井上 八郎(いのうえ はちろう、1816年11月5日(文化1… 井上 八郎(いのうえ はちろう、1816年11月5日(文化13年9月16日) - 1897年(明治30年)4月2日)は、江戸時代の武士・剣客・幕府軍人。名は清虎(きよとら)、号は延陵(えんりょう)。 延岡藩藩士井上主膳の子として日向国東臼杵郡延岡に生まれる。 1828年(文政11年)、江戸へ出て千葉周作(北辰一刀流)の道場・玄武館に入門。 1851年(嘉永4年)、飛騨郡代・小野高福に招聘され飛騨高山(現 岐阜県高山市)に赴く。同地で高福の子の小野鉄太郎(後の山岡鉄舟)に剣術を教える。 幕末期に幕臣となり、講武所剣術師範役並、遊撃隊頭取、歩兵奉行を歴任。 明治維新で静岡へ転じ、浜松城代、中泉奉行等を務める。
浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日〈1816年… 浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日〈1816年7月3日〉 - 1880年〈明治13年〉2月17日)は、江戸時代末期(幕末)、明治時代の幕臣(旗本)、蔵書家、書画家、芸術鑑定家。字は胤卿、通称は金之丞、号の梅堂で知られる。官途は中務少輔、和泉守、備前守など。他に池香、蔣潭、蝦侶斎漱芳閣、楽是幽居、柏洪楼とも名乗った。 文化13年(1816年)、江戸飯田町(現・千代田区)で旗本浅野長泰(号は金谷)の子として生まれる。家系は播磨赤穂藩浅野家の支族(家原浅野家)で、家禄3500石の上級旗本であった。幼少より父から漢詩・和歌・俳句等を学び、書画をよくした。出羽亀田藩主岩城隆喜の3女直子と結婚。
菊池 金吾(きくち きんご、1812年10月12日(文化9年… 菊池 金吾(きくち きんご、1812年10月12日(文化9年9月9日) - 1893年(明治26年)5月4日)は、江戸時代から明治時代の武士(盛岡藩士)、実業家。明治期に盛岡一の大富豪となった。 陸奥国稗貫郡亀ヶ森村(現在の岩手県花巻市大迫町)にて盛岡藩上級武士の藤枝宮内家臣(藩主から見れば陪臣)菊池弥兵衛、セキの三男として生まれた。父弥兵衛は金吾を医者にしようと、紫波郡郡山駅(現在の紫波町日詰と二日町の上町・下町を合わせた通称地名)に住む木村某という医師に預けたが、数日で脱走し実家に帰った。 1826年(文政9年)、盛岡に出て藩の重臣である加判役の花輪伊豆守に仕えた。後に同藩士大石貫一郎家に養子として入り、大石金吾と名乗る。
小南 五郎(こみなみ ごろう、文化9年(1812年)10月 … 小南 五郎(こみなみ ごろう、文化9年(1812年)10月 - 明治15年(1882年)2月22日)は、幕末の土佐藩士。名は良和。通称は五郎、五郎右衛門。迅衝隊士。 土佐国土佐藩下土佐郡大川筋(現高知県高知市大川筋2丁目)に生まれる。 大目付をつとめ、1853年に山内容堂より側用役として抜擢される。 安政の大獄時には、井伊直弼の容堂に対する追及をかわす為に、小南などの重臣が身代わりとなって幽閉処分を受ける。のちに復帰し大目付に就任するが、尊皇攘夷主義の土佐勤皇党に協力的だったため、勤皇党弾圧時には任を解かれ、失脚。勤皇党盟主武市瑞山をはじめ、平井収二郎、間崎哲馬ら同志が相次いで切腹に追い込まれる中、小南も武士の位を剥奪され、町人と同じ位に落とされるという屈辱的な処罰を受ける。
柴田 花守(しばた はなもり、文化6年1月8日〈1809年2… 柴田 花守(しばた はなもり、文化6年1月8日〈1809年2月21日〉- 1890年〈明治23年〉7月11日)は、幕末の武士、宗教家(神道家)。富士講一派の不二道の10代教主。教派神道である実行教の初代菅長。 文化6年(1809年)1月8日、佐賀藩支藩の小城藩藩士・柴田礼助の子として、肥前国小城郡桜岡東子路の鍋島大学邸に生まれる。6歳にして藩校興譲館 (小城藩) に入学し、元服後、藩主の命により西洋医学の伝習生として長崎に留学。シーボルトの高弟で、眼科医の高良斉に師事。その後、病を得て帰宅したためにシーボルト事件に巻き込まれることはなかったが、師の良斉の依頼で日本の動植物の模写をシーボルトに渡している。
