片岡 久兵衛(久兵衞、かたおか きゅうべえ、1902年 <明… 片岡 久兵衛(久兵衞、かたおか きゅうべえ、1902年 <明治35年> 1月30日 - 1988年 <昭和63年> 10月11日)は、日本の経営者、銀行家。京都銀行頭取を務めた。京都府福知山市出身。位階は従五位。 1923年に東京商科大学を卒業。1946年に京都銀行の前身である丹和銀行頭取に就任。1972年に相談役を経て、1980年には顧問に就任。 1988年10月11日急性呼吸不全のために死去。86歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
土井 末夫(どい すえお、1902年〈明治35年〉1月6日 … 土井 末夫(どい すえお、1902年〈明治35年〉1月6日 - 1976年〈昭和51年〉6月5日)は、日本の実業家、銀行家。第2代佐賀銀行頭取。東邦海運(現:NSユナイテッド海運)元常務。小幡亜鉛鍍金工場元常務。佐賀商工会議所元会頭。佐賀県テニス協会元会長。従五位勲四等旭日小綬章受章者。 佐賀県佐賀郡川副町(現:佐賀市川副町)出身。佐賀市在籍。1927年(昭和2年)東京商科大学を卒業し、同年4月日本興業銀行に入行。 1937年(昭和12年)3月満洲興業銀行に出向。1941年(昭和16年)5月復帰。1946年(昭和21年)7月庶務部長となり、1948年(昭和23年)12月理事に選ばれ、後取締役と改称。
熊田 克郎(くまだ よしろう、1901年 <明治34年> 1… 熊田 克郎(くまだ よしろう、1901年 <明治34年> 10月28日 - 1992年 <平成4年> 11月7日)は、日本の経営者、銀行家。 福島県出身。1927年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1940年に野村合名会社支配人を経て、1952年に武蔵野銀行副頭取に就任し、1956年には頭取に昇格。1977年6月から1987年6月までに会長を務めた 1971年11月に勲四等旭日小綬章を受章し、1982年11月に勲三等瑞宝章を受章。1983年3月には大宮市名誉市民の表彰を受ける。 1992年11月7日老衰のために死去。91歳没。
長島恭助(ながしま きょうすけ、1901年(明治34年)9月… 長島恭助(ながしま きょうすけ、1901年(明治34年)9月17日 - 1992年(平成4年)9月22日)は、日本の銀行家、社会福祉活動家、古美術品愛好家。さいたま市名誉市民。 埼玉県大里郡吉見村(のちの大里村、現・熊谷市)小八ッ林の豪農で、のちに吉見村長を務めた長島甚助、せい夫妻の長男として生まれる。 吉見尋常小学校(現・熊谷市立吉見小学校)、吹上尋常小学校高等科、旧制熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)、山口高等商業学校(現・山口大学)を経て、1923年(大正12年)に渋沢栄一が設立に深く関与し、その甥が頭取を務める武州銀行に入行。 1943年(昭和18年)7月の八十五銀行、忍商業銀行、飯能銀行との合併による埼玉銀行の発足と同時に本店営業部長に就任した。
呉 緯泳または呉 緯永(オ・ウィヨン、오위영、1901年5月… 呉 緯泳または呉 緯永(オ・ウィヨン、오위영、1901年5月5日または1902年5月5日または1905年 - 1978年10月2日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の銀行家、政治家。朝鮮信託銀行(韓一銀行を経て現・ウリィ銀行)頭取、第2・4・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 本貫は海州呉氏。号は石耘。第3回ミスコリアの呉賢珠は四女、カトリック教会の聖職者の姜禹一(朝鮮語版)は外孫。 慶尚南道蔚山郡彦陽面(現・蔚山広域市蔚州郡彦陽邑)東部里出身。1921年釜山公立商業学校卒、しばらく朝鮮銀行で勤務して、1924年にまた神戸高等商業学校予科に入学し、1928年本科卒。1928年慶尚南道金融組合連合会理事見習、彦陽金融組合代理理事、1929年陜川草渓金融組合理事、1932年鎮海金融組合理事、1935年朝鮮信託会社群山支店支配人代理、1941年同社大邱支店首席支配人代理、1945年同社常務取締役・営業部長、1946年朝鮮火災保険会社取締役、1947年朝鮮換金銀行(現・韓国銀行)参与・重役、同年から1950年まで朝鮮信託銀行頭取、1948年交通部諮問委員、1949年中央経済委員会委員・物価分科委員長、同年財政金融委員会委員を歴任した。
斉藤 利忠(さいとう としただ、1901年 <明治34年> … 斉藤 利忠(さいとう としただ、1901年 <明治34年> 4月17日 - 1981年 <昭和56年> 12月29日)は、日本の経営者、銀行家。安田倉庫、安田信託銀行各社長を務めた。群馬県出身。位階は従四位。 1925年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年4月に安田銀行に入行。1945年1月に安田保善社に転じ、1946年8月に安田倉庫専務に就任し、1948年には社長に昇格。1951年11月には安田信託銀行副社長に就任し、1957年6月には社長に昇格し、1963年5月から1970年5月までに会長を務めた 1966年4月に藍綬褒章を受章し、1971年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1981年12月29日に肺炎のために死去。
