仲村 俊子(なかむら としこ、1922年 - 2022年11… 仲村 俊子(なかむら としこ、1922年 - 2022年11月18日)は、日本の社会運動家。 大正11年(1922年)、沖縄県うるま市勝連生まれ。昭和13年(1938年)、私立家政高等女学校を修了。昭和27年(1952年)に教師となり、沖縄教職員会で祖国復帰運動に取り組むが、運動の左傾化を感じ、昭和44年(1969年)に同会を脱退。昭和46年、「沖縄返還協定批准貫徹県民集会」開催に携わり、陳情団の一員として上京、早期批准を要望した。昭和55年(1980年)、前島小学校を最後に退職。昭和58年(1983年)、防衛協会の初代婦人部長を務めた。晩年も集会、講演会やメディア等に登場している。令和4年11月18日永眠。
降矢 敬雄(ふるや けいゆう、1921年(大正10年)10月… 降矢 敬雄(ふるや けいゆう、1921年(大正10年)10月7日 - 1993年(平成5年)7月14日)は、昭和期の農業協同組合指導者、労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 山梨県で生まれる。1939年(昭和14年)都留中学校(現山梨県立都留高等学校)を卒業。1943年(昭和18年)陸軍予備士官学校を卒業し、満洲国、フィリピンなどを転戦し、陸軍中尉で終戦を迎えた。 戦後、郵政事務官となり、全国特定郵便局従業員組合中央本部書記長、同副委員長を務めた。山梨県議会議員に選出され5期在任し、同議長も務めた。その他、山梨県森林組合連合会副会長・理事、同県農業協同組合中央会・信用農業協同組合連合会・経済農業協同組合連合会・全国共済農業協同組合連合会共通会長理事、家の光協会監事、全国新聞情報農業協同組合連合会理事、全国農業協同組合中央会理事などを務めた。
佐藤 初女(さとう はつめ、1921年10月3日 - 201… 佐藤 初女(さとう はつめ、1921年10月3日 - 2016年2月1日)は、日本の福祉活動家、教育者。1992年より青森県の岩木山山麓に「森のイスキア」と称する悩みや問題を抱え込んだ人たちを受け入れ、痛みを分かち合う癒しの場を主宰。それ以前は弘前市内で自宅を開放して同様の活動をしており、こちらは「弘前イスキア」と呼ばれていた。素朴な素材の味をそのままに頂く食の見直しにより、からだから心の問題も改善していくことができると訴えた。 「イスキア」とは、イタリア西南部のナポリ湾の西に浮かぶイスキア島の名前から採られたもの。ナポリの富豪の息子で、何不自由ない暮らしをしていた青年が、この島を訪れて、贅沢三昧の生活から、自分を静かに振り返ることを学び、そこの司祭館に滞在したというエピソードから借用されたものである。
泊谷 裕夫(とまりや やすお、1921年(大正10年)8月1… 泊谷 裕夫(とまりや やすお、1921年(大正10年)8月10日 - 1991年(平成3年)10月5日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 北海道幌別郡、現在の登別市出身。1944年(昭和19年)日本国有鉄道札幌鉄道教習所運輸高等科を修了。 北海道大学医学部附属登別分院勤務、室蘭駅助役、副鉄道官補、運輸事務官、国鉄労働組合北海道地評議長、全北海道労働組合協議会議長、北海道交通運輸労働組合協議会議長、北海道産業教育審議会委員、北海道環境衛生適正化審議会委員、札幌陸運局自動車運送協議会委員、北海道開発審議会委員などを務めた。 1963年(昭和38年)11月の第30回衆議院議員総選挙で北海道第1区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
村上 行示(むらかみ こうじ、1921年8月5日 - 201… 村上 行示(むらかみ こうじ、1921年8月5日 - 2011年6月20日)は、日本の労働運動家。元全日本海員組合組合長。 大阪市生まれ。神戸高等商船学校(現神戸大学海洋政策科学部)航海科卒。新和海運出身、甲種船長。1956年全日本海員組合中央執行委員。1960年から1966年に教育部長を務め、機関誌『海員』の編集を担当。組合の先輩を紹介する物語を連載し、1966年に『海上労働運動夜話』(成山堂書店)として刊行した。1971年6月の海員組合第30回臨時大会で組合長に選出。1972年4月から7月の「賃上げ・人間性回復・合理化対策」のスローガンを掲げた92日間のストを指導。民社党員で同盟副会長(1972年1月~1981年1月)を務めたが、日本生産性本部との関係解消、政党支持自由化、全港湾など総評系組合との共闘、総選挙での共産党候補の推薦など海員組合の路線転換を推進した。
寺尾 五郎(てらお ごろう、1921年〈大正10年〉7月4日… 寺尾 五郎(てらお ごろう、1921年〈大正10年〉7月4日 - 1999年〈平成11年〉8月21日)は、日本の社会運動家。 北海道室蘭市出身。1938年、早稲田大学文学部哲学科に入学後、共産主義運動に参加。1940年に治安維持法違反で検挙。 1943年に召集されるが、1945年に満洲のチチハル航空部隊で反戦活動を行ったかどで憲兵隊に拘束され、東京憲兵隊総本部へ送還。8月15日の敗戦の2日後、警視庁特高課に身柄移管され、治安維持法最後の被告となる。10月10日に豊多摩刑務所から出所し、以後日本共産党本部の専従活動家となる。 1950年にコミンフォルムの『日本の情勢について』をめぐる対立に巻き込まれて「国際派」として除名されるが、「国際派」と「所感派」の統一(日本共産党第6回全国協議会を参照)により5年後に復帰。
