梶間 俊一(かじま しゅんいち、1944年1月2日 - )は… 梶間 俊一(かじま しゅんいち、1944年1月2日 - )は、日本の映画監督。茨城県出身。早稲田大学第一文学部卒業。 出版社勤務を経て1970年に東映に入社。伊藤俊也・深作欣二・佐藤純彌に師事する傍ら、東映東京撮影所で労働組合活動に従事。伊藤とタッグを組んで東制労闘争など、契約者制度の運動を記した月刊新聞『大泉スタジオ通信』を1973年11月から1975年8月にわたり発刊した。1983年に「悪女かまきり」で監督デビュー。 1993年東映を退社。フリーランスになる。 モットーは、「腰は低く押しは強く」。映画のテーマはいつも「愛」である。 映画、テレビ共にコンスタントに撮り続けている。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。
橋浦 方人(はしうら ほうじん、1944年 - )は、日本の… 橋浦 方人(はしうら ほうじん、1944年 - )は、日本の映画監督。宮城県仙台第二高等学校、早稲田大学政経学部卒業。 早稲田大学在学中、アルバイトとして伊勢長之助編集室に入り映画の世界へ。シブイ・フィルムス、岩波映画製作所で助監督を務め、1970年、岩波映画の20代契約者グループが作った自主映画『黒神』(大重潤一郎監督)の製作を担当。1973年、金沢の漁網会社のPR映画『網をつくる』を初監督。1975年に自主製作の16ミリ『青春散歌・置けない日々』で注目される。1976年、大森一樹・藤沢勇夫・伴睦人らと自主映画作家集団「コンコルド・ジャイアンツ」結成。1977年にはATGで『星空のマリオネット』を監督し、日本映画監督協会新人賞受賞。
杉田 成道(すぎた しげみち、1943年〈昭和18年〉10月… 杉田 成道(すぎた しげみち、1943年〈昭和18年〉10月5日 - )は、日本の演出家、映画監督。フジテレビ役員待遇エグゼクティブディレクター、日本映画放送社長を務めた。 『北の国から』シリーズなどの演出家として知られる。日本映画テレビプロデューサー協会会長(2003年 - 2015年)。 「すぎた せいどう」と呼ぶ者もある。 愛知県豊橋市新本町 で3人兄弟の末っ子として出生。生家は江戸時代から300年続く老舗の酒問屋。成道という名は、父と親交のあった陸軍大将の宇垣一成から1字をとって名付けられた。兄はピアニストの杉田谷道。 1962年(昭和37年)愛知県立時習館高等学校を卒業し、慶應義塾大学文学部へ進学。
福田 克彦(ふくだ かつひこ、1943年7月17日 - 19… 福田 克彦(ふくだ かつひこ、1943年7月17日 - 1998年1月12日)は、日本のドキュメンタリー映画監督。小川プロダクション出身であり、成田空港問題に係る作品を多く手掛けた。 1943年7月17日に慶応義塾大学病院で新聞社に勤める福田清の子として生まれる。5歳の時、缶蹴りの缶で頬を傷つけてしまう。その傷跡は生涯残った。 世田谷区立松沢中学校では、天文学部に入部し、レンズやその他材料を購入して天体望遠鏡を自作していた。 東京都立青山高等学校では、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』や『魅せられたる魂』を愛読し、仲間とともに安保闘争に参加したほか、教師のあだ名の由来などを書いた冊子を学内で配布して、学校から停学処分を受ける。
山前 五十洋(やまさき いそみ、1943年4月28日 - 2… 山前 五十洋(やまさき いそみ、1943年4月28日 - 2020年4月5日)は、日本の実業家、映画監督、俳優である。京都市出身。関西大学法学部2部中退。娘は歌手の倉木麻衣。父は詩人の山前実治。 京都府京都市下京区に生まれ。厳格な父親は京都で出版社、印刷会社を経営する傍ら詩人としても活動し、比較的裕福な家庭で育つ。3歳頃に父親の故郷、岐阜県大野郡荘川村(現在の高山市)へ一時疎開している。小学校入学時は京都市東山区に居住し、小学校5年生から新聞配達などを務める。 京都市立日吉ヶ丘高等学校2年生時、少年画報連載中の堀江卓原作「天馬天平」がフジテレビでテレビ映画化された際、一般公募3万人中から主役天平役に抜擢され、当時の編成局長草間浩之が8チャンネルにちなみ芸名を富士八郎とする。
深町 章(ふかまち あきら、1943年4月16日 - )は、… 深町 章(ふかまち あきら、1943年4月16日 - )は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。本名は稲生 稔(いのう みのる)。助監督時代の筆名は伊能 実(いのう みのる)、監督デビュー後の筆名は稲尾 実(いなお みのる)、東活では荻西 太郎(おぎにし たろう)の名で作品を発表した。 1943年(昭和18年)4月16日、茨城県水戸市に生まれる。 1959年(昭和34年)4月、茨城県立水戸第一高等学校に進学、1962年(昭和37年)3月に同校を卒業、翌1963年(昭和38年)4月に日本大学藝術学部映画学科に進学した。同期にのちに映画監督・撮影技師になる久我剛(1944年 - )こと斎藤雅則がいた。
