塩崎 彰久(しおざき あきひさ、1976年〈昭和51年〉9月… 塩崎 彰久(しおざき あきひさ、1976年〈昭和51年〉9月9日 - )は、日本の政治家、弁護士。自由民主党所属の衆議院議員(3期)、自由民主党財政・金融・証券関係団体委員長兼財務金融部会長代理。 厚生労働大臣政務官(第2次岸田第2次改造内閣・第1次石破内閣)、自由民主党副幹事長を務めた。 愛媛県松山市出身。松山市立道後小学校、愛光中学校・高等学校をへて、1999年、東京大学法学部卒業。スタンフォード大学へ留学し、国際政治学を学ぶ。 帰国後、長島・大野・常松法律事務所入所。父の塩崎恭久が第1次安倍内閣の内閣官房長官を務めた際には、内閣官房長官秘書官として官邸勤務。 長島・大野・常松法律事務所のパートナー(共同経営者)弁護士として19年間活動し、危機管理・コンプライアンス分野やスタートアップ企業の支援を中心に担当。
石井 智恵(いしい ともえ、1967年〈昭和42年〉11月1… 石井 智恵(いしい ともえ、1967年〈昭和42年〉11月16日 - )は、日本の政治家、看護師。 衆議院議員(1期)、愛媛県議会議員(1期)を務めた。 愛媛県松山市出身。愛媛県立松山西高等学校、岡山県立短期大学看護科を経て、国立大阪病院付属視能訓練学院を卒業。 松山赤十字病院、愛媛大学医学部付属病院、松山市民病院、知的障害者福祉作業所、介護施設、介護予防支援サービス事業所(訪問入浴事業)に勤務し、愛媛県PTA連合会副会長、東温市立北吉井小学校PTA会長を務めた。 2004年、医療従事者のためのドメスティック・バイオレンス(DV)被害者支援シンポジウムを愛媛県で初めて開催。その後DV問題を考える会を立ち上げ、働く女性のサポートオフィスアイを創業。
野志 克仁(のし かつひと、1967年〈昭和42年〉7月31… 野志 克仁(のし かつひと、1967年〈昭和42年〉7月31日 - )は、日本の政治家。愛媛県松山市長(4期)。元RNB南海放送のアナウンサー。 愛媛県松山市出身。松山市立清水小学校、伊予三島市立南中学校、愛媛県立松山南高等学校、岡山大学経済学部卒業。1990年、南海放送に入社。翌1991年、入社2年目にしてもぎたてテレビ10o'clockのキャスターに抜擢された。その後20年間にわたり愛媛県内各地をリポートした。 2010年10月、南海放送を退社。 愛媛県知事選挙への出馬を表明して辞職した中村時広松山市長(当時、現・愛媛県知事)の後継指名を受けて11月の松山市長選挙に出馬、自由民主党推薦の新人候補など4新人を破り初当選。
窪田 哲也(くぼた てつや、1965年11月2日 - )は、… 窪田 哲也(くぼた てつや、1965年11月2日 - )は、日本の政治家。公明党所属の参議院議員(1期)。公明党組織委員会遊説局次長、公明党参議院国会対策副委員長、公明党内閣副部会長、公明党外交副部会長、公明党沖縄方面副本部長、鹿児島県本部代表。 愛媛県松山市出身。明治大学法学部卒業後、公明新聞九州支局長、公明党団体局次長、同離島振興対策本部事務局次長、同九州方面本部広宣局長を務めた。 2013年7月の第23回参議院議員通常選挙に公明党公認で比例区から立候補したが落選。 2021年10月の第49回衆議院議員総選挙に公明党公認で比例九州ブロック単独5位で立候補したが、公明党の獲得議席が4議席だったため次点で落選。
宮内 秀樹(みやうち ひでき、1962年〈昭和37年〉10月… 宮内 秀樹(みやうち ひでき、1962年〈昭和37年〉10月19日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(6期)、自由民主党国会対策副委員長。 衆議院文部科学委員長、農林水産副大臣、国土交通大臣政務官、自由民主党副幹事長、自由民主党政務調査会経済産業部会長を歴任。 愛媛県松山市生まれ。父は松山市役所の職員。松前町立岡田小学校、愛媛大学教育学部附属中学校、愛媛県立松山東高等学校卒業後、慶應義塾大学進学を志望するが叶わず、青山学院大学経営学部に入学。大学在学中は「音亭狂雀(おんてい・きょうじゃく)」の高座名で落語研究会に所属し、同会の第23代会長も務めた。大学4年次に自ら望んで留年し、アメリカ合衆国へ放浪の旅に出た。
