綿貫 六助(わたぬき ろくすけ、1880年〈明治13年〉4月… 綿貫 六助(わたぬき ろくすけ、1880年〈明治13年〉4月8日 - 1946年〈昭和21年〉12月19日)は、日本の陸軍軍人・小説家。 1880年(明治13年)、群馬県北勢多郡森下村(現・利根郡昭和村)の中層の農家に生まれた。1896年(明治29年)、17歳の時に陸軍教導団に合格した。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業した後、歩兵第29連隊に入隊した。1904年(明治37年)2月に陸軍歩兵少尉に任官して日露戦争に参戦し、1906年(明治36年)に帰国し、勲五等双光旭日章を授与された。同年3月に福島県出身の女性と結婚し、4男1女をもうけた。 1912年(明治45年)5月、歩兵大尉に昇進し、歩兵第65連隊中隊長を務めていたが、1914年(大正3年)に軍旗祭で不適切な行為を起こしたため除隊された。
小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年〈明治13年〉3月2… 小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年〈明治13年〉3月22日 - 1950年〈昭和25年〉11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。山形県士族。山形県新庄市出身。 陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を歴任後、予備役に編入された。その後平沼内閣と米内内閣で拓務大臣、朝鮮総督(第8代)を務め、太平洋戦争中にサイパン失陥を受け辞職した東條英機の後継として1944年(昭和19年)に内閣総理大臣に就任した(小磯内閣)。悪化の一途をたどる戦局を挽回できず、中華民国との単独和平交渉も頓挫し、1945年(昭和20年)4月に総理を辞任し鈴木貫太郎に後を譲った。
小杉 武司(こすぎ たけし、1880年(明治13年)3月6日… 小杉 武司(こすぎ たけし、1880年(明治13年)3月6日 - 1937年(昭和12年)8月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。実弟である櫻井忠記陸軍大佐の親戚に山本五十六元帥や山下源太郎海軍大将がいる。 山形県米沢市代官町出身。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官。1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業し、陸士に配属された。 1922年(大正11年)8月、歩兵大佐に昇進し、陸軍兵器本廠付となる。1923年(大正12年)8月、歩兵第25連隊長に就任。1924年(大正13年)12月、第1師団参謀長に転じた。 1928年(昭和3年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第19旅団長に就任。
米内 光政(よない みつまさ、旧字体: 米內 光政、1880… 米内 光政(よない みつまさ、旧字体: 米內 光政、1880年〈明治13年〉3月2日 - 1948年〈昭和23年〉4月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。海兵29期・海大12期。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。 連合艦隊司令長官(第23代)、海軍大臣(第19・24代)、内閣総理大臣(第37代)を歴任した。 1880年(明治13年)、岩手県南岩手郡三割村(現:盛岡市)に旧盛岡藩士・米内受政の長男として誕生する。 1886年(明治19年)、鍛冶町尋常小学校に入学。1890年(明治23年)、盛岡高等小学校に入学。1894年(明治27年)、岩手県尋常中学校に入学。1898年(明治31年)、海軍兵学校29期に入校。
毛内 靖胤(もうない のぶたね、1880年3月1日 - 19… 毛内 靖胤(もうない のぶたね、1880年3月1日 - 1936年1月16日)は日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 青森県青森市出身。弘前藩士毛内嘉胤の長男として生まれる。毛内氏の嫡流で、毛内有之助の又甥にあたる。弟は海軍少将毛内效。 弘前中学(現・青森県立弘前高等学校)、陸軍士官学校(12期)を経て、明治34年(1901年)少尉となった。日露戦争に従軍後、陸軍大学校(22期)に入学した。卒業後、大正10年(1921年)朝鮮軍司令部附から大正11年(1922年)歩兵第75連隊長となった。後に歩兵から航空兵科に転身した。その後、所沢陸軍飛行学校教育部長、航空本部第一課長、航空本部検査部長、明野陸軍飛行学校長、航空本部総務部長、東京湾要塞司令官などを務めた。
