岡倉 天心(おかくら てんしん、文久2年12月26日〈186… 岡倉 天心(おかくら てんしん、文久2年12月26日〈1863年2月14日〉 - 大正2年〈1913年〉9月2日)は、日本の思想家、文人。本名は岡倉 覚三(おかくら かくぞう)。幼名は岡倉 角蔵(読み同じ)。 横浜の本町5丁目(現在の同市中区本町1丁目、横浜開港記念会館付近)で生まれる。福井藩出身の武家で、1871年に家族で東京に移転。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の設立に大きく貢献し、後年に日本美術院を創設した。近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史家、美術評論家としての活動、美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓発活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与した。
池田 藤八郎(いけだ とうはちろう、1863年2月11日(文… 池田 藤八郎(いけだ とうはちろう、1863年2月11日(文久2年12月23日) - 1911年(明治44年)7月7日)は、明治時代の政治家、銀行家。衆議院議員(1期)。山形県飽海郡酒田町長。幼名は辰三郎、別名に光礼。 本間光貞の二男として出羽鶴岡藩領飽海郡、のちの酒井新田村天王下(山形県飽海郡西荒瀬村を経て現酒田市)に生まれる。1879年(明治12年)上京し同人社に入り碩学中村敬宇のもとで漢学や英学を修めたのち帰郷する。1882年(明治15年)飽海郡の中学校教員となり、1885年(明治18年)24歳の時、酒田本町の池田家の養子に入り名を藤八郎に改めた。1889年(明治22年)酒田町会議員に当選し、酒田町長、飽海郡会議員、同議長を経て、1902年(明治35年)山形県会議員に当選する。
押川 則吉(おしかわ のりきち、1863年2月7日〈文久2年… 押川 則吉(おしかわ のりきち、1863年2月7日〈文久2年12月19日〉 - 1918年〈大正7年〉2月18日)は、日本の農商務・内務官僚、政治家。官選県知事、製鉄所長官、貴族院議員。林野整理審査会長、日本大博覧会評議員、大礼準備委員なども務めた。位階および勲等は従三位・勲一等。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下加治屋町(現鹿児島県鹿児島市加治屋町)で、薩摩藩士・押川乙五郎の長男・千代太郎として生まれる。1880年6月、東京農林学校を卒業。1883年3月、農商務省御用掛として出仕。同年6月、農学士・農芸化学士の学位を取得。 1885年7月、新潟県御用掛に就任。1887年4月、農商務属として本省に復帰。
柴田 家門(しばた かもん、1863年2月6日〈文久2年12… 柴田 家門(しばた かもん、1863年2月6日〈文久2年12月18日〉- 1919年〈大正8年〉8月25日)は、文部大臣、貴族院議員などを務めた政治家。 萩城下平安古(現在の山口県萩市平安古東区)に柴田英佐(えいすけ)の長男として出生。同郷に田中義一、藤井幸槌がいる。 1882年(明治15年)に上京し、大学予備門(第一高等中学校、現在の東京大学教養学部)を経て、東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)に進学。1890年(明治23年)に同大学卒業後、内閣書記官、法制局参事官、行政裁判所評定官等を務める。 1898年(明治31年)、第2次山縣内閣の内務省地方局長を務める。1901年(明治34年)、第1次桂内閣の内閣書記官長に就任。
白勢 春三(しろせ しゅんぞう、1863年2月6日〈文久2年… 白勢 春三(しろせ しゅんぞう、1863年2月6日〈文久2年12月18日〉 - 1941年〈昭和16年〉5月25日)は、日本の政治家、新潟県多額納税者、資産家、地主、実業家。衆議院議員(新潟県新潟市選出、当選1回)、貴族院議員。新潟商工会議所顧問。族籍は新潟県平民。 越後国蒲原郡(のち新潟県北蒲原郡金塚村、現在の新発田市金塚)生まれ。白勢彦次郎の長男、白勢二朔の養兄である。新潟英語学校に学んだ。1888年、家督を相続した。 新潟市に於ける名望家であり、諸種の実業団体幹部役員及び新潟市会議員同参事会員、同市会議長、同商業会議所議員、同会頭、同特別議員等に挙げられ、衆議院議員に当選し、1905年、日露戦争の功により勲四等に叙せらる。
竹内 平太郎(たけのうち へいたろう、1863年2月6日(文… 竹内 平太郎(たけのうち へいたろう、1863年2月6日(文久2年12月18日) - 1933年(昭和8年)12月21日)は、島根県松江出身の海軍軍人。最終位階勲等は海軍少将。従四位勲三等功三級に至る。 竹内家初代は松江城天守の修復や、法華宗大雄寺の八角堂や堂宇を作った竹内有兵衛で、松江松平藩の初代藩主松平直政の大工頭であった名工竹内有兵衛(右兵衛、宇兵衛、たけのうち うへえ)の十代目の子孫。長男竹内和信は帝国陸軍航空総軍第53航空師団・第7航空通信連隊連隊長(終戦時大佐)。 1900年に主席駐在武官として駐仏公使館に着任した竹内大佐の主要な任務は、露仏同盟によりロシアと軍事的な関係を強化していたフランスにおいて、ロシアの軍事情報を収集することであったとされている。
