小長谷 喜久男(こながや きくお、1950年7月16日 - … 小長谷 喜久男(こながや きくお、1950年7月16日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、サッカー指導者、Jリーグクラブフロントスタッフ。 明治大学卒業後、ヤマハ発動機サッカー部(現・ジュビロ磐田)に入部して選手としてプレー。 引退後の1987年にヤマハの監督に就任。就任初年度の1987/88シーズンにチームを日本サッカーリーグ(JSL)1部優勝に導いている。ヤマハがジュビロ磐田へと移行した後はフロントスタッフとしてチームの躍進を支えた。 1999年11月からはメインスポンサーフジタの撤退で存続が危ぶまれていたベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)の運営を引き継ぐ新法人・株式会社湘南ベルマーレの社長に就任、3年半にわたり社長を務め、クラブの経営を立て直した。
福家 三男(ふくや みつお、1950年7月7日 - )は、埼… 福家 三男(ふくや みつお、1950年7月7日 - )は、埼玉県浦和市(現・さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者、ゼネラルマネージャー。 1966年に浦和南高校に入学。1969年度にインターハイ、国体、高校選手権の三冠を達成したチームでキャプテンを務める。福家は高校2年生の春に背中を痛めて7ヵ月間入院のため留年し、三冠達成時は入学から4年目だった。この浦和南高校は漫画・アニメ『赤き血のイレブン』のモデルとなり、作中に登場するGKの大平洋平は福家を基にしている。1970年4月のアジアユース選手権では、ユース日本代表のGKとして6試合に先発出場。 高校卒業後は明治大学に進学。在学中の1972年に若手主体の日本代表Bに招集された。
平田 生雄(ひらた いくお、1950年6月17日 - 200… 平田 生雄(ひらた いくお、1950年6月17日 - 2009年4月3日)は、広島県広島市出身の元サッカー選手(MF/DF)、元サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。 幼少期は長嶋茂雄に憧れた野球少年であったが、小学6年時の1962年に似島へ戻った事が転機となる。当時実家の2階には広島市立似島中学校サッカー部を創部した渡部定彦が下宿していたほか、似島は当時「サッカーの島」と言われたほどサッカーの盛んな所で、進学した似島中で渡部の指導の下サッカーを始めることになる。似島は第1次世界大戦で中国・青島にいたドイツ軍人の捕虜収容所のあったところで、このドイツ人からサッカーを習って大正期の広島のサッカーがレベルアップして、日本のサッカー先進地域になったというエピソードがある。
足利 道夫(あしかが みちお、1950年5月22日 - )は… 足利 道夫(あしかが みちお、1950年5月22日 - )は、日本の元サッカー選手。秋田県河辺郡(現秋田市河辺)出身。 三菱重工などに所属し、日本代表としてもミュンヘンオリンピック予選など、国際Aマッチ7試合に出場した。
古前田 充(こまえだ みつる、1950年4月14日 - )は… 古前田 充(こまえだ みつる、1950年4月14日 - )は、岩手県盛岡市出身の元サッカー選手(MF)・サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。 遠野高校、大阪商業大学を経て、1973年にJSLの藤和不動産へ入部。今井敬三と共にフジタの守備の中心選手で、JSLベストイレブンに5度(1976年-1977年, 1979年-1981年)も選出され、1977年にはセイハン比嘉と共に7アシストでJSLアシスト王を獲得。3度のJSL1部優勝(1977年, 1979年, 1981年)と2度の天皇杯制覇(1977年, 1979年)に貢献したほか、日本代表にも選出。ムルデカ大会・キリンカップ・ヨーロッパ遠征に出場し、国際Aマッチでは2試合2得点を記録。
藤島 信雄(ふじしま のぶお、1950年4月8日 - )は、… 藤島 信雄(ふじしま のぶお、1950年4月8日 - )は、秋田県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 高校時代は全くの無名選手であり、日本リーグ各チームからの勧誘もなかった。 そのため、日本鋼管へは集団就職で入社したが、入社前にサッカーの指導で秋田県に来ていた日本サッカー協会のスタッフの目に留まり、急遽日本ユース代表候補に選抜されたというエピソードを持つ。それを聞いた日本鋼管側が、藤島が入社すると慌ててサッカー部に入部させたという。 1970年代の日本を代表するMF。豊富な運動量で攻守の要として活躍した。1970年11月15日のユールゴーデンIF戦で日本代表として初出場した。日本鋼管、日本代表の双方で主将を務め、国際Aマッチ64試合に出場し、7得点を挙げた。
