田中 尊(たなか たかし、1936年4月11日 - 2005… 田中 尊(たなか たかし、1936年4月11日 - 2005年5月12日)は、香川県高松市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。
職業が野球:7,475人
田中 尊(たなか たかし、1936年4月11日 - 2005… 田中 尊(たなか たかし、1936年4月11日 - 2005年5月12日)は、香川県高松市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。
巽 一(たつみ はじむ、1936年4月8日 - )は、三重県… 巽 一(たつみ はじむ、1936年4月8日 - )は、三重県多気郡宮川村(現・大台町)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。 四日市高校では1954年にエースとして春季中部大会決勝に進み、岡崎高の河井学(のち毎日オリオンズ)と投げ合うが惜敗。同年夏の甲子園三重県予選も勝ち抜くが、三岐大会準決勝で森昌彦のいた岐阜高に敗退し、甲子園には届かなかった。高校同期に島田光二がいた。四日市高校は翌1955年に左腕エース高橋正勝を擁し、夏の甲子園で優勝している。 卒業後は慶應義塾大学へ進学。東京六大学野球リーグでは、1956年秋季リーグで衆樹資宏・中田昌宏らの強力打線に援護され、エースの林薫との二本柱で優勝を果たす。
鈴木 徹(すずき とおる、1936年4月4日 - 2004年… 鈴木 徹(すずき とおる、1936年4月4日 - 2004年12月22日)は、宮城県大崎市古川(旧・古川市)出身のプロ野球選手・審判員。 宮城県大崎市古川(旧・古川市)の古川高校を卒業後、1955年に内野手として大洋ホエールズに入団。同期に伊藤春男がいる。一軍出場のないまま引退し、1963年にセ・リーグ審判員に転じる。1963年~1993年まで31年間審判員を務め、2539試合に出場したのち、1993年シーズン終了後引退。また、1992年から1993年までは審判部主任を務めた。審判員袖番号は17。 日本シリーズの出場はないが、オールスターは4回出場、1992年第2戦(7月19日・千葉マリンスタジアム、ヤクルトの古田敦也がオールスター史上初のサイクルヒットを達成した試合)では右翼線審、出身地(宮城球場)での開催となった第3戦では球審を務めた。
田原 藤太郎(たはら とうたろう、1936年3月30日 - … 田原 藤太郎(たはら とうたろう、1936年3月30日 - 2018年12月30日)は、北海道札幌市出身のプロ野球選手(投手)。兄は、元プロ野球選手の田原基稔。 兄の影響で野球を始め、北海高では、1年夏の甲子園に控え投手としてベンチ入りするなど将来を嘱望された。2年次からエースとなるが、1952年夏の北海道大会では、1回戦で太田侃(元近鉄)・橋本力(元毎日)・渡部久仁男(元巨人)らを擁する函館西高に0対10と7回コールド負けを喫する。以後は当時の監督であった筧智の指示で、1日800球の投げ込みや走り込み、100本ノックなどの猛練習でスタミナをつける。同年の秋季大会では、決勝で再び函館西高と顔を合わせるが、8対1で快勝して雪辱を果たし、翌1953年の選抜出場を果たす。
原 貢(はら みつぐ、1936年〈昭和11年〉3月30日 -… 原 貢(はら みつぐ、1936年〈昭和11年〉3月30日 - 2014年〈平成26年〉5月29日)は、佐賀県神埼郡三田川町(現:吉野ヶ里町)出身のアマチュア野球監督・社会人野球選手。東海大学硬式野球部名誉総監督。 長男は元プロ野球選手・監督の原辰徳。孫(長女の長男)はプロ野球選手の菅野智之。 佐賀県立鳥栖工業高校卒業、立命館大学中退。社会人野球の東洋高圧大牟田を経て、福岡県立三池工業高等学校野球部監督に就任。1965年に無名校を初出場にして夏の甲子園大会の優勝へと導き、三池工フィーバーを起こした。 その後、三池工での戦いぶりと原の生き様に感銘を受けた東海大学の創設者:総長松前重義の招きで1966年12月9日に大牟田を発ち、翌10日に神奈川県着。
平岩 嗣朗(ひらいわ つぐお、1936年3月25日 - )は… 平岩 嗣朗(ひらいわ つぐお、1936年3月25日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。1958年から1960年の登録名は平岩 次男。