大山 庄太夫(おおやま しょうだゆう、文化5年(1808年)… 大山 庄太夫(おおやま しょうだゆう、文化5年(1808年)- 慶応2年11月13日(1866年12月19日))は、江戸時代後期から末期の庄内藩士。留守居役。
頼 杏坪(らい きょうへい、宝暦6年(1756年)7月 - … 頼 杏坪(らい きょうへい、宝暦6年(1756年)7月 - 天保5年7月23日(1834年8月27日))は江戸時代の儒学者、広島藩士。名は惟柔(ただなご)、字は千祺(せんき)・季立、号は春草堂、通称は万四郎、別号に春草、杏翁。
栗木 尚謙(くりき ひさかた、1753年3月20日〈宝暦3年… 栗木 尚謙(くりき ひさかた、1753年3月20日〈宝暦3年2月16日〉 - 1815年2月23日〈文化12年1月15日〉)は、伯耆国米子(現在の鳥取県米子市)の武士(鳥取藩士)。『樵濯集』の著者。栗木家8代目。初めの諱は祥宜(よしのぶ)、幼名は助三郎。 米子城下に生まれる。1763年に父・義成が死去し、11歳で跡目相続する。1778年、米子城の御破損奉行に任ぜられ、禄高200石となる。1779年、諱を尚謙と改め、字を柘植義方の撰で子恭と名乗る。 1787年、病気のため退役を願い許され、2年半余家に籠る。1790年、再び出仕を要請され、御破損奉行に再任され、以後その職に11年専念する。1800年に退役するまで21年間御破損奉行を務めた。
大黒 清勝(おおぐろ きよかつ、1726年〈享保11年〉 -… 大黒 清勝(おおぐろ きよかつ、1726年〈享保11年〉 - 1790年3月28日〈寛政2年2月13日〉)は、土佐藩士、日本の武道師範。無双直伝英信流居合術第11代宗家。字は「元右衛門」。長曾我部氏の支流で、本姓は秦氏。 享保11年(1726年)、土佐藩士(馬廻役・300石)・大黒好勝(文之丞)の三男として土佐国高知城下(現・高知県高知市)に生まれる。 武士の嗜みとして、無双直伝英信流居合を、林安太夫政詡より習う。 明和2年(1765年)、父好勝の跡目相続。 安永6年(1777年)、馬廻組頭、天明2年(1782年)大目付(大監察)切支丹改役、翌年(1783年)、軍備御用兼帯となる。 長谷川英信流居合の伝書を林安太夫政詡から受け、第11代宗家となる。
金子 霜山 は、江戸時代後期の広島藩士。儒学者、藩儒、文筆家… 金子 霜山 は、江戸時代後期の広島藩士。儒学者、藩儒、文筆家。名は済民、字は伯成、通称は徳之助、別号は八霜山人。
山下 梅鶴(やました ばいかく)は幕末の広島藩士。代官主席、… 山下 梅鶴(やました ばいかく)は幕末の広島藩士。代官主席、宮島奉行。
手代木 勝任(てしろぎ かつとう)は、幕末の会津藩士。明治時… 手代木 勝任(てしろぎ かつとう)は、幕末の会津藩士。明治時代の地方官吏。 会津藩士・佐々木源八の長男として生まれ、源八の実兄で、百石取りの手代木勝富の養子となった。京都見廻組組頭である佐々木只三郎、隊員であった佐々木源四郎は実弟。妻は150石取の藩士、小川権次の次女、喜与子。江戸御聞番として出仕している。 会津藩主松平容保が京都守護職を務めていた際、手代木は公用方として京に赴任し、諸藩との折衝や、京都町奉行や京都所司代との連絡用務、新選組の指揮などを受け持った。元治元年には京都定詰公用人・御聞番御内用兼務となり、容保の名代として宮中に参内を行うこともあった。この際徳川慶喜から賞賜を受け、金、服地を賜っている。