古賀 伝太郎(こが でんたろう、1880年3月1日 - 19… 古賀 伝太郎(こが でんたろう、1880年3月1日 - 1932年1月9日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。しばしば「古賀聯隊長」とよばれる。旧姓、野方。 佐賀県佐賀郡生まれ。野方房次の五男として生まれ、古賀家の養子となる。佐賀中学校卒を経て、1901年(明治34年)12月、士官候補生(15期)として騎兵第3連隊に入隊。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校を卒業。1904年(明治37年)3月、騎兵少尉に任官、騎兵第3連隊付としてただちに日露戦争に出征し、随所で戦って戦功あり。奥保鞏軍司令官から個人感状を授与された。 以後、1910年(明治43年)9月、騎兵第3連隊副官となり、同中隊長、騎兵第22連隊中隊長、同連隊副官、騎兵第2旅団副官などを歴任し、累進して1927年(昭和2年)7月、騎兵中佐に任じ、翌年8月、騎兵第27連隊長に補せられた。
宮脇 長吉(みやわき ちょうきち、1880年2月5日 - 1… 宮脇 長吉(みやわき ちょうきち、1880年2月5日 - 1953年2月16日)は、日本の陸軍軍人、政治家、実業家。最終階級は陸軍航空兵大佐。衆議院議員。紀行作家宮脇俊三の父。軍人時代に教え子だった佐藤賢了に黙れ事件を起こされるなど戦前は自由主義者で、そして戦後は元軍人であるがゆえに政治家としては不遇な立場に置かれてしまった。 愛媛県大川郡誉水村(現・香川県東かがわ市西部の一部)の農業・宮脇清吉の四男。兄弟には田中義一内閣や幣原喜重郎内閣等で大臣を務めた政治家の三土忠造(漢学者の家柄であった三土家の養子となった)、内務官僚として埼玉県や千葉県等の知事を歴任した宮脇梅吉(埼玉県知事時代に、初めて大宮・浦和・与野の「埼玉市」を構想した)がおり、地元では優秀な兄弟として知られ、後に雑誌『少年倶楽部』の「兄弟出世クラブ」というグラビアで紹介されるほどだった。
立見 豊丸(たつみ とよまる、1880年(明治13年)1月2… 立見 豊丸(たつみ とよまる、1880年(明治13年)1月28日 – 1942年(昭和17年)11月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。貴族院子爵議員。陸軍政務次官。
高杉 新一郎(たかすぎ しんいちろう、明治13年(1880年… 高杉 新一郎(たかすぎ しんいちろう、明治13年(1880年)1月21日 - 昭和33年(1958年)4月25日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍医学校の要職を務めた後、医学校校長となる。その後、軍医最高職である高等官一等・軍医中将となり、海軍医務局長、日本医療団副総裁になる。岡山県真庭市出身。 明治13年(1880年)岡山県阿賀郡呰部村(現:真庭市)の庄屋である高杉良太郎の五男として生まれる。実家は代々油製造業を営んでいた。明治28年(1895年)地元の創立第一回の旧制高梁尋常中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学する。同期には、同じく海軍中将(海軍大将候補)になる杉政人、海軍少将の中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄、早稲田大学教授になる横山有策がいた。
杉山 元(すぎやま げん/はじめ、1880年〈明治13年〉1… 杉山 元(すぎやま げん/はじめ、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1945年〈昭和20年〉9月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。元帥陸軍大将従二位勲一等功一級。 福岡県出身。陸軍士官学校卒業(12期)、陸軍大学校卒業(22期)。陸軍大臣、教育総監、太平洋戦争開戦時の参謀総長。 陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て経験し元帥にまでなったのは二人しかいない(もう一人は上原勇作)。また、軍要職にあった際の記録を『杉山メモ』として遺したことで知られる。 1880年(明治13年)1月2日、福岡県企救郡横代村(後の小倉市を経て現:北九州市小倉南区横代)に杉山貞の長男として生まれる。 父は天保14年(1843年)8月、豊前国企救郡横代村の農家に生まれ、慶応2年(1866年)の丙寅御変動で農兵として従軍した後、教育者として活躍しており、広寿山福聚寺(現:北九州市小倉北区)に事績が記録される。
大川 寿賀(おおかわ すが、1879年(明治12年)12月2… 大川 寿賀(おおかわ すが、1879年(明治12年)12月28日 - 1970年(昭和45年)10月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1879年(明治12年)12月28日、高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市)で生まれた。海南中学を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。1929年(昭和4年)8月、歩兵第23連隊長(宮崎)に就任。1932年(昭和7年)4月、陸軍少将になる。 退役後は土佐在郷将校会副会長、帝国在郷軍人会高知市連合会長等を歴任。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。 1970年(昭和45年)10月、90歳で死去した。
