長友 啓典(ながとも けいすけ、1939年4月8日 - 20… 長友 啓典(ながとも けいすけ、1939年4月8日 - 2017年3月4日)は、日本のグラフィックデザイナー。東京造形大学客員教授。 大阪府大阪市阿倍野区に生まれる。大阪府立天王寺高等学校卒業後、浜松市に本社を置く鉄工所に旋盤工としての勤務を経て上京し、倉庫番、機械の修理工など職を転々とする。 20歳の時、当時勤務していた会社の社長の息子がアメリカ帰りのグラフィックデザイナーだったことから、当時桑沢デザイン研究所を紹介され、ここで恩師・田中一光に出会うと共に、田中からエディトリアルデザインを学ぶ。日宣美の入選を経て、田中に早川良雄を紹介され、早川の下で色彩感覚を身につける。またここでのちにK2を設立することになる黒田征太郎と出会う(のちに黒田は武者修行として一年半の間、ニューヨークへ渡る)。
前澤 義雄(まえざわ よしお、1939年3月18日[要出典]… 前澤 義雄(まえざわ よしお、1939年3月18日[要出典] - 2014年11月17日)は、カーデザイナーであり、日本の自動車評論家である。元・日産自動車チーフデザイナーとして、おもに自動車のデザインについての評論を行っていた。 東京都青梅市出身。1965年3月東京藝術大学美術学部を卒業後、同年4月プリンス自動車工業(現・日産自動車)に入社。1980年10月から1984年3月までの日産ディーゼル工業(当時)への出向期間を含め、1992年12月に日産自動車を退社するまでの長期間にわたって数々の日産車のデザインに携わった。 1993年1月、フリーランスの自動車評論家、デザインコンサルタントとして独立し、自動車関連メディア等において活動していた。
高田 賢三(たかだ けんぞう、1939年(昭和14年)2月2… 高田 賢三(たかだ けんぞう、1939年(昭和14年)2月27日 - 2020年(令和2年)10月4日)は、日本のファッションデザイナー。ケンゾー創業者で、パリを拠点に活動した。会場を借りてショーを開催した初めてのデザイナーで、今日のパリコレの原型となった。 兵庫県姫路市出身。姫路市立野里小学校、姫路市立広嶺中学校、兵庫県立姫路西高等学校卒業後、神戸市外国語大学2部英米学科中退。1958年に文化服装学院に入学、男子学生としては2期生。師範科で1年間、服飾造形の基礎を学んだあと、デザイン科に進む。同級のデザイン科9期生には、コシノジュンコ、松田光弘、金子功ら、後のファッション界をリードする人材が揃っており「花の9期生」と呼ばれた。
金山 明博(かなやま あきひろ、1939年2月25日 - )… 金山 明博(かなやま あきひろ、1939年2月25日 - )は、日本の男性アニメーター、キャラクターデザイナー、漫画家。 東京都出身。大沢野小学校、速星中学校、富山県立富山工業高等学校卒業。虫プロダクションを経て、フリー。日本アニメーター・演出協会 (JAniCA) 会員。 東京都四谷で生まれる。生家は市ヶ谷駐屯地の前で軍服の仕立て屋を営んでいた。第二次世界大戦により1944年に富山県の遠戚宅へ疎開、富山県では高校卒業まで過ごす。中学時代には美術部に所属。高校時代から本格的に漫画を描き始める。高校卒業後は集団就職した千葉県市川市の鉄工所に勤務しながら夜間は漫画修行という生活に明け暮れるが、1959年、20歳のときにいったん富山へ帰郷。
頓所 修身(とんしょ おさみ、1939年2月20日 - )は… 頓所 修身(とんしょ おさみ、1939年2月20日 - )は、日本映画の美術デザイナー。岩手県出身。多摩美術大学洋画科卒業。東宝スタジオ所属。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
黒田 征太郎 (くろだ せいたろう、1939年1月25日 -… 黒田 征太郎 (くろだ せいたろう、1939年1月25日 - ) はイラストレーター・グラフィックデザイナー。日本工学院専門学校グラフィックデザイン科顧問。ニューヨーク在住を経て2009年より福岡県北九州市在住。
大野 美代子(おおの みよこ、1939年 - 2016年8月… 大野 美代子(おおの みよこ、1939年 - 2016年8月)は、日本の建築家・橋梁デザイナー。 株式会社エムアンドエムデザイン事務所(M+M Design Office)の主宰を務め、橋梁や道路、その付属施設の景観デザインなどを手がける。愛知県立芸術大学と東京工業大学の非常勤講師を歴任。 岡山県出身。1958年、岡山県立岡山朝日高等学校卒業。1963年、 多摩美術大学美術学部デザイン科卒業。
