丸山 永畝(まるやま えいほ、本名・忠次郎、1886年〈明治… 丸山 永畝(まるやま えいほ、本名・忠次郎、1886年〈明治19年〉6月2日 - 1962年〈昭和37年〉5月10日)は、日本の画家。 1886年(明治19年)6月2日、長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)に生まれる。幼少期を諏訪湖や蓼科山・八ヶ岳といった大自然に囲まれた中で過ごし、自然愛を育む。1906年(明治39年)、20歳で上京し、荒木寛畝に入門。絵画の基礎を学び、自らの画風を固めて行く。「晩秋の図」・「水辺夏色」がそれぞれ日本美術協会展(1911年)・日本画会展(1912年)で入選。大正以降、写生のため日本各地に足を運ぶようになる。 1918年(大正7年)、荒木十畝の門下であった幸(旧姓・荒木、画号・菜畝、1895年〈明治28年〉8月27日 - 1986年〈昭和61年〉)と結婚。
高村 智恵子(たかむら ちえこ、1886年(明治19年)5月… 高村 智恵子(たかむら ちえこ、1886年(明治19年)5月20日 - 1938年(昭和13年)10月5日、旧姓:長沼)は、日本の洋画家、紙絵作家。夫は彫刻家・詩人の高村光太郎。夫の光太郎が彼女の死後に出版した詩集『智恵子抄』でも知られる。 1886年(明治19年)5月20日、福島県安達郡油井村字漆原(現・二本松市油井)の酒造業・斎藤今朝吉(後に長沼家に養子に入り、長沼今朝吉となる)とせんの二男六女の長女として生まれた。戸籍名は「チヱ」。長沼家は清酒「花霞」を醸造する酒造家で、使用人を多数抱えた資産家であった。 1901年(明治34年)に油井小学校高等科を卒業したのち福島高等女学校3年へ編入学した。
池田 蕉園(いけだ しょうえん、1886年(明治19年)5月… 池田 蕉園(いけだ しょうえん、1886年(明治19年)5月13日 - 1917年(大正6年)12月1日)は、明治から大正にかけての女性浮世絵師、日本画家。本名池田(旧姓榊原)百合子(あるいは由理子)。夫も日本画家の池田輝方。 1886年(明治19年)5月13日、東京・神田雉子町に、榊原浩逸、綾子夫妻の長女として生まれる。下に1人の弟、3人の妹がいる。父浩逸は旧岸和田藩士であったが、慶應義塾で福沢諭吉に学び、彼の勧めによりアメリカ・ラトガース大学に留学して鉄道を研究、日本鉄道に勤務したのち、岩倉鉄道学校(現在の岩倉高等学校)の幹事となった人物。母綾子は実業家にして歌人でもあった間島冬道の娘で、和歌や書に優れていたほか、1876年(明治9年)ごろからは国沢新九郎の主宰する彰技堂画塾に入門、国沢のほか本多錦吉郎にも師事して洋画を学んだ経験を持つ。
長谷川 昇(はせがわ のぼる、1886年5月11日 - 19… 長谷川 昇(はせがわ のぼる、1886年5月11日 - 1973年8月26日)は、日本の洋画家、日本芸術院会員。 福島県会津若松市生まれ、両親と死別して北海道小樽市の祖父母に養育される。札幌中学校を経て、1905年、東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝に師事した。在学中の1908年、第2回文展に「海辺」が初入選した。1910年(明治43年)に東京美術学校を卒業、第4回文展に「白粉」が入選した。1911から渡欧し、ルノワールらに傾倒した。1915年(大正4年)、帰国して日本美術院洋画部同人となる。再度渡欧し、帰国後の1923年(大正12年)、同志と春陽会を設立した。1937年(昭和12年)、海洋美術会(後に大日本海洋美術協会)の設立メンバーとなる。
川﨑 小虎(かわさき しょうこ、1886年(明治19年)5月… 川﨑 小虎(かわさき しょうこ、1886年(明治19年)5月8日 - 1977年(昭和52年)1月29日)は、日本の画家。岐阜県岐阜市生まれ、出生時の本名は中野 隆一(なかの りゅういち)、後に川﨑へ改姓。 岐阜県庁勤務の中野金之助と妻あゆの長男として生まれ、幼少期から母方の祖父である川﨑千虎に大和絵を学び、さらに千虎が佐賀県有田町にあった佐賀県有田陶芸学校の校長になるとその専科で絵画と図案を学んだ。1902年(明治35年)の千虎没後は千虎門下の小堀鞆音に師事し、東京美術学校卒業後は教員を経て創作活動に専念した。 初期には千虎や鞆音の系譜を継ぎ、大和絵を基調とした叙情的な作品を描いたが、次第に人間的な色合いの濃い作風へと変わり、晩年は身近な自然や動物などの素朴な主題を描く。
鈴木 良治(すずき りょうじ、1886年〈明治19年〉3月2… 鈴木 良治(すずき りょうじ、1886年〈明治19年〉3月20日 - 1931年〈昭和6年〉8月9日)は、日本の洋画家。 新潟県中蒲原郡亀田町大字稲葉(現 新潟市江南区稲葉)出身。1906年(明治39年)3月に新潟中学校を卒業、1911年(明治44年)3月に東京美術学校西洋画科を卒業。 1912年(明治45年)に東京美術学校の同期の大野隆徳、小寺健吉、富田温一郎、山口亮一、横井礼一らと12人で赤甕会を結成、時事新報社に勤務する傍ら油彩画の制作を続け、1914年(大正3年)の第8回文展で『靜物』が初入選、以後、文展、帝展、光風会展、新光洋画会展などに作品を発表し続け、1918年(大正7年)の第6回光風会展で『手袋の女』および『靜物』により最高賞である今村奨励賞を受賞。