板橋 明治(いたばし めいじ、1921年〈大正10年〉6月2… 板橋 明治(いたばし めいじ、1921年〈大正10年〉6月25日 - 2014年〈平成26年〉12月24日)は、日本の農民運動家、政治家。毛里田村議会議員、太田市議会議員。毛里田村鉱毒根絶期成同盟会長として、足尾鉱毒問題の解決に奔走した。百年公害と言われた足尾鉱毒問題を解決に導き、幾多の指標的な成果を全国に提供したとされる。 1921年(大正10年)、群馬県山田郡毛里田村大字只上(現・太田市只上町)に、農業を営む板橋家の長男として生まれた。毛里田村の北側に、銅山と製錬所を擁する足尾山地を源流域とする渡良瀬川が、西から東へと流れている。その川は乳白色ににごり、毛里田の子供は川の水は、その色がもともとの川の水の色だと思って遊んだ。
宇佐美福生(うさみ ふくお、1921年(大正10年)6月10… 宇佐美福生(うさみ ふくお、1921年(大正10年)6月10日-1984年(昭和59年)6月2日)は、日本の政治家・俳人・市民運動家。北海道紋別郡生田原町出身。旧制北海道野付牛中学校(現、北海道北見北斗高等学校)を経て、早稲田大学政経学部卒業。北海道北見市長(1967年-1975年、2期)。 早稲田大学卒業後、市の職員として北見市立東陵中学校などの中学校教諭に就く。教師時代から、市民運動・住民運動に力を入れ、1956年(昭和31年)に北海道教職員組合北見市支部執行委員長に就き、その後、全北海道労働組合協議会副議長を歴任。1967年(昭和42年)北見市長選挙に出馬し現職の滝野啓次郎を破って革新系首長として初当選する。
村田 秀三(むらた ひでぞう、1921年5月4日 - 198… 村田 秀三(むらた ひでぞう、1921年5月4日 - 1985年1月5日)は、日本の労働運動家、政治家、参議院議員(4期、日本社会党)。 福島県白河市出身。1939年仙台逓信講習所卒、白河郵便局に勤務する。第二次世界大戦中に召集され南方作戦を経験、多くの戦友を失ったことが戦後、労働運動に携わる動機となる。1956年全逓福島地区委員長、福島県労組協議会議長などを経て、1965年の第7回参議院議員通常選挙で福島県選挙区から日本社会党公認で立候補して初当選。4期連続当選した。この間、社会労働委員長、災害対策特別委員長、参議院国会対策副委員長、社会党県委員長などを歴任した。 議員在職中の1985年1月5日、心筋梗塞のため、福島県白河市で死去した。
犬養 道子(いぬかい みちこ、1921年4月20日 - 20… 犬養 道子(いぬかい みちこ、1921年4月20日 - 2017年7月24日)は、日本の慈善家・環境活動家・小説家。 首相を務めた犬養毅の孫にあたる。カトリック信徒。 現在の東京都新宿区四谷に犬養健・仲子夫妻の長女として生まれる。父・健は犬養毅の嗣子で親子2代の政治家であり、母方の曾祖父が長与専斎と後藤象二郎である。母方の祖父は男爵長与称吉。従姉の娘に緒方貞子、異母妹に安藤和津がいる。 女子学習院、津田英学塾で学んだ後、アメリカ合衆国やフランスに留学。 1970年代以降ヨーロッパに在住し、環境破壊抑止を目指した「みどり一本」運動を提唱したり、1979年から世界の飢餓、難民問題に深くかかわった。また欧州滞在中は、ジュネーヴ空港に近いフランスの街フェルネ=ヴォルテールに住み、ライフワークの聖書研究のかたわら、難民支援活動を積極的に展開した。
槙枝 元文(まきえだ もとふみ、1921年3月4日 - 20… 槙枝 元文(まきえだ もとふみ、1921年3月4日 - 2010年12月4日)は、日本の教育者、労働運動家。日本教職員組合委員長、日本労働組合総評議会(総評)議長を務めた。計30年に渡って日教組の中央役員を務めて大きな影響力を持ったことからミスター日教組とも呼ばれた。子息の槙枝一臣は弁護士。 岡山県生まれ。1940年に岡山県立青年学校教員養成所(現・岡山大学教育学部)卒業し、都窪郡の早島青年学校に教師として赴任。1942年から終戦まで召集され、最終経歴は陸軍憲兵中尉。終戦後1946年同校に帰任し、翌年の新学制に伴い中学校の教師に。計5年、教壇に立った。地元の組合づくりに携わり、都窪郡教組の青年部長に就任や岡山県教組の役員を務める。
伊賀 定盛(いが さだもり、1921年(大正10年)2月28… 伊賀 定盛(いが さだもり、1921年(大正10年)2月28日 - 1990年(平成2年)9月1日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員(4期)、兵庫県城崎郡余部村長。 兵庫県城崎郡余部村(香住町を経て現香美町)出身。1944年(昭和19年)関西大学法文学部卒業。その後、中央大学でも学んだ。従軍し陸軍主計少尉で除隊した。 1947年(昭和22年)余部村長に初当選。兵庫県立豊岡高等学校教諭を務め兵庫県高等学校教職員組合但馬支部書記長に在任。1950年(昭和25年)兵庫県議会議員に初当選し、以後3期務める。兵庫県議会日本社会党議員団幹事長、兵庫県日本社会党県本部副委員長などを歴任した。 1967年(昭和42年)第31回衆議院議員総選挙で旧兵庫5区に日本社会党公認で立候補し初当選。