瓦谷 嘉宏(かわらたに よしひろ、1936年3月21日 - … 瓦谷 嘉宏(かわらたに よしひろ、1936年3月21日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手。 尼崎北高校から大阪商業大学を経て1958年に近鉄パールスへ入団。1966年に引退。
栗本 光明(くりもと みつあき、1936年3月13日 - 2… 栗本 光明(くりもと みつあき、1936年3月13日 - 2013年6月1日)は、広島県府中市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ。 福山工業高校では2年次の1953年、夏の甲子園予選西中国大会に進出するが、1回戦で岩国高に敗退。卒業後は1955年に倉敷レイヨンへ入社し、岡山工場営繕課に勤務する傍ら、1957年から1961年まで5年連続で後楽園に出場するなどエースとして活躍。1959年の選抜京都大会では5月2日の1回戦で日本新薬を相手に5回途中からリリーフ、延長29回まで24回2/3を投げ切るが、スクイズを決められ敗戦投手となった。同年の都市対抗では準々決勝に進むも大昭和製紙に9回裏サヨナラ負けを喫するが、秋の産業対抗では初優勝を飾る。
大沼 清(おおぬま きよし、1936年3月12日 - )は、… 大沼 清(おおぬま きよし、1936年3月12日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。 白石高校では、エースとして1953年夏の甲子園に出場。1回戦で熊本高に敗退。 1955年に国鉄スワローズへ入団。1956年に一軍に上がり、9月18日には大洋ホエールズを相手に初先発。しかしその後は登板機会がなく、1957年限りで退団、社会人野球の富士重工に移った。
稲垣 博愛(いながき ひろよし、1936年3月12日 - )… 稲垣 博愛(いながき ひろよし、1936年3月12日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手。 愛知県西尾市一色町(旧 幡豆郡一色町一色)生まれ 町立一色中部小学校 〜町立一色中学校 〜愛知県立西尾高等学校 〜愛知大学へ進学。愛知大学リーグでは通算65試合に登板し46勝7敗(中日スポーツのスコア記事より)。リーグ記録とされている西崎幸広の37勝を超える成績を挙げている。三菱重工名古屋硬式野球部〜新三菱重工名古屋を経て、1961年に東京ヤクルトスワローズ (国鉄スワローズ)へ入団。1964年に引退。
安原 達佳(やすはら たつよし、現在の姓は渡邉、1936年3… 安原 達佳(やすはら たつよし、現在の姓は渡邉、1936年3月5日 - 2015年4月1日)は、岡山県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、外野手。
池田 啓一(いけだ けいいち、1936年3月3日 - )は、… 池田 啓一(いけだ けいいち、1936年3月3日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手。 榛原高校から1954年に毎日オリオンズへ投手として入団。1956年から内野手に転向、同年は主に二塁手として19試合に先発出場。しかし1957年には出場機会が減少し、同年限りで引退。
近藤 和彦(こんどう かずひこ、 1936年3月2日 - 2… 近藤 和彦(こんどう かずひこ、 1936年3月2日 - 2002年6月10日)は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(外野手)。
永野 元玄(ながの もとはる、1936年2月26日 - )は… 永野 元玄(ながの もとはる、1936年2月26日 - )は、日本の高校野球審判員、元社会人野球選手。高知県出身。 高知市立城西中学校から土佐高等学校に進学。野球部では捕手。1952年、2年生の時に第24回選抜高等学校野球大会に出場したが初戦敗退。3年次は主将として、春夏連続甲子園出場。第25回選抜高等学校野球大会は2回戦で敗退したが、夏の第35回全国高等学校野球選手権大会では決勝まで進出。空谷泰を擁する愛媛県立松山商業高等学校との決勝戦では、9回表に勝利目前ファウルチップを落球、直後に空谷に同点打を放たれ、延長13回に決勝点を許し準優勝に終わった。 慶應義塾大学では藤田元司とバッテリーを組んだ。
