高橋 辰五郎(たかはし たつごろう、1864年12月19日(… 高橋 辰五郎(たかはし たつごろう、1864年12月19日(元治元年11月21日) - 1936年(昭和11年)8月22日)は、日本の産婦人科医・教育者。日本で初めて「助産婦」の名称を緒方正清(緒方洪庵の義理の孫)とともに提唱した。漫画家の高橋留美子は曽孫にあたる。 新潟県北蒲原郡加治村大字茗荷谷(現・新発田市)に生まれる。父は高橋定四郎、母は相馬氏。1881年(明治14年)10月、18歳で上京しドイツ語、漢学を学び、ついで1885年(明治18年)1月済生学舎(現:日本医科大学)に入学して、医学を修める。 1886年(明治19年)11月24日医術開業試験に合格して医師となる。1892年(明治25年)大阪市、緒方病院において緒方正清(緒方洪庵の義理の孫)の下で産婦人科学を専攻し、同病院在任当時、緒方と共に我が国初の産婦人科診断専門書である穴爪維篤(フライト)婦人科診断学を翻訳出版し、ついで1894年(明治27年)緒方との共著『産科学』を出版した。
浜田 政壮(濱田 政壯、はまだ まさたけ、1864年11月1… 浜田 政壮(濱田 政壯、はまだ まさたけ、1864年11月10日(元治元年10月11日)- 1937年(昭和12年)3月2日)は、明治から昭和初期の医師、政治家。衆議院議員、宮崎県会議長。旧姓は池田。 日向国諸県郡、のちの宮崎県東諸県郡倉岡村(現宮崎市)で、池田政順の二男として生れ、薩摩藩郷士・浜田戸太の養子となる。宮崎学校で中等教育を修め、高鍋の城竹窓に師事し漢学を修めた。1884年(明治17年)鹿児島県立医学校(のち県立鹿児島医科大学、現鹿児島大学)を卒業。上京して高木兼寛に医学を学び、1887年(明治20年)3月、医術開業免許を取得した。 その後、宮崎町(現宮崎市)で医院を開業。1896年(明治29年)伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)講習科を卒業。
吉岡 順作(よしおか じゅんさく、元治元年10月11日(18… 吉岡 順作(よしおか じゅんさく、元治元年10月11日(1864年11月10日) - 昭和19年(1944年)9月3日)は、山梨県出身の医師。 甲斐国山梨郡徳条村(現・笛吹市春日居町)に、医家であった父・応治の長男として生まれる。明治12年(1879年)に山梨県立医学校に入学し、明治16年(1883年)3月に徽典館医学科(山梨県立医学校から改名)を卒業後、東京に出て田代基徳について医学を修め済生学舎に通学し、明治20年(1887年)4月に医師開業免状を受け東八代郡石和村に医院を開業。明治21年(1888年)3月には西山梨郡甲運村(現・甲府市)に移転、その後、明治23年(1990年)に東山梨郡岡部村、明治30年代に生春医院の名称で石和村、明治40年(1907年)に甲府市富士川町に移転している。
田代 義徳(たしろ よしのり、1864年8月27日(元治元年… 田代 義徳(たしろ よしのり、1864年8月27日(元治元年7月26日) - 1938年(昭和13年)12月1日)は明治〜昭和期の医学博士、外科医、日本整形外科の命名者で基礎を築く。東京帝国大学教授、東京市会議員に当選し、東京府社会事業活動を通じて医事衛生問題に取り組む。栃木県出身。 1864年8月27日((旧暦)元治元年7月26日)、下野国足利郡田中村(現栃木県足利市田中町)で代々名主を務めた田部井家三男として誕生。父は田部井森平、幼名を又助と称した。1869年(明治2年)近村にある私塾清花堂で手習いを修め、八幡村(現足利市八幡町)の禅定院にある立教小学校から1877年(明治10年)栃木の中教院学校に入り漢詩を学び、1878年(明治11年)梁田郡掘込村宝勝寺の八幡村小学校の教師になる。
