津田 健治(つだ けんじ、1891年(明治24年)9月25日… 津田 健治(つだ けんじ、1891年(明治24年)9月25日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 山口県吉敷郡宮野村(現山口市)に生まれる。1909年(明治42年)3月、山口県立農業学校農科を卒業し、1910年(明治43年)3月、山口県農事試験場研究科を修了する。同年4月、宮野村農会技手兼書記を拝命し、11月、現役志願兵として入隊する。1915年(大正4年)2月、台湾総督府巡査となり、1918年(大正7年)府施行の普通文官試験に合格。嘉義庁警務課勤務、嘉義庁庶務課勤務、台南州斗六郡勤務、新化郡、曽文郡、嘉義郡各庶務課長、台南州地方課地方係長、同州文書課長を経て、1940年(昭和15年)3月、台南市助役に就任し、1941年(昭和16年)6月、台北州文山郡守に就任した。
兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉… 兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉3月27日 - 1957年〈昭和32年〉9月3日)は、山口県出身の日本の俳人、書家、弁護士。本名は理蔵。 1890年(明治23年)に山口県山口市に生まれる。豊浦中学校(現:山口県立豊浦高等学校)時代に俳句を始め、河東碧梧桐が撰者をしていた新聞『日本』へ投句。私立興風中学(現:山口県立小野田高等学校)に転校し卒業、この頃遊行中の碧梧桐本人と出会い傾倒する。第五高等学校(現:熊本大学)へ進学する頃には荻原井泉水の『層雲』に投句を始め、若き新傾向俳人として注目される。碧梧桐が1915年(大正4年)に『海紅』を創刊すると海紅にも投句を始める。この頃ら層雲の句友、種田山頭火が度々地橙孫の元を訪れるようになり、山頭火の放浪や生活の面倒などを生涯に渡り手助けすることとなる。
友清 歓真(ともきよ よしさね、1888年10月9日 - 1… 友清 歓真(ともきよ よしさね、1888年10月9日 - 1952年2月15日)は、日本の宗教家である。神道天行居の創設者として知られる。出生名は九吾。ほかに、天行、黙山、如甕、磐山などの別号も名乗った。 1888年(明治22年)10月9日、山口県吉敷郡井関村佐山(現:山口市)に生まれる。父は裕蔵・母はむめ。次男であった。出生名は九吾。友清家は、出入りの職人や端女がいる程度には生活に余裕があったが、1895年(明治28年)、歓真が8歳のとき父が急死したことにより、家運は転落した。当時の歓真は病弱な文学少年であり、家塚高志は、「幼時より病弱で大切に育てられたことと、父の急死で家計が一時に崩れたということ」が彼のパーソナリティ形成に影響を与えているのではないかと論じている。
伊藤 三樹三(いとう みきぞう、1888年〈明治21年〉3月… 伊藤 三樹三(いとう みきぞう、1888年〈明治21年〉3月13日 - 1961年〈昭和36年〉1月29日)は、山口県出身の政治家。衆議院議員、山口県会議長、徳地町長などを務めた。 山口県佐波郡柚野村(現・山口市)生まれ。1907年(明治40年)広島市の修道中学校(現:修道中学校・高等学校)卒業。柚野村長、佐波郡会議長、山口県会議員、山口県会副議長、山口県会議長、徳地町長を歴任した。1942年(昭和17年)4月30日の第21回衆議院議員総選挙に山口県2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け、立候補し当選。衆議院議員を一期務めた。 戦後は公職追放となった。
村田 四郎(むらた しろう、1887年9月2日 - 1971… 村田 四郎(むらた しろう、1887年9月2日 - 1971年2月7日)は、日本の神学者、牧師、明治学院5代目院長。 村田沰冶の四男として山口県吉敷郡山口に生まれた。1911年6月明治学院神学部を卒業した。その後1912年9月に渡米してオーバン神学校(英語版)で学んだ。1916年に帰国し、大阪同志館神学校教授に就任した。1918年に母校の明治学院に来任し、翌年中学部長となる。しかし、1920年に起きた中学部同盟休校事件の責任をとり部長を辞任し、朝鮮の大邱教会牧師となった。 1925年に明治学院に戻り、神学部で基督教史を担当した。1930年の明治学院神学部廃止後日本神学校教授となり、1933年に同校校長となる。
