白髪 一雄(しらが かずお、1924年8月12日 - 200… 白髪 一雄(しらが かずお、1924年8月12日 - 2008年4月8日)は、日本の抽象画家。
職業が画家:2,021人
白髪 一雄(しらが かずお、1924年8月12日 - 200… 白髪 一雄(しらが かずお、1924年8月12日 - 2008年4月8日)は、日本の抽象画家。
金山 明(かなやま あきら、1924年7月17日 - 200… 金山 明(かなやま あきら、1924年7月17日 - 2006年9月2日)は、日本の画家・現代美術家。 1924年7月17日、兵庫県尼崎市に生まれる。 具体美術協会の初期メンバーであった。妻は同じく美術家の田中敦子。1947年に多摩美術大学を中退し、大阪市立美術研究所で学んだ。グタイミニピナコテカ、ギャラリーHAM等で作品を発表した。 2006年9月2日、肺癌のため死去。82歳没。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
深沢 幸雄(ふかざわ ゆきお、1924年7月1日 - 201… 深沢 幸雄(ふかざわ ゆきお、1924年7月1日 - 2017年1月2日)は、日本の版画家、銅版画家。多摩美術大学名誉教授。深澤幸雄と表記されることもある。 銅版画の一種であるメゾチントを中心とした作品を制作し、日本における戦後銅版画の第一人者のひとりとされている。版画だけでなく、書(詩)、陶芸、ガラス絵、パステル画の創作も行なっている。 初期には人間の内面や感情の奥底を表現したモノクロの作品が多かったが、やがて壮大で叙事詩的なテーマを取りあげるようになり、鮮烈な色彩といくつもの銅版画技法を用いるようになった。深沢の作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)、ボルティモア美術館(英語版)(いずれもアメリカ)、メキシコ国立版画美術館(メキシコ)、ケルン文化会館(ドイツ)、ウフィツィ美術館(イタリア)、チェコ国立近代美術館(チェコ)、山梨県立美術館、南アルプス市立春仙美術館などに所蔵されている。
芥川(間所) 紗織(あくたがわ〈まどころ〉さおり、1924年… 芥川(間所) 紗織(あくたがわ〈まどころ〉さおり、1924年〈大正13年〉5月24日 - 1966年〈昭和41年〉1月31日)は、愛知県渥美郡高師村(現・豊橋市)出身の画家。 1950年代から急逝するまで、当時はほとんどいなかった前衛の女性画家の一人であり、また「染色」という全く独自の技法で道を切り開いた作家である。 「芥川」は芥川也寸志との最初の結婚時の、「間所」は間所幸雄との再婚後の姓で、旧姓は山田である。「芥川紗織」とも「間所紗織」とも呼ばれるが、2つの姓を併記して「芥川(間所)紗織」と書かれることも多い。 旧姓を山田といった。東京音楽学校(現・東京藝術大学)本科声楽部を卒業後、作曲家の芥川也寸志と結婚し、芥川麻実子ら2女をもうけた。
石原 舜介(いしはら しゅんすけ、1924年4月15日 - … 石原 舜介(いしはら しゅんすけ、1924年4月15日 - 1996年4月16日)は、日本の都市計画家、工学博士。 1949年、東京工業大学建築学科卒業。東京都建設局都市計画課に勤務後、東工大助教授を経て同教授。田辺平学の都市防災論に学び、都市経営の視点から都市計画・社会工学研究を発展させた。門下に熊田禎宣、深海隆恒、梶秀樹、中井検裕、石見利勝ら。国民生活審議会委員、国民生活向上対策審議会委員、国土利用計画審議会委員、中央公害対策審議会委員、資源調査会委員、国土利用計画審議会委員、国会等移転調査会委員、土地政策審議会委員、日本都市計画学会会長、日本不動産学会会長、東京理科大学教授、明海大学不動産学部長等を歴任。
中西 勝(なかにし まさる、1924年4月11日 - 201… 中西 勝(なかにし まさる、1924年4月11日 - 2015年5月22日)は日本の画家。洋画家。 画風は、第二次世界大戦後の人々の暮らしなどを抒情的、詩的に描き出す、時には戦争体験も踏まえたものが中心であったが、1965年(昭和40年)から妻とともに自動車で世界一周をすると人間の逞しさや生命の根源を窺うものへと変化した。 1924年(大正13年)、現在の大阪府大阪市城東区に生まれる。大阪府立四條畷中学校在学時から油絵を描き始め、保田龍門のアトリエなどでデッサンを学ぶ。帝国美術学校西洋画科へ入学するとともに川端画学校へも通った。1944年(昭和19年)学徒動員にて出征。中支那派遣軍の部隊に配属するも、逃走を試みるなど軍人としては問題があった。
