中田 正輔(なかた まさすけ、1884年12月14日 - 1… 中田 正輔(なかた まさすけ、1884年12月14日 - 1960年11月28日)は、昭和期の日本の政治家で、非公選最後及び公選初代の佐世保市長である。 佐世保市出身。早稲田大学政経科(現在の政治経済学部)を卒業し、帰郷して地元の佐世保軍港新聞の記者になったが体調を崩し2年ほどで退職して実家で農業を営む。1916年7月の長崎県議会議員補欠選挙に擁立され初当選、以後佐世保市議会議員(5期、1918年~1936年)、同議長(1930年6月~1932年3月)、さらに衆議院議員(1期、1932年~1936年)を務めた後、戦後間もない1946年8月に第12代佐世保市長に就任。翌年の初の市長選で引き続き当選、非公選1期、公選2期の計9年間に及び市長を務めた。
和田 一次(わだ かずつぐ、1884年(明治17年)5月27… 和田 一次(わだ かずつぐ、1884年(明治17年)5月27日 - 1949年(昭和24年)3月19日)は、宮崎市長。判事。 宮崎県宮崎郡清武町(現在の宮崎市)に吉田格太郎の二男として生まれ、和田重明の養子となった。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、司法官試補となった。1913年(大正2年)、判事となり、水戸区裁判所判事、水戸地方裁判所判事、東京地方裁判所判事を歴任した。 1917年(大正6年)、台湾総督府法院判官となり、台北地方法院判官、覆審法院判官、高等法院覆審部判官を歴任した。1920年(大正9年)、台湾総督府事務官に転じ、法務部民刑課長・監獄課長、法務部長、総督官房文書課長・調査課長、台湾総督秘書官を務めた。
矢吹 荘司(やぶき そうじ、1884年(明治17年)4月6日… 矢吹 荘司(やぶき そうじ、1884年(明治17年)4月6日 - 没年不明)は、福島県常磐市(現・いわき市)長(1期)。 福島県磐前郡湯本村(のち石城郡湯本村→石城郡湯本町→常磐市、現・いわき市)出身。福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)中退。地元で農業、運送業、土建業、旅館業などを営む。湯本町会議員、湯本町助役を経て、湯本町長を2期務める。1954年湯本町が市制施行し、「常磐市」が発足、これに伴い常磐市長となる。 1957年の常磐市長選挙に立候補したが、常磐炭鉱労働組合長の磯野清治に敗れた。1964年の常磐市制施行10周年の記念式典には「自治功労者」として矢吹が表彰されたが、冊子には「故矢吹荘司」と書かれていた。
村松 武美(むらまつ たけよし、1884年(明治17年)4月… 村松 武美(むらまつ たけよし、1884年(明治17年)4月3日 – 1938年(昭和13年)9月10日)は、新潟市長、内務官僚。 静岡県榛原郡勝間田村字切山(現在の島田市)に鈴木美賢の二男として生まれ、村松家の入婿となった。1913年(大正2年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。同年11月に高等文官試験に合格し、埼玉県属、埼玉県理事官、埼玉県入間郡長、新潟県理事官・農林課長、静岡県警察部長、宮城県警察部長、宮城県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、愛知県書記官・警察部長、栃木県書記官・内務部長、広島県書記官・内務部長を歴任した。 1931年(昭和6年)に海外出張を命じられ、翌年に帰国。
中村 又七郎(なかむら またしちろう、1884年(明治17年… 中村 又七郎(なかむら またしちろう、1884年(明治17年)1月26日 - 1963年(昭和38年)6月7日)は、日本の衆議院議員、初代糸魚川市長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 新潟県西頸城郡糸魚川町(現在の糸魚川市)出身。1907年(明治40年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。一年志願兵として陸軍主計少尉に任じられた。早稲田大学講師、『中央新聞』記者、『自由通信』記者を務めた後、『高田日報』主筆となり、後には高田日報社社長に就任した。また糸魚川町会議員、糸魚川町長、新潟県会議員、同参事会員に選ばれ、糸魚川町長時代には北陸線列車雪崩直撃事故の対応に尽力した。その他に帝国在郷軍人会糸魚川町分会長、同西頸城郡分会副会長、西頸城郡教育会副会長、西頸城郡水産会長、新潟県漁業組合聯合会長などを務めた。
木原 七郎(きはら しちろう、1884年(明治17年)1月2… 木原 七郎(きはら しちろう、1884年(明治17年)1月25日 – 1951年(昭和26年)12月24日)は、衆議院議員(立憲民政党)、最後の官選広島市長。ジャーナリスト。 広島県安芸郡矢野村(現在の広島市安芸区)出身。1906年(明治39年)、早稲田大学政治経済科を卒業。芸備日日新聞社に入り、1919年(大正8年)に副社長に就任し、1925年(大正14年)には社長の早速整爾の死に伴い後任の社長になった。その他に日本鋼鎖株式会社取締役、帝国通信社副社長などを務めた。 広島県会議員を経て、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3期務めた。 1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下で広島市が壊滅し粟屋仙吉市長も被爆死すると、同年10月その後任として同市長に就任、最後の官選広島市長となった。