寿原 九郎(すはら くろう、1901年(明治34年)3月23… 寿原 九郎(すはら くろう、1901年(明治34年)3月23日 - 1983年(昭和58年)5月21日)は、日本の実業家、銀行家。寿原産業、北洋相互銀行(現在の北洋銀行)社長を務めた。 石川県出身。1924年に小樽高等商業学校を卒業。1925年に三井銀行に入行。 1947年に寿原産業社長に就任し、1957年から1971年まで北洋相互銀行社長を務めた。 1983年5月21日、心不全のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
吉沢 新作(よしざわ しんさく、1901年3月21日 - 1… 吉沢 新作(よしざわ しんさく、1901年3月21日 - 1980年2月27日)は、日本の銀行家。近畿銀行社長を務めた。 栃木県宇都宮市出身。1927年に法政大学専門部法科を卒業し、同年に大蔵省に入省。1944年に近畿無尽に転じ、1945年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1960年に副社長に就任し、1963年には社長に昇格。1967年4月に会長を経て、1972年には相談役に退いた。 1964年に黄綬褒章を受章し、1971年に勲四等瑞宝章を受章。 1980年2月27日、脳動脈硬化症のために死去。78歳没。
宇佐美 洵(うさみ まこと、1901年〈明治34年〉2月5日… 宇佐美 洵(うさみ まこと、1901年〈明治34年〉2月5日 - 1983年〈昭和58年〉2月19日)は、日本の銀行家。三菱銀行頭取、全国銀行協会会長を経て、第21代日本銀行総裁を務めた。 東京市芝三田小山町に生まれる。市谷小学校に入学して1年後、父の勝夫が富山県知事に就任したことから、一家は富山に越し、2年間をすごした。その後、父が韓国統監府参事官に転任することになったため、父のみが京城に赴任し、母子は東京に戻った。だが、母・よしが急死し、父は母の姉・みつを後添に迎えることになったため、祖父・池田成章に連れられ、みつと子どもたちは朝鮮に渡った。 京城中学校を経て1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業。
中村 一策(なかむら いっさく、1900年(明治33年)10… 中村 一策(なかむら いっさく、1900年(明治33年)10月30日 - 1966年(昭和41年)12月22日)は、日本の銀行家。日本勧業銀行頭取、第21代全国銀行協会会長。 長野県東筑摩郡朝日村に中村愛治の長男として生まれる。 旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、慶應義塾大学経済学部を卒業。1925年日本勧業銀行入行。 1955年監査役に就任。常務、副頭取を経て、1961年に頭取に就任する。 頭取時代は、特殊銀行から普通銀行に転換する多難な時期にあたり、積極的な経営を展開、特に預金の吸収に力を入れて業績を伸ばし、「預金の神様」と言われた。また、金融界に対しては利子課税、融資ルールなどの問題に対処して功績があった。
斎藤 保義(さいとう やすよし、1900年〈明治33年〉10… 斎藤 保義(さいとう やすよし、1900年〈明治33年〉10月22日 - 1992年〈平成4年〉11月30日)は、日本の銀行家。元東京銀行監査役。 次女は国際基督教大学名誉教授の斎藤美津子、長男は元毎日新聞社会長の斎藤明。 京都市出身。斎藤駒三郎の二男。 1922年(大正11年)に旧制第三高等学校文科丙類を卒業、1925年(大正14年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年正金銀行に入り頭取席東京、上海、巴里、横浜、西貢各支店に勤務したが、同行閉鎖に依り東京銀行に引継がれ1947年(昭和22年)浅草支店長。1953年(昭和28年)5月監査役に選ばれる。墓所は多磨霊園。 趣味は散歩、水泳。宗教はキリスト教。
柳 満珠雄(やなぎ ますお、1900年6月22日 - 198… 柳 満珠雄(やなぎ ますお、1900年6月22日 - 1983年6月25日)は、日本の銀行家である。三井銀行(現・三井住友銀行)の社長を務め、全国銀行協会連合会会長、日本ポルトガル協会初代会長を歴任した。 柳満珠雄は1900年6月22日、東京府(現在の東京都)に生まれた。父親は、三井家再興および三井銀行の基礎を築いた三井財閥の重鎮・柳荘太郎である。満珠雄は慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業した。 大学卒業と同年の1923年、三井銀行に入行した。同行では、ニューヨーク支店長や大阪支店長などを務めた。戦後は1958年に副社長に就任し、翌1959年には佐藤喜一郎の後を継ぎ、三井銀行の社長に就任した。
