若林 繁太(わかばやし しげた、1925年〈大正14年〉1月… 若林 繁太(わかばやし しげた、1925年〈大正14年〉1月24日 - 2007年〈平成19年〉7月27日)は日本の教育者、教育評論家。篠ノ井旭高校(現・長野俊英高等学校)の経験をもとに『教育は死なず』を上梓したことで知られる。 1925年に中国撫順で生まれる。旧制撫順中学校卒業。1953年に明治大学法学部法学科を卒業、1956年に明治大学大学院修士課程修了。同年、明治大学法学研究所研究員。当初は作家を志し、吉川英治門下に連なっていたものの作品が作れず、先輩からの忠告を受けた末に挫折し、明治大学大学院に入り直し民法を修めた。後に長野大学法学部新設の折に教授として迎えられることになるものの、大学紛争の影響で中止になった。
浜 栄助(はま えいすけ、1925年 - 1996年6月10… 浜 栄助(はま えいすけ、1925年 - 1996年6月10日)は、現在の長野県茅野市出身の教育者、植物研究家、公立高等学校教諭である。日本産スミレの研究者として知られる。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)に生まれる。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1947年、東京高等師範学校理科第三部卒業。東京第二師範学校男子部教官、長野県永明高等学校教諭、東京都立小松川高等学校教諭、長野県諏訪二葉高等学校教諭、長野県阿南高等学校教頭、長野県岡谷東高等学校教頭、長野県屋代南高等学校校長、長野県富士見高等学校校長、長野県長野西高等学校校長などを歴任し、1985年退任。長野県諏訪二葉高等学校教諭は1955年から1966年まで務めるが、その間スケート部の監督としてインターハイで女子総合優勝を導く。
山下二枝(やました ふたえ、1924年〈大正13年〉12月2… 山下二枝(やました ふたえ、1924年〈大正13年〉12月24日 - 1991年〈平成3年〉11月24日)は、日本の教育者・教育学者・学校経営者。元藤女子大学及び藤女子短期大学学長。専門は数学教育、福祉教育。北海道出身。修道名は「シスター・マリア・レナータ」。 1946年(昭和21年)東京女子高等師範学校理科卒業後、札幌藤高等女学校教諭などを務める。1954年(昭和29年)新墾藤学園中学校を開設と共に同中学校数学教諭。1958年(昭和33年)新墾藤学園中学校教頭に就任。新墾藤学園高等学校を開設と共に、同高等学校数学教諭を兼任。1968年(昭和43年)学校法人新墾藤学園園長に就任。新墾藤学園中学校校長・新墾藤学園高等学校校長・新墾藤学園養護学校校長に就任。
田辺 哲夫(たなべ てつお、1924年12月1日 - 200… 田辺 哲夫(たなべ てつお、1924年12月1日 - 2000年10月9日)は、日本の考古学者、教育者。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1942年卒業)を経て、広島高等師範学校を卒業した。 教員となり、京都師範学校、母校である熊本県立玉名高等学校で勤務の後、熊本県立小国高等学校で教頭・指導主事・主幹を、玉名高等学校、熊本県立第一高等学校、熊本高等学校で校長を務めた。熊本県庁で初代の文化課長を務めたこともある。 教員業の傍ら考古学者としての活動をおこない、九州各地の古墳などを調査した。県文化課長時代は遺跡の保護に力を尽くした。 1996年には、長年にわたる考古学への功績を評価されて熊本日日新聞社の熊日賞を受賞した。
梶原 完(かじわら ひろし、1924年(大正13)11月9日… 梶原 完(かじわら ひろし、1924年(大正13)11月9日 - 1989年(平成元)7月29日)は、日本出身のピアニスト、音楽教育者。日本で演奏活動を始めた後、1954年にドイツに渡り、ヨーロッパ各地で演奏を重ねる。1960年からドイツ西部のベッツドルフにあるアドルフ音楽院でピアノのレッスンを始め、演奏活動を続けるかたわら多くの生徒を育てた。 梶原完は、父梶原國生と母恒子の次男として、1924年11月9日に上海で生まれた。長野県出身の父は満鉄調査部上海事務所に勤めており、音楽を愛する学究肌の人物だった。同じく長野県出身の母は、女子高等師範学校を首席で卒業し、仙台で教師を務めた後に、結婚まで東京の東洋英和女学院でも教えていた。
金野 靜一(きんの せいいち、1924年9月15日 - 20… 金野 靜一(きんの せいいち、1924年9月15日 - 2021年5月18日)は、日本の歴史学者、教育者。元岩手県立博物館長。 岩手県大船渡市出身。立正大学地理歴史科卒業。岩手県立高校教諭、岩手県立盛岡第二高等学校校長、岩手県立博物館長。盛岡大学短大部教授、岩手県文化財保護審議会長、岩手県教育弘済会理事長を歴任。 2021年5月18日、急性心筋梗塞のため死去。