高橋 忠治(たかはし ちゅうじ、1885年(明治18年)10… 高橋 忠治(たかはし ちゅうじ、1885年(明治18年)10月16日 - 1964年(昭和39年)1月24日)は、日本の海軍軍人、山口市長。最終階級は海軍大佐。 山口県吉敷郡大内村(現在の山口市)出身。高木権次郎の二男として生まれ、高橋千代造の養子となった。1907年(明治40年)、海軍兵学校を卒業。1908年(昭和41年)、海軍少尉に任官し、1929年(昭和4年)に海軍大佐となった。その間、舞鶴鎮守府副官、大湊要港部副官、海軍軍令部員、菱艦長、海軍水雷学校教官、磐手副長、第7駆逐隊司令、第1駆逐隊司令、第29駆逐隊司令を歴任した。1931年(昭和6年)、予備役。 在郷軍人会山口連合分会副会長を経て、1935年(昭和10年)に山口市長に選出された。
中野 治介(なかの じすけ、1878年(明治11年)5月7日… 中野 治介(なかの じすけ、1878年(明治11年)5月7日 - 1951年(昭和26年)3月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、山口市長。弁護士。 山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)出身。1898年(明治31年)に裁判所書記登用試験に合格し、裁判所書記となった。1903年(明治36年)に弁護士試験に合格して弁護士となり、後には山口弁護士会会長に選出された。山口町会議員、山口県会議員、同議長を歴任。 1933年(昭和8年)、山口市長に選出された。その後、1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、山口土地建物株式会社監査役を務めた。
林 滝野(はやし たきの、1877年(明治10年) - 19… 林 滝野(はやし たきの、1877年(明治10年) - 1966年(昭和41年)4月3日)は、山口県佐波郡徳地町(現在の山口市徳地)出身の雑誌編集者。雑誌「明星」の初期の編集発行人。与謝野鉄幹、正富汪洋の妻。 1877年(明治10年)、山口県佐波郡徳地町(現在の山口市徳地伊賀地新田)にある旧家に生まれた。父親は林小太郎。私立徳山女学校の在学中には教員だった与謝野鉄幹に処女を捧げ、教師と女生徒の間の恋愛関係に陥った。年配者が多かった徳山女学校の教員の中で、鉄幹は数少ない若手教員だった。滝野は16歳だった1893年(明治26年)に徳山女学校を卒業している。 林小太郎は鉄幹が林家の養子になるなら結婚を認めるつもりだったが、田舎住まいなどまっぴらごめんの鉄幹は小太郎の申し出を拒否。
岡村 勇二(おかむら ゆうじ、1872年〈明治5年〉9月11… 岡村 勇二(おかむら ゆうじ、1872年〈明治5年〉9月11日 - 没年不明)は、日本の地方官吏。 明治から大正にかけて、山口県の地方官吏として活躍し、熊毛郡や阿武郡、都濃郡の郡長を務めた。阿武郡長在任時には長門峡の発見・開発に尽力したことで知られる。 1872年〈明治5年〉9月11日、山口県吉敷郡大内村(現在の山口市)で、森重勇雄の四男として生まれる。のちに岡村家に養子に入る。 1898年(明治31年)に山口県属となる。庶務課、山口県教育会などの業務を担当したのち、1913年(大正2年)5月に熊毛郡の郡長に着任。1915年(大正4年)7月に阿武郡の郡長に転任する。 阿武郡長時代の1918年(大正7年)9月には、当時郡制の廃止が議論されていたことから、阿武郡の歴史をまとめた「阿武郡志」の編纂を計画。
吉國 マツ(よしくに マツ、1870年3月11日(明治3年2… 吉國 マツ(よしくに マツ、1870年3月11日(明治3年2月10日)- 1979年4月11日)は長寿日本一であった女性。晩年は大分県に居住していた。 現在の山口市に生まれる。広島市に移って呉服商の一人娘として育つ。結婚するも離婚し、2度目の夫とは死別した。子供はなく、1945年に広島で被爆し、1948年から大分県別府市の別府老人ホームに入所していた。好き嫌いはなく果物を好み、酒もたしなんだ。106歳時点でもトイレも入浴も介助なしで行っていた。 1976年9月発表の全国高齢者名簿では8位であった。 1977年8月、大阪府の川平小梅の死去により、107歳で長寿日本一の女性となり、1978年、新潟県の佐藤増太郎の死去により長寿日本一となる。
大村信行(おおむら のぶゆき、1865年1月17日〈元治元年… 大村信行(おおむら のぶゆき、1865年1月17日〈元治元年12月20日〉 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。従四位勲三等功四級 1865年1月17日(元治元年12月20日)長州藩大村久兵衛の次男として生まれる。父久兵衛はかつて、奇兵隊と常備軍の小郡付近での戦闘において常備軍側に加わり戦闘に参加した。明治の初め頃には少年を集めて郷勇隊を編成し、武術の鍛錬などを行っていた。