金子 鋭(かねこ とし、1900年(明治33年)3月17日 … 金子 鋭(かねこ とし、1900年(明治33年)3月17日 - 1982年(昭和57年)2月24日)は、日本の銀行家。位階は従三位、勲等は勲二等。 富士銀行頭取、会長。第6代プロ野球コミッショナー。ドラフト制度導入に尽力したことで知られる。 旧制新潟県立小千谷中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。帝大時代は大正デモクラシーの時代でもあり、蠟山政道、福岡誠一らと社会改良に関して語り合う一本筋の通った青春時代を送った。 1924年(大正13年)安田銀行に入行(後に富士銀行に改称)。49年副頭取、 57年頭取、63年会長、75年顧問。 明治生まれの硬骨のバンカーとして知られ、会長に退いてからは財界で活躍し、大の巨人軍ファンであったことから、政財界人で後援組織「無名会」を結成し、会長を務めた。
雫石 隆孝(しずくいし たかよし、1900年2月26日 - … 雫石 隆孝(しずくいし たかよし、1900年2月26日 - 1988年12月23日)は、日本の銀行家。岩手県出身。 盛岡中学を経て、1926年に東京帝国大学経済学部を卒業。澁澤倉庫、地方事務官、岩手県出納長を経て、1947年10月に岩手銀行頭取に就任。1973年12月には会長に就任し、1977年12月に取締役を経て、1979年12月には相談役に退いた。 1978年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1988年12月23日急性肺炎のために死去。88歳没。
具 鎔書(ク・ヨンソ、朝鮮語: 구용서、1899年10月21… 具 鎔書(ク・ヨンソ、朝鮮語: 구용서、1899年10月21日 - 1984年4月24日)は、大韓民国の中央銀行家、政治家。韓国銀行総裁や、韓国産業銀行総裁、大韓民国商工部長官を務めた。 本貫は昌原具氏(朝鮮語版)。日本名具原 一郞。 釜山府出身。父は乙未事変に加担したとして逮捕状が出るなど混乱の渦中にあり、禹範善の子である禹長春や、李容九の子、宋秉畯の孫といった親日派の子女6名で、日本人の酒井姉妹の下で、父から離れて日本で育てられた。 日本人のために作られた京城中学校に通い、1922年東京商科大学(のちの一橋大学)予科修了。1925年同大学卒業、朝鮮銀行入行。同期50人のうち具が唯一の朝鮮人であり、東京支店に配属となったが、給料や昇進、配属などでは差別を受けた。
杉山 亮太郎(すぎやま りょうたろう、1899年 <明治32… 杉山 亮太郎(すぎやま りょうたろう、1899年 <明治32年> 9月5日 - 1974年 <昭和49年> 11月12日)は、日本の経営者、銀行家。清水銀行頭取を務めた。位階は従五位。 静岡県出身。1923年に早稲田大学商学部商学科を卒業し、同年9月に駿州銀行(のちの清水銀行)に入行。 1940年4月に常務を経て、1947年2月には頭取に就任した。1971年4月には会長に就任。 1960年5月に黄綬褒章を受章し、1969年11月に勲四等瑞宝章を受章した。 1974年11月12日、心筋梗塞のため死去した。75歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
大久保 太三郎(おおくぼ たさぶろう、1899年 <明治32… 大久保 太三郎(おおくぼ たさぶろう、1899年 <明治32年> 2月13日 - 1974年 <昭和49年> 10月10日)は、日本の銀行家。位階は従四位。 兵庫県出身。1923年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。1949年4月に理事を経て、1952年8月には監事に就任。 1958年5月から1963年4月までに千葉銀行頭取を務め、1961年に千葉商工会議所会頭に就任し、1963年5月には日本銀行政策委員会委員に就任。 1970年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1974年10月10日急性肺炎のために死去。75歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
堀田 庄三(ほった しょうぞう、1899年1月23日 - 1… 堀田 庄三(ほった しょうぞう、1899年1月23日 - 1990年12月18日)は日本の銀行家。住友銀行頭取を19年務め(1952年~1971年)、「住銀の法皇」と称された。住友家評議員会委員長、住友老壮会会長、日本航空元会長。勲一等旭日大綬章受章。元モルガン・スタンレー証券代表取締役会長の堀田健介は長男。大正製薬社長の上原明は二男。
堀 武芳(ほり たけよし、1898年11月10日 - 196… 堀 武芳(ほり たけよし、1898年11月10日 - 1968年10月15日)は、日本の経営者、銀行家。日本勧業銀行頭取を務めた。和歌山県出身。 1923年に東京帝国大学独法科を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。1946年に理事に就任し、1950年1月には頭取に就任した。1961年から1962年12月に会長を務めた。1964年には日本銀行政策委員に就任し、全国銀行協会連合会会長も務めた。 1968年10月15日脳血栓のために死去。69歳没。
