でその代理を務める。学問を修めた後、1870年(明治3年)には19歳で村総代となった。20歳で家督相続。 1879年(明治12年)、第一期兵庫県会議員に当選。氷上郡書記、氷上郡長などを歴任の後、1891年(明治24年)に衆議院議員に当選(以後衆議院議員として当選4回)。
桜井 郁二郎(さくらい いくじろう、嘉永5年9月6日〈185… 桜井 郁二郎(さくらい いくじろう、嘉永5年9月6日〈1852年10月18日〉 - 大正4年(1915年)2月10日)は明治時代、大正時代初期の医師、産婦人科医。 西洋医学による近代的な産婆術の普及に努め、民間で初めてといわれる近代医学に基づく産婦人科専門病院を開設し、産科学の発展と、婦人病の治療、母性衛生の啓蒙に尽くした。 上野国西群馬郡(現在の群馬県)に生まれる。幼名は理作。父は江戸で柔術の天神真楊流の師範代を務めた武道家で、明治維新後は群馬県前橋町で整骨師を始めた。理作(郁二郎)は幼い時より地元の儒者の下で勉強し、1868年(明治元年)17歳の時、郷里を出て前橋に行き、兄が家業を継ぐべく武術と整骨術の道に進む一方で、医学を志し蘭学者で医師の宮下慎堂に就いた。
米田 武八郎(よねだ ぶはちろう、1852年10月13日(嘉… 米田 武八郎(よねだ ぶはちろう、1852年10月13日(嘉永5年9月1日)- 1919年(大正8年)5月15日)は、明治から大正前期の銀行家、政治家。衆議院議員、広島県会議長。 備後国三谿郡、のちの広島県三谿郡吉舎村(双三郡吉舎村、吉舎町を経て現三次市)で、米田為三郎の長男として生れた。国学、漢学を修めた。1875年(明治8年)11月、家督を相続した。 副戸長、郡書記、町村連合会議員、同議長、広島県会議員、同常置委員、同議長、双三郡会議員、同議長、同参事会員、徴兵参事員、地方衛生会委員、広島県農会議長、双三郡教育会長、所得調査会長などを務めた。 1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙(広島県郡部、無所属)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
鹿島 秀麿(かしま ひでまろ、1852年10月10日(嘉永5… 鹿島 秀麿(かしま ひでまろ、1852年10月10日(嘉永5年8月27日) - 1932年(昭和7年)3月27日)は、日本の武士(徳島藩士)、明治期の政治家、ジャーナリスト、実業家。勲四等旭日小綬章。 近江国甲賀郡水口(現滋賀県甲賀市)で水口藩医師大村純道の次男として生まれた。幕末には徳島藩侍医鹿島家の養子となり、徳島藩に仕えた。明治維新後稲田騒動 (徳島藩家老の稲田邦植が淡路島の分藩を求めたことに対し、徳島藩士が激発した事件)に巻き込まれて藩職を去ったのち、上京して慶應義塾に学ぶ。神戸新報を立ち上げる。 帰淡後、教育・新聞出版事業に携わるとともに、立憲改進党に参加して兵庫県の自由民権運動の中心的存在となっていった。
石黒 磐(いしぐろ いわお、嘉永5年8月21日(1852年1… 石黒 磐(いしぐろ いわお、嘉永5年8月21日(1852年10月4日) - 昭和2年(1927年)4月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 尾張国中島郡、のちの愛知県中島郡長岡村(祖父江町を経て現在の稲沢市)出身。漢学・英学・法学を学ぶ。東京市で家塾を開き、英学・漢学を講義するかたわら、翻訳業に従事した。のち愛岐日報、愛知新聞の記者となった。愛知県会議員、同副議長、名古屋市会議員、同参事会員に選ばれた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