小滝 強(こたき つよし、1950年1月28日 - )は、広… 小滝 強(こたき つよし、1950年1月28日 - )は、広島県出身の元サッカー選手。 実弟は東洋工業でディフェンダーとして活躍した小滝春男、フジタでフォワードとして活躍した小滝勇一。三兄弟が同時期に日本のトップリーグでプレーした初のケース。 現役時代は人に強いCB(ストッパー)。70年代の東洋工業で活躍し、1978年天皇杯決勝進出に貢献した。 また、代表では22歳の時にジュニア代表としてヨーロッパ遠征に参加。1974年Cキャップ1試合、1979年JSL選抜。
野地 照樹(のじ てるき、1950年1月16日 - )は、広… 野地 照樹(のじ てるき、1950年1月16日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手(DF)、指導者。 現高知大学教育学部教授、サッカー部監督。 中1からサッカーを始める。広島大学附属高時代に福原黎三から指導を受けた。同世代に高田豊治がいる。 東京教育大学(現筑波大学) 体育学部体育学科に進み、蹴球部では主にセンターバックとして活躍、成田十次郎から指導を受け、高田や木之本興三らとプレーした。在学中に関東大学サッカーリーグ戦や第20回全国大学サッカー選手権大会で優勝した。1972年には成田が監督を兼務していた日本サッカーリーグ2部の読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)の選手として7試合に出場した。
武田 信平(たけだ しんぺい、1949年12月11日 - )… 武田 信平(たけだ しんぺい、1949年12月11日 - )は、宮城県亘理町出身のサッカー選手、元サッカークラブ経営者。川崎フロンターレ前会長。日本アンプティサッカー協会理事長。元Jリーグ・クラブ経営アドバイザー。 中学時代、入学と同時に新設されたサッカー部にてサッカーを始める。仙台第一高校卒業後、1968年に慶応義塾大学経済学部に入学。ソッカー部では2年生時に全日本大学サッカー選手権大会に優勝した。 1972年に大学を卒業、サッカーを続けるために富士通に入社する。しかし富士通サッカー部総監督の八重樫茂生から、これ以上続けていても先が見えているからと現役引退を勧められ、2年目からはサッカー部のマネージャー(1973年-1976年)、日本サッカーリーグの運営委員(1977年-1981年)を務める。
保田 道夫(やすだ みちお、1949年11月10日 - )は… 保田 道夫(やすだ みちお、1949年11月10日 - )は、日本の元サッカー選手。 新日本製鐵などに所属し、日本代表としても、国際Aマッチ1試合に出場した。
十河 正博(そがわ まさひろ、1949年10月15日 - 2… 十河 正博(そがわ まさひろ、1949年10月15日 - 2014年3月24日)は、栃木県出身のサッカー審判員。元FIFA(国際サッカー連盟)国際審判員。 栃木県立壬生高等学校から仙台大学に進み、卒業後に栃木に戻って県立学校の保健体育の教諭となり、日光高校(現・日光明峰高校)、宇都宮南高校、宇都宮北高校などで教鞭を執る傍ら、サッカー部監督としても指導に当たった。その一方で、栃木教員サッカークラブ(現在の栃木SCの前身)で選手としてもプレーし、1980年の第35回国民体育大会(栃の葉国体)では成年男子の部の栃木県チーム主将として地元開催大会での優勝に貢献した。 選手・指導者としてサッカーと関わる一方でサッカー審判員の道を志し、1979年に日本サッカー協会 (JFA) の1級審判員の資格を取得。
原 正弾(はら ???、1949年9月6日 - )は、日本リ… 原 正弾(はら ???、1949年9月6日 - )は、日本リーグの元サッカー選手。ポジションはDF(サイドバック)、FW(ウイング)。 福島県立安積高等学校から中央大学を経て、1974年に日本サッカーリーグの藤和不動産サッカー部に入る。フジタ工業となり2年目の1977年は、カルバリオ、マリーニョ、セイハン比嘉、渡辺三男、小滝勇一、古前田充らの圧倒的な攻撃サッカーでリーグ初優勝と天皇杯の2冠を獲得。ディフェンス陣として今井敬三、脇裕司、園部勉らの全日本クラスに加わりサイドバックとして攻撃参加した。