大谷 幸夫(おおたに さちお、1924年〈大正13年〉2月2… 大谷 幸夫(おおたに さちお、1924年〈大正13年〉2月20日 - 2013年〈平成25年〉1月2日)は、日本の建築家、都市計画家。東京大学名誉教授。 東京都赤坂区(現・港区)生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。丹下健三の片腕として、広島平和記念資料館や旧東京都庁舎の設計を手伝う。1964年、東京大学都市工学科助教授就任。1971年から1984年まで、東京大学都市工学科教授。1984年から東京大学都市工学科名誉教授。1983年から1989年まで千葉大学建築学科教授。大谷は生前、「住宅は中庭のあるのが基本」と述べ、自身のポリシーとしていた。2001年、勲三等瑞宝章受章。 一級建築士 登録番号第32349号 日本建築学会、日本都市計画学会、日本建築家協会文化庁文化財保護審議会専門委員会、文部省大学設置審議会専門委員会、建設省建築審議会委員、厚生省生活環境審議会 等
十代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1924年1月14日 - … 十代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1924年1月14日 - 2004年1月31日)は、東京都豊島区出身の落語家、南画家(雅号:籬風)。落語芸術協会会長(第4代)。落語江戸(東京)桂派宗家。血液型はO型、本名∶関口 達雄。父は同じく落語家初代柳家蝠丸。出囃子は『武蔵名物』。 早くから噺家志望であったが、軍需工場工員を経て1944年に召集令状を受ける。終戦後日本に帰国後の1946年6月、2代目桂小文治に師事し、父の名であった柳家小よしを名乗るが、後に師の亭号が桂だったために桂小よしに改名。1948年10月、2代目桂伸治に改名し二つ目昇進。1958年9月、春風亭柳昇、2代目桂小南、三笑亭夢楽、三遊亭小圓馬、4代目春風亭柳好とともに真打昇進。
小野木 学(おのぎ まなぶ / おのき がく、1924年1月… 小野木 学(おのぎ まなぶ / おのき がく、1924年1月13日 - 1976年8月24日)は、昭和期の日本の洋画家。東京府出身。甥の上矢津(かみやしん)は画家、現代美術家、版画家。 本名の読みは「おのぎ まなぶ」であるが、絵本作家としての筆名は本名と同じ表記で「おのき がく」の読みを用いている。 1924年、北豊島郡巣鴨町(現・豊島区)に小野木秀雄・シヅ夫妻の四男として生まれる。軍事教練中に肺を患い、療養中に独学で油絵を学ぶ。のち農林省関連の施設に勤務するかたわら、絵画の勉強を続ける。1952年の第17回自由美術展で入選。翌1958年に自由美術協会会員となるが、1961年から翌1962年にかけてパリへ留学した後の1963年に退会。
下村 良之介(しもむら りょうのすけ、1923年10月15日… 下村 良之介(しもむら りょうのすけ、1923年10月15日 - 1998年12月30日)は、戦後に活躍した日本画家である。本名・良之助。 1923年(大正12年)10月15日大阪市に生まれる。1935年(昭和5年)12歳の時に京都府に移る。1943年(昭和18年)京都市立絵画専門学校日本画科を学徒動員のため繰上げ卒業。 1949年(昭和24年)パンリアル美術協会の結成に参加。戦後の日本画界にあって革新運動を展開した同協会第1回展から出品を続け、やがて指導者的役割を果たし、旺盛な活動を展開、最晩年まで協会とともに歩んだ。「反骨の画人」とも称されているその貴重な足跡は、「日本画」という伝統的なジャンルにとどまりながら開拓精神に貫かれている。
下河辺 淳(しもこうべ あつし、1923年9月30日 - 2… 下河辺 淳(しもこうべ あつし、1923年9月30日 - 2016年8月13日)は、日本の都市計画家、建設官僚。国土事務次官を歴任。工学博士。日本上流文化圏研究所理事長。 日本の国土計画立案に多く関与し、また各種団体の要職を務め、その影響力を指して「御大」と呼ばれた。 1923年9月30日に下河辺収の長男として東京府東京市(現在の東京都)で生まれた。旧制水戸中学校、旧制水戸高校を経て、1947年、東京大学第一工学部建築学科卒業。在学中に終戦を迎えたため高山英華の下で戦災復興都市計画に参画し、卒業後戦災復興院技術研究所勤務。その後建設省入省。1952年に経済審議庁計画部勤務。1957年、建設省に復帰、計画局勤務。
大高 正人(おおたか まさと、1923年9月8日 - 201… 大高 正人(おおたか まさと、1923年9月8日 - 2010年8月20日)は日本の建築家、都市計画家。福島県三春町出身。 福島県三春町に生まれる。祖父が三春藩士で河野広中をリーダーに自由民権運動の激しい戦いに身を投じ、苦難の境涯に屈することはなかったが、運動はもはやこれまでと自ら命を絶ったとされ、大高の父は、これを隠して弾圧を逃れる生活を送り、大高の生後間もなく福島市近郊に移った。 1940年旧制福島県立福島中学校(現福島県立福島高等学校)卒業。在学中器械体操部のマネージャーと美術部部長をつとめる。このころや少年時代のもっとも楽しかった想い出は、風景を水彩で写生したことだという。 41年旧制浦和高等学校理科入学。