蓑輪 雅夫(みのわ まさお、1943年2月16日 - 没年不… 蓑輪 雅夫(みのわ まさお、1943年2月16日 - 没年不明)は、日本の映画監督。 鹿児島県出身。日本大学藝術学部卒業。 当初はフリーの助監督としてキャリアを重ね、1973年に『流星人間ゾーン』で監督デビューを果たす。しかし、その後は監督として登板する機会にはほぼ恵まれず、東映に移ってからも『刑事くん』、『Gメン'75』、『特捜最前線』などの一般ドラマや、『スパイダーマン』、『科学戦隊ダイナマン』などのキャラクターものなど、長きにわたって東映テレビプロ制作の作品で助監督を務める状況が続くこととなる。 1987年、チーフ助監督を務めていた『大都会25時』で監督を再度担当したのを皮切りに、同年より始まった『仮面ライダーBLACK』で助監督&監督を兼任。
宮越 澄(みやこし きよし、1943年1月28日 - )は、… 宮越 澄(みやこし きよし、1943年1月28日 - )は、日本のテレビドラマ専任の映画監督である。富山県出身。NPO法人時代劇振興協会理事長。 日本大学藝術学部在籍中に殺陣同志会に所属。役者として幾つかの映画・ドラマ等に出演。21歳の頃、土居通芳に師事し演出に携わりはじめる。1973年、三船プロダクションの作品で監督デビュー。以後フリーの監督として多くのテレビドラマの演出を手掛けた。
奥村 昭夫(おくむら てるお、1943年(昭和18年) - … 奥村 昭夫(おくむら てるお、1943年(昭和18年) - 2011年(平成23年))は、日本の映画監督、翻訳家である。 福井県出身。東京大学文学部仏文学科卒業。 1967年の第一回草月実験映画祭において、初監督作品『猶予もしくは影を撫でる男』が最優秀作品賞を受賞する。1968年の第二作『三人でする接吻』につづき、1970年には椎谷建治の俳優デビュー作『狂気が彷徨う』を監督する。その後は翻訳家として、『気狂いゴダール ルポルタージュ・現場のゴダール』(1976年)をはじめ、『ゴダール 映画史』(1982年)や『作家主義 映画の父たちに聞く』(1985年)などを手がけた。
前澤 範(まえざわ のり、1942年12月22日 - )は… 前澤 範(まえざわ のり、1942年12月22日 - )は、日本の造形家、映画美術監督。レインボー造型企画代表取締役(1981年 - 2023年)→代表取締役会長(2024年 - )。 1942年、長野県に生まれる。 武蔵野美術大学在学中からフリーの造形家として舞台美術に携わる。大学卒業後、友人の高橋章からの誘いで映画『大怪獣ガメラ』に参加し、映画美術に携わるようになる。 フリーであるため、大映・東宝・松竹・日活・東映と様々な会社の特撮作品に参加した。このころに造型美術の三上陸男、彫刻家の池田宗弘、特撮の鈴木昶らと知り合う。 1971年に特撮テレビ番組『仮面ライダー』の美術を担当していたエキスプロダクションの三上陸男から参加を要請されるが、他社との契約が残っていたためにこれを断り、高橋章を推薦した。
関本 郁夫(せきもと いくお、1942年7月18日 - )は… 関本 郁夫(せきもと いくお、1942年7月18日 - )は、日本の脚本家・映画監督。京都府京都市出身。日本映画監督協会会員。日本画家の木村了子は長女。 京都の工務店の長男に生まれる。家では工務店の後継にするつもりだったが、本人は継ぐのを嫌ったという。 京都市立伏見工業高等学校建築科を卒業後1961年、東映京都撮影所製作部美術課に入社。美術課では本人が嫌だったという大工仕事ばかりで異動を希望し、製作部に異動、製作事務を担当。そこで多くの台本に目を通すうち「これなら自分にも書けそう」と思って脚本を書き始め、その脚本を当時京都撮影所所長だった岡田茂に読んでもらっていたという。 その後京都撮影所では映画業界斜陽化のこともあって、助監督を大量にNET(現・テレビ朝日)に出向させた影響で助監督不足になり、その穴埋めのような形で演出部に転属し、1973年に監督デビュー。