古森 泰(こもり たい、1864年8月27日(元治元年7月2… 古森 泰(こもり たい、1864年8月27日(元治元年7月26日) - 1937年(昭和12年)5月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、医師。 対馬国下県郡厳原(現在の長崎県対馬市)出身。長崎甲種医学校を卒業。厳原町で協立厳原病院を開業し、医療に従事した。日清戦争時には対馬警備隊医務嘱託を務めた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
天野 良太郎(あまの りょうたろう、1864年7月19日〈元… 天野 良太郎(あまの りょうたろう、1864年7月19日〈元治元年6月16日〉 - 没年不明)は、日本の医師。専門は内科。広島市医師会会長。族籍は広島県平民。 広島県・天野環の長男。広島藩校の流れをくむ私立浅野学校(現:修道中学校・高等学校)に学ぶ。広島中学校卒業。のちに医を志して上京し東京医科大学別課を1887年5月に卒業した。広島甲種医学校教諭に任じられ広島病院司療医を兼任した。1889年、尾道病院長に栄転し5年余在職し、監獄医を兼ねた。 1894年、家督を相続した。同年広島市西魚屋町で医院を開業した。天野医院長として名声を馳せたという。広島市医師会長を務めた。 『広島県紳士名鑑』では「性謹直、才気溌剌であり英智群れを抜いていた」と評価されている。
杉田 盛(すぎた さかり、元治元年5月27日(1864年6月… 杉田 盛(すぎた さかり、元治元年5月27日(1864年6月30日) - 1934年(昭和9年)3月6日)は、戦前日本の開業医。幼少期を沼津で過ごし、上京して医学を修め、神戸・丹後・隠岐島・盛岡で病院院長を歴任し、横浜、大森に医院を構えた。号は東江・峯州医生・梅所・槑翁。杉田玄白4世孫。 元治元年(1864年)5月27日江戸浜町山伏井戸に杉田玄端の五男として生まれた。幼名は鶴五郎。明治元年(1868年)10月、徳川宗家の転封に従い、両親・兄杉田武と共に沼津八幡町柳下知之旧宅に移った。明治2年(1869年)沼津で親戚杉田廉卿が病没すると、祖父の命でその跡を継いだ。 父に『三字経』『大統歌』『大学』『孝経』『論語』で漢学、『ウイルソン・リーダー』『ミッチェル(ロシア語版)地理書』で英学、母に習字を学んだ。
伊藤 隼三(いとう はやぞう、1864年6月12日(元治元年… 伊藤 隼三(いとう はやぞう、1864年6月12日(元治元年5月9日) - 1929年(昭和4年)5月14日)は鳥取県出身の医師。因幡病院(現:鳥取県立中央病院)初代院長。京都帝国大学名誉教授。 京都帝国大学医科大学外科学第二講座初代教授、京大付属病院長などを歴任した。特に外科医術を発展させ、数千の門下を育て、日本の医学に多大な貢献をする。さらに鳥取県の医療に多大な貢献をする。 伊藤隼三は、1864年に因幡国邑美郡御弓町(現:鳥取市御弓町)の鳥取藩士小林辰蔵の三男として生まれた。「鳥取藩史」第二巻に「御武器預并製造掛 小林辰三」と出てくるのが父である。1874年鳥取変則中学(鳥取県立鳥取西高等学校の前身)に遊学し頭脳明晰で、この頃から伊藤健蔵に認められ援助を受け、1878年中学4年生(15歳)で、東京大学予備門に入学するほどの秀才であった。
中村 静興(なかむら せいこう、1864年4月21日(元治元… 中村 静興(なかむら せいこう、1864年4月21日(元治元年3月16日) - 1927年(昭和2年)4月22日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出水郡阿久根村(後の阿久根町、阿久根市)。1890年、第五高等中学校医学部(のち長崎医学専門学校→長崎医科大学、現・長崎大学医学部)、1893年、東京帝国大学専科、1900年、伝染病研究所(のち東京大学医科学研究所)研究科卒。医師を開業する。阿久根村で温泉を経営し、阿久根村会議員、出水郡会議員、出水郡医師会長、鹿児島県医師会代議員、日本医師会代議員となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から無所属で立候補して当選した。