有賀 潤(あるが じゅん、1923年(大正12年)9月5日 … 有賀 潤(あるが じゅん、1923年(大正12年)9月5日 - 2013年(平成25年)1月2日)は日本の洋画家である。 風景、人物、静物など画材は広範。1970年頃から日本の伝統家屋(藁葺屋根)を取材した農村風景画の創作に力を注ぎ、日本列島全域を探訪した。現在では消失した伝統家屋を写実的手法で描かれた作品群は、日本人の心の故郷そのもであり、同時に民俗学史料としても国内外で高く評価されている。 長野県上田市出身。旧制小県蚕業学校(長野県上田東高等学校)卒業。太平洋戦争に従軍し、復員後の1945年から東京在住。1948年東京育英高等学校教諭、1950年東京美術学校卒業後、数年間、阿佐ヶ谷美術専門学校にて教師を務める。
大塚 清六(おおつか せいろく、1923年8月18日 - 1… 大塚 清六(おおつか せいろく、1923年8月18日 - 1974年6月5日)は、日本の画家、イラストレーター、装幀家、グラフィックデザイナー。先駆的なミニマリストとしても知られる。 1950年代から1970年代前半にかけて、小説の挿絵や装幀、油彩画などを手がける一方、商業デザインでも活躍。1962年(昭和37年)からは広瀬鎌二設計の自邸「SH-60」に居住した。 1923年(大正12年)8月18日、福島県喜多方町(現:喜多方市)に生まれる。女手ひとつで育てられ、町立喜多方幼稚園、喜多方小学校を経て、1941年(昭和16年)に喜多方商業学校を卒業する。1943年(昭和18年)、父親の位牌を鉈で割って上京し、東京美術学校に入学。
星野 眞吾(ほしの しんご、1923年〈大正12年〉8月15… 星野 眞吾(ほしの しんご、1923年〈大正12年〉8月15日 - 1997年〈平成9年〉12月29日)は、昭和期から平成期にかけて活動した日本の画家である。妻は、同じく画家の高畑郁子(創画会会員)。 愛知県豊橋市魚町に生まれ、同県豊川市牛久保町で育った。豊橋第二中学校(現・豊橋東高等学校)在学中から、水彩画・油彩画を描くようになった。また、この時期に中村正義と出会った。 1944年(昭和19年)に京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)図案科を、1948年(昭和23年)に京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)日本画科を卒業。同窓生11人と「グループ・パンリアル」(翌年、「パンリアル美術協会」に改称)の設立に参画した。
江見 絹子(えみ きぬこ、1923年〈大正12年〉6月7日 … 江見 絹子(えみ きぬこ、1923年〈大正12年〉6月7日 - 2015年〈平成27年〉1月13日)は、日本の画家。本名は荻野絹子。夫はフランス系アメリカ人の船乗り、長女は芥川賞受賞作家で慶應義塾大学名誉教授の荻野アンナ。 兵庫県明石市二見町生まれ。兵庫県立加古川高等女学校(現兵庫県立加古川西高等学校)卒業。女学校では絵画クラブに所属しており、油絵は男のすることと見なされた時代において、大反対する父を説き伏せ、卒業後に油絵の道へ進んだ。後に二紀会会員となる洋画家の伊川寛の個人教授を受けた後、戦後は神戸市立洋画研究所で学んだ。 神戸市立太田中学校の図画教師を経て、1949年(昭和24年)、第4回行動展(行動美術協会の公募展)に初入選、翌1950年(昭和25年)、第5回展で奨励賞を受賞、1952年(昭和27年)、第7回展で最高賞である行動美術賞を受賞、1953年(昭和28年)に行動美術協会で初の女性会員となった。
戸井 昌造(とい しょうぞう、1923年(大正12年)4月1… 戸井 昌造(とい しょうぞう、1923年(大正12年)4月16日 - 2000年(平成12年)4月17日)は、日本の画家、民俗研究家、作家。兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。息子は作家の戸井十月。 早稲田高等学院在学中に学徒出陣で中国に赴任。敗戦により捕虜となった後に復員し、早稲田大学に復学するが中退。1946年に共産党に入党し、1950年に脱党。 人形劇団プークでの民主主義的文化活動などを経て画家となる。それと並行して日本の民俗史や民衆史などを研究。特に秩父事件の研究では第一人者とされている。 人形劇団プークのリーダーだった、川尻東次・川尻泰司兄弟の妹・錦子と結婚。 2000年4月17日、胃がんにより死去。
堂本 元次(どうもと もとつぐ、1923年〈大正12年〉4月… 堂本 元次(どうもと もとつぐ、1923年〈大正12年〉4月9日 - 2010年〈平成22年〉1月4日)は、京都市出身の日本画家。本名は塩谷 元次。 日本画家堂本印象の長兄、堂本寒星の養子。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