太田 幸夫(おおた ゆきお、1939年 - )は、日本のサイ… 太田 幸夫(おおた ゆきお、1939年 - )は、日本のサイン・デザイナー、グラフィックデザイナー。日本サイン学会元会長。愛知県刈谷市出身。 多摩美術大学教授を経て現在、太田幸夫デザインアソシエーツ代表、NPO法人サインセンター理事長。ISO国内委員会委員。企業のCI(シンボルマークとデザイン計画)やピクトグラム、公共の案内サイン等を設計するデザイナーであり、国際規格検討デザインである非常口サインをデザインしたことで知られる。
荒木 伸吾(あらき しんご、1938年11月28日 - 20… 荒木 伸吾(あらき しんご、1938年11月28日 - 2011年12月1日)は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー、漫画家。作画プロダクション「有限会社荒木プロダクション」代表取締役。日本アニメーター・演出協会(JAniCA)会員。愛知県名古屋市出身。 代表作に『聖闘士星矢』『キューティーハニー』『魔女っ子メグちゃん』など。全盛期の1970年代から1980年代まで、荒木伸吾デザインのアニメキャラクターはその端正な絵柄で美形キャラクターの代名詞とされるほどだった。アクション作画の腕前を評価する声も多い。 映像ディレクター、CMプランナーの荒木伸二は息子。 中学卒業後、日本車輌製造に勤務する。
石井 幹子(いしい もとこ、1938年10月15日 - )は… 石井 幹子(いしい もとこ、1938年10月15日 - )は、日本の照明デザイナー。石井幹子デザイン事務所主宰。 日本に「ライトアップ」という文化を根付かせたパイオニア的存在であり、東京タワーやレインボーブリッジの照明を手がけるなど、日本の都市夜景に変革をもたらした人物として知られる。 東京都出身。幼稚園から高校までお茶の水女子大学附属に通い、1962年に東京芸術大学美術学部図案計画科を卒業。デザイン会社で照明器具のデザインに携わり、1965年から1967年にかけてフィンランドとドイツの照明設計事務所に助手として勤務する。 帰国後の1968年に石井幹子デザイン事務所を設立し、1970年に開催された大阪万博、1975年に開催された沖縄国際海洋博覧会の照明デザインを手がけるが、オイルショックの影響で照明デザインは電力の浪費と受け取られ日本国内では不遇の時期を過ごす一方、日本の建築雑誌で作品を見たミノル・ヤマサキの目に留まったことをきっかけに「日本に仕事がなくても、地球上のどこかにはあるはず」とオイルマネーで建設ラッシュに沸く中東をはじめ海外での仕事をこなし実績を作っていった。
ユミ・シャロー(Yumi Charraut、1938年8月1… ユミ・シャロー(Yumi Charraut、1938年8月1日 - )は、日本人ファッションデザイナー。出生名は高木弓。 1938年、東京都港区麻布の鳥居坂に生まれる。父は建築家の高木秀寛。祖父は医学者・貴族院議員の高木喜寛。曽祖父は東京慈恵会医科大学を創設した高木兼寛。祖母・シマは有島武郎と有島生馬の妹で、里見弴の姉。学習院幼稚園、田園調布雙葉小学校、田園調布雙葉中学校・高等学校を経て、女子美術大学油絵科に進学。大学在学中から既にセツ・モードセミナーで学び、当時より「装苑」のスタイル画の仕事をする。 1967年、パリに渡り、高田賢三らと活躍。フリーで「ELLE」「ジャルダン・デ・モード」のデザイン活動やファッション・ジャーナリストとして活躍後、デザイン会社レラシオン・テキスタイルに入社。
川上 玲子(かわかみ れいこ、1938年〈昭和13年〉8月 … 川上 玲子(かわかみ れいこ、1938年〈昭和13年〉8月 - )は、日本のインテリアデザイナー。実業家。武蔵野美術大学客員教授。元昭和女子大学非常勤講師。 女子美術短期大学卒業。桑沢デザイン研究所卒業。福岡県出身。長女は女優の川上麻衣子。 福岡県出身。1958年(昭和33年)に女子美術短期大学を卒業し、前川国男建築設計事務所で勤務。1959年(昭和34年)にスウェーデン王立工芸学校に留学し、1965年(昭和40年)にはスウェーデン国王・グスタフ6世アドルフに作品が認められる。 帰国後は武蔵野美術大学、昭和女子大学などで非常勤講師を務め、後に武蔵野美術大学の客員教授に就任する。 またテキスタイルアートやインテリアデザインでは岡山県庁、盛岡グランドホテル、横浜市中央図書館、スウェーデン輸入住宅のモデルハウスデザインなどのデザインに携わった。