小島 文八(こじま ぶんぱち、1879年(明治12年)12月… 小島 文八(こじま ぶんぱち、1879年(明治12年)12月14日 - 1937年(昭和12年)9月23日)は戦前日本の雑誌編集者、軍人、南洋開拓者。シャトーブリアン『哀調(フランス語版)』の訳者。 東京外国語学校でフランス文学を専攻し、卒業後『婦人界』主筆を務めた。日露戦争においては松山俘虜所に勤務、終戦後は職を転々とし、西沢島等の南洋事業に関わった。 1879年(明治12年)12月14日、静岡県静岡裏一番町に陸軍士官小島好問の子として生まれた。なお、生誕時父はフランスに留学していた。 1894年(明治27年)4月明治議会中学2年に編入、1896年(明治29年)4月父が呉に転任した頃塩谷青山塾に預けられ、そこから中学に通った。
大谷 一男(おおたに かずお、1879年(明治12年)12月… 大谷 一男(おおたに かずお、1879年(明治12年)12月7日 - 1949年(昭和24年)8月9日[要出典])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡五台山村(現在の高知市)に生まれた。1898年(明治31年)高知県尋常中学校卒を経て、1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業。 1922年(大正11年)11月、歩兵大佐に昇進し、陸士本科訓育部長に就任。近衛歩兵第2連隊長、第8師団参謀長を歴任。1927年(昭和2年)7月、陸軍少将に進級し歩兵第38旅団長となる。1930年(昭和5年)3月、近衛師団司令部付となり、1931年(昭和6年)10月、旅順要塞司令官に着任。
伊地知 四郎(いじち しろう、1879年(明治12年)11月… 伊地知 四郎(いじち しろう、1879年(明治12年)11月18日 - 1965年(昭和40年)5月19日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。第11代鹿児島市長、第3代谷山町長。 鹿児島県鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現在の鹿児島市)出身。旧制鹿児島一中卒業。1904年(明治37年)2月29日に海軍機関学校(12期)を卒業し、同年9月10日、海軍少機関士に任官した。以後、海軍機関学校教官・監事、佐世保海軍人事部員、矢矧機関長、海軍省艦政局局員、同軍需局局員、長門機関長などを務め、1923年(大正12年)12月1日、海軍機関大佐に昇進し第三戦隊機関長に就任。さらに呉鎮守府機関長・呉海軍艦船部部員、第一艦隊機関長・連合艦隊機関長、海軍燃料廠平壌鉱業部長などを歴任した。
嘉村 達次郎(かむら たつじろう、1879年(明治12年)1… 嘉村 達次郎(かむら たつじろう、1879年(明治12年)11月6日 - 1963年(昭和38年)2月20日)は、明治・大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍少将。 父卯七母トメの長男として東与賀村下飯盛生まれる。地元の私塾「興文塾」で学んだのち、軍人を志して陸軍士官学校に進学する(陸士13期)。1902年(明治35年)歩兵少尉として歩兵第24連隊に配属。その後は熊本陸軍幼年学校生徒監(大尉)、仙台陸軍幼年学校長(中佐)、金沢連隊区司令官、歩兵第42連隊長(大佐)と進み、1930年(昭和5年)8月少将に昇進し朝鮮軍第20師団所属の歩兵第39旅団長に就任した。
馬淵 直逸(まぶち なおいつ、1879年〈明治12年〉11月… 馬淵 直逸(まぶち なおいつ、1879年〈明治12年〉11月3日 - 1929年〈昭和4年〉1月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県碧海郡依佐美村大字野田(現刈谷市)で旧福島藩士馬淵栄吉の長男として生まれる。 高等小学校を卒業後、陸軍士官学校(11期)に入り、1900年(明治33年)6月陸軍歩兵少尉に任官される。1903年(明治36年)陸軍大学校に入学、卒業後陸軍参謀本部部員に補せられる。さらに第17師団参謀、歩兵第38連隊大隊長を経て再び参謀本部部員となり、陸軍大学校および海軍大学校教官に補せられ、陸軍の中堅、参謀将校の養成に尽くした。 1920年(大正9年)第一次世界大戦が終了し、平和条約の締結にあたり実施委員を命じられ欧州に出かけ1922年(大正11年)帰国する。
今井 信夫(いまい のぶお、1879年〈明治12年〉10月2… 今井 信夫(いまい のぶお、1879年〈明治12年〉10月26日 - 1957年〈昭和32年〉12月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 福岡県出身。静岡県静岡尋常中学校に学んだ。中学では野球部に所属した。。 1899年(明治32年)12月1日、陸軍士官学校入校。1900年(明治33年)、陸軍士官学校第12期卒業。1901年(明治34年)6月25日、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となった。 1924年(大正13年)12月に陸軍歩兵大佐・浜松連隊区司令官、1925年(大正14年)5月に静岡連隊区司令官、1928年(昭和3年)3月に歩兵第36連隊長を経て、1930年(昭和5年)8月1日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月29日に予備役に編入した。
