有村 直吉(ありむら なおきち、1871年3月15日(明治4… 有村 直吉(ありむら なおきち、1871年3月15日(明治4年1月25日) - 1911年(明治44年)5月7日)は、現在の茨城県桜川市出身で入間川部屋に所属した力士。本名は小池 直吉(こいけ なおきち)。11代入間川。165cm、109kg。得意手は押し。最高位は東前頭3枚目。 1894年5月場所に初土俵。1903年1月場所に十両昇進、有村直吉に改名。幕末の藩士有村次左衛門に因んだとされるが関係は不明である。1905年5月場所に新入幕。1909年12月に師匠の入間川清藏が廃業した為、以降は二枚鑑札。1910年6月場所に引退。脳病と心臓病に罹っていたので酒を断っていたが、再婚の宴席上で嬉しさの余り酒を飲んでしまい、1911年5月7日に急逝した。
川上 瀧彌(かわかみ たきや、明治4年1月24日(1871年… 川上 瀧彌(かわかみ たきや、明治4年1月24日(1871年3月14日) - 大正4年(1915年)8月21日)は、日本の植物学者。 明治4年(1871年)1月24日、羽後国飽海郡松嶺(現・山形県酒田市)に庄内士族の二男として生まれた。7-8歳から付近の山を歩いて植物採集を始めた、9歳で腸チフスが原因で右足の膝が曲がったまま伸びない悪性リウマチとなった。手術により、どうにか歩行できるようになった。明治24年(1891年)に札幌農学校予科に入学、 明治33年(1900年)に本科を卒業した。この間、庄内、北海道、千島などの植物を研究し多数の学術論文を書いている。明治30年(1897年)には阿寒湖の尻駒別湾で発見した緑藻に「マリモ」の名をつけた。
楠本 長三郎(くすもと ちょうざぶろう、1871年3月10日… 楠本 長三郎(くすもと ちょうざぶろう、1871年3月10日(明治4年1月20日) - 1946年(昭和21年)12月6日)は、日本の内科学者。大阪医科大学を昇格させ大阪帝国大学を創設した。その後、大阪帝国大学第二代総長となり、微生物病研究所、産業科学研究所等を設置し、大阪帝国大学拡大に貢献した。位階は正三位。勲等は勲一等。 肥前国大村藩の医家楠本家の四代元正の二男として1871年(明治4年)1月20日、長崎県西彼杵郡七釜村(現在の西海市西海町中浦)に生まれる。幼少の頃から父を失い、3人の妹と共に祖父と母によって養育された。祖父が1882年(明治15年)10月に亡くなってからは、母が長三郎ら4人を女手ひとりで苦労しながら養育した。
藤山 常一(ふじやま つねいち、1871年3月10日(明治4… 藤山 常一(ふじやま つねいち、1871年3月10日(明治4年1月20日) - 1936年1月4日)は、日本の技術者。日本におけるカーバイド製造の祖とされる人物である。 佐賀県出身。藤山種廣の長男として生まれる。弟には機械工学者の田中不二がいる。 1898年に東京帝国大学工科大学電気学科を卒業した。1902年に仙台で野口遵とともにカーバイドの製造に着手した。1908年に欧州から戻り、渡欧中に研究完成した石灰窒素の製造法の特許を取得し、日本窒素肥料を設立し取締役に就任した。1912年に北海道に王子製紙苫小牧工場の隣接地に北海カーバイド工場を設立し、王子製紙の余剰電力でカーバイド、石灰窒素等を生産した。
松井 郡治(まつい ぐんじ、明治4年1月20日(1871年3… 松井 郡治(まつい ぐんじ、明治4年1月20日(1871年3月10日) - 昭和18年(1943年)10月21日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、弁護士。 新潟県中頸城郡津有村(現在の上越市)出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)法律科卒業後、司法官試補、検事代理を経て、新潟・旭川・長岡の各区裁判所、新潟地方裁判所判事を歴任した。1902年(明治35年)に判事を退職し、弁護士を開業。新潟市弁護士会会長、新潟新聞監査役も務めた。 新潟市会議員・新潟県会議員を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に新潟1区(小選挙区)から憲政会で出馬し、当選。以後、4回の当選回数を重ねた。
川崎 卓吉(かわさき たくきち、1871年3月8日〈明治4年… 川崎 卓吉(かわさき たくきち、1871年3月8日〈明治4年1月18日〉- 1936年〈昭和11年〉3月27日)は、日本の官僚、政治家。広島県賀茂郡広村(現:呉市広町)生まれ。 医師の二男として生まれる。旧制広島中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)に入学するも4年で中退し、千葉中学校(現:千葉県立千葉高等学校)に編入。旧制第一高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。自治制度研究のため大学院に進み、修了後に内務省入りした。 1916年(大正5年)、福島県知事。1919年(大正8年)、台湾総督府内務局長、さらに殖産局長となる。1922年(大正11年)、名古屋市長。