犬飼 恭平(いぬかい きょうへい、1886年(明治19年)3… 犬飼 恭平(いぬかい きょうへい、1886年(明治19年)3月15日 - 1954年(昭和29年))は、明治末期から昭和初期にかけてアメリカ合衆国で活動した日系人画家である。岡山県に生まれ、14歳の時に移民としてハワイに渡り、17歳でアメリカ本土へ移った後に、ジョン・ヴァンダーポールらに師事してシカゴ美術館附属美術大学を卒業し、画家としての制作活動を開始した。1926年(昭和元年)にはナショナル・アカデミー・オブ・デザインに自画像『制作中』を出品し、アイザーク・N.メイナード肖像画賞を受賞している。息子のアール・グデナウもまた犬飼の名を嗣ぎ、キョウヘイ・イヌカイ(英語版)という名義で画家として活動を行った。
高 羲東(コ・ヒドン、朝鮮語: 고희동、1886年3月11日… 高 羲東(コ・ヒドン、朝鮮語: 고희동、1886年3月11日 - 1965年10月22日)は、日本統治時代の朝鮮と韓国の画家、韓国の政治家、参議員。本貫は済州高氏。別名は春谷(チュンゴク、춘곡)。 韓国最初の洋画家のほか、西洋画を朝鮮で広げた美術教育者でもあり、韓国初の近代的な美術団体である「書画協会」を創立した美術行政家でもある。また、1925年頃以降は韓国画をメインに、西洋画の色彩と明暗法を加味した新しい絵風を開拓した。 漢城府出身。開港期に博文局の主事、ジャーナリストを務めた高永喆の三男である。14歳の時に漢城仏語学校に入ってフランス語を学び、1904年に宮内府の主事となり、宮中のフランス語の通訳・翻訳を行った。
川島 理一郎(かわしま りいちろう、1886年3月9日 - … 川島 理一郎(かわしま りいちろう、1886年3月9日 - 1971年10月6日)は、日本の洋画家。栃木県足利市出身。 1886年3月9日、栃木県足利市に生まれる。1890年、祖父母と共に東京へ転居。 1905年、アメリカへ渡り、ワシントンのコーコラン美術学校に入学、1910年に同校卒業。なお、同校在学中の1906年にはニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインへ特待生として学び、褒状を得ている。 1911年にはフランスへ渡って、まずはパリのアカデミー・ジュリアンへ、その後アカデミー・コラロッシに学ぶ。翌1912年にサロン・ドートンヌで入選した。この時期、フランス当地のフォーヴィスム、キュビスムの新運動隆盛に刺激を受け、藤田嗣治、パブロ・ピカソなどと交友を結んだ。
島田 卓二(しまだ たくじ、1886年3月6日 - 1946… 島田 卓二(しまだ たくじ、1886年3月6日 - 1946年8月24日)は、日本の洋画家。黒田清輝に師事し、第6回文展入選。 宝飯郡大木村(現在の豊川市)出身。1905年、愛知県第四中学校(現在の愛知県立時習館高等学校)を卒業。その後、上京して白馬会の葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝の書生となる。 1910年、第13回白馬会展。1912年、第6回文展に入選。1914年、第3回光風会(第5.6回も)出品。1920年、光蘭(本来は氵に蘭)社を文展・帝展入選者の岡常次、櫻井知足、川名博、宮島熊三、瀬野覚蔵、川上五郎らと7名で結成し、白木屋で第1回展を開催、数回の展覧会を経て1930年に解散。1921年、東海七州美術会第1回展覧会展を京橋の高島屋呉服店で開催。
池部 鈞(いけべ ひとし、1886年(明治19年)3月3日 … 池部 鈞(いけべ ひとし、1886年(明治19年)3月3日 - 1969年(昭和44年)12月17日)は、東京府東京市本所区(現東京都墨田区本所)出身の日本の風刺漫画家、洋画家。旧姓・山下。 岡本一平の義弟(妻が岡本一平の妹)、岡本太郎の叔父にあたり、俳優の池部良は実子。 1886年(明治19年)3月3日、東京本所に生まれる。東京府人の山下覺之介の二男。叔父で芝区露月町で洋服商の池田屋を営む池部鍬吉の養子となる。台東区立下谷小学校に通った。 1898年(明治31年)頃、12歳時に神田の錦城中学に入学、翌1899年(明治32年)から1900年(明治33年)にかけての時期に白馬会展の展観作品に感動し画家を志す。
塩月 桃甫(しおつき とうほ、1886年2月27日 - 19… 塩月 桃甫(しおつき とうほ、1886年2月27日 - 1954年1月30日)は、宮崎県出身(出生地:宮崎県児湯郡三財村、現西都市)の画家である。本名は永野善吉。日本統治時代の台湾に、初めて西洋美術を広め、台湾美術展覧会を開くなど、台湾の美術界に大きく貢献したことで知られる。 宮崎師範学校、東京美術学校(図画師範科)卒業。台湾に渡ったのは1921年(35歳の時)であり、以後25年間にわたり台湾で活躍し、台北高等学校でも図画科教師を務めた。1953年、宮崎県文化賞受賞。 主な作品に「蕃人舞踊団」(宮内庁所蔵)「裸婦」「舞妓」(いずれも宮崎県立美術館所蔵)などがある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