藤井 幸槌(ふじい こうつち、1864年2月12日〈文久4年… 藤井 幸槌(ふじい こうつち、1864年2月12日〈文久4年1月5日〉- 1927年〈昭和2年〉4月17日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。藤井由助の二男として生れる。1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、歩兵少尉に任官、歩兵第10連隊付となる。近衛歩兵第1連隊付などを経て、1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を卒業した。 1894年(明治27年)4月、陸士教官心得となり、後備歩兵第3連隊中隊長心得、陸士教官、台湾総督府参謀、同陸軍部課員、参謀本部第3部員などを経て、1900年(明治33年)10月、陸軍少佐に進級し近衛歩兵第4連隊付となった。
松田 協輔(まつだ きょうすけ、文久2年8月1日(1862年… 松田 協輔(まつだ きょうすけ、文久2年8月1日(1862年8月25日) - 没年不詳)は、日本の検事。広島県尾道市長。 周防国佐波郡串村(現在の山口県山口市)出身。1885年(明治18年)に司法省法学校を卒業し、翌年に広島始審裁判所詰の検事補となった。1887年(明治20年)、判事登用試験に合格し、検事となった。以後、広島地方裁判所検事、尾道区裁判所検事、広島控訴院検事、佐賀地方裁判所検事正、名古屋控訴院検事、仙台地方裁判所検事正、長崎控訴院検事、福岡地方裁判所検事正、名古屋地方裁判所検事正、樺太地方裁判所検事正、広島地方裁判所検事正、長崎地方裁判所検事正、安濃津地方裁判所検事正、大審院検事などを歴任した。
成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、安政5年6月23日〈1858年… 成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、安政5年6月23日〈1858年8月2日〉 - 大正8年〈1919年〉3月4日)は、日本の牧師・教育者。日本における女子高等教育の開拓者の1人である。族籍は山口県士族。 周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市吉敷赤田大形)に生まれる。成瀬小右衛門の長男。成瀬家はもとは河崎姓で、仁蔵の父の代に成瀬姓を名乗る。父は長州藩毛利家の一門・吉敷毛利家に仕える下級武士。仁蔵の母・歌子は隣村の大歳村出身で、藩士である秦家の娘。 仁蔵は幼少時は郷校の憲章館に学び、維新後の1874年(明治7年)には調剤師として医家に住み込む。この年には父が死去し、山口の教員養成所(山口師範学校)の2期生となる。
沢山 保羅(さわやま ぽうろ、嘉永5年3月22日(1852年… 沢山 保羅(さわやま ぽうろ、嘉永5年3月22日(1852年5月10日) - 明治20年(1887年)3月27日)は、日本のキリスト教牧師、教育者。「保羅」は使徒パウロに由来し、本名は馬之進。日本で按手礼を受けた最初の牧師であり、梅花女学校(現在の学校法人梅花学園)を設立した。 周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市吉敷赤田大形)に生まれる。父は長州藩士沢山源之丞。父源之丞は吉敷毛利家の毛利元一に仕える下級武士であった。同郷に先輩に内務大臣の内海忠勝(豪助)がいる。 1858年に憲章館に入学し、四書五経の漢学、書道、武術、礼式などを学ぶ。同輩が服部一三で、6年後輩が成瀬仁蔵である。1867年(慶応3年)まで憲章館で学ぶ。
寺内 正毅(てらうち まさたけ、旧字体: 寺內 正毅、185… 寺内 正毅(てらうち まさたけ、旧字体: 寺內 正毅、1852年3月25日〈嘉永5年閏2月5日〉 - 1919年〈大正8年〉11月3日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人、政治家。軍人としての階級は元帥陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功一級。爵位は伯爵。 書の雅号は桜圃、魯庵。「ビリケン宰相」の異名を持つ。 陸軍大臣(第7代)、外務大臣臨時兼任(第2次桂内閣・寺内内閣)、韓国統監(第3代)、朝鮮総督(初代)、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣(第19代)などを歴任した。 明治から大正にかけて陸軍軍人として活躍し、第1次桂内閣では児玉源太郎の後任として陸軍大臣に就任した。以来、第1次西園寺内閣や第2次桂内閣でも陸軍大臣を務めた。