新妻 元春(にいつま もとはる、1923年(大正12年)3月… 新妻 元春(にいつま もとはる、1923年(大正12年)3月23日 - 2007年(平成19年)6月12日)は、日本の洋画家。 宮城県栗原郡志波姫町に生まれる。 18歳から25歳まで軍属・軍人として過ごす。 1961年38歳の時、家族を宮城に残して単身千葉に住む。昼は土木作業、夜は絵を描く生活を続け、1965年家族を千葉に迎えて画業に専念。 師は奈良岡正夫(示現会会長・日展参与)で、1970年にテレビ出演していた奈良岡正夫の芸術に対する信念に感動して1971年に弟子入りした。 1972年第25回示現会展で「現場にて」が初入選、以後入選を重ね1975年第28回展では「閑日」が佳作賞を受賞。 1978年に会員となる。
石川 允(いしかわ まこと、1923年1月22日 - 202… 石川 允(いしかわ まこと、1923年1月22日 - 2020年2月21日)は、日本の都市計画家。指導者。長岡技術科学大学名誉教授。同大学で教授・副学長、東京電機大学建築学科教授、国土庁審議官などを歴任。都市計画コンサルタント協会認定都市プランナーマスター都市プランナー。 石川栄耀の長男として東京にて生まれる。旧制武蔵高等学校から東京帝国大学工学部建築科を経て軍に招集され、特攻部隊の司令官時に終戦となる。その後東大と戦災復興院で戦災復興都市計画に関与し、建設省・国土庁(現・国土交通省)、総理府首都圏整備委員会で、都市計画・建築行政などに携わった。 1977年、筑波研究学園都市の計画・建設で、今野博とともに日本都市計画学会設計賞を受賞した。
加島 祥造(かじま しょうぞう、1923年1月12日 - 2… 加島 祥造(かじま しょうぞう、1923年1月12日 - 2015年12月25日)は、日本の詩人、アメリカ文学研究者、翻訳家、随筆家、タオイスト、墨彩画家。 詩作のみならず、アメリカ文学の翻訳にて名声を得た後、壮年期より漢詩を経て老荘思想に大きな影響を受け、文筆のみならず絵画なども含めた幅広い創作活動や執筆活動を通して、90代で没するまで、西洋と東洋の双方を見渡す位置から、私生活でも徹底したタオイストとしての一貫した姿勢を生きた。 翻訳者としては、訳書により、一ノ瀬直二、久良岐基一といった別名義を用いて活動しており、死後になり、改めて関係者よりその事実が明かされた。 東京市神田区にて、大家族の商家の家系に生まれ育つ。
高橋宏幸(たかはし ひろゆき、1923年-2010年)は、児… 高橋宏幸(たかはし ひろゆき、1923年-2010年)は、児童文学者、挿絵画家。 秋田県由利本荘市東由利老方に生まれる。旧下郷村立老方小学校、旧制秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)卒業。在校中、全国中等柔道大会で準優勝。柔道は講道館五段。旧秋田鉱山学校(現秋田大学工学資源学部)卒業後、入隊。1943年から45年にかけ満州・千島に転戦。1946年小峰書店取締役初代編集長。退任後、日本初の出版プロダクションを設立。1972年「チロヌップのきつね」を機に作家となる。1990年の「オオカミ王ぎん星」で日本児童文芸家協会賞受賞。日本児童文芸家協会理事長、日本児童文芸家協会顧問、産経児童出版文化賞選考委員を務め、実作指導も行った。
津田 耕(つだ こう、1923年 - 2003年)は、日本の… 津田 耕(つだ こう、1923年 - 2003年)は、日本の版画家。元日本宣伝美術会会員。 大阪府岸和田市生まれ。旧制岸和田中学校卒業後、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)に学ぶ。 1952年に積水化学に入社し、宣伝部に所属する。1959年、アートハウスを設立する。1974年にはスタジオパレットを、1997年にシーディーシーを、それぞれ設立した。 2002年に、BSデジタルラジオ320chJFN1 BSジャズギャラリーにて「津田耕ジャズの世界」の放送が開催された。 2003年12月に死去。
田中 実(たなか みのる、1923年 - 2016年)は、愛… 田中 実(たなか みのる、1923年 - 2016年)は、愛知県出身の洋画家。浦和画家のひとり。光風会名誉会員。 水彩画を主に描いた。父の死後6歳で浦和に転居。埼玉県師範学校本科を卒業し、小学校教師となる。復員後、23歳で水彩連盟研究所に通い、小堀進、春日部たすく、荒谷直之助に学んだ。25歳で寺内萬治郎に師事し光風会展、日展に出品。 寺内の没後は渡辺武夫に師事。小学校教員退職後は絵画制作に専念し、日展岡田賞や水彩連盟展の小堀進賞などを受賞。それまでの業績に対し、埼玉文化賞、浦和市文化栄誉賞を受賞した。作品の一部は埼玉県立近代美術館に収蔵されている。