皆川 隆之(みながわ たかゆき、1942年3月4日 - )は… 皆川 隆之(みながわ たかゆき、1942年3月4日 - )は、日本の脚本家・映画監督。 東京都世田谷区松原町出身。佼成学園高校三年のとき、八木保太郎に師事してシナリオを学ぶ。1964年、青山学院大学経済学部卒業後演出を志し東映入社。東映京都撮影所に配属され、伊藤大輔、深作欣二、鈴木則文らの助監督に就く。1971年「女番長シリーズ」一作目の『女番長ブルース 牝蜂の逆襲』で脚本が採用され、同シリーズ4本の脚本を担当。 1973年、『狂走セックス族』で監督昇進。31歳の若き新人監督として期待された。1974年の『仁義なき戦い 完結篇』は一部の資料に監督を深作欣二と皆川のダブル・クレジットとするものがある。
奥村 正彦(おくむら まさひこ、1942年1月20日 - 2… 奥村 正彦(おくむら まさひこ、1942年1月20日 - 2021年7月31日)は、日本の演出家、映画監督。日本映画監督協会会員。 福井県勝山市出身。実家は美容院。福井県立勝山高等学校卒、1965年、日本大学芸術学部映画学科卒業後、東京映画に入社。豊田四郎、佐伯幸三、小林正樹、増村保造らに師事。助監督を経て、1982年、花王 愛の劇場『トラック母ちゃん』で監督デビューする。 その後、東京映画を退社し、フリーランスの監督として現在まで多数のTVドラマを手がける。1999年には、初の劇場映画作品『虹の岬』を発表した。
長田 紀生(おさだ のりお、1942年1月10日 - )は、… 長田 紀生(おさだ のりお、1942年1月10日 - )は、日本の脚本家、映画監督である。別名として、青山 剛(あおやま ごう)がある。日本シナリオ作家協会会員。脚本を提供した連続テレビ映画『キャプテンウルトラ』では主題歌の作詞も手がけ、脚本家としての初期の代表作『修羅雪姫』では挿入歌の作詞・作曲も手がけた。 1942年(昭和17年)1月10日、中華民国北京市に生まれる。父は南満州鉄道(満鉄)勤務であったため同地で育ったが、1945年(昭和20年)8月15日に第二次世界大戦が終結、1946年(昭和21年)には内地に引揚げた。 早稲田大学第一文学部演劇科に進学。演劇科の同級に大原清秀、やまさき十三、松本幸四郎、小林勝也、呉徳洙、北村皆雄、シュミット村木眞寿美ら。
角川 春樹(かどかわ はるき、1942年〈昭和17年〉1月8… 角川 春樹(かどかわ はるき、1942年〈昭和17年〉1月8日 - )は、日本の編集者、実業家、映画監督、俳人、宗教家。角川源義の長男で、株式会社角川春樹事務所代表取締役社長、宗教法人明日香宮宮司、俳句結社「河」主宰を務める。角川書店の二代目社長を務め、今日のKADOKAWA、角川映画の礎を築く。1993年に麻薬及び向精神薬取締法違反などの容疑で逮捕され、角川グループ各社の役職を辞任した。釈放後、新たに出版社の角川春樹事務所を設立した。モットーは『生涯不良。何か文句あるか』 富山県中新川郡水橋町に誕生し、東京都杉並区に育つ。父は角川書店創業者の角川源義、母は富美子(旧姓鈴木)。杉並区立杉並第五小学校、杉並区立天沼中学校を経て國學院大學久我山高等学校に入学。
小池 要之助(こいけ ようのすけ、1941年(昭和16年)1… 小池 要之助(こいけ ようのすけ、1941年(昭和16年)11月13日 - 2010年(平成22年)9月22日)は、日本の映画監督、脚本家。ミュージックシネマズジャパン顧問。山口県下関市出身。 山口県立豊浦高等学校から、上京して舞台芸術学院に進学、1962年(昭和37年)同校本科卒業。29歳で助監督となり、34歳の時にテレビドラマ『それ行け!カッチン』で監督デビューしている。以降、長年にわたってさまざまな映画やテレビドラマの監督、助監督を務めている。 『探偵物語』では、第19話および最終話である27話で監督を務めた。第19話の予告編のナレーションは、主演の松田優作が同郷出身ということで、本編の内容には一言も触れず小池の紹介に徹していた。
仲倉 重郎(なかくら しげお、1941年8月21日 - )は… 仲倉 重郎(なかくら しげお、1941年8月21日 - )は、日本の映画監督、脚本家、作詞家。
小笠原 猛(おがさわら たけし、1941年8月18日 - 2… 小笠原 猛(おがさわら たけし、1941年8月18日 - 2011年12月26日)は、主に特撮テレビドラマ作品を手掛けた日本の映画監督・演出家。東京都港区出身。 父親は東映のプロデューサーの小笠原久豊。その関係からか映画監督を志し、日本大学藝術学部入学。しかし、1961年に中退し、NET(現・テレビ朝日)に契約社員として入社。その後1962年に東映テレビ・プロダクションに移籍。以後『ザ・ボディガード』、『特別機動捜査隊』、『特捜最前線』、『鉄道公安官』などの一般ドラマや『快傑ズバット』、『忍者キャプター』などのキャラクターものの東映テレビプロ制作の作品で助監督を務める。特に村山三男、田中秀夫、奥中惇夫らに師事していた。