永江 孝子(ながえ たかこ、1960年〈昭和35年〉6月15… 永江 孝子(ながえ たかこ、1960年〈昭和35年〉6月15日 - )は、日本の政治家。参議院議員(2期)。衆議院議員(1期)、南海放送アナウンサーを務めた。 議員の登録名などの表記は、ながえ孝子となっている。 愛媛県松山市生まれ。生家は毛糸店。松山市立東雲小学校、松山市立御幸中学校(現松山市立東中学校)、愛媛県立松山東高等学校、神戸大学法学部卒業。大学卒業後、1983年に南海放送に入社。永江自身はアナウンサーではなくディレクターを志望していたが、アナウンサーの募集しかなかったため、アナウンサーとして入社した。南海放送初のママさんアナウンサーとして、1991年から「もぎたてテレビ70」を18年間務める。「もぎたてテレビ」は南海放送始まって以来の高視聴率を誇る番組で、初代パーソナリティを共に務めた、野志克仁は現在松山市長である。2008年9月19日、南海放送を報道制作本部副本部長で退社。
中村 時広(なかむら ときひろ、1960年〈昭和35年〉1月… 中村 時広(なかむら ときひろ、1960年〈昭和35年〉1月25日 - )は、日本の政治家。愛媛県知事(公選第17・18・19・20代)。無所属。 松山市長(第27・28・29代)、衆議院議員(1期)、愛媛県議会議員(1期)を歴任。元松山市長の中村時雄は父。 愛媛県松山市生まれ。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学法学部法律学科卒業。1982年、三菱商事に入社し、燃料部に配属される。 1987年に愛媛県議会議員選挙で立候補し、初当選した。1990年に1期目の任期途中で愛媛県議を辞職し、第39回衆議院議員総選挙に旧愛媛1区(定数3)から無所属で立候補したが、得票数5位で落選した。
塩崎 恭久(しおざき やすひさ、1950年〈昭和25年〉11… 塩崎 恭久(しおざき やすひさ、1950年〈昭和25年〉11月7日 - )は、日本の政治家。 衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)、衆議院法務委員長、外務副大臣(第3次小泉改造内閣)、内閣官房長官(第73代)、拉致問題担当大臣(初代)、厚生労働大臣(第17・18代)、自由民主党行政改革推進本部長、自由民主党党・政治制度改革実行本部長を歴任した。 当時大蔵官僚で後に衆議院議員となる塩崎潤の長男として愛媛県松山市に生まれる。東京都立新宿高等学校卒業後、東京大学に入学する。1975年、東京大学教養学部教養学科アメリカ科を卒業し、日本銀行へ入行。1982年にハーバード大学大学院(ケネディ・スクール)を修了し、行政学修士号を取得した 。
井上 和久(いのうえ かずひさ、1941年6月5日 - )は… 井上 和久(いのうえ かずひさ、1941年6月5日 - )は、日本の政治家。元公明党衆議院議員(1期)。元公明党愛媛県議会議員(4期)。元公明党松山市議会議員(2期)。 愛媛県松山市出身。1966年、松山商科大学短期大学部中退。1978年、松山市議会議員選挙に公明党公認で立候補し初当選。1983年、再選。1986年、第38回衆議院議員総選挙に旧愛媛1区から公明党公認で立候補し初当選。愛媛県選出の公明党公認国会議員の初例となる。公明党愛媛県本部代表に就任。1990年、第39回衆議院議員総選挙で落選。1991年、愛媛県議会議員選挙松山市選挙区に公明党公認で立候補し初当選。1995年、公明から立候補して再選。