高山 輝義(たかやま てるよし、1879年(明治12年)10… 高山 輝義(たかやま てるよし、1879年(明治12年)10月4日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第16代若松市長。 福島県出身。会津中学(4回生)を経て陸軍士官学校を卒業(12期)。同期生に畑俊六、杉山元両元帥、小磯国昭らがいる。1901年(明治34年)6月、歩兵少尉任官。歩兵第65連隊中隊長、同連隊副官、近衛歩兵第2連隊大隊長などを経て、1928年(昭和3年)には歩兵第79連隊連隊長に就任し同職を3年勤めた。1931年(昭和6年)8月1日少将に進み、同月に予備役編入となる。1942年(昭和17年)には若松市長に就任し、戦前最後の市長となった。 1944年(昭和19年)、会津松平家当主・松平保男の急逝に際し、旧領代表として葬儀に参列したが、会津地方からは多数の参列者が物品を持参して上京した。
相原 四郎(あいばら しろう、1879年(明治12年)10月… 相原 四郎(あいばら しろう、1879年(明治12年)10月2日 - 1911年(明治44年)1月8日)は、日本の海軍軍人。 日本海軍の最初の搭乗員であり、また日本初の航空事故犠牲者とする見解もある。相原は仏海軍士官ル・プリウール、田中舘愛橘と協力して日本で最初のグライダー製作および飛行の成功に貢献し自らも搭乗した。この成功は日本における航空工学に則った機体飛行の最初の事例であった。最終階級は海軍大尉。 現在の愛媛県松山市に生まれる。農業を営む父相原久米兵衛、母信の間に生まれた第四子で長男であった。松山中学在学中に父を失った相原は、海軍予備校として知られた攻玉社に転じ、1898年(明治31年)海軍兵学校に入校した。
石原 忍(いしはら しのぶ、1879年9月25日 - 196… 石原 忍(いしはら しのぶ、1879年9月25日 - 1963年1月3日)は、東京府東京市麹町区永田町(現在の東京都千代田区)出身の医学者・眼科医・陸軍軍人(最終階級は軍医少将)。東京帝国大学教授。文化功労者。 石原式色覚異常検査表と呼ばれる色覚検査表(石原表と略される)の考案者として有名である。石原表は1933年の第14回国際眼科学会で認定されたことなどから国際的にも高い評価を得ており、色覚検査表といえば石原表と同義語と解されるほど日本では普及している。 その他、石原は視力・色覚・屈折異常など、機能検査表の研究を行ったり、1色覚(先天性全色盲)を発見するなどし、眼科分野の先駆者となった。 1879年(明治12年)9月25日、東京府東京市麹町区永田町(現在の東京都千代田区)に生まれた。
佐久間 勉(さくま つとむ、1879年9月13日 - 191… 佐久間 勉(さくま つとむ、1879年9月13日 - 1910年4月15日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は大尉。第六潜水艇艇長として事故で殉職し、修身科教科書にも掲載された。滋賀県三方郡北前川村(現:福井県三方上中郡若狭町北前川)出身。 1879年9月13日に滋賀県三方郡北前川村(現:福井県三方上中郡若狭町北前川)で、前川神社神官で小学校教諭だった佐久間可盛の二男として生まれる。福井県立小浜尋常中学校、攻玉社を経て、海軍省入省(海軍兵学校29期入校)。 1901年12月、海軍兵学校卒業。同期に米内光政大将(のちに内閣総理大臣)、高橋三吉大将(連合艦隊司令長官)、藤田尚徳大将(のちに明治神宮宮司を経て昭和天皇侍従長)など。
四王天 延孝(しおうでんのぶたか、1879年〈明治12年〉9… 四王天 延孝(しおうでんのぶたか、1879年〈明治12年〉9月2日 - 1962年〈昭和37年〉8月8日)は、日本の陸軍軍人、政治家。ユダヤ陰謀論を唱え『シオン賢者の議定書』の邦訳などを行なった。最終階級は陸軍中将。衆議院議員。旧姓・西村。 前橋藩士・西村茂兵衛の弟として、埼玉県松山市あるいは群馬県前橋市に生まれ、前橋藩士・四王天政彬の養嗣子となった。1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、工兵少尉に任官し近衛工兵大隊付となる。 清国駐屯工兵中隊付などを経て日露戦争に出征。近衛工兵大隊中隊長、大本営運輸通信長官部副官、陸士教官、近衛工兵大隊付などを歴任し、1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業した。
鶴見 宜信(つるみ よしのぶ、1879年〈明治9年〉8月28… 鶴見 宜信(つるみ よしのぶ、1879年〈明治9年〉8月28日 - 1941年〈昭和16年〉8月14日)は、日本の軍人、政治家。 陸士10期。栄典は正五位勲三等。最終階級は陸軍歩兵大佐。第14代日光町長。 栃木県上都賀郡日光(現日光市)士族出身。1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業。翌32年6月に少尉に任官され、歩兵第3連隊附。のち新潟県中頸城郡高田町の歩兵第58連隊に転属。 中隊長であった1911年(明治44年)、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍(英語版)少佐テオドール・エードラー・フォン・レルヒよりスキー専修員班長として指導を受ける。また、ドイツ語が堪能だった鶴見は、レルヒ少佐の通訳に抜擢され、彼を補佐しながら各地で指導に当たった。