横山 雅男(よこやま まさお、文久2年12月16日(1863… 横山 雅男(よこやま まさお、文久2年12月16日(1863年2月4日) - 1943年(昭和18年)2月12日)は、日本の統計学者。安芸国賀茂郡吉土実村(現・広島県東広島市)出身。 広島県師範学校(広島大学教育学部の前身)卒業。広島県内で小学校教員を務めた後上京。当時はまだ新奇な学問であった統計学の存在を知り、表記学社(1878年スタチスチック社、1892年統計学社と改名、1944年東京統計協会と合併し日本統計協会と改称)が1883年、杉亨二や岩崎弥太郎、渋沢栄一、世良太一らの尽力で設立した日本で最初で最後の統計専門学校「共立統計学校」の第一期生として入学。3年間、杉亨二の弟子として本格的に統計学を学ぶ。
17代 木村 庄之助(じゅうしちだい きむら しょうのすけ、… 17代 木村 庄之助(じゅうしちだい きむら しょうのすけ、文久2年12月11日〈1863年1月30日〉 - 1924年〈大正13年〉7月18日)は、大相撲の立行司。本名は浪花→酒井兵吉。出身地は徳島県徳島市。 徳島市に浪花徳丸の六男として生まれる。幼少時より行司好きで子供相撲で行司を務めていた。大阪相撲の藤見崎という力士が巡業中にこの様子を見て勧誘し、1869年大阪相撲の竹縄部屋に入門。最初は木村兵丸を名乗った。 1885年に東京相撲に移籍、15代庄之助に師事。1886年1月初代木村玉治郎から、1895年1月6代木村庄三郎を経て、1911年5月10代式守伊之助を襲名、翌1912年5月に17代木村庄之助を襲名した。
服部 綾雄(はっとり あやお、1863年1月30日(文久2年… 服部 綾雄(はっとり あやお、1863年1月30日(文久2年12月11日) - 1914年(大正3年)4月1日)は、日本の牧師、教育者、政治家である。 1863年(文久2年)駿河国沼津城下に生まれた。明治維新により、1868年(明治元年)沼津藩が上総国市原郡菊間に移封されたので、菊間に移住する。1873年(明治6年)、10歳の時に横浜で遊学し、J・C・ヘボンに書生として住み込み、ヘボン塾で英語を学んだ。 ヘボンより薫陶を受け、キリスト教信仰を持つ。1874年(明治7年)にヘンリー・ルーミス宣教師より洗礼を受ける。1880年(明治13年)築地大学校の創立時に転入する。1882年(明治19年)築地大学校卒業後に大学校の幹事になる。
足羽 章兮(あしわ しょうけい、1863年1月27日〈文久2… 足羽 章兮(あしわ しょうけい、1863年1月27日〈文久2年12月8日〉 - 1934年〈昭和9年〉9月4日)は、日本の医師、政治家。鳥取県医師会長。鳥取県会議長。日野郡是製糸取締役。足羽家8代目。族籍は鳥取県士族。 伯耆国日野郡二部村(のち鳥取県日野郡溝口町二部、現・伯耆町)出身。足羽家は代々医を業とする。足羽純亭の五男。教を郷校に受け、小学の課程を卒え、毛利八弥に就き漢籍を修める。 1884年、松江医学校を卒業。東京に出て済生学舎に入り、医術を修める。帰郷し、二部宿で父祖の医業を継ぐ。1890年に日野郡医師会創設。日野郡医師会長となる。 1904年から1917年村会議員。1908年から1910年鳥取県医師会長。
頭本 元貞(ずもと もとさだ、1863年1月23日〈文久2年… 頭本 元貞(ずもと もとさだ、1863年1月23日〈文久2年12月4日〉- 1943年〈昭和18年〉2月15日)は、日本のジャーナリスト、衆議院議員(1期)。英語力に秀で、伊藤博文や渋沢栄一といった実力者に重用され、長年にわたって国際的舞台で活躍するジャーナリストとなったほか、英語教育教材の開発者、代議士としても活動した。右翼的国家主義者と評されることが多い。 伯耆国(後の鳥取県日野郡黒坂村、黒坂町を経て現日野町)出身。鳥取県と愛知県の中学校に在籍した後、東京大学予備門を経て、1880年に札幌農学校に入学し、武信由太郎や志賀重昂らとともに4期生として学んだ。在学中にジュゼッペ・マッツィーニの文章に触れ、日本の国情を海外へ紹介することを自らの使命と決意したとされる。
荘 清次郎(しょう せいじろう、1862年2月18日(文久2… 荘 清次郎(しょう せいじろう、1862年2月18日(文久2年1月20日) - 1926年(昭和元年)12月25日)は、日本の実業家。三菱合資会社専務理事。族籍は東京府士族。 肥前大村藩士・荘新右衛門の長男。若年にして東京に出て、一ッ橋英語学校に学び、後大学予備門に入る。1885年、東京大学卒業、法学士の称号を得る。1886年、米国に渡航し、エール大学に入り、1887年にマスター・オブ・ローの学位を受く。米国諸州を巡遊する。欧州に渡り実業を視察して帰朝、直に三菱会社に入る。 1892年、大阪に第百十九国立銀行の支店を設置されるとその支配人に挙げられ、1895年、三菱会社の神戸支店設置と共にその支店長に転じ、1900年、同社庶務部長となる。
多川 幾造(たがわ いくぞう、1862年2月18日〈文久2年… 多川 幾造(たがわ いくぞう、1862年2月18日〈文久2年1月20日〉- 1943年〈昭和18年〉7月2日)は、日本の教育者、聖職者。平安女学院院長(校長)、日本聖公会の聖職者・司祭。立教大学が築地から池袋に移転する際には、会計責任者として押川方義(東北学院創設者、前・東北学院院長)とともに校地の購入交渉を行った。 現在の大阪府岸和田市で生まれた。1883年(明治16年)に米国聖公会のテオドシウス・ティングより受洗し、大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)でティングの薫陶を受け、1887年(明治20年)より、関西を中心として伝道師・牧師として働く。 1892年(明治25年)、大阪の川口居留地で米国聖公会が運営する照暗女学校(St.Agnes' School)を京都に移転することが決定し、京都府より「私立照暗女学校」の設立認可を受ける。