仲川 翠(なかがわ みどり、1924年8月20日 - 200… 仲川 翠(なかがわ みどり、1924年8月20日 - 2005年3月13日)は、日本の教育者。北海道高等学校体育連盟、北海道高等学校野球連盟の元会長。元プロ野球選手。北海道小樽市出身(札幌市生まれ)。 北海道札幌市に生まれ、4歳で小樽市に移住。旧制小樽中学校から東京高等師範学校(現・筑波大学)に進学。在学中は東都大学リーグで活躍し、母校の一部昇格に貢献した。卒業後東和ゴムに入社したが、プロ野球再編問題によるセ・リーグ誕生に伴い新設され、選手が不足していた新球団国鉄スワローズの誘いに応じて入団。シーズン途中の入団だが、同期に金田正一がいる。投手として国鉄に2年在籍後に引退。本人は後に当時を振り返って、「プロで食べていこうという心づもりは無く、野球の大学をちょっと覗いてみようというぐらいの気持ちだった。
西村 清則(にしむら きよのり、1924年〈大正13年〉6月… 西村 清則(にしむら きよのり、1924年〈大正13年〉6月15日 - 2003年〈平成15年〉2月5日)は、日本の政治家、実業家、教育者。鳥取県議会議員(日本社会党)。米子友好貿易代表取締役。日本中国友好協会鳥取県西部支部長。 鳥取県西伯郡夜見村上谷(現・米子市夜見町)に生まれる。武則の長男。米子中学校(現・米子東高校)を卒業、鳥取師範学校に入学。1945年、広島に野砲兵として入隊、6月に甲種幹部候補生として高知に行き、原爆の被災を免れる。 終戦後帰郷し、富益国民学校に勤務する。教員組合運動が盛んとなり、竹中栄、安田貞栄(のちの境港市長)らと共に運動に参加する。1947年に弓ヶ浜中学校に、1949年に美保中学校に、1954年に米子一中に転勤する。
粕谷 照美(かすや てるみ、1924年〈大正13年〉4月19… 粕谷 照美(かすや てるみ、1924年〈大正13年〉4月19日 - 2023年(令和5年)12月9日)は、日本の教育者、政治家。参議院議員(3期、日本社会党)。 新潟県佐渡郡(現・佐渡市)出身。1943年東京府女子師範学校(現東京学芸大学)卒。新潟県内の小中学校の教員を務め、新潟県教職員組合執行委員、日本教職員組合中央執行委員を経て、1974年の第10回参議院議員通常選挙で全国区から日本社会党公認で立候補して当選。3期務める。国会内では逓信委員長、環境対策特別委員長などを歴任、党内では中央執行委員、教育文化局長などを務めた。芸大事件の追及などを行った。1992年の第16回参議院議員通常選挙に出馬せず引退した。
松島 茂雄(まつしま しげお、1924年(大正13年)4月1… 松島 茂雄(まつしま しげお、1924年(大正13年)4月14日 -1982年(昭和57年)11月2日)は、日本の実業家、美容指導者、和装教育者、ヨガ指導者、文学士、美容師、僧侶。本名 松嶌茂雄。 関西学院大学卒業後、東宝撮影所・美粧部に勤務。退職後、美容研究会・日本尚美会を発会、会長に就任。和装教育団体・全日本和装協会、ヨガ健康法普及団体・国際ヨガ協会を創立。連合会会長として各会の指導・運営に当たる。株式会社尚美会・代表取締役。宗教法人神通山千光院・院主。 1924年〈大正13年〉4月14日、大阪府豊中市に松嶌伊左衛門の長男として誕生。旧制豊中中学・剣道部で全国制覇するなど活躍。関西学院大学・文学部在学中からスポーツ新聞や美術写真集、雑誌 「文芸復興」などの出版事業を手掛ける。
中山 義崇(なかやま よしたか、1924年(大正13年)4月… 中山 義崇(なかやま よしたか、1924年(大正13年)4月10日 - 2003年(平成15年)11月24日)は、日本の教育者。崇城大学元学長、君が淵学園理事長。娘婿は崇城大学現学長の中山峰男(旧姓:佐々、長女・郷子の夫)。1981年(昭和56年)11月藍綬褒章受章。 熊本県下益城郡小川町に生まれる。1945年(昭和20年)、官立熊本工業専門学校教員養成電気工学科(現・熊本大学)を卒業する。1949年(昭和24年)、私塾君が淵電波塾を創立。1961年(昭和36年)、学校法人君が淵学園を設立し理事長に。同年君が淵電波工業高等学校を開校し、初代校長に就任する。以降同校を発展させ、1967年(昭和42年)、熊本工業大学を設立、学長に就任する。