藤口 光紀(ふじぐち みつのり、1949年8月17日 - )… 藤口 光紀(ふじぐち みつのり、1949年8月17日 - )は、日本のサッカー選手。元日本代表。群馬県勢多郡粕川村(現・前橋市)出身。日本プロサッカーリーグ元理事。浦和レッドダイヤモンズ(株式会社三菱自動車フットボールクラブ)前社長。現在広島経済大学教授。 群馬県勢多郡粕川村(現・前橋市)に、藤口末光(日本選手権十種競技優勝者、群馬県体育協会副会長)の長男として生まれる。 新島学園高等学校サッカー部で活躍。3年時には群馬県代表として国体に出場する。頭脳明晰で知られ、1年の浪人後慶應義塾大学文学部に合格。慶應義塾大学体育会ソッカー部で1年生からレギュラーを獲得し、1969年に大学選手権優勝。在学中に日本代表に選出された。
鈴木 良平(すずき りょうへい 1949年6月12日 - )… 鈴木 良平(すずき りょうへい 1949年6月12日 - )はサッカー指導者、解説者。ドイツサッカー協会(DFB)の公認S級ライセンスを取得している。 東海大学卒業後、1973年に西ドイツ(当時)のボルシア・メンヒェングラートバッハへ留学し、名将ヘネス・ヴァイスヴァイラー監督の下でコーチ修業。また同時にケルン体育大学にも通い、S級ライセンスを取得した。 1975年10月に帰国して三菱養和に所属し、サッカー日本ユース代表監督などを務めたのち、1984-85年シーズンには西ドイツ・ドイツ・ブンデスリーガ1部のアルミニア・ビーレフェルトのヘッドコーチ兼ユース監督を35歳という若さで務めたが、チーム事情の関係もあり、年間順位16位となって翌年の2部リーグ落ちさせてしまった。
今村 博治(いまむら ひろじ、1949年4月27日 - )は… 今村 博治(いまむら ひろじ、1949年4月27日 - )は、日本の元サッカー選手。ポジションはFW。滋賀県甲賀郡水口町(現甲賀市)出身。 滋賀県立甲賀高等学校から日本サッカーリーグのヤンマーディーゼルに入団。ヤンマー時代は不動の右ウイングとして活躍し、エースストライカーの釜本邦茂へ数多くのアシストを供給、1975年にはアシスト王を獲得した。現役を通じてリーグ通算230試合出場(歴代6位)、60得点(歴代10位)、50アシスト(歴代7位)の記録を残した。 また、日本代表としては1975年1月5日のバイエルン・ミュンヘン戦(国際Cマッチ)で代表デビュー。翌1976年8月のムルデカ大会に出場するなど、国際Aマッチ4試合に出場した。
黒田 和生(くろだ かずお、1949年3月8日 - )は、岡… 黒田 和生(くろだ かずお、1949年3月8日 - )は、岡山県倉敷市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 倉敷市立東中学校の在学中は野球部に所属したが、有数の名門校であった同校の練習はスパルタ式であったと後に語っている。そのこともあって岡山県立倉敷青陵高校に入学後は中学時代と違うスポーツをやろうと考えてサッカー部に入部した。 1967年、東京教育大学(現在の筑波大学)に進学して蹴球部に入部。大学2年および3年次には関東大学サッカーリーグ戦で連覇を経験。4年次には副主将を務めた。 大学4年次の就職活動で一時は新日本製鐵から内定を得ていたものの取り消し。その後、教授で蹴球部監督も務めた成田十次郎の紹介により神戸フットボールクラブ(神戸FC)に職員として入社。
平沢 周策(ひらさわ しゅうさく、1949年3月5日 - )… 平沢 周策(ひらさわ しゅうさく、1949年3月5日 - )は、秋田県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW、MF。 秋田商業高等学校3年次の高校選手権決勝で藤枝東高等学校と引き分け同時優勝、関東以北に初めて優勝旗を持ち帰った。 卒業後の1967年に日本サッカーリーグの日立製作所に入部。「走る日立」の異名で呼ばれた同サッカー部の中心選手として1960年代後半から70年代を通じて活躍した。また日本代表としても1974年のアジア競技大会を始め、国際Aマッチ11試合出場1得点を記録した。大相撲力士の春日錦は娘婿にあたる。
井澤 千秋(いざわ ちあき、1949年1月28日 - 201… 井澤 千秋(いざわ ちあき、1949年1月28日 - 2018年9月10日)は、日本(静岡県藤枝市出身)の元サッカー選手、元サッカー指導者。 現役時代のポジションはミッドフィールダー。元サッカー日本代表。 日本サッカーリーグでは、102試合出場し、通算6得点、通算6アシストを記録。また、日本U-20代表として1967年から1968年にかけて2試合に出場。1971年から1972年には日本代表に選出されたが、国際Aマッチの出場はなかった。 1987年より明治大学サッカー部コーチを務め、監督を経て総監督、GM(ゼネラルマネージャー)を歴任。 藤枝市立西益津中学校、静岡県立藤枝東高等学校を経て明治大学に進学。
木之本 興三(きのもと こうぞう、1949年1月8日 - 2… 木之本 興三(きのもと こうぞう、1949年1月8日 - 2017年1月15日)は千葉県出身の元サッカー選手。