新海 栄治(しんかい えいじ、明治16年(1883年)8月1… 新海 栄治(しんかい えいじ、明治16年(1883年)8月16日) - 昭和44年(1969年)12月22日)は、甲府市長(官選第15代、17代)。号は為水。 山梨県北巨摩郡篠尾村(現在の北杜市小淵沢町)に、父「富栄」、母「こう」の長男として生まれる。明治35年(1902年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、大正6年(1917年)1月に家督を相続し、父親の経営した甲府市白木町の「港屋酒造店」を継承。大正7年(1918年)に甲府市会議員に当選し同年5月28日から昭和5年(1930年)5月27日まで在任し、大正15年(1926年)6月12日から昭和5年(1930年)5月27日まで甲府市会議長を務めている。
吉田 勝太郎(よしだ かつたろう、1883年(明治16年)4… 吉田 勝太郎(よしだ かつたろう、1883年(明治16年)4月5日 - 1970年(昭和45年)10月22日)は第8代・第10代四日市市長。大日本帝国の内務官僚、岐阜県知事。四日市コンビナートの誘致に尽力した。四日市の名誉市民である。 愛媛県越智郡今治町(現今治市)出身。静岡県立静岡中学校に学び、野球部に所属した。第三高等学校 (旧制)を経て、1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学法律学科卒業。同年文官高等試験に合格。明治時代末期から昭和時代初期にかけて全国各地の文官を歴任した。1931年に岐阜県知事を務め、同年12月18日に休職、1932年1月29日、依願免本官となり退官した。 その後、官選市長として1934年(昭和9年)に四日市市長に就任。
川崎 正一(かわさき しょういち、1883年(明治16年)2… 川崎 正一(かわさき しょういち、1883年(明治16年)2月7日 - 没年不詳)は、大阪府岸和田市長。農学者。 大阪府泉南郡沼野村(現在の岸和田市)出身。1904年(明治37年)、東京帝国大学農科大学実科を卒業。栃木県立農学校教諭、和歌山県立農林学校教諭、有馬郡立有馬農林学校教諭を歴任。さらに静岡県農事試験場技師、同茶業組合連合会技師、京都府農業技師、同農事試験場技師を務めた。 帰郷後の1922年(大正11年)、岸和田市会議員に当選。さらに大阪府会議員、同参事会員に選ばれた。 1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)まで岸和田市長を務めた。 その他、大阪府農会副会長、泉南畜産組合長などを務めた。
坂本 森一(さかもと しんいち、1883年〈明治16年〉1月… 坂本 森一(さかもと しんいち、1883年〈明治16年〉1月7日 - 1947年〈昭和22年〉9月18日)は、内務官僚、函館市長。 下谷区(現在の台東区)の谷中墓地にある茶店おもだかやの店主坂本勝太郎の長男として生まれる。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、翌年に文官高等試験に合格。1911年(明治44年)より群馬県警部、利根郡長、佐波郡長、群馬県理事官を務めた。さらに岐阜県警察部長、兵庫県警察部長、大阪府警察部長、愛知県内務部長を歴任し、1924年(大正13年)には台湾総督府警務局長に就任した。 1929年(昭和4年)、函館市長に選出され、市の長年の懸案であった函館水電買収問題に取り組んだが、最終的な解決には至らなかった。
安田 耕之助(やすだ こうのすけ、1883年〈明治16年〉 … 安田 耕之助(やすだ こうのすけ、1883年〈明治16年〉 - 1944年〈昭和19年〉)は第八代京都市長。大蔵省出身で衆議院議員や京都市会議長などを歴任した。 安田平四郎とその妻・津留(井上嘉助三女、1860年生)の二男として京都に生まれる。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、その翌年には文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入り税務監督局に所属すると司税官、税関事務官、税務監督官、及び兼任で朝鮮総督府事務官等を務めた。 1925年(大正14年)京都市長に選出されたが、1927年(昭和2年)8月に病気を理由に辞任。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙では京都府第一区より出馬し当選(当選一回)。
岡崎 栄松(おかざき えいまつ、1882年(明治15年)12… 岡崎 栄松(おかざき えいまつ、1882年(明治15年)12月22日 - 1960年(昭和35年)4月28日)は、かつての仙台市長である。 公選による終戦後初めての仙台市長として、同市の戦災復興に尽力した。 宮城県名取郡秋保村(現在の仙台市太白区西部)長袋字町に生まれ、宮城師範学校を経て日本大学法律学科に進学した。 大学卒業後は教育者となり、丸森小学校(宮城県丸森町)訓導、岩出山小学校(同・岩出山町)校長、宮城県桃生郡視学(教育行政官)を経て、1916年(大正5年)には宮城県県視学に就任した。 1919年(大正8年)からは行政職に転じ、横浜市役所、東京市社会局保護課長、同福利課長、同監査課長、同下谷区長、同大森区長、同電気局電灯部長を歴任した。