水庭 進(みずにわ すすむ、1924年3月21日-2017年… 水庭 進(みずにわ すすむ、1924年3月21日-2017年6月14日)は、戦前・戦後に活躍したアナウンサー、教育者、文筆家、俳人。 東京生まれ。東京外国語学校英語科卒。日本放送協会の国際放送の英語アナウンサーを務めた。俳人協会会員。 巣鴨学園を経て東京外国語学校(現・東京外国語大学)、英米科3年生在学時の1944年、学生アルバイトとして英語アナウンサーとなり、その後1946年に職員として入局。 戦後の国際放送再開以降も英語アナウンサーとしてニュースや朗読番組などで活躍し、1967年の吉田茂国葬の実況生中継も行った。チーフアナウンサー、アジア部長、欧米部長、国際局次長などを務め、1980年に定年退職。
木村 万平(きむら まんぺい、1924年(大正13年)3月9… 木村 万平(きむら まんぺい、1924年(大正13年)3月9日 - 2014年(平成26年)7月11日)は、日本の社会科教師、教育者、市民活動家である。大韓帝国・京城府(現在の大韓民国・ソウル特別市)出身。木村 萬平は旧字体表記。 下記の作品の監督をした記録がある。 コミンテルン( - 1943年5月)
中島 司有(なかじま しゆう、1924年〈大正13年〉3月7… 中島 司有(なかじま しゆう、1924年〈大正13年〉3月7日 - 2002年〈平成14年〉7月5日)は、日本の書家、書道教育者、元NHKアナウンサー。文学博士。國學院大學名誉教授。現代書道研究所創設者。本名は中島壌治。 東京都神田区(現千代田区)出身。小学校時代に左利きを矯正するために書を習い始め、栄田有宏に師事。1948年(昭和23年)に21歳で毎日展かな部で最高賞、翌年の日書展では最高賞、文部大臣賞を受賞し名を広めた。 京華商業高校、國學院大學国文科を卒業後、NHKに入局。主にアナウンサーを6年、演出を7年、計13年徳島・松山局などで勤め、1965年(昭和40年)より母校である國學院大學の教員を開始(のちに名誉教授となる)。
友松 康雄(ともまつ やすお、大正13年(1924年)3月4… 友松 康雄(ともまつ やすお、大正13年(1924年)3月4日 - 没年不明 )は、日本の教育者。米子市教育長。父は教育者の友松文雄。 昭和18年(1943年)鳥取師範学校卒業。同年米子市啓成国民学校訓導。昭和39年(1964年)中山町立逢坂小学校校長。 昭和41年(1966年)鳥取県教育委員会西部教育事務所長。昭和48年(1973年)県教育委員会教職員課参事、同年米子市教育長。昭和58年(1983年)米子市教育文化事業団専務理事、同年米子市美術館長、米子市児童文化センター館長、米子市東山水泳場長を兼務。 昭和58年(1983年)全国都市教育長会表彰・米子市功労表彰。昭和59年(1984年)文部大臣表彰。
小林 政子(こばやし まさこ、1924年2月29日 - 20… 小林 政子(こばやし まさこ、1924年2月29日 - 2008年6月28日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員(日本共産党公認)を5期務めた。日本共産党名誉幹部会顧問。 新潟県出身。日本大学を卒業後の1944年小学校教諭に就任。東京都教職員組合(都教組)足立支部執行委員婦人部長や全日本自由労働組合(全日自労)足立分会執行委員婦人部長を経て、1951年に足立区議(4期)、1967年には東京都議にそれぞれ当選する。 1969年の衆院選で旧東京10区(足立・葛飾・江戸川区)から出馬し初当選。この選挙では小林のほか、同じく共産党から不破哲三前議長や山原健二郎ら、自民党では森喜朗元首相や浜田幸一など、後に党・政界を牽引する人士が初当選を飾ったことから、「花の昭和44年組」とも称される。
浦野 りせ子(うらの りせこ、1924年〈大正13年〉2月1… 浦野 りせ子(うらの りせこ、1924年〈大正13年〉2月19日 - 2025年〈令和7年〉)は、日本の声楽家(メゾソプラノ)、オペラ歌手、音楽教育者。元武蔵野音楽大学教授。 長野県上高井郡須坂町(現・須坂市)出身。長野県須坂高等女学校(現: 長野県須坂東高等学校)卒業。しばらく音楽講師として教壇に立ったが、27歳の時、恩師の勧めで東京藝術大学声楽科に入学した。1956年(昭和31年)卒業。岡部多喜子に師事。平井康三郎、信時潔、松本民之助にも指導を受けた。1961年(昭和36年) - 1965年(昭和40年)ローマ・サンタ・チェチーリア音楽院に留学。ジョルジョ・ファヴァレット、イルデブランド・ピツェッティ、ジャン・フランチェスコ・マリピエロ、ダンジェロ、A・レオーネ、V・マリーニに師事。