服部 一三(はっとり いちぞう、1851年3月13日(嘉永4… 服部 一三(はっとり いちぞう、1851年3月13日(嘉永4年2月11日) - 1929年(昭和4年)1月25日)は明治時代の日本の文部・内務官僚。族籍は山口県士族。 東京英語学校、東京大学法・理・文各学部綜理(1880年(明治13年)6月4日)、東京大学予備門(いずれも東京大学教養学部の前身)校長・予備門長、大阪専門学校(京都大学の前身の1つ)綜理、日本地震学会初代会長、東京大学法学部初代学部長、共立女子職業学校(共立女子中学校・高等学校の前身)校長、文部省普通学務局長、岩手・広島・長崎・兵庫の各県知事、貴族院議員を歴任した。 長州藩士槍術指南役渡辺兵蔵の三男として周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市)で誕生する。
宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉… 宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉永2年11月10日〉- 1927年〈昭和2年〉11月10日)は、明治から昭和初期の日本陸軍の軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。 長州藩士・藤村太郎右衛門の四男として生まれ、宇佐川久平の養子となる。伏水教導隊に入り、下士官試補、権曹長、曹長と昇進し、1874年(明治7年)6月、陸軍戸山学校を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官。以後、歩兵第14連隊付となり、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征した。歩兵第24連隊大隊副官、歩兵第1旅団参謀、同副官、近衛歩兵第1旅団副官、第1師団参謀、歩兵第17連隊付、監軍部副官、近衛師団参謀などを歴任し、日清戦争には第1軍参謀として出征し、田村怡与造の後任として同軍参謀副長となった。
本間 源三郎(ほんま げんざぶろう、1846年(弘化3年1月… 本間 源三郎(ほんま げんざぶろう、1846年(弘化3年1月) - 1908年(明治41年)7月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 周防国吉敷郡嘉川村(のち山口県吉敷郡嘉川村、現・山口市)生まれ。嘉川村戸長、同村長、山口県会議員、吉敷郡会議員、同参事会員、同議長となる。また、山口県農会名誉会員、同幹事、同代表者となった。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において山口1区から国民協会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙は不出馬。1908年に死去した。
内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14… 内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14年8月19日〉- 1905年〈明治38年〉1月20日)は、日本の武士、官僚、政治家。内務大臣(第16代)、長崎県令、三重県令、兵庫県知事(第9代)、長野県知事(第2代)、神奈川県知事(第3代)、大阪府知事(第8代)、京都府知事(第8代)、会計検査院長、貴族院議員などを歴任。吉田治助の四男。長州藩士である。従三位勲三等、死後に従二位勲一等旭日大綬章。男爵。 周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市)出身。長州藩士として禁門の変に参加。維新後新政府に登用され、岩倉使節団に大使随行員として参加。地方官として長崎、三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各県令・知事を歴任。
野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13… 野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日)- 1927年(昭和2年)12月23日)は、幕末から昭和初期にかけての日本の武士(長州藩士)、官僚、政治家、書家。正二位勲一等 男爵。幼名は範輔、字は絢夫、号は右仲、素軒。 1842年(天保13年)5月18日に長州藩士 有地留之助の次男として周防国吉敷郡長野村(現在の山口県山口市)に生まれる。はじめ、萩の藩校明倫館で学ぶ。1859年(安政6年)4月、江戸へ行き、長州藩上屋敷内の有備館で学ぶ。さらに儒学者 塩谷宕陰から漢籍・経書・歴史を、書家 小島成斎から書道を学ぶ。1862年(文久2年)に帰国して明倫館舎長となる。 1863年(文久3年)10月に同じく長州藩士 野村正名の養子となり、1866年(慶応2年)2月、家督を継ぐ。
吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしと… 吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしとみ とうべえ)、天保9年1月19日(1838年2月13日) - 大正3年(1914年)1月18日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の実業家、政治家。幼名は美之助。 周防国矢原村(現・山口県山口市湯田)の裕福な豪農・庄屋に生まれ、井上聞多(後の井上馨)の幼馴染でもあり、尊王攘夷運動及び倒幕運動に参加。農民ではあるが大地主として裕福だった吉富は高杉晋作の奇兵隊に資金提供する他、鴻城軍(長州藩諸隊)を組織し井上を総裁に据える。 明治維新後は長州閥の一員として活動。木戸孝允に認められて明治3年(1870年)に上京して官吏となり士族に列せられ吉富簡一と改名するが、翌明治4年(1871年)に廃藩置県のあおりで長州藩への多額の貸し付けが焦付き、家計の立て直しの為に山口県に帰る。
山尾 庸三(やまお ようぞう、1837年11月5日〈天保8年… 山尾 庸三(やまお ようぞう、1837年11月5日〈天保8年10月8日〉- 1917年〈大正6年〉12月22日)は、日本の政治家。子爵。 長州藩重臣で寄組繁沢氏の給領地庄屋であった山尾忠治郎の二男。周防国吉敷郡二島村(現:山口県山口市秋穂二島)出身。木戸幸一(太平洋戦争時の昭和天皇側近)の外祖父(長女の寿栄が木戸の母)に当たる。 萩藩寄組である繁沢石見に経理の才を認められ奉公(陪臣)に上がる。1852年(嘉永5年)、江戸に赴き、同郷の桂小五郎に師事し、その後江川塾の門弟となる。 1861年(文久元年)、幕府の船・亀田丸に乗船し、アムール川流域を査察。帰国後は箱館に滞在して武田斐三郎に師事した。1862年(文久2年)、英国公使館焼き討ち事件に参加したほか、塙忠宝を伊藤博文とふたりで暗殺した。
井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年1… 井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年11月28日〉- 1915年〈大正4年〉9月1日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。 長州藩の藩主側近から尊王攘夷運動に参加し、イギリスへの密航をきっかけに開国論者となり、長州藩における倒幕運動の中心人物として活動した。太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、長州閥の重要人物となった。第1次伊藤内閣成立により外務卿改め外務大臣を務め、「鹿鳴館外交」を展開し不平等条約改正に臨み、黒田内閣で農商務大臣、第2次伊藤内閣で内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。 幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)に改名した。
杉 孫七郎(すぎ まごしちろう、1835年2月13日〈天保6… 杉 孫七郎(すぎ まごしちろう、1835年2月13日〈天保6年1月16日〉- 1920年〈大正9年〉5月3日)は、日本の宮内官僚。諱は重華。字は子華。通称は徳輔・忠次郎・少輔九郎。号は松城・聴雨。 植木五郎右衛門の次男として周防国吉敷郡御堀村(現:山口県山口市)で生まれる。母は周布政之助の姉である。杉考之進盛倫の養子となり、藩校明倫館で学んだ他、吉田松陰にも師事した。藩主の小姓を務めた後、1861年(文久元年)、藩命により江戸幕府の遣欧使節である竹内保徳・松平康英らに従って欧米諸国を視察する。正式の使節団員ではなく、賄方並小使雇人の杉徳輔としての同行だった。帰国後、下関戦争では井上馨と共に和議に尽くし、元治の内乱では高杉晋作を支持しつつも、保守派との軍事衝突には最後まで反対した。
長松 幹(ながまつ つかさ / みき、1834年2月9日〈天… 長松 幹(ながまつ つかさ / みき、1834年2月9日〈天保5年1月1日〉 - 1903年〈明治36年〉7月16日)は、幕末の長州藩士、明治期の歴史学者・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。諱・文仲、字・子固。通称・大蔵、文助、文輔。号・秋琴。 周防国吉敷郡矢原村(現山口市矢原)で医者・長松玄厚の長男として生まれる。大田稲香の指導を受け、嘉永6年(1853年)京都に遊学し、山本読書室に入り山本亡羊から本草学を学ぶ。安政5年(1858年)以降、久坂玄瑞らと国事に奔走。元治元年(1864年)帰藩し右筆に登用され、その後、儒役雇、雇医員を経て、編輯局で尊王事績の編集に従事。鴻城隊に加わり、戊辰戦争中は軍中日誌を担当した。