石岡 瑛子(いしおか えいこ、1938年7月12日 - 20… 石岡 瑛子(いしおか えいこ、1938年7月12日 - 2012年1月21日)は、東京府出身のアートディレクター、テキスタイルデザイナー。 妹は同じくアートディレクター、イラストレーターの石岡怜子。米国映画芸術科学アカデミー協会 (Academy of Motion Picture Arts and Sciences) 会員。 お茶の水女子大学附属中学校・ お茶の水女子大学附属高等学校を経て、東京藝術大学美術学部図案計画科を卒業後、資生堂宣伝部に入社。村瀬秀明、中村誠らとともにグラフィックデザイナー、アートディレクターとして活動した。 1970年、石岡瑛子デザイン室として独立し、パルコや角川書店などの広告で1970年代の日本で活躍。
平野 甲賀(ひらの こうが、1938年7月5日 - 2021… 平野 甲賀(ひらの こうが、1938年7月5日 - 2021年3月22日)は、日本のブックデザイナー。 妻の平野公子はスタジオイワト・プロデューサー。長男は写真家の平野太呂。 1938年 朝鮮・京城(現・ソウル)生まれ。 1945年 終戦を迎え、静岡に移住。 1957年 武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)デザイン学科入学。 1960年 武蔵野美術学校在学中に、グラフィックデザイナーの登竜門であった「日宣美」展で、大江健三郎『見るまえに跳べ』にて特賞受賞。 1961年 髙島屋の宣伝部入社。 1963年 高島屋退社、フリーランスとなる。 1964年以降、晶文社のほぼ全ての本の装幀に携わる。また、サイをあしらった同社の書籍のロゴマークも彼の手による。
三宅 一生(みやけ いっせい、Issey Miyake、19… 三宅 一生(みやけ いっせい、Issey Miyake、1938年〈昭和13年〉4月22日 - 2022年〈令和4年〉8月5日)は、日本のファッションデザイナー。広島県広島市東蟹屋町(現在の同市東区)出身。 広島市立尾長小学校在学中7歳のとき被爆。広島大学附属東雲中学校~広島県立広島国泰寺高等学校卒業。小学校高学年のときの担任が絵の先生で、絵を描く楽しさを教えてもらう。広島の美術館や岡山県倉敷の大原美術館にもよく通った。ルオーが好きだったという。周囲から「将来は絵描きになるの?」とよく聞かれたが、絵描きは貧乏イメージがあったから、大人になってからの職業にしようとは考えなかった。また当時は被爆都市を励ますという意味での宝塚の広島公演がよくあり、5歳上の姉に連れて行ってもらった。
木村 圭市郎(きむら けいいちろう、1938年4月5日 - … 木村 圭市郎(きむら けいいちろう、1938年4月5日 - )は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー。群馬県出身。息子はイラストレーターの木村タカヒロ。
あさの りじ(1938年3月5日 - 2000年11月9日)… あさの りじ(1938年3月5日 - 2000年11月9日)は、日本の漫画家、イラストレーター、デザイナー。愛知県出身。東京学芸大学美術学科卒。浅野利治、浅野りじとも表記される。オリジナル漫画の他、コミカライズや、児童向けの学習本の著作がある。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。
中村 曻(なかむら のぼる、1938年-2023年 )は、北… 中村 曻(なかむら のぼる、1938年-2023年 )は、北海道出身の家具デザイナーである。 1938年、北海道恵庭市に生まれる。北海道札幌工業高等学校卒業。1956年、旭川市の上川木工商品開発デザイン課に入社する。1969年に渡欧し、スウェーデンのカール・マルムステン木工技術学校に入学。さらに翌年、Konstfackskolanスウェーデン王立美術工芸大学の家具インテリア科のスペシャルスチューデントとなる。1973年、Gip & Quvist設計事務所に勤務後、イケア社の開発部デザイン課に入社。日本人で初めてイケア社の専属デザイナーとなった。1978年に帰国してFurniture Design Nackaを設立。
中垣 信夫(なかがき のぶお、1938年 - )は、日本のグ… 中垣 信夫(なかがき のぶお、1938年 - )は、日本のグラフィックデザイナー・エディトリアルデザイナー。神奈川県出身。 武蔵野美術大学卒業。1964~73年杉浦康平デザイン事務所勤務。ウルム造形大学(en:Ulm_School_of_Design)に招致された杉浦康平に同行し、オトル・アイヒャーに師事する。1973年、中垣デザイン事務所設立。2008年4月、杉浦康平、勝井三雄などのグラフィックデザイナーが講師を務める、社会人のためのデザイン学校「ミームデザイン学校」を設立。 実家はワイナリー(皇國葡萄酒)。母方の祖父は、1935年東京大学駒場に移転した、当時の第一高等学校校長森巻吉。