神山 征二郎(こうやま せいじろう、1941年〈昭和16年〉… 神山 征二郎(こうやま せいじろう、1941年〈昭和16年〉7月16日 - )は、日本の映画監督、脚本家。岐阜県岐阜市中西郷出身。2022年5月より東京都内から長野県上田市に移住(2024年9月時点)。 農家に生まれる。岐阜県立岐阜北高等学校に在学中は画家を志していた。日本大学芸術学部映画学科に在学中は演劇に傾倒していたが、1964年(昭和39年)、4年生の時に重症の右湿性肋膜炎を患い大学を中退し帰郷する。病気の回復後に再び上京し、映画芸術誌編集部のアルバイトを経て、1965年(昭和40年)、新藤兼人監督が主宰する近代映画協会に参加する。なお、大学時代の同窓生にアニメーション監督の富野由悠季がいる。
松生 秀二(まつおい ひでじ 1941年(昭和16年)5月7… 松生 秀二(まつおい ひでじ 1941年(昭和16年)5月7日 - 2025年(令和7年)10月19日)は、日本の映画監督。北海道北見市生まれ。日本大学藝術学部中退。日本映画監督協会会員、日本アカデミー賞協会会員。劇団三松座演出家。BMCエンタープライズ特別講師。 大映テレビ、円谷プロ、東京映画等で助監督を経て1970年「あなたはいない」でテレビドラマ監督デビュー。「あばれはっちゃくシリーズ」などを経て、1980年代後半以降は東海テレビ制作昼の帯ドラマを手掛け、多数のヒット作を演出・プロデュースする。 一時期、フジテレビの「めざましテレビ」でレポーターを担当していた松生めぐみは長女である。 2025年10月19日死去。
栗山 富夫(くりやま とみお、1941年〈昭和16年〉2月2… 栗山 富夫(くりやま とみお、1941年〈昭和16年〉2月20日 - 2025年〈令和7年〉6月18日)は、日本の映画監督・脚本家。 茨城県鹿島郡旭村(現・鉾田市)または東京都生まれ。茨城県立鉾田第一高等学校、国際基督教大学社会科学科卒業後の1965年、松竹に入社する。助監督を経て、『いとしのラハイナ』で監督に昇進する。1985年、『祝辞』で芸術選奨新人賞を受賞する。『釣りバカ日誌』の作者により映画化第一作の監督に指名。その後も監督を担当し、計11作を手がけ、国民的映画に育て上げた。 2025年6月18日、悪性リンパ腫のため死去。84歳没。
青池憲司(あおいけ けんじ、1941年 - )は、日本のドキ… 青池憲司(あおいけ けんじ、1941年 - )は、日本のドキュメンタリー映画監督。 愛知県名古屋市生まれ。幼い頃に静岡県浜松市に移住。現在は東京都在住。 青年時代に学生運動を目の前にしてきた経験から、ドキュメンタリー映画の制作を志す。1971年に成田空港反対闘争の地で行われたコンサート「三里塚幻野祭」を撮影した映画『日本幻野祭 三里塚』で名を馳せる。教育や地域問題を多く取り扱うが、近年は阪神・淡路大震災後の神戸市鷹取地区の復興に関する作品が多い。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
福原 進(ふくはら すすむ、1941年 - 2020年2月6… 福原 進(ふくはら すすむ、1941年 - 2020年2月6日)は、茨城県生まれの日本の映画監督。日本映画監督協会会員。 1941年に茨城県で生まれる。1964年に中央大学法学部法律学科を卒業したのち、1969年にコマーシャルフィルムで監督デビューとともにフリー、数多くのCMを演出した。 1980年、日本テレビ・木曜スペシャル「大英博物館・三部作」を手がけたのを皮切りに、テレビ番組、博覧会映像を手がける。主な作品に、「ボストン美術館物語」(NTV創立30周年記念番組・ギャラクシー賞)、「正倉院・シルクロードの終着駅」(NTV創立40周年記念番組)、「潜入・クレムリン宮殿」、筑波EXPO85、住友館「大地の詩」瀬戸内博88、日本ハム館「ライン不思議な冒険」横浜未来博、日産館「Run for The Sun」がある。
大木 淳吉(おおき じゅんきち、1940年11月23日 - … 大木 淳吉(おおき じゅんきち、1940年11月23日 - 1996年12月13日)は、日本の映画監督。別名:大木 淳。法政大学経済学部卒。 1964年、サンケイ映画社でのドキュメンタリーなどを経て円谷特技プロダクションに入社。円谷英二に師事し、『ウルトラQ』で本編班演出部助監督と『マグマ大使』で特撮助監督、『ウルトラマン』で特撮班助監督を手掛け、『快獣ブースカ』で特殊技術デビュー。 実相寺昭雄とコンビを組むことが多く(『無常』『曼陀羅』などでは助監督にもついている)、デビュー作の『ウルトラセブン』第8話「狙われた街」、現在欠番作品となった第12話「遊星より愛をこめて」のほか、映画『帝都物語』(1988年、東宝)のビジュアルスーパーバイザー、『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』の特技監督を手がけた。