松本 紀子(まつもと のりこ、 1924年〈大正13年〉2月… 松本 紀子(まつもと のりこ、 1924年〈大正13年〉2月11日 - 2023年〈令和5年〉4月28日)は、日本の教育者。学校法人鎌倉女子大学学園主。 1924年、仏教学者長井真琴の四女として東京市本郷に生まれる。誠之小学校、東京府立第二高等女学校に学び、東京家政学院では創設者の大江スミに師事。1950年、鎌倉女子大学・学祖松本生太の子、松本尚(後の鎌倉女子大学・学父)と柳原白蓮の媒酌で結婚。音楽学などを担当する京浜女子大学講師となり、鎌倉女子大学教授、学長、理事長、学園長を歴任した。1999年には松竹株式会社から大船撮影所の敷地を取得して大船キャンパスの開設(2003年)に尽力するなど、鎌倉女子大学における幼稚部から大学部までの一貫教育に力を注ぎ、その発展に大きく寄与した。
板見 甲子夫(いたみ かねお、大正13年(1924年)1月2… 板見 甲子夫(いたみ かねお、大正13年(1924年)1月28日 - 没年不明)は日本の教育者。 大阪大学大学院医学系研究科皮膚・毛髪再生医学寄附講座 教授板見智の実父。 1943年浜松高等工業学校航空工学科卒業。1948年米子市立第四中学校教諭。1978年県立米子南商業高校校長。 1981年県立米子東高校校長。1983年鳥取県米子市教育長。 特技は柔道。住所は米子市角盤町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
鈴木 亮(すずき りょう、1924年 - 2000年1月)は… 鈴木 亮(すずき りょう、1924年 - 2000年1月)は、日本の歴史教育者。 中国・大連生まれ。東京大学文学部東洋史学科卒業。東京都立町田高等学校などで世界史を教える。その後、和光大学と学習院大学で歴史教育や外国史を教えた。 1963年に出版された『現代高校生気質 われら劣等生』は、1965年に松竹により『われら劣等生』の題名で映画化された。
渡邉 久藤(わたなべ ひさと、1924年(大正13年)- 2… 渡邉 久藤(わたなべ ひさと、1924年(大正13年)- 2007年(平成19年)2月23日)は、日本の教育者、金属工学者(冶金学者)。千葉工業大学9代目学長(後に名誉学長)・教授。哈爾濱工業大学・北京理工大学・吉林大学名誉教授。千葉工業大学の発展(大学院修士課程、後期博士課程の設置など)に尽力。千葉工業大学卒業生で初の学長でもある。
大町 北一郎(おおまち ほくいちろう、1923年12月18日… 大町 北一郎(おおまち ほくいちろう、1923年12月18日 – 1987年8月27日)は、日本の地質学者、教育者。専門は鉱床学・資源学。 北海道大学時代(1949年~1955年)に指導教員の鈴木醇教授や同僚たちとともに、北海道を中心とした金属鉱山の記載を精力的に行った。その対象は多様で、テルル、マンガン、鉄、ビスマス、銀、銅、鉱床の記載など多岐にわたっている。これらのうち特に鉄に関連する研究は大町の大きな業績の一つであり、その後の地質調査所以降においても精力的に調査を続け論評を行った。 工業技術院地質調査所(1956年~ 現国立研究開発法人産業技術総合研究所地質調査総合センター)に移ってからは、主に特別研究「低品位鉄鉱石調査研究」に従事し、さらに国内外の鉄を中心とした資源調査を行い、多くの報告書にまとめている。
河合 邦人(かわい くにと、1923年(大正12年)12月5… 河合 邦人(かわい くにと、1923年(大正12年)12月5日 - 1983年(昭和58年)10月13日)は、日本の実業家、教育者、政治家。河合塾創始者である河合逸治の二男。 広島県世羅郡世羅町出身。1943年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。高校教師を経て、戦後間も無く父・逸治を助け河合塾の経営に参画。また広島県東広島市の喜久牡丹酒造専務を兼任、のち社長も歴任した。さらに1963年4月に広島県議会議員に初当選(通算4期務めた後、5期目の任期中に病死)。翌1964年、父の後を継ぎ河合塾理事長に就任。当時、名古屋市内に2つだけだった塾を予備校の他、外国語専門学校など積極経営で拡張、のちに河合塾経営に参画した兄・河合斌人と共に1977年、駒場校開校を皮切りに同塾の全国展開を図り三大予備校の1つに育てあげた。
乗富 一雄(のりとみ かずお、1923年(大正12年)11月… 乗富 一雄(のりとみ かずお、1923年(大正12年)11月22日 - 2011年(平成23年)6月27日)は、日本の地震学の研究者・教育者。元日本地震学会・物理探査学会会長、九州大学・秋田大学・東北大学・東京大学地震研究所・工業技術院地質調査所(現・産業技術総合研究所)教授等を歴任。 1923年(大正12年)11月22日、福岡県に生まれ。福岡縣中學傳習館(現・福岡県立伝習館高等学校)を経て、興亜工業大学(現・千葉工業大学)に進学し、その後、東北大学で地球物理学について学ぶ。1949年(昭和24年)には同大助手となり、1956年(昭和31年)には秋田大学鉱山学部助教授に任官。1968年(昭和43年)の十勝沖地震や1983年(昭和58年)の日本海中部地震の時には地震調査を主導した。