園田 兵助(そのだ ひょうすけ または そのだ へいすけ、1… 園田 兵助(そのだ ひょうすけ または そのだ へいすけ、1864年4月1日 - 1935年)は日本の獣医師。鹿児島県で黒豚(現在のかごしま黒豚)生産の土台を作ったことで「黒豚の父」と呼ばれる。 1864年4月1日、薩摩国川辺郡鹿籠郷(現・鹿児島県枕崎市)で馬の管理や調教を行う藩馬役・園田仲兵衛(そのだ ちゅうべえ)の長男として生まれ、父の見習いをしながら育つ。 1895年、獣医師の免許を受け、生家の一角で獣医を開業する。懇切丁寧な治療で近郊農民に親しまれる一方で、自らの不注意から馬を怪我させた飼い主を怒鳴りつけることもあった。 獣医の傍ら、ホルスタイン種の牛を十数頭を購入し、牛乳の販売を始める。
岡田 和一郎(おかだ わいちろう、文久4年1月3日〈1864… 岡田 和一郎(おかだ わいちろう、文久4年1月3日〈1864年2月10日〉 - 昭和13年〈1938年〉5月30日)は、明治から昭和の日本の医師・医学者。帝国大学耳鼻咽喉科学初代正教授。耳鼻咽喉学の祖と称えられる。 小学校卒業後、西條町立病院の用度課雇いをしながら苦学を続け、特待生になって帝大医学部へ進学。 明治35年(1902年)森鴎外と荒木茂子との結婚の媒酌人を務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
清川 来吉(きよかわ らいきち、1864年2月9日(元治元年… 清川 来吉(きよかわ らいきち、1864年2月9日(元治元年1月2日)- 1957年(昭和32年)10月26日)は、日本の医師、政治家。初代鎌倉市長。広島県出身。 1884年、広島県立医学校(現広島大学医学部)卒業。その後は帝国医科大学(現東京大学医学部)選科で学び、1888年に医師免状を授与される。同年、伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に入所し細菌学の実施研究を行うが、まもなく帰郷して広島県下に診療所を開設。また広島県医師会長を兼ねた。 1889年、栃木県足尾病院副院長に就任し、その2年後(1891年)に鎌倉町雪ノ下に養生所を開設する。これが、来吉と鎌倉との繋がりの始まりである。その後は神奈川県師範学校や鎌倉町内の小学校の嘱託医を務め、1900年には神奈川県検疫官となる。
森 直哉(もり なおや、文久3年11月1日(1863年12月… 森 直哉(もり なおや、文久3年11月1日(1863年12月11日) - ?)は戦前日本の医師。旧姓は姫野、後に赤星。東京大学医学部別課卒。宮城県古川病院初代院長。赤星研造養子だったが、離縁し故郷大在村竹下で森医院を営んだ。 文久3年(1863年)11月1日豊後国海部郡竹下村の農家姫野平治郎と綱子の三男として生まれた。14歳の時海部郡儒学者阿部一行に入門した。16歳の春、父不在のため、母の許しを得て豊前国中津に留学して白石照山に学び、同年暮大分県師範学校に入学した。 1881年(明治14年)5月師範学校を退学し、上京して東京大学医学部別課に入学したが、1年後実家が災難に遭い、学資の仕送りを受けられなくなった、群馬県、山梨県の医師等の家に身を寄せた後、再び上京して知人宅に滞在中、友人の紹介で元東京大学医学部教授赤星研造に学資を得られることとなり、養子となった。