伊藤 房次郎(いとう ふさじろう、1831年8月12日〈天保… 伊藤 房次郎(いとう ふさじろう、1831年8月12日〈天保2年7月5日〉 - 1907年〈明治40年〉2月3日)は、日本の実業家・地方政治家。山口県赤間関市(現・下関市)の初代市長。慶長から代々薬種商を営む亀屋伊藤家の当主。 下関市成立期において公職・要職を歴任。商業活動、地方自治、商工会、社会事業など、老舗の家業運営と並行し多方面で活動。地域社会の行政・経済に広く携わった人物である。 伊藤房次郎は、山口県出身。山口市中市古熊・河野善九郎の次男。伊藤源左衛門の養子となり、薬種商の老舗「亀屋喜三郎商店」の家督を相続。当家は鎌倉時代の嘉禎年間に、祖先が長門國目代として京都から下向したことに始まり、慶長から薬舗を開業したと伝わる亀屋伊藤家である 1863年(文久3年)攘夷の令にあたり、赤間関在番所の用務を任命される。
大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈18… 大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈1825年6月18日〉 - 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉)は、幕末期の日本の官僚・洋学者。維新の十傑の一人。旧姓は村田(むらた)、幼名は宗太郎、通称は蔵六(ぞうろく)、良庵(または亮庵)、のちに益次郎(ますじろう)。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。 戊辰戦争では東征大総督府補佐として勝利への立役者となった。太政官制において兵部省初代大輔(次官・長官の卿は皇族が就いたため、事実上の最高責任者)を務め、日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる。兵部省は陸軍省・海軍省の前身であり、教え子からは伊藤雋吉ら海軍の重鎮も輩出しており、近代日本軍全体に対する創業の功績も大きい。
山根 孝中(やまね こうちゅう、文政6年(1823年) - … 山根 孝中(やまね こうちゅう、文政6年(1823年) - 明治31年(1898年))は、幕末から明治時代にかけて活躍した医師。 文政6年(1823年)、周防国吉敷郡矢原村(現在の山口市)にて医家・重嶺泰安の次男として出生。後に藩の一代雇医で叔父の山根文季の養子となる。安政5年(1858年)、吉田松陰の松下村塾に36歳で入塾。吉田松陰時代の松下村塾の塾生としては最年長だった。しかし同年に萩にもコレラが流行し、コレラに罹患した文季が1858年8月に57歳で他界。このため家督を継ぎ、萩・香川津の自宅に村医者として開業した。文久3年(1863年)眼科医としての評判により、養父と同じく藩から一代雇医に取り立てられる。
富永 有隣(とみなが ゆうりん、文政4年5月14日(1821… 富永 有隣(とみなが ゆうりん、文政4年5月14日(1821年6月13日) - 明治33年(1900年)12月20日)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士・儒学者。諱は徳、後に悳彦。通称は弥兵衛。有隣は字で、『論語』の「徳は孤ならず必ず隣あり」から命名したとされる。 文政4年(1821年)、周防国吉敷郡陶村(現在の山口県山口市)にて誕生。 幼少の頃に天然痘にかかり右目を失明する。9歳で長州藩藩校・明倫館に入り、13歳で藩世子(藩主嫡男)に『大学』を講じた。成人後、小姓を務めるが、他人と打ち解けなかったために、同僚・親族らに憎まれ、嘉永5年(1852年)に冤罪で見島に流され、嘉永6年(1853年)には萩野山獄に移された。
白根 多助(しらね たすけ、文政2年5月6日〈1819年6月… 白根 多助(しらね たすけ、文政2年5月6日〈1819年6月27日〉 - 1882年〈明治15年〉3月15日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚。埼玉県令。旧姓・太田、諱・翼、通称・多助、変名・大田翼、号・梅園。 周防国吉敷郡吉敷村佐畑(現山口県山口市)で、長州藩士・太田直猷の七男として生まれ、白根兼清の養子となる。藩では美禰郡宰として出仕し、さらに大坂藩邸で勤務した。文久3年(1863年)3月、中山忠光らの長州移送に尽力した。文久4年(1864年)正月、帰藩後に所帯方役に就任し会計を担当。以後、会計庶務方、美禰部署管事(代官)、山口藩会計大属などを歴任し、藩財政の維持に尽力した。 明治政府に出仕し、明治4年(1871年)11月、埼玉県権参事に就任。