名取 春仙(なとり しゅんせん、1886年(明治19年)2月… 名取 春仙(なとり しゅんせん、1886年(明治19年)2月7日 - 1960年(昭和35年)3月30日)は、明治から昭和時代の版画家、挿絵画家、浮世絵師、日本画家。 久保田米僊及び久保田金僊の門人。本名は芳之助。春僊、春川、黛子洞、梶蔦亭、青紫亭とも号す。山梨県中巨摩郡明穂村(現・南アルプス市小笠原)で、名取市四郎・みちの五男として生まれる。父・市太郎は両国屋という綿問屋で、雑貨なども商い、峡西地方の金融業・十圓社を興し、第十国立銀行創立の際にも若尾逸平らと共に資金を拠出、山梨県初代県議会議員の一人でもあった。ところが父の事業の失敗により、1歳の時東京に移る。1892年(明治25年)東京市立城東尋常高等小学校に入学。
濱谷 白雨(はまや はくう、明治19年1月28日(1886年… 濱谷 白雨(はまや はくう、明治19年1月28日(1886年) – 昭和40年(1965年)5月9日)は、大正から昭和前期時代にかけての日本画家。本名栄次郎。帝国絵画協会、国民美術協会評議員を歴任。 1886年(明治19年)富山県婦負郡四方町(現富山市)に生まれる。1900年富山県工芸学校(現富山県立高岡工芸高等学校)へ入学、1902年中島秋圃が同校に赴任すると秋圃宅に下宿して日本画の教授を受ける。1905年東京美術学校日本画科に進み、寒声の号で雑誌の挿絵を画く。1910年同校師範科に進む。当初は結城素明、後に紹介推薦で川端玉章の門に入るも画風に疑問をもち脱退する。その後寺崎広業に師事し、和漢の古画の模写に努める。
五味 清吉(ごみ せいきち、1886年(明治19年)1月1日… 五味 清吉(ごみ せいきち、1886年(明治19年)1月1日 - 1954年(昭和29年)8月19日は、大正から昭和前期の洋画家。 岩手県南岩手郡仁王村四ツ家町(現在の盛岡市本町通2丁目)に、小原藤吉・タキ夫妻の7人兄弟の第5子(3男)として生まれる。藤吉は雫石町で古着・呉服屋を開業しており、一時は豆類や古道具、浮世絵なども扱っていた時期があり、幼い五味も浮世絵を見て絵に興味を持ったとも推測される。1892年(明治25年)盛岡第一尋常小学校、1896年(明治29年)盛岡高等小学校(現在の盛岡市立下橋中学校)、1901年(明治34年)盛岡中学校(現在の岩手県立盛岡第一高等学校)に進学する。同2年生の時、肋膜を患ったのがきっかけで、バプテスト派の盛岡浸礼教会に通い、E.H.ジョンズより受洗。
九里 四郎(くのり しろう、1886年1月1日 - 1953… 九里 四郎(くのり しろう、1886年1月1日 - 1953年3月1日)は、日本の洋画家。通称「くり」。海軍主計大監・貴族院議員の南郷茂光の子。海軍少将・南郷次郎、南郷三郎の弟。加賀藩前田家の家老・九里家の養子となる。 東京生まれ。学習院初等科から志賀直哉と同級で、のち里見弴、谷崎潤一郎など文人と親しく交わった。1902年、学習院中等科を退学、1910年、東京美術学校西洋画科卒。同級に池部鈞、藤田嗣治、近藤浩一路らがいた。在学中に文展入賞。1911年-1912年ヨーロッパに渡る。出発の際には、友人の志賀直哉をはじめ、柳宗悦、細川護立、郡虎彦、里見弴、児島喜久雄、木下利玄、有島生馬ら14名の白樺派が集まって送別会が行なわれた(宗悦の母と四郎の母はともに嘉納治五郎の姉)。
トーマス永井(とーます ながい、1886年 - 1966年)… トーマス永井(とーます ながい、1886年 - 1966年)は洋画家。魔術的リアリズムの担い手として独自の作風を確立。しかし太平洋戦争の混乱によりその業績は長らく埋もれたままになっていた。忘れられた洋画家として近年評価が急速に高まってきている。本名は永井富三(ながい とみぞう)
佐野 五風(さの ごふう、1886年 - 1974年)は四条… 佐野 五風(さの ごふう、1886年 - 1974年)は四条派の日本画家である。本名・佐野曠。 京都府出身。1905年京都市立美術工芸学校本科卒、1907年同専攻科卒。竹内栖鳳に師事し円山・四条派の伝統を受け継ぐ。 1907年、第一回文展(文部省展覧会)入選以降、文展・帝展で活躍し、1930年第11回帝展推薦、無鑑査資格を獲得する。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