千葉 周作(ちば しゅうさく)は、江戸時代後期の武士・剣術家… 千葉 周作(ちば しゅうさく)は、江戸時代後期の武士・剣術家。北辰一刀流の流祖。幼名於兎松、周作は通称で、諱は成政。合理的かつ実戦的な剣術体系を確立し、宮本武蔵らとともに剣聖の一人に数えられる。創設した江戸時代最大規模の剣術道場の千葉道場は、人格や精神の涵養にも重きを置き、坂本龍馬をはじめとする幕末の志士や、渋沢栄一ら、後の日本を担う人材が多く輩出したことから、現代剣道の発展のみならず、日本の政治・産業の歩みにも影響を及ぼしたとされる。 特に坂本龍馬は千葉家との深い交流を通じて人的ネットワークを広げ、日本初期の商社的組織として評価される海援隊を後に創設した。その事業や人脈の一部は維新後の岩崎弥太郎に受け継がれ、やがて三菱財閥、そして現在の三菱グループの形成へとつながっていく。
有馬 休八(ありま きゅうはち)は幕末の薩摩藩士。海軍大主計… 有馬 休八(ありま きゅうはち)は幕末の薩摩藩士。海軍大主計兼提督府大主典。 上荒田の白石家次男休八として出生。後に御小姓与有馬家の養子となり、海軍省出仕後は純清と名乗る。川村純義の従兄弟。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ)は、日本の武士… 伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ)は、日本の武士(薩摩藩士)、官僚、政治家、華族。諱は季靖。通称は龍右衛門、後に正治。正三位勲一等伯爵。家紋は宝結び。 戊辰戦争の白河口の戦いでは、わずか700の兵で、4倍弱にあたる2500名の幕府軍を撃破したことなどにより、「類いまれな軍略家」などという異名がある。また、片眼と片脚が不自由がなのにも関わらず新政府軍参謀として活躍したことにより、「薩摩の山本勘助 」などという異名もある。 薩摩藩士伊地知季平の次男として鹿児島城下千石馬場町に生まれる。幼名は竜駒。3歳の時に文字を読んで「千石の神童」と呼ばれるが、幼い頃に大病を患ったために片目と片足が不自由となる。
北代 正臣(きただい まさおみ、生年不詳 - 1908年〈明… 北代 正臣(きただい まさおみ、生年不詳 - 1908年〈明治41年〉1月25日)は、幕末の土佐藩士、明治期の官僚・裁判官。青森県権令。名・恕、幼名・忠吉。 土佐国土佐郡小高坂村(現高知県高知市西町)で、北代正親の長男として生まれる。土佐勤王党に加わり国事に奔走。藩では勘定人小荷駄高作配役、山内容堂上京の御供達御算用役并切手役、長崎出張御用金方などを務めた。 明治政府に登用され明治元年(1868年)、外国官御用掛に就任。以後、外務大禄、民部省監督権正、同省庶務正などを歴任。明治5年(1872年)、大蔵省六等出仕に就任。1873年6月、青森県で給禄について菱田重禧権令と弘前士族の間で対立が起こり、政府は北代を派遣した。
沢本 盛弥(さわもと もりや、旧字体: 澤本 盛彌、生没年不… 沢本 盛弥(さわもと もりや、旧字体: 澤本 盛彌、生没年不詳)は、江戸時代末期の武士、日本の陸軍軍人。 盛弥は仮名(通称)、諱(実名)は幸則「ゆきのり」。土佐藩士。 迅衝隊士六番隊銃手として戊辰戦争に従軍。後に大日本帝国陸軍軍人となる。文献によっては沢本守也と表記。北光社の沢本楠弥は同族。 沢本氏(澤本氏)の祖は彦右衛門といい、戦国時代に大津城 (土佐国) 城主天竺孫四郎に仕えていたが、細川氏の庶流天竺氏は長宗我部国親に滅亡させられた。江戸時代になり、4代目藩主山内豊昌から土佐藩に仕えた一族と伝わる。それ以外の一族末裔は全国に拡散した。 土佐国長岡郡介良村出身。 会津戦争の二本松陣営にて、沢本盛弥(以下沢本)を含めた新政府軍の兵士三人が民家で飲酒をしてしまい、軍法違反となった。
犬塚 盛巍(いぬづか もりたか、生年不明 - 1896年〈明… 犬塚 盛巍(いぬづか もりたか、生年不明 - 1896年〈明治29年〉12月17日)は、庄内藩士。周旋方。日本の司法官僚。検察官。検事長。従三位勲三等。 犬塚盛直(父)と海老名美寿(母)の長男として生まれる。庄内藩士となり戊辰戦争時に周旋方に任じられた。明治3年8月、藩主酒井忠篤の命により、長沢惟和と共に、旧鹿児島藩主島津忠義と西郷隆盛に書簡を届け、鹿児島藩兵器製造所等を視察した。後に司法省に入省し検察官となり、累進して明治19年に大阪控訴院検事長、明治23年には宮城控訴院検事長に就任した。明治29年12月17日、薨去。 衆議院議員及び貴族院議員を務めた犬塚勝太郎は長男。三井物産常任監査役を務めた犬塚勝之丞は次男。