中村 藤兵衛(なかむら とうべえ、1882年〈明治15年〉1… 中村 藤兵衛(なかむら とうべえ、1882年〈明治15年〉11月3日 - 1949年〈昭和24年〉11月30日)は、日本の貴族院勅選議員、太田市長。 群馬県新田郡太田町(現在の太田市)に太田保次郎の長男として生まれ、中村勘蔵の婿養子となった。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。翌年より会計検査院書記となり、同副検査官となった。1915年(大正4年)より衆議院書記官も兼任し、1923年(大正12年)より衆議院書記官長を務めた。1930年(昭和5年)に退官した後は国政研究会を主宰した。1935年(昭和10年)より内閣調査局(のち企画庁)参与を務めた。この間、文官普通試験委員長、臨時議員建築局、大蔵省営繕管財局各参与、大礼使事務官、議会制度審議会臨時委員などを務めた。
青木 雷三郎(あおき らいさぶろう、1881年(明治14年)… 青木 雷三郎(あおき らいさぶろう、1881年(明治14年)12月26日 - 1960年(昭和35年)7月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、明石市長。弁護士。 岡山県浅口郡富田村(現在の倉敷市)に尾藤廉平の三男として生まれ、青木与八郎の養子となった。1912年(大正元年)、弁護士試験に合格。翌年に中央大学法科を卒業し、弁護士を開業。後に神戸弁護士会会長に選ばれた。1920年(大正9年)、明石市会議員に選出され、議長に当選した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回、第19回でも再選された。1937年(昭和12年)、明石市長に就任した。1946年(昭和21年)、明石市長を辞任した。
高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1881年〈明治14年… 高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1881年〈明治14年〉12月24日 - 1943年〈昭和18年〉4月3日)は、実業家、2代豊橋市長。 1881年(明治14年)12月24日、愛知県八名郡賀茂村の竹尾準の次男、竹尾茂彦として生を受ける。札幌農学校卒。 1907年(明治40年)、豊橋市船町の問屋業高橋小十郎(久助)の養子となる。 1912年(明治45年)、初代豊橋市長大口喜六の後を継ぎ2代市長に就任する。 1913年(大正2年)、飯村溜池不正事件の責を負い辞任。先代の大口市長も疑獄事件に関連して辞任したが、結局2代続けて市政の不正事件に関連して市長が辞任する事態となった。 1918年(大正7年)、実父である竹尾準の後任として三遠銀行頭取に就任し、同年豊橋商業会議所会頭にもなる。
時実 秋穂(ときざね あきほ、1881年(明治14年)11月… 時実 秋穂(ときざね あきほ、1881年(明治14年)11月22日 - 1962年(昭和37年)1月21日)は、内務官僚、福岡市長、岡山市長、玉野市長。 岡山県邑久郡長浜村(現在の瀬戸内市)に時実惣次郎の長男として生まれた。1907年(明治40年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年に高等文官試験に合格し、翌年に岩手県事務官に任じられた。その後、徳島県事務官・警察部長、愛媛県警察部長、島根県警察部長、茨城県内務部長を歴任した。1919年(大正8年)、朝鮮総督府忠清南道知事に転じ、朝鮮総督府監察官を経て、1923年(大正12年)に京畿道知事に任じられた。 1926年(大正15年)に福岡市長に選出され、5年間在任した。
林 寿夫(はやし としお / ひさお、1881年(明治14年… 林 寿夫(はやし としお / ひさお、1881年(明治14年)5月2日 - 1963年(昭和38年)12月21日)は、実業家、官僚、南洋庁長官、第4代埼玉県川越市長。 岡山県出身。林源一の弟。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。高等文官試験に合格して、愛媛県属となり、同県警視、宮崎県理事官、鹿児島県・山口県・北海道各警察部長、埼玉県書記官・同内務部長、北海道庁内務部長を歴任し、1930年(昭和5年)に退官した。 1931年(昭和6年)、川越市長に就任するが、翌年1月に関東庁警務局長に転じた。 1933年(昭和8年)8月に南洋庁長官に任ぜられ、1936年(昭和11年)9月までその職にあった。
土屋 寛(つちや ゆたか、1880年(明治13年)12月10… 土屋 寛(つちや ゆたか、1880年(明治13年)12月10日 - 1950年(昭和25年)11月12日)は、衆議院議員(立憲民政党)、尾道市長。 広島県御調郡栗原村(のち栗原町、現尾道市)出身。御調郡書記を務めた後、1909年(明治42年)に栗原村の村長に選出され、町制施行後も町長を務めた。また、広島県会議員に選出され、県会の郡部会議長にも就任した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選。当選回数は合計で4回を数えた。その間、1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)にかけて尾道市長を務めた。 戦後、日本進歩党の結成に参加するが、大政翼賛会の推薦議員だったため、間もなく公職追放となった。