八木 逸郎(やぎ いつろう、1863年10月21日(文久3年… 八木 逸郎(やぎ いつろう、1863年10月21日(文久3年9月9日) - 1945年(昭和20年)1月4日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(奈良県選出、当選10回)。ドクトルメジチーネ。族籍は奈良県平民。 大和国奈良出身。八木重義の長男。大阪医学専門学校で学んだ後、東京帝国大学医科大学別科を卒業。その後、ドイツに留学し、ロストック大学を卒業し、ドクトルメジチーネの学位を授けられた。 帰国後、静養する。東京帝国大学医科大学附属第一医院副手となるが、間もなくこれを辞して奈良に帰る。医業に従事する。奈良町会議員、奈良市会議員、奈良県会議員、同参事会員、添上郡会議員に挙げられる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
下平 用彩(しもだいら ようさい、文久3年5月16日(186… 下平 用彩(しもだいら ようさい、文久3年5月16日(1863年7月1日) - 大正13年(1924年)2月23日)は、三重県出身の医師、第四高等学校、金沢医学専門学校、金沢医科大学の教授。 紀伊国紀州藩阪本村(現在の三重県南牟婁郡御浜町)に新宮藩に仕える漢方医の父「秀作」、母「きん」の長男として生まれる。明治9年(1877年)に三重県立医学校(現在の三重県立大学)に入学し、明治22年(1889年)10月に帝国大学医科大学を卒業、同年11月に同大学の助手となり第二医院外科部に勤務。明治23年(1890年)12月23日に医術開業免状を授与され、明治24年(1891年)5月15日に山梨県病院(現在の山梨県立中央病院)の第6代院長となり、明治26年(1893年)11月3日に山梨医会会長に就任、明治30年(1897年)9月に山梨県病院院長を辞し、同年10月11日に第四高等学校医学部教授に任ぜられた。
三田 俊次郎(みた しゅんじろう、1863年4月20日(文久… 三田 俊次郎(みた しゅんじろう、1863年4月20日(文久3年3月3日) - 1942年(昭和17年)9月13日)は、岩手県南岩手郡加賀野村磧町(現盛岡市加賀野)出身の医師、教育者、政治家である。
足羽 章兮(あしわ しょうけい、1863年1月27日〈文久2… 足羽 章兮(あしわ しょうけい、1863年1月27日〈文久2年12月8日〉 - 1934年〈昭和9年〉9月4日)は、日本の医師、政治家。鳥取県医師会長。鳥取県会議長。日野郡是製糸取締役。足羽家8代目。族籍は鳥取県士族。 伯耆国日野郡二部村(のち鳥取県日野郡溝口町二部、現・伯耆町)出身。足羽家は代々医を業とする。足羽純亭の五男。教を郷校に受け、小学の課程を卒え、毛利八弥に就き漢籍を修める。 1884年、松江医学校を卒業。東京に出て済生学舎に入り、医術を修める。帰郷し、二部宿で父祖の医業を継ぐ。1890年に日野郡医師会創設。日野郡医師会長となる。 1904年から1917年村会議員。1908年から1910年鳥取県医師会長。
淺野 三彌(あさの さんや、新字体:浅野 三弥、1863年〈… 淺野 三彌(あさの さんや、新字体:浅野 三弥、1863年〈文久3年〉 - 1905年〈明治38年〉12月11日)は、明治時代の医師。号は烏城。群馬県高崎市の医師・淺野誠伯の子として生まれ、医科大学別課を卒業後、アメリカ合衆国・カリフォルニア州のクーパー医科大学で学んだ。のちにハワイおよび高崎で医業に従事した。 文久3年、高崎の医家に生まれる。父は医師の淺野誠伯である。号として「烏城」を用いた。 明治19年6月、医科大学(現在の東京大学医学部の前身)別課を卒業した。卒業後は、東京神田駿河台の佐々木病院にて名医・佐々木東洋に師事し、明治21年5月頃まで実地研修を積んだ。 その後、医学の奥義を究めるため渡米し、カリフォルニア州のクーパー医科大学(後のスタンフォード大学医学部)で学んだ。