小島 健司(こじま けんじ、1921年2月23日 - )は、… 小島 健司(こじま けんじ、1921年2月23日 - )は、日本の労働運動家、日本福祉大学名誉教授。 横浜市生まれ。1943年日本大学経済学部卒業。44年荏原製作所入社。労働組合活動に参加し、49年総評調査副部長、1953年書記。60年同調査部長。1968年日本福祉大学教授。2002年定年退任、名誉教授。専攻は賃金論、日本産業史。時計産業史に関心をよせた。
伊部 真(いべ まこと、1921年(大正10年)1月21日 … 伊部 真(いべ まこと、1921年(大正10年)1月21日 - 1973年(昭和48年)10月9日)は、日本の労働運動家、政治家。参議院議員。位階は正五位。 福井県出身、本籍は大阪府。1939年、此花商業学校(現・大阪偕星学園高等学校)を卒業。 1941年に日本通運に入社、大阪支店労務主任を務めた。戦時中は宮崎県小林市で入隊。その後、全日通労働組合(全日通)梅田支部執行委員、同執行委員長、全日通中央執行委員、同関西地区本部副委員長、同大阪支部書記長、同中央執行副委員長などを経て、1960年、全日通中央執行委員長に就任。 その後、全国通運労働組合協議会議長、全国交通運輸労働組合総連合議長、運輸労連中央執行委員長などを務めた。
中嶋 英夫(なかじま ひでお、1920年(大正9年)10月2… 中嶋 英夫(なかじま ひでお、1920年(大正9年)10月26日 - 1988年(昭和63年)4月18日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。中島と表記される場合がある。 青森県三戸郡三戸町で、中嶋武兵の息子として生まれる。小学校4年次に母の実家の所在地・盛岡市に転居した。1940年(昭和15年)岩手県立盛岡工業学校(現岩手県立盛岡工業高等学校)土木科を卒業し、日本鋼管(現JFEスチール・JFEエンジニアリング)に入社し川崎製鉄所で勤務した。 1946年(昭和21年)1月、日本鋼管労働組合の発会式で書記長に選出され、以後、川崎市労働組合協議会議長、鉄鋼産業労働組合連合会副執行委員長、日本鋼管労働組合執行委員長などを務めた。
瓜生 清(うりう きよし、1920年(大正9年)10月26日… 瓜生 清(うりう きよし、1920年(大正9年)10月26日 - 1970年(昭和45年)11月9日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 大阪府出身。1942年(昭和17年)関西大学専門部を卒業した。兵役に従事。 復員後、織布会社に入社。1949年(昭和24年)労働運動に加わり主に繊維産業対策に従事。大阪府地方労働委員、社会保障診療報酬支払基金理事、社会保障制度審議会(現社会保障審議会)委員などを務めた。 1965年(昭和40年)7月の第7回参議院議員通常選挙で全国区に民主社会党(民社党)公認で立候補して当選。民社党中央執行委員、同党選挙対策委員長、全国繊維産業労働組合同盟(のちゼンセン同盟)顧問などを務めた。
向井孝(むかい こう/たかし、1920年10月4日 - 20… 向井孝(むかい こう/たかし、1920年10月4日 - 2003年8月6日)は、日本の詩人、社会運動家。 東京都出身。中央大学卒。1947年日本アナキスト連盟に加盟。1952年WRI(戦争抵抗者インター)に参加、1956年WRI日本部書記。「自由連合」「イオム通信」を発行。詩誌「コスモス」同人。
安宅 常彦(あんたく つねひこ、1920年〈大正9年〉8月3… 安宅 常彦(あんたく つねひこ、1920年〈大正9年〉8月31日 - 1998年〈平成10年〉10月18日)は、昭和期の労働運動家、政治家。日本社会党衆議院議員(6期)。全電通東北地方本部委員長、山形県労働組合評議会議長、日朝国交正常化国民会議事務局長を務めた。 現在の山形県村山市で生まれる。1936年(昭和11年)仙台逓信講習所普通科を卒業。山形楯岡郵便局、山形電気通信部で勤務した。 1952年(昭和27年)全電通東北地方本部委員長、1955年(昭和30年)山形県労働組合総評議会議長に就任する。 1960年(昭和35年)第29回衆議院議員総選挙で衆議院議員に初当選。以来、旧山形2区から日本社会党の公認を受け立候補し、連続6回当選する。
佐野 進(さの すすむ、1920年(大正9年)8月7日 - … 佐野 進(さの すすむ、1920年(大正9年)8月7日 - 2009年(平成21年)1月20日)は、昭和期の地方公務員、労働運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県出身。召集され兵役に就いた。東京都交通局に入局。1955年(昭和30年)専修大学商経学部経済学科を卒業した。東京交通労働組合青年部長や、東京都労働組合連合会、日本都市交通労働組合(現全日本自治団体労働組合都市公共交通評議会)、港区労協の各役員を務めた。 東京都港区議会議員を経て、東京都議会議員に選出され3期在任した。この間、同都議会公営企業委員長、同中小企業対策審議会委員、東京オリンピック大会組織委員などを務めた。 1967年(昭和42年)1月の第31回衆議院議員総選挙で東京都第6区から日本社会党公認で出馬し初当選。
