石桁 真礼生(いしけた まれお、旧字体: 石桁 眞禮生、19… 石桁 真礼生(いしけた まれお、旧字体: 石桁 眞禮生、1916年〈大正5年〉11月26日 - 1996年〈平成8年〉8月22日)は、日本の作曲家。和歌山県生まれ。作曲家石桁冬樹は子息。石桁真礼生門下生によって結成されている作曲家のグループとして、グループ<環>がある。 東京音楽学校で下総皖一に師事。1943年の第12回音楽コンクールに「小交響曲」で入賞。後、グループ新声会に参加、ドイツ古典派に規範をおく作品を発表するが、「箏のための協奏三章」(1951年)、「箏のための組曲」(1952年)などの現代邦楽にも手を染めていく。やがて、無調や十二音技法に接近し、三好達治の詩による歌曲「鴉」(1956年)や、十二音を用いた日本最初のオペラとされる「卆塔婆小町」(1957年)、「嬰ヘとハを基音とする交響曲」(1965年)などを生み出す。
渡久地 政信(とくち まさのぶ、1916年(大正5年)10月… 渡久地 政信(とくち まさのぶ、1916年(大正5年)10月26日 - 1998年(平成10年)9月13日)は、日本の歌手、作曲家。 沖縄県国頭郡恩納村に生まれ、少年期を鹿児島県の奄美大島龍郷町で過ごす。日本大学藝術学部卒業後、1943年(昭和18年)、日本ビクターレコードより貴島正一の名で歌手デビュー。歌手時代は売れず、津村謙の前座を務めていたこともあった。津村は後に渡久地が作曲した『上海帰りのリル』で大ヒットを飛ばすことになる。 1951年(昭和26年)よりキングレコード専属の作曲家に転身(後に古巣のビクターに移籍)。以後、『上海帰りのリル』、『お富さん』、『島のブルース』など数多くのヒット曲を手掛ける。
柴田 南雄(しばた みなお、1916年〈大正5年〉9月29日… 柴田 南雄(しばた みなお、1916年〈大正5年〉9月29日 - 1996年〈平成8年〉2月2日)は、日本の作曲家、音楽評論家、音楽学者。 東京府東京市神田区駿河台袋町(現:東京都千代田区神田駿河台)に生まれ、1945年まで東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現:新宿区百人町)で暮らす。 1921年、東京女子高等師範学校附属幼稚園(現:お茶の水女子大学附属幼稚園)に入る。1923年、暁星小学校入学。1932年、暁星中学校から成城高等学校尋常科(現:成城大学)に編入。1933年、成城高等学校高等科理科甲類(英語クラス)に進んだ頃から、ピアノを岩井貞麿、ジェームス・ダンに、チェロを鈴木二三雄に、作曲を細川碧、諸井三郎に、指揮法を斎藤秀雄に師事。
知名 定繁(ちな ていはん、1916年5月6日 - 1993… 知名 定繁(ちな ていはん、1916年5月6日 - 1993年7月25日)は、沖縄民謡の歌手、作詞・作曲家。知名定男の父として知られている。 沖縄県具志川市(現在のうるま市具志川)生まれ。太平洋戦争中は現在の北九州市で暮らしながら筑豊炭田で働いていた。その際に息子の知名定男が生まれた。 戦後しばらくの間、大阪で暮らし、関西における沖縄音楽の中心的人物の一人となるが、1956年、定男ら家族を引き連れて沖縄に密航。 1957年に設立された琉球民謡協会の二代目会長に就任し、宮廷音楽湛水流の研究や箏曲譜などの編纂にも取り組んだ。 作詞・作曲家としても活躍し、名作の数々は現在でも沖縄県内で広く歌い継がれている。
木下 忠司(きのした ちゅうじ、1916年4月9日 - 20… 木下 忠司(きのした ちゅうじ、1916年4月9日 - 2018年4月30日)は、日本の作曲家。兄は映画監督の木下恵介。兄が監督した映画の音楽を数多く手掛けた。 妻は元音楽プロデューサーでiLabシリーズを販売するパントロン・ワンの創業者である木下美智子(関根光致子)。 静岡県浜松市生まれ。映画監督として有名な木下恵介の弟で、妹に脚本家の楠田芳子がいた。 静岡県立浜松第一中学校(現:浜松北高等学校)を卒業後、1934年に上京し諸井三郎に音楽理論を学び、武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)で声楽を学ぶ。1940年卒業、新交響楽団(現NHK交響楽団)の機関誌『フィルハーモニー』の編集に携わるが、応召して敗戦まで内地および支那で軍隊勤務する。
飯田 景応(いいだ けいおう、1916年2月5日 - 196… 飯田 景応(いいだ けいおう、1916年2月5日 - 1967年1月3日)は、石川県金沢市出身の作曲家・編曲家。本名:丹羽景應。別名には、木村武彦、下村信夫、相馬喜久雄、田中晴夫、藤井すすむ などがある。また、「景応」は「かげたか」とも読む。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
近藤 良三(こんどう りょうぞう、1916年(大正5年)1月… 近藤 良三(こんどう りょうぞう、1916年(大正5年)1月20日 - 没年不詳)は、日本の作曲家。元徳島大学学芸学部教授。東京音楽学校卒業。香川県高松市出身。 香川県高松市出身。1943年(昭和18年)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)を卒業。作曲を下総皖一と田中規矩士に師事した 。 徳島大学学芸学部で教授を務める傍ら、徳島県内の小中学校で数多くの学校歌を手掛け、とりわけ保科千代次が作詞を務めることが多かった。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