井手 順二(いで じゅんじ、1939年〈昭和14年〉8月16… 井手 順二(いで じゅんじ、1939年〈昭和14年〉8月16日 - )は、日本の政治家。愛媛県北条市長を2期務め、平成の大合併により2005年(平成17年)1月1日を以って北条市は松山市に編入されたため、最後の市長となった。 愛媛県出身。愛媛県立松山北高等学校卒業。民間企業勤務を経て温泉郡北条町役場に入る。同町は1958年(昭和33年)11月1日市制施行し北条市となったため、北条市役所勤務となる。市役所では議会事務局長、市長公室長、総務課長を経て、収入役を歴任。2000年(平成12年)1月31日前任の菅朝照が急逝したのを受けて請われて北条市長選挙に立候補し、無投票で当選する。2004年(平成16年)は無投票で再選。
田中 誠一(たなか せいいち、1926年(大正15年)4月1… 田中 誠一(たなか せいいち、1926年(大正15年)4月11日 - 2003年(平成15年)4月8日)は、日本の政治家、第25・26代松山市長。 松山市出身。旧制愛媛県立松山商業学校(現 愛媛県立松山商業高等学校)を卒業後、1945年、第11師団(香川県善通寺市)に入隊。 終戦後の1946年、松山市役所職員に採用される。市民課長、企画管理部長を歴任し、助役を3回にわたり(1979年6月25日-1979年7月9日、1983年6月25日-1984年12月25日、1987年6月25日-1989年10月10日)務める。 1991年、5選を狙う当時の現職市長中村時雄に対抗して出馬し初当選。「しあわせひろがるまち松山」をスローガンに、その後2期8年間にわたって松山市長を務めた。
塩崎 潤(しおざき じゅん、1917年5月31日 - 201… 塩崎 潤(しおざき じゅん、1917年5月31日 - 2011年5月27日)は、日本の政治家(衆議院議員)、大蔵官僚、翻訳家。位階は正三位。 長男は衆議院議員の塩崎恭久。長女は法学者の山根裕子。次女は外交官角崎利夫の妻でアジア防災センター主任研究員の角崎悦子。 愛媛県松山市出身。松山中学、旧制松山高校を経て、東京帝国大学(現・東京大学)法学部政治学科を卒業。東京帝大法学部政治学科在学中の1940年10月に高等試験行政科を合格。1941年 大蔵省に入省する。主計局に配属。1942年10月、神田橋税務署長。1943年1月、宇都宮税務署長。同年8月、東京財務局経理部長。1952年8月1日、主税局調査課長。
檜垣 徳太郎(ひがき とくたろう、1916年〈大正5年〉10… 檜垣 徳太郎(ひがき とくたろう、1916年〈大正5年〉10月31日 - 2006年〈平成18年〉10月15日)は、日本の農林官僚・政治家。自由民主党参議院議員(3期)。 愛媛県松山市出身。旧制松山高校を経て、1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部卒業。農林省に入省(水産局嘱託)。入省成績は下から2番目。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進。1945年に解員(復員)。 農林経済局肥料課長、大臣官房予算課長、農地局管理部長、大臣官房長、畜産局長、大臣官房長(再任)、1968年(昭和43年)食糧庁長官を経て、1969年(昭和44年)農林事務次官。
大西 弘(おおにし ひろむ、1908年(明治41年)6月18… 大西 弘(おおにし ひろむ、1908年(明治41年)6月18日 ‐ 1975年(昭和50年)1月17日) は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、松山市議会議長。 愛媛県松山市山越で生まれた。除虫菊製造業を営み、大西土地建物を設立して社長に就任し、四国畜産 (株) 重役、松山市御幸農業会長なども務めた。 1947年(昭和22年)4月、松山市議会議員、愛媛県議会議員に選出され、松山市議会議長を務め、県議会では愛媛民主党に所属して活動した。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に愛媛県第1区から民主自由党所属で出馬して当選し、その後、自由党に所属して衆議院議員に1期在任した。この間、自由党総務などを務めた。