三浦 数平(みうら かずへい、明治4年1月16日(1871年… 三浦 数平(みうら かずへい、明治4年1月16日(1871年3月6日) - 昭和4年(1929年)9月7日)は、日本の政治家。大分市長、衆議院議員(立憲政友会)。大分県士族。旧姓桜井。 子に国家主義者の三浦義一がいる。 現在の大分県大分市出身。桜井愛造の二男。 明治28年(1895年)、明治法律学校卒業。朝日新聞記者から判検事試験に合格して司法官試補となり、次いで大分町で弁護士、特許弁理士の事務所を開業。 先代貞一の養子となり明治37年(1904年)家督を相続す。大分町会議員、同市会議員、同第3代議長、県会議員を務め、1917年8月9日、大分市長に就任した。 郷里から衆議院議員当選、昭和3年(1928年)再選、立憲政友会に属した。
横手 千代之助(よこて ちよのすけ、明治4年1月15日(18… 横手 千代之助(よこて ちよのすけ、明治4年1月15日(1871年3月5日) - 昭和16年(1941年)11月14日)は日本の衛生学者。東京帝国大学医学部教授。 1894年東京大学医科大学卒業後、直ちに衛生学助手、1898年に助教授となり、1908年に衛生学二代教授となった。なお初代教授は緒方正規である。東京市衛生試験所技師、伝染病研究所技師などを兼任。1931年に退官。その後、上海自然科学研究所所長となった。 学校や工場などの環境衛生の向上を提唱した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
風間 繁松(かざま しげまつ、明治4年1月13日(1871年… 風間 繁松(かざま しげまつ、明治4年1月13日(1871年3月3日) - 1955年9月14日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍軍曹、酒田風間氏分家・東美家第七代当主。号は触水。
高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、1871年2月28日〈明治… 高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉- 1902年〈明治35年〉12月24日)は明治時代の日本の文芸評論家、思想家。東京大学講師。文学博士。明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎(りんじろう)。 1871年2月28日(明治4年1月10日)、羽前国鶴岡(現山形県鶴岡市)に生まれた。父は庄内藩士斎藤親信。翌1872年(明治5年)、伯父・高山久平の養子になった。養父は山形県、福島県、警視庁などに勤務した。 福島中学中退、東京英語学校を経て仙台の第二高等学校に入学。井上準之助が同級の友人であった。樗牛の号は「荘子」に因むもので高校時代から用いていたといい、同人誌や山形日報などに評論、紀行などを発表。
島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4… 島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉- 1918年〈大正7年〉11月5日)は、日本の文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人として知られる。旧姓は佐々山、本名は瀧太郎。 島根県那賀郡小国村(現・浜田市)に佐々山一平の長男として生まれる。実家は貧しく、小学校卒業後、苦学して浜田町裁判所書記となる。同裁判所検事・島村文耕から学資の援助を受け、上京。1891年(明治24年)に文耕の養子となる(後に文耕の姪と結婚)。 増田藤之助が塾主を務める日本英学院を経て、東京専門学校(現・早稲田大学)文学科で坪内逍遙、大西祝から文学、美学を学び、1894年(明治27年)に卒業。
深川 忠次(ふかがわ ちゅうじ、1871年2月21日(明治4… 深川 忠次(ふかがわ ちゅうじ、1871年2月21日(明治4年1月3日) - 1934年(昭和9年)2月23日)は、日本の実業家、政治家。深川製磁創業者、元有田町長。有田焼の輸出を進め、パリ万国博覧会金賞金牌やセントルイス万国博覧会一等賞金牌を受賞。 当時の肥前国有田(現・佐賀県有田町)出身。8代深川栄左衛門の二男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1887年に独立して陶磁器製造販売業を営む。1894年に深川製磁を設立。ヨーロッパ人の陶磁器愛好家の好みに合わせてアレンジした大花瓶を、1900年のパリ万国博覧会に出展し金賞受賞。同年よりボールトン・アンド・ワットを代理店としてヨーロッパでの販売展開を進めた。
範多 龍太郎(はんた りゅうたろう、1871年2月20日(明… 範多 龍太郎(はんた りゅうたろう、1871年2月20日(明治4年1月2日) - 1936年(昭和11年)11月10日)は、日本の商人(範多商会、雑貨貿易商)、実業家、造船技術者。日本の造船の近代化を開拓した。 1871年、イギリス人実業家E・H・ハンターと平野愛子の間に生まれ、平野龍太郎として日本の戸籍に入る。龍太郎は神戸市で育ち、神戸一中、神戸商業講習所を卒業後、ドイツのオーデルキルヘン中学に留学し、さらにスコットランドのグラスゴー大学で造船工学と土木工学を修めて、1893年(明治26年)に帰国した。その直後、係累の途絶えていた範多才助なる戸籍を紹介され、同年12月31日付けで範多姓を継承して、範多龍太郎と改名した。