阿部 喜之丞(あべ きのじょう、1886年(明治19年)-1… 阿部 喜之丞(あべ きのじょう、1886年(明治19年)-1972年(昭和47年))は、日本の都市計画家。土地区画整理および耕地整理技術者。東京市都市計画課の掛長として市域の耕地整理事業を担当し、1940年(昭和15年)に静岡県静岡市で起きた静岡大火の際は、復興のために設置された静岡市臨時復興局の局長として耕地整理と土地区画整理事業に辣腕を振った。1964年(昭和39年)に勲四等旭日小綬章、死去後に勲三等瑞宝章叙勲された。俳句や書道・弓道などの趣味を持ち、帰去来と号した。 新潟県旧高田市生まれ。1906年(明治39年)に東京帝国大学農科大学実科(のちの東京高等農林学校→現東京農工大学農学部)を卒業。
野原 櫻州(のはら おうしゅう、1886年(明治19年) -… 野原 櫻州(のはら おうしゅう、1886年(明治19年) - 1933年(昭和8年)2月28日)は明治から昭和にかけて活躍した日本画家である。野原桜州とも表記される。 歴史画、花鳥画。特に薔薇の絵を得意とし、生前は「薔薇の櫻州」と評されていた。
山田真山(やまだ しんざん、1885年(明治18年)12月2… 山田真山(やまだ しんざん、1885年(明治18年)12月27日 - 1977年(昭和52年)1月29日)は、明治から昭和にかけての彫刻家、画家。本名は渡嘉敷 兼慎(とかしき けんしん)。 沖縄県那覇市壺屋にて、士族で漢学者の渡嘉敷兼礼の五男として生まれるが、幼少時に父が病没したため貧困の少年時代を過ごす。手先の器用さが認められ、大工の修行をする。やがて上京、20歳で東京美術学校へ進んで木彫科・彫塑科を専攻、山田泰雲に師事し、その養子となる。また、高村光雲の教えを受ける。1906年に清国の北京芸徒学堂教授となるが翌1907年に帰国して東京美術学校に戻り、小堀鞆音に日本画を学ぶ。1914年、文展入選。
小圃 千浦(おばた ちうら、1885年(明治18年)12月1… 小圃 千浦(おばた ちうら、1885年(明治18年)12月18日 - 1975年(昭和50年)10月6日)は、日本出身のアメリカ合衆国の画家、版画家。アメリカの大自然を日本画の技法で描き、新しい美の世界を切り開いた。また、米国で日本人初の野球チームを共同設立した。戦争中、日系人収容所のトパーズ戦争移住センターに収容されたことでも知られる。 岡山県後月郡井原村(現・井原市)に8人兄弟の末子として生まれる。本名、佐藤蔵六。5歳で仙台に住む洋画家・美術教師の兄六一(伊達藩家老だった小圃家に婿入りしていた)の養子となる。7歳から日本画を学んだ。14歳のときに東京に出て、「大政奉還図」で有名な邨田丹陵に師事した。
佐々木精治郎(ささき せいじろう、1885年〈明治18年〉1… 佐々木精治郎(ささき せいじろう、1885年〈明治18年〉12月8日 - 1971年〈昭和46年〉11月28日)は、日本の画家。岩手県江刺郡黒石村出身。 ロサンゼルス美術学校、ニューヨーク美術学院を卒業し、帰国。それ以降も渡欧などを経て、多くの展覧会出品や個展を開催する。 パステル画を中心とした作品が特徴である。 1885年12月8日、岩手県江刺郡黒石村長根(現:奥州市水沢黒石町字長根)の農家に7人兄弟の次男として生まれる。実家はかつて庄屋を務めるほど豪農である。1892年ごろ黒石村立博文尋常小学校(のちの奥州市立黒石小学校)に入学し、熊野神社神主より漢学を学んだ。卒業後、当時村内には高等小学校が無いため、胆沢郡前沢町の前沢尋常高等小学校へ進み、のちに七光社同人となる村上隆一と自炊生活を始めた。
萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月… 萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月17日 - 1927年5月1日)は、大正~昭和初期の洋画家。 岩手県和賀郡東和町(現在の花巻市)出身。1907年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。1912年、岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加している。萬は、その頃日本に紹介されつつあったポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴した。特にフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスらの影響が顕著であった。黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として萬の功績は大きい。晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。
萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月… 萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月17日 - 1927年5月1日)は大正~昭和初期の画家。