酒匂 宗次郎(さこう そうじろう、1879年(明治12年)8… 酒匂 宗次郎(さこう そうじろう、1879年(明治12年)8月27日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県姶良郡、のちの姶良町(現姶良市)で生まれた。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業。 1927年(昭和2年)7月に陸軍歩兵大佐・福岡連隊区司令官、1930年(昭和5年)3月に歩兵第19連隊長に就任。第一次上海事変に従軍した。1932年(昭和7年)8月8日に陸軍少将に進級と同時に待命、同月30日に予備役に編入した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体: 寺內壽一、1879… 寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体: 寺內壽一、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は元帥陸軍大将。勲等は勲一等。爵位は伯爵。山口県出身。
畑 俊六(はた しゅんろく、1879年(明治12年)7月26… 畑 俊六(はた しゅんろく、1879年(明治12年)7月26日 - 1962年(昭和37年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は元帥陸軍大将。偕行社会長。位階勲等は従二位勲一等功一級。
左近司 政三(さこんじ せいぞう、1879年(明治12年)6… 左近司 政三(さこんじ せいぞう、1879年(明治12年)6月27日 - 1969年(昭和44年)8月30日)は、日本の海軍軍人。政治家。最終階級は海軍中将。第3次近衛文麿内閣の商工大臣。鈴木貫太郎内閣の国務大臣。
櫻井 忠温(さくらい ただよし、1879年(明治12年)6月… 櫻井 忠温(さくらい ただよし、1879年(明治12年)6月11日 - 1965年(昭和40年)9月17日)は、日本陸軍軍人、作家。最終階級は陸軍少将。翻訳家、教育者の櫻井鴎村は実兄。木村駿吉の娘婿で海軍中将の櫻井忠武は実弟。 1879年(明治12年)6月11日、愛媛県松山城下の小唐人町(現・松山市大街道1丁目)に士族の3男として生まれる。1899年(明治32年)、松山中学校を卒業し、神戸税関に勤務。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校卒業(13期)。 松山の歩兵第22連隊旗手として日露戦争に出征。乃木将軍配下、旅順攻囲戦で体に8発の弾丸と無数の刀傷を受け(全身蜂巣銃創)、右手首を吹き飛ばされる重傷を負う。
浅田 良逸(あさだ りょういつ、1879年(明治12年)5月… 浅田 良逸(あさだ りょういつ、1879年(明治12年)5月18日 - 1958年(昭和33年)4月8日)は、大日本帝国陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。旧姓・笹森。 青森県弘前で笹森要蔵の五男として生まれ、陸軍大将・男爵浅田信興の養子となり、1927年(昭和2年)6月1日に男爵を襲爵した。 1899年(明治32年)11月21日陸軍士官学校(11期)を卒業後、1900年(明治33年)6月22日に歩兵少尉に任官。日露戦争に従軍し、陸軍大学校(22期、1910年11月卒業)に学び、1929年(昭和4年)8月1日に陸軍中将に至った。その間、近衛歩兵第2旅団副官、近衛歩兵第3連隊中隊長、参謀本部部員、陸軍歩兵学校研究部部員、歩兵第57連隊大隊長、教育総監部部員、陸軍大学校教官、歩兵第7連隊長、第11師団参謀長、歩兵第33旅団長、近衛師団司令部附、東京湾要塞司令官などを歴任した。
重岡 信治郎(しげおか のぶじろう 1879年(明治12年)… 重岡 信治郎(しげおか のぶじろう 1879年(明治12年)5月10日 - 1971年(昭和46年)1月16日)は、日本の海軍軍人。井出謙治らに続き、潜水艦の拡充に尽力した海軍中将である。なお"重岡信次郎"とする資料もある。 愛媛県出身。松山中学から1898年(明治31年)海軍兵学校に29期として入校。留年し1902年(明治35年)30期として卒業した。兵学校の卒業成績が昇進に大きく影響した海軍で、席次が187名中156番の重岡は中将まで昇進した。 尉官時代は「磐手」、「比叡」、「厳島」、「韓崎丸」乗組等を経て第一潜水艇隊付、同艇長心得、同艇長、第二潜水艇隊艇長と実務経験を重ね、以後もほぼ一貫して潜水艦畑を歩む。