田中 新兵衛 は、幕末の薩摩藩士。諱は雄平。尊王攘夷派で、幕… 田中 新兵衛 は、幕末の薩摩藩士。諱は雄平。尊王攘夷派で、幕末の四大人斬りの一人。
西村 俊三(にしむら しゅんぞう)安政3年6月5日(1856… 西村 俊三(にしむら しゅんぞう)安政3年6月5日(1856年7月6日) - 昭和10年7月7日(1935年7月7日)は、山口県の(士族)医師である。 東京大學醫學部(現:東京大学医学部)卒業。80歳で没した。
佐川 官兵衛(さがわ かんべえ)は、幕末の会津藩士。明治時代… 佐川 官兵衛(さがわ かんべえ)は、幕末の会津藩士。明治時代の警察官。字は勝、諱は直清。戊辰戦争では賊軍とされた会津藩の家老であったが、西南戦争では政府軍として戦い戦死したことから靖国神社に合祀されている。このような事例は佐川官兵衛ただ一人であるとされている。 会津藩士・佐川直道(家禄は300石)の子として生まれた。文久2年(1862年)には藩主・松平容保に従って上洛し、物頭を務めたのち学校奉行に任じられた。また、精鋭の藩士で構成された「別撰組」を率い、藩主の外出時などにはその護衛を行っている。 王政復古の大号令後、京都守護職を解かれて大坂城に退去した会津藩において、官兵衛は主戦派の先頭となり、非戦派の神保修理や山本覚馬らと対立している。
県 勇記(あがた ゆうき)は、下野宇都宮藩の家老。明治時代の… 県 勇記(あがた ゆうき)は、下野宇都宮藩の家老。明治時代の司法官僚。諱は信輯(のぶつぐ)。 宇都宮藩の家老・安形半左衛門通義の長男として宇都宮城の安形邸で生まれる。初めの姓は安形であり、名の勇記は晩年に名乗ったものである。 天保10年(1839年)に元服し、弘化3年(1846年)より千葉周作の門下に入って剣術を学んだ。弘化4年(1847年)には清水赤城の門下に入って兵学を学ぶ。嘉永元年(1848年)に伊豆において私塾を開き、主に農政について論じたというが、安政3年(1856年)に帰藩した。安政4年(1857年)に県と改姓する。この頃、篠井金山の開発見込みを聞いて採掘に乗り出すも、2年で事業は失敗に終わった。
留守 邦寧(るす くにやす)は、江戸時代後期の武士。陸奥国仙… 留守 邦寧(るす くにやす)は、江戸時代後期の武士。陸奥国仙台藩一門第三席・水沢伊達家13代(留守氏30代)当主。伊達邦寧とも。 天保元年(1830年)3月15日、水沢伊達家11代当主・伊達宗衡の五男として水沢にて誕生。幼名は福松。 天保14年(1843年)、元服し景道と名乗る。慶応元年(1865年)兄・邦命の死去により家督と知行1万6000石を相続し、水沢邑主となる。 慶応4年(1868年)戊辰戦争の際には、13代藩主・伊達慶邦の代理として白河口に出陣する。戦局の不利により藩論が恭順に傾くと、藩主の命で降伏の正使となる。敗戦により、本藩が62万石からを28万石に減封され、邦寧も水沢領を失う。隠居した慶邦に代わり新藩主となった伊達宗基の後見を務めた。
小原 適(おはら ただし)は、幕末の日本の武士(大垣藩士)、… 小原 適(おはら ただし)は、幕末の日本の武士(大垣藩士)、明治時代の政治家。位階勲等及び爵位は正五位勲四等男爵。 「適」は「迪」と書かれる場合もある。 天保13年(1842年)2月26日、大垣藩の執政である上田能重の長男として生まれ、父の実兄である藩老の小原鉄心の婿養子となる。慶応3年(1867年)幕命により藩兵を率いて大坂に上り、翌慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いで新政府軍と戦う。戦後、官軍に抗した罪により禁固されるも、新政府軍に参加した大垣藩の戊辰戦争の功績によりその罪を許された。明治2年(1869年)公議人に選ばれる。同年大垣藩少参事。明治3年(1870年)和歌山県権参事。明治4年(1871年)欧州に留学。