小倉 朗(おぐら ろう、1916年〈大正5年〉1月19日 -… 小倉 朗(おぐら ろう、1916年〈大正5年〉1月19日 - 1990年〈平成2年〉8月26日)は、日本の作曲家。本名:小倉 晋(すすむ) 、旧姓は小林。 鉄道技師小林源松の五男として福岡県門司市(現北九州市門司区)の鉄道官舎に生まれ、生後3ヶ月から東京市京橋区木挽町(現東京都中央区)の銅鉄商小倉家の養子として東京に育つ。6歳からピアノの手ほどきを受け、蓄音機やオルガン、ギター、マンドリンがある家で育つ。母から音楽家になるよう勧められ、声楽家下八川圭祐の紹介で深井史郎に師事する。易に凝っていた母から「朗」の字を贈られる。 1933年、早稲田第一高等学院仏文科にはいるが、下八川圭祐の主宰するコーラスで歌ったり、新交響楽団の打楽器の見習いなどをやり、学校は1学期で中退。
小野 衛(おの まもる、1915年8月18日 - 2001年… 小野 衛(おの まもる、1915年8月18日 - 2001年11月14日)は、日本の邦楽作曲家、演奏家。 福岡県北九州市に生まれる。雅号は猷山。幼少より邦楽に親しみ、1933年福岡県中学修猷館、1935年3月旧制福岡高等学校理科甲類を経て、東京帝国大学理学部物理学科に進学。在学中に、島村卿山に尺八、宮城道雄に箏(琴)と三弦(三味線)を学び、1937年からは尺八のパートとして宮城道雄と共演する。1938年3月に東大を卒業後、宮城道雄の養女・よし子と結婚して婿養子となり、宮城衛と改姓。一方で、諸井三郎に作曲を学んでおり、1947年には諸井門下の柴田南雄、入野義朗、團伊玖磨らと新声会を結成し、『絃楽三重奏曲』、『五重奏曲』などを発表している。
戸田 邦雄(とだ くにお、1915年(大正4年)8月11日 … 戸田 邦雄(とだ くにお、1915年(大正4年)8月11日 - 2003年(平成15年)7月8日)は、日本の作曲家。本名は戸田盛国、別名森田邦雄。 東京府本郷の東大病院で生まれ、六本木で育つ。祖父は尾崎三良。義理のおじに尾崎行雄がいる。父親はいわゆる高等遊民だったが、1927年(昭和2年)の金融恐慌で没落した。東京府青山師範学校附属小学校から東京高等学校文科乙類を経て東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東大オーケストラ部の仲間に、柴田南雄、入野義朗、繁田裕司(後の三木鶏郎)がいた。 1938年(昭和13年)に外務省に入る。ドイツ赴任中にカラヤンやフルトヴェングラーの演奏に接する。駐ソ連日本大使館勤務の後、独ソ戦の激化に伴い1941年(昭和16年)に帰国して諸井三郎に作曲を師事した。
尾崎 宗吉(おざき そうきち、1915年〈大正4年〉4月22… 尾崎 宗吉(おざき そうきち、1915年〈大正4年〉4月22日 - 1945年〈昭和20年〉5月15日)は、日本の作曲家。 静岡県で生まれ、1937年から東洋音楽学校 (現:東京音楽大学)でピアノを学ぶ。在学中からドイツより帰国した諸井三郎の門を叩き、作曲を師事した。 1936年、日本現代作曲家連盟に入会し、自作を発表、また1938年には深井史郎、安部幸明、小倉朗らと楽団プロメテを結成し活動した。1939年8月、応召を受け、北中国および南方戦線に派遣され、1942年に一旦帰還し、映画会社に勤務するも、翌1943年には再び満州および中国戦線に派遣され、1945年、江西省全県にて虫垂炎のため戦病死した。
森 一也(もり かずや、 1915年(大正4年)4月8日 -… 森 一也(もり かずや、 1915年(大正4年)4月8日 - 1998年(平成10年)2月1日)は、コロムビア専属の作曲家・音楽評論家(懐メロ解説)。愛知県出身。弟にアニメーション評論で知られる映画評論家の森卓也。 幼少の頃から詩人・西條八十の大ファンで、西條八十作の童話に親しみ、毎晩母親から読み聞かせてもらわなければ寝られぬほどであったという。昭和7年4月に愛知県の一宮中学校から明治大学附属中学校に編入、翌8年4月に家事都合で退学する。また、明治大学講堂で開かれた山田耕筰の音楽講座に出席するなど音楽についての研究に没頭し、その後、東京音楽学校(現:東京藝術大学)を卒業。一時、ビクターコンサートビューローに籍を置き、戦時中は地元名古屋で音楽教師として活躍。
