藤津 準一(ふじつ じゅんいち、1869年4月7日(明治2年… 藤津 準一(ふじつ じゅんいち、1869年4月7日(明治2年2月26日) - 1919年(大正8年)1月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。 長門国大津郡、後の菱海村(現長門市)で山口県士族・藤津正憲の長男として生まれ、1870年(明治3年)5月に家督を相続する。 1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。翌年、陸軍歩兵少尉に任官する。1897年(明治30年)陸軍大学校に入校し、1900年(明治33年)同校を第14期で卒業する。 近衛野砲兵連隊大隊長、下関要塞参謀を経て、1911年(明治44年)11月に陸軍砲兵大佐・野砲兵第4連隊長に任官。
南部 麒次郎(なんぶ きじろう、1869年4月2日(明治2年… 南部 麒次郎(なんぶ きじろう、1869年4月2日(明治2年2月21日) - 1949年(昭和24年)5月1日)は、日本の陸軍軍人、銃器開発者。東京砲兵工廠提理、南部銃製造所創設者。階級勲等は陸軍中将勲二等。工学博士。 明治末期、大正、昭和にかけて銃器開発で活躍した日本陸軍技術将校である。日本の警察が制式採用する拳銃ニューナンブM60や、明治時代の傑作軍用小銃と評価される三八式歩兵銃などにその名を残す。 肥前鍋島藩の士族、砲術家の南部春雍の二男として生まれる。母親は幼少の時に亡くなり、実家も大変貧乏だったため10歳で商家に奉公に出される。苦労を重ねた後、佐賀中学、干城学校を経て、陸軍士官学校合格(2期)。
上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年… 上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年2月10日) - 1931年(昭和6年)9月6日)は、明治から昭和初期の日本陸軍軍人、政治家、華族。旧姓は杉崎。 歩兵第24旅団長、第17師団参謀長を歴任し、最終階級は陸軍少将従三位勲二等功四級男爵。義父は朝鮮駐剳軍司令官・台湾守備軍司令官を務めた上田有沢陸軍大将。 名東郡加茂村で、杉崎組蔵の三男として生まれる。徳島中学校を卒業し、陸軍幼年学校を経て、1891年(明治24年)7月20日に第2期士官候補生として陸軍士官学校を卒業し、1892年(明治25年)3月21日、歩兵少尉に任官される。同期には菅野尚一大将・森岡守成大将・鈴木孝雄大将らがいる。
白川 義則(しらかわ よしのり、1869年1月24日(明治元… 白川 義則(しらかわ よしのり、1869年1月24日(明治元年12月12日) - 1932年(昭和7年)5月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、栄典は勲一等功二級男爵。
高橋 直武(たかはし なおたけ、1869年4-5月(明治2年… 高橋 直武(たかはし なおたけ、1869年4-5月(明治2年3月) - 1929年(昭和4年)6月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階および勲等、軍功は従四位・勲三等・功四級。 新潟県頚城郡高田町(現在の上越市)出身。1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。 1916年(大正5年)11月に陸軍歩兵大佐・中津連隊区司令官を経て、1917年(大正6年)8月に歩兵第14連隊長(第12師団、歩兵第12旅団)に任官し、シベリア出兵に従軍。ハバロフスクおよびブラゴベシチェンスクを占領した。ついで1921年(大正10年)6月に陸軍少将に進級と同時に待命、同年10月に予備役に編入した。
原田 重吉(はらだ じゅうきち、1868年11月23日(明治… 原田 重吉(はらだ じゅうきち、1868年11月23日(明治元年10月10日)- 1938年(昭和13年)8月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。篤農家。日清戦争での平壌の戦いにおいて「玄武門破り」の英雄として知られた。名前は十吉とも表記される。 三河国加茂郡日明村(のち愛知県東加茂郡豊栄村、松平村、松平町を経て現・豊田市)に原田幸吉の次男に生まれる。家業の農業に従事し、1888年、徴兵検査に合格し、豊橋歩兵第18連隊に入隊する。3年後に除隊、除隊後は帰郷し、農業に従事した。 1894年、日清戦争が勃発し、召集された重吉は平壌の戦いに参加した。9月15日に平壌総攻撃の命令が下り、部隊は玄武門に近づいた。