山下 憲一(やました けんいち、1949年 - )は日本のサ… 山下 憲一(やました けんいち、1949年 - )は日本のサッカー指導者、元教諭。一般社団法人四国サッカー協会顧問。 高松商業高校を経て国士舘大学卒業。卒業後、母校である高松商業高校に勤務すると共に、第1回四国サッカーリーグにも参加した高松商高OBサッカークラブ(高商OBクラブ)にて選手としてプレー。現役時代のポジションはFWであった。高松商業高校ではサッカー部監督を歴任。第63回大会から11年連続出場を果たすなど、指導者としても尽力した。 2004年、高商OBクラブ時代のチームメイトで、高松市議・香川県スポーツ少年団本部長の住谷幸伸と共に、高商OBクラブの後身である「高松FC」の創設に尽力。チームは後に公募により「カマタマーレ讃岐」としてJリーグ入りを目指すことになり、強化本部長として側面から支援を行った。
綾部 美知枝(あやべ みちえ、旧姓: 押見、1948年11月… 綾部 美知枝(あやべ みちえ、旧姓: 押見、1948年11月4日 - )は、日本の女性教育者、サッカー指導者。日本体育大学女子短期大学部卒業。静岡県清水市(現静岡市清水区)出身。元・日本サッカー協会特任理事、静岡市生活文化局文化スポーツ部参与兼サッカーのまち推進室長。日本初の女性サッカー指導者と呼ばれる人物である。 清水市立江尻小学校在学時に堀田哲爾からサッカーの指導を受けるが競技には傾倒せず、中学と高校では陸上競技やバレーボール、日本体育大学女子短期大学部在学時には創作ダンスに打ち込んだ。 1969年、清水市立飯田小学校に赴任。担任をすることになった2年生の生徒に誘われサッカーを始めると、恩師である堀田の下を生徒と共に訪れ指導法を学び、同小学校に「飯田ファイターズ」を結成した。
松永 章(まつなが あきら、1948年8月8日 - )は、静… 松永 章(まつなが あきら、1948年8月8日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ゴールへの嗅覚の鋭さから「ハイエナ」の異名で呼ばれたストライカーである。 1967年の藤枝東高校3年次にはキャプテンとして同校を戦後初となる選手権、高校総体、国体の3冠獲得に導き(なお、3年時の公式戦の記録は72戦70勝2分である)日本ユース代表に選出された。その後、早稲田大学を経て、1971年に日本サッカーリーグの日立製作所サッカー部に入部した。 日立では監督・高橋英辰の厳しい指導の下「走る日立」の異名で呼ばれたチームの中心選手として1972年の日本リーグ初制覇に貢献。また、得点ランキングにも常に顔を出し、釜本邦茂とは毎年激しい得点王争いを繰り広げ、2年連続で得点王(1972年、1973年)に輝いた。
桑原 隆(くわはら たかし、1948年5月5日 - )は、日… 桑原 隆(くわはら たかし、1948年5月5日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者。静岡県藤枝市出身。フットメディアに所属。 現役時代は古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド市原・千葉の前身)で16年間にわたりプレーし、現役晩年にはコーチも兼任。PJMフューチャーズ/鳥栖フューチャーズでも選手兼任コーチを務め、1989年12月9日の天皇杯一回戦(対TDK戦)では、熊谷義一に代わり41歳という年齢で交代出場を果たしている。[要出典]1996年に強化育成アドバイザーとしてジュビロ磐田入りした。 1997年にトップチームコーチに就任し、監督のルイス・フェリペ・スコラーリの下で指導を行う。
岡村 新太郎(おかむら・しんたろう、1948年4月21日 -… 岡村 新太郎(おかむら・しんたろう、1948年4月21日 - 2013年4月26日)は、日本の元サッカー選手、指導者。 静岡県藤枝市出身。現役時代は静岡県立藤枝東高等学校、法政大学、日本鋼管でプレイした。 静岡県立藤枝東高等学校時代には同級生に松永章(後に日立製作所)と桑原隆(後に古河電気工業を経てジュビロ磐田監督)がおり、彼らと共に高校3年次には1966年(昭和41年度)の全国高等学校サッカー選手権大会、全国高等学校総合体育大会、第21回国民体育大会(大分県)少年の部を全て制覇し、史上初の高校三冠の栄冠に輝いた。 高校卒業後に法政大学へ進学、大学4年次では主将に任命され、1970年の第19回全国大学サッカー選手権大会で優勝を果たした。