朝間 義隆(あさま よしたか、1940年6月29日 - )は… 朝間 義隆(あさま よしたか、1940年6月29日 - )は、日本の脚本家、映画監督。宮城県仙台市出身、神奈川県鎌倉市在住。山田洋次監督との共作で知られる。 1965年、上智大学文学部英文学科を卒業。 松竹大船撮影所演出助手室に入社。山田洋次に師事し、『男はつらいよ』シリーズや『遙かなる山の呼び声』、『同胞』など山田監督作品の脚本を共同で手がける。『幸福の黄色いハンカチ』では第1回日本アカデミー賞最優秀脚本賞、第51回キネマ旬報賞脚本賞受賞。 1979年、街で働く若者たちが第九交響曲を一緒に歌うまでのドラマを描いた『俺たちの交響楽』により監督デビュー。1980年に松竹を退社し、以後契約監督。1996年、フリーに。
四宮 鉄男(しのみや てつお、1940年5月30日 - 20… 四宮 鉄男(しのみや てつお、1940年5月30日 - 2025年3月9日[要出典])は、福岡県福岡市生まれ、ドキュメンタリー映画監督、テレビ演出家。 早稲田大学第一文学部社会学科を卒業。講談社に勤務するが、友人の泉田昌慶が黒木和雄監督の助監督だったことから、岩波映画製作所の演出家たちを中心にした同人組織「青の会」に入会。 1965年に講談社を退社し、フリーの助監督として土本典昭に師事する。1969年に岩波映画で『カラーの眼』を初演出。 のち、「日本リクルートセンター」、小泉修吉の「グループ現代」などで、教育・環境・障害者などに関わる、多数の作品を演出。 また、1970年代初期には「ある日のヨーロッパ」(フジテレビ)などのテレビのミニ番組も制作。
槙坪 夛鶴子(まきつぼ たづこ、新字体:多鶴子、本名:光永 … 槙坪 夛鶴子(まきつぼ たづこ、新字体:多鶴子、本名:光永 夛鶴子、1940年〈昭和15年〉5月28日 - 2011年〈平成23年〉9月24日)は、日本の映画監督、スクリプター。 1940年、日野夛鶴子として広島県呉市に生まれる。1945年の広島市への原子爆弾投下の際には、爆心地から25キロ離れた、当時の安佐郡久地村(現在の広島市安佐北区)の父親の実家で被爆する。1950年に大阪へ転居し、後に大阪府立北野高等学校に進む。この間、両親が離婚し、高校の頃から母の槙坪姓を名乗るようになる。 早稲田大学第一文学部演劇科卒業。在学中に最初の結婚をし、出産する(後に離婚)。24歳ころに関節リウマチを発症するが、27歳ころに俳優の米倉斉加年に紹介され、スクリプター(記録係)として民芸映画社で働くことになり、映画界に入る。
髙山 由紀子(、1940年4月4日 - 2023年6月2日)… 髙山 由紀子(、1940年4月4日 - 2023年6月2日)は、日本の脚本家、映画監督。シナリオ・センター講師。 東京都出身。日本画家の髙山辰雄の長女。 子供の頃から映画好きの父に連れられて頻繁に映画館へ足を運んでおり、また自宅の近くに東宝撮影所があったこともあって、本人曰く「映画ばかり観て育った」。 慶應義塾大学文学部卒業後、30歳近くなった頃にシナリオ学校に通い始め、主婦をしながらシナリオセンターで映画脚本を学ぶ。 1975年、本多猪四郎によるシナリオ学校生を対象にした新作ゴジラ映画脚本の競作選考で自作が採用され、『メカゴジラの逆襲』で脚本家デビュー。ゴジラシリーズで初の女性メインスタッフとなった。
本橋 成一(もとはし せいいち、1940年4月3日 - 20… 本橋 成一(もとはし せいいち、1940年4月3日 - 2025年12月20日)は、日本の写真家、映画監督。東京都中野区生まれ。平和・協同ジャーナリスト基金の代表委員。 1960年代から写真家としての本格的な活動を始め、現在に至るまで炭鉱や魚河岸、上野駅、サーカス、屠場など市井の人々をテーマにした作品を数多く残している。 また1998年、チェルノブイリ原子力発電所事故の被災地で暮らす人々を撮影した『ナージャの村』を初監督、映画監督としてのキャリアをスタートさせる。 以降2002年『アレクセイと泉』、2006年『ナミイと唄えば』、2009年『バオバブの記憶』、2015年『アラヤシキの住人たち』と計5本の作品を監督。
志村 正浩(しむら せいこう、1940年3月4日 - 200… 志村 正浩(しむら せいこう、1940年3月4日 - 2009年4月26日)は、日本の脚本家・映画監督。岩手県花巻市出身。 ※年のみは製作会社が東映 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