藤井 千秋(ふじい ちあき、1923年〈大正12年〉 - 1… 藤井 千秋(ふじい ちあき、1923年〈大正12年〉 - 1985年〈昭和60年〉5月5日)は、岐阜県出身の画家、イラストレーター。美少女を描いた抒情画で知られる。 1923年(大正12年)岐阜県に生まれる。1941年(昭和16年)京都絵画専門学校へ入学する。1943年(昭和18年)には学徒出陣で入隊する。軍隊生活中に脚を痛め陸軍病院に入院、招集解除となり海軍省用達の漫画映画の背景を一年描きながら、絵画専門学校を卒業した。 戦後、駐留米軍人の勧めで京都の有名な画商の元に少女の絵を数点持ち込んだところすぐに売れ、このときに絵を買った客の一人に大翠書院の社長がおり、本の表紙や挿絵の依頼が来るようになる。
元永 定正(もとなが さだまさ、1922年〈大正11年〉11… 元永 定正(もとなが さだまさ、1922年〈大正11年〉11月26日 - 2011年〈平成23年〉10月3日)は、三重県出身の日本の画家、絵本作家。前衛美術作家として国内外で高い評価を得ており、多数の受賞歴がある(後述)。 造形作家の中辻悦子は妻。妻の中辻との共作として、2001年に全長30メートルに達する巨大アスレチック遊具型阪神・淡路大震災復興モニュメント「ゆめ・きずな」を制作した。 1922年(大正11年)11月26日、三重県阿山郡上野町桑町(現・三重県伊賀市上野)に長男として生まれる。 1938年(昭和13年)に地元の三重県上野商業学校(現・三重県立上野商業高校)を卒業後、大阪に転居し同地の機械工具店に就職した。
赤松 燎(あかまつ りょう、1922年9月9日 - 1996… 赤松 燎(あかまつ りょう、1922年9月9日 - 1996年5月31日)は、昭和・平成期の日本画家。 1922年9月9日、岡山県倉敷市に生まれる。 1947年に京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)に入学。卒業後、晨鳥社に入塾し山口華楊に師事する。その後、京都を拠点に作家活動に専念する。土地柄もあってか、舞妓を描いた作品や陶工を描いた作品を残す。 1956年に日本美術展覧会に初入選し以後、生涯で日本美術展覧会に25回の入選をしている。1978年4月に自身のもと京都の伝統産業に携わるものが中心となり燎友会を結成。赤松燎本人の死亡後も燎友会は存在している。 1996年5月、圓徳院の襖絵「白龍の図」を制作中に逝去。
佐藤 圀夫(さとう くにお、1922年 <大正11年> 8月… 佐藤 圀夫(さとう くにお、1922年 <大正11年> 8月16日 - 2006年 <平成18年> 1月24日)は、日本画家、日本芸術院会員。岩手県出身。日展理事。名古屋芸術大学教授。主に風景を題材とし、重厚な色感ながら情感あふれる作品を描いた。位階は正五位。 岩手県九戸郡野田村出身。1946年東京美術学校日本画科首席卒業、同年第31回院展初入選。1948年に髙山辰雄らの日本画研究団体一采社に参加。1949年日展初入選。1951年から山口蓬春に師事。1954年、第10回日展で「冬」が特選・白寿賞を受賞。1959年第2回新日展「津軽の浜」が特選・白寿賞となり、1962年第5回新日展「夕凪」で菊華賞を受賞。
朝倉 摂(あさくら せつ、1922年7月16日 - 2014… 朝倉 摂(あさくら せつ、1922年7月16日 - 2014年3月27日)は、日本の舞台美術家・画家。本名・冨沢摂。the companyのアソシエイツメンバー。 東京府東京市下谷区谷中(現在の東京都台東区谷中)に生まれる。父は彫刻家の朝倉文夫。妹は彫刻家の朝倉響子。娘は文学座所属の女優の富沢亜古。声優の大塚周夫は従弟。同じく声優の大塚明夫は従弟の長男にあたる。 父・朝倉文夫により幼い頃から英才教育を受けるが、徐々に父や権力に対する反感の念が彼女の中に擡げてきたところがあり、それにより日本画家として生きていかんとする意思を抱いたとNHKは報じている。 画家の伊東深水に師事し、初めは日本画を学ぶ。
斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 19… 斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、岡山県倉敷市出身の洋画家、作家。映画「吉原炎上」の原作者としても知られる。 斎藤真一は1922年(大正11年)、岡山県児島郡味野町(現・倉敷市児島味野)に父・斎藤藤太郎(都山流尺八大師範)、母・益の長男として生まれる。1935年(昭和10年)に岡山県立天城中学校に入学すると、味野から峠を越えて天城中学まで3里半の道のりを5年間、自転車で通学する。2年生で陸上部に入部、秋から県大会に出場し始めるとしばしば入賞し、3年生で県下の駅伝大会にアンカーとして出場し優勝、天城中学の名を高める。その実績を買われて4年次にマラソンに誘われるが、好きな絵を優先させて断念する。