岡崎 功(おかざき いさお、1920年7月17日 - 200… 岡崎 功(おかざき いさお、1920年7月17日 - 2006年)は、日本の右翼活動家・教育者。島根県出身。昭和戦前期から占領期にかけて活動し、1945年に松江騒擾事件を起こした。別名岡崎允佐夫(おかざき いさお)。 松江騒擾事件とは島根県庁の焼き討ち事件で、1945年8月24日、終戦に不満をもった岡崎らが「聖戦続行、昭和維新政府樹立」を要求して皇国義勇軍と名乗り、島根県知事公舎、発電所、新聞社等を襲撃した。襲撃後、皇国義勇軍は罪を不問とする条件で投降したが、岡崎は戦時騒擾罪等で無期懲役となって服役した。1952年、サンフランシスコ平和条約発効等による恩赦で出所。その後、1961年に学校法人淞南学園、現立正大学淞南高等学校を創立して理事長となり、長く学校の経営にあたった。
有馬 輝武(ありま てるたけ、1920年(大正9年)6月20… 有馬 輝武(ありま てるたけ、1920年(大正9年)6月20日 - 2003年(平成15年)1月10日)は、昭和期の農林技官、労働運動家、政治家、俳人。衆議院議員(3期)。俳号・明彦(あきひこ)。 後の鹿児島県西之表市出身。海軍予備学生として出征し、海軍中尉で解員(復員)した。1946年(昭和21年)明治大学商学部を卒業した。 復員後は鹿児島食糧事務所勤務で組合運動に従事し、同所の労働組合委員長となる。全食糧労働組合の副委員長に就任するため1948年農林省食糧庁に転じ、農林技官兼農林事務官に任官。その後、全食糧労働組合中央執行副委員長、同中央執行委員長、全農林労働組合中央執行副委員長、同書記長、同中央執行委員長、鹿児島地方労働組合評議会事務局長などを務めた。
舩山 しん(ふなやま しん、1920年4月13日 - 200… 舩山 しん(ふなやま しん、1920年4月13日 - 2006年8月23日)は、日本の女性運動家。元新日本婦人の会札幌協議会代表。元北海道教育大学学長の舩山謙次の妻。船山しんとも書かれる。日本共産党員。 山形県生まれ。山形県女子師範学校卒。夫・舩山謙次に伴って北海道に転居。新日本婦人の会の運動に参加し、札幌協議会代表などを歴任した。 「老人ホームをつくる会」(略称・つくる会)運動の中心メンバーとして同会副会長を務め、協立いつくしみの会の設立に尽力。特別養護老人ホームかりぷ・あつべつ開所後は協立いつくしみの会を支援する「かりぷ・あつべつ友の会」の初代会長に就任した。 長女の夫は新しい歴史教科書をつくる会(略称・つくる会)会長で元共産党員の藤岡信勝。
引間 博愛(ひきま ひろよし、1920年3月1日 - 201… 引間 博愛(ひきま ひろよし、1920年3月1日 - 2011年12月3日)は、日本の労働運動家。元全国貨物自動車労働組合委員長、統一労組懇常任代表委員、全労連顧問。 北海道夕張市生まれ。高等小学校卒。大夕張鉱業購買会・東京貨物運送統制組合勤務を経て、戦後の1946年に神田運送で労組を結成。同年東京貨物運送労働組合(東貨労)本部役員。1954年、全国貨物自動車労働組合(全自労)委員長。1977年、全日本運輸一般労働組合(全自労の後身)委員長。 1980年、統一労組懇常任代表委員。同団体の中心人物として、1989年の全労連結成に大きな役割を果たした。以後、全労連顧問、全日本年金者組合委員長(初代)、全国革新懇・東京革新懇各代表世話人などを歴任した他、原水爆禁止運動にも尽力した。
岡崎 哲夫(おかざき てつお、1920年(大正9年)1月18… 岡崎 哲夫(おかざき てつお、1920年(大正9年)1月18日 - 2000年(平成12年)12月15日)は、昭和後期から平成にかけての社会運動家。森永ミルク中毒資料館館長。 1920年(大正9年)岡山県に生まれる。早稲田大学在籍中の1941年(昭和16年)には、軍事教練を拒否したため、大学を中退している。1943年(昭和18年)臨時召集により、関東軍満洲第409部隊(歩兵第10連隊、佳期斯)に入隊。1945年(昭和20年)関東軍満洲第15国境守備隊(旧満洲国東安省虎頭要塞)に転属。この年、ソ連軍との激戦に生還している。その後、シベリアに抑留され、1948年(昭和23年)、帰国する。 1955年(昭和30年)に発生した森永ヒ素ミルク中毒事件の被災時の父親の一人として、森永ミルク被災者同盟の初代委員長に就任。
原 茂(はら しげる、1920年1月8日 - 2007年12… 原 茂(はら しげる、1920年1月8日 - 2007年12月23日)は、昭和から平成時代の労働運動家。日本炭鉱労働組合(炭労)委員長。 北海道夕張市生まれ。1935年夕張市鹿の谷高等小学校卒業。北海道の中小炭鉱に入り、兵役を経て、1944年北海道炭礦汽船平和鉱業所に入社。1946年平和炭鉱労組書記長、1947年同労組委員長。1950年北海道炭鉱汽船労働組合連合会(北炭労連)副委員長。1951年日本炭鉱労働組合(炭労)副委員長。1952年の破防法をめぐる炭労の左右対立では左派を代表する立場にたち、同年の炭労スト、1953年の三井炭鉱労連の「英雄なき113日の闘い」などを指導。1956年炭労委員長となり、1959年から1960年の三井三池闘争を指導したが、最終的に中労委の藤林斡旋案(会社は指名解雇を撤回し、該当者は自発的に退職する)を受諾して、炭労は敗北した。