岡崎 賢次(おかざき けんじ、1862年2月18日(文久2年… 岡崎 賢次(おかざき けんじ、1862年2月18日(文久2年1月20日)- 1922年(大正11年)2月14日)は、明治から大正期の弁護士、公証人、実業家、政治家、自由民権運動家。衆議院議員、高知市会議長。 土佐国土佐郡、のちの高知県土佐郡初月村(現高知市)で、土佐藩士・岡崎賢七の長男として生まれる。1883年(明治16年)12月、家督を相続した。1885年(明治18年)東京専門学校(現早稲田大学)法律科を卒業した。 1887年(明治20年)3月、公証人となる。同年9月、代言人試験に合格し、同年11月、高知市で代言人(弁護士)を開業した。講法館、法学館の講師を務めた。自由民権運動に加わり、三大事件建白運動にも参加。
森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日〈1862年2月… 森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日〈1862年2月17日〉 - 大正11年〈1922年〉7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。 石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)出身。東京大学医学部卒業。大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。 帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。
歌川 秋南(うたがわ しゅうなん、本名:兼太郎、文久2年1月… 歌川 秋南(うたがわ しゅうなん、本名:兼太郎、文久2年1月18日(1862年2月16日) - 昭和2年(1927年)10月18日)は、新潟県出身の教育者、政治家。 越後国蒲原郡柄目木村(現在の新潟県新潟市秋葉区柄目木)に真柄家の子として生まれた。17歳で教員となった後に上京し漢学などを学んだ。帰郷後は五泉の歌川家に養子に入り、26歳で家を継いだ。 1902年、家塾『猶興社』を開設し、小学校を卒業したのち旧制中学に進めないような貧しい子供達への教育の場となった。1898年よりは当時の五泉町議会の政治家となり、織物業の振興を図り織物同志会を組織したり、五泉銀行の頭取を務めるなどした。1923年には五泉町教育会長となり、図書館を建設した。
薄 定吉(すすき さだきち、1862年2月14日(文久2年1… 薄 定吉(すすき さだきち、1862年2月14日(文久2年1月16日) - 1927年(昭和2年)12月16日)は、日本の教育者、内務官僚。官選岐阜県知事、長崎市長。旧名・定右衛門。 備前国岡山城下門田屋敷出身。岡山藩士の家に生まれる。岡山中学校、大阪専門学校予科、築地大学校を経て、1882年7月、東京大学予備門を卒業。さらに1888年7月、帝国大学法科大学を卒業した。 1888年8月、第四高等中学校教諭に就任。さらに同校教授となる。1891年1月、内務省に転じ内務省試補となる。以後、図書局勤務、県治局勤務、鹿児島県参事官、同兼内務部第三課長、同兼内務部第一課長、長崎県参事官、同兼内務部第三課長、同兼内務部第五課長、群馬県書記官、山梨県書記官、奈良県書記官、鳥取県書記官、宮城県書記官、同事務官・第一部長、同兼第三部長などを歴任。
有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、18… 有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、1862年2月11日〈文久2年1月13日〉- 1913年〈大正2年〉7月10日)は、日本の皇族、海軍軍人。号は欽堂。官職は軍事参議官。称号・階級は元帥海軍大将。勲等は大勲位。功級は功三級。世襲親王家の有栖川宮第10代当主にして最後の当主。 有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第四王子(男女合わせた王子女の中では八人目、ただし成人した男子は熾仁親王と威仁親王だけ)で、生母は家女房の森則子。熾仁親王は異母兄。幼称は稠宮(さわのみや)。妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘・慰子(やすこ)。 最後の有栖川宮であり、また最初に海軍に就職した皇族(皇族軍人)である。
岩村 茂(いわむら しげる、1862年1月30日(文久2年1… 岩村 茂(いわむら しげる、1862年1月30日(文久2年1月1日) - 1908年(明治41年)6月6日) は、日本の法律家。 1862年1月30日(文久2年1月1日)に伊勢国三重郡水沢村(三重県四日市市)で、豐田久三郎の三男として生まれる。号は冠峰。幼時に両親を亡くし、岩村定高(初代三重県令)の養子となる。普通学を修めた後、1879年(明治12年)三重県医学校に入学。明治天皇の巡行の際に選抜され、勅使の前でドイツのハルトマンの病理学書を講読し、賞品を授かる。この年12月に東京大学医学部に県費で入学を命じられる。大学予備門、第一高等中学校を卒業、県の許可を得て帝国大学法科大学に入学する。 1890年(明治23年)に学士の称号を得て卒業。