釘本 衛雄(くぎもと もりお、1880年(明治13年)5月2… 釘本 衛雄(くぎもと もりお、1880年(明治13年)5月25日 - 1949年(昭和24年)6月23日)は、衆議院議員(立憲民政党)、福島市長。 福島県双葉郡幾世橋村(現在の浪江町)出身。浪江郵便局で通信事務員として働いた後、早稲田大学高等予科で学んだ。福島新聞社で記者、主筆を務めた後、福島民友新聞社副社長を経て、1936年(昭和11年)に福島新聞社社長に就任した。 また福島県会議員に4度選出され、1931年(昭和6年)からは議長を2度務めた。1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。 1945年(昭和20年)から2年間福島市長を務めた。戦後、公職追放となり、追放中の1949年(昭和24年)に死去した。
橋本 定五郎(はしもと さだごろう、1880年〈明治13年〉… 橋本 定五郎(はしもと さだごろう、1880年〈明治13年〉3月7日 - 1947年〈昭和22年〉12月13日)は、日本の医師(外科医)、政治家・第6代埼玉県川越市長、実業家。川越同仁社長。 青森県八戸市十三日町生まれ。長助の五男。東京帝国大学医科大学卒業。医師開業。1923年、川越市医師会長就任。1926年、川越産婆看護婦学校長就任。川越産院長就任。 1930年、埼玉県医学会頭就任。1933年、川越脳病院管理者就任。1935年、川越市長就任。1936年、武州瓦斯監査役就任。 宗教は浄土宗。趣味は書画、盆栽。住所は川越市大字小仙波。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
橋爪 勇(はしづめ いさむ、1880年(明治13年)2月21… 橋爪 勇(はしづめ いさむ、1880年(明治13年)2月21日 - 没年不詳)は、佐賀市長。弁護士。 佐賀県佐賀市出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。同年、司法官試補となる。1911年(明治44年)に長野地方裁判所判事、米子区裁判所判事となったが、翌年に退官した。退官後は佐賀市で弁護士事務所を開業し、また高取鉱業株式会社監査役・肥前電気株式会社取締役も務めた。1916年(大正5年)、佐賀市会議員に当選し、副議長、議長を歴任した。 1936年(昭和11年)、佐賀市長に選出され、1946年(昭和21年)まで務めた。その後、公職追放となった。
御厨 規三(みくりや のりぞう、1879年(明治12年)11… 御厨 規三(みくりや のりぞう、1879年(明治12年)11月3日 – 1941年(昭和16年)8月20日)は、津市長、佐世保市長。族籍は佐賀県士族。 佐賀県小城郡多久村(現在の多久市)に御厨利貞の長男として生まれる。1902年(明治35年)、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。警視庁警部、台湾総督府警視、台湾総督府専売局煙草課長、南投庁長、高雄州内務部長を歴任した。 1922年(大正11年)、津市長に選出され、1925年(大正14年)まで在任した。翌年には東京市社会局長に就任し、1928年(昭和3年)まで在任した。1930年(昭和5年)に佐世保市長に選出され、1934年(昭和9年)まで務めた。
牛塚 虎太郎(うしづか とらたろう、1879年(明治12年)… 牛塚 虎太郎(うしづか とらたろう、1879年(明治12年)4月28日 - 1966年(昭和41年)11月1日)は、東京市長および衆議院議員を歴任した官僚、政治家。
中野 治介(なかの じすけ、1878年(明治11年)5月7日… 中野 治介(なかの じすけ、1878年(明治11年)5月7日 - 1951年(昭和26年)3月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、山口市長。弁護士。 山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)出身。1898年(明治31年)に裁判所書記登用試験に合格し、裁判所書記となった。1903年(明治36年)に弁護士試験に合格して弁護士となり、後には山口弁護士会会長に選出された。山口町会議員、山口県会議員、同議長を歴任。 1933年(昭和8年)、山口市長に選出された。その後、1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、山口土地建物株式会社監査役を務めた。
大須賀 巌(おおすが いわお、1878年(明治11年)5月 … 大須賀 巌(おおすが いわお、1878年(明治11年)5月 – 1945年(昭和20年)12月)は、香川県丸亀市長。弁護士。 千葉県出身。衆議院議員大須賀庸之助の長男。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。群馬県属・警部、前橋市助役、福岡市助役を歴任。1920年(大正9年)から都市計画大阪地方委員会幹事を務めた。 1923年(大正12年)、丸亀市長に就任。 市長退任後、時事新報社市政研究所専務理事を1933年(昭和8年)まで務めた。その後は弁護士を開業した。