長嶋 茂雄または長島 茂雄(ながしま しげお、1936年〈昭… 長嶋 茂雄または長島 茂雄(ながしま しげお、1936年〈昭和11年〉2月20日 - 2025年〈令和7年〉6月3日)は、NPBの読売ジャイアンツ(巨人)で活躍した日本のプロ野球選手(内野手、右投右打)・監督。同球団の終身名誉監督やその運営会社である株式会社読売巨人軍専務取締役、日本プロ野球名球会顧問、ジャイアンツアカデミー名誉校長を務めた。愛称は「ミスタープロ野球」「ミスタージャイアンツ」「ミスター」「チョーさん」「ゴールデンボーイ」「燃える男」「永遠のスーパースター」他。 千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身、血液型はB型。位階は従三位。 生前は飛びぬけた実力に加えて圧倒的な人気と知名度を有したため、「国民的スター」と称されることも多かった。
三林 清二(みつばやし せいじ、1936年2月9日 - )は… 三林 清二(みつばやし せいじ、1936年2月9日 - )は、三重県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
太田 文高(おおた ふみたか、1936年2月8日 - 没年不… 太田 文高(おおた ふみたか、1936年2月8日 - 没年不明)は、大分県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 上野丘高校では1953年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東九州大会準決勝に進むが、佐伯鶴城高に敗れ甲子園出場はならなかった。高校の1年下に葛城隆雄がいる。 1954年に中日ドラゴンズへ入団。1957年にウエスタン・リーグで本塁打王を獲得。1959年に一軍に定着し、左翼手、中堅手として49試合に先発出場。翌年も準レギュラーとして起用されるが、その後は出場機会が減少。 1961年オフに国鉄スワローズへ移籍。1962年には主に代打として起用されるが、同年限りで引退した。
高橋 一雄(たかはし かずお、1936年2月5日 - )は、… 高橋 一雄(たかはし かずお、1936年2月5日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手。 旭川東高校から1954年に高橋ユニオンズへ入団。 1955年に退団し、翌1956年から1963年まで社会人野球の旭川協会でプレーした。
宮川 孝雄(みやがわ たかお、1936年1月31日 - 20… 宮川 孝雄(みやがわ たかお、1936年1月31日 - 2016年1月8日)は、福岡県出身のプロ野球選手(外野手)。晩年の姓は「村上」。 通算代打安打数の日本記録(186本)保持者で、引退後は30年以上に渡り、広島のスカウトを務めた。 豊国学園高校から門司鉄道管理局に進む。 1957年から右翼手、三番打者として2年連続で都市対抗に出場。 1959年オフに広島カープへ入団。広島入団に際しては、ノンプロでライバルであった八幡製鐵の加藤喜作監督が、「あいつがいたのでは、うちは都市対抗に出れん」と、広島に話を持ちかけた、といういきさつがある。 卓越した打撃技術を買われ、背番号は新人ながら「2」に決まったが、入団当時の広島には宮川と同じ左打ちの外野手が多かった。
金彦 任重(かねひこ たかしげ、韓国名:김영덕、金 永徳(キ… 金彦 任重(かねひこ たかしげ、韓国名:김영덕、金 永徳(キム・ヨンドク)、1936年1月27日 - 2023年1月21日)は、在日韓国人(京都府生まれ)のプロ野球選手(投手)・監督。 現役時代は南海ホークスでプレーし、大韓民国に帰国後はアマチュア球団やKBOリーグ球団で監督を務めた。 また、日本在住時、1958年に金彦任重とする前の名前として金彦 永徳を名乗っていた。 神奈川県の逗子開成高校では甲子園大会の出場経験こそないものの、「県下随一の剛球投手」と評判であった。その評判は南海監督であった鶴岡一人の個人後援会にも伝わり、1956年に南海ホークスに入団。背番号1を与えられるなど期待されて入ったが、黄金時代の南海にあって、後に入団する杉浦忠、ジョー・スタンカといった大物投手の陰に隠れ、一軍と二軍を往復する日々が続いた。