川上 俊彦(かわかみ としつね、1862年1月28日(文久元… 川上 俊彦(かわかみ としつね、1862年1月28日(文久元年12月29日) - 1935年(昭和10年)9月12日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した外交官、実業家である。外交官時代はロシア関連の役職を歴任し、日露戦争では旅順要塞陥落時の水師営の会見で通訳を務め、ハルビン総領事時代には伊藤博文暗殺事件に遭遇した。退官後は日魯漁業社長などを務めた。 村上藩士・川上泉太郎の長男として越後国村上(現在の新潟県村上市)で生まれる。幼名は銀太郎。 新潟師範学校を中退し東京外国語学校ロシア語学科に入学。1884年に卒業後、外務省に入省。1886年在釜山領事館書記生。1889年在ウラジオストック貿易事務館領事館書記生。
3代 加藤 宇兵衛(かとう うへえ、1862年1月27日(文… 3代 加藤 宇兵衛(かとう うへえ、1862年1月27日(文久元年12月28日) - 1929年(昭和4年)8月22日)は、明治から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。大地主。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(3期)。 造酒屋「沢成 (さわなり、屋号・沢屋)」の2代・加藤成之助の長男として、陸奥黒石藩領津軽郡黒石上町(青森県南津軽郡黒石町を経て現黒石市)に生まれる。1890年(明治23年)から青森県会議員に5回、1902年(明治35年)から衆議院議員に3回当選する。さらに1906年(明治39年)には青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、翌年1月18日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
加藤 彰廉(かとう あきかど、文久元年12月27日(1862… 加藤 彰廉(かとう あきかど、文久元年12月27日(1862年1月26日) - 昭和8年(1933年)9月18日)は、衆議院議員(無所属団→公友倶楽部→公正会)、教育者。 伊予松山藩士宮城正修の二男として江戸に生まれ、加藤彰の養子となった。1884年(明治17年)、東京大学文学部を卒業。文部省御用掛、主税局御用掛、大蔵属を歴任した。1888年(明治21年)、山口高等中学校教諭となり、1894年(明治27年)に広島中学校の校長に就任した。 1895年(明治28年)に市立大阪商業学校(現在の大阪市立大学)教諭に招かれ、1899年(明治32年)に校長となり、1901年(明治34年)まで務めた(任期中に市立大阪高等商業学校に校名変更)。
島邨 俊一(しまむら しゅんいち、文久元年12月25日(18… 島邨 俊一(しまむら しゅんいち、文久元年12月25日(1862年1月24日) - 1923年(大正12年)3月11日)は戦前日本の精神病学者、神経病学者。京都府立医学専門学校長、同校附属病院長。狐憑きの研究でも知られる。 文久元年12月25日(1862年1月24日)江戸駒込片町に生まれた。本籍は東京市本郷区駒込東片町73番地。 1887年(明治20年)3月16日帝国大学医科大学医学部を卒業し、5月3日大学院に進み、精神病学室榊俶に就いたが、榊は東京府癲狂院の患者の診療を任され、精神病学室も同院に置かれており、8月3日島邨も隔日出頭し、9月2日当直医となり、6日大学院を中退、10日医科大学助手として第一医院勤務を命じられた。
西郷 菊次郎(さいごう きくじろう、1861年2月11日〈万… 西郷 菊次郎(さいごう きくじろう、1861年2月11日〈万延2年1月2日〉- 1928年〈昭和3年〉11月27日)は、日本の政治家、外交官。 遠島の身分であった時代の西郷隆盛と愛加那の長男として、万延2年1月2日(1861年2月11日)、奄美大島の龍郷で生まれた。同父母妹に菊草がいる。異母弟に嫡弟の寅太郎、午次郎、酉三。妻・久子との間に7男7女を設けた。 9歳で鹿児島の西郷本家に引き取られ、12歳でアメリカへの留学の途についた。2年6ヶ月に及ぶ留学生活を終え、帰国して3年後の17歳のとき、1877年、西南戦争に薩軍の一員として参戦。2月25日から27日までの『高瀬大会戦』(熊本県玉名市)において右足に銃弾を受け負傷。
伊藤 直純(いとう なおずみ、万延元年12月30日(1861… 伊藤 直純(いとう なおずみ、万延元年12月30日(1861年2月9日) - 昭和8年(1933年)8月8日)は、日本の政治家。秋田県横手市生まれ。号は耕余(こうよ)。農村振興、交通網の整備、文化・教育振興など秋田県の近代化を進めた。 出羽国仙北郡金沢中野村に、後に初代金沢村長となる豪農・伊藤兵吉の長男として生まれる。慶応2年(1866年)から横手町の漢学塾「三近堂」で須田水明に学び、明治10年(1877年)に上京し根本通明の私塾で漢学、大沼枕山から漢詩を学ぶ。明治14年(1881年)、父の命で明治天皇巡幸を歓迎するため帰郷。その後再び上京し専修学校(後の専修大学)で学ぶ。卒業後は帰郷し青年会活動に力を入れる。
