保坂 不二夫(ほさか ふじお、1957年5月1日 - )は、… 保坂 不二夫(ほさか ふじお、1957年5月1日 - )は、山梨県韮崎市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。日本サッカー協会公認S級ライセンスを有する。 山梨県立韮崎高等学校や法政大学時代には数多くのタイトル獲得に貢献。1980年からは日本サッカーリーグ2部の東芝サッカー部でプレーを続けた。現役引退後は同サッカー部のコーチを務め、Jリーグ所属のコンサドーレ札幌のトップチームやユースのコーチを務めた。2009年より地元であるJリーグ所属のヴァンフォーレ甲府のユース監督に就任。2011年より同トップチームのコーチに就任した。 2014年2月、山梨県ユースダイレクターおよびJFAインストラクターに就任した(甲府のアカデミーダイレクターを兼任)。
庄子 春男(しょうじ はるお、1957年4月18日 - )は… 庄子 春男(しょうじ はるお、1957年4月18日 - )は、宮城県仙台市出身の元サッカー選手。2023年よりベガルタ仙台のゼネラルマネージャー(GM)を務める。 仙台市立西多賀中学校、宮城県工業高等学校、東北学院大学を経て、1980年に富士通に入社。富士通サッカー部で活躍した。引退後は富士通の工場で働き、人事で採用面接も受け持ち、社員考課にも携わった。 10年間のサラリーマン生活を経た後に、クラブ創設2年前の1995年12月から川崎フロンターレに携わる。最初は運営・広報・チケットなどの業務を行い、強化部長、強化本部長を歴任。選手獲得など現在に至るまでのフロンターレを作り上げた。アマチュアのJFLから出発した当時は庄子を含めてスタッフが3人しかおらず、広報、試合運営などの多忙な業務を分担。
内山 勝(うちやま まさる、1957年4月14日 - )は静… 内山 勝(うちやま まさる、1957年4月14日 - )は静岡県出身の元サッカー選手。ポジションはDF(サイドバック)、MF。元ジュビロ磐田監督の内山篤は実弟。 静岡県立清水東高等学校時代は長澤和明と共に1974年度の高校選手権で準優勝に貢献した。 筑波大学を経て1980年にヤマハ発動機サッカー部に入部。攻撃的なサイドバックとして長澤や内山篤らと共に同サッカー部の上位進出に貢献した。また1985年に日本代表に選出され国際Aマッチ1試合に出場した。
長谷川 治久(はせがわ はるひさ、1957年4月14日 - … 長谷川 治久(はせがわ はるひさ、1957年4月14日 - )は、兵庫県出身の元サッカー選手。 北陽高等学校、大阪商業大学を経て、JSLのヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)でFWとして活躍した。 大学在籍中より日本代表に選出され、モスクワオリンピック予選、ワールドカップ・スペイン大会予選に出場した。 ゴール前での得点感覚に優れ「釜本2世」と称された時期もあったが、1984年以降は極度の不振に苦しんだ。1987年に引退後はヤンマーの関連会社に出向していたが、1994年以降はサッカー界に戻り、Jリーグクラブのフロントスタッフを歴任している。 2007年からはスカパー!でセレッソ大阪のホームゲーム、近年はヴィッセル神戸のホームゲーム解説などを担当。
池谷 孝(いけがや たかし、1957年4月10日 - )は、… 池谷 孝(いけがや たかし、1957年4月10日 - )は、静岡県藤枝市出身のサッカー指導者。 筑波大学卒業後、静岡県サッカー教員団で指導者のキャリアをスタートさせる。以降は地元静岡県を中心に中高生を指導した。2004年にJFA Proライセンスを取得。 2023年7月19日、WEリーグ・ちふれASエルフェン埼玉の監督に就任。66歳にして初の女子の指導となる。 2024年10月16日に検査入院のため指揮から離れることが発表され、12月18日に健康上の都合で正式にちふれASエルフェン埼玉監督を辞任した。
木村 孝洋(きむら たかひろ、1957年4月4日 - )は、… 木村 孝洋(きむら たかひろ、1957年4月4日 - )は、広島県安芸郡府中町 出身の元サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。 現役時代はセントラル・ミッドフィールダーとしてプレーした。 男子(Jリーグ)・女子(なでしこリーグ)双方のトップリーグでクラブを降格させた日本初の監督という不名誉な記録を持っている。一方で、日本代表や年代別日本代表の選手を育てるなど、育成年代の指導実績を持っている。 マツダ本社がある安芸郡府中町出身であり、同町出身の同世代に金田喜稔や猿沢茂がいる。 広島県立広島皆実高等学校、早稲田大学出身。1977年度大学入学、1980年度卒業。卒業同期は原博実。当時の早大学ア式蹴球部同世代の選手として、下條佳明、西野朗、加藤久、岡田武史、城福浩、吉田靖、神戸清雄、関塚隆らがいる。