野上 正義(のがみ まさよし、1940年3月2日 - 201… 野上 正義(のがみ まさよし、1940年3月2日 - 2010年12月22日)は、日本の俳優、映画監督、脚本家。北海道白糠郡白糠村(現:白糠町)出身。愛称は「ガミさん」。息子はAV男優のトニー大木。 身長170cm。体重62kg。 北海道立釧路湖陵高校(現:北海道釧路湖陵高等学校)卒業。 NBK(日本文化協会)研究生を経て、劇団世代結成に参加。その後は青年プロ、東映、清野事務所に所属。 久保新二などの関係者からは「ガミさん」の愛称で親しまれていた。 一時期、読みを「のがみ せいぎ」としていた。 2010年12月22日、心不全のため死去。70歳没。
鶴橋 康夫(つるはし やすお、1940年1月15日 - 20… 鶴橋 康夫(つるはし やすお、1940年1月15日 - 2023年10月9日)は、日本のテレビディレクター・映画監督。本名:倉田 康夫(くらた やすお)。新潟県村上市出身。長男は、ドラマ制作を手がける日本テレビ社員・倉田貴也。 兄妹は自身を含め2男1女で、弟は新潟日報編集委員。出生名は鶴橋康夫であるが、婿取婚であるために改姓している。 新潟県立村上高等学校、中央大学法学部卒業。当初は新聞社志望だったが、読売新聞記者だった伊藤一男に讀賣テレビ入社を勧められる。 1962年、讀賣テレビ放送(読売テレビ)入社。東京支社制作部に所属し、一貫してドラマ演出を手がける。 社会派ドラマの名手として知られ、特に「木曜ゴールデンドラマ」枠における単発作品群で数多くの賞を獲得したことから「芸術祭男」の異名を取る。
津川 雅彦(つがわ まさひこ、1940年〈昭和15年〉1月2… 津川 雅彦(つがわ まさひこ、1940年〈昭和15年〉1月2日 - 2018年〈平成30年〉8月4日)は、日本の俳優・映画監督・芸能プロモーター・時事評論家。 芸能事務所グランパパプロダクションに所属し、同社の代表取締役を務めた。位階は従五位。 俳優としては1956年の映画『狂った果実』が本格デビューであり、1959年に木下恵介監督の『惜春鳥』、1960年には大島渚監督の『太陽の墓場』など多くの話題作に出演。1980年代以降は『マルサの女』や『スーパーの女』など伊丹十三監督作品に多数出演し存在感を示した。1999年には『プライド・運命の瞬間』で東條英機役を演じ日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。
佐川 和夫(さがわ かずお、1939年10月29日 - )は… 佐川 和夫(さがわ かずお、1939年10月29日 - )は、日本の特撮監督。 日本大学藝術学部在学中に円谷特技研究所に出入りし、特撮を研究するため円谷英二に師事し、東宝映画の撮影現場で修業する。卒業後東宝特殊技術課を経て、1963年に円谷特技プロダクションに設立と同時に入社。 『ウルトラQ』で特撮班の撮影助手として始動、『ウルトラマン』で高野宏一が特技担当になったためキャメラマンに昇格し、『ウルトラセブン』でも特撮の撮影技師を務めた後、『マイティジャック』の第4話「祖国よ永遠なれ!!」で特技監督デビュー。『帰ってきたウルトラマン』の第13話「津波怪獣の恐怖 東京大ピンチ!」で初めてウルトラシリーズの特撮監督を務めた。
南野 梅雄(みなみの うめを、1939年9月12日 - 20… 南野 梅雄(みなみの うめを、1939年9月12日 - 2022年3月10日)は、日本の映画監督。大映京都撮影所でながく勝新太郎の座頭市シリーズなどの制作に関わる。 1939年、大阪市浪速区生まれ。日本大学芸術学部卒業後、大映京都撮影所に助監督として入る。時代劇カメラマン石本秀雄の三女と結婚。長男は憲法学者・九州大学教授の南野森、長女は小説家の村木嵐。京都市在住。
南部 英夫(なんぶ ひでお、1939年9月7日~ )は、日本… 南部 英夫(なんぶ ひでお、1939年9月7日~ )は、日本の映画監督、脚本家。福井県武生市(現:越前市)出身。 福井県立武生高等学校、早稲田大学法学部卒業後、スライド制作会社勤務を経て、1965年に松竹大船撮影所に入社する。入社当時は、かつての最盛期には年間11億を超えた映画人口が、テレビの普及や娯楽の多様化に押されて、3億台にまで落ち込んだ映画のドン底時代だった。入社直後に給料遅配となり、自宅待機などの合理化で撮影所のスタッフは激減した。 学生時代に観た映画「にっぽん・ぱらだいす」(松竹作品)に感銘を受けていたことで、当該作品の監督である前田陽一に師事する。以降、前田作品に加えて、先輩助監督で監督に昇進した田向正健・山根成之監督などの共同脚本に参加する。