小幡 高政(おばた たかまさ、1817年12月26日(文化1… 小幡 高政(おばた たかまさ、1817年12月26日(文化14年11月19日) - 1906年(明治39年)7月27日)は、幕末の長州藩士。明治時代の官吏。実業家。銀行家。宇都宮県参事、小倉県参事、同権令。諱は高政、通称は又介、蔵人、図書、彦七、雅号は缾山、并山。本姓は祖式。 長州藩士。祖式正良の子として周防国吉敷郡恒富村(山口県吉敷郡黒川村、平川村を経て、現山口市)に生まれ、1844年(弘化元年1月)小幡定一の養子となる。1850年(嘉永3年8月)家督を相続し、非常手当表番頭、1851年(嘉永4年)大組物頭弓頭役、1856年(安政3年)手廻物頭鉋砲頭役、1858年(安政5年)萩町奉行役、江戸留守居役などを歴任した。
林 勇蔵(はやし ゆうぞう、文化10年7月16日(1813年… 林 勇蔵(はやし ゆうぞう、文化10年7月16日(1813年8月11日) - 明治32年(1899年)9月24日)は幕末明治期の長州藩/山口県の豪農。 文化10年(1813年)7月16日、周防国吉敷郡矢原村(現山口市)に生まれ、13歳で同郡上中郷(現山口市小郡町)の林家の養子となる。林家は、延宝7年(1679年)に四代・文左衛門が初めて上郷村庄屋役を勤めたのを契機に、以後代々庄屋役および小郡宰判大庄屋役などを歴任して幕末に至った。勇蔵は林家第十代当主にあたり、天保12年(1841年)上中郷庄屋、安政2年(1855年)小郡宰判大庄屋となった。 元治元年(1864年)12月15日、高杉晋作らが功山寺で挙兵すると、勇蔵はこれを金銭的に支援する。
石川 佳純 は、山口県山口市出身の元卓球選手、スポーツキャス… 石川 佳純 は、山口県山口市出身の元卓球選手、スポーツキャスター、解説者。愛称はかすみん。身長157cm。体重49kg。血液型O型。左利き。両面裏ソフトドライブ主戦型。ITTF世界ランキング最高位は3位。段級位は9段。全農所属。Tリーグは木下アビエル神奈川に所属しており背番号は7であった。
田中 陽子 は、山口県山口市出身の女子サッカー選手。レノファ… 田中 陽子 は、山口県山口市出身の女子サッカー選手。レノファ山口FCレディース所属。ポジションはミッドフィールダー。
山野 りんりん(やまの りんりん、11月30日 - )は日本… 山野 りんりん(やまの りんりん、11月30日 - )は日本の漫画家。射手座のA型。山口県山口市出身、在住。 当初はOLとして会社勤めをしていたが、幼少期からの夢である漫画家を諦めきれずに退社。1998年、集英社の雑誌『ぶ〜けデラックス』において、『サインは春一番』でデビューした。デビュー誌は少女漫画誌であったが、まんがくらぶオリジナルに連載された「はにーすぃーとティータイム」が2001年から2005年まで表紙に採用されるなど同誌の主力作品となったこともあり、現在では集英社の『ぶーけ』や『マーガレット』などの少女誌にも時おり読み切り作品を発表しているものの、4コマ漫画誌に重点を置いた執筆活動をしている。
彩葉 ゆめ(いろは ゆめ、9月20日 - )は、宝塚歌劇団花… 彩葉 ゆめ(いろは ゆめ、9月20日 - )は、宝塚歌劇団花組に所属する娘役。 山口県山口市、山口大学教育学部附属山口中学校出身。身長162cm。愛称は「ゆめみっち」、「YUME」。 2022年4月、宝塚音楽学校に入学。 2024年3月、宝塚音楽学校を卒業し、第110期生として宝塚歌劇団に首席入団。同月、月組宝塚大劇場公演「Eternal Voice 消え残る想い/Grande TAKARAZUKA 110!」で初舞台。公演終了後、組回りを経て2025年3月11日付で花組に配属。 2025年の阪急阪神初詣ポスターモデルに起用。 2025年7月、宝塚大劇場公演「悪魔城ドラキュラ」新人公演で新人公演初ヒロイン。
美和 久百合(みわ ひさゆり、7月21日 - )とは元宝塚歌… 美和 久百合(みわ ひさゆり、7月21日 - )とは元宝塚歌劇団娘役。元花組トップ娘役の人物である。山口県山口市出身。島根大学附属中学校出身。宝塚歌劇団時代の公称身長は160cm。宝塚歌劇団時代の愛称はミワク、一休。 1956年、宝塚音楽学校入学。 1957年、44期生として、宝塚歌劇団に入団。宝塚入団時の成績は52人中26位。初舞台公演演目は『春の踊り』である。 配属組は花、星、花である。 1967年8月、宝塚歌劇団を退団。最終出演公演は花組公演『燦めく星の下に』。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