岸本 康通(きしもと やすみち、1878年〈明治11年〉3月… 岸本 康通(きしもと やすみち、1878年〈明治11年〉3月23日 - 1930年〈昭和5年〉9月19日)は、衆議院議員(立憲政友会)、宇治山田市(現在の伊勢市)市長。 岡山県和気郡山田村(現在の和気町)出身。1902年(明治35年)に日本大学を、1904年(明治37年)に法政大学を卒業した。法政大学卒業の前年に判検事登用試験に合格し、司法官試補、東京地方裁判所検事、陸軍法官部理事、関東都督府理事、第11師団法官部長、大阪府警視、群馬県警察部長、佐賀県内務部長、三重県内務部長を歴任した。1921年(大正10年)、宇治山田市長に就任し、1924年(大正13年)まで在任した。退任後は、弁護士業務に従事した。
鈴木 英雄(すずき ひでお、1877年〈明治10年〉11月3… 鈴木 英雄(すずき ひでお、1877年〈明治10年〉11月30日 - 1962年〈昭和37年〉3月8日)は、農商務官僚、衆議院議員、小田原市長。 神奈川県足柄下郡小田原町(現在の小田原市)出身。鈴木善左衛門の長男。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。農商務属、同書記官・参事官、水産局漁政課長、大臣官房課長、特許局長を歴任した。 官を辞し、漁業を営み傍ら会社の重役である。日本漁網船具社長、小田原魚市場社長などを務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。立憲政友会に所属。合計で4回の当選を重ねた。1944年(昭和19年)には小田原市長に選出された。
神戸 正雄(かんべ まさお、旧字体:神戶 正雄、1877年(… 神戸 正雄(かんべ まさお、旧字体:神戶 正雄、1877年(明治10年)4月19日 - 1959年(昭和34年)10月16日)は、日本の法学者・経済学者・政治家(京都市長で、公選第一号の市長)。文化功労者。愛知県一宮市出身。 日本における消費税提唱の先駆者として知られる。 1877年(明治10年)、愛知県一宮に生まれる。旧制愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)、三高、一高を経て、1900年東京帝国大学法科大学政治科卒業、同大学大学院(財政学専攻)卒業。 1902年京都帝国大学法科大学助教授に就任。1904年(明治37年)ドイツ・イギリスに留学する。海外渡航が極めて困難な時代にあって、視察旅行とは違い実際に現地に居住し学究できたことは、神戸の人格形成に大きな影響を与えたと言われている。
当間 重慎(とうま じゅうしん、1876年(明治9年)8月1… 当間 重慎(とうま じゅうしん、1876年(明治9年)8月11日 - 1923年(大正12年)9月22日)は、戦前の沖縄県の政治家で初代那覇市長。 政治家の当間重剛・重民兄弟の父である。 明治9年(1876年・光緒2年)6月7日に琉球藩具志川間切(現沖縄県うるま市)で生まれた。明治16年(1883年)に那覇に移る。明治34年(1901年)に上京し、東京専門学校(現早稲田大学)に入学するが病気のため中退し、那覇に戻った。 那覇では琉球新報の記者になったが、まもなく退職し「沖縄毎日新聞」を創刊する。沖縄毎日新聞では、那覇住民の立場に立った論陣をはった。 明治42年(1909年)の沖縄県会発足に際して、議員に選出され政治家としての一歩を歩みだした。
相良 歩(さがら あゆみ、1876年(明治9年)5月25日 … 相良 歩(さがら あゆみ、1876年(明治9年)5月25日 – 1955年(昭和30年)11月20日)は、金沢市長。 石川県士族相良豊の長男として生まれる。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、内務属となる。その後、高等文官試験に合格し、愛媛県参事官、長崎県参事官、群馬県事務官・第一部長兼第三部長、宮城県事務官、和歌山県内務部長、山形県内務部長を歴任した。1917年(大正6年)より樺太庁内務部長を務めた。 1922年(大正11年)、金沢市長に選出され、2期8年在任した。
青木 周三(あおき しゅうぞう、1875年(明治8年)8月2… 青木 周三(あおき しゅうぞう、1875年(明治8年)8月26日 - 1946年(昭和21年)12月1日)は、日本の鉄道官僚、貴族院勅選議員、横浜市長。 山口県大島郡久賀町(現在の周防大島町)出身。青木周哲の三男として生まれ、青木五百輔の養子となる。盛岡中学を経て、1898年(明治31年)第二高等学校卒業。1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業後、鉄道書記となり、1904年(明治37年)に高等文官試験に合格した。その後、鉄道事務官、鉄道庁参事、鉄道院参事、鉄道院理事を歴任した。 1919年(大正8年)筑豊鉄道専務取締役。1921年(大正10年)横浜市電気局長に就任し、1923年(大正12年)には助役として関東大震災の対応に尽力した。
小野 廉(おの すなお、1875年(明治8年)2月12日 -… 小野 廉(おの すなお、1875年(明治8年)2月12日 - 1952年(昭和27年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、大分市長、別府市長。弁護士。 大分県大分郡、のちの阿南村(庄内村、庄内町を経て現由布市)で医者の家に生まれる。大分中学校を経て、1902年(明治35年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。弁護士を開業し、後に大分弁護士会長を務めた。大分市会議員、同参事会員、大分県会議員、同参事会員、同議長に選出された。1935年(昭和10年)、別府市長に就任した。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回でも再選された。その間、1938年(昭和13年)に大分市長に選出された。