野生司 香雪(のーす こうせつ、明治18年(1885年)11… 野生司 香雪(のーす こうせつ、明治18年(1885年)11月5日 - 昭和48年(1973年)3月28日)は、日本の仏教画家、仏画家である。 「野生司」の読み方は「のーす」。香雪の残した資料等の紙の上にカタカナで「ノース」と書いてあり、本人もそれが正しいと言っていたとのこと。 香川県香川郡檀紙村(現・香川県高松市檀紙町)に僧侶の長男として生まれる。本名は述太(のぶた)。父・義問、母・シカ。その後、檀紙尋常小学校(現・高松市立檀紙小学校)、堂山高等小学校を経て、香川県工芸学校(現在の香川県立高松工芸高等学校)金属工芸科に入学。卒業後、東京美術学校(現在の東京藝術大学)予備課程の金属工芸科に入る。
小早川 秋聲(こばやかわ しゅうせい、秋声とも、1885年(… 小早川 秋聲(こばやかわ しゅうせい、秋声とも、1885年(明治18年)9月26日 - 1974年(昭和49年)2月6日)は、大正から昭和中期にかけて活動した日本画家。文展・帝展を中心として活躍、今日では《國之楯》を始めとする戦争画で知られている。 鳥取県日野郡日野町黒坂の光徳寺住職、小早川鐵僊の長男として、母・幸子の実家、神戸市の九鬼隆義子爵邸内で生まれる。本名は盈麿(みつまろ)。秋聲の号は、青年時代に愛読していた『古文真宝』収録の歐陽修の詩「秋聲賦」から取ったという。父は京都東本願寺の事務局長を勤め、母は元摂津三田藩九鬼隆義の妹である。幼少時代を神戸で過ごす。弟の小早川好古も日本画家である。
斎藤 与里(さいとう より、1885年(明治18年)9月7日… 斎藤 与里(さいとう より、1885年(明治18年)9月7日-1959年(昭和34年)5月3日)は、大正・昭和期の洋画家、美術評論家。
荒井 陸男(あらい ろくお、1885年9月1日 - 1972… 荒井 陸男(あらい ろくお、1885年9月1日 - 1972年7月6日)は、日本の洋画家。代表作に明治神宮絵画館の壁画『水師営の会見』。 1885年(明治18年)、幕末の元海軍奉行、荒井郁之助の六男として東京、芝区で生れる。旧制麻布中学校、日本中学校、同志社などで学ぶが、画家へのあこがれが強く1909年(明治42年)イギリスへ渡りロンドンの美術学校に学ぶ。 1914年(大正3年)、第一次世界大戦の海軍従軍画家として海洋画を描く。これを機会に戦争画を描く機会が増え第一人者となる。1928年(昭和3年)『旅順開城、乃木大将とステッセル会見の図』(明治神宮絵画館所蔵)完成。1938年(昭和13年)、オーストラリアに取材に出掛け、翌年までに第一次世界大戦中にインド洋で行われた日英協同作戦の様子『軍艦伊吹、豪州ニュージランド軍隊護衛』を描く。
川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年〈明治18年〉6月… 川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年〈明治18年〉6月6日 - 1966年〈昭和41年〉4月10日)は、日本画家、俳人。弟(異母弟)は『ホトトギス』の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も『ホトトギス』同人であった。本名は川端 昇太郎。 現在の和歌山県和歌山市で生まれる。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたい、とこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。1895年(明治28年)、10歳の頃に家族とともに東京へ転居した。 城東高等小学校から東京府立第一中学校入学。
井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - … 井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - 1944年10月1日)は、日本の画家、版画家。 1885年(明治18年)5月29日 岐阜県恵那郡三濃村(現在の岐阜県恵那市)に生まれる。近代日本がはじめて遭遇した巨大地震の濃尾大地震(1891年)で被災し、長野県松本市に移住。1900年(明治33年) 旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)に入学するが、2学年で中退。1901年(明治34年) 東京の白馬会溜池洋画研究所に入り、旧制錦城中学(現錦城学園高等学校)に学ぶ。1906年(明治39年) 母親の死去により研究所を退所、松本の父親経営の旅館養老館にもどる。1922年(大正11年) 養老館廃業(現在の五千尺ホテルに引き継がれる)。