内田 正泰(うちだ まさやす、1922年6月20日 - 20… 内田 正泰(うちだ まさやす、1922年6月20日 - 2019年9月12日)は、日本の貼り絵画家。神奈川県横須賀市出身。 洋紙の特性を最大限に活かし、100色以上もの色彩を駆使して、日本の四季折々の風景や郷愁を誘う情景を作り出す。スケッチをせず、心に刻み込まれた風景を直接キャンバスに表現するスタイルで貼り絵を作成した。 作品は永谷園の「あさげ」のパッケージや、「青雲(日本香堂)」のCM、そして坂本冬美『ふるさとの空へ』(2018年)や、南佳孝&杉山清貴『愛を歌おう』(2020年)のアルバムジャケットなどに採用されている。南は「たまたま見つけた夏の田舎の風景画の、はり絵とは思えない繊細さに心を奪われた」と作品から受けた印象を述べている。
大山 忠作(おおやま ちゅうさく、1922年5月5日 - 2… 大山 忠作(おおやま ちゅうさく、1922年5月5日 - 2009年2月19日)は、日本画家。日展会長。福島県二本松市出身。妻和子。 長男は日本テレビフットボールクラブ(東京ヴェルディ)役員の大山昌作、娘は女優の一色采子。 1943年、学徒出陣の為、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)を繰り上げ卒業。埼玉県で特別操縦見習士官3期となり、台湾の航空隊で終戦を迎えた。 1946年、復員し、その年の第2回日展『O先生』が初入選。翌年、高山辰雄らの日本画研究団体「一采社」に参加。山口蓬春に師事した。人物画、宗教的作品、花鳥、風景など高範な題材を得意とする。1961年、日展会員となり、事務局長、理事長などを歴任。
池田 修三(いけだ しゅうぞう、1922年(大正11年)4月… 池田 修三(いけだ しゅうぞう、1922年(大正11年)4月30日 - 2004年(平成16年)11月10日)は、秋田県由利郡象潟町(現在のにかほ市象潟)生まれの版画家。 父は開業医で、姉のほか男4人兄弟の3男として生まれる。 秋田県立本荘中学校(現:秋田県立本荘高等学校)を卒業後、1942年に東京高等師範学校(現:筑波大学)芸能科に入学。学業途中で陸軍工兵学校に入隊するが、敗戦で東京高等師範を繰り上げ卒業した。 1946年、秋田県立由利高等学校に美術科教諭として赴任し、1952年には聖霊高等学校(現:聖霊女子短期大学付属高等学校)に移る。たまたま秋田を訪れていた画家の近藤良悦夫妻の知遇を得て、1955年同校を退職。
金守 世士夫(かなもり よしお、1922年(大正11年)1月… 金守 世士夫(かなもり よしお、1922年(大正11年)1月24日 - 2016年(平成28年)12月9日)は日本の版画家。版画芸術院代表、国画会会員審査員。 富山県高岡市に生まれる。帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)卒業。戦後、疎開中の棟方志功に師事し、木版画を制作する。1947年国画会に初出品。1952年同会賞を受賞。1958年、ニューヨーク・セントジェムス現代版画展で受賞。1970年刊の「湖山」など数多くの木版画集を手がける。1980年、富山市文化功労賞。1992年、勲五等瑞宝章受章。2016年、死去。藤子 不二雄Ⓐは富山新聞社勤務時代の部下でまんが道には金守をモデルとする変木が登場する。
大野 俶嵩(おおの ひでたか、1922年(大正11年)1月2… 大野 俶嵩(おおの ひでたか、1922年(大正11年)1月20日 - 2002年(平成14年)9月5日)は、昭和・平成期の日本画家であり、京都市立芸術大学名誉教授である。 京都府京都市生まれ。本名は大野 秀隆。 須田国太郎の指導を受けた1941年(昭和16年)京都市立美術工芸学校日本画科を終えると、京都市立絵画専専門学校日本画科(現・京都市立芸術大学)を1943年(昭和18年)に卒業。 1948年には星野眞吾の推薦を受けパンリアル美術協会に参加し、下村良之介らと翌1949年に「パンリアル宣言」を発表、パンリアル美術協会を公に結成する。同年、第1回展を開催し、1958年(昭和33年)まで同展に出品。
泉 茂(いずみ しげる、1922年1月13日 - 1995年… 泉 茂(いずみ しげる、1922年1月13日 - 1995年5月11日)は、日本の洋画家及び版画家。
富岡 惣一郎(とみおか そういちろう、1922年1月8日 -… 富岡 惣一郎(とみおか そういちろう、1922年1月8日 - 1994年5月31日)は、日本の洋画家。 新潟県高田市南本町出身。新潟県立高田商工学校卒業。黄変や亀裂、剥落などのない白い絵の具を自ら開発して作品を手がけ、「トミオカホワイト」と呼ばれた。著名な作品に「白の世界シリーズ」など。 現在[いつ?]、新潟県南魚沼市の八海山山麓には、1990年(平成2年)11月に開館した「トミオカホワイト美術館」があり、富岡惣一郎の作品が多数収蔵・展示されている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