寒河江 善秋(さがえ ぜんしゅう、1920年 - 1977年… 寒河江 善秋(さがえ ぜんしゅう、1920年 - 1977年)は、日本の社会活動家、作家。 山形県東置賜郡吉島村(現・川西町)生まれ。置賜農学校を卒業。18歳で満州拓殖公社に入社。訓練局訓練課に勤務し満蒙開拓青少年義勇軍の訓練等に従事した。太平洋戦争開戦に伴い1941年に軍属となり、愛知県豊橋市陸軍予備士官学校を経て、少尉としてハルマヘラで従軍し、当地で終戦を迎えた。1946年復員。 戦後、生地の吉島村にもどり、1947年に吉島村の青年団長となった。翌1948年にGHQの教育改革部門であるCIEが日本の教育指導者を対象として開催していたIFEL(The Institute for EducationalLeadership)講習会に参加し、グループワーク理論を学び、さらに満州での開拓経験を基に、1951年(昭和26年)深刻化していた農村の二・三男の失業対策として、かつ戦後の国土を青年の手で復興させるため、山形県産業開発青年隊運動を開始した。
小島 清文(こじま きよふみ、1919年〈大正8年〉12月2… 小島 清文(こじま きよふみ、1919年〈大正8年〉12月28日 - 2002年〈平成14年〉3月1日)は、日本の反戦運動家。台湾台北市出身。太平洋戦争末期に戦いの最前線であるルソン島での戦闘に参加し、アメリカ軍の前に敗北必至となった際、「生きて慮中の辱(はずかしめ)を受けず」、つまり敵軍の捕虜になるくらいなら死を選べとの日本軍の心得「戦陣訓」が絶対視された戦中において、敢えて投降の道を選んだ。戦後、後世に自分たちと同じ思いをさせず、戦争のない世界を作るために不戦と平和のために献身した。 慶應義塾大学経済学部を卒業後、太平洋戦争の戦局悪化の最中、海軍兵科予備学生隊を経て少尉に任官した。戦艦大和の暗号士として暗号電信解読の任務についていたが、1944年(昭和19年)12月、ルソン島での陸上勤務を命じられた。
福富 節男(ふくとみ せつお、1919年10月31日 - 2… 福富 節男(ふくとみ せつお、1919年10月31日 - 2017年12月18日)は、日本の数学者・社会運動家。元東京農工大学教授。専攻は、位相幾何学。 1919年、樺太に生まれる。第一高等学校理科を卒業後、東京帝国大学理学部数学科に進学。卒業間際に、1942年9月、樺太の砲兵連隊へ入営。1943年から陸軍特殊情報部で暗号解読作業に従事する。マニラに派遣された際、太平洋戦争におけるフィリピン戦線のさなか、ルソン島を逃げ回り、辛うじて生還。1945年、東京大学に戻り、助手として数学研究に従事する。「日本数学会」の設立にも参加し、岩波書店の『数学辞典』の編集に携わる。 1962年11月、日本大学文理学部数学科助教授であった福富節男ら四人は、秋葉安太郎学部長から、「日大の思想にあわぬ」との理由で、辞職を迫られる。
徳武 敏夫(とくたけ としお、1919年9月20日 - 没年… 徳武 敏夫(とくたけ としお、1919年9月20日 - 没年不明)は、日本の教育評論家、平和運動家。 長野県長野市生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学部卒業。1946年から1959年まで出版社勤務、1965年大連外語外賓教授として渡中。1967年から歴史教育者協議会副委員長に就く。1975年高知大学、1981年和光大学、1982年法政大学で非常勤講師を務める。家永三郎の教科書検定訴訟を30年以上支援し、支援する全国連絡会常任委員。
改井 秀雄(かい ひでお、1919年(大正8年)7月10日 … 改井 秀雄(かい ひでお、1919年(大正8年)7月10日 - 1983年(昭和58年)3月31日)は、昭和期の地方公務員、労働運動家、政治家。1971年から1983年まで富山県富山市長(4期)を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 富山県出身。1943年(昭和18年)拓殖大学商学部卒業後、富山県庁に入庁し、同県職組委員長、全日本自治団体労働組合富山県本部委員長などを歴任。富山県議会議員(日本社会党公認、1963年から2期)をへて、1969年(昭和44年)の県知事選に挑戦するも落選(当選は自民党公認で新人の中田幸吉)。 その後、1971年(昭和46年)2月に行われた富山市長選挙にて、社共統一候補として立候補し初当選。
鈴木 広(すずき ひろし、選挙時の通称:すずきひろし、191… 鈴木 広(すずき ひろし、選挙時の通称:すずきひろし、1919年6月25日 - 不詳)は、日本の政治運動家。社団法人日英協会終身会員等。 東京市本郷区(現文京区)出身。慶應義塾大学文学部卒業後、スタンフォード大学、ブリガムヤング大学、コロンビア大学に留学。 敗戦直後に香港で豪州軍の戦犯法廷で通訳を務めたのを始め、進駐米陸軍、八幡製鐵、三菱レイヨン、日興証券、大日本インキ化学工業勤務を経て、東京外国語大学、日本大学講師。 片山哲の影響を受け、1969年の第32回衆議院議員総選挙(旧京都府第1区)から旺盛な選挙闘争に着手。 主要公約は諸外国との友好、教育の充実、未成年労働者への非課税、交通網の整備、少数意見の尊重、清潔な選挙など、実直な人柄を忍ばせる常識的なもので、諸派候補の中にあって毎回上位で健闘したが、立候補した総ての国政選挙で落選し供託金を没収された。