斎藤 瀏(さいとう りゅう、1879年(明治12年)4月16… 斎藤 瀏(さいとう りゅう、1879年(明治12年)4月16日 - 1953年(昭和28年)7月5日)は、日本の陸軍軍人、歌人。最終階級は陸軍少将。長女の斎藤史は同じく歌人。 長野県北安曇郡七貴村(後の安曇野市)に旧松本藩士・三宅政明の四男として生まれる。既に帰農していたため、士族籍ではなく平民籍であった。貧しかったため幼少期には丁稚奉公に出されている。旧制松本中学(後の長野県松本深志高等学校)を経て1901年に陸軍士官学校(12期)を卒業。歩兵少尉に任官した。同期に杉山元、小磯國昭、香椎浩平らがいる。旧制中学時代に医師で漢学者の斎藤順の養子となった。 1903年中尉に昇進し、1904年に勃発した日露戦争に従軍。
秦 真次(はた しんじ、1879年4月6日 - 1950年2… 秦 真次(はた しんじ、1879年4月6日 - 1950年2月24日)は、日本の陸軍軍人、神職。最終階級は陸軍中将。
瀬川 章友(せがわ のりとも、1879年(明治12年)3月6… 瀬川 章友(せがわ のりとも、1879年(明治12年)3月6日 - 1938年(昭和13年)2月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1879年(明治12年)、旧新庄藩士の息子として山形県新庄市に生まれる。山形県立山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)を首席卒業。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期、恩賜組)を卒業。 スイス駐在武官等を経て、1922年4月、歩兵大佐に昇進。以後、歩兵第3旅団長、侍従武官、陸士校長などを歴任し、1931年12月、陸軍中将に進む。第6師団留守司令官を務め、1933年12月、予備役に編入された。
江藤 源九郎(えとう げんくろう、1879年(明治12年)2… 江藤 源九郎(えとう げんくろう、1879年(明治12年)2月25日 - 1957年(昭和32年)5月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。衆議院議員。 東京府神田区で江藤源作(江藤新平の弟)、はま夫妻の二男として生まれる。その後、父の転勤で奈良に移転。奈良県尋常中学校(現奈良県立郡山高等学校)を経て、1899年11月21日、陸軍士官学校(11期)を卒業。1900年6月22日、陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第38連隊付となる。1904年3月から1905年1月まで日露戦争に出征した。 以後、参謀本部副官、関東都督副官、台湾歩兵第1連隊大隊長、八代連隊区司令官、新発田連隊区司令官、歩兵第53連隊長、歩兵第38連隊長などを歴任。
二宮 治重(にのみや はるしげ、1879年(明治12年)2月… 二宮 治重(にのみや はるしげ、1879年(明治12年)2月17日 - 1945年(昭和20年)2月17日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。文部大臣。 岡山県出身。二宮成重の三男として生まれる。母は松平紀伊守娘の志乃。次兄に重友、養子に三郎(森定次郎の三男)がいる。岡山中学校を経て、1898年(明治31年)12月、士官候補生となる。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。1904年(明治37年)5月、歩兵第20連隊中隊長となり、1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征した。1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を優等で卒業。
安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年(明治12年)… 安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年(明治12年)2月11日 - 1954年(昭和29年)5月10日)は、日本の政治家、陸軍軍人。軍人としての最終階級は中将。 太平洋戦争時の大政翼賛会副総裁、国務大臣、内務大臣。戦後、A級戦犯容疑者として逮捕された。 兵庫県で旧篠山藩士、鳳鳴義塾長で歌人の安藤直紀(内藤中虚の次男)の次男として生まれ、鳳鳴義塾中学を卒業。 1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、陸軍歩兵少尉となる。1901年(明治34年)台湾守備歩兵第10大隊附となり、翌年、陸軍歩兵中尉となる。1904年(明治37年)10月、歩兵第10連隊中隊長となり、同年11月、陸軍歩兵大尉となる。
坂本 政右衛門(さかもと まさえもん、1879年1月20日 … 坂本 政右衛門(さかもと まさえもん、1879年1月20日 - 1942年2月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 1879年(明治12年)、高知県高岡郡宇佐村(現・土佐市)に生まれた。1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 1920年(大正9年)8月、陸軍兵器本廠付となり、1921年(大正10年)4月、歩兵大佐に昇進。同年7月、歩兵第55連隊長に就任。1922年(大正11年)8月、第8師団参謀長に転じ、教育総監部第1課長に移る。1925年(大正14年)5月、陸軍少将に進級し第3師団司令部付となる。