上原 げんと(うえはら げんと、1914年(大正3年)12月… 上原 げんと(うえはら げんと、1914年(大正3年)12月28日 - 1965年(昭和40年)8月13日)は、昭和期の日本の作曲家。上原 絃人とも。弟も同じく作曲家の上原賢六。 よこはま・たそがれ - 長崎から船に乗って - かもめ町みなと町 - 待っている女 - 夜汽車の女 - 旅鴉 - あなたの灯 - 霧の出船 - ふるさと - 狼のバラード - 夜空 - 別れの鐘の音 - 紅い花 - 浜昼顔 - みれん - 明日の愛 - 哀恋記 - ひろしのさくら音頭 - 千曲川 - ふたりの旅路 - 愛の始発 - 北酒場 - 旅人 - どこへ帰る - 途中駅 - 風の子守唄 - 今日だけは - 灯りが欲しい - 潮どき - まだ乾かない油絵に - あしたも小雨 - 熱愛 - 惜春 - 蟬時雨 - おまえとふたり 倖せさがして - 日本橋のうた - ふたりの夜明け - 港・ひとり唄 - 越前有情 - 人生かくれんぼ - 愛しつづけるボレロ - 流れのままに - 契り - あなた - 雨あがり - 細雪 - 科学万博音頭 - 長良川艶歌 - そして…めぐり逢い - 夢しずく - 浪花盃 - 追憶 - それは…黄昏 - 港の五番町 - 絆 - 面影の郷 - フラワー&グリーン 花の輪音頭 - 暖簾 - 二枚目酒 暖簾 (ニューバージョン) - 心 - 吹きだまり/母人よ - 時が過ぎれば… - おしどり - 杯に歌のせて - 愛別 - 終着駅 - べにばな - 涙でもかまわない - 女・ひとり - 汽笛 - パパとあそぼう - 愛のバラードを…となりで - 酒 尽尽 - 由良川慕情 - 女の酒場 - 粋な男 - 出発の朝 - 罪と罰 - 紫陽花 - 雑草 - そして…花送り - 千日草 - 傷だらけの人生 - 北のともしび - 酒ひとり - 流れ星 - 萩の花郷 - 再り会い 京都恋歌 - 山河 - 風雪に吹かれて聞こえる唄は… - おふくろの子守歌 - 逢いたかったぜ - 渚の女 (ニューバージョン) - 傘ん中 - 北物語 - 望郷の詩 - 逢えて…横浜 - アカシア挽歌/雪燃えて - 大阪ナイトスキャンダル - ふりむけば日本海 - 高瀬舟 - 献身 - ゆめかぜ - この愛に死んでも - ふるさと ~'08バージョン~ - 橋場の渡し - テネシーワルツ - 江戸の手毬唄 - 凍て鶴 - 雪が降る - 紅い花
早坂 文雄(はやさか ふみお、1914年8月19日 - 19… 早坂 文雄(はやさか ふみお、1914年8月19日 - 1955年10月15日)は、日本の作曲家である。宮城県仙台市出身。 1914年(大正3年)、宮城県仙台市東一番丁(現・青葉区)で、早坂順之助・ふみ江の子として生れる。兄弟姉妹は兄(夭折)、弟、妹2人がおり、他に順之助と先妻との間に生まれた異母兄がいた。早坂家は代々宮城県志田郡三本木町の地主の家系で、祖父の代までは裕福だったと言われるが、父(順之助)の代には没落していた。1918年(大正7年)4月頃に北海道札幌市南7条西7丁目(現・中央区)に転居した。ただし、本人は生涯にわたって故郷は北海道ではなく宮城県であるという意識を持っていたという。家庭はこれといって音楽的環境ではなかったが、父は日本画をたしなみ、早坂も旧制・北海中学校(現北海高等学校)入学時には洋画家になろうと思っていたが、15歳の頃から作曲家を志すようになった。
松本 民之助(まつもと たみのすけ、1914年7月11日 -… 松本 民之助(まつもと たみのすけ、1914年7月11日 - 2004年3月15日)は、日本の作曲家、教育者。東京藝術大学名誉教授。 1936年(昭和11年)東京音楽学校甲種師範科卒業。下総皖一に作曲、伊藤武雄に声楽、福井直俊にピアノを師事する。1936年 (昭和12年) ベルリンオリンピックの芸術競技で佳作入選。1938年(昭和14年)交響曲『文覚』がワインガルトナー賞優等賞受賞。作曲家の松本日之春、松本清は息子。弟子に坂本龍一や嵐野英彦、赤石敏夫らがいる。東京芸術大学音楽学部附属高等学校で松本に師事した奥慶一によれば「非常に熱心かつ厳格」という人物評がある。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
伊福部 昭(、1914年〈大正3年〉5月31日 - 2006… 伊福部 昭(、1914年〈大正3年〉5月31日 - 2006年〈平成18年〉2月8日)は、日本の作曲家。位階は従四位。 ほぼ独学で作曲家となった。日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くの管弦楽作品や、『ゴジラ』を初めとする映画音楽のほか、音楽教育者としても知られる。北海道出身。 1914年(大正3年)、北海道釧路郡釧路町(現・釧路市)幣舞にて、警察官僚の伊福部利三、キワの三男として生まれる。小学生の時、父が音更村の村長となったため、音更村に移る。同地でアイヌと接し、彼らの生活・文化に大きな影響を受けた。代表作の一つ、『シンフォニア・タプカーラ』(1954年)は、アイヌの人々への共感と、ノスタルジアから書かれたという。
三木 鶏郎(みき とりろう、1914年〈大正3年〉1月28日… 三木 鶏郎(みき とりろう、1914年〈大正3年〉1月28日 - 1994年〈平成6年〉10月7日)は、日本の作詞家、作曲家、放送作家、構成作家、演出家である。本名、繁田 裕司(しげた ひろし)。東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)出身。 昭和前期から平成前期まで活躍した。芸名は好きなミッキーマウスと(デビュー当初、朝川賞郎、秋元喜雄と3人で活動していたことから)「トリオ」をかけたものであり、本来の読み方は「みき とりお」であったが、アナウンサーから「とりろう」と誤読されたためそれが定着した。「三木トリロー」名義での活動歴もある。 ジャズ評論家・司会者の三木鮎郎は実弟。甥(鮎郎の長男)の三木睦郎は「笑点」の放送作家。