武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、旧字体: 武者小路… 武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、旧字体: 武者小路 實篤、1885年〈明治18年〉5月12日 - 1976年〈昭和51年〉4月9日)は、日本の小説家・詩人・劇作家・画家。貴族院勅選議員。華族の出で、トルストイに傾倒し、『白樺』創刊に参加。天衣無縫の文体で人道主義文学を創造し、「新しき村」を建設して実践運動を行った。伝記や美術論も数多い。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。名誉都民。名誉三鷹市民。贈従三位(没時叙位)。 姓の武者小路は本来「むしゃのこうじ」と読むが、実篤は「むしゃこうじ」に読み方を変更した。しかし、一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと正すことはなかったという。
前田 青邨(まえだ せいそん、1885年〈明治18年〉1月2… 前田 青邨(まえだ せいそん、1885年〈明治18年〉1月27日 - 1977年〈昭和52年〉10月27日)は、日本画家。位階は従三位。岐阜県中津川市出身。本名、前田 廉造(まえだ れんぞう)。妻は荻江節の5代目荻江露友。三女の夫が美術史家の秋山光和。 青邨は大和絵の伝統を深く学び、歴史画を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。ことに武者絵における鎧兜の精密な描写は有名である。 1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革が行われると会員に選出されるが、翌1936年(昭和11年)年に示された平生改革案に反対して横山大観ら日本芸術院メンバーなどとともに会員を辞任する。その後、1937年(昭和12年)に帝国美術院が改組して帝国芸術院として発足すると芸術院会員となった。
木山義喬(きやま よしたか、1885年1月9日 - 1951… 木山義喬(きやま よしたか、1885年1月9日 - 1951年4月24日)は日本の洋画家、およびHenry Y. Kiyamaのペンネームで主にアメリカ合衆国で活動した漫画家。鳥取県日野郡出身。 1885年(明治18年)1月9日、鳥取県日野郡根雨の油屋に生まれる。県立第二中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)に進学するが、家産が傾き中退。1904年(明治37年)、19歳のときに伯父を頼って日系移民の一大拠点であったサンフランシスコに移民する。木山は画才に優れ、ハウスボーイ(下男)や農業労働者など、雑多な仕事で生活を支えながらサンフランシスコの絵画コンクールに投稿を重ね、1915年(大正4年)から1920年(大正9年)の間に複数の受賞を得る。
相馬 其一(そうま きいち、1885年 - 1966年)は、… 相馬 其一(そうま きいち、1885年 - 1966年)は、新潟県出身の洋画家。浦和画家。 新潟県新発田市に生まれる。1905年(昭和38年)に上京し、白馬会研究所に入り黒田清輝に師事した。1919年(大正8年)、帝展に「信濃路」出品し特選を受賞。光風会会員。埼玉県の浦和転居後は高田誠を指導した。
増田 正宗(ますだ せいそう、1885年 - 1966年)は… 増田 正宗(ますだ せいそう、1885年 - 1966年)は、明治から昭和にかけての日本画家、本名は久太郎。実業家の増田通二の父。
太田 三郎(おおた さぶろう、1884年(明治17年)12月… 太田 三郎(おおた さぶろう、1884年(明治17年)12月24日 - 1969年(昭和44年)5月1日)は、愛知県出身の洋画家・挿絵画家。挿絵画家としては君島柳三の名を用いた。日本画の号は本名をもじった沙夢楼である。光風会所属。 1884年(明治17年)12月24日、愛知県西春日井郡下小田井村(現・清須市西枇杷島町)に生まれた。父の太田仙草は青物問屋を営む傍らで、日本画の土佐派を学んだ文人でもあった。 17歳の時に上京し、まずは日本画を、その後洋画を学んでいる。日本画は寺崎広業に師事した。洋画は黒田清輝に学び、さらに白馬会洋画研究所にも通っている。 1913年(大正2年)の第7回文展で「カッフェの女」が受賞した。
水島 爾保布(みずしま におう、1884年12月8日 - 1… 水島 爾保布(みずしま におう、1884年12月8日 - 1958年12月30日)は、日本画家、小説家、漫画家、随筆家。本名:爾保有。これは『難訓辞典』の著者である父・水島慎次郎(鳶魚斎)による命名。 また、長男の行衛(ゆきえ)は、SF作家の今日泊亜蘭である。 東京府下谷区根岸に生まれる。1909年、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)日本画科を卒業。 1911年、川路誠(柳虹、1912年卒業)・小泉勝爾(1908年卒業)・小林源太郎(1912年卒業)・広島晃甫ら、学校仲間を中心とした全12名で「行樹社」を結成する。同年11月1日から7日にかけて、赤坂三会堂にて第1回展覧会を開催、18人70余点が出品される。