今野 博(こんの ひろし、1922年(大正11年)- )は、… 今野 博(こんの ひろし、1922年(大正11年)- )は、日本の都市計画家。工学博士(東京大学)。岩手県生まれ。前田環境美術(株)会長。財団法人 都市づくりパブリックデザインセンター顧問。 1945年東京帝国大学第二工学部土木工学科卒。日本住宅公団首都圏宅地開発本部長から同首都圏宅地開発本部長を経て、建設省都市局区画整理課長、1970年1月に街路課長を歴任し、1971年同省都市局技術参事官。また1967年より兼務にて東京大学工学部都市工学科講師。1974年日本住宅公団理事、衆議院建設委員会調査員。1981年(株)都市開発技術サービス代表取締役社長を経て、同社取締役会長。都市計画コンサルタント協会の会長と都市づくりパブリックデザインセンター理事長、日本都市計画学会会長も歴任。
三尾 彰藍(みお しょうらん、1922年 - 2011年)は… 三尾 彰藍(みお しょうらん、1922年 - 2011年)は、埼玉県北足立郡浦和町(現・さいたま市浦和区)出身の日本画家。本名、三尾雄治。浦和画家のひとり。 浦和画家、三尾呉石の二男。1歳の時に関東大震災に被災し、父と共に埼玉県浦和町(のち浦和市)に転居、生涯浦和に居住。東京美術学校卒業。山口蓬春、髙山辰雄に師事した。院展で活躍し、風景画や静物画を得意とした。1979年までは本名(三尾雄治)で発表していた。2013年3月には埼玉県立近代美術館で回顧展が行われた。県展運営委員。
栗原 克実(くりはら かつみ、1922年 - 2003年)は… 栗原 克実(くりはら かつみ、1922年 - 2003年)は、日本の水墨画家。千葉県生まれ。 内閣総理大臣賞、国際文化交流功労特別賞などを受賞。国画水墨院名誉顧問。水墨画の世界的巨匠である。 「水墨画は東洋美術の主流であったが、明治の文明開化以降、欧米化に波のまれ影が薄くなっていた。私は洋画家を志したが、伝統芸術に関心を寄せ、水墨画家へと転身することとなった。東洋と西洋の思想、絵画理論を融和させ、西洋の影響を受けながらもなお、東洋的気質を貫く、水墨画の世界を創造確立することこそ、今日的課題だと考える。」 栗原克実の次男、栗原志保見も絵画活動を行い、フランス・パリのサロン・ドートンヌ展や公的国際現代アートフェアなどに選抜されるなど、活躍を重ねている。
牛玖 健治(うしく けんじ、1922年 - 2012年)は、… 牛玖 健治(うしく けんじ、1922年 - 2012年)は、日本の版画家、洋画家。千葉県出身。 1922年(大正11年)、千葉県に生まれる。旧制佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業。東京版画国際展をはじめ、毎日国際展、毎日現代展、朝日秀作美術展、JAA国際展などで活躍する。河童絵の牛玖博は実弟。
堂本 阿岐羅(どうもと あきら、1922年〈大正11年〉 -… 堂本 阿岐羅(どうもと あきら、1922年〈大正11年〉 - 2008年〈平成20年〉12月12日)は、京都市出身の日本画家。本名は堂本 亮。 日本画家堂本印象の次兄、堂本漆軒の子。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
徳吉 英雄(とくよし ひでお、1921年10月25日 - 1… 徳吉 英雄(とくよし ひでお、1921年10月25日 - 1958年9月21日)は、日本の画家。1946年(昭和21年)から1948年(昭和23年)にかけて倉吉で民藝の同人誌『意匠』を発行。同時期に、鳥取中部の芸術団体「砂丘社」の機関誌『砂丘』復刊に尽力した。 1921年(大正10年)生まれ。1934年(昭和9年)倉吉中学(現倉吉東高校)に入学し、中井金三に教わる。京都高等工藝学校(現京都工芸繊維大学)図案科に進学。卒業後は、鉄道本省に勤める。兵役を経て敗戦後は倉吉に戻る。 1946年(昭和21年)、私家版として同人誌『意匠』を発行する。『意匠』は郷土の工藝を育み向上させることを意図した雑誌であり、第1号から第4号まで発行された。
若菜 珪(わかな けい、1921年9月25日 - 1995年… 若菜 珪(わかな けい、1921年9月25日 - 1995年8月1日)は、日本の童画画家、イラストレーター、画家。埼玉県出身。男性。主に昭和時代を中心に活動。 多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)図案科(現・美術学部グラフィックデザイン学科)卒。主に児童文学、児童誌を中心に様々な挿絵を手掛けた。日本児童出版美術家連盟会員、日本国際児童図書評議会会員であった。 イラストレーターの若菜等は実の息子である。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