藤本 貢壽(ふじもと こうじゅ、1957年3月15日 - )… 藤本 貢壽(ふじもと こうじゅ、1957年3月15日 - )は北海道出身の元サッカー選手・指導者。現役時代のポジションはフォワード。現在SC相模原で活躍する元日本代表の藤本淳吾は実子。 1975年に日本鋼管に入社。現役時代は椎間板ヘルニアに見舞われたことなどもあり、主だった活躍は出来なかったが、1980年のJSL杯では、決勝で2ゴールを挙げるなど、チームの初優勝に貢献した。1981年の天皇杯では初優勝してJFL1部に復帰した。 引退後はチームの運営委員などを経て、日本サッカー協会のプロ化検討委員会のメンバーを務めた。 1999年からは横浜栄FCにてアシスタントコーチを6年間務め、Jリーグで活躍している内藤洋平選手、村上巧選手を育成した。
宮成 隆(みやなり たかし、1957年1月28日 - 201… 宮成 隆(みやなり たかし、1957年1月28日 - 2013年6月9日)は、山口県出身のサッカー選手、指導者。 山口県立山口高等学校、早稲田大学卒業。早稲田大学ア式蹴球部に所属し、第27回1978年インカレ優勝などに貢献し、全日本大学選抜や日本B代表などに選出されている。 大学を卒業後、山口に帰郷し高校教員となり、南陽工業高校、小野田高校、そして母校である山口高校で教鞭をとりながら各高校のサッカー部監督を務めた。一方で中国サッカーリーグ所属の山口サッカー教員団(現レノファ山口FC)に入団。1980年に中国リーグ得点王・1981年にアシスト王・1982年に得点王と3つタイトルを獲得した。現役引退後は、山口県サッカー協会の要職を歴任し、常任理事や技術委員長として活躍した。
里内 猛(さとうち たけし、1957年1月11日 - )は、… 里内 猛(さとうち たけし、1957年1月11日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。JFA 公認S級コーチ(1998年 - )。滋賀県出身。大阪経済大学卒業。 選手時代はディフェンダーとして住友金属工業蹴球団に所属した。1988年に引退した後、翌年から同部コーチに就任。その後同部が母体となった鹿島アントラーズで2001年までフィジカルコーチを務め、鹿島の隆盛の基礎を支えた。 鹿島時代からのジーコとの繋がりから、2003年から日本代表チームのフィジカルコーチとなり、2006年のFIFAワールドカップドイツ大会にもスタッフとして帯同した。その後監督がイビチャ・オシムに替わってからも引き続きフィジカルコーチを務めていたが、2006年限りで退任。
野村 貢(のむら みつぐ、1956年11月21日 - )は北… 野村 貢(のむら みつぐ、1956年11月21日 - )は北海道室蘭市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 札幌大学を経て、フジタ工業に所属。また、日本代表として国際Aマッチ12試合に出場した。 引退後、2005年にJFA 公認S級コーチライセンスを取得。2007年2月1日付けで、なでしこリーグ2部所属の東京電力女子サッカー部マリーゼ(TEPCOマリーゼ)監督に就任し、チームを1年で1部に復帰させた。2008年シーズン終了後に退任。湘南学院高等学校女子サッカー部の監督も務めた。2015年現在、相模原フットボールクラブのクラブ理事/ユース監督。 この項目は、サッカー選手に関連した書きかけの項目です。
池上 正(いけがみ ただし、1956年10月31日 - )は… 池上 正(いけがみ ただし、1956年10月31日 - )は、大阪府出身のサッカー指導者。日本サッカー協会(JFA)公認A級(U-12)およびJFA公認キッズリーダーインストラクターのライセンスを保有している。 大阪府の出身。大阪体育大学卒業後からサッカー指導者となり、大阪YMCAでキッズ部門の指導を担当した。2002年、ジェフユナイテッド市原(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)の育成・普及部コーチに就任、その後もアカデミー育成コーチを務めた。 2011年1月に千葉のコーチを退任。その後、自ら「特定非営利活動法人I.K.O.市原アカデミー」を立ち上げた。また、同年はVONDS市原の監督も務めた。
大渕 龍介(おおふち りゅうすけ、1956年10月1日 - … 大渕 龍介(おおふち りゅうすけ、1956年10月1日 - )は、熊本県出身の元サッカー選手。サッカー解説者、指導者。「大淵龍介」とも表記される。2007年2月からV・ファーレン長崎の監督に就任するが、シーズン開幕前の3月24日に解任。
岡田 武史(おかだ たけし、1956年8月25日 - )は、… 岡田 武史(おかだ たけし、1956年8月25日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現在はFC今治運営会社「株式会社今治.夢スポーツ」代表取締役、日本エンタープライズの社外取締役、城西国際大学特任教授、日本サッカー協会参与(名誉役員)、ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ理事、学校法人今治明徳学園学園長。 選手時代のポジションはディフェンダー(センターバック)。古河電気工業サッカー部(現・ジェフユナイテッド千葉)でプレーし、サッカー日本代表として国際Aマッチ24試合に出場。 現役引退後は指導者の道に進み、サッカー日本代表のコーチを務めていた1997年、加茂周の更迭に伴って監督に昇格。