上田 太郎(うえだ たろう、1868年11月15日〈明治元年… 上田 太郎(うえだ たろう、1868年11月15日〈明治元年10月2日〉- 1937年〈昭和12年〉5月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 美濃国不破郡矢道村(青墓村、赤坂町を経て現岐阜県大垣市矢道町)で上田半右衛門の長男として生まれ、1909年(明治42年)に家督を相続した。 1888年(明治21年)岐阜県第一中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業。1892年(明治25年)7月、陸軍士官学校(3期)を卒業し、1893年(明治26年)3月、陸軍歩兵少尉に任官。日清戦争に従軍。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業し参謀本部に配属された。日露戦争では大本営兵站総監部副官として出征した。
宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年… 宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年8月9日) - 昭和31年(1956年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。
広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫、1868年7… 広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫、1868年7月16日(慶応4年5月27日) - 1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人。
武藤 喜一郎(むとう きいちろう、1868年7月12日(慶応… 武藤 喜一郎(むとう きいちろう、1868年7月12日(慶応4年5月23日) - 1943年(昭和18年)12月14日)は、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・戦間期の陸軍軍人。獣医学者・獣医師。陸軍獣医学校長、陸軍獣医総監を歴任した。最終階級は陸軍獣医中将。獣医学博士(1902年)、医学博士(1917年)。馬学の研究で知られた。 静岡県出身。静岡中学に学んだ。1892年(明治25年)、東京帝国大学農科大学獣医科卒業。1902年(明治35年)、獣医学博士(東京帝国大学)、1917年(大正6年)、医学博士を取得。 1892年(明治25年)12月20日、陸軍三等獣医。1895年(明治28年)1月8日、陸軍二等獣医。
長谷川 戍吉(はせがわ じゅきち、1868年7月7日(慶応4… 長谷川 戍吉(はせがわ じゅきち、1868年7月7日(慶応4年5月18日) - 1907年(明治40年)1月21日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争において騎兵挺進隊隊長を務めた、いわゆる長谷川挺進隊の指揮官である。戦後旧部下の不祥事が原因で自決した。最終階級は陸軍騎兵少佐。 父は会津藩藩士長谷川信吉である。信吉は禄高十三石四人扶持の武具役所勤めであった。長谷川が誕生した際、すでに長兄の丑吉が白河の戦いで討死しており、長谷川が跡を継いだ。戦後に斗南藩三戸郡門前村に移住したが、1873年(明治6年)に 会津本郷に戻った。陶芸家の弟子となり、旧藩校日新館を再興した私立日新館(現会津高校)に進むが退校。単独で上京し山川浩家の家僕となる。
奈良 武次(なら たけじ、1868年4月28日〈慶応4年4月… 奈良 武次(なら たけじ、1868年4月28日〈慶応4年4月6日〉- 1962年〈昭和37年〉12月21日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。男爵。 農業を営み、村議会議員を務めた奈良彦一郎と母ふみ子(宇都宮藩士の娘)の次男として下野国都賀郡南摩村上南摩(現:栃木県鹿沼市)に生れる。兄は彦作。6歳で村の寺子屋で、元日光の士族入江裕次郎に四書五経を学ぶ。進文学舎、陸軍有斐学校を経て、1889年(明治22年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業、砲兵少尉任官、近衛野砲兵連隊付となる。1893年(明治26年)11月、陸軍砲工学校高等科を優等で卒業。日清戦争では、臨時徒歩砲兵第2大隊副官として出征した。
田中 耕太郎(たなか こうたろう、1868年4月18日(慶応… 田中 耕太郎(たなか こうたろう、1868年4月18日(慶応4年3月26日) - 1939年(昭和14年)11月9日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。 丹波国多紀郡篠山(現在の兵庫県丹波篠山市)出身。1890年(明治23年)、海軍兵学校を卒業。日清戦争では『扶桑』に乗り組み従軍した。1900年(明治33年)にロシアに留学を命じられ、その後軍令部に勤務した。1909年(明治42年)に在ロシア大使館附武官に就任。1914年(大正3年)からは馬公要港部参謀長、海軍大学校教官、軍令部第三班課長を歴任した。1919年(大正8年)より浦塩派遣軍附となった。 海軍随一のロシア通であったが、帝政ロシアの没落とともに1923年(大正12年)に予備役に編入された。