菅 太郎(かん たろう、1904年(明治37年)5月30日 … 菅 太郎(かん たろう、1904年(明治37年)5月30日 - 1980年(昭和55年)1月11日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(5期)。 愛媛県松山市出身、東京帝国大学法学部卒業。戦前は内務省の革新官僚の一人で、内務事務官や企画院調査官を務めた他、1936年12月より一時期は満洲国総務庁に配属されている。また1941年に発足した大日本翼賛壮年団の訓練部長や理事に就任した(1943年まで)。 戦後、公職追放となり、1952年に追放解除。同年の第25回衆議院議員総選挙で改進党から愛媛県第1区より初当選。1953年の第26回衆議院議員総選挙では落選した。その後も当選と落選を繰り返し、1955年の第27回衆議院議員総選挙で日本民主党から2度目の当選を果たし、同年の保守合同(自由民主党結党)に参加。
栗林 力吉(くりばやし りききち、1901年〈明治34年〉2… 栗林 力吉(くりばやし りききち、1901年〈明治34年〉2月27日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。栗林総業会長。栗林組会長。鳥取県議会議員。米子市議会議長。 愛媛県松山市道後湯之町に栗林佐十郎の長男として生まれる。湯築高等小学校を卒業した。その後は農業に従事する。18歳の頃より樋口組に入り、土木事業界の人となる。 独立し、土建請負業を自営。鳥取県米子市にて事業の根拠を築きあげる。1943年、米子市会議員に当選。副議長や議長に就任する。1944年に個人営業を廃業し、栗林組を設立、社長に就任する。1959年・1963年、鳥取県議会議員に当選。県会自民党、自民党に所属。 米子映画社長、リツリン映画社長、鳥取県自家用自動車協会長、鳥取県建設業協会会長、西日本建設業保証監査役などを務めた。
門屋 盛一(かどや もりいち、1896年(明治29年)4月3… 門屋 盛一(かどや もりいち、1896年(明治29年)4月30日 - 1961年(昭和36年)5月10日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 愛媛県風早郡河野村(温泉郡河野村、北条町、北条市を経て現松山市)で、門屋フミの息子として生まれる。幼くして両親と大分県、のちの佐伯市に移った。貧しい家庭のため12歳から小学校給仕となる。村役場給仕、大分県南海部郡戊申溜池普通水利組合書記、薬局生などを務め、独学を続けた。長崎県の崎戸炭坑に移り採炭夫として働く。三菱長崎造船所工業補修学校に入学し木型職工となる。21歳で鉄道工業合資会社に転じ土木事業に係わる。24歳で同社桂事務所現場主任に就任し丹那トンネル工事に従事した。
越智 孝平(おち こうへい、1889年(明治22年)2月3日… 越智 孝平(おち こうへい、1889年(明治22年)2月3日 - 1968年(昭和43年)6月25日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。松山市長。 愛媛県和気郡堀江村(現:松山市堀江町)で越智倉吉、ヨシ夫妻の息子として生れる。1907年、私立北予中学校を卒業し、海軍兵学校(38期)に入学。1910年7月、同校を卒業し、1911年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、次いで海軍水雷学校高等科学生、同特修科学生として学んだ。第三水雷戦隊司令部付、米国駐在、第一水雷戦隊司令部付兼参謀、「陸奥」通信長心得などを経て、1924年11月、海大甲種22期を卒業した。 以後、軍令部参謀、第二遣外艦隊参謀、海軍大学校教官、在メキシコ国公使館付武官などを歴任。