小山 清茂(こやま きよしげ、1914年〈大正3年〉1月15… 小山 清茂(こやま きよしげ、1914年〈大正3年〉1月15日 - 2009年〈平成21年〉6月6日)は、日本の作曲家。神楽や祭囃子をモチーフに、日本情緒に満ちた温和な作風に特徴がある。 長野県更級郡信里村(現在の長野市)の出身。生家は山深い里の農家で幼少期には西洋音楽に触れることがなかったという。その代わりに彼の周りには、村の祭礼音楽やさまざまな童歌、村人達がうたう即興の唄や民謡があふれていた。小学校の高学年のころ、近くの町で行われた陸軍戸山学校軍楽隊の演奏に触れ、極めて強い印象を受ける。後に彼はそのことについて、文章の中で「まるで夢のような体験だった」というような事を述べている。やがて旧制長野中学校(現在の長野県長野高等学校)に入学、ハーモニカ合奏や短歌に熱中するようになった。
髙田 三郎(たかた さぶろう、1913年〈大正2年〉12月1… 髙田 三郎(たかた さぶろう、1913年〈大正2年〉12月18日 - 2000年〈平成12年〉10月22日)は、日本の作曲家、指揮者。合唱曲を中心に作曲を行ったほか、自作を中心に指揮者としても活躍した。日本のカトリック教会で歌われる典礼聖歌を作曲したことでも知られる。 名字は「高田」ではなく「髙田」(いわゆるはしご髙)が正式な表記である。 愛知県名古屋市に生まれる。愛知県第一中学校(現:愛知県立旭丘高等学校)を経て、武蔵野音楽学校(現:武蔵野音楽大学)師範科で呉泰次郎に和声法を師事する。次いで東京音楽学校(現:東京藝術大学)の本科作曲部を1939年に卒業し、さらに同校研究科作曲部、同校聴講科指揮部で学んだ。
髙田 三郎(たかた さぶろう、1913年12月18日 - 2… 髙田 三郎(たかた さぶろう、1913年12月18日 - 2000年10月22日)は、日本の作曲家。自作を中心に指揮者としても活躍した。
近衛 八郎(このえ はちろう、1913年〈大正2年〉11月1… 近衛 八郎(このえ はちろう、1913年〈大正2年〉11月16日 - 1995年〈平成7年〉)は昭和期の歌手、作曲家。本名は、釜田 俊雄。妻は、戦前キングレコードで活躍したミッキー松山こと松山映子(1912年‐2006年)。 新潟県佐渡郡沢根町(佐和田町を経て現在の佐渡市)出身。佐渡中学校、武蔵野音楽学校卒業。1936年(昭和11年)キングレコードから「あの夢この夢」でデビュー。「ああ我が戦友」や「男なら (軍歌)」などがヒット。その後応召により出征する。 戦後は作曲に転向し、鎌多俊与の名で作曲家として活躍。1956年(昭和31年)、三橋美智也の「哀愁列車」が大ヒットとなった。その他、若原一郎「風の吹きよで」、春日八郎「玄海船乗り」、「居酒屋」、三橋美智也「俺ら炭鉱夫」などを作曲した。
熊田 為宏(くまだ ためひろ、1913年10月20日 - 1… 熊田 為宏(くまだ ためひろ、1913年10月20日 - 1993年)は、日本の作曲家、フルート奏者。 福島県出身。下総皖一と山口正男に師事し、1941年3月に東京音楽学校甲種師範科を卒業。富山師範学校教諭、土浦高等女学校教諭、NHK仙台放送合唱団・管弦楽団常任指揮者、山形大学音楽科、宮城学院女子大学にて教鞭を取る。日本指揮者協会会員、日本フルート協会理事を歴任。NHKラジオのインターバルシグナル音楽を作曲。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
紺野 陽吉(こんの ようきち、1913年5月16日 - 19… 紺野 陽吉(こんの ようきち、1913年5月16日 - 1945年10月3日)は、山形県生まれの作曲家。 1913年、山形県西置賜郡東根村大字畔藤(現白鷹町畔藤)で生まれる。紺野家は祖父の代からの医者の家で、陽吉は男3人女3人の6人兄弟の次男であった。県立長井中学校 (現山形県立長井高等学校) を1931年に卒業し、上京する。親は医学の道を望んだが、本人は自分の好きな音楽の道へ進む。立教大学交響楽団やコンセール・ポピュレール (後の青年日本交響楽団) というセミプロ楽団でヴァイオリンを弾く。生活の糧は、当時さかんに発売されていたポピュラー音楽のレコード録音の伴奏者として得ていたものと考えられる。
金 東進(キム・ドンジン、김동진、日本名:金森東振、1913… 金 東進(キム・ドンジン、김동진、日本名:金森東振、1913年3月22日 - 2009年7月31日)は、韓国の作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者。現在の北朝鮮平安南道安州市出身で日本の日本音楽高等学校への留学経験もある。日本統治下時代にはハルピンで日本人演奏家を中心として1937年に結成された「新京交響楽団」に参加し、第一バイオリン奏者を務めた。 2008年に親日人名辞典編纂委員会より発表された親日人名辞典に名前が掲載された。2009年7月31日、ソウル特別市にて老衰で亡くなった。96歳。