石井 公一郎(いしい こういちろう、1923年(大正12年)… 石井 公一郎(いしい こういちろう、1923年(大正12年)11月6日 - 2022年 (令和4年) 2月16日)は、日本の教育者、実業家。ブリヂストンサイクル会長。日本会議副会長、日本会議の関連団体「『日本の教育改革』有識者懇談会」(民間教育臨調)副会長、同関連団体「教科書改善連絡協議会」副会長、明成社初代社長などを歴任した。 小田村四郎(拓殖大学元総長ほか)とは学徒出陣以来の盟友であった。 父石井光次郎は台湾総督府参事官や衆議院議長等を歴任した。立憲政友会正統派総裁等を務めた久原房之助は母方の祖父。1923年(大正12年)東京府東京市(現・東京都)に生まれる。慶應義塾幼稚舎を経て慶應義塾普通部、慶應義塾大学経済学部に進む。
大辻 清司(おおつじ きよじ、1923年7月27日 - 20… 大辻 清司(おおつじ きよじ、1923年7月27日 - 2001年12月19日)は、日本の写真家、教育者。 東京府南葛飾郡大島町(現・東京都江東区大島)の機械技師の家に生まれる。東京府立第七中学校(現・東京都立墨田川高等学校)を経て、1942年に東京写真専門学校(現・東京工芸大学)に入学。在学中の1943年に学徒出陣により陸軍に応召され、終戦を迎える。(終戦後、東京写真専門学校から1944年9月卒業の認定を受けた)復員後、写真スタジオでの仕事、雑誌(『家庭文化』など)のための写真など、主として商業写真の分野で活躍。 1949年以降、東京美術文化展に出品する(1952年まで)。その後、実験工房(1953年)やグラフィック集団(1953年)に参加。
船田 譲(ふなだ ゆずる、1923年(大正12年)6月13日… 船田 譲(ふなだ ゆずる、1923年(大正12年)6月13日 - 1985年(昭和60年)8月10日)は、昭和期の教育者、政治家。栃木県知事(公選第8-10代)、参議院議員(2期)、作新学院院長。 後に衆議院議長、自由民主党副総裁を務めた船田中の長男として栃木県に誕生する。1947年(昭和22年)東京帝国大学農学部を卒業。卒業後は、船田家が創設した作新学院に入り、中等部長などを務める。 1965年(昭和40年)に自民党公認で参議院議員通常選挙に立候補し当選。2期務めその間、大蔵政務次官などに就く。 1974年(昭和49年)に参議院議員を辞職し、栃木県知事に立候補し当選。3期務める。学者肌の知事として全国的にも知られ、在職中のことは自伝『素人知事奮戦記』(1982年)に詳しい。
原 正敏(はら まさとし、1923年5月16日 - 2010… 原 正敏(はら まさとし、1923年5月16日 - 2010年8月30日)は、日本の図学者、技術教育者。 大阪府出身。1945年東京帝国大学工学部造兵科卒。東京都立江戸川高等学校、東京都立世田谷工業高等学校教諭を経て、1964年東京大学教養学部助教授(図学)、1970年北海道大学教授、1976年東大教養学部教授に戻り、1983年名誉教授となり、静岡大学教授、1986年千葉大学教授。図学、技術教育、技術教育史。技術教育研究会の設立発起人。
渡邉 久藤(わたなべ ひさと、1923年(大正12年)4月2… 渡邉 久藤(わたなべ ひさと、1923年(大正12年)4月28日 - 2007年(平成19年)2月23日)は、日本の教育者、金属工学者(冶金学者)。千葉工業大学9代目学長(後に名誉学長)・教授。哈爾濱工業大学・北京理工大学・吉林大学名誉教授。千葉工業大学の発展(大学院修士課程、後期博士課程の設置など)に尽力。千葉工業大学卒業生で初の学長でもある。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
北村 文雄(きたむら ふみお、1923年〈大正12年〉4月1… 北村 文雄(きたむら ふみお、1923年〈大正12年〉4月18日 - 2017年〈平成29年〉3月1日)は、日本の造園学者・造園教育者。 専門は造園植物である芝、花蓮。北海道旭川市生まれ。父親の故郷新潟県のほか熊本県と福岡県などに転居し、以降栃木県から東京に移る。
山岡 一三(やまおか いちぞう、1923年(大正12年)4月… 山岡 一三(やまおか いちぞう、1923年(大正12年)4月2日 - 1996年(平成8年)2月25日)は、日本の土木工学者であり、教育者でもある。建設省を経て関西大学工学部教授。国際ジオシンセティックス名誉会員。岡山県高梁市出身。 1923年(大正12年)、岡山県上房郡(現:高梁市)の山岡信治郎の子として出生する。1942年(昭和17年)地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業し、同年、山口県にある旧制山口高等学校理科へ進学する。 その後、同校を1945年(昭和20年)に卒業し、同年、京都帝国大学工学部へ進学。その直後日本は第二次世界大戦に敗北。戦後の混乱の中、1947年(昭和22年)山岡は3年次途中で卒業扱いとなり、同大学を卒業し、建設省へ入省する。