高橋 寿太郎(たかはし じゅたろう、1879年(明治12年)… 高橋 寿太郎(たかはし じゅたろう、1879年(明治12年)1月15日 - 1945年(昭和20年)4月8日)は、日本の海軍軍人。階級は海軍少将。衆議院議員(立憲民政党→国民同盟→立憲民政党)。位階は従四位。勲等は勲二等。 岩手県上閉伊郡千徳村(現在の宮古市)生まれ。東北学院を経て、1900年(明治33年)に海軍兵学校を卒業した。日露戦争の際には戦艦「富士」の乗組員として旅順港閉塞作戦や日本海海戦などに参加した。1912年(明治45年)、海軍大学校を卒業し、軍令部参謀、海軍大学校教授を歴任した。第一次世界大戦では青島の戦いで第二艦隊参謀を務めた。その後、海軍大学校教頭、海軍砲術学校校長、第一水雷戦隊司令官などを歴任した。
安部 秋彦(あべ あきひこ、1878年〈明治11年〉12月1… 安部 秋彦(あべ あきひこ、1878年〈明治11年〉12月14日 - 1950年〈昭和25年〉)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 大分県宇佐郡若林村(津房村、安心院町を経て、現宇佐市)出身。安倍寛吾の四男。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業。 1928年(昭和3年)3月に陸軍砲兵大佐・野砲兵第8連隊長、1930年(昭和5年)8月に近衛師団兵器部長を経て、1932年(昭和7年)8月8日に陸軍少将に進級と同時に待命、同月30日に予備役に編入した。 退役後は軍需会社顧問を歴任した。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
川原 侃(かわはら すなお、1878年(明治11年)11月1… 川原 侃(かわはら すなお、1878年(明治11年)11月16日 - 1953年(昭和28年)11月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県、のちの川内市(現薩摩川内市)で、川原甚左衛門の三男として生れる。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第45連隊付となる。1904年(明治37年)6月から1906年(明治39年)3月まで日露戦争に出征した。 1906年5月、第6師団副官に就任。歩兵第45連隊中隊長、陸軍歩兵学校教官を経て、1917年(大正6年)8月、歩兵少佐に昇進し歩兵第10連隊付となる。
堀内 宗平(ほりうち そうへい、1878年(明治11年)9月… 堀内 宗平(ほりうち そうへい、1878年(明治11年)9月10日 - 1943年(昭和18年)6月13日)は、日本の海軍軍人(大佐)、実業家である。官位は従六位。 1878年(明治11年)9月19日、山梨県東八代郡、のちの黒駒村(現:笛吹市)に、堀内藤右衛門の三男として生まれる。1892年(明治25年)、兄の堀内良平に連れられて上京。1898年(明治31年)、海軍兵学校に入学(第29期)。 日露戦争において、浅間に第一分隊長として乗艦。仁川沖海戦に参加した。 1904年(明治37年)、連合艦隊第六艦隊に所属、旅順港口閉塞作戦に水雷艇付としての武勲により功五級金鵄勲章受賞。 1908年(明治41年)、陸奥湯長谷藩の第13代藩主であった内藤政養の次女、房子と結婚。
武田 秀一(たけだ ひでいち、1878年(明治11年)9月3… 武田 秀一(たけだ ひでいち、1878年(明治11年)9月3日 - 1939年(昭和14年)5月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。正四位勲三等功四級。字は魯男。 1878年(明治11年)9月、高知県香美郡野市村(現在の香南市)に武田秀山の長男として生まれる。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。 千葉陸軍歩兵学校教官などを経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し青森連隊区司令官に就任。1924年(大正13年)8月、歩兵学校教導連隊長となり、豊橋陸軍教導学校長に転じ、1929年(昭和4年)8月、陸軍少将に進級。 1930年(昭和5年)8月、歩兵第37旅団長となり、近衛師団司令部付を経て、1933年(昭和8年)8月、陸軍中将に進んだ。
小倉 嘉明(おぐら よしあき、1878年(明治11年9月2日… 小倉 嘉明(おぐら よしあき、1878年(明治11年9月2日)[出典無効] - 1949年(昭和24年)11月23日)は、日露戦争から戦間期にかけて活躍した大日本帝国海軍軍人。海兵27期、海大甲種7期。 水雷畑を歩み、海軍大学校教官、海軍水雷学校教頭など教育に携わり、軍令部参謀、海軍艦政本部部長、横須賀海軍工廠長などを歴任した。最終階級は海軍中将。1905年(明治38年)の日本海海戦では第二艦隊浅間分隊長。 神奈川県出身。静岡県尋常中学校を経て、1896年(明治29年)、海軍兵学校(27期)入校[出典無効]、1899年(明治32年)12月16日卒業[出典無効]。同日、海軍少尉候補生、比叡乗組。1900年(明治33年)、千代田乗組[出典無効]。