毒島 章一(ぶすじま しょういち、1936年〈昭和11年〉1… 毒島 章一(ぶすじま しょういち、1936年〈昭和11年〉1月14日 - 2023年〈令和5年〉5月14日)は、群馬県桐生市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。戸籍上の登録は「毒嶌」。 「ミスターフライヤーズ」と称された。 桐生高校では1951年夏の甲子園に控え投手として出場するが、1回戦で西山和良のいた県和歌山商に敗退。2年上のチームメートに一塁手の中静唯八(西鉄)がいた。 1953年夏の甲子園予選では北関東大会1回戦に進むが、宇都宮商に日没コールド負け。高校ではノーヒットノーランを達成したこともあるが、肘を痛めてしまう。また左打者になったのも高校時代である。 1954年に東映フライヤーズへ入団。
石田 雅亮(いしだ まさあき、1936年1月13日 - )は… 石田 雅亮(いしだ まさあき、1936年1月13日 - )は、東京都出身のプロ野球選手。ポジションは一塁手。 明治高校では、四番打者、一塁手として活躍。1952年秋季東京大会では4高校による決勝リーグに進むが、榎本喜八らのいた早稲田実に敗れ春の選抜出場を逸する。翌1953年夏の甲子園都予選でも決勝に進出、桑田武のいた荏原高に延長11回サヨナラ勝ち、夏の甲子園に出場を決める。大会では準々決勝に進み、後にプロで同僚となる阿井利治らのいた静岡商に辛勝。しかし準決勝で松山商の空谷泰に完封を喫した。 1954年に国鉄スワローズへ入団。2年目の1955年には開幕から六番打者、一塁手として起用され、120試合に出場。
大石 正彦(おおいし まさひこ、1936年1月11日 - )… 大石 正彦(おおいし まさひこ、1936年1月11日 - )は、山梨県甲府市出身の元プロ野球選手(投手)右投げ右打ち。1960年大洋V1戦士の一人。
功刀 義幸(くぬぎ よしゆき、1936年 - )は、山梨県出… 功刀 義幸(くぬぎ よしゆき、1936年 - )は、山梨県出身の元プロ野球選手。 巨摩高校から1956年に毎日オリオンズへ入団。同年退団。
豊田 義夫(とよだ よしお、1935年12月25日- )は、… 豊田 義夫(とよだ よしお、1935年12月25日- )は、元アマチュア野球選手、監督である。 大阪府八尾市出身。左利き。 会社勤務を経て、1956年から母校の近大附属高校でコーチを務めた後1965年から1984年まで同校の監督を務めた。1967年、1971年、1975年の3度の春のセンバツへの出場を果たした。厳しい練習から「キンコー(近高)の鬼」と呼ばれ、部員や他校から恐れられていた。 その手腕を買われ、近大附属福山高校(1990年~2000年)、近大附属新宮高校(2005年4月~2006年8月1日)、八尾ベースボールクラブ(2009年2月~2010年1月)、近大泉州高校(2010年1月~2013年7月15日)の監督を歴任した。
中山 俊丈(なかやま としたけ、1935年12月14日 - … 中山 俊丈(なかやま としたけ、1935年12月14日 - 2016年10月24日)は、愛知県名古屋市昭和区出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。
友川 賢次(ともかわ けんじ、1935年12月9日 - )は… 友川 賢次(ともかわ けんじ、1935年12月9日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 宮崎大宮高校から1953年に洋松ロビンスへ入団。1955年は開幕直後から一軍に上がるが、40打席無安打と不振を極める。しかし8月16日に中日の杉下茂から初安打。その後は主に中堅手として起用され、同年は49試合に先発出場。その後も準レギュラーとして活躍するが、1958年オフに国鉄スワローズへ移籍。1959年限りで引退した。
土橋 正幸(どばし まさゆき、1935年12月5日 - 20… 土橋 正幸(どばし まさゆき、1935年12月5日 - 2013年8月24日)は、東京都台東区出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。 軟式野球から硬式野球に転向した異色の経歴ながら、昭和30年代(1950年代後半~1960年代前半)に東映で主力投手として活躍。現役引退後は東映→日拓→日本ハム、ヤクルトでコーチ・監督を歴任した。生粋の江戸っ子で、頑固親父的な独特のキャラクターも伴い、野球解説者としても人気を博した。 浅草・雷門の生まれで、実家は鮮魚店だった。戦時中は千葉の幕張に疎開していたが戦後、東京に戻った中学生の時に水泳部に所属する傍ら野球と出会い、草野球チームの雷門サンダースに所属していた。