上杉 佐一郎(うえすぎ さいちろう、1919年4月16日 -… 上杉 佐一郎(うえすぎ さいちろう、1919年4月16日 - 1996年5月10日)は、福岡県出身の部落解放運動家。部落解放同盟中央執行委員長。 福岡県三井郡御原村大道(現・小郡市二タ)の被差別部落で貧農の家庭に生まれる。農業だけでは食べていけないため、父は靴修理の行商に出、母は廃品回収業で生計を支えた。御原尋常小学校(現・小郡市立御原小学校)高等科卒業後、国鉄への就職試験に3度失敗し、家出生活を送っていたところ、騙されて北海道のタコ部屋に売り飛ばされ、重労働を経験。1934年、松本治一郎に救われて九州鉄道(西鉄)に入社。出征と復員の後、西鉄労働組合の役員となる。1940年4月、福岡二十四連隊第二機関銃隊に入隊。
山口 秀和(やまぐち ひでかず、1919年〈大正8年〉4月1… 山口 秀和(やまぐち ひでかず、1919年〈大正8年〉4月1日 - 2004年〈平成16年〉4月30日)は、日本の社会慈善活動家、朝日新聞社嘱託社員。岩手県出身。 戦災孤児支援を目的として山口児童文化研究所を設立し、その活動は子どもにとどまらず、障がい者や高齢者など社会的弱者へと広がった。サンタクロースの姿で北海道から沖縄まで全国の保育園や福祉施設を巡ったことから、「山口サンタ」の名で親しまれた。 1979年「国際児童年」に、児童福祉の功績により、内閣総理大臣・大平正芳から表彰を受けた。 1919年、4月1日、岩手県岩泉町(母親の実家とされる)に生まれる。幼少期を奥州市前沢区で過ごした後、一関市に移る。
朴 甲東(パク・カプトン、朝鮮語: 박갑동、1919年3月3… 朴 甲東(パク・カプトン、朝鮮語: 박갑동、1919年3月31日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、朝鮮民主主義人民共和国の官僚、ジャーナリスト、日本の実業家、大韓民国の人権活動家。朝鮮民主統一救国戦線常任議長。 日本統治時代の慶尚南道山清郡出身。16歳の時に渡日し、早稲田大学政治経済学部政治学科卒。1941年に帰国し独立運動に参加した。解放日報政治部記者、労力人民編集部長などを務め、1950年4月に南朝鮮労働党地下総責となるも同年6月に朝鮮戦争に非協力だったという理由で解職された。その後、文化宣伝省(現在は廃止)欧州部長を務めるが、1953年に金日成による粛清に巻き込まれ逮捕・監禁されたが、釈放された。
広沢 賢一(廣澤 賢一、ひろさわ けんいち、1919年〈大正… 広沢 賢一(廣澤 賢一、ひろさわ けんいち、1919年〈大正8年〉3月15日 - 2003年〈平成15年〉2月15日)は、日本の政治家、政治活動家。日本社会党から衆議院議員当選1回。男性。 東京府出身。1942年(昭和17年)早稲田大学政治経済学部卒。第二次世界大戦敗戦後、大内兵衛、鈴木茂三郎の社会主義政治経済研究所所員となり、1949年に日本社会党本部書記となる。その後、鈴木の秘書を務める傍ら、党政策審議会事務次長、組織部長企画室長を歴任。 1959年、浅沼稲次郎社会党書記長を団長とした中華人民共和国訪問団に随行した。浅沼は右派の出身で、左派で鈴木茂三郎・佐々木更三派の広沢を「ゴクサ(極左の誤読)」と呼んでいた。
和田 春生(わだ はるお、1919年3月15日 - 1999… 和田 春生(わだ はるお、1919年3月15日 - 1999年10月17日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。 東京府東京市四谷区四谷左門町生まれ。三重県伊勢市出身。1939年鳥羽商船学校(現鳥羽商船高等専門学校)卒、山下汽船に航海士として入社。1945年全日本海員組合に参加し、1948年組織部長。1950年総評結成に参加して常任幹事となるが、1952年秋季闘争での総評の敗北を機に総評主流の左傾的傾向を批判、海員組合・全繊同盟・全映演・日放労の「四単産批判」取りまとめの中心となる。その後、日放労を除いた3単産を中心に総評内の右派系単産をまとめ1954年に全労会議を結成して初代書記長となり、解散まで右派労働戦線の旗手的存在だった。
金瀬 俊雄(かねせ としお、1919年(大正8年)2月19日… 金瀬 俊雄(かねせ としお、1919年(大正8年)2月19日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員(1期)。 千葉県君津郡佐貫町(現在の富津市)生まれ。千葉県立木更津中学(現在の千葉県立木更津高等学校)を経て、千葉師範学校卒業。君津郡内の小学校や青年学校の教員となる。戦後直ぐに千葉県教職員組合の結成に関わり、日本社会党に入党。1947年に千葉県議会議員(君津郡選出)に当選し、途中離党して民主社会党に参加するも直ぐに社会党へ復党し7期務める。長年、県議会議員として公共の福祉に奉仕して地方自治の発展に貢献したとして1968年、藍綬褒章受章。1972年の第33回衆議院議員総選挙で千葉3区から社会党公認で立候補し、初当選。