山住 克己(やまずみ かつみ 、1898年10月11日 - … 山住 克己(やまずみ かつみ 、1898年10月11日 - 1986年2月19日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。
渡辺 忠雄(わたなべ ただお、1898年(明治31年)9月3… 渡辺 忠雄(わたなべ ただお、1898年(明治31年)9月3日 - 2005年(平成17年)4月3日)は、日本の銀行家、実業家。三和銀行元頭取、会長で「三和銀行の中興の祖」と呼ばれる。北海道出身。日本聖公会の信徒。 1924年に東京帝国大学法学部を卒業し、日本銀行に入行。資金調整局審査課長、静岡支店長、文書局長などを歴任した。 1945年には三和銀行に転職し、1947年2月には頭取に就任した。「ピープルズ・バンク」路線をモットーに、金融業界でいち早くコンピュータを導入し、クレジットカード会社のJCBとリース会社のオリックスの創設に携わるなどして、銀行の大衆化を進め、三和銀行を全国有数の都市銀行に育て上げた。
坂田 重保(さかた しげやす、1898年(明治31年)6月4… 坂田 重保(さかた しげやす、1898年(明治31年)6月4日 - 1984年(昭和59年)1月6日)は、昭和時代中期~後期の日本の銀行家。親和銀行の頭取を長年務めた。 現在の佐賀県佐賀市諸富町出身。旧制唐津中学校を経てシンガポールにあったアングロ・チャイニーズスクールを卒業後、神戸の鈴木商店に入社。1923年(大正12年)に同社の先輩であった北村徳太郎から招かれ、佐世保商業銀行に移り、為替課長、副支配人を歴任。 1939年9月、佐世保銀行と佐世保商業銀行が合併して、親和銀行が誕生すると、1942年に取締役に選任。常務、専務、副頭取を経て、1960年4月に頭取に就任した。 銀行家には珍しい、豪放磊落で、親分肌の人物であり、北村が政界に転じてからは、46歳の若さで副頭取に就いた坂田が、親和銀行の経営を仕切った。
迫 静二(さこ せいじ、古い文書では「靜二」と表記 1898… 迫 静二(さこ せいじ、古い文書では「靜二」と表記 1898年(明治31年)3月26日 - 1983年(昭和58年)8月6日)は、日本の銀行家、富士銀行初代頭取。 熊本県熊本市出身。熊本県立熊本中学校、官立第五高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部を卒業。安田銀行に入社。1946年(昭和21年)常務取締役、48年と社長となり、行名を富士銀行と改める。翌年社長を頭取に改称し、初代頭取に就任。全国銀行協会連合会会長などを務めた。 1983年8月6日死去、85歳没。
手塚 文蔵(文藏、てづか ぶんぞう、1897年 <明治30年… 手塚 文蔵(文藏、てづか ぶんぞう、1897年 <明治30年> 12月29日 - 1988年 <昭和63年> 11月16日)は、日本の経営者、銀行家。佐賀銀行頭取を務めた。位階は従五位。 佐賀県西松浦郡有田町出身。1920年に東京高等商業学校を卒業。1954年4月に佐賀興業銀行頭取に就任し、1955年7月から1960年5月までに佐賀銀行頭取を務めた。 1969年に勲四等瑞宝章を受章。 1988年11月16日急性心不全のために死去。90歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
二見 貴知雄(ふたみ きちお、1897年(明治30年)2月9… 二見 貴知雄(ふたみ きちお、1897年(明治30年)2月9日 - 1957年(昭和32年)3月23日)は、日本の銀行家。日本銀行副総裁、東京銀行頭取を務めた。 京都府京都市出身。京都府立一中、三高を経て、1921年に東京帝国大学法科を卒業。同年に日本銀行に入行。 計算局を振り出しに、ニューヨーク監督官付、審査部、大阪支店、営業局次長を歴任後、再び海外に出て、ロンドン代理店監督役となり、国際決済銀行理事を兼任し、ロンドンとジュネーブの間を往復した。帰国後の1941年、日銀参事となり、資金調整局調査役を経て、故郷の京都支店長、神戸、名古屋の各支店長を歴任した。その後、本店に戻り考査局長、統制局長をやっているうちに終戦を迎える。
石坂 禄郎(いしざか ろくろう、1897年1月7日 - 19… 石坂 禄郎(いしざか ろくろう、1897年1月7日 - 1989年2月19日)は日本の実業家、銀行家。 元経団連会長石坂泰三の弟。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