楚輪 博(そわ ひろし、1956年5月1日 - )は、日本の… 楚輪 博(そわ ひろし、1956年5月1日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。広島県広島市生まれ、広島県・大阪府育ち。 県立広島工業時代は金田喜稔、木村和司、石崎信弘、猿沢茂らとスペクタクルなサッカーを展開し高校選手権などで活躍した。法政大学時代はユース代表の主将も務めた。 卒業後、ヤンマーディーゼルサッカー部に入部。得意のプレイスキックで中心選手として活躍。現役晩年の釜本邦茂のパートナーでもあった。1981年アシスト王、ベストイレブン5回、日本サッカーリーグ(JSL)191試合出場は歴代17位。日本代表経験もある。1990年に現役を引退した。 1994年にセレッソ大阪のサテライト監督に就任。
加藤 久(かとう ひさし、1956年4月24日 - )は、日… 加藤 久(かとう ひさし、1956年4月24日 - )は、日本のサッカー指導者、元サッカー選手、スポーツ研究者(博士(学術))。宮城県宮城郡利府町出身。 県内屈指の進学校である宮城県仙台第二高等学校の出身。仙台二高在学時より将来を嘱望され、早稲田大学に憧れていたため、猛勉強の末に一般入試で同大教育学部へ進学(同じ18歳入学の同級生たるPL学園高校硬式野球部の不動の3番二塁手だった金森栄治とは現在も大親友)、早稲田大学ア式蹴球部へ入部、DFやディフェンシブな中盤の選手としてプレーした。関東大学リーグや大学サッカー選手権を始め多くのタイトルを獲得した。また在学中の1977年に日本代表に選出された。 1979年に早稲田大学を卒業し、1年のブランクを経て1980年からは日本サッカーリーグ(JSL)1部の読売サッカークラブに入団。
廣瀬 龍(ひろせ りゅう、1956年4月19日 - )は、日… 廣瀬 龍(ひろせ りゅう、1956年4月19日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。帝京高校、中央大学卒業。 サッカー選手としては、1974年度の全国高等学校サッカー選手権大会で主将として帝京高校を初優勝へと導き、その後は中央大学やフジタ工業でプレーした。 選手引退後は指導者の道に進み、1988年に帝京第三高等学校サッカー部の監督に就任。その後帝京大学監督を経て、2003年に古沼貞雄の後任として古巣である帝京高校の監督に就任。2011年まで指揮を執った。教え子に稲垣祥、高木利弥、徳武正之、桑島良汰、内田裕久、息子の廣瀬公紀、ROLANDらがいる。 2013年4月から鹿島学園の総監督を務め、2015年にソウルデジタル大学校(朝鮮語版)監督に就任した。
横山 正文(よこやま まさふみ、1956年4月10日 - )… 横山 正文(よこやま まさふみ、1956年4月10日 - )は、日本の元サッカー選手。ポジションはFW(ウインガー)。長崎県出身。 島原工業高校卒業後、日本サッカーリーグ1部の新日本製鐵サッカー部に入部。中心選手として活躍したが、かつての強豪も1970年代以降は低迷を続けており、タイトルに縁は無かった。また同サッカー部は1982年に2部へ降格したが、移籍する事なくプレーを続行。 1983年からは主将を務め、1986-1987年はコーチ兼任選手としてプレーした。 日本代表では、川渕三郎監督時代のモスクワオリンピックアジア予選、ワールドカップ・スペイン大会アジア予選(ともに1980年)でウイングのレギュラーとして全試合に出場。
鈴木 武一(すずき たけかず、1956年4月8日 - )は、… 鈴木 武一(すずき たけかず、1956年4月8日 - )は、宮城県塩竈市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはミッドフィルダー。 日本サッカーリーグ成績
須藤 茂光(すどう しげみつ、1956年4月2日 - )は、… 須藤 茂光(すどう しげみつ、1956年4月2日 - )は、北海道三笠市奔別 出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー(サイドバック、センターバック)。 中学2年の時に神奈川県に移る。中央大学在学中の1978年に日本代表に初選出され、代表Aマッチ13試合に出場。日立製作所に進み、1979年のJSLで新人王を獲得した。 引退後はフットサル日本代表や中央大学の監督、柏レイソルのコーチ、日本サッカー協会のナショナルトレセンコーチなどを歴任。2001年よりU-16日本代表の監督に就任。2005年にJFAエリートプログラムU-13監督、2006年にJFAエリートプログラムU-14監督を務めた。