中村 拡三(なかむら こうぞう、1923年3月21日 - 2… 中村 拡三(なかむら こうぞう、1923年3月21日 - 2002年9月10日)は、日本の解放運動家・教育家。 長野県塩尻市出身。1943年長野師範学校卒業。長野県、奈良県、京都府で小中学校の教諭として勤務した後、解放教育研究所事務局長をへて、近畿大学人権問題研究所助教授、教授。1993年定年退職。部落解放運動に挺身し「解放の学力」を提唱した。
砂原 美智子(すなはら みちこ、1923年〈大正12年〉2月… 砂原 美智子(すなはら みちこ、1923年〈大正12年〉2月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月27日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。 広島県呉市出身。呉市立吾妻小学校(現・呉市立明立小学校)在学中の1930年(昭和5年)、音楽を学ぶために一家で東京移住。東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)卒業。1942年(昭和17年)東京音楽学校入学。1944年(昭和19年)東京音楽学校本科声楽科卒業(戦時中のため、卒業時期短縮で9月卒業)。平原寿恵子に師事。1947年(昭和22年)藤原歌劇団公演のプッチーニ『ラ・ボエーム』ムゼッタでデビュー。翌年にかけてビゼー『カルメン』のミカエラ、ロッシーニ『セビリアの理髪師』のロジーナ、プッチーニ『蝶々夫人』などを演じて一躍同劇団のプリマドンナになる。
菊地 規(きくち のりみ、1923年〈大正12年〉2月17日… 菊地 規(きくち のりみ、1923年〈大正12年〉2月17日 - 1989年〈平成元年〉1月26日)は、日本の教育者。作詞家。『北上夜曲』作詞者。 岩手県江刺郡田原村(現在の奥州市)出身。岩手県立水沢農学校(現岩手県立水沢農業高等学校)を経て、岩手師範学校(現・岩手大学教育学部)卒。羽田、藤里各国民学校、藤里、厨川各中学校に勤務。1961年(昭和36年)日本音楽著作権協会正会員、1963年(昭和38年)日本作詞家協会会員、1967年(昭和42年)岩手県教育委員会社会教育主事、のち、葛巻小、雫石中の各校長を務め、1983年(昭和58年)に緑ヶ丘小校長で定年を迎えた。定年後は岩手県社会教育指導員協議会会長、県民運動協議会参事などを歴任した。
桑原 瑛子(くわばら えいこ、1923年〈大正12年〉1月2… 桑原 瑛子(くわばら えいこ、1923年〈大正12年〉1月28日 - 2023年〈令和5年〉9月8日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、オペラ歌手、音楽教育者。 東京府出身。東京音楽学校 (旧制) 卒業。ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 1947年(昭和22年)に團伊玖磨と結婚。 1948年(昭和23年)藤原歌劇団を率いる藤原義江にモーツアルト『ドン・ジョヴァンニ』(本邦初演・帝国劇場)のドンナ・アンナの役を頼まれオペラデビュー。以後、藤原歌劇団の興隆期の大プリマとして活躍した。1950年代にはイタリアに留学。1958年(昭和33年)の藤原歌劇団によるプッチーニ『トスカ』でタイトル・ロールを歌った。
辻原 弘市(つじはら ひろいち、1923年(大正12年)1月… 辻原 弘市(つじはら ひろいち、1923年(大正12年)1月23日 - 1985年(昭和60年)10月19日)は、日本の教育者、政治家。日本社会党衆議院議員(8期)。日本武道館常任理事。 和歌山県出身。1940年(昭和15年)和歌山県立田辺中学校(現和歌山県立田辺中学校・高等学校)を卒業。朝鮮窒素肥料に入社し研究部に配属された。1943年(昭和18年)和歌山師範学校本科を卒業。和歌山県内の小中学校の教諭を務め、和歌山県教職員組合書記長、日本教職員組合中央執行委員、日本労働組合総評議会常任幹事などを歴任。 1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙で和歌山2区から日本社会党左派公認で立候補して初当選する。