大村 皓一(おおむら こういち、1938年 -2024年2月… 大村 皓一(おおむら こういち、1938年 -2024年2月12日)は、日本の工学者、グラフィックデザイナー、プログラマー。元宝塚造形芸術大学副学長。 上海生まれ。大阪大学工学部通信工学科、同大学大学院工学研究科博士課程。工学博士。
桑山 弥三郎(くわやま やさぶろう、1938年 - 2017… 桑山 弥三郎(くわやま やさぶろう、1938年 - 2017年1月10日)は日本の書体デザイナー、ロゴデザイナー。かな書体タイポス開発者の一人で、1970年代に日本タイポグラフィ協会常任委員、後に佐藤敬之輔賞選考委員を務めた。新潟県柏崎市出身。1962年武蔵野美術学校卒業。 1970年代に雑誌『アイデア』に多数の記事を寄稿。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
花井 幸子(はない ゆきこ、1937年(昭和12年)11月1… 花井 幸子(はない ゆきこ、1937年(昭和12年)11月12日 - 2022年(令和4年)10月1日)は、日本のファッションデザイナー。神奈川県横浜市出身。 新聞、広告関係、雑誌等で、ファッションイラストレーター、写真家としても活動。また審査員として、各団体、企業主催のコンクールなどの審査に携わった。 「生活のすべてがデザインの場である」との自論から、きもの、ゴルフウェア、宝飾品、インテリア、食器等44アイテム以上ものライセンス商品を展開。「ユキコ・ハナイ」は華やかな色や柄、流麗なシルエットが特徴で、大手企業のユニフォームや学校制服のデザインも多数手がけた。 元モデル・テレビ司会者の芳村真理とは同年代ということもあってか、彼女のモデル時代から40年以上に及ぶ親交を結んだ。
香西 隆男(こうざい たかお、1937年7月26日 - 2… 香西 隆男(こうざい たかお、1937年7月26日 - 2024年4月29日)は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー。香川県出身。東京芸術大学卒。 漆職人を目指して、高松工芸高等学校へ。しかし漆にかぶれる体質から、東京芸術大学彫刻科へ進学する。卒業後は、東映動画(現:東映アニメーション)に入社。アニメのことを全く知らずに、東映で実写映画のスタッフになろうと入社試験を受けての入社だったという。アニメ映画『西遊記』を経て、アニメーターとなる。入社4年後の1964年に、永樹凡人、我妻宏、小泉謙三らと共に退社し、ハテナプロの設立に参加。同プロでは東映動画作品の『魔法使いサリー』などの作画を担当した。
黒川 雅之(くろかわ まさゆき、1937年4月4日 - )は… 黒川 雅之(くろかわ まさゆき、1937年4月4日 - )は、愛知県名古屋市生まれの建築家・プロダクトデザイナー(金沢美術工芸大学博士)。日本建築学会会員。日本建築家協会会員。株式会社黒川雅之建築設計事務所主宰。株式会社デザイントープ主宰。
ワダ・エミ(通常は本人の意向に従い「ワダエミ」と表記。本名:… ワダ・エミ(通常は本人の意向に従い「ワダエミ」と表記。本名:和田 恵美子、1937年〈昭和12年〉3月18日 - 2021年〈令和3年〉11月13日)は、日本の衣裳デザイナー。映画と舞台の双方で世界各地で数多くの作品を手がけ、日本人としてはこの分野で初めて世界的に広く知られる存在となった。 京都府出身。同志社女子中学校・高等学校を経て、1959年に京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)西洋画科を卒業した。大学在学中の20歳の時、NHKのドラマ制作部にいた演出家の和田勉(2011年に死別)と結婚した。1957年、夫が演出する舞台『青い火』の衣裳を手がけたのを機に衣装デザイナーとなる。 以後、日本映画の衣装デザインを数多く手がけ、とくに『乱』(1985年・黒澤明)の衣裳デザインにより日本人女性初となるアカデミー賞(衣裳デザイン賞)を受賞したことで世界的に知られるようになった。
鳥丸 軍雪(とりまる ぐんゆき、1937年(昭和12年)3月… 鳥丸 軍雪(とりまる ぐんゆき、1937年(昭和12年)3月5日 - )は、日本のファッションデザイナー。宮崎県小林市出身。 発足間もない東映動画(現・東映アニメーション)にアニメーターとして入社、同社初の長編作品となった『白蛇伝』では大塚康生の斑で動画を担当し、同作完成後に退社した。 ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションに留学後、ピエール・カルダンのアシスタントとなる。 英国のダイアナ元妃や、元首相のマーガレット・サッチャーの着用したドレスをデザインした。ダイアナのドレスは1986年の来日時に着用したものが有名である。黒柳徹子と仲が良く、彼女のドレスもデザインしている。