佐々木 元(ささき げん、1939年7月28日 - 1997… 佐々木 元(ささき げん、1939年7月28日 - 1997年)は、日本の映画監督である。 1939年(昭和14年)7月28日、長崎県北高来郡小野村大字小野島(現在の同県諫早市小野島町)に生まれる。本名は不明であるが、姓は「春野」(はるの)であるという。 1955年(昭和30年)4月、長崎県立諫早高等学校に進学する。2学年下の後輩に、のちに脚本家となる市川森一がいた。1958年(昭和33年)3月、同校を卒業して東京に移り、早稲田大学政治経済学部に進学するも、満23歳を迎える1962年(昭和37年)には同学を中途退学する。その後は、織田良一郎の芸術映画社、大映テレビ室(現在の大映テレビ)等の記録映画、テレビ映画の製作会社で製作部や演出部の助手を務めた。
木村 大作(きむら だいさく、1939年〈昭和14年〉7月1… 木村 大作(きむら だいさく、1939年〈昭和14年〉7月13日 - )は、日本の撮影技師、映画監督。文化功労者。 1939年生まれ。東京府出身。1958年、東京都立蔵前工業高等学校を卒業後、東宝撮影部にカメラ助手として入社し、黒澤明監督の組に配属される。1973年に『野獣狩り』でカメラマンデビュー。 自分の師匠は撮影助手として付いていた宮川一夫や斉藤孝雄ではなく黒澤明だとしており、その影響を強く受けたことを自認している。黒澤からも、そのピント合わせのうまさから一目置かれており、本人から「撮影助手で名前を憶えているのは大ちゃんくらいだ」と言われた事もあるという。黒澤は『用心棒』で犬が人の手首をくわえて歩いて来るカットをビデオで見るたびに、周りの人間に必ず「これ、ピント合わせてるの、大ちゃんだよ。
山本 晋也(やまもと しんや、本名:伊藤 直(いとう ただし… 山本 晋也(やまもと しんや、本名:伊藤 直(いとう ただし)、1939年〈昭和14年〉6月16日 - )は、日本の映画監督、タレント、俳優、リポーター。東京市神田区(現:東京都千代田区)出身。愛称は「カントク」。サングラスにちょび髭がトレードマーク。口癖は「すごいですねぇ」「ほとんどビョーキ」。現在、毒蝮三太夫が所属するまむしプロダクションと業務提携をしている。 神田生まれの江戸っ子ということもあり、中学時代から落語が好きで寄席に通っていた。早稲田高等学校を経て、1963年に日本大学芸術学部演劇学科に入学。学生運動が激しかった時代だが、山本は当時、右翼学生の立場だったという。後に視野が広がり、左派的な平和主義の立場にかわっている。
足立 正生(あだち まさお、1939年〈昭和14年〉5月13… 足立 正生(あだち まさお、1939年〈昭和14年〉5月13日 - )は、日本の映画監督・脚本家・俳優。パレスチナ解放人民戦線・日本赤軍の元メンバー。 福岡県八幡市(現・北九州市八幡東区)出身。日本大学芸術学部映画学科中退。若松プロダクション参加、若松孝二の盟友とされる。 1939年5月13日、福岡県八幡市(現・北九州市八幡東区)に生まれた。八幡市立中央中学校と福岡県立八幡高等学校を卒業。1959年、日本大学芸術学部映画学科に入学。新映画研究会を立ち上げた。同時期に、VAN映画科学研究所を設立。 1961年の監督映画『椀』が学生映画祭大賞を受賞し、1963年の自主製作映画『鎖陰』でも脚光を浴びた。
鈴木 健介(すずき けんすけ、1939年2月11日 - )は… 鈴木 健介(すずき けんすけ、1939年2月11日 - )は、日本の映画監督(ドキュメンタリー)、プロデューサーである。同姓同名の俳優の鈴木健介とは無関係の別人である。 1939年(昭和14年)2月11日、東京市豊島区巣鴨(現在の東京都豊島区巣鴨)に生まれる。 1963年(昭和38年)日本大学芸術学部映画学科演出コースを卒業。在学中には当時同大学で教授をつとめていた牛原虚彦に師事して演出の基本を学ぶ。50分の劇映画『明るすぎて暗い』を卒業製作として脚本、監督した。卒業後はフリーランスとして映画やテレビの仕事につく。 1966年(昭和41年)から3年間、中川信夫の助監督をつとめて強い影響を受け、中川が1984年(昭和59年)に死去するまでの18年間にわたり人生の師と仰いで交流した。
千葉 真一[注釈 1](ちば しんいち、JJ Sonny C… 千葉 真一[注釈 1](ちば しんいち、JJ Sonny Chiba [注釈 2], 1939年1月22日 - )は、日本の俳優・体操選手・空手家・歌手・芸能プロモーター・アクション監督・映画監督・映画プロデューサー・作詞家・作曲家・ナレーター・声優。
武重 邦夫(たけしげ くにお、1939年 - 2015年7月… 武重 邦夫(たけしげ くにお、1939年 - 2015年7月2日)は日本の映画監督。日本映画学校、日本映画大学相談役。株式会社シネマネストJAPAN映画製作研究所代表。