乾 正士(いぬい せいし、慶応4年3月25日(1868年4月… 乾 正士(いぬい せいし、慶応4年3月25日(1868年4月17日) - 昭和16年(1941年)6月18日)は、日本の軍人。旧土佐藩士族 乾市郎兵衛家・第8代当主。自由民権運動家・発陽社社員。 慶応4年3月25日(1868年4月17日)、板垣退助の次男として、高知城下に生まれる。母は萩原復斎の娘・薬子(やくし)。板垣退助の分家・乾市郎平正厚が、明治3年5月22日(1870年6月20日)無嗣のまま死去した為、正厚家の家格を維持するために、同家の養子となり家督相続。 高知城下より高知県土佐郡潮江村370番屋敷へ転住。 明治10年(1877年)に北川貞彦が「立志社」の下部組織として興した民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)に実兄・板垣鉾太郎と共に参加。
神戸 次郎(かんべ じろう、旧暦 慶応4年4月13日(新暦 … 神戸 次郎(かんべ じろう、旧暦 慶応4年4月13日(新暦 1868年5月5日) - 1933年〈昭和8年〉9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。陸士1期。現在の山形県鶴岡市出身。 旧暦 慶応4年4月13日、出羽国 庄内藩 近習頭取 神戸善十郎(諱:義方)の次男として、鶴岡城下(現・鶴岡市)に生れる。 1887年(明治20年)に陸軍士官学校に入校し、1890年(明治23年)7月26日に卒業した(陸士1期、歩兵科)、ちなみに 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科47番/103名で卒業している。 1891年(明治24年)3月26日、陸軍少尉。
秋山 真之(あきやま さねゆき、旧字体: 秋山 眞之、18… 秋山 真之(あきやま さねゆき、旧字体: 秋山 眞之、1868年4月12日〈慶応4年3月20日〉- 1918年〈大正7年〉2月4日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功三級。勲二等旭日重光章、功三級金鵄勲章を授与された。通称は淳五郎(じゅんごろう)。 三兄は「日本騎兵の父」と云われた陸軍大将の秋山好古、次兄は朝鮮京城電気重役の岡正矣。子は4男2女。元参議院議員・大石尚子は、真之の孫(二女・宜子の長女)。 日本海海戦出撃の際の報告電報の一節で、後に名文と評された「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」や、「聯合艦隊解散之辞」の起草者としても知られる。 伊予国松山城下中徒町(現:愛媛県松山市歩行町)に松山藩の下級武士・秋山久敬の5男として生まれる。
千坂 智次郎(ちさか ちじろう、1868年3月8日(慶応4年… 千坂 智次郎(ちさか ちじろう、1868年3月8日(慶応4年2月15日)- 1936年(昭和11年)2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 米沢藩士・千坂高雅の二男として生まれる。米沢中学校、攻玉社を経て、明治20年(1887年)7月に海軍兵学校(14期)を卒業し、同22年(1889年)9月に海軍少尉任官。練習艦「館山」分隊長などを経て、日清戦争では「扶桑」分隊長として出征した。 練習艦「満珠」航海長、「高雄」航海長、「須磨」航海長、皇族(有栖川宮威仁親王)付武官、「松島」航海長、「八雲」回航委員、同航海長、「夕霧」艦長などを歴任。日露戦争には「初瀬」航海長として出征したが、明治37年(1904年)5月に乗艦が触雷により沈没した。
松村 龍雄(まつむら たつお、1868年2月25日(慶応4年… 松村 龍雄(まつむら たつお、1868年2月25日(慶応4年2月3日) - 1932年7月18日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
内田 重成(うちだ しげなり、1868年2月18日(慶応4年… 内田 重成(うちだ しげなり、1868年2月18日(慶応4年1月25日)- 1965年(昭和40年)10月4日 )は、日本の裁判官、海軍法務官、政治家。最終階級は海軍法務中将。貴族院議員。旧姓は平井。山口県出身 長門国豊浦郡、のちの山口県豊浦郡内日村(現下関市 )で、清末藩士・平井貢蔵の二男として生まれ、1892年(明治25年)11月、下関市清末の内田護の養子となった。 関西法律学校(後の関西大学)、和仏法律学校(後の法政大学)卒業後、1890年(明治23年)12月、文官高等試験に合格。1891年(明治24年)1月、司法官試補に任官し千葉地方裁判所詰となる。以後、千葉区裁判所検事、弘前区裁判所判事、栃木区裁判所判事、前橋区裁判所判事を歴任。
岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日〈慶応4年… 岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日〈慶応4年1月21日〉- 1952年〈昭和27年〉10月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は正二位勲一等功三級。 田中義一内閣で海軍大臣を務めたのち、齋藤内閣でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して五・一五事件後の騒然とした海軍省部内を収めた。その斎藤内閣が瓦解したあと大命降下を受けて内閣総理大臣に就任、岡田内閣では一時拓務大臣と逓信大臣を兼任している。二・二六事件で反乱軍に襲撃されたが、義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵が身代わりとなり、奇跡的に難を逃れた。 総理退任後も重臣として度々枢機に与ったが、第二次世界大戦中は東条内閣打倒を自らの責務ととらえ倒閣運動を主導した。
森 邦武(もり くにたけ、慶応4年1月18日〈1868年2月… 森 邦武(もり くにたけ、慶応4年1月18日〈1868年2月11日〉 - 1924年〈大正13年〉1月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級。前名は平吉。 上野国山田郡桐生本町(現・群馬県桐生市本町)に、町会議員を務めた森卯平の子として生まれる。先代の長次郞の養子となり、1878年(明治11年)12月、家督を相続する。桐生学校、群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶ。 1890年(明治23年)陸軍士官学校第1期卒業、 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科21番/103名で卒業している。翌年、陸軍歩兵少尉に任官する。1894年(明治27年)中尉となり日清戦争に従軍。
鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日〈慶応… 鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は従一位勲一等功三級男爵。歴代内閣総理大臣のなかで史上最高齢の77歳で就任した。 海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任。さらに枢密顧問官も兼任した。 枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第62代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。陸軍の反対を押し切ってポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦を終戦へと導いた。
横川 唐陽(よこかわ とうよう、1868年1月14日(慶応3… 横川 唐陽(よこかわ とうよう、1868年1月14日(慶応3年12月20日) - 1929年(昭和4年)12月12日)は、日本の漢詩人、陸軍軍医。本名は徳郎。雅号は唐陽山人。 信濃国諏訪郡神戸村(→四賀村→現・長野県諏訪市四賀)に生まれる。第一高等中学校医学部(現・千葉大学医学部)を卒業後、陸軍軍医となる。日露戦争では第1師団衛生隊の医長として従軍、のち浜松衛戍病院長、善通寺衛戍病院長、第7師団軍医部長を歴任。また『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂にも従事。 漢詩は森槐南らに師事。落合東郭、野口寧斎、森川竹磎らと親しく交わり、陸軍軍医であった森鷗外とも漢詩を通じた交遊があった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
大瀧 道助(おおたき みちすけ、1868年(明治元年) - … 大瀧 道助(おおたき みちすけ、1868年(明治元年) - 1911年(明治44年)11月24日)は、日本の海軍軍人。第十水雷艇隊司令として第三回旅順港閉塞作戦や日本海海戦を戦った。第十二駆逐隊司令在任中座礁事故で殉職。最終階級は海軍中佐正六位・勲四等・功四級。 米沢藩士の大瀧義重の子として生まれる。海兵17期生となる。1890年(明治23年)7月に88名中39番の成績で海軍兵学校を卒業した。「金剛」または「比叡」に配乗となって実務訓練を受け、少尉任官は1892年(明治25年)5月である。日清戦争では「金剛」分隊士として威衛海攻略戦に参戦した。 「松島」分隊長を経て、1903年(明治36年)9月、第三艦隊に所属する第十水雷艇隊司令(少佐)に補され、麾下4隻の水雷艇を率いて日露戦争に参戦する。