佐藤 行通(さとう ぎょうつう、1918年12月5日 - 2… 佐藤 行通(さとう ぎょうつう、1918年12月5日 - 2018年3月1日)は、日本山妙法寺の僧侶、社会運動家。日弘とも。俗名は 佐藤 弘 (さとう ひろし)。 以後、平和運動に参画し、藤井日達の側近として「世界宗教者平和会議」や「アジア仏教徒平和会議」の設立に奔走する。成田空港問題(三里塚闘争)、立川基地反対闘争、ベトナム人民支援運動にも参加。 原水爆禁止日本協議会の設立にも深く関わったが、運動方針を巡って日本平和委員会、日本共産党と意見対立し、ついには原水協を追放される。更に、妙法寺の不正経理の責任を取る形で妙法寺からも離れることとなった。 晩年は茨城県内に草庵を結び、国際平和ビューロー等、世界平和のための活動と情報発信を続けてきた。
浅田 光輝(あさだ みつてる、1918年〈大正7年〉5月15… 浅田 光輝(あさだ みつてる、1918年〈大正7年〉5月15日 - 2006年〈平成18年〉10月10日)は、日本の経済学者・政治運動家。立正大学名誉教授。 福島県須賀川市出身。1943年慶應義塾大学経済学部卒。在学中、三田新聞学会事件で検挙。応召し、戦後日本共産党に入る。1946年、豊田四郎のもとで日本経済機構研究所設立に参加。神山茂夫理論に共鳴、天皇制・ファシズム理論を展開。1954年共産党を除名。以後、新左翼活動を支援した。ハンガリー事件を契機に神山と離れ、全共闘運動を支援。 1949年専修大学商経学部非常勤講師、1951年静岡大学文理学部助教授、1967年立正大学教養部教授。1988年定年退任。
閔 寛植(ミン・グァンシク、朝鮮語: 민관식、1918年5月… 閔 寛植(ミン・グァンシク、朝鮮語: 민관식、1918年5月3日 - 2006年1月16日)は、大韓民国の薬剤師、官僚、社会活動家、政治家。第3・4・5・6・10代韓国国会議員。第20代文教部長官。第10代国会副議長。 本貫は驪興閔氏。号は小崗(ソガン、소강)。京都大学法学博士。 日本統治時代の京畿道開城に生まれた。京城第1高等普通学校(現・京畿高等学校)、水原農林専門学校(現・ソウル大学校農科大学に併合)を卒業後、内地の京都帝国大学(現・京都大学)農学部農芸化学科を卒業。その後に薬剤師試験に合格し、薬剤師を免許取得した。 朝鮮戦争後は高麗時報社の社長を務め、1954年の第3代総選挙に無所属でソウル東大門選挙区から立候補して初当選した。
庄司 幸助(しょうじ こうすけ、1918年3月31日 - 2… 庄司 幸助(しょうじ こうすけ、1918年3月31日 - 2011年5月15日)は、日本の政治家、自然保護活動家。衆議院議員(日本共産党公認)を通算2期務めた。日本共産党名誉幹部会顧問。財団法人政治経済研究所森林政策研究室主任研究員。 宮城県仙台市宮城野区出身。東北帝国大学法文学部を経て、1947年から1972年まで日本共産党の宮城県議会議員を務める。 第33回衆院選に宮城1区から出馬し初当選を果たす。再選を目指した1976年の衆院選に立候補し次々点に終わるが、1979年の衆院選で2期目の当選。以後1980年、1983年、1986年の各衆院選に挑むも何れも当選には至らなかった。 宮城県議在任中の1970年頃からブナ問題に関心を寄せ、政界引退後も仙台のブナ林と水・自然を守る会常任代表、日本の森と自然を守る全国連絡協議会常任世話人を務めるなどして里山の保全に力を入れていた。
川口 武彦(かわぐち たけひこ、1918年3月29日 - 1… 川口 武彦(かわぐち たけひこ、1918年3月29日 - 1998年12月29日)は、日本の経済学者、社会運動家。元九州大学教授。元社会主義協会代表。経済学のほか、堺利彦、山川均など労農派を中心とした初期社会主義研究でも功績を残した。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
飯沼 二郎(いいぬま じろう、1918年3月20日 - 20… 飯沼 二郎(いいぬま じろう、1918年3月20日 - 2005年9月24日)は、日本の農学者・市民運動家。京都大学名誉教授。元京都ベ平連代表。専門は、農業経済学、農業史(農業・農法の歴史的研究)。農学博士(京都大学・論文博士・1961年)。 東京都生まれ。1941年、京都帝国大学農学部農林経済学科卒業。1948年に国立国会図書館主事を経て、1951年に農林省農業技術研究所技官。1954年2月に京都大学人文科学研究所助教授、1974年6月に京都大学人文科学研究所教授。1981年に定年退官。1981年4月に京都大学名誉教授。 1961年5月に「農学成立史の研究」により、京都大学から農学博士の学位を授与される。
永瀬 隆(ながせ たかし、1918年2月20日 - 2011… 永瀬 隆(ながせ たかし、1918年2月20日 - 2011年6月21日)は、日本の英語教師、社会活動家、元陸軍通訳。 岡山県都窪郡福田村(現:岡山県岡山市南区福田地域)生まれ。 1941年青山学院文学部英語科を卒業。同年12月、英語通訳として陸軍省に入省する。1943年、婚約者を置いてタイに赴き泰緬鉄道の建設にあたり、『建設作戦要員』として通訳に従事する。6万2千人ちかくのうち約1万3千人が死んだといわれる連合軍捕虜(en:Far East prisoners of war)虐待(泰緬鉄道建設捕虜虐待事件)の現場に出くわし、戦後において、この一件についての証言活動に至る。1945年9月、イギリス軍の墓地捜索隊の通訳となる。