田中 敬助(たなか けいすけ、1862年7月5日(文久2年6… 田中 敬助(たなか けいすけ、1862年7月5日(文久2年6月9日) - 1945年(昭和20年)1月22日)は、日本の医師。ツツガムシ病の研究で知られる。 現在の湯沢市出身。1888年に帝国大学医科大学を卒業した。卒業後は帰郷し、自宅で医院を開業した。1890年に公立横手病院長を兼任した。 1890年に私設の研究所である日本沙蝨病研究所を自宅に建て、ツツガムシ病の研究を行った。1892年に論文「日本洪水熱病原研究第一回報告」を皮切りに数多くの論文を執筆し、ダニが病気を媒介することを指摘した。具体的には1899年にツツガムシ病がケダニにより媒介されることを発見し、その成果を1906年に「日本のケダニ病について」としてドイツの伝染病学雑誌に発表した。
佐伯 理一郎(さえき りいちろう、1862年4月3日(文久2… 佐伯 理一郎(さえき りいちろう、1862年4月3日(文久2年3月5日) - 1953年(昭和28年)5月30日)は、日本の産婦人科医。佐伯病院、京都産院各経営主。京都看病婦学校、京都産婆学校各校長。学会活動のほか、公衆衛生、医史学、医師会などで優れた働きをした。 文久2年3月5日、肥後国(後の熊本県)に生まれる。佐伯清次郎の長男。 1878年、県立熊本医学校に入学。1882年7月、熊本医学校卒業。上京し、東京大学で外科ユリウス・スクリバ、内科エルヴィン・フォン・ベルツ、眼科梅錦之丞 の指導をうける。1884年、海軍軍医補(横須賀海軍病院)。組合教会系のクリスチャンの佐伯はこの頃、アメリカンボードの宣教医セオダー・ギューリックに出会い、教会の設立に関わることになった。
豊島 恕平(とよしま じょへい、1862年〈文久2年〉 - … 豊島 恕平(とよしま じょへい、1862年〈文久2年〉 - 1920年〈大正9年〉9月29日)は、信濃国伊那郡高遠(現・長野県伊那市高遠町)出身の医師・実業家・政治家。高遠電灯社長、高遠電気軌道創立者。立憲政友会所属。長野県会議員(2期)。 文久2年(1862年)、信濃国伊那郡高遠(現・長野県伊那市高遠町)に生まれた。父親は高遠藩士の亀井則義であり、恕平は九男だった。親戚の豊島篤次は長崎県で官吏(裁判所刑事部)を勤めており、亀井恕平は豊島家に養子に入った。1878年(明治11年)4月には長崎中学校を卒業して長崎医学校に入学した。 1884年(明治17年)には医術開業試験に合格して医師開業免許を受け、三菱会社の高島炭鉱病院に勤務した。
斎藤 紀一(さいとう きいち、1861年9月5日(文久元年8… 斎藤 紀一(さいとう きいち、1861年9月5日(文久元年8月1日) - 1928年(昭和3年)11月17日)は、日本の医師(脳神経及び精神病専門医、青山脳病院長)、政治家。 同じく精神科医で歌人である斎藤茂吉の養父としても知られる。族籍は東京府平民。 東京の開業医として成功、ドイツ留学では医学博士号を取得した。また、一代で大規模な精神病院、「青山脳病院」を築き、帝国議会議員としても華麗な生活を送った。性格的には大言壮語が目立ち、孫である斎藤宗吉(北杜夫)からは後に、「口先がうまく、成り上がり者で貴族趣味の俗物」と評されている。北の長編小説『楡家の人びと』の主人公楡基一郎のモデルでもある。住所は東京市赤坂区青山南町。
井上 豊太郎(いのうえ とよたろう、1861年6月6日(文久… 井上 豊太郎(いのうえ とよたろう、1861年6月6日(文久元年4月28日) - 1951年(昭和26年)1月13日)は、日本の医学者、眼科医。島根県生まれ。 島根県邇摩郡宅野村(現・大田市仁摩町)に井上柳葊の三男として生まれる。1880年、島根県医学校に入学。1884年に同校を卒業後、1887年、獨逸学協会学校入学。1889年からドイツへ留学し、ベルリン大学やミュンヘン大学などで研鑽を積む。1895年に医学博士の学位を取得。 1896年、帰国して東京眼科病院を開院。1909年、ミュンヘン大学の恩師であるアウグスト・フォン・ロートムントの処方箋を参考に目薬を処方し、信天堂山田安民薬房(現ロート製薬)の山田安民が「ロート目薬」として調製・発売。