川澄 健一(かわすみ けんいち、1913年2月18日 - 2… 川澄 健一(かわすみ けんいち、1913年2月18日 - 2015年3月13日)は昭和・平成期に活動した日本の作曲家。滋賀県彦根市出身。 滋賀師範学校卒業。1931年(昭和6年)度の文部省教員検定試験に合格しルドルフ・フェッチ、宮原禎次らの師事を仰ぐ。帝塚山学院高等女学校教諭や帝塚山中学校教諭を経て神戸女学院大学教授。 戦後は主にNHKや在阪民放各局の番組で劇伴を手掛け、NHK全国学校音楽コンクールや毎日新聞社主催の全日本学生音楽コンクール、JRN主催のこども音楽コンクールで長年にわたり審査員を務めた。また、近畿地方を中心に校歌や市町村歌、社歌など300曲余りを作曲し、特に詩人の竹中郁とコンビを組むことが多かった点が特筆される。
山本 秀(やまもと みのる、1913年2月9日 - 1996… 山本 秀(やまもと みのる、1913年2月9日 - 1996年10月5日)は、日本の作曲家。おもに「ひろしま平和の歌」の作曲者として知られる。 広島県出身。1936年、東京音楽学校 (旧制)(東京芸術大学音楽学部の前身)甲種師範科を卒業し、前橋市高等家政女学校(前橋市立前橋高等学校の前身)の教師となり、その後、広島県師範学校に勤め、学制改革を経て1951年からは広島大学教育学部東雲分校勤務となって、停年退官まで在職した。 山本は、地域の音楽教育関係組織である広島教育音楽連盟や広島中等教育音楽協会でも活動していた。 山本の専門は音楽教育で、音楽科の教員養成課程の学生のために多数の教科書類やピアノ教本の編集にあたり、他方では「音痴」の子どもへの歌唱指導法などについて、研究論文を発表した。
細川 潤一(ほそかわ じゅんいち、1913年〈大正2年〉1月… 細川 潤一(ほそかわ じゅんいち、1913年〈大正2年〉1月21日 - 1991年〈平成3年〉2月26日)は、日本の作曲家。本名:浅川 正躬。 福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)出身。旧制三潴中学(現・福岡県立三潴高等学校)を卒業後、同郷の先輩である古賀政男に刺激を受け、作曲家を志して上京。独学でギターと作曲を勉強し、1935年(昭和10年)からキングレコード専属作曲家として数々の作品を世に出した。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)9月、召集を受け海軍に入隊。終戦後も作曲家として活動し、三橋美智也の楽曲を多く担当した。1991年(平成3年)2月26日死去。享年78。
林 雄一郎(はやし ゆういちろう、1912年(大正元年)12… 林 雄一郎(はやし ゆういちろう、1912年(大正元年)12月31日 - 2004年(平成16年)8月19日)は、昭和時代から平成時代にかけての合唱指揮者、作曲家。 大阪市・船場で紙箱製造業を営む家庭の五男として生まれる。汎愛小学校、明星商業学校を経て1930年(昭和5年)関西学院高等商業部に入学。在学中は関西学院グリークラブに所属し、3年生より学生指揮者を務める。在籍中に後に「関学トーン」と呼ばれる独自の響きを編み出し、1933年(昭和8年)第7回競演合唱祭に初出場で優勝。 卒業後は合唱指揮、作曲・編曲で活動。特に宗教曲、歌曲、流行曲等多岐にわたる合唱編曲に力を入れ、また師事した山田耕筰から山田の全歌曲を合唱に編曲するよう依頼され精力的に取り組んだ。
斉藤 丑松(さいとう うしまつ、旧姓鹿倉(しかくら)、191… 斉藤 丑松(さいとう うしまつ、旧姓鹿倉(しかくら)、1912年12月24日 - 1994年6月4日)は日本の作曲家、ホルン奏者。茨城県猿島郡新郷村(現古河市)出身。 1912年、茨城県猿島郡に鹿倉浅之丞の四男として生まれる。1929年、海軍軍楽兵として横須賀海兵団に入団。アルトホルンを専攻する。1931年には地中海方面に派遣された練習艦隊に乗り組む。成績優秀につき1932年には東京音楽学校に練習生として派遣される。1935年に処女作である「空軍の威力」を発表して以来、帝国海軍軍楽隊のエースとして活躍。その独特の旋律は「鹿倉節」と軍楽隊関係者でよばれていた。もっとも、作品の著作権を軍楽隊員個人が持つことがふさわしくないとされたため、作品は発表当時はすべて「○○(陸軍、海軍、帝国のいずれかが入る)軍楽隊作曲・編曲」と記されるようになった。
飯田 三郎(いいだ さぶろう、1912年(大正元年)12月2… 飯田 三郎(いいだ さぶろう、1912年(大正元年)12月20日 - 2003年(平成15年)4月24日)は、昭和期の作曲家。北海道根室市出身。 初め、独学で作曲を学ぶ。根室商業学校卒業後上京し、作曲を池内友次郎、指揮を山田和男に師事する。 同じ根室出身で、根室商業学校の先輩でもある作詞家・高橋掬太郎と組み、「啼くな小鳩よ」「ここに幸あり」などの楽曲を作った。故郷を愛し、交響組曲「北国讃歌」等の根室に関連する曲を数多く作った。 1973年、ミサ曲が認められ、ローマ法王庁より褒状を授与される。 根室市総合文化会館1階には飯田三郎資料展示室がある(2022年11月26日に根室市図書館から移転)。
山田 一雄(やまだ かずお、1912年(大正元年)10月19… 山田 一雄(やまだ かずお、1912年(大正元年)10月19日 - 1991年(平成3年)8月13日)は、日本の指揮者、作曲家。本名は和雄。和男、夏精(かせい)を経て、1968年に一雄と改名した。「ヤマカズさん」の愛称で親しまれ、朝比奈隆らと並んで日本のクラシック音楽界を支えた指揮者であり作曲家。東京芸術大学名誉教授。 東京府生まれ。学習院中等科2年の頃にピアノを独学で学び、作曲にも熱中した。学習院高等科へ進学するも東京音楽学校への進学を志して休学。1931年に東京音楽学校(現東京芸術大学)ピアノ科首席卒業ののち研究課程に進み、卒業後は同校で教鞭を取るようになった。在学中からクラウス・プリングスハイムに師事し作曲を学び、作曲関連の各種の賞を獲得。