中辻悦子 (なかつじえつこ、本名:元永悦子、1937年2月1… 中辻悦子 (なかつじえつこ、本名:元永悦子、1937年2月12日 - )は、日本のグラフィックデザイナー、造形作家、絵本作家。 大阪府生まれ。大阪府立三国丘高等学校卒業。夫は元永定正で、夫の作品にグラフィックデザイナーとして協力することもあり、ふたりの作品展「元永定正 中辻悦子 絵本原画展」も開催。 1991年、『もけら もけら』(山下洋輔:文、元永定正:絵、中辻悦子:構成)で第14回絵本にっぽん賞(現・日本絵本賞)を受賞。 1999年、『よるのようちえん』(谷川俊太郎:文、中辻悦子:絵・写真)で第17回ブラティスラヴァ世界絵本原画展のグランプリを受賞。 2001年には神戸市なぎさ公園のモニュメント「夢きずな」、2005年には明石市民夏まつり事故の碑「いれぶんはーと」を元永定正と合作。
コシノ ヒロコ(本名:小篠 弘子(読み同じ)、1937年〈昭… コシノ ヒロコ(本名:小篠 弘子(読み同じ)、1937年〈昭和12年〉1月15日 - )は、日本のファッションデザイナー。大阪府岸和田市五軒屋町出身。関西大学客員教授、神戸芸術工科大学客員教授、神戸松蔭女子学院大学客員教授。血液型A型。 父は小篠家に婿入りした紳士服職人の川崎武一(かわさき たけいち)(1912 - 1945)。母は同じくファッションデザイナーの小篠綾子。同じくファッションデザイナーの妹コシノジュンコ(小篠順子)、コシノミチコ(小篠美智子)とともに「コシノ三姉妹」として知られる。娘(次女)の小篠ゆまもファッションデザイナーである。長女の小篠由佳は株式会社ヒロココシノの代表取締役社長。
三宅 康文(みやけ やすぶみ、1937年 - )は、東京都出… 三宅 康文(みやけ やすぶみ、1937年 - )は、東京都出身の男性書体デザイナー。
岩崎 駿介(いわさき しゅんすけ、1937年 - )は、日本… 岩崎 駿介(いわさき しゅんすけ、1937年 - )は、日本の建築家、都市デザイナー、NGO活動家、政治家。息子の岩崎夏海は放送作家。 東京生まれ。父は岩崎書店創業者・岩崎徹太。兄は精神科医の岩崎徹也。慶応義塾高等学校卒業後、東京藝術大学美術学部建築科へ入学。 大学卒業後、建築設計事務所を2年間経営した後、アフリカ・ガーナの国立科学技術大学専任講師、そしてハーバード大学デザイン大学院都市デザイン専攻留学。
土田 旭(つちだ あきら、1937年 - )は、日本の都市計… 土田 旭(つちだ あきら、1937年 - )は、日本の都市計画家、アーバンデザイナー。都市環境研究所代表所員(会長)。京都造形芸術大学客員教授。 兵庫県生まれ。1960年、東京大学工学部建築学科卒業。1965年、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程単位取得。同大学工学部都市工学科助手を経て、1970年、都市環境研究所を設立。
佐藤 允弥(さとう まさひろ、1937年 - 2015年2月… 佐藤 允弥(さとう まさひろ、1937年 - 2015年2月)は、日本のインダストリアルデザイナー。CB400FOUR(1974年)、CBX400F、タクト、フュージョンなどをデザインした。元本田技術研究所ECE(主席研究員)。 静岡市に生まれる。1956年、静岡県立静岡高等学校卒業。1962年、東京芸術大学卒業。同年、本田技術研究所造形室入社。シャリー、ハミング、タクト、フュージョンなどのファミリーバイク、スクーターから、SS50、CB50、CB90、CB125、CB400FOUR、CBX400Fなどホンダの主力となるCBシリーズまで広くデザインした。1992年よりミュージアム・プロジェクトのリーダーとして活躍。
宮本 貞雄(みやもと さだお、1937年 - 2024年1月… 宮本 貞雄(みやもと さだお、1937年 - 2024年1月9日)は、日本の男性アニメーター、キャラクターデザイナー、アートデザイナー。 1957年、コマーシャル制作会社一光社に入社する。その後大阪コマーシャルフィルム、クレア工房、ムービースタジオ、グラフィック社のプロダクションで、ナショナル冷蔵庫、シャープテレビ、仁丹、カネボウ、レナウン、タイガー魔法瓶、ロート目薬、礒自慢など7年間で約200本のコマーシャルフィルムを制作する。 1964年、虫プロダクションにアニメーターとして入社する。『鉄腕アトム』、『悟空の大冒険』、『リボンの騎士』、『アニマル1』、長篇アニメ『千夜一夜物語』、アメリカ合作『フロスティ・ザ・スノーマン〜温かい雪だるま』の原画や作画監督を務めた。