舟岡 英之助(ふなおか えいのすけ、1861年5月9日〈文久… 舟岡 英之助(ふなおか えいのすけ、1861年5月9日〈文久元年3月30日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月1日)は、日本の医師、医学者(生理学)。位階は正五位。勲等は勲五等。学位は医学博士(1908年)。 第三高等学校医学部教授、岡山医学専門学校教授、岡山医学専門学校校長事務取扱、岡山医科大学医学部教授などを歴任した。 1861年5月9日(旧暦文久元年3月30日)、武蔵国にて舟岡周介の長男として生まれた。周介は武士であったが、明治維新後は士族となった。英之助は医学の道を志し、帝国大学に進学し医科大学にて学んだ。当時の帝国大学は分科大学制を採用しており、学内に文科大学、法科大学、理科大学といった分科大学が設置されており、医科大学もその一つであった。
岡田 国太郎(おかだ くにたろう、1861年1月29日(万延… 岡田 国太郎(おかだ くにたろう、1861年1月29日(万延元年12月19日) - 1945年(昭和20年)3月2日)は、日本の陸軍軍人(軍医官)、医師、細菌学者。医学博士(滋賀県出身者として初の医学博士(博士登録番号42番))。 1861年1月29日(万延元年12月19日)、近江国野洲郡守山村吉身(現・滋賀県守山市吉身)で誕生。父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の最初の妻・たみ。八男七女の次男として誕生したが、長男が夭折したことにより跡取りとして育てられる。 1877年(明治10年)、京都欧学校(後の京都府立一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校))に入学し、ドイツ語を学んだ。
保利 眞直(ほり まさなお、1860年12月22日(万延元年… 保利 眞直(ほり まさなお、1860年12月22日(万延元年11月11日) - 1929年(昭和4年)12月6日)は、明治から昭和初期の眼科医、医学博士、陸軍軍医学校長、宮内省侍医寮御用掛。最終階級は陸軍軍医監。位階および勲等、軍功は正四位・勲三等・功四級。 1860年12月22日((旧暦)万延元年11月11日)、唐津藩典医保利文溟の次男として誕生する。1887年(明治20年)度に東京帝国大学医科大学を卒業し、大学同期には猪子吉人等がいた。大学卒業後日本陸軍講習生として大学院に入り、7月陸軍三等軍医(少尉相当)に任官した大学院修了後、医術開業試験試験委員・日本赤十字社病院眼科主幹等を歴任した。 1893年(明治26年)1月ドイツ留学を命じられベルリン大学に入り眼科学を修め、同年イタリアで開催された第11回国際医学会に出席、翌1894年(明治27年)6月オーストリアのウィーン大学に移り、1895年(明治28年)には再びドイツのハイデルベルク大学に、そしてフランスのパリ大学で学んだ後、1896年(明治29年)6月帰国した。
東条 良平(東條、とうじょう りょうへい、1860年11月2… 東条 良平(東條、とうじょう りょうへい、1860年11月22日(万延元年10月10日)- 1911年(明治44年)5月8日)は、明治期の医師、政治家。衆議院議員、千葉県会議長。 上総国市原郡山木村(千葉県市原郡八幡町山木、市原町を経て現市原市山木)で、代々医を業とした東条家で東条養仙の長男として生まれる。父は高野長英門下。嶺田士徳(楓湖)から英漢の学を学んだ。1874年(明治7年)に上京し、華岡真節に医学を学び、1877年(明治10年)8月、医術開業試験に合格し、医術内外科開業免状が交付され医師を開業した。千葉市原郡医会会頭、千葉医学会副会頭なども務めた。 1887年(明治20年)4月、八幡町会議員に選出され1889年(明治22年)7月まで在任。