池上 四郎(いけのうえ しろう、天保13年(1842年) -… 池上 四郎(いけのうえ しろう、天保13年(1842年) - 明治10年(1877年)9月24日)は、幕末の薩摩藩士、明治時代初期の軍人である。名は貞固、通称は四郎左衛門というが、明治になってからは四郎と称した。 鹿児島城下の樋之口通町(現鹿児島市加治屋町16番街区、旧地番175番地)で薩摩藩侍医・池上貞斎の第一子として生まれる。家業を継ぐべく家庭で教育を受けたが、医術を好まず、西郷隆盛(吉之助)・伊地知正治の教導を受け、勤王の志を抱いた。 安政の大獄(1858年)の前頃、藩主・島津斉彬の命によって江戸に遊学し、時々天下の情勢を藩主に報告した。薩英戦争(1863年)のときはスイカ売り決死隊に志願して英艦に切り込もうとしたが失敗、大門口砲台で英艦を撃退した。
久木村 治休(くきむら じきゅう、天保14年〈1843年〉1… 久木村 治休(くきむら じきゅう、天保14年〈1843年〉10月 – 昭和12年〈1937年〉10月20日)は、薩摩藩出身の武士、のち警察官・軍人(陸軍少佐)。生麦事件でイギリス人チャールス・リチャードソンを殺傷した。 大隅国国分郷浜之市(現霧島市)の人。山本勇右衛門の三男として生まれた。山元定蔵の弟で、のち久木村家へ入った。 文久2年(1862年)、島津久光の東上に従い江戸へ向かい、その帰途、生麦村で奈良原繁らとともに外国人を殺傷した(生麦事件)。鉄砲隊に属していた治休は、一太刀を浴びせたと伝えられる。 昭和11年に雑誌『話』へ寄せた本人の回想によれば、当時外国人4名は行列を避けながら徐行しており「踏み込み」の事実はなく、後方で既に斬られて負傷した者が自分の前を通過しようとしたため、とっさに横一文字に斬りつけたという。
石川 七財(いしかわ しちざい)は日本の武士、実業家。初名は… 石川 七財(いしかわ しちざい)は日本の武士、実業家。初名は七左衛門、号は花渓。 土佐藩士の石川唯七(ただしち)の子として土佐国土佐郡小高坂村(現・高知県高知市)に生まれる。幼名及び初名は七左衛門。 父の唯七は馬丁を務めており、足軽のまま死去。それに継いで七財も足軽であったが土佐藩士で参政の吉田東洋に仕え、下横目役(目付の補佐役)となる。 1870年(明治3年)に九十九商会(後の三菱商会)の岩崎弥太郎の偵察を願われる。その際に弥太郎の人柄に憧れ部下となる。後に幹部となり川田小一郎らと共に活動。 1877年(明治10年)の西南戦争では軍事輸送を務めた。その後コレラによって倒れ死去。墓は谷中霊園。 1828年5月21日(文政11年4月8日)に土佐藩士・石川唯七の子として土佐国土佐郡小高坂村(現・高知県高知市)に生まれる。
朝倉 尚武(あさくら なおたけ、天保13年(1842年) -… 朝倉 尚武(あさくら なおたけ、天保13年(1842年) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期(幕末)の佐賀藩士、明治初期の軍人。通称は弾蔵。 天保13年(1842年)、佐賀城下に佐賀藩士の家に生まれる。幼少より藩校弘道館に学び特に兵学に優れた。戊辰戦争では佐賀藩隊の軍監付属や、小隊長として奥羽戦線で活躍している。また戦後は東京遊学を命じられ、昌平黌に入った。 明治4年(1871年)に帰郷すると同年編成された佐賀藩兵一番大隊長に任命され、さらに上京して陸軍少佐を拝命し兵部省に勤めたがほどなく辞職した。その後上京していたが征韓論に伴う明治六年政変により江藤新平、副島種臣などが野に下ると、再度郷里の佐賀に戻った。