高田 豊治(たかた とよはる、1948年2月12日 - )は… 高田 豊治(たかた とよはる、1948年2月12日 - )は広島県広島市出身の元サッカー選手(MF・DF)・指導者(JFA 公認S級コーチ)。 実父は、高校物理の教師で、母校広島大学附属高校で教壇に立っていった高田平八郎。 サッカーを本格的に始めたのは中学1年から。広島大学附属高校卒業。高校時代は福原黎三から指導を受けた。東京教育大学(現:筑波大学)に入学後は蹴球部に入部し成田十次郎から指導を受け、関東大学サッカーリーグ戦1968年および1969年2連覇、1968年インカレ優勝、全日本学生選抜代表に選出される。 1971年に東洋工業(現マツダ)に入社。以降JSL1部所属の東洋工業サッカー部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)でミッドフィルダーあるいはディフェンダーとして活躍し、1978年に引退する。
松田 保(まつだ たもつ、1948年 - )は、滋賀県近江八… 松田 保(まつだ たもつ、1948年 - )は、滋賀県近江八幡市出身のサッカー指導者。学校法人ヴォーリズ学園副学園長。 滋賀県立彦根東高等学校ではアメリカンフットボール部に所属。金沢大学教育学部特別体育学科にてサッカー指導者としての教育を受ける。教師として初赴任先の甲南高校では初年度からサッカー部監督に就任。その後は守山高校サッカー部、守山北高校サッカー部監督を歴任。1982年度には守山高校を率いて全国高校選手権ベスト4進出、1994年度には守山北高校でもベスト4進出を果たす。 1993年から1995年までは小野伸二、稲本潤一ら「黄金世代」を擁したU-17日本代表監督を務め、FIFA U-17世界選手権に出場した。
小野寺 重之(おのでら しげゆき、1947年10月24日 -… 小野寺 重之(おのでら しげゆき、1947年10月24日 - )は、日本の社会人野球選手(外野手)、元Jリーグ・柏レイソル社長。宮城県生まれ。 気仙沼市出身。宮城県気仙沼高等学校では1965年、夏の東北大会県予選準決勝に進むが古川工業に敗退。甲子園には出場できなかった。卒業後は明治大学に進学。名将島岡吉郎監督の指導を受ける。東京六大学野球リーグでは、1967年春季リーグから四番打者に抜擢され、1969年春季リーグで8年振りに優勝。直後の全日本大学野球選手権大会では東海大の上田二郎投手に抑えられ、2回戦敗退。同年の第8回アジア野球選手権大会日本代表に選出される。外野手としてベストナインに2回選出。
川上 信夫(かわかみ のぶお、1947年10月4日 - )は… 川上 信夫(かわかみ のぶお、1947年10月4日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身の日本の元サッカー選手。ポジションはDF。 浦和西高校、立教大学を経て、1971年から1978年までJSLの日立製作所でプレー。日立全盛期の主力として、JSL1回、天皇杯2回、JSLカップ1回の優勝に貢献した。JSLベストイレブンにも2度選出されている。 立教大学在学中から日本代表に選ばれ、通算で105試合に出場。ワールドカップ西ドイツ大会アジア予選、モントリオールオリンピックアジア予選では全試合に先発出場した。 近年はJリーグ・マッチコミッショナーの一員に名を連ねている。
高田 静夫 (たかだ しずお、1947年8月5日 - ) は… 高田 静夫 (たかだ しずお、1947年8月5日 - ) は、東京都練馬区出身の元サッカー選手、サッカー審判員。現役時代のポジションはMF、DF。1986 FIFAワールドカップで日本人初の主審を務め、国際Aマッチ28試合の主審を務めた。日本サッカー協会参与や全国高等学校体育連盟事務局長を歴任した高田久行は兄に当たる。 練馬区東大泉生まれ。小学校までは野球少年であったが、東京都立大泉中学入学後は兄の影響でサッカー部に入部し、東京都立石神井高校でもサッカー部に所属した。 高校卒業後は東京教育大学体育学部 (現・筑波大学) に入学し、蹴球部に所属。大学時代は全日本大学サッカー選手権大会や関東大学サッカーリーグ戦での優勝も経験した。
上田 忠彦(うえだ ただひこ、1947年8月3日 - 201… 上田 忠彦(うえだ ただひこ、1947年8月3日 - 2015年4月15日)は、日本の元サッカー選手。ポジションはFW。京都府出身。 元日本代表サッカー選手釜本 邦茂氏と同じ、京都市立太秦小学校でサッカーを始める。市立蜂ヶ岡中学校、京都商業高等学校(現、京都学園高等学校)から法政大学へと進み、新日本製鐵に加入。日本代表としても12試合に出場し7得点を記録した。現役時代はヘディングの強さが特徴のFWで、1970年のアジア大会では釜本邦茂と2トップを組んだ経験もある。 現役引退後は京都市の京都J-マルカフットボールクラブの代表者で、サッカーの指導者。また、京都クラブユースサッカー連盟(U-15)の監事も務めていた。