豊田 耕作(とよた こうさく、1923年(大正12年)1月4… 豊田 耕作(とよた こうさく、1923年(大正12年)1月4日 - 2012年(平成24年)2月13日) は、日本の教育者、金属工学者(冶金学者)。千葉工業大学元理事長・千葉工業大学元会長。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
長谷川 敏(はせがわ さとし、1923年1月 - 2011年… 長谷川 敏(はせがわ さとし、1923年1月 - 2011年3月)は、日本の教育者。灘中学校・高等学校第5代校長。 兵庫県出身。旧制灘中学校、旧制姫路高等学校を経て、東京帝国大学文学部英文学科卒業。1987年から1993年まで灘中学校・高等学校の校長を務めた。
前沢 泰(まえざわ やすし、1923年 - 1986年)は、… 前沢 泰(まえざわ やすし、1923年 - 1986年)は、日本の教育者、教育学者。 長野県飯田市出身。1944年旧制第一高等学校卒。戦後中学校教師を務めた。1977年退職後、長野県下伊那郡上郷町(現飯田市)に転居。1961年より全国生活指導研究協議会(全生研)中央常任委員を務める。
小柳 陽太郎(こやなぎ ようたろう、1923年 - 2015… 小柳 陽太郎(こやなぎ ようたろう、1923年 - 2015年11月28日)は、日本の教育者。国民文化研究会副会長。 東京に生まれ、幼少時佐賀市に転居。 旧制佐賀高等学校を経て、東京帝国大学文学部に入学するが、1943年、東大在学中に学徒出陣し、復員後九州帝国大学文学部国文学科に転学。 1946年、九大を卒業し、泰星高等学校(現・上智福岡高等学校)の国語教諭として奉職。1950年6月、福岡県立修猷館高等学校国語教諭に転じる。 1983年3月、修猷館高校を退職し、九州造形短期大学教授に就任。
羽場 みきえ(はば みきえ、1923年月日 - 2000年9… 羽場 みきえ(はば みきえ、1923年月日 - 2000年9月14日)は、青森県出身の教育家。舘田学園元理事長。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
毛涯 章平(けがい しょうへい、1923年(昭和12年) -… 毛涯 章平(けがい しょうへい、1923年(昭和12年) - 2016年(平成28年)7月18日)は、飯田市旧南信濃村出身の日本の教育者、著述家。 1943年(昭和18年)長野県師範学校男子部本科卒業(現在の信州大学教育学部)。 教壇に立った後に校長職などを歴任。その後も、長野県教育委員会指導主事、信濃教育会研究調査部主任、信濃教育会研究図書部主任、下伊那教育会長、下伊那校長会長、長野県中学校長会長、全日本中学校長会理事などを歴任し教育行政の発展に尽力する。1988年(昭和63年)に教職を退職。 その後、結婚を機に移り住んでいた豊丘村にて20年間豊丘村教育委員(うち17年間は教育長)を務める。豊丘村では恒例となった満1歳児と小中学生を対象にした誕生日本贈呈事業を始めた。
大前 朔郎(おおまえ さくろう 1922年10月1日 - 2… 大前 朔郎(おおまえ さくろう 1922年10月1日 - 2005年6月13日)は、日本の教育者、関西学院大学名誉教授、[経済学者] 京都府出身。1945年(昭和20年)関西学院大学経済学部卒業。後に関西学院大学経済学部教授となり、1952年(昭和27年)には撓競技同好会(翌年剣道部に改名)の部長も務めた。イギリスの社会政策学などに関連する翻訳、著作等を多数執筆した。 2005年(平成17年)6月13日、兵庫県西宮市の病院で死去。享年82歳。
榛葉 良之助(しんば りょうのすけ、1922年〈大正11年〉… 榛葉 良之助(しんば りょうのすけ、1922年〈大正11年〉9月22日 - 2023年〈令和5年〉8月7日)は、日本の教育者、農学者、家政学者(農芸化学)。勲等は勲三等。静岡女子大学名誉教授。 住友化学工業株式会社、海軍での勤務を経て、初倉村農業協同組合常務、静岡県立榛原高等学校教諭、静岡女子短期大学助教授、静岡女子大学家政学部教授、静岡女子大学学生部部長、静岡女子大学家政学部学部長、一般社団法人谷田川報徳社理事長などを歴任した。 静岡県出身の農芸化学を専攻する農学者である。住友化学工業に入社し、海軍に入営する。農業協同組合の役員や高等学校の教員などを経て、静岡女子短期大学や静岡女子大学で教鞭を執り、後進の育成に努めた。