藤野 正年(ふじの まさとし、1871年2月20日(明治4年… 藤野 正年(ふじの まさとし、1871年2月20日(明治4年1月2日) - 1943年(昭和18年)12月13日)は日本の政治家、実業家。衆議院議員、大阪米穀取引所理事。 1871年(明治4年1月)、愛媛県松山市で生まれる。東京法学校(現・法政大学)で法律を専修する。1907年(明治40年)、大阪米穀取引所理事に就任する。その後、浪花火災保険と大日本冷蔵会社などの創設にも力を尽くした。1915年(大正4年)には、鬼度川水力電気取締役や、日本製麻専務にも就任した。1917年(大正6年)に第13回衆議院議員総選挙に愛媛県郡部選挙区から立憲政友会所属で出馬し、当選する。1920年(大正9年)の総選挙は実業多忙を理由として、選挙戦の最中に立候補を取り下げた。
松居 松葉(まつい しょうよう、1870年3月19日(明治3… 松居 松葉(まつい しょうよう、1870年3月19日(明治3年2月18日) - 1933年(昭和8年)7月14日)は、劇作家、演出家、小説家、翻訳家。別号に、松翁・駿河町人・大久保二八など。 父真房・母鶴子の長男として、陸前国塩釜(現・宮城県塩竈市)に生まれた。幼名は雄児、2歳のときに真玄(まさはる)と改めた。養子だった父は、1876年生家に戻り、真玄は親戚に預けられた。母は再婚した。 1877年(明治10年)(7歳)、宮城県師範学校付属小学校に入り、1880年、宮城県尋常中学校に進んだが、経済的事情から1883年中退して、丁稚奉公に出た。 1887年(17歳)上京して専修学校に、次いで国民英学会に学び、1889年卒業した。
野村 勘左衛門(のむら かんざえもん、1870年3月13日(… 野村 勘左衛門(のむら かんざえもん、1870年3月13日(明治3年2月12日) - 1951年(昭和31年)8月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福井県出身。1890年、東京専門学校政治科卒。日清、日露の両戦争に従軍し、陸軍歩兵大尉となる。農業を営み、坂井郡会議員、福井県会議員、所得税調査委員、地方森林会議員、坂井郡教育会長、福井県教育会副会長、同県救済改良協会副会長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において福井3区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して落選した。1951年に死去した。
佐藤 庄太郎(さとう しょうたろう、1870年3月11日(明… 佐藤 庄太郎(さとう しょうたろう、1870年3月11日(明治3年2月10日)- 1954年(昭和29年)4月29日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、福島県石城郡神谷村長。旧姓・渡辺、横山。 陸奥国磐城郡泉崎村(福島県石城郡草野村泉崎、平市を経て現いわき市平泉崎)で、庄屋・渡辺市重郎の三男として生まれる。同郡大野村の横山家の養子となるが、事情により1884年(明治17年)同郡神谷村大字中神谷(平市を経て現いわき市平中神谷)の農業、酒造業・佐藤昌三郎の養子となる。大野小学校を経て神谷小学校を卒業。平中学校に進むが、同校が郡山中学校と合併して廃校となり中退。同郡平窪村、室直養の培根塾に入り漢学を学んだ。
吉國 マツ(よしくに マツ、1870年3月11日(明治3年2… 吉國 マツ(よしくに マツ、1870年3月11日(明治3年2月10日)- 1979年4月11日)は長寿日本一であった女性。晩年は大分県に居住していた。 現在の山口市に生まれる。広島市に移って呉服商の一人娘として育つ。結婚するも離婚し、2度目の夫とは死別した。子供はなく、1945年に広島で被爆し、1948年から大分県別府市の別府老人ホームに入所していた。好き嫌いはなく果物を好み、酒もたしなんだ。106歳時点でもトイレも入浴も介助なしで行っていた。 1976年9月発表の全国高齢者名簿では8位であった。 1977年8月、大阪府の川平小梅の死去により、107歳で長寿日本一の女性となり、1978年、新潟県の佐藤増太郎の死去により長寿日本一となる。
中馬 庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ、明治3年2月… 中馬 庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ、明治3年2月9日(1870年3月10日) - 昭和7年(1932年)3月21日)は、日本の教育者、元野球選手。
国富 友次郎(くにとみ ともじろう、明治3年2月3日(187… 国富 友次郎(くにとみ ともじろう、明治3年2月3日(1870年3月4日) - 昭和28年(1953年)12月1日)は、日本の教育者。岡山市長。 備中国浅口郡鴨方(現在の岡山県浅口市)の高戸家に生まれ、岡山市の国富大三郎の養子となった。岡山県師範学校卒業後、岡山県下の小学校で校長を務めた。1904年(明治37年)に岡山実科女学校校長に就任し、1908年(明治41年)には岡山実科高等女学校(のち就実高等女学校に改称)を設立し、両校の校長を兼ねた。岡山県教育副会長、岡山市教育会長、帝国教育会理事を歴任。また県会議員、市会議員、同参事会員、同議長に選出された。 1941年(昭和16年)、岡山市長に就任し、1944年(昭和19年)まで務めた。