日高 憲敬(ひだか のりたか、1947年5月29日 - )は… 日高 憲敬(ひだか のりたか、1947年5月29日 - )は東京都出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。 浦和市立高等学校在籍時に高校選手権(1965年度)優勝に貢献。大学は立教大学に進学し、川上信夫と共に1969年度の天皇杯準優勝に貢献(1970年1月1日、1-4東洋工業)した。なお、これは現在に至るまで大学勢最後の決勝進出となっている。卒業後に日本サッカーリーグ1部の新日本製鐵サッカー部に入部し中心選手として活躍した。JSL1部通算成績は114試合50得点15アシスト。 日本代表としても、1970年6月4日のサウサンプトンFC戦で代表デビューを飾り、ワールドカップ西ドイツ大会予選など、国際Aマッチ4試合に出場した。
高橋 武夫(たかはし たけお、旧姓:木村、1947年5月13… 高橋 武夫(たかはし たけお、旧姓:木村、1947年5月13日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはFW。 東京都品川区で生まれ、小学4年生の時に埼玉県蕨市に引越す。少年時代から運動能力が高く中学時代から本格的にサッカーを始めると、この当時からフォワードを務めていた。高校は埼玉県立川口高等学校へ進学し、2年次の高校選手権予選では決勝へ進出したが、浦和勢の牙城を崩して全国大会へ出場する事はかなわなかった。 全国的には無名の存在だったが3年次にAFCユース選手権の選考を兼ねた高校地域選抜大会に埼玉県選抜の選手として参加。ここでのプレーが日本ユース代表監督の平木隆三に認められ、翌1965年のアジアユース代表に選ばれた。
斎藤 重信(さいとう しげのぶ、1947年5月6日 - )は… 斎藤 重信(さいとう しげのぶ、1947年5月6日 - )は、岩手県盛岡市出身のサッカー指導者。岩手県立盛岡商業高校や岩手県立大船渡高校のサッカー部監督として、両校を全国の強豪校に育て上げ、多くの選手を指導した。第85回全国高等学校サッカー選手権大会の優勝監督。 1947年5月6日生まれ。岩手県盛岡市で生まれ育ち、盛岡市立厨川中学校から盛岡商業高校に進学する。この間、中学校時代は休み時間のサッカーに加わるくらいであったが、高校で先輩から「入れ」といわれたことがきっかけでサッカー部に入部し、新潟国体に出場した。 高校卒業後の1966年、順天堂大学に入学し、1年生の時から試合に出場した。大学の同期に、のちに流通経済大学付属柏高校などの監督を務める本田裕一郎がいる。
本田 裕一郎(ほんだ ゆういちろう、1947年5月1日 - … 本田 裕一郎(ほんだ ゆういちろう、1947年5月1日 - )は、サッカー指導者。千葉県立市原緑高校、習志野市立習志野高校、流通経済大学付属柏高校の3校を監督としてサッカー強豪にし、多くのサッカー選手を指導している。 1947年に、4人兄弟の長男として静岡県に生まれる。静岡県立静岡東高等学校で赴任してきた教師の影響で高校2年の終わり頃に本格的にサッカーをはじめ、順天堂大学に進学してサッカーを続けた。順天堂大学にはのちに岩手県立盛岡商業高校などのサッカー部監督を務める斎藤重信が同期におり、本田と斎藤は長年の親友となった。 大学卒業後は市原市教育委員会に所属する。ここでサッカーの普及をかねた巡回指導に従事しているうちに現場に出たくなり、市原市立五井中学校に赴任。
鈴木 保(すずき たもつ、1947年4月29日 - )は、埼… 鈴木 保(すずき たもつ、1947年4月29日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元サッカー日本女子代表監督(1989年-1996年、1999年)。 浦和市立高校(現:さいたま市立浦和高校)では全国高校サッカー選手権に優勝、立教大学では1969年度に第18回全国大学サッカー選手権、第49回天皇杯に準優勝し、主将も務めた。U-19日本代表の一員として1966年にフィリピンで開催されたAFCユース選手権1966に出場した。 サッカー部設立を目指す日産自動車の関係者から相談を受けた岡野俊一郎がユース代表監督時代の教え子である鈴木を推薦したことにより1970年度に日産自動車に入社。
田辺 暁男(たなべ あきお、1947年4月20日 - )は、… 田辺 暁男(たなべ あきお、1947年4月20日 - )は、千葉県出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはFW、MF。 習志野市立習志野高等学校、早稲田大学を卒業後、1970年にJSLの古河電気工業サッカー部に入部。シュート力を持ち味に、早稲田大学在学中は日本代表にも選出される。キープ力も兼ね備えた4年目、当時全盛期を迎えていた釜本邦茂と並び、1973年の日本リーグアシスト王に輝く。翌年からは主将としてもチームを引っ張った。30歳を迎えた1977年限りで引退。