牧口 一二(まきぐち いちじ、1937年〈昭和12年〉 - … 牧口 一二(まきぐち いちじ、1937年〈昭和12年〉 - 2024年〈令和6年〉9月26日)は、日本のグラフィックデザイナー、障害者運動家、作家。 大阪府出身。大阪美術学校(現・大阪芸術大学)卒業。障害者の社会進出、自立などを考え、精力的に活動し、障害者に代わる新しい言葉の模索もしている。現在、被災障害者支援「NPO法人 ゆめ・風10億円基金」事務局長、障害者文化情報研究所所長。大阪市立大学、桃山学院大学、関西学院大学非常勤講師。障害者だからこそ見える社会の矛盾を鋭く指摘している。 満1歳の頃、脊髄性小児マヒ(ポリオ)にかかり、歩くことが不自由になる。小学校2年の頃から松葉杖で通学することが出来るようになり、中学、高校、美術学校と、全て地域の学校に通う(現在は車イスを使っている)。
長島 孝一(ながしま こういち、1936年(昭和11年)10… 長島 孝一(ながしま こういち、1936年(昭和11年)10月31日 - 2022年(令和4年)7月24日)は、日本の建築家・都市計画家アーバンデザイナー。エーユーアール建築・都市・研究コンサルタントを主宰。 祖父は衆議院議員(立憲政友会)、弁護士、法学博士の長島鷲太郎。息子は逗子海岸映画祭やCINEMA AMIGOを主催する長島源。
奥山 玲子(おくやま れいこ、1936年10月26日 - 2… 奥山 玲子(おくやま れいこ、1936年10月26日 - 2007年5月6日)は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー、版画作家である。別名、おくやま れいこ。 宮城県仙台市にて出生。小学生高学年ですでに大人の文学を読み、中学生にかけての時期には兄弟を役者にして、ストーリーと衣装を自作した舞台を毎年2回自宅で開いていた。 宮城学院中学校・高等学校から東北大学教育学部に進学。日本の敗戦で社会の価値観が変わったことから大人に対して反抗的な態度を取るようになり、高校でも変わらなかったという。東北大学への進学は父親の意向だった。 大学卒業後、上京。上京の経緯について、雑誌『週刊文春』1963年7月22日号をデジタル化した文春アーカイブスでは「外国語大学への入学を目指した」としているが、叶精二は「どうしても教員になる気にはなれず、家出同然」だったと著述しており、ニュースサイト「リアルサウンド」の記事でも「家出同然で上京」と記述されている。
小田部 羊一(こたべ よういち、1936年9月15日 - )… 小田部 羊一(こたべ よういち、1936年9月15日 - )は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー。公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団評議員。アニメーター・銅版画家の奥山玲子は妻。 日本統治時代の台湾・台北州台北市に生まれる。小学校教員の父は、油彩を嗜んでいた。幼少時より『ポパイ』や『桃太郎の海鷲』・『くもとちゅうりっぷ』などのアニメーション映画に親しんで育つ。日本の敗戦後、家族とともに日本に引き揚げ、奈良市・新潟市・日立市を移り住む。帰国後は手塚治虫(『新宝島』『ロストワールド』)や小松崎茂・山川惣治の作品に惹かれて頻繁に模写し、『せむしのこうま』『白雪姫』といった外国のアニメーション映画にも接する。
田名網 敬一(たなあみ けいいち、1936年7月21日 - … 田名網 敬一(たなあみ けいいち、1936年7月21日 - 2024年8月9日)は、日本のアーティスト、グラフィックデザイナー、イラストレーター、映像作家。 1936年、東京の服地問屋の長男として生まれる。1941年に日本の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発すると、田名網の生家は危険に晒される。1942年4月18日の東京初空襲の後、田名網は京橋を離れ、目黒の権之助坂付近にあった祖父の家に居を移す。1945年、9歳の時に東京大空襲を経験する。この時脳裏に焼き付いた数々の光景は、田名網が後に描き出す作品の主要なモチーフを占める事になる。轟音を響かせるアメリカの爆撃機、それを探すサーチライト、爆撃機が投下する焼夷弾、火の海と化した街、逃げ惑う群衆、そして祖父の飼っていた畸形の金魚が爆撃の光に乱反射した水槽を泳ぐ姿である。