市原 万起子(いちはら まきこ、2月18日 - )は、FBS… 市原 万起子(いちはら まきこ、2月18日 - )は、FBS福岡放送の報道部記者。 元サガテレビアナウンサー(契約職)。血液型B型。 山口市出身。徳山工業高等専門学校卒業後、オーストラリアへ4年間留学。通訳の資格を取り働いていた。 帰国後、天神エフエムで朝番組のパーソナリティを務め、その後、熊本放送のラジオカー「ミミー号」のキャスタードライバーに採用され、ラジオ番組で活動する。2009年2月、サガテレビに契約アナウンサーとして採用され移籍。以後は夕方の顔として活動した。 サガテレビでは、契約職採用のアナウンサーは任期原則最長3年・延長無しという条件があったことから、2か月延びたものの、2012年3月30日の担当番組放送を以って満期解除となり退社した。
桑野 聖(くわの ひじり、2月12日 - )は、山口県山口市… 桑野 聖(くわの ひじり、2月12日 - )は、山口県山口市生まれのヴァイオリニスト、作曲家、編曲家。 6歳からヴァイオリンを始め、石井洋之助、石井志都子、田中千香士の各氏に師事。山口県立山口高等学校、東京藝術大学音楽学部器楽科卒業。東京藝術大学在学中より、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、宮城フィルハーモニー管弦楽団(現・仙台フィルハーモニー管弦楽団)等のゲストコンサートマスターとして活躍する。 小学生の頃から、プロのヴァイオリニストへの道を歩み、全日本学生音楽コンクールなどにも一位入賞。中学・高校時代にはクラシック以外の音楽にも深く興味を持ち、実はギタリストにもなりたかったが、芸大受験のため、断念。
泉 夏子 は、日本の元女子バレーボール選手である。
伊藤 孝雄(いとう たかお)は、日本の総務官僚。総務省大臣官… 伊藤 孝雄(いとう たかお)は、日本の総務官僚。総務省大臣官房審議官や、総務省関東管区行政評価局長、総務省政策統括官等を歴任した。 山口県山口市出身。1977年 一橋大学法学部卒業、行政管理庁入庁。総務省行政評価局総務課長、総務省大臣官房審議官(行政評価局担当)等を経て、2008年 総務省関東管区行政評価局長。2011年から総務省政策統括官(統計基準担当)として、統計行政の総合調整にあたった。2012年総務省政策統括官(統計基準担当)付国際統計研究官。2023年瑞宝中綬章受章。
河村 知之(かわむら ともゆき)は、日本の作曲家、編曲家、サ… 河村 知之(かわむら ともゆき)は、日本の作曲家、編曲家、サウンドデザイナー。山口県山口市出身。元セガAMサウンド所属。 アイルトン・セナのF1日本グランプリ予選データを音と光で再現した Sound of Honda Ayrton Senna 1989 でエンジン音の再現を担当し、第17回 文化庁メディア芸術祭、2014 カンヌライオンズ 国際クリエイティビティ・フェスティバル ほかを受賞。 厚木市制60周年記念事業 あつぎイメージ プロジェクション アワード 審査員。日本サウンドスケープ協会員。日本音響学会員。
児玉 美紀(こだま みき)は、『着物女子』のデザインテーマで… 児玉 美紀(こだま みき)は、『着物女子』のデザインテーマで制作活動をしているイラストレーター。自身の作品を使用したアートグッズの販売と、『跳梁跋扈』というタイトルでのアーティスト合同作品展の主催も手がける。 1980年、山口県小郡町(現山口市)生まれ。 山口県立岩国商業高等学校情報処理科を卒業し、比治山大学短期大学部美術科日本画コースに進学。同時期に教鞭をとっていた日本画界のホープの一人でケラ美術協会メンバーであった野村久之に師事し日本画の世界を学ぶ。 学卒後、社会人として企業勤務の傍ら創作活動を続け、現在は広島市を拠点に活動中。 代表作である『着物女子』は、コンピュータグラフィックスを活用し、日本をイメージする着物・和文化をモチーフにして、和柄や日本画の技法を取り入れた画風。
山口 艶華(やまぐち つやか)は、山口県山口市出身の演歌歌手… 山口 艶華(やまぐち つやか)は、山口県山口市出身の演歌歌手。日本コロムビアレコード、日本エンカフォンレコード所属。 音楽プロデューサー有吉保のレッスンを受けながら全国で開催される歌謡コンクールで優勝を果たす。1998年に山路進一作曲による「夫婦灯り」、カップリング曲「ほろ酔い艶歌」でデビュー。歌川二三子が司会をつとめる「演歌流行歌」に出演。その他KRY・RCC各局のテレビ番組にも出演。 「決して華やかではないけれど、根強い雑草のごとく演歌花(艶華花)を咲かせたい」という気持ちで頑張っている。 http://meotoakari.sugo-roku.com/ この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。