両角 守一(もろずみ しゅいち、1897年 - 1936年2… 両角 守一(もろずみ しゅいち、1897年 - 1936年2月4日)は、日本の銀行家、考古学者。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。父は教育者の両角新治。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を卒業した。長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)にあった小口(おぐち)銀行(現・八十二銀行)に勤務。旧制諏訪中学の同級生に彫刻家清水多嘉示がおり、生涯にわたって親交があった。1923年清水が絵画修行のために渡仏した際には、両角と立木茂が中心となり「渡欧後援画会」を組織し、フランス滞在時の清水の芸術を支えた。また、渡仏滞在費用は清水の父親と渡欧後援画会で支えた。その後、清水を通じて彫刻家アントワーヌ・ブールデルと交流があった。
川田 栄三(榮三、かわた えいぞう、1896年 <明治29年… 川田 栄三(榮三、かわた えいぞう、1896年 <明治29年> 11月17日 - 1985年 <昭和60年> 6月14日)は、日本の経営者、銀行家。位階は従五位。 群馬県出身。1923年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に安田銀行に入行。 1943年に肥後銀行に転じ、取締役に就任し、1945年に常務を経て、1946年に頭取に就任。1971年11月に会長を経て、1976年12月には常任顧問に就任。 1958年に黄綬褒章を受章し、1967年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1985年6月14日心筋梗塞のために死去。88歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
白根 清香(しらね きよか、1896年11月6日 - 198… 白根 清香(しらね きよか、1896年11月6日 - 1985年12月30日)は、日本の経営者、銀行家。中央信託銀行初代社長を務めた。山口県出身。 1923年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1946年6月に理事に就任し、1947年に大阪支店長、1950年に日本証券金融社長を経て、1962年5月には中央信託銀行社長に就任。1965年12月から1970年12月までに会長を務めた。京阪電気鉄道相談役を務めた。 1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年12月30日肺炎のために死去。89歳没。
藤島 敏男(ふじしま としお、1896年〈明治29年〉7月1… 藤島 敏男(ふじしま としお、1896年〈明治29年〉7月12日 - 1976年〈昭和51年〉9月9日)は、日本の登山家、銀行家。鉄道会館監査役。日本銀行監事。作家の藤島泰輔は実子。ジャニーズ事務所代表取締役の藤島ジュリー景子は孫。 神奈川県横浜市に生まれる。三重県人・藤島範平の長男。小学生の時に、三重県菰野町の御在所岳山麓にある祖父母の許に寄寓。 第一高等学校在学中に旅行部に所属して登山に親しむ。1915年(大正4年)、旅行部の依頼で講演を行った木暮理太郎の話に感銘を受けて、本格的な登山を始め、岩登りやスキー登山など様々な形の登山を行うようになる。1919年(大正8年)日本山岳会に入会。日本山岳会早期の会員で、開拓的山行を重ねた。
川北 禎一(かわきた ていいち、1896年7月9日 - 19… 川北 禎一(かわきた ていいち、1896年7月9日 - 1981年6月9日)は、日本の銀行家。日本銀行副総裁、日本興業銀行頭取を務めた。 大阪府立天王寺高等学校を卒業。 1922年に東京帝国大学法学部法科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1947年5月に副総裁に就任。 1949年6月には日本興業銀行総裁に就任。 1950年4月に民間銀行に転換した後は頭取に就任し、1961年11月までに務めた。 1955年4月から1965年2月までに文化財保護委員を務め、日本自然保護協会会長なども歴任。 1966年11月に勲一等瑞宝章を受章。 1981年6月9日、心筋梗塞のために死去。84歳没。
金 秀学(キム・スハク、朝鮮語: 김수학/金秀學、1896年… 金 秀学(キム・スハク、朝鮮語: 김수학/金秀學、1896年5月21日 - 1967年)は、大韓民国の官僚、政治家、銀行家。第2代商工部次官、第2代韓国国会議員。 本貫は清道金氏(朝鮮語版)、字は亨魯(ヒョンノ、형로)、号は蘿谷(ナゴク、나곡)。 全羅北道高敞郡出身。京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。湖南銀行木浦支部長、1948年10月4日から1949年9月15日までは第2代商工部次官を務め、他には朝鮮銀行重役、商工銀行理事、韓国興業銀行理事、大韓無尽金融株式会社社長などを務めた。1950年の第2代総選挙で高敞郡選挙区から無所属で出馬し当選し、国会財政経済分科委員長を務めた。その後は民主国民党の中堅となったが、釜山政治波動の後に離党し自由党に参加した。