森 越太郎(もり えつたろう、1867年10月11日(慶応3… 森 越太郎(もり えつたろう、1867年10月11日(慶応3年9月14日) - 1957年(昭和32年)11月3日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。 尾張国前飛保村(現・愛知県江南市)出身。1889年(明治22年)に海軍兵学校を卒業し、翌年に海軍少尉に任官した。軍令部参謀、大本営参謀、陸軍大学校教官、海軍大学校教官、高雄艦長、沖島艦長、三笠艦長、海軍水雷学校校長、海軍技術本部第二部長を歴任した。1918年(大正7年)、海軍中将に昇進し、翌年に予備役に編入された。 その後、愛知時計電機株式会社顧問を務めた。 1944年には地元の前飛保にすずり箱を寄贈。それは現在でも同市内の白山社の蔵に保管されている。
高山 公通(たかやま きみみち、1867年9月5日(慶応3年… 高山 公通(たかやま きみみち、1867年9月5日(慶応3年8月8日) - 1940年(昭和15年)8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧名・永井源之進。 薩摩国大口郷里村(後の牛山郷里村、鹿児島県北伊佐郡大口村、伊佐郡大口村、大口町を経て、合併で大口市、伊佐市)生まれ。永井藤兵衛の二男として生れ、高山信助の養嗣子となる。1889年(明治22年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。1899年(明治32年)12月、陸軍大学校(13期)を卒業した。1900年(明治33年)5月、第12師団参謀となり、清国差遣(貴州駐在)、大本営参謀を経て、1904年(明治37年)6月、第3軍司令部付となり日露戦争に出征。
吉田 増次郎(よしだ ますじろう、1867年7月29日 (慶… 吉田 増次郎(よしだ ますじろう、1867年7月29日 (慶応3年6月28日) - 1942年3月14日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
市瀬 恭次郎(いちのせ きょうじろう、1867年7月24日(… 市瀬 恭次郎(いちのせ きょうじろう、1867年7月24日(慶応3年6月23日) - 1928年(昭和3年)8月15日)は、明治から大正時代の土木工学者、内務技監、大日本帝国陸軍軍人。 市瀬亨介の次男として丹波国多紀郡(現丹波篠山市)に生まれ、1893年(明治26年)3月、分家する。1890年(明治23年)7月、帝国大学工科大学土木科を卒業し、工学士の称号を得る。1911年(明治44年)工学博士。同年、内務省土木監督署に出仕し、技師試補を拝命。さらに12月には陸軍志願兵となり日清戦争に従軍。1892年(明治25年)8月、陸軍歩兵少尉に進む。1893年(明治26年)11月、土木監督署技師に任じ、広島土木監督署在任中に児島港築港事業に従事した。
三井 清一郎(みつい せいいちろう、慶応3年6月19日(18… 三井 清一郎(みつい せいいちろう、慶応3年6月19日(1867年7月20日) - 1949年11月30日)は、石川県出身の日本の陸軍軍人・政治家(貴族院議員)である。階級位階勲等功級は陸軍主計中将従三位勲一等功四級。宇垣一成陸相の下で宇垣軍縮を断行した陸軍省経理局長である。 能登国鹿島郡笠師村(現石川県七尾市中島町地区)に生まれる。兄には石川県会副議長となった三井亥三郎などがいる。 陸軍士官学校本科を卒業(士官候補生第6期)し、明治28年(1895年)に陸軍歩兵少尉に任じられる。その後、陸軍歩兵大尉となり、近衛歩兵第1連隊中隊長に補せられる。明治35年(1902年)には、歩兵科から経理部に転科し、陸軍一等副監督(大尉相当官)に転ずる。
財部 彪(たからべ たけし、慶応3年4月7日(1867年5月… 財部 彪(たからべ たけし、慶応3年4月7日(1867年5月10日) - 昭和24年(1949年)1月13日)は、日本の軍人、政治家。宮崎県都城市出身。階級は海軍大将。
福原 銭太郎(ふくはら せんたろう、慶応3年2月24日(18… 福原 銭太郎(ふくはら せんたろう、慶応3年2月24日(1867年3月29日) - 昭和13年(1938年)9月26日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。三重県桑名町長、長島村長。 伊勢国桑名郡長島村(現在の三重県桑名市)出身。士族・福原資英の長男として生まれ、1896年(明治19年)に家督を継ぐ。1884年(明治17年)に陸軍士官学校(旧9期)に入学し、1887年(明治20年)に卒業。同年7月歩兵少尉に任官し、陸軍大学校(10期)で学び、日清戦争に出征した。陸軍士官学校教官、参謀本部部員、近衛師団参謀を歴任。日露戦争時には第12師団高級参謀を務め、その後は留守第12師団参謀長、歩兵第68連隊初代連隊長、臨時朝鮮派遣歩兵第1連隊長、第16師団参謀長、第26旅団長を歴任した。