小沢 文夫(おざわ ふみお、1935年12月5日 - )は、… 小沢 文夫(おざわ ふみお、1935年12月5日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手。 愛知県立岡崎北高等学校から愛知大学を経て、1955年にトンボユニオンズへ入団。 1956年オフに球団が吸収合併したため1957年は近鉄パールスへ移籍。同年引退。
有町 昌昭(ありまち まさあき、1935年11月13日 - … 有町 昌昭(ありまち まさあき、1935年11月13日 - )は、福岡県京都郡行橋町(現:行橋市)出身の元プロ野球選手。
中村 修一郎(なかむら しゅういちろう、1935年11月12… 中村 修一郎(なかむら しゅういちろう、1935年11月12日 - 2009年12月22日)は、日本のプロ野球選手。二塁手が主だが三塁・一塁も守った。右投右打。
佐川 守一(さがわ もりかず、1935年11月11日- )は… 佐川 守一(さがわ もりかず、1935年11月11日- )は、香川県出身の元プロ野球選手(投手)。 香川県立観音寺第一高等学校卒業。 1954年(昭和29年)観音寺第一高校を卒業後、倉敷レイヨン(現・クラレ)へ入社。同社の硬式野球部(1973年に廃部)に入部し、活躍する。 1955年(昭和30年)倉敷レイヨンを退社し、西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)へ入団。同年3月31日、近鉄パールス戦(平和台球場)で、プロ初勝利を記録する。同年4月17日、大映スターズ戦(茨城県営球場)で、2勝目を挙げる。 1958年(昭和33年)広島カープ(現・広島東洋カープ)へ移籍。しかしここでは、1試合のみの登板に終わる。
森 徹(もり とおる、1935年11月3日 - 2014年2… 森 徹(もり とおる、1935年11月3日 - 2014年2月6日)は、北海道函館市出身(旧満州生まれ)の元プロ野球選手(外野手)・監督、解説者。
本屋敷 錦吾(もとやしき きんご、1935年10月31日 -… 本屋敷 錦吾(もとやしき きんご、1935年10月31日 - )は、兵庫県神戸市東灘区出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者。現在は芦屋市在住。 芦屋高校では在学中に甲子園に3回、国体に3回出場。1年時はベンチ外だったが、チームが出場した1951年夏の選手権では、1年先輩のエース植村義信を擁し準々決勝に進出するも、中西太のいた高松一高に敗退。秋の広島国体では決勝に進むが、広島観音高に敗退。2年上のチームメートに杉谷和男中堅手(のち大映)がいる。二塁手として出場した翌1952年春の選抜では、2回戦で平安高に敗れる。同年夏の選手権は順調に勝ち進み、決勝でエース木村保を擁する八尾高を降し初優勝を飾る。
滝内 弥瑞生(たきうち やすお、1935年10月30日 - … 滝内 弥瑞生(たきうち やすお、1935年10月30日 - 2018年9月23日)は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。 戸畑高校ではエース・中島孝司(南海)を擁し、3年次の1953年に夏の甲子園県予選で決勝に進出するが、後にプロで同僚となる東筑高の仰木彬投手に抑えられ惜敗。卒業後の1954年に西鉄ライオンズへ入団。3年目の1956年に一軍に定着し、内野のユーティリティプレイヤーとして39試合に先発出場。また代走・守備要員としても起用され、同年からの3年連続リーグ優勝・日本一に貢献。1年先輩の正遊撃手であった豊田泰光が少し打撃不調になると、滝内はベンチの横に来て「あんたが打てんかったら何の取り柄もなか。