血脇 守之助(ちわき もりのすけ、1870年3月2日(明治3… 血脇 守之助(ちわき もりのすけ、1870年3月2日(明治3年2月1日) - 1947年(昭和22年)2月24日)は、日本の歯科医師。日本歯科医師会会長。東京歯科大学の創立者の一人。明治後期から昭和初期にかけて日本の近代歯科医療制度の確立に尽力した。また、野口英世のパトロンとして知られる。
梶原 熊雄(かじわら くまお、1870年3月2日(明治3年2… 梶原 熊雄(かじわら くまお、1870年3月2日(明治3年2月1日) - 没年不明)は、日本の発明家。旭光学工業(後のPENTAX)の創業者。 福岡県福岡薬研町(現・福岡市中央区天神)出身。旧制福岡中学校、京都画学校卒業。1894年(明治27年)から1906年(明治39年)まで宮崎県師範学校兼宮崎県立宮崎中学校教諭、佐賀県立第一中学校兼小城中学校教諭を歴任した。1906年に中国政府から招聘され蘇州高等師範学堂教習となり、1909年(明治42年)に南京高等学堂教習となり、1912年(明治45年)に辛亥革命が起きたため辞職し帰国した。 1919年(大正8年)に旭光学工業を創業した。
坂 仲輔(さか なかすけ、明治3年1月29日(1870年3月… 坂 仲輔(さか なかすけ、明治3年1月29日(1870年3月1日) - 大正14年(1925年)8月14日)は、日本の内務官僚、実業家。茨城県知事、石川県知事、新潟県知事。 長州藩一門家老吉敷毛利家の家臣である坂新一の子として周防山口に生まれ、高等商業学校(のちの一橋大学)を矢野二郎排斥事件により中退し、会計検査院入庁。検査官補を務める。 内務省参事官、神奈川県事務官・第一部長兼第三部長などを経て、1908年10月、茨城県知事、1912年12月、石川県知事、1914年4月、新潟県知事を歴任。 1916年、藤田組常務理事、同年同社総務理事。1918年、小坂鉱山事務所長兼務。藤田銀行設立を決定。1916年に社長に進言し柵原鉱山の買収を決断させる。
五所車 菊太郎(ごしょぐるま きくたろう、1870年3月1日… 五所車 菊太郎(ごしょぐるま きくたろう、1870年3月1日(明治3年1月29日) - 1925年4月3日)は、千葉県夷隅郡江場土村(現在のいすみ市)出身で宮城野部屋、勝ノ浦部屋に所属した力士。6代宮城野。世話人。本名は佐久間 菊太郎。最高位は東前頭8枚目。 京都相撲に在籍経験がある。1896年1月初土俵、1906年1月十両昇進。1907年1月には高見山酉之助らとともに入幕を果たした。この時37歳。しかし、在位はわずかに4場所で、現役晩年は番付が次第に下がり、最終的には三段目にまで陥落してしまい、1913年5月に引退して親方業に専念(すでに二枚鑑札だった)。1916年1月には廃業し、世話人に転じた。
月田 藤三郎(つきだ とうざぶろう、明治3年1月26日(18… 月田 藤三郎(つきだ とうざぶろう、明治3年1月26日(1870年2月26日) - 昭和14年(1939年)1月7日)は、日本の農商務官僚。産業組合中央会会頭。農学博士。 上野国甘楽郡黒岩村(現在の群馬県富岡市)出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学農科大学農学科を卒業。農商務属・蚕業講習所技手となり、農事試験場技師・農商務技師、農政局耕地整理課長、農政課長、畜産課長・緬羊課長等を歴任。1924年(大正13年)に東京市区画整理局長に転じ、1926年(大正15年)まで在任した。 その後、産業組合中央会副会頭、同会頭、中央畜産会副会頭、大日本生糸販売組合連合会会長、購買組合共同会理事長、帝国耕地協会副会頭など多くの役職に就いた。
岩村 透(いわむら とおる、明治3年1月25日〈1870年2… 岩村 透(いわむら とおる、明治3年1月25日〈1870年2月25日〉 - 大正6年〈1917年〉8月17日)は、明治後期から大正期の日本の美術批評家。東京美術学校教授。 東京小石川区生まれ。岩村家は土佐藩家老(宿毛領主)伊賀家の家臣で、父・岩村高俊は後に、愛媛県令、愛知県知事、貴族院議員などを務め、男爵となった。母・音瀬。 透は慶應義塾幼稚舎、同人社(中村正直の塾)、東京英和学校(後の青山学院)と進むが中途退学。1888年にアメリカに渡り、キングストンのワイオミング・セミナリー(英語版)およびニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインで、絵画と美術批評を学んだ。この頃アメリカに本多庸一もいてお互いに親交を深めた。