高間 武(たかま たけし、1956年2月18日 - )は、京… 高間 武(たかま たけし、1956年2月18日 - )は、京都府出身の元サッカー選手(MF)、サッカー指導者。 京都商業高校→大阪体育大学を経て、卒業後の1978年に日産自動車へ入部。9年間にわたってMFとして活躍し、2度の天皇杯優勝を経験した。1988年に地元の京都紫光クラブへ移籍し、1991年限りで現役を引退。 引退後はコーチ専任となり、1993年、紫光クラブから名称変更した教育研究社FC京都パープルサンガの監督に就任するも、JFL1部最下位に終わる。その後は京都のコーチ兼サテライト監督(1994年 - 1996年)、普及育成コーチ(1997年 - 1998年)を歴任し、退団後はヴィッセル神戸のコーチ兼サテライト監督(1999年 - 2000年)を務める。
勝俣 進(かつまた すすむ、1956年2月17日 - )は、… 勝俣 進(かつまた すすむ、1956年2月17日 - )は、山梨県富士吉田市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、元地方公務員、政治家。元山梨県富士吉田市議会議員(4期)。現役時代のポジションはFW。 小学校よりサッカーを始め、山梨県立甲府工業高校を経て、法政大学に入学。在学中はサッカー部に所属した。1978年に大学を卒業して富士吉田市役所に勤務。また、甲府サッカークラブ(現在のヴァンフォーレ甲府)に加入した。1984年に現役を引退した。 1993年に富士吉田市役所を退職し、ドイツのサッカークラブ、ヴェルダー・ブレーメンにアシスタントコーチとして就任後、1994年に甲府クラブの監督に就任したが、同年で退任した。
野見山 篤(のみやま あつし、1956年2月2日 - )は、… 野見山 篤(のみやま あつし、1956年2月2日 - )は、福岡県飯塚市出身の元サッカー選手、サッカー指導者である。 1975年3月に福岡県立嘉穂高等学校を卒業後、早稲田大学教育学部に入学。大学時代は早稲田大学ア式蹴球部に在籍した。 早稲田大学卒業後、1979年4月に住友金属工業蹴球団(現・鹿島アントラーズ)に入団。2年目からキャプテンとなり、選手として6シーズンのあいだプレー。選手との兼任でコーチおよび主務も務めた。クラブが日本サッカーリーグ1部に昇格した1985年に監督代行、1986年から1988年まで監督を務めた。監督在任中は1年目に降格したが、1986-87シーズンにJSL2部で優勝して1年で1部に復帰した。
坪田 和美(つぼた かずみ、1956年1月23日 - )は、… 坪田 和美(つぼた かずみ、1956年1月23日 - )は、長崎県出身のサッカー選手、サッカー指導者。 法政大学から1979年にヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)へ入る。入部前から「大学ナンバーワンGK」との呼び声も高く、前年に入団していたユース代表・鈴木康仁とポジション争いを演じ、1980年から翌年にかけては二人そろって日本代表に選出されていた。1980年、前年に退部した垣内輝久から背番号1を受け継ぐと、1981年からは鈴木を退け6年連続で全試合出場し、不動のヤンマーの守護神となった。 1992年に引退後はC大阪コーチ、サガン鳥栖ヘッドコーチを経て、2003年からアイン食品サッカー部監督、2007年度からグランセナ新潟FCの監督に歴任。
鵜飼 哲也(うかい てつや、1956年1月1日 - )は、日… 鵜飼 哲也(うかい てつや、1956年1月1日 - )は、日本の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー(ストッパー、サイドバック)。息子の鵜飼宏長(JFL)、鵜飼建吾(J2)も元サッカー選手。 滋賀県立甲賀高等学校(現・水口高等学校)を卒業し、1974年に日本サッカーリーグ1部の古河電気工業サッカー部に入る。 大型フルバックとしてプレーするが、怪我に泣かされるシーズンも目立った。1982年8月に行われたJSLカップは、5試合すべてにフル出場し優勝。また、同年11月の日ソ親善サッカーでは、JSL選抜チームとして古河から、宮内聡、早稲田一男、佐藤長栄とともに出場している。その後29歳で引退。 JSL選抜チーム(1982年)1試合0得点
服部 康雄 (はっとり やすお、1956年 - )は日本出身… 服部 康雄 (はっとり やすお、1956年 - )は日本出身のサッカー指導者、元サッカー選手。選手時代のポジションはMF。静岡県教育委員会スポーツ振興室主席指導主事を経て、静岡県立静岡西高等学校副校長、静岡県立島田工業高等学校校長。現在は静岡県サッカー協会専務理事を務める。 藤枝市立藤枝中学校3年次の全国中学校サッカー大会で準優勝。高校は地元の静岡県立藤枝東高等学校へ進学。1年次からレギュラーの座を掴み、1972年度、1973年度の全国高等学校サッカー選手権大会では中村一義らと共に2年連続準優勝に貢献した。 大学は東京教育大学(筑波大学の前身)に進学したが腰の怪我のためトップレベルでのプレーを断念。