米山 正夫(よねやま まさお、1912年〈大正元年〉10月3… 米山 正夫(よねやま まさお、1912年〈大正元年〉10月3日 - 1985年〈昭和60年〉2月22日)は、日本の作曲家、作詞家である。日本コロムビア専属。別名に勝沼久、Jason Albert。生涯に1000曲以上を作曲し、美空ひばりの「リンゴ追分」など昭和のヒット曲を数多く手がけた。 東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町穏田(おんでん、現在の渋谷区)に生まれる。父親の米山正は倉知誠夫(三越会長)、山本留次、益田英作(益田孝の弟)らと東京蓄音機株式会社を設立し、専務取締役を務めた実業家。旧制成蹊高等学校尋常科に進むが、音楽の道を諦めきれずに東洋音楽専門学校(現在の東京音楽大学)へ転入する。 1934年にピアノ科を首席で卒業し、藤原義江のピアノ伴奏などで修行を重ねる。
柏木 俊夫(かしわぎ としお、1912年9月24日 - 19… 柏木 俊夫(かしわぎ としお、1912年9月24日 - 1994年12月7日)は、日本の作曲家、音楽理論家。東京学芸大学名誉教授。 兵庫県洲本市出身。『和声 理論と実習』の共著者として知られる。東京学芸大学教授、東京芸術大学講師、千葉経済大学教授を歴任。 旧制洲本中学校卒業、東京音楽学校(東京藝術大学の前身)作曲科第1期生卒業。同校で信時潔、クラウス・プリングスハイムらに師事した。 1950年、イタリアのジェノヴァでの作曲コンクールにおいてピアノ曲「芭蕉の奥の細道による気紛れなパラフレーズ」で入賞した。他には声楽曲が多い。1985年、勲三等瑞宝章を受章。 1994年12月7日、心不全のため死去。
林 伊佐緒(はやし いさお、1912年5月11日 - 199… 林 伊佐緒(はやし いさお、1912年5月11日 - 1995年9月29日)は、日本の歌手・作曲家。日本歌手協会4代目会長。 山口県厚狭郡王喜村(現下関市)生まれ。明治大学中退。1975年に紫綬褒章、1983年には勲四等旭日小綬章を受章。没後、功績により従五位を追贈されている。 父の林正二は王喜村長を務めた。旧制興風中学校時代には陸上400メートルと水泳自由形の選手。音楽も好きで、体育学校か音楽学校を志望していたが、母に反対され、明治大学商科に進む。しかし、大学への通学途中に東京高等音楽学院があることに気付き、四谷分教場ピアノ科に籍を置いて両方に通うようになり、やがて大学を中退。1934年、郷里に戻って徴兵検査を受けた後、再び上京。
倉若 晴生(くらわか はるお、本名:倉若貞司、1912年4月… 倉若 晴生(くらわか はるお、本名:倉若貞司、1912年4月27日 - 1982年11月26日)は、日本の作曲家。新潟県西頸城郡糸魚川町(現在の糸魚川市)出身。東京府立化学工業学校出身。 江口夜詩に師事し、ポリドールレコード専属作曲家となる。昭和時代初期 - 中期に活動した。 作詞家・詩人の清水みのる、歌手の田端義夫(バタヤン)とのトリオで数々のヒット曲を世に送り出した。生涯に作曲した作品は千曲を超える。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
市川 都志春(いちかわ としはる、1912年〈明治45年〉1… 市川 都志春(いちかわ としはる、1912年〈明治45年〉1月18日 - 1998年〈平成10年〉4月29日)は、日本の作曲家、音楽教育者。教育芸術社の創業者。静岡県浜松市出身。 音楽教育に力を入れ、多くの音楽教科書の著述、編集を務めたことで知られる。また、各地の学校で校歌の作曲を多く手がけている。 浜松市で生まれ、中学からは東京に移り住んだ。旧制市立ニ中(現・東京都立上野高等学校)では、福田恆存(英文学)、高橋義孝(独文学)と同期。作曲を志し、1935年に東京音楽学校の器楽部ヴァイオリン科に入り、安藤幸子、ウィリー・フライに師事した。また課外でクラウス・プリングスハイムに作曲を学び、1937年本科卒業後は研究科に進んで、信時潔に半年間作曲を学ぶ。
大築 邦雄(おおつき くにお、1911年〈明治44年〉12月… 大築 邦雄(おおつき くにお、1911年〈明治44年〉12月14日 - 1991年〈平成3年〉10月25日)は日本の作曲家。 東京市小石川区新諏訪町(現:東京都文京区後楽)出身。父は麹町女学校を創立した大築佛郎。祖父は陸軍中将の大築尚志。 東京高等学校 (旧制)理科在学中から作曲を始め、1935年、第4回音楽コンクールに「管絃楽のためのトッカータ」で入選。1936年、宮内省雅楽部募集の雅楽に基づく管弦楽曲のコンクールに「舞」(ダンス・ラント)が入選。1940年京都帝国大学文学部卒。大学在学中、1937年、管弦楽曲「行列」でワインガルトナー賞に2等入選。京都帝大卒業後は同大学院に進み、音楽理論史や日本音楽を研究。