野村 洋三(のむら ようぞう、1870年2月20日〈明治3年… 野村 洋三(のむら ようぞう、1870年2月20日〈明治3年1月20日 〉 - 1965年〈昭和40年〉3月24日 )は、日本の実業家。元横浜商工会議所会頭。幼名は梅太郎。妻は社会活動家の野村ミチ。 1870年(明治3年)に岐阜県揖斐郡公郷村(現在の大野町)で、父平作、母きくの長男として生まれた。野村家は関ヶ原の合戦の落武者だったといわれ、農家だったが名字帯刀を許されていた。 1881年(明治14年)に岐阜中学校へ入学。外国への興味が高まり、中学をやめて外国へ留学するため東京で勉強したいと両親に願い出たが父親はそれを認めず、1884年(明治17年)に14歳で大阪へ出奔した。様々な職に就いて機会を窺っていたが、外国人と接する機会が多い古美術商に目をつけて京都に移り、池田清助が経営する池田商店に入った。
遠山 房吉(とおやま ふさきち、1869年3月20日(明治2… 遠山 房吉(とおやま ふさきち、1869年3月20日(明治2年2月8日) - 1939年(昭和14年)3月17日)は、日本の篤農家、政治家。衆議院議員。 信濃国諏訪郡、後の中洲村(現長野県諏訪市)で遠山嘉藤治の長男として生まれる。北海道開拓を志し、1897年に河西郡芽室村に移住。 馬鈴薯、粟、麦などの作物を栽培するとともに、水田の開発を推進し、養蚕の導入などを行う。芽室農会評議員、同衛生組合長、北海道蚕糸会評議員、河南土功組合議員、北海道地方種繭審査委員、十勝六郡農会評議員、十勝郡農会副会長、北海道農村産業組合評議員などを務めた。 政界では、芽室村会議員、同学務委員、所得税調査委員、北海道会議員を歴任。
真渓 涙骨(またに るいこつ、1869年3月9日(明治2年1… 真渓 涙骨(またに るいこつ、1869年3月9日(明治2年1月27日) - 1956年(昭和31年)4月14日)は日本の宗教思想家、ジャーナリスト、宗教専門紙『中外日報』創刊者。 福井県敦賀市の浄土真宗本願寺派寺院に長男として生まれる。本名は正遵(しょうじゅん)。京都西本願寺の普通教校に16歳で入学するが間もなく退学し、学徳兼備の名僧として知られた博多万行寺の龍華教校で七里恒順に約3年師事。その後、各地を遍歴しながら文筆修行を積んだ。 1897年(明治30年)10月1日、仏教および宗教界の革新を志し、京都で超宗派の宗教新聞『教学報知』を創刊。1902年(明治35年)、報道範囲を拡大し『中外日報』と改題。
高木 益太郎(たかぎ ますたろう、1869年3月7日〈明治2… 高木 益太郎(たかぎ ますたろう、1869年3月7日〈明治2年1月25日〉 - 1929年〈昭和4年〉12月11日)は、日本の実業家、政治家、資産家、弁護士。 衆議院議員(当選6回)。法律新聞社長。尾西鉄道社長。法政大学総務部長、同大理事。従五位勲三等。族籍は東京府平民。 1869年1月25日、東京に生まれる。高木益喜の長男。幼少の頃、日本橋元浜町の尾張屋質店の丁稚小僧に出される。当時知人某が法律の不知からある高利貸しのためさんざんな目に遭わされたことに憤慨し、「弱者の味方となり、正義公正な権利擁護に尽くそう」と心機一転して法律の勉強を志す。 銀行に勤めるかたわら東京法学校(現・法政大学)に通学し、1887年に卒業する。
大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年… 大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年1月24日)- 1925年(大正14年)6月10日)は、高知県出身の詩人、歌人、随筆家、評論家。本名:大町芳衛(よしえ)。長男は化学者で慶應義塾大学教授の大町芳文、次男は昆虫学者で三重大学教授の大町文衛。 1869年(明治2年)、土佐郡高知街北門筋(現・高知市永国寺町)に元土佐藩士である通の息子として生まれる。名は芳衛。雅号の桂浜月下漁郎は、よさこい節にも唄われる観月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。 1896年(明治29年)、東京帝国大学国文科卒。1899年(明治32年)、島根県で中学教師として奉職するも、1900年(明治33年)、乞われて博文館に入社し、1906年(明治39年)まで在籍。
浅川 浩(あさかわ こう / ひろし、1869年3月6日(明… 浅川 浩(あさかわ こう / ひろし、1869年3月6日(明治2年1月24日) - 1949年(昭和24年)2月10日)は、日本の実業家、政治家。憲政会・立憲民政党所属の衆議院議員。 甲斐国巨摩郡、後の北巨摩郡大泉村(現山梨県北杜市大泉町)で浅川荘衛の長男として生まれる。1883年4月に上京し明治学館で学ぶ。1886年に卒業して帰郷し、農蚕、酒造業を営むが成功せず、1890年、御料局雇となる。 1893年、北海道に移り上川郡旭川村戸長役場筆生に就任。以後、高鷲村戸長、旭川町会議員、同区会議員、旭川市会議員、北海道会議員、北海道教育会地方委員、旭川教育会理事、旭川精米社長、旭川酒造社長、北海畜産社長などを務めた。
伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1… 伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1月23日〉- 1945年〈昭和20年〉1月25日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、富山県下新川郡泊町長。幼名・柳太郎。 越中国新川郡沼保村(富山県下新川郡泊町沼保を経て現朝日町沼保)で、温泉業・伊東次郎左衛門祐明の長男として生まれる。祐明の養子・祐寛の相続人となり1891年(明治24年)家督を相続した。岡田信之に師事し漢籍を修めた。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)を卒業し、上京して専修学校(現専修大学)で経済学を学んだ。 家業の小川温泉の経営を行う。1912年(明治45年)の大洪水で小川温泉が多大な損害を受けたため、移転も検討されたが泊町での再建が決定され、1913年(大正2年)7月、小川温泉株式会社が設立され社長に就任した。
田淵 貞四郎(たぶち さだしろう、1869年3月4日(明治2… 田淵 貞四郎(たぶち さだしろう、1869年3月4日(明治2年1月22日)- 1922年(大正11年)12月1日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 のちの香川県三野郡桑山村(三豊郡桑山村、豊中村、豊中町を経て、現在の三豊市豊中地区)に生まれる。農業を営む傍ら、桑山村会議員、三豊郡会議員、同参事会員、同副議長、香川県会議員、同参事会員、県農会副会長を歴任する。実業家としては讃岐土管取締役、香川県蚕糸同業組合連合会長を務める。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では香川県郡部から憲政会所属で出馬し当選。1期務めた。
柏原 文太郎(かしわばら ぶんたろう、明治2年1月18日(1… 柏原 文太郎(かしわばら ぶんたろう、明治2年1月18日(1869年2月28日) - 昭和11年(1936年)8月10日)は、日本の教育家、社会事業家。千葉県出身。 日中問題の権威で東亜同文会設立の功労者であるとともに、目白中学の創設からその実質的な校長職務を歴任した。さらに衆議院議員(1912年 - 1920年)として日中関係と私学教育の改善に功績を残した。 1869年1月、柏原七兵衛の子として千葉県成田市寺台の農家に生まれる。1893年、東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科卒業。 1895年、朝鮮国政府農商務省の招聘により渡韓し駐日朝鮮政府公使館顧問となり帰国。 1896年、東京専門学校の講師となり、支那研究会を組織。
諸井 四郎(もろい しろう、1869年2月25日〈明治2年1… 諸井 四郎(もろい しろう、1869年2月25日〈明治2年1月15日〉 - 1954年〈昭和29年〉)は、武蔵国児玉郡本庄宿(現在の埼玉県本庄市)出身の実業家。西武鉄道の取締役や日本煉瓦製造の会長などを務めた。 中山道で最大の宿場町であった本庄宿(明治22年より児玉郡本庄町)の出身。東諸井家10代目当主である諸井泉衛(1830-1885)は五男二女を授かり、四朗はその四男として生まれた。1900年(明治33年)に東京帝国大学を卒業し、京釜鉄道会社に入社。会計課長となるが、鉄道の国有化にともない退社する(1908年)。東亜製粉会社を組織し社長に就任するも、1925年(大正14年)日本製粉会社と合併してこの会社は消失。
三浦 万太郎(みうら まんたろう、三浦萬太郎、1869年〈明… 三浦 万太郎(みうら まんたろう、三浦萬太郎、1869年〈明治2年〉2月25日 - 1935年〈昭和10年〉7月)は、宝飯郡形原村(現・蒲郡市)出身の眼科医・実業家。妻は東三河地方初の女医である三浦こう。 1869年(明治2年)2月25日に宝飯郡形原村(現・愛知県蒲郡市)に生まれた。旧制宝飯中学校を卒業すると、1890年(明治23年)に医術開業試験に合格し、順天堂医院の佐藤泰然博士や須田博士に師事した。東京ではスワン石鹸会社を設立するなどしている。 やがて故郷の形原村に戻ると村岡こうと結婚し、1892年(明治25年)には形原村に三浦こうとともに愛明堂医院を開業した。三浦こうの義兄である小川平吉が鉄道大臣となると、奥飛騨温泉郷の平湯温泉の開発に尽力したが、平湯温泉への鉄道の敷設は実現しなかった。
佐々木 飛吉(ささき とびきち、明治2年1月15日(1869… 佐々木 飛吉(ささき とびきち、明治2年1月15日(1869年2月25日) - 昭和28年(1953年)5月23日)は、明治から昭和にかけて北海道静内郡静内町に居住したアイヌ。アイヌ協会の創立メンバーで、アイヌ文化伝承者であった。 東静内アザミの沢出身で、同地に住んだアイヌ名はOperikun、オペリクン、オペレクン・テクンアレ、ペイレン。opは海でカジキマグロを獲るのに使うホコであり、それを使うのが上手と言うこと、「ホコ使い上手」を意味するオッㇷ゚エリクンが転訛したものという。 アイヌ語に優れ、パルンクル(雄弁家)であった。静内地方でも著名な首長、長老であり、戦前・戦後を通し多くの著名人が訪れた。
柵瀬 軍之佐(さくらい ぐんのすけ、1869年2月24日(明… 柵瀬 軍之佐(さくらい ぐんのすけ、1869年2月24日(明治2年1月14日) - 1932年8月28日)は、日本の政治家。元立憲民政党衆議院議員(6期)。台湾を中心とした植民地事業で財を成した企業家であり、32社の経営に関わった。 岩手県西磐井郡中里村(現:一関市)出身。1889年英吉利法律学校(現:中央大学)卒。山梨日々新聞主筆、東京毎日新聞編集長などを経て、大倉組台湾支店支配人、合名会社柵瀬商会を設立した。1910年の第10回衆議院議員総選挙で初当選。以来6回当選。加藤高明内閣と第1次若槻内閣で商工政務次官を務めた。