天野 為之(あまの ためゆき、1861年2月6日(万延元年1… 天野 為之(あまの ためゆき、1861年2月6日(万延元年12月27日) - 1938年(昭和13年)3月26日)は、明治・大正・昭和期の経済学者、ジャーナリスト、政治家、教育者、法学博士。衆議院議員、東洋経済新報社主幹、早稲田大学学長、早稲田実業学校校長を歴任した。勲三等瑞宝章受章。
小島 相陽(こじま そうよう、万延元年12月26日(1861… 小島 相陽(こじま そうよう、万延元年12月26日(1861年2月5日) - 昭和11年(1936年)4月21日)は、日本の衆議院議員。弁護士。 信濃国水内郡安茂里村(現在の長野県長野市)出身。明治法律学校(現在の明治大学)に学ぶ。 明治12年7月埼玉県の代言人免許を受けて代言人となる。 明治26年、弁護士法制定にともない弁護士登録。 1893年(明治26年)4月28日、松本、上田、長野の三代言人組合が合同し、長野弁護士会設立後、初代近藤牧太のあとを受けて1896年(明治29年)長野弁護士会会長に就任し、1935年(昭和10年)まで39年間にわたり会長を務めた。また上水内郡会議員、長野県会議員に選出された。
足立 繁太郎(あだち しげたろう、万延元年12月24日(18… 足立 繁太郎(あだち しげたろう、万延元年12月24日(1861年2月3日) - 昭和19年(1944年))は、日本の政治家。元境町会議員。鳥取県会見郡中野村(後に西伯郡余子村、現・境港市)の人。 元日本商工会議所会頭足立正の父。 足立家の家業は酒造りで、江戸時代には大庄屋を務め、苗字帯刀を許された豪家だった。。 父徹造は馬術の達人であり、鳥取藩つきの高名な先生について腕をみがいた。繁太郎は長男の正に剣道を教えた。。 繁太郎は多年にわたり境郵便局長をつとめたため、“郵便足立”とよばれていた。 日本の製紙王と呼ばれた藤原銀次郎の妻の実家(由井家)と足立家は隣同士であり、2人が結ばれたのは繁太郎の仲介によるものであった この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
浦野 錠平(うらの じょうへい、1861年2月2日(万延元年… 浦野 錠平(うらの じょうへい、1861年2月2日(万延元年12月23日)- 1909年(明治42年)3月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 1861年(万延元年)、三河国加茂郡四郷村(のち愛知県西加茂郡上郷村、猿投村、猿投町を経て現豊田市)に生まれた。生家は浦野酒造場(後の浦野合資会社)を営む庄屋の浦野家。 普通学を修得し、農業と酒造業を営む。学務委員、上郷村会議員、同村長、西加茂郡会議員、愛知県会議員、県税賦課額調査委員、県道改修委員、勧業諮問会員となった。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙において愛知9区から自由党公認で立候補して初当選する。8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して再選する。
岡田 国太郎(おかだ くにたろう、1861年1月29日(万延… 岡田 国太郎(おかだ くにたろう、1861年1月29日(万延元年12月19日) - 1945年(昭和20年)3月2日)は、日本の陸軍軍人(軍医官)、医師、細菌学者。医学博士(滋賀県出身者として初の医学博士(博士登録番号42番))。 1861年1月29日(万延元年12月19日)、近江国野洲郡守山村吉身(現・滋賀県守山市吉身)で誕生。父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の最初の妻・たみ。八男七女の次男として誕生したが、長男が夭折したことにより跡取りとして育てられる。 1877年(明治10年)、京都欧学校(後の京都府立一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校))に入学し、ドイツ語を学んだ。
中川 幸太郎(なかがわ こうたろう、1861年1月29日(万… 中川 幸太郎(なかがわ こうたろう、1861年1月29日(万延元年12月19日)- 1940年(昭和15年)8月1日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県氷上郡久下村長。 丹波国氷上郡谷川村(兵庫県氷上郡久下村谷川、山南町谷川を経て現丹波市山南町谷川)で、農業、製油業・中川音蔵の長男として生まれる。1884年(明治17年)3月、家督を相続し、農業、製油業、鉱業を営む。 1882年(明治15年)4月、太田村外17ヶ村戸長役場用掛に就任。以後、氷上郡町村連合会議員、同郡全町村組合会議員を歴任。1893年(明治26年)5月、久下村長に就任し1903年(明治36年)8月まで在任。
小笠原 鑅次郎(おがさわら こうじろう、1861年1月27日… 小笠原 鑅次郎(おがさわら こうじろう、1861年1月27日(万延元年12月17日) – 1932年(昭和7年)12月25日)は、日本の実業家、官僚。安田財閥の幹部。 1860年、出羽国新庄藩の代官職を代々務める小笠原家の次男として出生。栃木県師範学校卒業後、中江兆民の仏学塾にて歴史、法律、哲学を研究し、1889年に明治法律学校を卒業。大蔵省銀行局に出仕し、銀行業界の監督、向上に尽力。1893年の商法施行により、私立銀行の監督権が大蔵省に帰すると、その任に当たった。 四大財閥のひとつで、当時、日本最大の金融資本を誇った安田財閥の創設者である安田善次郎の知遇を受けたことにより、1894年、安田銀行に入行。