中村 浩道(なかむら ひろみち、1935年10月27日 - … 中村 浩道(なかむら ひろみち、1935年10月27日 - 2007年4月6日)は、元プロ野球審判員、野球解説者。鹿児島県鹿児島市出身。審判員袖番号は18(1977年初採用 - 1990年引退まで、※1991年以降はその年採用の山村達也が引き継ぐ)。 川内高校、早稲田大学を卒業後、大平鉱業、大洋鑿泉工業を経て1964年にパシフィック・リーグの東京審判部に入局し1990年の引退まで審判をつとめる。一軍2121試合に出場し、オールスターは3回出場した。1990年に定年年齢到達に基づき引退したあと数年間は東京審判部の指導員をつとめた。 張本勲が3000本安打を達成した試合で球審を務めた。 英語が堪能で、米国の野球事情に精通した審判員であった。
井上 忠行(いのうえ ただゆき、1935年10月25日 - … 井上 忠行(いのうえ ただゆき、1935年10月25日 - 2007年12月15日)は、福岡県出身のプロ野球選手、プロ野球審判員。セ・リーグ袖番号は2(1988年初採用から2001年退職まで、専任指導員に転じた1997年以降もつけていた。2004年以降は敷田直人がつけている。)。 八女工業高校卒業後、門司鉄道管理局に進み、1956年の都市対抗に出場。1957年に西鉄ライオンズに内野手として入団。1959年には一軍に定着、主に一塁手として起用される。1962年には、選手兼監督に就任した中西太の故障が悪化したこともあり、一塁手、三塁手として56試合に先発出場を果たす。しかし翌年にはジョージ・ウィルソン、ジム・バーマらが入団して出場機会が減り、1964年限りで現役引退。
伊藤 菊雄(いとう きくお、1935年10月24日 - 20… 伊藤 菊雄(いとう きくお、1935年10月24日 - 2015年8月15日)は、日本の元野球指導者、プロ野球スカウト。元読売ジャイアンツスカウト部長。
西 五十六(にし いそろく、1935年10月16日 - )は… 西 五十六(にし いそろく、1935年10月16日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手(投手)。 弟の西三雄も元プロ野球投手であった。 和歌山県の大成高から、大阪タイガースに入団。 タイガースを退団した後は、社会人野球の丸善石油に入団。1958年の都市対抗野球では、1回戦の大昭和製紙戦で安藤治久と延長15回を投げ合った。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
奥原 為雄(おくはら ためお、1935年10月13日 - )… 奥原 為雄(おくはら ためお、1935年10月13日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手。
西村 一孔(にしむら かずのり、1935年10月11日 - … 西村 一孔(にしむら かずのり、1935年10月11日 - 1999年3月1日)は、山梨県北都留郡富浜村(現・大月市富浜町)のプロ野球選手(投手)。愛称は、名前を音読みした「いっこう」。また、「西村一」とも書かれる。この愛称及び表記は、1955年シーズンに、同姓の西村孜(にしむら つとむ)投手が阪神に在籍していたためである。 初年度の華々しい活躍と、翌年以降の故障による選手生命の途絶から、阪神タイガースファンや関係者の間で『1年で散った伝説の剛腕投手』として語られる選手である。 山梨県北都留郡富浜村(現・大月市富浜町)の出身。山梨県立都留高等学校では、2年次に1952年の夏の甲子園に捕手兼控え投手として出場した。
土屋 正孝 (つちや まさたか、1935年10月6日 - )… 土屋 正孝 (つちや まさたか、1935年10月6日 - )は、長野県松本市出身の元プロ野球選手(内野手)。 警察官の長男に生まれる。土屋は野球のほか、テニス・バスケットボール・バレーボールなど、球技は何でも得意で、姉と妹は高校時代にテニスで日本一になったことがあるという球技一家であった。 松本深志高校では、1953年春季長野大会中信予選決勝に進むが、後にプロで同僚となる堀内庄・木次文夫のいた松商学園に惜敗。同年夏も県予選で敗れ甲子園には届かなかった。高校では複数のポジションをこなし、2年生では捕手と三塁手を兼ね、3年生になると投手を任されていた。当初大学への進学を予定していたが、読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・国鉄スワローズから勧誘され、1954年に巨人に投手として入団。