青木 良雄(あおき よしお、1869年2月24日〈明治2年1… 青木 良雄(あおき よしお、1869年2月24日〈明治2年1月14日〉 - 没年不詳)は、日本の逓信・内務官僚。官選奈良県知事、山口県下関市長。族籍は山口県平民。正五位、勲四等。 周防国大島郡東安下庄 (現・山口県大島郡周防大島町)で青木東輔の二男として生まれる。 1895年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。逓信省に入省し郵便為替貯金書記兼逓信属となり通信局に配属された。 逓信事務官、郵便為替貯金管理所為替課長、通信事務官、逓信大臣秘書官兼逓信事務官、新潟郵便電信局長などを歴任。1899年6月、内務省に転じ宮城県参事官に就任。以後、群馬県書記官、同県事務官・第一部長、三重県事務官・第一部長、大阪府事務官・第一部長兼第三部長、同府内務部長などを歴任。
蔵園 三四郎(くらその さんしろう、旧姓・瀬戸川、1869年… 蔵園 三四郎(くらその さんしろう、旧姓・瀬戸川、1869年2月24日〈明治2年1月14日〉 - 1939年〈昭和14年〉4月6日)は、日本の政治家、弁護士、会社役員。衆議院議員(鹿児島県第一区選出、当選6回)。族籍は鹿児島県平民。鉄道政務次官、鉄道会議議員、南洋拓殖設立委員、薩摩製糸取締役などを務めた。 薩摩国日置郡田布施村(のち鹿児島県日置郡金峰町、現在の南さつま市)出身。鹿児島県平民・瀬戸川利右衛門の長男で、1876年、先代次郎の養子となった。元より富裕ではない家庭であったため、少年時代より人生の苦を味わわされた。14歳の時小学校の先生となり其の報酬として地所三段五畝歩を贈られた。 17歳の時の1886年、大阪に出て、大阪開成中学館、三一学校で学んだ。
岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ、旧姓:石尾、1869年2… 岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ、旧姓:石尾、1869年2月22日 〈明治2年1月12日〉 - 1939年9月23日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の洋画家、版画家である。女性像を得意とし、日本的な感覚の洋画に秀作を残し、現存する作品のほぼ半分を風景画が占める。第1回文化勲章を受章。東京美術学校(現:東京藝術大学)教授。現在の佐賀県佐賀市八幡小路生まれ。族籍は東京府平民。 1869年、肥前佐賀藩の石尾家に生まれる。士族・石尾孝基の三男。幼名は芳三郎。1887年、岡田政蔵の養子になり、家督を相続する。二松学舍、成立学舎、東洋英和学校等に学ぶ。 父とともに幼くして上京し、麹町の鍋島侯邸内で暮らした。
萩原 守一(はぎわら もりいち/しゅいち、1868年3月20… 萩原 守一(はぎわら もりいち/しゅいち、1868年3月20日〈慶応4年2月27日〉 - 1911年〈明治44年〉5月25日または5月26日)は、明治時代の日本の外交官。位階および勲等は従四位・勲三等。旧姓は石川。 長門国豊浦郡宇賀村(現在の山口県下関市)に生まれる。兄は石川耐蔵。 1893年(明治26年)、萩原明輔の後を継ぎ、萩原に改姓。 1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年9月、外交官及領事官試験に合格し外務省に入省して、外交官となった。 1897年からドイツ帝国公使館に勤務する。その後ベルギー、大韓帝国、清、アメリカ合衆国の公使館で書記官を務めた。1906年に奉天総領事館の総領事となる。
増田 次郎(ますだ じろう、慶応4年2月26日〈1868年3… 増田 次郎(ますだ じろう、慶応4年2月26日〈1868年3月19日〉 - 1951年〈昭和26年〉1月14日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家・政治家。 後藤新平秘書から衆議院議員となり、さらに実業界に転じて電気事業に参加。大同電力社長、日本発送電(日発)初代総裁、台湾電力(台電)社長などを務めた。駿河国(現・静岡県)出身。 増田次郎は慶応4年2月26日(明治元年、新暦:1868年3月19日)、駿河国志太郡稲川村(現・静岡県藤枝市)に増田儀右衛門の次男として生まれた。生家は120俵あまりの収穫がある比較的裕福な農家で、父儀右衛門は戸長に選ばれるような村の有力者であった。 小学校を出た後、世継ぎであり体の丈夫な兄・太郎に農業を継がせるので次郎は商人になるのがよい、という父の意向で、13歳のとき奉公に出され六合村にあった親類の商家に預けられた。