横尾 忠則(よこお ただのり、1936年6月27日 - )は… 横尾 忠則(よこお ただのり、1936年6月27日 - )は、日本の美術家、グラフィックデザイナー、版画家、作家。 実弟の成瀬政博は画家・イラストレーター。長女の横尾美美も美術家。日本芸術院会員。 兵庫県西脇市出身。20歳までを西脇で過ごす。幼少期に西脇でさまざまな超常現象を経験。死の世界に憧れを抱く。 神戸新聞社にてグラフィックデザイナーとして活動後、独立。三島由紀夫に出会い三島の「聖俗一体」的言動に触発される。1970年の三島の死をきっかけにその後の15年間をオカルティズムや神秘主義まで包括した精神世界に傾斜してゆくが、それらが大いなる錯覚だったと気づき「私」の探求の延長線上で絵画に出会う。
山下 勇三(やました ゆうぞう、1936年5月30日 - 2… 山下 勇三(やました ゆうぞう、1936年5月30日 - 2008年1月31日)は、グラフィックデザイナー。広島県広島市観音(現・広島市西区)出身。 広島市立観音小学校、山陽中学校(現・山陽高等学校)、崇徳高等学校を経て、1960年多摩美術大学図案科卒業、ライトパブリシティに入社。和田誠は大学の同窓でデザイン会社も同僚の盟友。1963年に独立して「山下勇三事務所」を設立した。1969年、矢崎泰久の推薦により、日本のタウン誌第一号と呼ばれる「新宿プレイマップ」のアートディレクターとなる。「新宿PLAY MAP」というタイトルとロゴ文字を作成し、創刊号に斬新なイラストレーションの表紙画を書いた。「新宿プレイマップ」は第3号で降板したが、「話の特集」では、井上ひさしが15年にわたって長期連載した小説「江戸紫絵巻源氏」のイラストレーションを担当したほか、同誌に30年間掲載された永六輔との「せきこえのどに浅田飴」の広告を手がけた。
和田 誠(わだ まこと、1936年〈昭和11年〉4月10日 … 和田 誠(わだ まこと、1936年〈昭和11年〉4月10日 - 2019年〈令和元年〉10月7日)は、日本のイラストレーター、グラフィックデザイナー、エッセイスト、映画監督。大阪府生まれ。 実父は築地小劇場の創立者メンバーの1人で、のち、ラジオドラマを多数演出し「ラジオの神様」と呼ばれた和田精。日劇レビューで演出家を担った山本紫朗は伯父にあたる。 妻は料理愛好家・シャンソン歌手の平野レミ。長男はロックバンド・TRICERATOPSの和田唱で、その妻は上野樹里。次男の和田率は元電通勤務で、現在は母・平野レミの料理サイト「remy」のクリエイティブ・ディレクター。率の妻は和田明日香。 父である精が勤務していたJOBK(現在のNHK大阪放送局)の当時の赴任地である大阪市東住吉区で生まれる。
高木 滋生(たかぎ しげお、1936年2月2日 - 2013… 高木 滋生(たかぎ しげお、1936年2月2日 - 2013年12月18日)は日本の建築家、建築デザイナー。 高校時代、美術教師の大村政夫(日展参与)が高校生のために開放した自宅のアトリエに通い、デッサンを繰り返した。同じ志を持つ静高生ら十人ほどが集まっていた。三年間で制作したデッサンなどは約200点。1954年、静岡県立静岡高等学校卒業1959年、東京藝術大学建築科卒業。1962年〜1984年、女子美術大学非常勤講師を務めた。1963年、高木滋生建築設計事務所開設。東海大学短期大学部、静岡大学でも非常勤講師を務めた。1975年、地域開発センター設立、理事長。静岡県を拠点とし地域に根ざした設計を心がけ、50年間で約500軒を設計した。
安斉 敦子(あんざい あつこ、1936年 - )は、日本のデ… 安斉 敦子(あんざい あつこ、1936年 - )は、日本のデザイナー。 大阪市立工芸高等学校(現:大阪府立工芸高等学校)の図案科で、グラフィックデザインを学ぶ。 1955年、上京して亀倉雄策に師事し、亀倉らが設立した日本デザインセンターにグラフィックデザイナーとして入社する。 1964年東京オリンピックでは、デザイン・ガイド・シート作成の一員となった。 この年の5月には渡仏し、パリでファッションデザイナーの高田賢三と友人になる。
杉本 正美(すぎもと まさみ、1936年 - )は、滋賀県出… 杉本 正美(すぎもと まさみ、1936年 - )は、滋賀県出身の日本の環境デザイナー・造園学者。農学博士。 専門は、ランドスケープデザイン・景観計画・緑地計画。 九州大学名誉教授。旧九州芸術工科大学名誉教授。神戸芸術工科大学名誉教授。同大学では環境デザイン学科主任/大学院を担当。宗像市史跡保存管理推進委員会委員、神戸市公園緑地審議会委員。 大阪府立大学農学部園芸学科卒業、同大学大学院修士課程を中退し、以降はカナダ・レスブリッジ市役所に勤務。 1972年(昭和47年)大阪府立大学農学部助教授。 1983年(昭和58年)九州芸術工科大学芸術工学部(現九州大学芸術工学部)/九州大学大学院芸術工学研究院教授。