堀内 庄(ほりうち あつし、1935年10月5日 - 201… 堀内 庄(ほりうち あつし、1935年10月5日 - 2010年10月27日)は、長野県出身のプロ野球選手(投手)。
林 薫(はやし かおる、1935年10月1日 - )は、兵庫… 林 薫(はやし かおる、1935年10月1日 - )は、兵庫県西脇市出身の元アマチュア野球選手(投手)。 神戸高では、1952年に秋季近畿大会県予選準決勝に進むが本屋敷錦吾のいた芦屋高に9回裏サヨナラ負け。慶應義塾大学に進学。東京六大学野球リーグでは1955年春季リーグから登板。1956年秋季リーグでは巽一と投の二本柱を組み優勝に貢献。6勝0敗の好記録でベストナイン(投手)に選出された。翌1957年春季リーグ最中に交通事故により重傷を負うが秋季リーグでは復帰した。同季の慶立2回戦で長嶋茂雄に当時リーグ新記録の8号本塁打を喫したことで知られる。リーグ通算36試合11勝8敗、防御率0.89、82奪三振。
横溝 桂(よこみぞ かつら、1935年10月1日 - )は岡… 横溝 桂(よこみぞ かつら、1935年10月1日 - )は岡山県総社市出身の元プロ野球選手(投手・外野手)・コーチ、解説者。
秋山 武司(あきやま たけし、1935年9月29日 - )は… 秋山 武司(あきやま たけし、1935年9月29日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(投手)。 松山高校から1953年に大映スターズに入団。1954年に2勝を挙げるものの、勝ち星はその2勝のみに終わり、1956年に引退。
新井 茂(あらい しげる、1935年9月29日 - )は、群… 新井 茂(あらい しげる、1935年9月29日 - )は、群馬県藤岡市出身の元プロ野球選手(外野手)。 藤岡高校から高崎鉄道管理局を経て、1955年に大映スターズへ入団。同年は右翼手として7試合に先発出場、その後も準レギュラーとして活躍する。1957年は6月から四番打者として起用され、66試合に先発出場を果たす。 同年オフにチームが大毎オリオンズに合併されたため大毎へ移籍。ここではあまり活躍の場はなく、1959年限りで現役を引退。
藤井 弘(ふじい ひろむ、1935年9月29日 - )は、広… 藤井 弘(ふじい ひろむ、1935年9月29日 - )は、広島県福山市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。引退後の名前は「藤井 博」(読み方同じ)。初代ゴジラ、通称"ゴジさん"。
西垣 一(にしがき まこと、1935年9月25日 - 200… 西垣 一(にしがき まこと、1935年9月25日 - 2009年5月23日)は、京都府宇治市出身のプロ野球選手(投手)・監督。 城南高校では、1953年夏の甲子園府予選準決勝に進むが西舞鶴高に惜敗、京滋大会には進めなかった。卒業後の1954年に大阪タイガースへ入団する。3年目の1956年には、読売ジャイアンツを相手に6月19日に初登板、初先発を果たす。4回1/3を無失点と好投するが、白星はつかなかった。その後は登板機会がなく、1957年限りで退団。 退団後は1958年に日本新薬へ入社し、野球部では長谷部栄一選手兼任監督の下、投手ではなく外野手としてプレー。1973年から1981年には監督を務め、1974年・1979年・1980年と3度の都市対抗出場に導き、吹石徳一を送り出した。
杉浦 忠(すぎうら ただし、1935年〈昭和10年〉9月17… 杉浦 忠(すぎうら ただし、1935年〈昭和10年〉9月17日 - 2001年〈平成13年〉11月11日)は、愛知県西加茂郡挙母町大字挙母(現:豊田市若宮町)出身のプロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・監督、解説者・評論家。 日本プロ野球 (NPB) 史上5人目・パ・リーグ初の投手5冠を達成し、「史上最強のアンダースロー」「魅惑のアンダースロー」などと呼ばれた。 現在の豊田市若宮町で生まれる。5人兄弟の四男で、「忠」の名は「南総里見八犬伝」から取られたもので、父・定治は、長男を「仁」、次男を「智」、三男を「孝」、四男を「忠」、五男を「義信」と命名した。挙母町立第一小学校(現:豊田市立挙母小学校)、挙母市立東部中学校(現:豊田市立崇化館中学校)、愛知県立挙母高等学校(現:愛知県立豊田西高等学校)を卒業。