石原 留吉(いしはら とめきち、1875年(明治8年)2月 … 石原 留吉(いしはら とめきち、1875年(明治8年)2月 - 1940年(昭和15年)12月8日)は、高松市長。 香川県木田郡西植田村(現在の高松市)出身。井口秀八の二男として生まれ、石原キクの養子となった。1896年(明治29年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、1904年(明治37年)に高等文官試験に合格した。岐阜県知事官房主事、千葉県君津郡長、岡山県内務部第三課長を歴任。 1909年(明治42年)に韓国政府応聘者となり、韓国併合後は京城府書記、慶尚南道事務官、京城府事務官、新義州府尹、元山府尹を歴任した。 退官後の1924年(大正13年)から高松市長を務めた。
佐藤 信安(さとう のぶやす、1874年〈明治7年〉4月5日… 佐藤 信安(さとう のぶやす、1874年〈明治7年〉4月5日 - 1964年〈昭和39年〉8月1日)は、内務官僚、広島市長。 島根県松江市生まれ。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となった。その後、1900年(明治33年)に東京帝国大学大学院に入学し、同年には歩兵第21連隊に召集された。1902年(明治35年)、司法官試補を辞職して弁護士を開業した。1909年(明治42年)より検事となり、各地方の裁判所に勤務した。1913年(大正2年)、熊本県警察部長に転じ、翌年には山口県警察部長に就任した。さらに福島県内務部長を務めた。 1922年(大正11年)4月17日から1925年(大正14年)1月21日まで第14代広島市長を務めた。
川合 直次(かわい なおじ、1874年(明治7年)2月21日… 川合 直次(かわい なおじ、1874年(明治7年)2月21日 - 1938年(昭和13年)8月4日)は、衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→立憲民政党)、新潟県高田市長。 新潟県頸城郡直江津町出身。1899年(明治32年)、中頸城郡会議員に選ばれ、1903年(明治36年)には新潟県会議員に選ばれた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選された。 1924年(大正13年)、高田市長に選出され、1936年(昭和11年)に辞職するまで3期務めた。在職中は上下水道の整備に尽力した。 市長退任後、第19回衆議院議員総選挙(新潟県第4区)に出馬し、当選。
黒谷 了太郎(くろたに りょうたろう、1874年1月23日 … 黒谷 了太郎(くろたに りょうたろう、1874年1月23日 - 1945年5月11日)は、日本の官吏、都市計画家、第3代旧鶴岡市長。 酒田県田川郡鶴岡(現・山形県鶴岡市)生まれ。名古屋の都市計画に携わっていた折、イギリスの田園都市の設計を担当したレーモンド・アンウィンに教えを請うたことがきっかけで、アンウィンに傾倒するようになる。田園都市思想を日本の事情を踏まえたうえで、「山林都市」という形で具現化すべく提唱するも、賛同を得るに至らなかった。後に請われて生地、鶴岡市の市長となるも、教育人事をめぐる政争がきっかけで、排斥運動が起き、辞任する。名古屋時代の部下に石川栄耀がいる。石川のことを可愛がり、親しい友人でもあった。
柴崎 雪次郎(しばさき ゆきじろう、1873年(明治6年)3… 柴崎 雪次郎(しばさき ゆきじろう、1873年(明治6年)3月13日 - 1929年(昭和4年)8月10日)は、日本の教育者、新潟市長。 埼玉県比企郡東吉見村(現在の吉見町)出身。1894年(明治27年)、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。高田商会勤務の後、1897年(明治30年)に京都府商業学校教諭となり、新潟市立商業学校教諭、1899年(明治32年)同校長を歴任した。1901年(明治34年)より海上運送学研究のため、イギリス・フランス・ベルギーに留学。1905年(明治38年)に帰国し、神戸高等商業学校(現神戸大学)教授を務めた。1909年(明治42年)、長崎高等商業学校(現長崎大学)校長に転じ、1913年(大正2年)まで務めた。
窪谷 逸次郎(くぼたに いつじろう、1873年(明治6年)1… 窪谷 逸次郎(くぼたに いつじろう、1873年(明治6年)1月27日 - 1937年(昭和12年)7月26日)は、内務官僚、岡山市長。 岡山県浅口郡船穂町(現在の倉敷市)出身。坪井良一郎の二男として生まれ、窪谷勝蔵の養子となった。1896年(明治29年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1900年(明治33年)、判事検事登用試験に合格し、さらに高等文官試験にも合格した。1902年(明治35年)に検事となり、東京区裁判所・東京地方裁判所に勤務した。翌年、辞職して弁護士を開業した。 その後内務属として内務省に入り、大阪府警視、関東州民政署警視、関東都督府事務官兼参事官、統監府書記官、佐賀県事務官・警察部長、熊本県事務官・警察部長、高知県内務部長、群馬県内務部長を歴任した。