石津 祥介(いしづ しょうすけ、1935年1月31日 - 2… 石津 祥介(いしづ しょうすけ、1935年1月31日 - 2023年11月2日)は、日本のファッションデザイナー・ファッションディレクター。有限会社石津事務所、代表取締役。社団法人日本メンズファッション協会常任理事。公益財団法人日本ユニフォームセンター理事。ヴァンヂャケット創業者・石津謙介の長男。岡山県岡山市生まれ。 明治大学中退。桑沢デザイン研究所、セツ・モードセミナー卒業後、婦人画報社入社。創刊初期の「男の服飾」〜「MEN'S CLUB」編集部勤務。 1960年にヴァンヂャケット入社。その後、高度成長期のファッション界を席巻したヴァンヂャケット社創業者で父親の石津謙介の片腕として活躍。
岩崎 堅司(いわさき けんじ、1935年 - )は、日本の戦… 岩崎 堅司(いわさき けんじ、1935年 - )は、日本の戦後のデザイナー。 ‘64年東京オリンピック、‘70年大阪万博と、日本が産業の発達と生活の豊かさをめざしていた時代に、第一線で活躍した。'60年代に、作家の開高健らとともに「ベトナム戦争反対」を訴えるポスターを発表して脚光を浴びた。平和や自然環境、社会問題などを素材に、独特の力強さと優しさにユーモアを交えた作風で知られる。 静岡市紺屋町に誕生。少年時代に静岡大空襲を体験。1954年、静岡県立静岡高等学校卒業。1959年、東京芸術大学図案計画科卒業。同年、明治製菓入社。医薬品やキャラメルの包装デザインを手がけた。新人の登竜門と言われた日本宣伝美術会の公募展で2年連続入賞。
鈴木 儀雄(、1935年〈昭和10年〉 - )は、日本の映画… 鈴木 儀雄(、1935年〈昭和10年〉 - )は、日本の映画美術監督、娯楽デザイナー。東京都出身。 多摩美術大学彫刻科に在学中(1年生、19歳)の1954年に東宝のアルバイト募集を見て、開米栄三の造形助手として初代ゴジラのスーツ製作に参加する。1959年に大学を卒業し、3か月契約で東宝特殊技術課の撮影助手となる。その後、1961年より美術スタッフに転向する。 1968年に円谷英二に抜擢され、『マイティジャック』より円谷プロに美術監督(本編)として出向する。それ以降、『戦え! マイティジャック』や『恐怖劇場アンバランス』『独身のスキャット』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』といった一連の円谷プロ作品の美術監督を担当する。
森 啓(もり けい、1935年 - )は、日本のグラフィック… 森 啓(もり けい、1935年 - )は、日本のグラフィックデザイナー。森啓デザイン研究室主宰。女子美術大学大学院客員教授。日本大学大学院芸術学研究科非常勤講師。専門は、グラフィックデザイン史、書体設計、タイポグラフィ。 東京都生まれ。日本大学芸術学部美術学科卒業。桑沢デザイン研究所講師、明星大学日本文化学科教授、女子美術大学教授を歴任。2005年から女子美術大学大学院客員教授。
倉俣 史朗(くらまた しろう、1934年11月29日 - 1… 倉俣 史朗(くらまた しろう、1934年11月29日 - 1991年2月1日)は、日本のインテリアデザイナーである。空間デザイン、家具デザインの分野で60年代初めから90年代にかけて世界的に傑出した仕事をしたデザイナー。欧米の追随に陥らず日本的な形態に頼るでもなく日本国固有の文化や美意識を感じる独自のデザインによってフランス文化省芸術文化勲章を受章するなど国際的に評価をうけていた。そのあまりの独創性ゆえ「クラマタ・ショック」という言葉まで生まれた。
鈴木 銀一郎(すずき ぎんいちろう、1934年11月24日 … 鈴木 銀一郎(すずき ぎんいちろう、1934年11月24日 - 2021年1月6日)は、日本の作家、ゲームデザイナー。有限会社翔企画取締役。愛称は「G大佐」「(ヒゲの)大佐」「銀爺」など。妻を将軍と称していたために、「大佐」を名のったという。 日本におけるカードゲーム・ブームの火付け役となった『モンスターメーカー』シリーズのデザイナーとして知られるほか、ボードゲーム(ウォー・シミュレーションゲーム)、テーブルトークRPG(モンスターメーカー関連など)のデザインも手がけている。同じゲームデザイナーである鈴木一也は実子である。 1934年(昭和9年)11月24日、東京生まれ。早稲田大学高等学院卒、早稲田大学政治経済学部中退。