長島 律太郎(ながしま りつたろう、1868年3月18日(慶… 長島 律太郎(ながしま りつたろう、1868年3月18日(慶応4年2月25日)- 1925年(大正14年)1月31日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県北足立郡小谷村長。 武蔵国足立郡小谷村(のち埼玉県北足立郡小谷村、現:鴻巣市)で、小谷村長を務めた長島基吉の長男として生まれる。1890年、東京専門学校政治科を卒業し、農業を営む。 北足立郡会議員、同参事会員、埼玉県会議員、同参事会員、小谷村長などを務めた。 1917年4月、第13回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から憲政会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
河西 健次(かさい けんじ、明治元年2月24日〈1868年3… 河西 健次(かさい けんじ、明治元年2月24日〈1868年3月17日〉 - 昭和2年〈1927年〉5月14日)は日本の医師。陸軍軍医、満鉄大連医院院長、武蔵野病院創設者。 長野県小県郡和田村の医者の家系に長男として生まれる。1890年(明治23年)帝国大学医科大学在学中に陸軍医官候補生に採用され、日清戦争に出征した。1894年(明治27年)大学卒業後、京都帝国大学大学院を経て、伏見衛生病院、台北衛生病院付となり、日露戦争時には三等軍医正となる。1906年(明治39年)ドイツ駐在となり、1908年(明治41年)現役のまま南満洲鉄道衛生課長兼大連医院長に就任した。 1911年(明治44年)、奉天における国際ペスト会議に列席し、軍医正に進み、1912年(大正元年)南満医学堂の初代堂長を兼任した。
生原 忠右衛門(忠右衞門、はいばら ちゅうえもん / ちゅう… 生原 忠右衛門(忠右衞門、はいばら ちゅうえもん / ちゅううえもん、1868年3月15日(慶応4年2月22日)- 1932年(昭和7年)12月20日)は、明治後期から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員。 甲斐国山梨郡小松村(山梨県東山梨郡春日居村、春日居町を経て現笛吹市春日居町小松)で、豪農・生原広賢、かく の長男として生まれる。1892年(明治25年)6月、家督を相続した。 1889年(明治22年)町村制施行以来、春日居村会議員を務め、1894年(明治27年)東山梨郡会議員に当選。1899年(明治32年)山梨県会議員に選出され、所得税調査委員、春日居村助役なども務めた。 1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙に山梨県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
飯村 稷山(いいむら しょくざん、慶応4年3月14日(西暦1… 飯村 稷山(いいむら しょくざん、慶応4年3月14日(西暦1868年4月6日) - 昭和17年(1942年)6月17日)は、日本の漢詩人。秋田県仙北郡六郷村(のち六郷町)出身。隣村畑屋村生まれの高橋午山、千屋村の坂本東嶽(理一郎)とともに「仙北の三山」と称された。 羽後国仙北郡六郷村飯村永助の次男として生まれた。幼名は堅治、のちに粋と改名した。 六郷の熊谷松陰および岡三慶に師事し、漢籍を学んだ。田尻稲次郎らによって創立された東京の専修学校(現在の専修大学)を卒業後、新聞社に入社し日清戦争に従軍した。上京して以来、臨済宗の傑僧中原南天棒に参禅し、玉川遠州流の茶道も学んだ。「稷山」は師より賜った居士号である。
斎藤 阿具(さいとう あぐ、1868年3月11日(慶応4年2… 斎藤 阿具(さいとう あぐ、1868年3月11日(慶応4年2月18日) - 1942年(昭和17年)3月1日)は、日本の歴史学者。夏目漱石の友人として知られる。 武蔵国足立郡尾間木村(現・埼玉県さいたま市)出身。1890年第一高等中学校卒業。1893年東京帝国大学史学科卒業、大学院に進む。1897年第二高等学校教授。1903年から3年間ドイツ、オランダに留学。留学中に本郷区駒込千駄木町の家を夏目漱石に貸した。漱石はここで『吾輩は猫である』を書いたため、「夏目漱石旧宅跡」として区指定史跡とされ旧居記念碑が建っており、旧居は明治村に移築された。 帰国後第一高等学校教授となり、芥川龍之介、久米正雄、山本有三らを教えた。
小川 芋銭(おがわ うせん、1868年3月11日〈慶応4年2… 小川 芋銭(おがわ うせん、1868年3月11日〈慶応4年2月18日〉 - 1938年〈昭和13年〉12月17日)は、19世紀から20世紀前半にかけて活躍した日本画家、俳人。幼名は不動太郎、本名は茂吉、号は牛里。 小川家は代々牛久藩士で、大坂の陣で討死した木村重成の末裔だという。父は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現:茨城県牛久市城中町)に移り農家となった。当初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け、朝野新聞社に一時雇われ画工として入社。そこでは挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと「珊瑚会」を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる。 生涯のほとんどを牛久沼の畔で農業を営みながら暮らした。