田中 良(たなか りょう、1884年10月29日 - 197… 田中 良(たなか りょう、1884年10月29日 - 1974年12月31日)は、日本の舞台美術家・画家。 東京府麹町区生まれ。東京帝国大学農科大学教授・田中宏(1859年鹿児島県高麗町生まれ)の長男として生まれ、学習院中等部在学中に太平洋画会研究所に通う。東京美術学校(後の東京藝術大学美術学部)西洋画科で5年間学んだ時期は大伯父の奈良原男爵邸に同居している。1910年(明治43年)4月に卒業。同期生に九里四郎、近藤浩一路、長谷川昇、藤田嗣治など。 帝国劇場の背景部に所属して舞台の背景を手がけたほか、伯父・奈良原三次設計による奈良原式1号機の製作を手伝っている。1919年(大正8年)にはヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国を視察する。
竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年〈明治17年〉9月1… 竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年〈明治17年〉9月16日 - 1934年〈昭和9年〉9月1日)は、日本の画家・詩人。本名は竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)。 数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれた。大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、中でも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けの一人ともいえる。
松山 省三(まつやま しょうぞう、旧姓・渡辺、1884年〈明… 松山 省三(まつやま しょうぞう、旧姓・渡辺、1884年〈明治17年〉9月8日 - 1970年〈昭和45年〉2月2日)は、日本の洋画家、カフェー・プランタンの経営者。 広島県広島市出身。渡辺又三郎の三男。日本中学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画撰科に入学、1907年卒業(卒業時は渡辺姓。その後、弁護士・松山広居に養子入り)。 リベラリストだった省三は政治家になることを嫌がり、画家になるべく家族を連れて1909年上京。妻・英子は当時妊娠7ヵ月で、上京直後に生まれた長男が後の歌舞伎役者、河原崎国太郎である。1909年11月に小山内薫が主宰した自由劇場の公演で、他の美術学校関係者とともに背景画を担当したという。
石井 林響(いしい りんきょう、1884年〈明治17年〉7月… 石井 林響(いしい りんきょう、1884年〈明治17年〉7月15日 - 1930年〈昭和5年〉2月25日)は、日本の明治末期から昭和初期に活動した日本画家。画業の中期までは、石井天風と称する。本名は毅三郎。 千葉県山辺郡土気本郷町下大和田(現在の千葉市緑区下大和田町)に、父・治郎助、母・げんの三男として生まれる。実家は豪農で、隣の家まで1町余り、東西南に他人の家が見えないほどだったという。2歳の時、母が誤って囲炉裏に落ち、頭に火傷を負う。以後これを隠すため生涯総髪で、大人になると髭も蓄えたため、これらが林響のトレードマークとなる。土気尋常小学校、大網高等小学校、旧制千葉中学校(現:千葉県立千葉中学校・高等学校)と進学。
跡見 泰(あとみ ゆたか、1884年〈明治17年〉5月23日… 跡見 泰(あとみ ゆたか、1884年〈明治17年〉5月23日 - 1953年〈昭和28年〉10月22日)は、東京府(現・東京都)出身の洋画家。浦和画家のひとり。 日本画家で跡見女学校(現・跡見学園女子大学)創設者の跡見花蹊の甥にあたる。東京美術学校卒業後は黒田清輝の指導を受ける。文展、帝展、日展と官展に出品し、無鑑査から委嘱へと次第に重きをなしていった。関東大震災後、浦和町(1934年に浦和市、現さいたま市浦和区)に移住し、浦和画家の一人として名を連ねる。高田誠を指導した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
山下 紅畝(やました こうほ、1884年〈明治17年〉4月2… 山下 紅畝(やました こうほ、1884年〈明治17年〉4月20日 - 1977年〈昭和52年〉10月25日)は、女流日本画家。日本画会会員。多くの日本画を描き残すと共に、多くの弟子を育成することで、郷里の香川県の日本画壇に貢献した人物である。本名は山下くら、または山下久良子。旧姓は中田。 香川県那珂郡丸亀葭町(現・丸亀市葭町)で誕生した。高松高等女学校(現・香川県立高松高等学校)を卒業後、女子高等教育への進学率が0.1%という時代にあって、東京女子高等師範学校へ進学。1906年(明治39年)に同校を卒業後に、奈良女子高等師範学校で教員として勤めた。 1907年(明治40年)、東京女子高等師範学校の研究課程技芸科に入学した。