永田 泰次郎(ながた やすじろう、1867年1月26日(慶応… 永田 泰次郎(ながた やすじろう、1867年1月26日(慶応2年12月21日) - 1923年(大正12年)1月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将 正四位 勲二等 功三級に至る。 永田健助の長男として江戸に生まれる。攻玉社から慶應義塾幼稚舎に移り、大人部に移る。海軍兵学校(15期)に転じ少尉候補生として登用される。その後海軍兵学校教官となり南清各地を視察。1903年(明治36年)、常備艦隊の幕僚となり日露戦争中は東郷平八郎大将の幕僚副官となり参謀部にあり。戦争終結ののち海軍省出仕となり勲三等に叙す。出雲艦、石見艦の副長となり、第一、第二駆逐艦隊司令官として横須賀に滞在。神戸高等商船学校長に在職中に死去。
杉野 孫七(すぎの まごしち、1867年1月24日(慶応2年… 杉野 孫七(すぎの まごしち、1867年1月24日(慶応2年12月19日) - 1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人。日露戦争での広瀬武夫とのエピソードで知られる。 1867年に三重県奄芸郡磯山村(後の河芸郡栄村大字磯山、現在の鈴鹿市磯山町)で農業・杉野孫太夫の長男として生まれる。小学校卒業後、代用教員・巡査・監守を経て1886年3月に海軍水兵を志願し、二等水兵として[要出典]浦賀屯営に入営した。「日進」「筑波」と転乗し、1891年から「松島」回航委員付としてフランスへ渡った。 日清戦争では第五号水雷艇に乗り組み、威海衛防材排除の功によって勲八等白色桐葉章および年金36円を支給される。
可児 悌二郎(かに ていじろう、1867年 – 1934年)… 可児 悌二郎(かに ていじろう、1867年 – 1934年)は、日本の獣医師、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は獣医中将。 福井県遠敷郡雲浜村(現・小浜市)に生まれる。1873年に上京し、旧小浜藩主の酒井家邸内に居住した。幼少期より馬を好み、厩で馬を見ていたという。 東京府立中学校で、高田早苗や坪内逍遥から教えを受ける。1892年に東京農林学校(現・東京大学農学部)獣医医学科を卒業する。牧畜への興味から入学後に獣医学科に移ったという。卒業後はそのまま研究生として残り同校の講師となる。 その後神奈川県庁・和歌山県庁に勤務して、牧畜に関する講演活動に従事した。1894年、同郷でもある和田維四郎の紹介で陸軍3等獣医となる。
九津見 雅雄(くつみ つねお、1866年12月22日(慶応2… 九津見 雅雄(くつみ つねお、1866年12月22日(慶応2年11月16日)- 1943年(昭和18年)7月25日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 美作勝山藩(現・岡山県真庭市)出身。1889年(明治22年)4月、海軍兵学校(15期)を卒業し、少尉候補生として「金剛」(金剛型コルベット一番艦)に乗組む。1894年(明治27年)4月、「鳥海」航海士となり日清戦争に出征した。その後、佐世保水雷団水雷艇隊艇長、「吉野」航海長、駆逐艦「曙」艦長などを経て、日露戦争に出征。 日本海海戦では第1艦隊第1駆逐隊・駆逐艦「有明」艦長として参加。海軍大佐となり、1910年(明治43年)、「葛城」艦長に就任。
伊藤 乙次郎(いとう おとじろう、1866年12月2日〈慶応… 伊藤 乙次郎(いとう おとじろう、1866年12月2日〈慶応2年10月26日〉 - 1941年〈昭和16年〉3月27日)は、日本の海軍軍人。海軍中将従三位勲一等功四級。海兵13期首席、海大将校科1期優等。 旧尾張藩士伊藤久敬の息子として生まれる。愛知一中、攻玉社を経て、1887年2月、海軍兵学校(13期生)を首席で卒業し、1888年4月に海軍少尉任官。日清戦争では「比叡」航海長として出征した。海軍大学校では、丙種で学び、1897年12月、将校科(1期)を優等で卒業し、さらに選科でも学んだ。 その後、海軍省軍事課課僚、軍務局第1課局員、常備艦隊副官兼参謀、「常磐」航海長、「須磨」副長、「笠置」副長、ドイツ駐在などを歴任。