佐竹 五三九(さたけ ごさく、1918年2月14日 - 19… 佐竹 五三九(さたけ ごさく、1918年2月14日 - 1977年10月12日)は、昭和時代の労働運動家。全国金属労働組合(全金)委員長、日本労働組合総評議会(総評)副議長。 大阪府三島郡富田村(現高槻市)生まれ。1933年高等小学校卒業。洋服屋の店員を経て、1934年大阪毛織に入社。同年11月の日本労働組合全国評議会(全評)結成に参加。1935年全評関西繊維労働組合淀川分会長。同年12月に検挙・拘留されて退職。1936年大阪市の日の出鉄工所に入社。働きながら野田職工学校(二部)を卒業。同時に全評金属関西地方協議会青年部長として活動。1937年12月人民戦線事件で再検挙。1939年高野実、柳本美雄と連絡をとり上京。
細井 宗一(ほそい そういち、1918年1月2日 - 199… 細井 宗一(ほそい そういち、1918年1月2日 - 1996年12月26日)は、労働運動家。 新潟県糸魚川市出身。陸軍士官学校卒業。陸軍では後に内閣総理大臣を務める田中角栄の上官だった。共に新潟出身で1918年(大正7年)年生まれという共通点があり堅い友情に結ばれていた。終戦時は関東軍第5軍司令部付陸軍中尉であった。 シベリア抑留を経験した。日本に引き揚げた後に日本国有鉄道(国鉄)に入り、国鉄労働組合(国労)へ加入した。1952(昭和27)年国労本部中央委員に就任。岩井章と共に国労内の日本共産党系勢力を指導した。1957(昭和29)年の新潟闘争で国鉄を解雇された。その後は総評反主流派の中核的な論客となったり、現場協議制度を国鉄で行ったり、国労新綱領の策定を指導したりした。
原口 幸隆(はらぐち ゆきたか、1917年12月7日 - 1… 原口 幸隆(はらぐち ゆきたか、1917年12月7日 - 1979年3月15日)は、昭和時代の労働運動家。日本労働組合総評議会(総評)議長。 福岡県生まれ。戸籍上は1918年1月7日生まれ。1941年九州帝国大学法文学部卒業、住友鉱業別子鉱業所に入社。エリートコースから労働運動に入り、1947年別子鉱業所職員組合委員長、全日本金属鉱山労働組合連合会(全鉱)副委員長。1948年から1979年2月(1953年を除く)まで全鉱委員長。1949年国際自由労連(ICFTU)結成大会に出席、1953年同東京事務所所長、1962年同加盟組合連絡会議議長。1956~1958年日本労働組合総評議会(総評)議長。1966~1971年総評民間単産会議議長。
横山 利秋(よこやま としあき、1917年10月10日 - … 横山 利秋(よこやま としあき、1917年10月10日 - 1988年11月1日)は、日本の政治家、労働運動家。位階は正三位。 日本社会党所属の衆議院議員(11期)。 愛知県名古屋市生まれ。3歳のときに父親を亡くす。中京商業学校卒業後に鉄道員として鉄道省(当時)に就職。国鉄労働組合(国労)の結成に参加する。 1947年に日本共産党による国労の組合活動への介入に反発した国労組合員を中心に国鉄労組反共連盟(後に国鉄民主化同盟=国鉄民同)が結成されると、これに参加。1950年に民同の支持で国労本部企画部長となるが、団体として加盟していた日本労働組合総評議会(総評)が「平和四原則」を決定すると、これに則る形で「平和三原則」を盛り込んだ運動方針案を提出する。
三木 睦子(みき むつこ、1917年〈大正6年〉7月31日 … 三木 睦子(みき むつこ、1917年〈大正6年〉7月31日 - 2012年〈平成24年〉7月31日)は、日本の政治運動家、社会活動家。第66代内閣総理大臣三木武夫の妻。三木事務所代表。全国発明婦人協会、アジア婦人友好会、国連婦人会の各会長、社団法人中央政策研究所理事、国際教育交流協会理事長など役職多数。旧姓は森。 千葉県出身。森コンツェルン総帥で昭和電工の創業者・森矗昶の次女。この父をはじめ、兄の森曉と森清、弟の森美秀、甥の森英介はいずれも衆議院議員に、また長女の高橋紀世子は参議院議員になっている政治家一族の出身である。また、姉は元昭和電工社長の安西正夫に嫁いでいる。 東京府立第一高等女学校(現東京都立白鷗高等学校)卒業。
平垣 美代司(ひらがき みよじ、1917年7月14日 - 1… 平垣 美代司(ひらがき みよじ、1917年7月14日 - 1984年6月26日)は、昭和時代の労働運動家。日本教職員組合(日教組)書記長。 大阪府池田市生まれ。1937年大阪府池田師範学校卒業。大阪市成小路小学校の教壇に立ったが、学問に興味を抱き関西大学に進学。1940年関西大学専門部法科卒業。学生時代、賀川豊彦等の指導により洗礼を受けた。戦後、大阪教職員組合(大阪教組)、日本教職員組合(日教組)、総評大阪地方評議会(大阪総評)の結成に参加。1947年大阪教組組織部長。1949年日本社会党に入党。日教組近畿地区協議会書記長を経て、1951年日教組組織部長、1953~1958年日教組書記長。 1951年に国労の岩井章、全逓の宝樹文彦らと「三角同盟」を結成。