塩澤 敏彦(しおざわ としひこ、1947年3月8日)は、山梨… 塩澤 敏彦(しおざわ としひこ、1947年3月8日)は、山梨県甲府市出身の元サッカー選手(DF)・サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)、サッカー解説者。 強豪校・城北高校でサッカーを始める。テクニックに難のある塩澤にはポジション獲得は至難の業であったが、俊足と身体能力を買われて左FBのポジションを獲得し、以来現役生活を通じてDFとしてプレー。 明治大学卒業後の1970年にJSLの名古屋相互銀行へ入部するが、名相銀のメンバーは昼は窓口業務や営業をこなす普通の銀行マンで、練習時間は少なく毎年のように入替戦を戦っていた。2年目の1971年にはリーグ最下位となり、12月30日の入替戦で藤和不動産に敗れた結果、会社が休部を発表した。
近江 友介(おうみ ゆうすけ、1946年12月26日 - )… 近江 友介(おうみ ゆうすけ、1946年12月26日 - )は、東京都出身の元サッカー選手。ポジションはFW(左ウイング)。 都内の小学校入学後すぐに群馬県前橋市に転居。小学4年生のときに埼玉県浦和市(現さいたま市)に転居した。浦和市立高等学校3年次に主将として日高憲敬や鈴木保らと共に1965年度の高校選手権優勝に貢献。法政大学を経て1970年に日立製作所に入部。同年に日本代表に選出され、1970年のアジア競技大会など、国際Aマッチ5試合に出場した。
小畑 穣(こばた みのる、1946年11月24日 - )は、… 小畑 穣(こばた みのる、1946年11月24日 - )は、埼玉県浦和市(現、さいたま市)出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 日立製作所などに所属し、日本代表としても1970年のアジア競技大会など、国際Aマッチ13試合に出場した。また、現在はJリーグマッチコミッショナーも務めている。 塩澤敏彦(名古屋相互銀行や永大産業に所属。後に指導者として全日空クラブ等を指揮)とは高校、大学の同級生であった。
吉水 法生(よしみず のりお、1946年8月21日 - )は… 吉水 法生(よしみず のりお、1946年8月21日 - )は日本出身の元サッカー選手。 12歳までチリで育つ。1969年から1972年までの4シーズン古河電工に所属し、日本サッカーリーグ1部通算53試合6得点9アシスト。 日本代表としては、国際Aマッチ4試合に出場し1得点した。
落合 弘(おちあい ひろし、旧姓:山田、1946年2月28日… 落合 弘(おちあい ひろし、旧姓:山田、1946年2月28日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)領家出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現「浦和レッドダイヤモンズ ハートフルクラブ」キャプテン。元々はFWや攻撃的MFを務めていた が年齢と共にポジションを下げ、守備的MFやセンターバック、サイドバックをこなすなど守備のユーティリティプレーヤーとして活躍した。 生誕6日後に父が亡くなり、母子家庭で育った。貧しかったことから技術を身に着けるために埼玉県立川口工業高校への進学を目指すも、中学時代の教師の勧めもあり浦和市立高校に入学した。浦和市立高校では1962年と63年の国民体育大会で2連覇。全国高等学校サッカー選手権大会では1年次から3大会連続出場を果たし2年次に準優勝、3年次には3位入賞。
安藤 正俊(あんどう まさとし、1946年2月14日 - 2… 安藤 正俊(あんどう まさとし、1946年2月14日 - 2008年8月20日)は、日本の元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー。 千葉県出身。長生高、立教大学を経て、日本サッカーリーグの藤和不動産サッカー部/フジタ工業クラブサッカー部(湘南ベルマーレの前身)でプレーした。 立教大学で同世代の釜本邦茂、細谷一郎らが率いた早稲田大学ア式蹴球部と対峙した後、新興チームの藤和不動産サッカー部に入団(日立製作所本社サッカー部への入団が決まっていたが、留年で反故にしたという逸話もある)。主将としてHB(ハーフバック、現在のボランチ)の位置からゲームをコントロールし、チームを栃木県リーグから日本サッカーリーグに押し上げる原動力となった。
細谷 一郎(ほそたに いちろう、1946年1月21日 - )… 細谷 一郎(ほそたに いちろう、1946年1月21日 - )は、兵庫県出身の元サッカー選手。ポジションはFW、MF。 兵庫県立神戸高等学校時代には同校校長を務めた高山忠雄の指導を受けた。 早稲田大学、三菱重工等でプレーし、日本代表としても、国際Aマッチ4試合に出場し1得点を記録した。現役引退後は社業に専念して三菱重工関西支社地域開発プロジェクト部長などを歴任。また、神戸フットボールクラブのシニアチームに所属してプレーしている