黒沢 準(黒澤、くろさわ ひとし、1878年(明治11年)8… 黒沢 準(黒澤、くろさわ ひとし、1878年(明治11年)8月19日 - 1927年(昭和2年)9月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍有数の戦術家といわれた。 宮城県出身。黒沢嫡の長男として生れる。仙台の第二高等中学校(後の旧制第二高校、その後東北帝国大学を経て現・東北大学)を経て、1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊付となる。1902年(明治35年)8月9日陸軍大学校(19期)に入学するが、日露戦争期であったため1904年(明治37年)2月9日一時中退し、1906年(明治39年)3月20日に復校し、1907年(明治40年)11月30日に優等で卒業し参謀本部出仕となった。
工藤 隆治(くどう りゅうじ、1878年(明治11年)8月5… 工藤 隆治(くどう りゅうじ、1878年(明治11年)8月5日 – 1966年(昭和41年)12月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。徳島市長。最終階級は海軍主計大佐。 徳島県麻植郡西尾村(現在の吉野川市)出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。海軍に入って、中主計、大主計、主計少監、主計中監、主計大佐と累進し、海軍省経理局第二課長・海軍大学校教官、広海軍工廠会計部長を歴任した。1924年(大正13年)、予備役編入。 1928年(昭和3年)、東京市主事・商工課長に就任。1932年(昭和7年)に品川区長となり、1936年(昭和11年)からは下谷区長を務めた。 1937年(昭和12年)、徳島市長に選出され、1941年(昭和16年)まで在任した。
松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27… 松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日中提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。
厚東 篤太郎(こうとう とくたろう、1878年7月22日 -… 厚東 篤太郎(こうとう とくたろう、1878年7月22日 - 1958年9月18日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
伊藤 孝次(いとう こうじ、1878年〈明治11年〉6月 -… 伊藤 孝次(いとう こうじ、1878年〈明治11年〉6月 - 1936年〈昭和11年〉8月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍造機中将。 京都府で伊藤正信の四男として生まれる。 1903年(明治36年)、東京帝国大学工科大学舶用機関科を卒業し、海軍中技士となる。海軍機関学校教官などを経て、1923年(大正12年)佐世保海軍工廠造機部長となる。1925年(大正14年)には神戸艦政本部監督官となる。1929年(昭和4年)海軍中将となり広海軍工廠長を務めた。 1930年(昭和5年)、海軍技術研究所長兼海軍技術会議員に就任した。 1936年(昭和11年)3月死去。死去に際し祭資が下賜されたほか、同年3月25日の葬送に際しては勅使の遣いがあり幣帛を下賜された。
川島 義之(かわしま よしゆき、1878年〈明治11年〉5月… 川島 義之(かわしま よしゆき、1878年〈明治11年〉5月25日 - 1945年〈昭和20年〉9月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。愛媛県生まれ。 1878年(明治11年)5月25日、愛媛県士族の川島右一の長男として生まれる。 松山市外側尋常小学校、愛媛県尋常中学校を経て、1898年(明治31年)、陸軍士官学校(10期)卒業。1908年(明治41年)、陸軍大学校(20期)卒業。作戦資材整備会議幹事長、陸軍省人事局長、近衛歩兵第1旅団長、第19師団長、第3師団長を歴任。教育総監部本部長、朝鮮軍司令官、軍事参議官を経て陸軍大臣に就任。 二・二六事件後、予備役に編入。終戦直後の1945年(昭和20年)9月8日、死去。
高柳 直夫(たかやなぎ ただお、1878年(明治11年)5月… 高柳 直夫(たかやなぎ ただお、1878年(明治11年)5月4日 - 1904年(明治37年)5月3日)は、日本の海軍軍人。第三回旅順港閉塞作戦で「江戸丸」指揮官を務め戦死した海軍少佐である。従六位勲五等功五級。 佐賀県出身。佐賀中学で2年間学び、知新館を経て、海軍兵学校26期を59名中11番で卒業した。同期に小林躋造、野村吉三郎、水野広徳などがいる。1900年(明治33年)少尉任官。日露戦争開戦を迎え、防護巡洋艦「秋津洲」砲術長として出征した。 高柳は第3回閉塞作戦に「江戸丸」 指揮官として参加する。「江戸丸」は「遠江丸」(本田親民少佐)、「釜山丸」 (大角岑生大尉)とともに第二小隊を構成し、中央左側に沈没させる予定であった。