屋部 憲通(やぶ けんつう、1866年10月31日(尚泰王1… 屋部 憲通(やぶ けんつう、1866年10月31日(尚泰王19年9月23日) - 1937年(昭和12年)8月27日)は、戦前活躍した沖縄県の唐手家で陸軍軍人。最終階級は陸軍中尉。松村宗棍に師事した首里手の大家で松茂良興作、糸洲安恒にも師事した。 1866年(尚泰19年、慶応2年)、屋部憲通は首里山川村(ヤマガー)(現・那覇市首里山川町)に生まれた。隣家が松村宗棍宅であり幼少の頃から松村に唐手を師事した。屋部は松村死去後は同門で兄弟子の糸洲安恒の門下となった。屋部は他にも本部朝勇、本部朝基とともに泊手の松茂良興作に師事し変手を磨いた。 1890年(明治23年)、屋部は沖縄県立第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を中退して陸軍教導団に志願入団した。
岩村 俊武(いわむら としたけ、1866年10月5日(慶応2… 岩村 俊武(いわむら としたけ、1866年10月5日(慶応2年8月27日) - 1943年(昭和18年)11月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。団次郎が幼名だが成人後も長らくこの名前で通した。一時教通と名乗り大正4年(1915年)に俊武と改名。 慶応2年(1866年)、土佐国幡多郡宿毛(現・高知県宿毛市)に岩村通俊の次男として生まれた。明治20年(1887年)7月、海軍兵学校(14期)を卒業。明治22年(1889年)9月、海軍少尉任官。日清戦争、日露戦争に出征。特に水雷戦術に長じていた。日露戦争では第3艦隊参謀として出征し、その職のまま旅順要塞を攻略する第3軍に連絡将校として派遣され(途中で第1艦隊参謀に異動)、旅順開城委員の海軍代表として名を連ねた。
石井 義太郎(いしい よしたろう / ぎたろう、1866年9… 石井 義太郎(いしい よしたろう / ぎたろう、1866年9月5日(慶応2年7月27日) - 1927年(昭和2年)2月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 佐賀城下水ヶ江にて、士族石井忠方の子として生まれた。生家は佐賀藩主鍋島氏の藩祖以来の外戚家門で、祖父石井忠彬は、藩の重職にあった。 明治19年(1886年)12月、海軍兵学校(12期)を卒業。兵学校時代の同期生には、同じ佐賀県出身の江頭安太郎らがいた。1888年(明治21年)1月、海軍少尉に任官。 明治25年(1892年)12月、海軍大尉に昇進し「筑波」航海長に就任。以後、「千代田」「扶桑」「吉野」「金剛」の各航海長を歴任。明治31年(1898年)2月、海軍少佐に昇進した。
伊東 祐俊(いとう すけとし、慶応2年(1866年)9月 -… 伊東 祐俊(いとう すけとし、慶応2年(1866年)9月 - 没年不詳)は日本の陸軍軍人。最終階級は中佐。 肥前国松原(佐賀県佐賀市)出身。佐賀藩士伊東祐寿の子。維新後間も無く父を亡くし、藩中老として総野軍監を務めた祖父の伊東祐元に育てられる。1889年(明治22年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業、歩兵第24連隊、歩兵第48連隊を経て明治天皇直属の近衛歩兵第2連隊第3大隊第11中隊長を務める。日露戦争にも参戦し、奉天会戦・黒溝台会戦などで第一軍の先陣指揮をとる。近衛歩兵第1連隊第1大隊長として凱旋し、歩兵第3連隊、歩兵第2連隊で大隊長、1910年から1912年まで陸軍水戸連隊区司令官。1913年1月に中佐で予備役編入。
吉江 石之助(よしえ いしのすけ、1866年7月24日(慶応… 吉江 石之助(よしえ いしのすけ、1866年7月24日(慶応2年6月13日) - 1935年(昭和10年)3月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功四級。 福井藩士・吉江徳衛の長男として越前国(現・福井県)に生まれ、1894年(明治27年)家督を相続する。本籍は東京府、のち静岡県。 1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。翌年、陸軍歩兵少尉に任官。1902年(明治35年)陸軍大学校第16期卒業。 東京防禦総督部副官、近衛師団副官、第13師団参謀、歩兵第31連隊附、第14師団参謀、歩兵第59連隊附を経て、1912年(明治45年)4月に陸軍歩兵大佐・関東都督府高級参謀に任官。
栃内 曽次郎(とちない そうじろう、慶応2年6月8日(186… 栃内 曽次郎(とちない そうじろう、慶応2年6月8日(1866年7月19日) - 昭和7年(1932年)7月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。晩年には貴族院議員を務めた。