竹本 一彦(たけもと かずひこ、1955年11月22日 - … 竹本 一彦(たけもと かずひこ、1955年11月22日 - )は、日本のサッカー指導者。愛知県出身。元女子サッカー選手・現サッカー指導者の高倉麻子は妻。 1980年に読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ)にユースコーチとして入団。その後、女子チームの読売西友ベレーザ(現在の日テレ・ベレーザ)に移り、1986年から11年間監督を務めた。この間、1984年から1986年までは日本女子代表のコーチも務めている。 読売退団後は1999年から2004年までガンバ大阪、2005年は柏レイソルのコーチを務める。2001年と2005年はシーズン途中から監督(2005年は代行)を務めた。 柏での監督代行は天皇杯全日本サッカー選手権大会の1試合だけだったが、天皇杯終了後、ゼネラルマネージャー(GM)に就任した。
松浦 敏夫(まつうら としお、1955年11月20日 - )… 松浦 敏夫(まつうら としお、1955年11月20日 - )は、神奈川県横浜市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 1980年代の日本において突出した190cm・80kgの恵まれた体躯と俊足を兼ね備えたストライカー。長身を活かしたヘディングだけでなく、ポストプレーや両サイドへ流れてのチャンスメイクやアシスト役も務めていた。 神奈川県立横浜緑ケ丘高校、早稲田大学(同期に西野朗)を経て、1978年に日本サッカーリーグ1部の日本鋼管に入部。チームの先輩・藤島信雄と共に中心選手として活躍、1980年代前半にはJSL2部降格も味わったが、1部復帰後は2シーズン連続得点王 (1986-87, 1987-88) の活躍を見せ、中堅チームである日本鋼管の3シーズン連続準優勝に貢献した。
石橋 智之(いしばし さとゆき、1955年11月16日 - … 石橋 智之(いしばし さとゆき、1955年11月16日 - )は、愛媛県宇和島市出身のサッカー指導者。元愛媛FC総監督、元愛光学園体育科教諭。元宇和島市長の石橋寛久は兄。 宇和島東高、筑波大学卒。 1978年に、南宇和高に赴任して以来、13年間で選手権出場9回、四国代表33回。1990年には高校選手権で全国制覇を成し遂げ四国勢として初優勝に導く等、1980年代後半から1990年代中盤にかけて全国屈指の強豪校に育て上げた。 同校では實好礼忠、大森健作、西田吉洋、友近聡朗、大木勉など多数の教え子をJリーグに送り出している他、愛媛県国体選抜監督時代には福西崇史を指導した。1996年にはU-17サッカー日本代表監督も務めている。
早野 宏史(はやの ひろし、1955年11月14日 - )は… 早野 宏史(はやの ひろし、1955年11月14日 - )は、神奈川県川崎市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者。 神奈川県立生田高等学校を経て、中央大学法学部政治学科を卒業。1978年、のちに横浜F・マリノスの母体となる日産自動車サッカー部に加入。小柄だがスピードに乗ったドリブル突破とゴール近くで得点感覚に優れたFWとして活躍した。中央大学時代の後輩金田喜稔、その金田の高校時代の後輩木村和司とともに、当時日産ターボトリオと称される。 12年間の現役選手生活を経て1987年から日産サッカー部の下部組織である日産ファーム(現在のサテライトチーム)、日産ユース、日産FCレディースなどで監督として指導者の下積みを送った。
西真田 佳典(にしまた よしのり、1955年11月5日 - … 西真田 佳典(にしまた よしのり、1955年11月5日 - )は、サッカー選手代理人。プロサッカー選手とクラブチーム側との交渉面を担当する。 父は徳島県サッカー協会名誉会長だった西真田英昭、弟は京都パープルサンガやヴィッセル神戸等でチーム強化部長職を務めた西真田光司。 徳島商業高等学校から中央大学へ進む。大学では早野宏史と同期だった。 1997年にFIFA代理人制度試験に合格し、ライセンスを取得。 日本人代理人の草分け的存在として活躍し、日本人で最も多くの選手、監督の契約、移籍交渉を手がけたといわれている。 また、「サッカーショップKAMO」で知られる加茂商事、及びJSP(ジャパン・スポーツ・プロモーション)の取締役を務めている。
田中 孝司(たなか こうじ、1955年11月2日 - )は、… 田中 孝司(たなか こうじ、1955年11月2日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身 の元サッカー選手。元日本代表。サッカー指導者。サッカー解説者。ポジションはMF、DF。 明治大学を経て、1978年に日本サッカーリーグの日本鋼管サッカー部(のちのNKK)に入部。JSL1部で通算143試合出場を記録した。1982年1月16日のボカ・ジュニアーズ戦で日本代表として初出場した。なお、国際Aマッチで通算20試合3得点を記録して日本代表の主将も務めた。なお、1982年1月に行われた日本代表vsボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)との3試合で、ディエゴ・マラドーナとマッチアップした。 1988年に引退後は1989年から1992年までNKKのコーチを務めた後、1993年にはU-18日本代表の監督を務め、1995年から名古屋グランパスエイトのコーチに就任した。