坂(阪)部 大作(さかべ だいさく、1836年(天保7年10… 坂(阪)部 大作(さかべ だいさく、1836年(天保7年10月)- 1908年(明治41年)9月)は、日本の武士(三河吉田藩藩士)、剣術家。流派は鏡新明智流。称号は大日本武徳会剣道範士。 三河国吉田(現愛知県豊橋市)に生まれる。13歳から21歳まで、同藩で剣術を修行する。 1856年(安政3年)、21歳で江戸へ出て、鏡新明智流桃井春蔵の道場士学館に入門。頭角を現し、上田馬之助、久保田晋蔵、兼松直廉とともに「桃井の四天王」と謳われる。 1859年(安政6年)、24歳で鏡新明智流免許を得て帰藩する。 1862年(文久2年)、藩主松平信古が大坂城代を拝命したので坂部も随行し、1865年(慶応2年)まで大坂表講武所で剣術を指南する。
柳生 友矩(やぎゅう とものり)は、江戸時代前期の武士。江戸… 柳生 友矩(やぎゅう とものり)は、江戸時代前期の武士。江戸幕府の旗本、将軍の近臣。通称は左門あるいは刑部。官位は従五位下・刑部少輔。 父は徳川将軍家の兵法指南を務めて柳生藩を立藩した柳生宗矩。異母兄に剣豪として知られる柳生三厳(十兵衛)、同歳の異母弟に柳生宗冬、列堂義仙がいる。生母は側室であり、友矩は庶子であった。徳川家光の勘気をこうむって致仕した兄・三厳に代わって家光に仕え、常に剣術の相手を務めるなど大いに寵愛されたが早世した。 慶長18年(1613年)に柳生庄(現在の奈良市柳生町)で誕生した。寛永4年(1627年)に初めて家光に謁見し、その小姓となる。寛永11年(1634年)の家光の上洛に供奉し、同年7月に徒士頭となる。
柳生 三厳(やぎゅう みつよし)は、江戸時代前期の武士、剣豪… 柳生 三厳(やぎゅう みつよし)は、江戸時代前期の武士、剣豪、旗本。初名は七郎、諱は三厳。通称の十兵衞(じゅうべえ)の名で知られる。 大和国柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南を務めた剣豪・柳生宗矩の子。徳川家光に小姓として仕えたが、主君の勘気に触れて出仕停止となり、後に許されて書院番を務める。父の跡を継ぎ、家業の兵法(新陰流)の発展に努めるが、家督を継いで程なく急死した。江戸初期の著名な剣豪として知られ、三厳を題材とした講談や小説が多く作られた。著書に『月之抄』、『武蔵野』など。 慶長12年(1607年)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)にて誕生。父は徳川秀忠の兵法指南を務めて後に柳生藩初代藩主となる柳生宗矩 。
柳生 宗冬(やぎゅう むねふゆ)は、江戸時代前期の武士、新陰… 柳生 宗冬(やぎゅう むねふゆ)は、江戸時代前期の武士、新陰流の剣豪。幼名は又十郎、諱は宗冬。通称は内膳正、俊矩。 大和国柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南を務めた剣豪・柳生宗矩の子。家督を継承した兄三厳が急死したため、その跡を継ぎ、将軍家兵法指南役に任じられて徳川家綱や徳川綱吉らに新陰流を伝授した。これらの功により加増を重ね、父の死後旗本となっていた柳生家を大名に復帰させた。 慶長18年(1613年) 大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)にて、領主・柳生宗矩の三男として誕生する。 寛永5年(1628年)、14歳の時に徳川3代将軍・徳川家光の小姓となり、やがて書院番に任じられて300石を拝領する。
川勝 秀氏(かわかつ ひでうじ)は、戦国時代の武将、安土桃山… 川勝 秀氏(かわかつ ひでうじ)は、戦国時代の武将、安土桃山時代の小大名、後に江戸時代前期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の初代当主。 弘治元年(1555年)、室町幕府13代将軍・足利義輝の奉公衆・川勝継氏の嫡男として、丹波国の桑田郡中山または北桑田郡美山町(現南丹市)静原の島城に生まれた。 父と同じく義輝に仕えるが、足利将軍家の没落後は、織田家に転じた。 天正5年(1577年)、織田信長に従って紀州征伐に参陣した。戦功によって感状を賜る。 その後、豊臣秀吉の馬廻を務めて、「秀」の一字を拝領して秀氏と称した。 天正10年(1582年)9月9日、丹波国何鹿郡内に3,535石を秀吉より与えられた。父継氏の家督を継ぎ、丹波内1万石余を領していたとされる。