金山 米次郎(かなやま よねじろう、1872年6月29日(明… 金山 米次郎(かなやま よねじろう、1872年6月29日(明治5年5月24日)- 1941年(昭和16年)5月29日)は、富山市長。弟は安田銀行下谷支店長を務めた金山音治。 富山県富山市出身。青雲の志を抱き東京に出る。東京芝新銭座町4番地(現・東京都港区東新橋2丁目)にあった吏党系の壮士の集う「青年義勇団」に所属しようとしたが若すぎた為、年齢を2歳偽り所属した。実年齢20歳(公称22歳)の時、1891年(明治24年)5月29日、板垣退助を総理(総裁)に迎えた自由党は「国家主義(極右)と社会主義(極左)とはともに国を滅ぼす」とし、その中庸を目指す自由党の自由主義こそが国家を津々と発展させるものであるとして国家が歩むべき方向性を示す宣言を行い、10月15日に自由党は党大会を開いて党則を改正したが、国家主義を標榜し民党と対立する吏党に所属する米次郎は、自由党の方向性と板垣に対して憤りを覚えた。
稲見 貞蔵(いなみ ていぞう、1872年(明治5年5月)- … 稲見 貞蔵(いなみ ていぞう、1872年(明治5年5月)- 没年不詳)は、三重県四日市市長。 秋田県秋田市出身。1892年(明治25年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。滋賀県属、奈良県属、内務省地方局勤務、新潟県佐渡郡長、同北蒲原郡長、新潟県勧業課長、北海道庁空知支庁長を歴任した。1916年(大正5年)に退官し、三井炭鉱庶務課長、新潟市貯蓄銀行支配人を務めた。 1918年(大正7年)、四日市市長に選出され、1期在任。退任後の1923年(大正12年)、旭川市助役に選ばれた。 その後東京市麻布区長を務めた。
鹿又 武三郎(かのまた たけさぶろう、明治3年3月13日(1… 鹿又 武三郎(かのまた たけさぶろう、明治3年3月13日(1870年4月13日) - 1933年(昭和8年))は、仙台市長。検事。弁護士。 仙台出身。1895年(明治28年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、判事検事登用試験に合格した。1898年(明治30年)、湯沢区裁判所検事となり、奈良地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事、名古屋地方裁判所検事、富山地方裁判所検事正、名古屋控訴院検事、旭川地方裁判所検事正などを歴任した。 1919年(大正8年)、仙台市長に就任し、2期8年務めた。3期目を目指した1927年(昭和2年)8月の仙台市長選挙では、市会(市議会)投票において13票を獲得するも、15票を獲得した山口龍之助に及ばず落選した(当時の市長は公選ではなかった)。
山村 豊次郎(やまむら とよじろう、明治2年3月16日(18… 山村 豊次郎(やまむら とよじろう、明治2年3月16日(1869年4月27日) - 昭和13年(1938年)9月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、宇和島市長。 宇和島藩士村松喜久造の二男として生まれ、翌年に同藩士山村正の養子となった。1895年(明治28年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、弁護士試験に合格。翌年に宇和島市で弁護士事務所を開業した。 1906年(明治39年)、衆議院補欠選挙に当選。1920年(大正9年)から翌年まで宇和島町長を務めた。宇和島に市制が施行されると市会議員となり、議長に選出された。1922年(大正11年)から宇和島市長を務めた。その間、宇和島運輸株式会社取締役・宇和島鉄道株式会社取締役・南予時事新報社長などを兼ねた。
高柳 覚太郎(たかやなぎ かくたろう、慶応3年10月3日(1… 高柳 覚太郎(たかやなぎ かくたろう、慶応3年10月3日(1867年10月29日) - 昭和12年(1937年)12月21日)は、衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→革新倶楽部)、浜松市長。 遠江国敷知郡北庄内村(現在の静岡県浜松市中央区)に、高柳源四郎の長男として生まれる。1890年(明治23年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、代言人の免許を受け、浜松市で弁護士として活動した。 県会議員を経て、1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は4回を数えた。また浜松市会議員、市参事会員としても活動した。 1933年(昭和8年)、浜松市長に選ばれ、翌年まで務めた。
岩崎 一高(いわさき かずたか、慶応3年2月15日(1867… 岩崎 一高(いわさき かずたか、慶応3年2月15日(1867年3月20日) - 昭和19年(1944年)3月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、松山市長。 伊予国松山に伊予松山藩士岩崎一正の子として生まれる。1886年(明治19年)、専修学校(現在の専修大学)を卒業。卒業後は松山に戻って、海南新聞社の経営に加わり、自由民権思想の普及に尽力した。 1919年(大正8年)、衆議院補欠選挙に出馬し、当選。翌年の総選挙には落選したものの、1923年(大正12年)に松山市長に選出された。さらに道後湯之町長を務め、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に当選した。 その他、松山高等商業学校(現在の松山大学)の理事を務めた。