相川 亮一(あいかわ りょういち、1946年 - 2011年… 相川 亮一(あいかわ りょういち、1946年 - 2011年)は、神奈川県出身のサッカー指導者。 栄光学園高等学校出身で、独自のサッカー感を持ち、独学でサッカー理論を学ぶ。高校2年次の1963年から栄光サッカー部の指導を始め、大学3年次の1967年まで務めた。1965年に早稲田大学第一政治経済学部政治学科へ進学し、2年次の1966年には山手学院コーチとなり、卒業後の1971年まで務めた。1971年に日本サッカー協会主催第2回公認サッカー・コーチング・スクールを受講し、平木隆三(日本サッカー協会主任コーチ)に師事。1973年にテヘランで開催された国際サッカー連盟主催公認アジアコーチング・スクールを受講し、主任コーチのデットマール・クラマーに師事。
川野 淳次(かわの じゅんじ、1945年7月11日 - )は… 川野 淳次(かわの じゅんじ、1945年7月11日 - )は大分県中津市出身の元サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。 大分県立中津南高等学校を卒業後、東京教育大学に入学。蹴球部在籍時に日本代表に初めて選出された他、1965年のAFCユース選手権にも出場した。大学卒業後は東洋工業に所属し、ディフェンダーとして活躍。日本代表として1970 FIFAワールドカップ・予選など、国際Aマッチ2試合に出場した。 現役引退後は大分FC(現:大分トリニータ)のゼネラルマネージャーなどを務めた。
湯口 栄蔵(ゆぐち えいぞう、1945年7月4日 - 200… 湯口 栄蔵(ゆぐち えいぞう、1945年7月4日 - 2003年2月2日)は、日本の元サッカー選手。選手時代のポジションはミッドフィルダー。大阪府大阪市出身。
小嶺 忠敏(こみね ただとし、1945年6月24日 - 20… 小嶺 忠敏(こみね ただとし、1945年6月24日 - 2022年1月7日)は、日本の元高校教員、サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。一般社団法人長崎県サッカー協会会長、長崎総合科学大学特任教授。 長崎県南高来郡堂崎村(後の有家町、現在の南島原市)出身。父親は生前に太平洋戦争で戦死したため母子家庭(7人兄弟)で育ち、一家は農業で生計を立てていた。中学(堂崎中学)時代はバレーボール部に所属。長崎県立島原商業高校入学後よりサッカー部に所属し、3年時には主将を務め、九州選抜チームにも選出された。 高校卒業後は家庭事情から就職する予定であったが大阪商業大学からのスカウトもあり同大学に進学してサッカー部に所属。
松田 輝幸(まつだ てるゆき、1945年 - )は、広島県出… 松田 輝幸(まつだ てるゆき、1945年 - )は、広島県出身のサッカー指導者。
大野 毅(おおの たけし、1944年11月22日 - )は、… 大野 毅(おおの たけし、1944年11月22日 - )は、日本出身の元サッカー日本代表選手・指導者。 城北高等学校、早稲田大学第二商学部出身。大学同期に、釜本邦茂や森孝慈がいる。早稲田大学ア式蹴球部時代、DFとして第46回天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝に貢献した。 1967年、大学卒業後は東洋工業(現マツダ)に入社、東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、サンフレッチェ広島)に所属した。今西和男、丹羽洋介、桑原弘之、川野淳次、国枝強らとフルバック(ディフェンダー)として、あるいはミッドフィールダーとして相手キーマンをマンマークした。また日本代表としても、国際Aマッチ3試合に出場した。 一線を退いたあとはマツダオート広島でリベロとしてプレーした。
大仁 邦彌(だいに くにや、1944年10月12日 - )は… 大仁 邦彌(だいに くにや、1944年10月12日 - )は、兵庫県神戸市出身 の元サッカー選手(DF)・サッカー指導者、サッカー解説者。 日本サッカー協会第13代会長、現・名誉会長。 3人兄弟の末っ子として生まれ、神戸市立本山中学校2年時にサッカーを始める。神戸高校卒業後は1年の浪人を経て、1964年に慶應義塾大学文学部に入学。 慶應大には2年留年のため6年間在籍し、関東大学リーグでは6年連続全試合出場。大学時代は4-2-4の中盤の選手としてプレーし、1969年度の全日本大学選手権大会では大仁のゴールにより立教大学との決勝戦を1-0で制し優勝を決め、日本学生選抜では主将を務めた。 卒業後は1970年に三菱重工へ入部。