広瀬 襄(ひろせ じょう、1938年12月20日 - 202… 広瀬 襄(ひろせ じょう、1938年12月20日 - 2025年7月12日)は、日本の映画監督・脚本家である。愛知県大府市生まれ。 愛知県立刈谷高等学校を経て、1961年、早稲田大学第一文学部国文学科卒業。早稲田大学時代はテレビ芸術研究会に参加。4年のとき、松竹ヌーヴェルヴァーグ『日本の夜と霧』『ろくでなし』を見て衝撃を受け、映画界入りを決意。卒業後、松竹大船撮影所助監督室に入社。吉田喜重の助監督を希望し、『秋津温泉』などの作品につく。吉田が64年に退社後は多くの監督の作品の助監督を務めた。 そして12年間の助監督生活を経て、1973年、天地真理主演の青春映画『愛ってなんだろ』で監督デビュー。その間にもテレビドラマの演出も手がけた。
山城 新伍(やましろ しんご、1938年〈昭和13年〉11月… 山城 新伍(やましろ しんご、1938年〈昭和13年〉11月10日 - 2009年〈平成21年〉8月12日)は、日本の俳優・司会者・タレント・映画監督・映画評論家・声優。大橋巨泉と同様、知的・反権力・少しエッチな芸風の司会者として活躍した。最終所属はオフィスタッチ。本名は渡辺 安治(わたなべ やすじ)。京都市上京区出身。 元妻は花園ひろみ、娘は南夕花。 京都府京都市で開業医の子として生まれる。京都府立山城高等学校卒業。高校ではラグビー部に入っていた。両親と同じ道に進もうと医大への進学を考えて大阪医科大学、関西医科大学を受験したが、いずれも不合格だった。 医師の道を諦め、時代劇スターに憧れ、エキストラをやった後、東映ニューフェイス第4期に応募して、1957年に東映へ入社。
後藤 俊夫(ごとう としお、1938年11月6日 - 202… 後藤 俊夫(ごとう としお、1938年11月6日 - 2025年11月22日)は、日本の映画監督。長野県伊那市出身、飯島町在住。 長野県伊那北高等学校を経て、1962年立教大学社会学部卒業。新世紀映画株式会社入社。山本薩夫監督の助監督として、『戦争と人間』、『華麗なる一族』、『金環蝕』、『不毛地帯』、『あゝ野麦峠』などに就く。1978年に『こむぎいろの天使-雀(すずめ)と少年』(青銅プロダクション)で監督デビューする。その後、活動拠点をふるさとである信州伊那谷(飯島町)に置き、動物と人間のふれあいをテーマにした作品や、時に美しく時に厳しい自然をテーマに「生きる」ということを人間に問いかけるような作品を多く手がけている。
大森 健次郎(おおもり けんじろう、1938年11月3日 -… 大森 健次郎(おおもり けんじろう、1938年11月3日 - 2006年12月3日)は、日本の映画監督である。中国・青島出身。 日比谷高校を経て、1957年に東京大学経済学部卒業。同年、東宝の助監督として入社。同期には出目昌伸がいた。黒澤明、千葉泰樹、鈴木英夫らに師事。1970年『どですかでん』でチーフ助監督を務める。 1973年『二十歳の原点』で監督デビュー。1983年に退社し、フリーとなる。 2006年12月3日、肺炎のため、東京都渋谷区の病院で死去。満68歳没。
小平 裕(こひら ゆたか、1938年〈昭和13年〉10月31… 小平 裕(こひら ゆたか、1938年〈昭和13年〉10月31日 - 2021年〈令和3年〉8月12日)は、日本の映画監督。東京府東京市(現:東京都新宿区)出身。 東京都立新宿高等学校を経て東京大学文学部美学科を卒業後、東映に入社。東京撮影所助監督を経て、1975年『青い性』で監督デビューし、数々の作品でメガホンを執った。 2021年8月12日、誤嚥性肺炎にて東京都内の病院で死去した。82歳没。
澤井 信一郎(さわい しんいちろう、1938年8月16日 -… 澤井 信一郎(さわい しんいちろう、1938年8月16日 - 2021年9月3日)は、日本の映画監督。 静岡県浜名郡雄踏町(現在の浜松市西区)出身。父は代用教員を経て呉服屋を経営。兄は四日市公害関係の記録人である沢井余志郎。 中学時代はハーモニカに熱中。静岡県立浜松北高等学校ではドイツ文学に熱中し、テオドル・シュトルムなどを読み耽り、その延長線上で東京外国語大学ドイツ語科に進学。学生運動に深入りし同大学社会主義学生同盟の主要メンバーとなるが、60年安保を機に運動から離れる。同大学卒業後、1961年東映入社。マキノ雅弘に師事した。 1981年、『野菊の墓』で映画監督デビュー。 1985年、『早春物語』で第26回日本映画監督協会新人賞を受賞した。
新田 栄(にった さかえ、1938年5月16日 - )は、日… 新田 栄(にった さかえ、1938年5月16日 - )は、日本の映画監督。サカエ企画代表。ピンク映画専任で活動している。群馬県桐生市出身。媒体によっては群馬県新田郡藪塚本町出身と答えている。