石崎 光瑤(いしざき こうよう、明治17年(1884年)4月… 石崎 光瑤(いしざき こうよう、明治17年(1884年)4月11日 - 昭和22年(1947年)3月25日)は、日本の大正時代から昭和の初めにかけて活躍した日本画家。文展・帝展を中心に活動し、写実に基づく鮮やかで装飾的な花鳥画を得意とした。 富山県西礪波郡福光町(現在の南砺市)で、素封家・石崎和善の五男として生まれる。本名は石崎猪四一。石崎家は和泉屋の屋号で本業は麻布業だったが、江戸時代から蔵宿業を営み、町役人も務めた豪商だった。幼少より画才があり、明治29年(1896年)12歳頃東京から金沢に移り住んだ琳派の絵師・山本光一に師事する。光瑤の「光」は師から貰っており、この頃の光瑤は福光や金沢近郊を写生して廻ったという。
近藤 浩一路(こんどう こういちろ、本名:浩(こう)、明治1… 近藤 浩一路(こんどう こういちろ、本名:浩(こう)、明治17年(1884年)3月20日 - 昭和37年(1962年)4月27日)は、日本の水墨画家・漫画家。明治初期の実業家。教育者である近藤喜則は祖父にあたる。建築家の白井晟一は義弟にあたる。 山梨県南巨摩郡睦合村(現南部町)に生まれる。近藤家は江戸時代に南部宿の本陣を務めた家柄で、父は浩一路の幼少時に病没しているが、祖父の喜則は初代県会議長を務めたほか地元で私塾を営んでおり、裕福な家庭に育つ。父の療養のため幼少時には静岡県庵原郡岩渕村で過ごし、富士川小学校を経て1902年(明治35年)に韮山中学(静岡県立韮山高校)を卒業すると上京する。 祖父からは医者になることを期待され英語学校や予備校へも通うが、文芸誌への投稿や俳句など文芸活動に熱中し、1904年(明治37年)には画家を志して洋画家の和田英作の白馬会研究所に所属し、同年9月には東京美術学校西洋画科へ入学する。
辻 永(つじ ひさし、1884年〈明治17年〉2月20日 -… 辻 永(つじ ひさし、1884年〈明治17年〉2月20日 - 1974年〈昭和49年〉7月23日)は、日本の洋画家。広島県広島市生まれ、茨城県水戸市育ち。 広島県広島市に生まれ、後に父の任地変更に伴い家族で茨城県水戸市に移り住んだ。水戸警察署長を務めた父の趣味が書画、骨董品の蒐集および草花、西洋野菜の育成であったことが永の絵画と植物の方面へ影響を及ぼした、と水戸市立博物館は2011年辻永植物画特別展の際に記している。 水戸中学校在学時代の1900年(明治33年)に白馬会会員で図画教師の丹羽林平宅に同居しつつ油絵を学び、以後東京美術学校西洋画科本科に進学し黒田清輝、岡田三郎助らに師事し洋画家となった。
塩崎 逸陵(しおざき いつりょう、1884年(明治17年) … 塩崎 逸陵(しおざき いつりょう、1884年(明治17年) – 1974年(昭和49年))は、大正時代から昭和時代にかけての日本画家。 富山県高岡市に生まれる。富山県立工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)を卒業後、東京美術学校に学び、川端玉章、寺崎広業に師事する。1915年第9回文展に「蟲の音」で初入選。以後、同展および帝展に出品。東京で制作に励み、花鳥図や風景画を描いた。
木村 百木(きむら ひゃくぼく、 Hyakuboku Kim… 木村 百木(きむら ひゃくぼく、 Hyakuboku Kimura、明治17年(1884年) - 昭和52年(1977年))は、日本の名古屋市に生まれ、制作活動をした画家、芸術家。本名は、木村春三。 京都帝国大学時代、学生の時に禅の講演を聴いて、学校を辞め、修行の道に入る。大正7年より東京(瀧野川)に移転。 昭和元年に故郷の名古屋で初の個展を開く。昭和9年、小金井で坐禅と画の道場を開き、同地にて居を構え、終生小金井で暮らした。作品傾向として水墨画、版画で木を題材とする作品がよく見られる。その他に山を題材にする作品もみられる。人物画の作品にみられる題材は仙人、仏様、達磨大師などを生涯に制作している。
高橋 甚也(たかはし じんや、1884年 - 1975年)は… 高橋 甚也(たかはし じんや、1884年 - 1975年)は、台湾総督府や東京市上下水道、戦後の仙台市復興などで活躍した都市計画家、土木技術者。 1912年に京都帝国大学工学部を卒業後すぐに台湾総督府に就職するが、1913年に帝都復興事業を担うため東京市役所に移籍。1939年まで在籍しその間に下水道課長や土木局技師長、水道局長や下水道局長を歴任。東京オリンピック開催のための給水対策などに参画。1946年以降は岡崎栄松に招かれ仙台市助役として市の戦災復興事業や上下水道網整備に関わる。当初の復興計画にあった5千坪ほどの公園内を国道が貫通する計画を曲げさせて変則的な交差をつくったり、復興事業での街路計画変更で電力や電話局との関係者移転補償協議で、電柱を無くさせて30から50メートルの広幅員道路がケヤキ並木の大樹林帯となって建設大臣表彰をもたらした。