清水 脩(しみず おさむ、1911年11月4日 - 1986… 清水 脩(しみず おさむ、1911年11月4日 - 1986年10月29日)は、日本の作曲家。カワイ楽譜(現:カワイ出版)元社長。大阪府大阪市天王寺区出身。 1932年(昭和7年)大阪外国語学校(新制大阪外国語大学の前身、現:大阪大学外国語学部)のフランス語科を卒業後、1938年(昭和12年)に東京音楽学校(現:東京芸術大学)選科に入学、橋本國彦に作曲、細川碧らに理論を学ぶ。1939年(昭和14年)、第8回音楽コンクール作曲部門で「花に寄せたる舞踏組曲」が1位入選、1950年(昭和25年)「インド旋律による四楽章」が芸術祭管弦楽曲に入選、1953年(昭和28年)に「交響曲第1番」で第1回尾高賞の佳作に入選、1955年(昭和30年)に歌劇「修禅寺物語」で伊庭歌劇賞および毎日音楽賞を受賞。
尾高 尚忠(おたか ひさただ、1911年9月26日 - 19… 尾高 尚忠(おたか ひさただ、1911年9月26日 - 1951年2月16日)は、日本の作曲家、指揮者。 東京府生まれ。幼少の頃から音楽に親しみ、東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)を経て旧制成城高等学校文科(現・成城大学)を半年で中退し、1931年にウィーンに留学、ピアノをベルタ・ヤンベール、音楽理論をリヒャルト・シュテールに学んだ。翌年一時帰国して武蔵野音楽学校で作曲科の教鞭を取り、その間作曲をクラウス・プリングスハイム、ピアノをレオ・シロタに学んだ。1934年に再びウィーンに渡り、作曲をヨーゼフ・マルクス、指揮をフェリックス・ワインガルトナーに学び、個人的にフランツ・モーザーに作曲、管弦楽法、指揮の教授を受けた。
安部 幸明(あべ こうめい、1911年〈明治44年〉9月1日… 安部 幸明(あべ こうめい、1911年〈明治44年〉9月1日 - 2006年〈平成18年〉12月28日)は日本の作曲家。 広島県広島市の軍人の家庭に生まれる。中学のころから音楽に興味を持ち始め、1929年(昭和4年)に東京音楽学校に入学してチェロを専攻。チェロをハインリヒ・ヴェルクマイスターに師事するも、やがてプリングスハイムに作曲を、ローゼンストックに指揮を学ぶ。1936年(昭和11年)新興作曲家連盟に参加。同年末服部正が創設したコンセール・ポピュレール(後の青年日本交響楽団)に、チェロ奏者として参加している。1939年に「チェロ協奏曲」でワインガルトナー賞一等賞を獲得し、深井史郎・山田一雄・小倉朗らと同人「プロメテ」を設立。
古川 太郎(ふるかわ たろう、1911年(明治44年)5月2… 古川 太郎(ふるかわ たろう、1911年(明治44年)5月20日 - 1964年(昭和39年)7月4日)は、栃木県大田原市生まれの箏曲演奏家・作曲家である。宮城道雄の高弟。代表作として、「富嶽三十六景」「箏八重奏曲」「地蔵浄土」「平調子」「足をはづされた客車」などがある。 古川太郎の門下生に、尺八家・作曲家として高名な船川利夫がいる。
岩船 雅一(いわふね まさいち、がいち、1911年〈明治44… 岩船 雅一(いわふね まさいち、がいち、1911年〈明治44年〉1月25日 - 1978年〈昭和53年〉6月9日)は日本の作曲家、ヴァイオリニスト。本名岩船 正治(いわふね しょうじ)。 1911年(明治44年)1月25日、岩手県下閉伊郡磯鶏村(現在の宮古市)に生まれる。帝国音楽学校卒業。ヴァイオリンを鈴木鎮一、指揮を尾高尚忠、作曲を大木正夫、細谷一郎に師事した。鈴木鎮一主宰の東京弦楽団を引き継ぎ同楽団の主宰を勤め、演奏活動を行う傍ら、後進への指導に尽力しており、1961年(昭和36年)3月26日には小野豊文らと共に日本弦楽指導者協会を設立し、その後17年会長を務めた。松本善三はこの協会の創立を「彼の最高の業績」と評している。
清水 保雄(しみず やすお、1910年12月5日-1980年… 清水 保雄(しみず やすお、1910年12月5日-1980年3月10日)は昭和期の作曲家。 東京市京橋区(現:東京都中央区)生まれ。明治大学卒業。明大ではマンドリン部に所属していた。 在学中に作曲家古賀政男に師事し、大学卒業後の1940年にビクターレコードの専属作曲家となる。 南方メロディにヒントを得て作った「マニラの街角で」、「バダビアの夜は更けて」がヒット。 小畑実と藤原亮子の東宝映画「婦系図」主題歌「婦系図の歌(湯島の白梅)」、同じく東宝「伊那の勘太郎」主題歌「勘太郎月夜唄」が戦時下の中大ヒットし、一躍人気作曲家となる。楽曲のほとんどを佐伯孝夫が作詞し、数々の作品を世に送り出した。 1980年3月10日、死去。
金海松(キム・ヘソン、김해송、1910年12月 - 1950… 金海松(キム・ヘソン、김해송、1910年12月 - 1950年)は、日本統治時代の平安南道价川市出身の作曲家および歌手。本名の金松奎としても知られる。作曲家としての代表曲『連絡船は旅立つ』(연락선은 떠난다)は、日本では菅原都々子が『連絡船の唄』としてカバーしたもので知られる。その時の名義は金山松夫。東洋大学卒。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