伊達 宗陳(だて むねのぶ、1861年1月26日〈万延元年1… 伊達 宗陳(だて むねのぶ、1861年1月26日〈万延元年12月16日〉- 1923年〈大正12年〉2月7日)は、日本の宮内官、政治家、華族。貴族院侯爵議員、宮中顧問官。宇和島伊達家10代当主。 宇和島藩主・伊達宗徳の長男として生まれる。父の死去に伴い1905年(明治38年)12月27日に侯爵を襲爵し貴族院侯爵議員に就任し、死去するまで在任した。 明治学舎、学習院で学び、1886年(明治19年)、小松宮彰仁親王に随行してイギリスを訪問し同国に留学した。帰国して1889年(明治22年)以降、式部官兼主猟官、宮中顧問官などを務めた。 明治10年代には旧藩の困窮士族のために北海道開拓を検討し現在の江別市に150万坪の土地を貸し下げたが、結局宇和島からの入植は実現しなかった。
飯田 新右衛門(新右衞門、いいだ しんうえもん、1861年1… 飯田 新右衛門(新右衞門、いいだ しんうえもん、1861年1月20日(万延元年12月10日)- 1915年(大正4年)7月31日)は、明治から大正初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 常陸国筑波郡真瀬村(若森県筑波郡真瀬村、新治県筑波郡真瀬村、茨城県筑波郡真瀬村、真瀬村真瀬、谷田部町真瀬を経て現つくば市真瀬)の旧家に生まれた。秋場桂園、村田雷蔵らから漢学、法律学を学んだ。農業を営む。 筑波郡福岡村外二カ村連合戸長、筑波郡書記、登記所書記、学務委員などを務めた。1892年(明治25年)茨城県会議員に選出され1896年(明治29年)まで在任し、同常置委員も務めた。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(茨城県郡部、立憲政友会)で初当選し、1912年(明治45年)5月の第11回総選挙(茨城県郡部、立憲政友会)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
徳丸 作蔵(とくまる さくぞう、1861年1月20日(万延元… 徳丸 作蔵(とくまる さくぞう、1861年1月20日(万延元年12月10日) - 1913年(大正2年)12月10日)は、日本の外交官。在重慶領事、在汕頭領事などを務めた。 肥後国鹿本郡六郷村で、熊本藩士・徳丸庄三郎の子として生まれる。1867年(慶応3年)、7歳で鳩野茂庵の門に学ぶ。1874年(明治7年)、熊本県玉名郡肥猪町の福田義塾に入った。1880年(明治13年)、郷里の小学校で教鞭を執るが、1年余りで辞した。 1882年(明治15年)、22歳の時、中国大陸への志を抱き興亜会の会員となり、同会附属の支那語学校で学び、同年に同校が外国語学校に吸収されると、小田切万寿之助、宮島詠士、七里恭三郎らとともに移った。
小田 亮(おだ りょう、安政7年1月27日(1860年2月1… 小田 亮(おだ りょう、安政7年1月27日(1860年2月18日) - 1932年(昭和7年)9月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、医師。旧姓・津田、号は怡山。 安芸国高田郡本村(広島県高田郡本村、美土里町を経て現安芸高田市)出身。津田家に生まれ、小田家の養子となった。1883年(明治16年)、広島県医学校(のち、広島医学専門学校→広島医科大学、現在の広島大学医学部)を卒業し、翌年に内務省医師試験に合格して開業した。小田家は有間屋という売薬業を営んでおり、その経営にもあたった。山県郡医会会長、同私立衛生会会長、同市立教育会長を歴任。1893年(明治26年)、広島県会議員に選ばれた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
家永 エイ(いえなが エイ、万延元年(1860年)2月18日… 家永 エイ(いえなが エイ、万延元年(1860年)2月18日 - 1927年(昭和2年)5月12日)は、長崎県長崎市稲佐にあったロシア人向けのホテル・ヴェスナーなどを経営した女性実業家。洋妾・からゆきさん。長崎では稲佐お栄の通称と共に日露親善に尽力した女性として知られ、楠本イネ・大浦慶と共に長崎三女傑に数えられる。以下、本記事ではお栄と表記し、特記のない年齢は数え年とする。 お栄は当時ロシア人の居留地になっていた長崎市稲佐のロシア将校クラブで洋妾として働いたのち、ロシア艦隊旗艦の艦長に気に入られて22歳で渡露。ウラジオストクに滞在したのち、31歳で帰国した。 翌年の1891年にお忍びで長崎に上陸したロシア皇太子ニコライらをもてなし、一説には寝室を共にしたとされる。