大喜多 寅之助(おおきた とらのすけ、慶応2年11月20日(… 大喜多 寅之助(おおきた とらのすけ、慶応2年11月20日(1866年12月26日) - 1961年(昭和36年)2月13日)は、名古屋市長。弁護士。 美濃国大垣出身。1866年に父・次助と母・幸の第6子(五男)として生まれる。大垣小学校、岐阜華陽学校大垣分校、大学予備門、第一高等中学校を経て、1888年(明治21年)に東京帝国大学法科大学に入学した。1892年(明治25年)に卒業した後は名古屋市で弁護士事務所を開業した。弁護士業務のかたわら、愛知法律学校を創設して校長に就任し、また『金城新報』の編集監督も務めた。1896年(明治29年)には名古屋弁護士会長に選出された。 名古屋市会議員、同参事会員、名古屋市会議長に選出され、1921年(大正10年)には名古屋市長に就任した。
麓 純義(ふもと すみよし、元治3年8月28日(1864年9… 麓 純義(ふもと すみよし、元治3年8月28日(1864年9月28日) - 昭和10年(1935年)2月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)、那覇市長。 大隅国大島郡笠利村(現在の鹿児島県奄美市)出身。東京法学院(現在の中央大学)に入学し、在学中の1889年(明治22年)に代言人試験に合格した。翌年に東京法学院を卒業し、弁護士を開業するが、1892年(明治25年)に那覇地方裁判所が開庁すると、那覇に移って弁護士業務に従事した。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第11回・第14回・第15回と4回当選を果たした。その間、1923年(大正12年)から1925年(大正14年)まで、那覇市長を務め、初等教育や社会教育に力を入れた。
西川 太治郎(にしかわ たいじろう、元治元年5月17日(18… 西川 太治郎(にしかわ たいじろう、元治元年5月17日(1864年6月20日) - 昭和17年(1942年)6月15日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、大津市長。 近江国浅井郡南浜村(現在の滋賀県長浜市)出身。同人社で学んだ後、1888年(明治21年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業した。卒業後、山梨日日新聞の記者となり、3年後に近江新報に主筆として招かれ、1896年(明治29年)には社長に就任した。その一方で、前田正名の地方産業振興運動に加わって全国を奔走。さらに農商務省の嘱託として、1898年(明治31年)に清の商工業を視察、1903年(明治36年)には北清やシベリアでの日本製品販売の調査を行った。
堀 信次(ほり しんじ、文久4年1月11日(1864年2月1… 堀 信次(ほり しんじ、文久4年1月11日(1864年2月18日) - 昭和21年(1946年)6月22日)は、日本の内務官僚、甲府市長。 富山県出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学法科大学を卒業。北海道庁属、拓殖務省参事官、内務省事務官・参事官、島根県書記官、同事務官、東京府事務官、神奈川県事務官を歴任し、1914年(大正3年)に樺太庁内務部長に就任した。退官後、中央生命保険相互会社取締役となった。 1919年(大正8年)から1922年(大正11年)まで甲府市長を務めた。
石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(18… 石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(1863年9月13日) – 昭和13年(1938年)9月12日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弘前市長。 弘前に生まれ、東奥義塾を卒業した。1889年(明治22年)、弘前市会議員となり、1891年(明治24年)には中津軽郡会議員となった。1896年(明治29年)、青森県会議員に選出され、1903年(明治36年)には議長に就任した。1907年(明治40年)、県会議長に再選され、弘前市会議長も兼ねた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1期務めた。1913年(大正2年)、再び市会議員となり、さらに1918年(大正7年)・1922年(大正11年)・1934年(昭和9年)の3度、弘前市長に選出された。
斎藤 研一(さいとう けんいち、1861年7月27日(文久元… 斎藤 研一(さいとう けんいち、1861年7月27日(文久元年6月20日)- 没年不詳)は、日本の大阪府堺市長。香川県丸亀市長。 讃岐国多度郡善通寺村(現在の香川県善通寺市)出身。1881年(明治14年)、仲多度郡書記となる。1884年(明治17年)、大阪府に転任し、1900年(明治33年)に北河内郡長に就任した。 1910年(明治43年)、堺市長に就任し、税制の整理や教育機関の充実を行った。 1915年(大正4年)、丸亀市長に選出された。 1917年(大正6年)、堺市長に再選され、周辺町村の編入や堺市立商業学校の創設などの功績をあげた。