福田 雅太郎(ふくだ まさたろう、1866年7月7日〈慶応2… 福田 雅太郎(ふくだ まさたろう、1866年7月7日〈慶応2年5月25日〉- 1932年〈昭和7年〉6月1日)は、日本陸軍の軍人。陸士旧9期、陸大9期。栄典は従二位勲一等功三級、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・コマンダー(KCMG)。最終階級は陸軍大将。 大村藩士・福田市兵衛の二男として現在の長崎県大村市で生まれる。大村中学校、有斐学舎を経て、1887年(明治20年)7月、陸軍士官学校(旧9期)を卒業し、歩兵少尉任官、歩兵第3連隊付となる。1893年(明治26年)11月、陸軍大学校(9期)を卒業。 日清戦争には第1師団副官として出征。参謀本部第2局員、ドイツ留学、1900年(明治33年)12月30日、独国から帰国した(少佐)。
福島 泰蔵(ふくしま たいぞう、慶応2年5月23日〈1866… 福島 泰蔵(ふくしま たいぞう、慶応2年5月23日〈1866年7月5日〉 - 明治38年〈1905年〉1月28日)は、日本陸軍の軍人。弘前歩兵第31連隊の中隊長として、八甲田山雪中行軍を成功させた人物として知られている。日露戦争中の黒溝台会戦で戦死。陸軍少佐(没後昇進)。雅号に義山。 慶応2年(1866年)5月23日、上野国新田郡世良田村平塚(現・群馬県伊勢崎市平塚)で廻船運送業を営む福島泰七、あさの長男として生まれる。1874年(明治7年)地元に開校された平塚学校に入学し、下等小学校卒業の際は群馬県令・楫取素彦より特別優等賞を受けている。1884年(明治17年)に司法省法学校を受験するが、合格はできなかった。
黒井 悌次郎(くろい ていじろう、慶応2年5月22日〈186… 黒井 悌次郎(くろい ていじろう、慶応2年5月22日〈1866年7月4日〉- 昭和12年〈1937年〉4月29日)は、明治から大正期の日本の海軍軍人。海軍大将。山形県(旧米沢藩)出身。江戸時代中期の米沢藩士黒井忠寄は傍系である。黒井家の菩提寺はともに鍛冶町の曹洞宗高国寺。 米沢藩士(250石)黒井繁邦の二男。同郷の山下源太郎や南雲忠一と同様、米沢藩の藩校をルーツとする興譲館中学より海軍兵学校に入学。明治20年(1887年)、兵学校13期を36人中4位で卒業。同期に野間口兼雄大将・栃内曽次郎大将がいる。この期は他にも中将5名・少将10名を輩出する。 練習艦「龍驤」での訓練を終えて、最新の巡洋艦「高千穂」で最初の2年あまりを過ごす。
神頭 勝弥(神頭 勝彌、こうず かつや、1866年6月10日… 神頭 勝弥(神頭 勝彌、こうず かつや、1866年6月10日(慶応2年4月27日) - 1941年(昭和16年)8月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は従三位勲二等功三級。 信濃国水内郡檀田村(長野県長野市)に神頭三太夫の三男として生まれ、1910年(明治43年)分家する。1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。1899年(明治32年)陸軍大学校第13期卒業。 1912年(大正元年)9月に陸軍歩兵大佐・高知連隊区司令官、1913年(大正2年)8月に歩兵第28連隊長、1916年(大正5年)3月に第3師団参謀長、1917年(大正6年)5月に中支那派遣隊司令官を経て、同年8月に陸軍少将に進級。
野間口 兼雄(のまぐち かねお、慶応2年2月14日(1866… 野間口 兼雄(のまぐち かねお、慶応2年2月14日(1866年3月30日) - 昭和18年(1943年)12月24日)は、日本の海軍軍人、海軍大将。
山屋 他人(やまや たにん、慶応2年3月4日(1866年)4… 山屋 他人(やまや たにん、慶応2年3月4日(1866年)4月18日 - 昭和15年(1940年)9月10日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。皇太子徳仁親王妃雅子は曾孫にあたる。
渡辺 兼二(渡邉、わたなべ けんじ、1866年2月11日〈慶… 渡辺 兼二(渡邉、わたなべ けんじ、1866年2月11日〈慶応元年12月26日〉 - 1928年〈昭和3年〉12月9日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。新潟市長。 越後国蒲原郡一ノ木戸村(現新潟県三条市)で渡辺正友の二男として生まれる。1885年12月、陸軍教導団砲兵科に入団。1890年7月26日、陸軍士官学校(1期)を卒業、ちなみに 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を工兵科1番/8名で卒業している。1891年3月26日、陸軍工兵少尉に任官し工兵第1大隊附となる。 日清戦争に工兵第1大隊第2中隊小隊長として出征。1895年11月、陸軍砲工学校(3期)を優等で卒業。
橋本 又吉郎(はしもと またきちろう、1866年1月31日(… 橋本 又吉郎(はしもと またきちろう、1866年1月31日(慶応元年12月15日) - 1928年(昭和3年)6月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。現在の広島県出身。