永井 直勝(ながい なおかつ)は、戦国時代から江戸時代前期に… 永井 直勝(ながい なおかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本、大名。上野小幡藩主、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主。永井宗家初代。 永禄6年(1563年)、三河国の武将・長田重元の次男として三河国碧海郡大浜郷(現在の愛知県碧南市音羽町)に生まれる(愛知県東浦町緒川の説もある)。 天正4年(1576年)、はじめ徳川家康の嫡男・信康に仕えたが、天正7年(1579年)に信康が自刃すると、徳川氏を去って隠棲した。天正8年(1580年)、家康に召し出されて再び家臣となる。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは池田恒興を討ち取る大功を挙げたため、家康や織田信雄らから賞賛された。
船越 景直(ふなこし かげなお)は、戦国時代から江戸時代初期… 船越 景直(ふなこし かげなお)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、江戸幕府の旗本。淡路国荘田主。通称は五郎右衛門。官途は左衛門尉。 天文9年(1540年)、船越景綸の子として誕生。 はじめ父とともに守護細川氏に仕えたが、のち安宅冬康、次いで三好長治に属した。 その後、羽柴秀吉に属し、天正10年(1582年)9月5日、所領を安堵された。 翌天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いに従軍し、同年8月21日に河内国内に替え地を与えられた。 翌天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、文禄元年(1592年)の文禄の役では御弓鉄砲衆として175名を率いて肥前国名護屋城に駐屯した。
龍岡 資峻(たつおか すけたか)は、幕末から明治時代にかけて… 龍岡 資峻(たつおか すけたか)は、幕末から明治時代にかけての薩摩藩士・日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大尉。上原勇作の実兄である。 天保11年10月(1840年)、龍岡資弦の長男として生まれる。通称は小十郎、三作。嘉永元年(1848年)、9歳にして都城領主島津氏の児小姓となり、大島流槍術師範・白尾国宝から四面の奥義を授けられた。 安政2年(1855年)5月、番頭座詰となり、翌3年には番頭役兼道橋奉行に進み、町奉行をも兼ねた。文久2年(1862年)5月、島津久静が兵を率いて上洛した際にはこれに従って謀議に参与し、献策を行った。 慶応2年(1866年)、長崎派遣を命じられて鉄砲を購入し、洋式訓練を学んで帰藩した。
善野 秀(ぜんの しゅう)は、幕末から明治時代にかけての武士… 善野 秀(ぜんの しゅう)は、幕末から明治時代にかけての武士、儒学者、政治家。本姓は高山、旧名は司(つかさ)、通称は勝右衛門、号は霞城。足利藩士、足利藩権大参事。 文政5年(1825年)、出羽国山形藩士・高山新兵衛の次男として山形で生まれる。秋元氏が館林藩に転封となったため館林に移り住んだ。 天保14年(1843年)に江戸に遊学し、長戸得斎や林大学頭に師事。安政2年(1855年)31歳のとき足利藩士・善野勝右衛門家の養子に迎えられ、勝右衛門を襲名。文久元年(1861年)、37歳で栃木町の栃木陣屋奉行となった。 元治元年(1864年)、栃木町は天狗党の乱において田中愿蔵の放火に遭い、大部分を焼失。