池田 洋二(いけだ ようじ、1955年10月18日 - )は… 池田 洋二(いけだ ようじ、1955年10月18日 - )は、鳥取県出身のサッカー選手、サッカー指導者。中野区立第六中学校/東京都立鷺宮高等学校/東京学芸大学卒業。 中学時はFW、高校時はセンターバック、高校3年時に東京代表となり関東大会に出場。また、東京都予選の決勝(帝京戦)での活躍により、帝京の古沼貞雄監督の目にとまり 廣瀬龍(帝京)、加藤好男(本郷)らと共に国体東京代表となり順当に勝ち上がるが、準決勝で西野朗(浦和西)を擁する埼玉代表に敗れて全国ベスト4。大学時も大学選抜選手(大学の後輩には久留米高校監督の齋藤登がいる)。 1975年に1985年国体が鳥取県開催に決定し、出身の鳥取県に戻り、小・中・高校の体育教師を務める。
秋田 浩一(あきた こういち、英語: Koichi Akit… 秋田 浩一(あきた こういち、英語: Koichi Akita、1955年9月2日 - )は、日本の元サッカー選手、指導者、体育学者。駒澤大学体育会サッカー部監督、駒澤大学教授。関東大学サッカー連盟副会長。 茨城県日立市出身。茨城県立水戸商業高等学校、駒澤大学卒業。その後、体育の教員資格を取得するため国士舘大学に編入学し、1981年3月卒業(体育学、学士)。国士舘大で2年間学びながらサッカーも続け、U23日本代表監督の山本昌邦や元日本代表の柱谷幸一らとも一緒にプレー。1979年の総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントで国士舘大は初優勝した。ポジションは高校大学ともセンターフォワード(CF)。1982年、駒澤大学に助手として採用され、サッカー部コーチとなる。
久米 一正(くめ かずまさ、1955年7月26日 - 201… 久米 一正(くめ かずまさ、1955年7月26日 - 2018年11月23日)は、静岡県出身の元サッカー選手。(公社)日本プロサッカーリーグ参与。 永きにわたって複数のJリーグクラブでゼネラルマネージャー(GM)をはじめとするクラブ強化担当を歴任しており、日本のサッカー界におけるGMの草分け的存在として知られる。 静岡県浜松市出身。静岡県立浜名高等学校ではサッカー部主将として活躍。後にチームメイト、さらには監督と強化担当という間柄となる西野朗とは高校時代から面識があり、西野曰く「泥んこが似合う“暴れん坊”」だったという。高校卒業後は母子家庭で苦労をかけた母を助けるために地元の実業団に入社を予定していたが、逆に母から「将来のために、人脈を広げてきなさい」と地元を出るように勧められたこともあり中央大学に進学。
鬼塚 忠久(おにづか ただひさ、1955年7月3日 - )は… 鬼塚 忠久(おにづか ただひさ、1955年7月3日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード。滋賀県甲賀郡甲西町(現・湖南市)出身。 滋賀県立甲賀高校時代、高校選手権、インターハイ、国体に出場。卒業後の1974年に日本サッカーリーグ1部の古河電気工業サッカー部(現 ジェフユナイテッド市原・千葉)へ入部し、1年目からレギュラーの座を獲得。以後、ウインガーとして古河の黄金時代を支え、1982年シーズンにはアシスト王にも輝いた。サイドからのドリブル突破を持ち味とし、得点能力も高かった。 引退後は、芸能人で結成されたサッカーチーム、ザ・ミイラにも所属していた。また、解説者やサッカースクールのコーチなどを経て、2004年に古河時代のチームメイトだった前田秀樹が監督を務める水戸ホーリーホックの強化部長兼取締役に就任。
河内 勝幸(かわち かつゆき、1955年4月27日 - )は… 河内 勝幸(かわち かつゆき、1955年4月27日 - )は、広島県出身の元サッカー日本代表選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。 県立広島工業(通称・県工)時代は一年からレギュラーとなり1971年、徳島高校総体準優勝(0-3藤枝東)。第14回アジアユース選手権(AFCユース選手権)日本代表にも選ばれた。高校選手権には三年連続出場。二年連続で大会優秀選手に選ばれ、三年時には再びユース日本代表に選ばれた。楚輪博は1学年、金田喜稔と石崎信弘は2学年下となる。木村和司は3学年下。 その後、大阪商業大学へ入学し、上田亮三郎から指導を受け、西村昭宏、加藤好男、中村重和らとプレー。 大学卒業後、東洋工業(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)へ。
中村 一義(なかむら かずよし、1955年4月8日 - )は… 中村 一義(なかむら かずよし、1955年4月8日 - )は、日本の元サッカー選手。現役時代のポジションはFW(左ウイング)。静岡県藤枝市出身。川崎フロンターレの前身である富士通サッカー部などに所属し、日本代表としても、国際Aマッチ5試合に出場し1得点した。 西益津中学校3年次に全国中学校サッカー大会優勝に貢献し注目される。高校はサッカーの名門藤枝東高校に進学するとレギュラーの座を掴み、4-2-4システムを採用する同校の左ウイングとして、第51回大会(1973年)と第52回大会(1974年)の全国高校サッカー選手権大会の2年連続準優勝に貢献した。主将として挑んだ3年次の高校選手権決勝の北陽高校戦では自身の上げた得点がオフサイドと判定される不運もあった。