天池 真佐雄(あまち まさお、1910年9月18日 - 19… 天池 真佐雄(あまち まさお、1910年9月18日 - 1992年11月22日 本名・中野政雄)は、東京都出身の音楽家、作曲家、ピアニスト。 東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)本科卒。その後東京中央放送局(のちのNHK)の専属ピアニストに就任。特に、戦後の『のど自慢素人演芸会』や、音楽ゲーム番組『三つの歌』では出場者の伴奏を展開した。 歌手・タレントの天地総子は実の娘である。 この項目は、音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 音楽/ウィキプロジェクト 音楽)。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
平井 康三郎(ひらい こうざぶろう、1910年〈明治43年〉… 平井 康三郎(ひらい こうざぶろう、1910年〈明治43年〉9月10日 - 2002年〈平成14年〉11月30日)は、日本の作曲家。本名、平井 保喜(ひらい やすき)。 高知県吾川郡伊野町(現:いの町)出身。父親・惣太郎の影響で、家にはオルガンや蓄音器がある等、音楽的に恵まれた環境で育った。伊野小学校から、1923年(大正12年)に旧制土佐中学校(現:土佐中学校・高等学校)入学。土佐中学校在学中に当時の校長:三根円次郎(ディック・ミネの父)が生徒向けに用意していた蓄音機で音楽を聴き、独学でヴァイオリンを練習したことがNHKのラジオ番組で息子の平井丈一朗によって語られた。1929年(昭和4年)に東京音楽学校(現:東京藝術大学音楽学部)ヴァイオリン科に進学し、ローベルト・ポラックに師事して1934年(昭和9年)に卒業。
荻原 利次(おぎはら としつぐ、1910年6月6日 - 19… 荻原 利次(おぎはら としつぐ、1910年6月6日 - 1992年6月14日)は、日本の作曲家である。 大阪府に生まれる。15歳よりヴァイオリンを辻吉之助に学び、1929年(昭和4年)兵庫県甲陽中学校卒業後、日本大学国文科に籍を置くも、1933年(昭和8年)12月には中途退学した。1931年(昭和6年)から1932年(昭和7年)の間松平頼則についてピアノおよび作曲法を学び、1932年(昭和7年)自作室内楽発表会を開催後、1934年(昭和9年)には石田一郎、落合朝彦と共に独立作曲科協会を設立し、2回の発表会を行う。 1936年(昭和11年)、日本現代作曲家連盟に入会し、同年11月に上海に渡航してアレクサンドル・チェレプニンに師事して約4ヶ月間作曲法を学び、1942年(昭和17年)まで教示を受けた。
辻井 市太郎(つじい いちたろう、1910年(明治43年)5… 辻井 市太郎(つじい いちたろう、1910年(明治43年)5月25日 - 1986年(昭和61年)9月20日)は、クラリネット奏者、指揮者、作曲家、編曲家であり、日本吹奏楽指導者協会会長、日本マーチングバンド指導者協会(JMBDA)(現日本マーチングバンド協会)会長、大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)団長を務めた。 作曲家・音楽評論家・相愛大学名誉教授の辻井英世は長男、大阪音楽大学名誉教授で尼崎市吹奏楽団や近畿大学吹奏楽部など関西の著名なアマチュア吹奏楽団で指揮者をつとめた辻井清幸は次男。 明治43年(1910年)、京都府京都市に生まれる。京都両洋中学校でクラリネットと吹奏楽を学び、昭和3年(1928年)に卒業後、同年、大阪市音楽隊(昭和21年(1946年)大阪市音楽団に改称、現Osaka Shion Wind Orchestra)に入隊。
吉田 隆子(よしだ たかこ、1910年2月12日 - 195… 吉田 隆子(よしだ たかこ、1910年2月12日 - 1956年3月14日)は、日本の作曲家。阪隆、吉田たか子、西加奈子、吉原澄、吉原澄子の名義で活動していたこともある。 東京府荏原郡目黒村大字目黒(現・東京都目黒区上目黒・駒場)580番地に生まれる。父の吉田平太郎は陸軍少将で陸軍騎兵実施学校校長。兄に飯島正がいる。 4歳から山田流箏曲を習う。青山師範学校附属尋常小学校(現・東京学芸大学附属世田谷小学校)入学。1919年、父の渡満に伴い一家で東京市芝区高輪南町に転居、南高輪尋常小学校(現・森村学園初等部)に転校。 日本女子大学附属高等女学校(現・日本女子大学附属中学校・高等学校)入学。納所弁次郎からピアノを習う。
滝本 利一郎(たきもと りいちろう、1910年1月6日 - … 滝本 利一郎(たきもと りいちろう、1910年1月6日 - 1996年10月31日)は、日本の昭和時代後期に活動した作曲家。元大分放送編成部長。 1910年(明治43年)、大分県速見郡別府町(現在の別府市)に生まれる。京都高等工芸学校を卒業後、技師として朝鮮総督府に採用された。 戦後の引き揚げで大分に帰郷し、1950年(昭和25年)に大分県工業試験場技師となるが、この年に開催された第3回大分県民体育大会を記念して制定された「大分県民体育の歌」で作曲を手掛けている。1953年(昭和28年)、ラジオ大分(現在の大分放送)開局に伴い製作課長に就任。その後、東京支社勤務を経て本局編成部長に至り、大分県内を中心に校歌や社歌その他の団体歌、新民謡を数多く作曲した。