久場 とよ(くば とよ、1921年9月22日 - 2017年… 久場 とよ(くば とよ、1921年9月22日 - 2017年2月26日)は、沖縄県出身の画家。本名は久場 トヨ。 那覇市出身。那覇尋常小学校で島田寛平、沖縄県立第二高等女学校で名渡山愛順から、絵画の手ほどきを受ける。沖縄県立第二高等女学校、東京女子薬学専門学校(現・明治薬科大学)卒業。 第二次世界大戦後、薬剤師としての仕事と並行して創作活動を続け、沖縄画壇の第一線で活躍した。1977年に沖縄女流美術家協会の初代会長に就任し、沖縄女流画壇のまとめ役を担った。 2017年2月26日に老衰により死去した。95歳。
利根山 光人(とねやま こうじん、1921年9月19日 - … 利根山 光人(とねやま こうじん、1921年9月19日 - 1994年4月14日)は日本の美術家、画家。メキシコを題材とした情熱的な作品を数多く残し太陽の画家と呼ばれた。茨城県結城市出身。 6人兄弟の末子として生まれる。幼時より創作活動を行っていた。早稲田大学高等師範部国語漢文科(現在の教育学部国語国文学科)卒業後は、静岡県の農業学校、栃木県立烏山高等女学校、海城学園に国語教員として勤務した。その後、一時教員生活を去り、メキシコなどへ渡航した。シケイロス、オロスコなど壁画作家の影響を受ける。帰国後は聖徳学園高等保育学校、聖徳学園短期大学などで教えながら、創作活動を行う。 メキシコのマヤ文明をテーマにした作品(リトグラフ、油彩)を数多く残し、日本芸術大賞やメキシコにおける最高文化勲章であるアギラ・アステカ・ブラーカ賞などを受賞した。
広瀬功(ひろせ こう、1921年9月15日 - 2006年2… 広瀬功(ひろせ こう、1921年9月15日 - 2006年2月16日)は、日本の洋画家。日展を中心に活動し、風景画や静物画で知られた。日本芸術院賞受賞者。 神奈川県に生まれる。1946年に東京美術学校油絵科を卒業し、同年日展に初入選した。1950年に日展特選を受賞し、1963年には日展審査員を務めた。 風景画や静物画を主に手がけ、日展を主な発表の場とした。1982年には日展内閣総理大臣賞を受賞し、1985年には日展出品作「高原の秋」に対して日本芸術院賞を受賞した。翌1986年には小山敬三賞を受賞した。 山岳、高原、湖沼、都市風景などを主題とし、代表作に「妙高高原新雪」などの風景画を残した。
安谷屋 正義(あだにや まさよし、1921年〈大正10年〉8… 安谷屋 正義(あだにや まさよし、1921年〈大正10年〉8月26日 - 1967年〈昭和42年〉7月29日)は、昭和時代に沖縄県で活躍した洋画家。 東京府北豊島郡滝野川町田端(現・東京都北区田端)に生まれる。1929年(昭和4年)に沖縄県に転居し、沖縄県立第二中学校で比嘉景常の指導を受け、西洋画を志す。1940年(昭和15年)、東京美術学校図案科に入学し、在学時に出征するが、1945年(昭和20年)の敗戦で除隊する。その後、大分県日田市の日田漆器に入社するが、米軍占領下の沖縄に戻り、1948年、首里市儀保町(現・那覇市首里儀保町)のニシムイ美術村に住宅兼アトリエを建てて住む。 1949年、第1回沖縄美術展覧会(沖展)が開かれると、名渡山愛順・大嶺政寛ら戦後第一世代の審査内容に反発し、1950年に安次嶺金正・玉那覇正吉らと「五人会」(1954年に「グループとしての活動の意義が終わった」という理由で解散)を結成した。
金 正熙(キム ジョンヒ、英: Kim Jeong-hui、… 金 正熙(キム ジョンヒ、英: Kim Jeong-hui、1921年7月9日 - 1975年11月2日)は北朝鮮の建築家・都市計画家。1940年代から1950年代にかけて、平壌の都市計画に携わったことで知られる。一般にも1987年に公開された映画『ある建築家に関する話』(한 건축가에 대한 이야기)で知られるようになる。 平壌は朝鮮戦争で壊滅的に破壊されたが、停戦後、ソ連の援助で復興事業が開始され、1951年の金の都市デザインにより、社会主義国特有の広場や、スターリン様式を取り入れたプロパガンダ色の濃い町が建設された。金はその後、平壌のみならず北朝鮮各地の都市復旧建設事業に尽力していく。 平安北道の農家の子として出生。
田淵 安一(たぶち やすかず、1921年5月20日 - 20… 田淵 安一(たぶち やすかず、1921年5月20日 - 2009年11月24日)は、福岡県小倉市(現・北九州市)出身の抽象画家。 1921年に福岡県小倉市(現・北九州市)に生まれ、母親の影響で幼少時からオーブリー・ビアズリーやラファエル前派などに親しんだ。1941年に第三高等学校(現・京都大学)文科丙類に入学。中学時代から絵画制作を行っており、三高在学中の1942年と1943年には京都市美術展に入選している。1943年には学徒動員で日本国海軍に入隊し、米子海軍航空基地で太平洋戦争終戦を迎えた。 終戦直後の1945年には東京大学文学部美術史学科に入学して猪熊弦一郎に師事し、1948年には東京大学大学院に進学した。