西野 朗(にしの あきら、1955年4月7日 - )は、埼玉… 西野 朗(にしの あきら、1955年4月7日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 現役時代のポジションは主にミッドフィールダー(MF)で元日本代表。元日本代表監督、元タイ代表監督。2018 FIFAワールドカップでは日本代表を率いた。 J1リーグの監督として通算勝利数270は歴代1位。 地元である大宮サッカー場に来る日本代表選手に憧れるサッカー少年だった。三菱ダイヤモンド・サッカー(テレビ東京)の視聴者プレゼントに応募し、シューズをもらった経験があるという。 さいたま市立原山中学校を卒業後、1970年埼玉県立浦和西高等学校に入学。全国高等学校サッカー選手権大会ではベスト8進出。
山野 孝義(やまの たかよし、1955年4月5日 - )は、… 山野 孝義(やまの たかよし、1955年4月5日 - )は、大阪府出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者。 北陽高等学校では1973年度に全国高校サッカー優勝。大阪商業大学卒業後、1978年ヤンマー入社。この年サッカー日本代表に選出(代表Aマッチ出場2試合)。1980年には日本サッカーリーグ(JSL)優勝。JSL1部通算成績は125試合4得点3アシスト。 1984年ヤンマーを退社、大阪ガスサッカー部で選手としてプレーするかたわら同部コーチにも就任。その後出身校である大商大のコーチなどを務め、1999年にはS級ライセンスを取得、長崎県立国見高等学校サッカー部コーチに就任。 2001年には東京ヴェルディ1969のコーチに就任するが、成績不振の責任を取ってシーズン途中でサテライト監督に降格、1年限りで退任。
岡島 俊樹(おかじま としき、1955年3月18日 - )は… 岡島 俊樹(おかじま としき、1955年3月18日 - )は、富山県出身の元サッカー選手。ポジションはFW。 富山工業高校卒業後、当時日本サッカーリーグ(JSL)2部の読売クラブに入団し、与那城ジョージ、小見幸隆、松木安太郎らと共にプレー。背番号「11」を付け、1975年から3年連続でJSL2部の得点王に輝いた。当時はオランダ人監督フランツ・ファン・バルコムの勧めで、また教員になるため東海大学体育学部へ入学し、選手生活と大学生活を両立していた。 1978年にチームが1部昇格後も、1978年・1979年と得点ランク3位に入るなど読売のエースとして活躍。また、1978年には日本代表にも選出され、国際Cマッチに1試合出場した(1978年3月26日、朝日国際サッカー大会、日本代表対アムール・ブラゴベシェンスク(ソ連)戦)。
小滝 勇一(こたき ゆういち、1955年2月28日)は広島県… 小滝 勇一(こたき ゆういち、1955年2月28日)は広島県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 実兄は東洋工業でディフェンダーとして活躍した小滝強と小滝春男。三兄弟が同時期に日本のトップリーグでプレーした初のケース。 現役時代はフジタ工業でプレー。強シュートが持ち味のフォワードで、1977年、1979年、1981年の日本サッカーリーグ1部優勝、1977年、1979年の天皇杯優勝時のメンバーとしてフジタ工業の全盛期を支えた。 引退後はフジタ社員、1991年には中国サッカーリーグの広島フジタSCの監督に就任。1995年にはチームを中国リーグで優勝に導いた。 ・JSL東西対抗戦 1回出場(1981年)
奥村 優之(おくむら まさゆき、1955年2月23日 - )… 奥村 優之(おくむら まさゆき、1955年2月23日 - )は、福岡県北九州市出身の元教諭、サッカー指導者。 アンジュヴィオレ広島ゼネラルマネージャー 兼 監督を務めた。その後、ディアヴォロッソ広島の2023シーズンGM。 北九州市出身。幼いころは野球少年だったが転校した先では野球部がなかったため、サッカー部へ入り以降サッカーを続ける。 北九州市立大学卒業後、今後サッカーを指導していこうと教員を志し、以降は広島県の公立高校英語教諭(地方公務員)一筋で勤務した。まず広島県立佐伯高等学校に赴任し、同校サッカー部(男子)を創設する。 女子サッカー指導は、広島県立廿日市高等学校に赴任して以降のことで、同校にあった女子サッカー同好会を広島県内で初となる高校女子サッカー部として正式に立ち上げた。
榎木 幸二郎(えのき こうじろう、1955年2月15日 - … 榎木 幸二郎(えのき こうじろう、1955年2月15日 - )は、日本の元サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード。 1977年に日本サッカーリーグ2部の本田技研工業フットボールクラブに入部。178cmで65kgと極端に細身の体型だが、スピードあふれるサイド突破とヘディングでチームに貢献した。MF伊藤直司との連携は要所で機能し、チームが1981年から1部リーグに定着する礎を築いた。