粟屋 和彦(あわや かずひこ、1922年9月15日 - 19… 粟屋 和彦(あわや かずひこ、1922年9月15日 - 1995年5月11日)は、日本の教育者、医学者。山口大学第7代目学長。医学博士(1956年、京都大学にて取得)。 山口県宇部市出身。1943年、九州帝国大学附属医学専門部卒業。1955年、山口県立医科大学(現:山口大学医学部)解剖学教室にて「核酸と形質細胞反應」(共著)を著す。1956年、京都大学にて「卵アルブミン刺戟に対するリンパ系の反応様式:特にリンパ球造血における二次小節の役割について」で医学博士となる。1965年より山口大学医学部教授、1977年から1981年まで医学部長。1984年同大学第7代目学長に就任(1990年まで)。1990年より宇部短期大学学長。
菱刈 隆永(ひしかり たかなが、1922年8月6日 - 20… 菱刈 隆永(ひしかり たかなが、1922年8月6日 - 2022年8月18日)は、日本の教育者。東京都立八王子東高等学校第2代校長。東京都出身。父は菱刈隆。専門分野は日本史。 1940年4月に東京府立第一中学校を卒業し、1941年4月に旧制第一高等学校に入学。大東亜戦争(太平洋戦争)の影響で一高を1943年9月に卒業。同年10月に東京帝国大学文学部国史学科に進む。この時の同級生に色川大吉、土田直鎮、虎尾俊哉、尾藤正英、高橋昌郎らがいる。学徒出陣の最中であったが、肺浸潤のため兵役を免れる。大学に残ったものの、終戦までの2年間は農村や軍需工場に向かわせられることが多かった。東京大学文書館には彼によるこの記録『第一軍需工廠配属 東京帝国大学文学勤労報国隊報告書』が残されている。
渡邊 進(わたなべ すすむ、1922年〈大正11年〉6月15… 渡邊 進(わたなべ すすむ、1922年〈大正11年〉6月15日 - 2003年〈平成15年〉12月22日)は、日本の医師・医学者・教育者・元地方公務員・医学博士(北海道大学)。北海道女子大学名誉学長・北海道女子短期大学名誉教授である。北海道出身で「渡辺進」とも表記される。 ただし、北海道女子短期大学記念誌では、「渡邉進」と表記されている。 1946年(昭和21年)、名古屋帝国大学医学部公衆衛生科を卒業する。同医学部助手を務める。翌年の1947年(昭和22年)に医師免許を取得する。 1948年(昭和23年)、札幌市役所教育部技師として入所する。 1949年(昭和24年)、札幌市保健所に入所する。1956年(昭和31年)、同所長となる。
戸田 敏子(とだ としこ、1922年〈大正11年〉5月10日… 戸田 敏子(とだ としこ、1922年〈大正11年〉5月10日 - 2015年〈平成27年〉9月24日)は、日本の声楽家(メゾソプラノ、アルト)、オペラ歌手、音楽教育者。東京藝術大学名誉教授。 東京府出身。1943年(昭和18年)東京音楽学校(現:東京藝術大学)を総代で卒業。 1943年11月13日に東京音楽学校の奏楽堂で開催された第149回報国団出陣学徒壮行演奏会で、村野弘二の繰り上げ卒業時に発表されたオペラ『白狐』第二幕のアリア「こるはの獨唱」(作詞:岡倉天心 ピアノ伴奏:高橋美代子)を歌う。その後、同級生の畑中良輔とともに村野作品のレコード吹込みを行い、戸田は「こるはの獨唱」(ピアノ伴奏:高橋美代子)と、歌曲『重たげの夢』(作詞:三好達治 ピアノ伴奏:村野弘二 チェロ伴奏:井上みどり)を歌った。
竹野 栄(たけの さかえ、1922年4月27日 - 没年不明… 竹野 栄(たけの さかえ、1922年4月27日 - 没年不明)は、日本の児童文学作家、教育者。 北海道奥尻島出身。北海道第二師範学校(現在の北海道教育大学)、國學院大學卒業。 師範学校在学中に素話を行った際に、自作の童話を使って行いたいと考えたことがきっかけで児童文学を志す。1961年から石森延男に師事し、児童文学を執筆し始める。1963年に『ブチよしっかり渡れ』で第4回講談社児童文学作品を受賞し、デビュー。 大学卒業後の約40年間、北海道や東京で小学校教諭を勤めていた体験を生かし、数々の児童文学作品を発表する。教師や校長先生たちと子供たちとの交流を題材とした、明るくのびのびとした作品が多い。その一方で、小学校低学年を対象にした国語や生活科に関連した絵本や、児童向けのノンフィクションの執筆も多く手掛ける。
畑中 良輔(はたなか りょうすけ、1922年(大正11年)2… 畑中 良輔(はたなか りょうすけ、1922年(大正11年)2月12日 - 2012年(平成24年)5月24日)は、日本の声楽家(バリトン)、音楽教育者、合唱指揮者、音楽評論家、作曲家、詩人、翻訳家(訳詞家)、エッセイスト。日本芸術院会員。日本の洋楽の発展に多大な功績を残した。 福岡県門司市(現:北九州市門司区)に浅野セメントに勤める父・勝次郎と、琴および三絃の師匠をしていた母・筆の長男として生まれる。四人家族で、二つ上の姉がいる。旧制門司中学校に入学、ラッパ鼓隊に所属し小太鼓を担当する。進学先として受験科目に苦手の数学が無い東京音楽学校を選び、人前で歌ったことはなかったが消去法で「声楽科」と書いたという。