山田 才吉(やまだ さいきち、嘉永5年8月19日(1852年… 山田 才吉(やまだ さいきち、嘉永5年8月19日(1852年10月2日) - 1937年(昭和12年)1月31日)は、美濃国出身の実業家・政治家(愛知県会議員)。 嘉永5年(1852年)8月19日、美濃国厚見郡富茂登村(現在の岐阜県岐阜市大仏町)で料理屋を営業していた山田辰次郎の長男として生まれる。板前などを経て名古屋の熱田神戸町・大須門前町に店を構え、1881年(明治14年)には末広町3丁目(現在の栄)の若宮八幡社西隣に漬物屋「きた福(喜多福)」を開店。この頃に守口漬(守口大根味醂粕漬)を考案したとされ、これが評判を呼んだ。なお、才吉が創業したきた福は同店から暖簾分けした「松喜屋」に屋号など含めて生前に売却され、「喜多福総本家」として現在も守口漬の製造販売を続けている。
櫻井 房記(さくらい ふさき、1852年9月28日(嘉永5年… 櫻井 房記(さくらい ふさき、1852年9月28日(嘉永5年8月15日) - 1928年(昭和3年)12月12日)は、明治から昭和初期にかけての日本の教育者。 学位制度草創期の理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)初代所長、第五高等学校第5代校長。 1852年9月28日(嘉永5年8月15日)、櫻井甚太郎・八百夫妻の長男として加賀国加賀藩金沢馬場一蕃丁に生まれる。父・甚太郎は先妻との間に2人の男子がおり、2人の異母兄を含めれば房記は甚太郎の三男にあたる。母・八百は甚太郎の後妻。1869年(明治2年)、藩費生として開成学校(後の大学南校、現・東京大学)に入学。1870年(明治3年)、大学南校で貢進生に選ばれる。
木村 格之輔(きむら かくのすけ、嘉永4年9月23日(185… 木村 格之輔(きむら かくのすけ、嘉永4年9月23日(1851年10月17日) - 大正5年(1916年)7月18日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→憲政党→憲政本党→立憲国民党)、弁護士。 常陸国河内郡手代木村(現在の茨城県つくば市)に中島幸右衛門の二男として生まれ、木村久治の養子となった。漢学・法律学を学び、1881年(明治14年)、代言人試験に合格し、新治郡土浦町(現在の土浦市)に事務所を開いた。また破産管財人も務めた。 1892年(明治25年)からは県議を務め、1894年(明治27年)、新治郡から第4回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第10回衆議院議員総選挙まで7期連続当選を果たした。
椎名 秀胤(しいな ひでたね、1851年10月13日(嘉永4… 椎名 秀胤(しいな ひでたね、1851年10月13日(嘉永4年9月19日) - 1912年(明治44年)4月4日)は、日本の文筆家・漢文学者・実業家。筆名・雅号は南浦。海運業などで活躍した明治の実業家の一人。『南浦遺集』という書名はこの雅号に由来する。 子孫には、実業家で元日本鉱業株式会社の役員・椎名芳胤、音楽家・文筆家の菊村紀彦、元奥州大学(現・富士大学)教授で近代日本の図書館学等に貢献した椎名六郎らがいる。日本鉱業は新日鉱ホールディングスへと受け継がれ、日立製作所や日産自動車を生んだ第二次世界大戦前の新興財閥、日産コンツェルンの源流となった企業の一つであった。 讃岐高松(現在の香川県高松市)にある石清尾八幡宮の宮司・岡田秀高の次男として生まれる。
鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4… 鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4年9月14日) - 1914年(大正3年)4月7日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍中将正四位勲二等功三級男爵。貴族院議員。 信濃国松代藩士鹿野外守泰敬の子。明治4年(1871年)9月、海軍兵学寮(5期)に入学。1879年(明治12年)9月、海軍少尉任官。1885年(明治18年)9月、「筑波」分隊長となり、海軍兵学校教授兼生徒分隊長、「扶桑」分隊長、海軍大学校副官、海軍参謀部第1課員などを経て、1890年(明治23年)10月、海軍少佐に昇進。 1891年(明治24年)4月、「松島」回航事務取扱委員、同副長、練習船「干珠」艦長、横須賀水雷隊攻撃部司令などを歴任し、日清戦争では「西京丸」艦長として出征した。