北代 誠弥(きただい しげひろ、1896年(明治29年)5月… 北代 誠弥(きただい しげひろ、1896年(明治29年)5月13日 - 1986年(昭和61年)1月10日)は、日本の実業家、銀行家である。 和歌山県和歌山市に生まれ、東京帝国大学経済学部(現在の東京大学大学院経済学研究科・経済学部)に入学する。1920年(大正9年)に卒業後は日本銀行に勤務し、秘書役や外事局長、理事、札幌支店長等を歴任した。第二次世界大戦直後の1946年(昭和21年)には当時総裁を務めていた一万田尚登の補佐として副総裁に就任し、総裁と共に戦後のインフレーション抑制にあたる。 翌1947年(昭和22年)には金融面における産業の復興のために復興金融金庫(現在の日本政策投資銀行)の理事長を1949年(昭和24年)の退任まで兼任し、1966年(昭和41年)には日本ソフトウエアの社長を務めた。
広瀬 経一(ひろせ けいいち、旧字:廣瀨經一。1896年3月… 広瀬 経一(ひろせ けいいち、旧字:廣瀨經一。1896年3月7日 - 1986年2月18日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。北海道拓殖銀行頭取を務めた。香川県出身。 高松中學校、第三高等学校を経て、1920年に京都帝国大学政治科を卒業し、同年に大蔵省に入省。札幌税務署長時代の1939年に、ニッカウヰスキーの品質証明を担当した。1942年、神戸税関長を最後に退官。 1945年に北海道拓殖銀行副頭取に就任し、1947年4月には頭取に昇格。1962年3月に会長に就任し、1973年11月には相談役に就任。頭取就任後に債権整備法に基づき不良債権を切り捨てるための9割減資を強行し、さらにその半年後には100倍強の増資をするという「荒療治」を行い、戦後の拓銀の飛躍を築いた。
甘粕 二郎(あまかす じろう、1895年10月24日 - 1… 甘粕 二郎(あまかす じろう、1895年10月24日 - 1987年9月13日)は、日本の経営者、銀行家。山形県出身。甘粕正彦の弟。 1919年に東京帝国大学法学部英法科を卒業。三菱商事、三菱銀行での勤務を経て、1927年に三菱信託銀行に転じ、取締役、常務、副社長を歴任し、1959年6月に社長に就任。1965年5月には会長に就任。 1962年に藍綬褒章を受章し、1975年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年9月13日老衰のために死去。91歳没。墓所は多磨霊園。
前田 孝次郎(まえだ こうじろう、1895年〈明治28年〉9… 前田 孝次郎(まえだ こうじろう、1895年〈明治28年〉9月10日 - 没年不明)は、日本の銀行家。旧姓・松本。 島根県能義郡安田村(現・安来市)の農家、松本家に生まれる。島根県能義郡立農業学校を卒業する。鳥取米子の前田家に入る。 1919年に山陰実業銀行に入り雲陽実業銀行、松江銀行勤務を経て1939年に山陰合同銀行業務部次長となり総務業務各部長を歴任、1944年に取締役業務部長に推され、同年10月に業務部長を解かれ、1946年10月に常務に進み、審査部長委嘱、1961年に監査役に就任する。 高額所得者である。米子の自宅では100本もバラを栽培して余生を楽しんだ。趣味は書画。住所は鳥取県米子市久米町。
有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日… 有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日 - 1980年12月27日)は、日本の経営者、銀行家。大和銀行社長を務めた。岡山県岡山市出身。 1922年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に大和銀行に入行。1944年11月に専務に就任し、1947年1月に代表取締役を経て、1948年6月から1950年8月までに社長を務めた。 大阪銀行協会会長も務めた。 1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1980年12月27日に老衰のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
栗栖 赳夫(くるす たけお、1895年(明治28年)7月21… 栗栖 赳夫(くるす たけお、1895年(明治28年)7月21日 – 1966年(昭和41年)5月10日)は、昭和期の政治家・銀行家・法学者。日本興業銀行総裁・大蔵大臣・経済安定本部総務長官などを歴任。 現在の山口県岩国市に生まれる。第六高校を経て、1921年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、日本興業銀行へ入行する。証券部長、総務部長などを経て戦後の1945年に理事に昇格、1947年には総裁まで昇りつめた。学究肌で著作も多く中央大学教授も務めた。1933年に「担保附社債信託ニ関スル研究」で同大学より法学博士号を授与されている。一方1946年6月19日には貴族院議員に勅選され、同和会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