有森 新吉(ありもり しんきち、安政7年1月26日(1860… 有森 新吉(ありもり しんきち、安政7年1月26日(1860年2月17日) - 昭和8年(1933年)11月18日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→庚申倶楽部)。実業家。ジャーナリスト。教育者。 岡山藩士有森吉清の長男として岡山に生まれる。岡山藩藩学、温知学校、岡山変則中学校などで学んだ後、1879年(明治12年)に商法講習所(現在の一橋大学)に入学した。1881年(明治14年)、専修学校(現在の専修大学)経済科に転じた。専修学校卒業後の1882年(明治15年)に東京大学に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。その後、ドイツに留学し、イェーナ大学、ベルリン大学、テュービンゲン大学、シュトラスブルク大学で学んで、1891年(明治24年)に法学博士号を得た。
山鹿 旗之進(やまが はたのしん、1860年2月16日〈安政… 山鹿 旗之進(やまが はたのしん、1860年2月16日〈安政7年1月25日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月1日)は、日本のメソジストの牧師、教育者、文筆家。 万延元年(1860年)に弘前藩の江戸藩邸に生まれる。津軽に帰郷し藩学を経て、東奥義塾に入り、ジョン・イングと本多庸一の指導を受ける。1877年(明治10年)、イングより洗礼を受ける。 弘前教会資産係を経て、勧士になる。1879年、横浜山手の美會神学校開校と同時に入学する。1887年に東京英和学校を卒業すると、母校の教師になる。 1887年、長老の按手礼を受け、名古屋中央教会に赴任し、岐阜・高山の開拓伝道を行う。名古屋清流女学校の創設にも関わる。
田代 正(たしろ ただし、1860年2月16日(安政7年1月… 田代 正(たしろ ただし、1860年2月16日(安政7年1月25日) - 1918年(大正7年)1月30日)は、日本の明治期から大正期における外科医。長崎医学専門学校長、長崎県医師会長も勤め同県の医術発展と医療普及に尽くした。越前国出身。 1860年2月16日(安政7年1月25日)、越前坂井郡棗村(現福井県福井市)に福井藩士の子として生まれる(名前はただし、又はただすと資料により異なる)。1871年(明治4年)福井藩中学校に入学し、1874年(明治7年)第一大区医学校に入学した。1882年(明治15年)東京大学医学部を卒業し、同期には青山胤通・猪子止戈之助・西郷吉義・佐藤三吉等がいた。 大学卒業後長崎県立長崎医学校(現長崎大学医学部)教諭を命じられ、以降同県検疫官・長崎病院医師等を兼ね、1889年(明治22年)長崎医学校が第五高等中学校医学部となると同校教諭となり長崎病院次長兼外科部長に就任した。
山口 俊一(やまぐち しゅんいち、1860年2月16日(万延… 山口 俊一(やまぐち しゅんいち、1860年2月16日(万延元年1月25日)- 1933年(昭和8年)10月1日)は、明治から大正期の実業家・政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都府加佐郡新舞鶴町長。幼名・浅吉。 丹波国天田郡細見辻村(京都府天田郡細見村細見辻、三和村、三和町を経て現福知山市)で、農業、酒造業・山口覚兵衛、てい の長男として生まれる。1876年(明治9年)京都に出て、林正躬、横井忠直から漢学を、吉田健吾から数学を学び、京都府中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)にも通った。1879年(明治12年)大阪で牧田修蔵から法律学を学んだ。 1881年(明治14年)に帰郷し、同年11月、細見辻村戸長に就任。
本郷 房太郎(ほんごう ふさたろう、万延元年1月24日(18… 本郷 房太郎(ほんごう ふさたろう、万延元年1月24日(1860年2月15日) - 昭和6年(1931年)3月20日)は、日本の陸軍軍人。軍事参議官・青島守備軍司令官や第1・第17師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功三級。軍を退いてからは久邇宮宮務監督や大日本武徳会長を務める。
是永 歳太郎(これなが としたろう、1860年2月15日(万… 是永 歳太郎(これなが としたろう、1860年2月15日(万延元年1月24日)- 1920年(大正9年)12月29日)は、明治から大正前期の警察官、農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県西国東郡高田町長。名・直房、通称・歳太郎。 豊後国国東郡、のちの大分県西国東郡高田町(現豊後高田市)で、副里正の家に生まれる。漢学を修めた。 1877年(明治10年)西南戦争後に警察官となり、大分警察署(現大分中央警察署)勤務、鶴崎葉派出所詰を務めて退職。故郷の高田で書籍・文具商を経営。当時の高田警察署(現豊後高田警察署)長・赤鉾文太郎の勧誘で同署書記を務めた。 1889年(明治22年)町村制施行により高田町が発足し、同年6月、初代町長となり1899年(明治32年)8月まで在任。
湯浅 初子(ゆあさ はつこ、安政7年1月23日〈1860年2… 湯浅 初子(ゆあさ はつこ、安政7年1月23日〈1860年2月14日〉 - 1935年〈昭和10年〉3月13日)は、明治時代の社会事業家。徳富蘇峰・蘆花の姉で、衆議院議員・湯浅治郎の後妻となった。同志社総長や国際基督教大学初代学長を務めた湯浅八郎は息子。 徳富一敬・久子の四女として、安政7年1月23日(1860年2月14日)肥後国水俣(現・熊本県水俣市)に生まれる。姉が3人いる上、夫妻は姪も養女としており、5人目には男子の誕生を望んでいたが女子であったため、失意の一敬はどういうわけか初と名づけた。その後に生まれた男子が猪一郎(蘇峰)と健次郎(蘆花)である。 12歳の時、熊本に住む叔母・横井つせ子(横井小楠の未亡人)のもとへ預けられることとなり、いとこの時雄・みやと一緒に暮らし始めた。