鈴木 政一(すずき まさかず、1955年1月1日 - )は、… 鈴木 政一(すずき まさかず、1955年1月1日 - )は、山梨県出身の元サッカー選手・サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー。 サッカーを始めたのは中学3年の時と遅かったが、山梨県立石和高等学校、日本体育大学ではそれぞれ主将を務めた。大学時代は全日本大学サッカー選手権大会で法政大学を破り優勝も経験している。その後1977年にヤマハ発動機サッカー部(Jリーグ所属のジュビロ磐田の前身)に入団。以来、2010年まで選手・指導者時代を通して30年以上ヤマハ・磐田に在籍した(ちなみにプロ契約はしていない「サラリーマン」であった)。選手としては1982年の天皇杯に優勝している。 1984年にヤマハのコーチに就任後、1995年までヤマハでコーチ・総監督、磐田でサテライト監督を務め、その後はフロント入りしていたが、2000年6月にトップチームのコーチとして現場に復帰。
今井 稔(いまい みのる、1955年 - )は、日本のサッカ… 今井 稔(いまい みのる、1955年 - )は、日本のサッカー指導者、教師。帝京大学可児高等学校中学校サッカー部総監督。
今井 敏明(いまい としあき、1954年12月29日 - )… 今井 敏明(いまい としあき、1954年12月29日 - )は、埼玉県出身のサッカー指導者、元サッカー選手。 浦和西高校、早稲田大学を卒業後、富士通でプレーした。日本サッカーリーグ1部で31試合に出場した。 引退後は、母校の浦和西高校、早稲田大学でコーチを務めた後、1990年代に、富士通(後の川崎フロンターレ)、東京ガスなどで監督などを務めた。2000年代後半からはチャイニーズタイペイの男子代表や女子代表、モンゴル代表の監督なども務めた。
福井 哲(ふくい さとる、1954年12月16日 - )は、… 福井 哲(ふくい さとる、1954年12月16日 - )は、兵庫県出身のサッカー指導者。 学生時代はスピードに優れドリブルを得意としたサイドアタッカーだった。 立命館大学を卒業し社会人として4年間を過ごした後、サッカー指導者を志して東京学芸大学大学院に入学。同大学サッカー部のヘッドコーチ及び監督を務めた傍ら、1993年には調布市青年会議所が中心となって組織された「東京にプロサッカーチームをつくる会」にサッカー有識者として加わり事務局長を務めた。 その後は日本サッカー協会での指導者養成と併行し、長年に渡って東京ガスサッカー部及び同部がプロ化したFC東京において育成部長やアカデミーアドバイザーとして選手育成に携わった。
奈良 知彦(なら ともひこ、1954年11月8日 - )は、… 奈良 知彦(なら ともひこ、1954年11月8日 - )は、群馬県出身のサッカー指導者。 前橋市立第五中学校 - 習志野市立習志野高等学校 - 東海大学。習志野高では第50回全国高等学校サッカー選手権大会で優勝。大学卒業後の1977年、群馬県立前橋商業高等学校に着任し、サッカー部監督に就任。全国高校サッカー選手権大会10回出場。第67、68回全国高等学校サッカー選手権大会では服部浩紀、鳥居塚伸人らを擁して2年連続ベスト4。サッカー不毛の地であった群馬県をサッカーどころへと押し上げた。前橋商監督時代は山田耕介監督率いる前橋育英高と並んで群馬の双璧を築く。 前橋商業で27年間、サッカー部を指導したのち群馬県立藤岡工業高等学校教頭、前橋市立前橋高等学校教頭、校長を歴任。
清水 秀彦(しみず ひでひこ、1954年11月4日 - )は… 清水 秀彦(しみず ひでひこ、1954年11月4日 - )は、東京都出身の元サッカー選手(FW、MF)・サッカー指導者、サッカー解説者。 浦和市立高3年次の1972年に高校サッカー選手権優勝を経験し、法政大学経営学部卒業後の1977年に日産自動車サッカー部に入部。1983年にはセンターFWのポジションを柱谷幸一に譲り、豊富な運動量、中盤のディフェンシブなMFとしてプレー。冷静な判断力と高い戦術眼を生かし、攻守のバランスを整える存在となり、好守に活躍してチームの躍進に貢献。1985年からはコーチ兼任となり、1988年限りで現役を引退。 引退後は日産→横浜マリノスでヘッドコーチ(1989年 - 1990年)、監督(1991年 - 1994年)を務めた。
上西 一雄(うえにし かずお、1954年11月1日 - )は… 上西 一雄(うえにし かずお、1954年11月1日 - )は、滋賀県出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはFW(主にウイング)。 滋賀県立甲賀高等学校(現・水口高等学校)を卒業後、1973年にJSL1部のヤンマーディーゼルサッカー部に入部。左足タッチのドリブルを得意とし、現役の13年間では、釜本邦茂、吉村大志郎、今村博治、阿部洋夫、堀井美晴、楚輪博、長谷川治久らとヤンマーの攻撃陣を支えた。