布浦 真作(ふうら しんさく、1895年4月17日 - 19… 布浦 真作(ふうら しんさく、1895年4月17日 - 1985年2月27日)は、日本の銀行家。山口銀行頭取を務めた。山口県出身。 1919年に慶應義塾理財科を卒業し、同年4月に山口銀行(現在の三和銀行)に入行。1943年7月に百十銀行常務に就任し、1949年3月には山口銀行頭取に昇格。1974年5月に会長を経て、1980年6月には取締役相談役に退いた。 1958年5月に藍綬褒章を受章し、1966年11月に勲四等旭日小綬章を受章し、1976年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1985年2月27日大腸腫瘍のために死去。89歳没。
児島 健爾(こじま けんじ、1894年12月23日 - 19… 児島 健爾(こじま けんじ、1894年12月23日 - 1966年3月11日)は、日本の経営者、銀行家。千葉興業銀行頭取を務めた。兵庫県出身。 1920年に東京帝国大学独法科を卒業。 安田保善社、安田銀行での勤務を経て、1937年に第九十八銀行社長、1943年に千葉銀行副頭取を歴任し、1952年1月には千葉興業銀行頭取に就任。1963年5月には会長に就任。 1960年に黄綬褒章を受章。 1966年3月11日脳軟化症のために死去。71歳没。
伊藤 與八(いとう よはち、1894年 <明治27年> 10… 伊藤 與八(いとう よはち、1894年 <明治27年> 10月1日 - 1979年 <昭和54年> 4月30日)は、日本の経営者、銀行家。千葉興業銀行頭取を務めた。新潟県出身。位階は従五位。 1924年に慶應義塾大学法学部を卒業。第九十八国立銀行支配人、千葉銀行取締役、常務、千葉興業銀行専務、副頭取を経て、1963年5月には頭取に就任。1969年4月には会長に就任。 1965年に黄綬褒章を受章し、1968年に勲四等瑞宝章を受章。 1979年4月30日に急性肺炎のために死去。84歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
小笠原 光雄(おがさわら みつお、1894年(明治27年)7… 小笠原 光雄(おがさわら みつお、1894年(明治27年)7月20日 - 1988年(昭和63年)1月6日)は、日本の銀行家。三菱銀行頭取、全国銀行協会連合会会長、成蹊学園理事長などを務めた。 小笠原鑅次郎・ハルの長男として東京に生まれる。 1918年東京帝国大学法学部独法科を卒業。三菱合資入社。1921年三菱銀行に転じる。 1945年5月取締役本店営業部長、1946年4月常務取締役、1947年1月専務取締役、1948年10月取締役副頭取、1954年11月取締役頭取、1959年相談役。 このほか、日本郵船取締役、三菱商事監査役、帝都高速度交通営団管理委員、東京銀行取締役、東京ヒルトンホテル監査役、日本カーバイド工業監査役を歴任。
北村 孝治郎(きたむら こうじろう、1894年4月18日 -… 北村 孝治郎(きたむら こうじろう、1894年4月18日 - 1969年12月25日 )は、日本の銀行家、経営者。滋賀銀行頭取を務めた。 滋賀県大津市出身。1917年に東京帝国大学独法科を卒業。横浜正金銀行での勤務を経て、1953年4月に滋賀銀行監事に就任し、1957年10月には頭取に昇格。1963年10月には会長に就任。75歳没。 横浜正金銀行からスイスの国際決済銀行 (BIS)に派遣されていた1945年、同じく派遣者の吉村侃とともに、スイス駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)およびスイス駐在陸軍武官の岡本清福の支援を得ながら、スウェーデンからBISに派遣されていたペール・ヤコブソンを介して、アメリカの諜報機関戦略情報局 (OSS)のアレン・ウェルシュ・ダレスとの間で日本の終戦工作を(ヤコブソンが別々に日本とアメリカの関係者と会合する形で)おこなった。
大岡 忠綱(おおおか ただつな、1894年(明治27年)3月… 大岡 忠綱(おおおか ただつな、1894年(明治27年)3月17日 - 1948年(昭和23年)5月4日)は、大正から昭和期の銀行家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・大岡忠明の息子として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)2月16日に子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1919年(大正8年)京都帝国大学法学部政治学科卒業。1921年(大正10年)朝鮮銀行に入行し、その後、同行東京支店支配人代理を務めた。 1932年(昭和7年)11月5日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日に辞職するまで2期在任した。この間、鈴木貫太郎内閣・陸軍参与官、司法省委員、産業設備評価中央委員会委員などを務めた。