高岡 直吉(たかおか ただよし、安政7年1月22日(1860… 高岡 直吉(たかおか ただよし、安政7年1月22日(1860年2月13日) - 昭和17年(1942年)9月1日)は、日本の内務省官僚・政治家。鹿児島県知事、島根県知事、宮崎県知事、初代札幌市長、錦鶏間祗候。勲二等瑞宝章。津和野藩出身。 北海道帝国大学総長である高岡熊雄は実弟にあたる。甥に高岡周夫がいる。 1860年、津和野藩士・高岡道敬、英の嫡男として石見国鹿足郡後田村(現・島根県鹿足郡津和野町後田)に生まれる。藩校養老館で学び、後に浜田県立英学所で学んだのち、官立東京英語学校から札幌農学校に進んだ。同校を卒業後の1882年(明治15年)山口県御用掛となり、1885年(明治18年)山口県立農学校の初代校長に就任する。
岡見 彦蔵(おかみ ひこぞう、万延元年(1860年)2月10… 岡見 彦蔵(おかみ ひこぞう、万延元年(1860年)2月10日 - 昭和7年(1932年)3月25日)は、日本の農学者。目黒の自然園開設者。 岡見彦蔵は九州中津藩士・岡見清通の三男として、1860年(万延元年)2月10日に東京築地に生まれ、幼名は秀作であった。 叔父の岡見彦三/清熙(慶應義塾の起源である一小家塾創設者)が1862年に亡くなり、実子が無かったので秀作が3歳で養子に入り、以降彦蔵を名乗るようになった。築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)で学ぶ。1876年(明治9年)、農学者津田仙が創立した農学社農学校で学び、翌1877年(明治10年)には横浜のバラ学校に入って英語を学んだ。この学校は宣教師ヘボンが起こしたヘボン塾をジョン・クレイグ・バラが継承したものだった。
小野 芳彦(おの よしひこ、1860年〈万延元年〉2月7日 … 小野 芳彦(おの よしひこ、1860年〈万延元年〉2月7日 - 1932年〈昭和7年〉3月2日)は、和歌山県の教育者・郷土史家。 旧制和歌山県立新宮中学校(現・和歌山県立新宮高等学校)で長きにわたって教壇に立ち、当地での尊敬の念を集めた。郷土史家としては、熊野新宮の本願庵主梅本家に秘伝であった編年体の記録を発掘し『熊野年代記』としてまとめたほか、没後に刊行された遺稿集『小野翁遺稿熊野史』(以下、『熊野史』)は、熊野の歴史と信仰の近代的研究の方向性を示したものとして評価されている。 小野は、万延元年(1860年)2月7日、和歌山県牟婁郡新宮町に生まれた。1875年(明治8年)5月、16歳で新宮小学校の教授手伝として勤務を始め、同年9月より当時の新宮にあった小学学科伝習所に入所し、小学科教授法を学んだ。
名倉 誾一郎(なぐら ぎんいちろう、1860年2月5日(安政… 名倉 誾一郎(なぐら ぎんいちろう、1860年2月5日(安政7年1月14日) - 1930年6月20日もしくは6月22日)は日本の植物研究家である。三河地方の植物調査を行った。 三河国西尾(現在の愛知県西尾市)に福島藩(のち重原藩)の貝吹陣屋代官家に生まれた。はじめは医者を志して東京の慶應義塾や京都で学ぶが兄をなくし家を継ぐために西尾に戻った。愛知県水産試験場の嘱託となり、岡村金太郎の指導を受けて、「尾三沿海植物調査」などを発表した。牧野富太郎の指導も受け、愛知県の陸上植物の研究を行い、『愛知県植物志料』を発表した。 ミカワタヌキモなどを発見し、ミカワタヌキモは、牧野によってUtricularia nagurai Makino(Utricularia gibba L. = イトタヌキモのシノニム)と命名された。
石川 千代松(いしかわ ちよまつ、1860年1月30日(万延… 石川 千代松(いしかわ ちよまつ、1860年1月30日(万延元年1月8日) - 1935年(昭和10年)1月17日)は、日本の動物学者。進化論を日本に紹介したことで知られる。 1909年には、琵琶湖岸の滋賀県水産試験場の池でコアユの飼育に成功し [リンク切れ]、全国の河川に放流する道を開いた。 遡って、ドイツ留学から帰国した1889年(明治22年)秋、帝国博物館学芸委員を兼務し、1900年からは天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。1907年頃、石川はハーゲンベックから上野動物園にじらふ(きりん)を求め、日本で初めて見られるようにした。後に、列車での輸送許可を得てなかったとされ、解雇された。
横地 石太郎(よこち / よこじ いしたろう、1860年1月… 横地 石太郎(よこち / よこじ いしたろう、1860年1月28日(万延元年1月6日) - 1944年(昭和19年)5月27日)は、日本の教育者、考古学研究家。山口高等商業学校名誉教授。族籍は石川県士族。 夏目漱石の小説『坊つちやん』に登場する「赤シャツ」のモデルとされることがあるが、異論もある(後述)。 加賀国石川郡金沢(現・石川県金沢市)の与力町にて加賀藩士横地大十郎の長男として生まれる。金沢小学校を経て1874年(明治7年)より金沢英学校、1875年(明治8年)9月より東京の旧藩主前田邸学問所にて学ぶ。1876年(明治9年)9月に東京英語学校に入学し、大学予備門を経て、1881年(明治14年)に東京大学理学部入学。