黒田 政一(くろだ まさいち、1885年(明治18年)9月1… 黒田 政一(くろだ まさいち、1885年(明治18年)9月13日 - 1975年(昭和50年)8月4日)は、明治から昭和時代前期の政治家、警察官。愛媛県松山市長、温泉郡三津浜町町長。 愛媛県和気郡新浜村(現・松山市新浜町)で生まれる。 1909年(明治42年)愛媛県巡査となり、1924年(大正13年)壬生川警察署長、1927年(昭和2年)宇和島警察署長、1929年(昭和4年)松山警察署長、1931年(昭和6年)県社寺兵事課長を歴任し、1935年(昭和10年)退職する。同年7月、松山市収入役に転じ、1939年(昭和14年)2月、三津浜町助役を経て、翌月同町長に就任する。さらに松山市との合併に伴い、1940年(昭和15年)10月、同市助役となり、1946年(昭和21年)3月29日に松山市長に就任。
大本 貞太郎(おおもと さだたろう、1884年〈明治17年〉… 大本 貞太郎(おおもと さだたろう、1884年〈明治17年〉4月18日 - 1944年〈昭和19年〉4月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。伊予鉄道(現伊予鉄グループ)7代社長。 愛媛県温泉郡本町(現松山市本町)出身。松山商業会議所議員、愛媛県会議員、同参事会員、同副議長となる。伊予新報社社長、伊予鉄道社長、伊予銀行取締役、(資)弘文社代表社員、松山商工会議所顧問を務める。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において愛媛1区(当時)から立憲政友会公認で立候補し当選。以来連続3回当選。1942年の第21回衆議院議員総選挙には立候補せず引退した。1944年死去。
香川 熊太郎(かがわ くまたろう、慶応2年7月30日(186… 香川 熊太郎(かがわ くまたろう、慶応2年7月30日(1866年9月8日) - 1945年(昭和20年)10月12日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 愛媛県久米郡平井谷村今吉(現・松山市平井町)にて農家の長男として生まれる。温泉郡小野村会議員、小野村耕地整理組合長、温泉郡会議員などを経て、1910年(明治43年)伊予米穀取引所専務理事、1920年(大正9年)同取引所理事長に就任。 ついで、松山市瓦斯会社社長に就任。同社の再建に尽力し、映画館経営、織物業など幅広く事業を手掛ける。その後、松山奥丁会議所副会頭を経て、1925年(大正14年)成田栄信と岩崎一高ら政友会県支部幹部の対立で傾きかけた海南新聞の社長に就任し、紙面刷新に努めた。
浅野 長道(あさの ながみち、安政3年6月27日(1856年… 浅野 長道(あさの ながみち、安政3年6月27日(1856年7月28日) - 1912年(大正元年)8月4日)は、大正から昭和時代前期の政治家。愛媛県松山市長。幼名は房五郎。 松山城下八坂町にて浅野長英の長男として生まれる。1877年(明治10年)愛媛県師範学校(愛媛大学教育学部の前身のひとつ)を卒業後、派駐訓導を務める。 のち官界に入り、1878年(明治11年)下浮穴郡書記、伊予郡書記として学務係に任じ、1881年(明治14年)下浮穴・伊予郡書記、1886年(明治19年)三野・豊岡郡書記、1887年(明治20年)神奈川県属を経て、1899年(明治32年)温泉郡長に就任した。1902年(明治35年)2月7日、市会で推され、松山市長に就任。
木村 利武(きむら としたけ、嘉永3年11月28日(1850… 木村 利武(きむら としたけ、嘉永3年11月28日(1850年12月31日) - 1914年(大正3年)10月2日)は、明治時代の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 松山城下柳井町で藩士・木村利長の長男として生まれる。1871年(明治4年)松山県庁掌、1874年(明治7年)愛媛県雇・戸長、1878年(明治11年)風早郡書記、1880年(明治13年)同郡長心得、1886年(明治19年)風早・和気・温泉・久米郡長心得を歴任。1890年(明治23年)1月に松山五十二銀行取締役に転じたが、同年2月6日、推挙され松山市長に就任した。 1896年(明治29年)2月まで市長を務めたのち、実業界に入り、松山商業銀行頭取、同行取締役、松山商業会議所会長などを歴任した。