佐藤 喜一郎(さとう きいちろう、1894年1月22日 - … 佐藤 喜一郎(さとう きいちろう、1894年1月22日 - 1974年5月24日)は、日本の実業家、銀行家。元帝国銀行頭取、三井銀行社長、日本棋院総裁。 神奈川県横浜市出身。横浜一中、一高、1917年東京帝国大学経済学部卒業後、米山梅吉の紹介で、三田会の学閥の色合いが強い戦前の三井銀行(現・三井住友銀行)に入行。ニューヨーク支店長、大阪支店長など、海外要員として経営中枢からは遠ざけられ、1941年には三井銀行の海外担当取締役、1943年の帝銀発足時も常務にあった。戦後は一転して1946年の公職追放の発表に先立って、万代順四郎会長、入間野武雄頭取(大蔵省出身)はじめ、戦前三井財閥のリーダー池田成彬に、池田の子飼でありかつ万代の後継と目されていた大矢知昇常務も退任したため、佐藤が予期せぬ頭取の座に就任した。
星野 喜代治(ほしの きよじ、1893年(明治26年)11月… 星野 喜代治(ほしの きよじ、1893年(明治26年)11月11日 - 1979年(昭和54年)10月14日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。銀行局検査課長を最後に退官し、朝鮮銀行副総裁を務める。第二次世界大戦終結後は同行の特殊清算人に選ばれ、第二会社として日本債券信用銀行の前身となる日本不動産銀行を設立し、頭取、会長を歴任。日債銀相談役。 福島県出身。父は酒造業を営み、その次男であった。会津中学、一高を経て1918年(大正7年)7月東京帝大を卒業。水野敏雄は中学以来の同級生である。在学中に文官高等試験に合格し、大蔵省に入省した。臨時調査局属。総務部総務課、外国為替管理部総務課、大臣官房秘書課のほか、銀行局の普通銀行課、銀行課、検査課で課長を務め、1938年(昭和13年)7月辞職。
一萬田 尚登(いちまだ ひさと、1893年(明治26年)8月… 一萬田 尚登(いちまだ ひさと、1893年(明治26年)8月12日 - 1984年(昭和59年)1月22日)は、日本の銀行家、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。姓は新字体で一万田とも表記される。 日本銀行総裁(第18代)、大蔵大臣(第58・59・60・63代)、衆議院議員(5期)。 日本銀行総裁としての在任期間3115日間は黒田東彦に次ぐ歴代2位である。一萬田自身の鋭い眼光の目つきと彫りの深い容貌もあいまって「法王」の異名を取り、戦後の金融界、経済界に重きを成した。 太平洋戦争後、連合国軍最高司令官総司令部占領下のインフレと資金不足の困窮経済のなか、大蔵省ではなく金融政策を掌る日本銀行が実質的に金融行政を掌握していたことが一萬田の力の背景にあった。
上山 英三(うえやま えいぞう、1893年〈明治26年〉3月… 上山 英三(うえやま えいぞう、1893年〈明治26年〉3月1日 - 1981年〈昭和56年〉11月29日)は、日本の銀行家。台湾銀行頭取、全国相互銀行協会会長などを務めた。日貿信名誉顧問。大日本除虫菊取締役。 和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)出身。1917年3月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。大蔵省に入り、日本銀行監理官・銀行局検査課長・為替局長などを歴任し1937年、日本興業銀行理事に挙げられた。 日仏銀行取締役、商工組合中央金庫理事に選任された。1942年に台湾銀行副頭取に転じ、1944年に頭取に推され、1945年に退任する。1962年、歌会始の召人を務めた。 上山家は和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)の蜜柑農家である。
澁澤 金三郎(しぶさわ きんざぶろう、1892年〈明治25年… 澁澤 金三郎(しぶさわ きんざぶろう、1892年〈明治25年〉11月3日 - 1970年〈昭和45年〉3月8日)は、日本の会社役員、銀行家。三菱銀行取締役。三菱電機監査役。 群馬県新田郡太田町(現太田市)出身。1915年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。第百銀行に入り大阪支店次長、横浜・丸ノ内各支店長を歴任し三菱銀行に転じ郵船ビル支店長、本店審査部副長、日本橋支店長を経て1947年、取締役に就任。 質商・初代澁澤金蔵の孫。二代目澁澤金蔵の二男。三代目澁澤金蔵の弟。趣味はスポーツ。宗教は浄土宗、仏教。住所は東京世田谷区玉川奥沢町 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
石橋 義雄(いしばし よしお、1892年 <明治25年> 8… 石橋 義雄(いしばし よしお、1892年 <明治25年> 8月4日 - 1976年 <昭和51年> 2月26日)は、日本の経営者、銀行家。北國銀行頭取を務めた。位階は従五位。 福岡県出身。1914年に長崎高等商業学校を卒業し、同年5月に日本銀行に入行。 1945年4月に監事に就任し、1947年2月には北國銀行頭取に就任し、1961年1月から1966年7月までに会長を務めた。 1957年に黄綬褒章を受章し、1965年に勲四等旭日小綬章を受章。 1976年2月26日、心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。