松岡 鼎(まつおか かなえ、1860年11月15日(万延元年… 松岡 鼎(まつおか かなえ、1860年11月15日(万延元年10月3日) - 1934年(昭和9年)1月28日)は、松岡5兄弟(柳田國男、井上通泰、松岡静雄、松岡映丘)の長男で医師。父は儒者松岡操(約斉)。 神戸師範学校を卒業後、19歳にして昌文小学校(現在の田原小学校)の校長に就任するが、後に東京帝国大学に入学、卒業して医師資格を得、千葉県布佐町(現・我孫子市)に住む。 20歳で家督を継ぎ、近くの村出身の女性と結婚したが離婚した。原因はひとえに「小さな家」のためであった。 最も長命だった弟の柳田國男は、晩年に口述筆記の回想記『故郷七十年』において、「長兄は二十歳で近村から嫁をもらった。しかし私の家は二夫婦住めない家だった。
小山 善(こやま ぜん、1860年9月24日(万延元年8月1… 小山 善(こやま ぜん、1860年9月24日(万延元年8月10日) - 1933年(昭和8年)5月6日)は、日本の医師。宮内省侍医寮御用掛、日本赤十字社医員。伊藤博文や李王世子一家の侍医を務めた。 1860年、現在の新潟県新発田市に生まれる。小山家は医者の家系であった。1891年に発生した濃尾地震に際しては、当時の岐阜県武儀郡関町に設置された赤十字社仮病院で被災者の救護活動に従事した。1909年(明治42年)10月26日、枢密院議長伊藤博文の侍医として彼のハルビン訪問に隨行した際、朝鮮の独立運動家であった安重根の銃撃により重傷を負った伊藤博文の救命処置をする。小山善はこの際のことについて「伊藤公がハルビン駅に到着しロシア軍隊の前を通っていたとき、爆竹のような音を聞き同時に伊藤公が負傷したことを確認したため、直ちに救命活動を行った。
鈴木 万次郎(萬次郎、すずき まんじろう、1860年3月24… 鈴木 万次郎(萬次郎、すずき まんじろう、1860年3月24日(万延元年3月3日)- 1930年(昭和5年)2月26日)は、明治から昭和初期の医師、政治家、実業家。衆議院議員。愛国生命保険創立者。 陸奥国岩瀬郡、のちの福島県岩瀬郡須賀川町 (現須賀川市)で、医師、自由民権家・鈴木俊安の長男として生まれる。会津藩の儒者・橋爪信次郎に漢学を、二本松藩・堀江半峯に詩文を師事した。福島県師範学校予科を経て、1879年(明治12年)に上京し 岡鹿門から詩文を学んだ。訓蒙学舎や外国語学校でドイツ語を学び、さらに東亜医学校で医学を修め、1886年(明治19年)開業試験に合格し医師となった。その後、東京府神田区に神保病院を開設した。
小田 亮(おだ りょう、安政7年1月27日(1860年2月1… 小田 亮(おだ りょう、安政7年1月27日(1860年2月18日) - 1932年(昭和7年)9月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、医師。旧姓・津田、号は怡山。 安芸国高田郡本村(広島県高田郡本村、美土里町を経て現安芸高田市)出身。津田家に生まれ、小田家の養子となった。1883年(明治16年)、広島県医学校(のち、広島医学専門学校→広島医科大学、現在の広島大学医学部)を卒業し、翌年に内務省医師試験に合格して開業した。小田家は有間屋という売薬業を営んでおり、その経営にもあたった。山県郡医会会長、同私立衛生会会長、同市立教育会長を歴任。1893年(明治26年)、広島県会議員に選ばれた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
河本 重次郎(こうもと じゅうじろう、安政6年8月16日(1… 河本 重次郎(こうもと じゅうじろう、安政6年8月16日(1859年9月12日) - 昭和13年(1938年)4月4日)は、日本の医学者、眼科医。帝国大学名誉教授、医学博士。日本近代眼科の父。号は光堂。 但馬国豊岡(現・兵庫県豊岡市)出身。藩校稽古堂で池田草庵に学ぶ。13歳の時、和田垣謙三らと共に郷土の先輩の吉村寅太郎に連れられ上京。横浜在住の叔父・中江種造方からドイツ語の学校へ通う。 東京大学医学部入学。首席で卒業。卒業後は同学部外科学教室の助手を務める。 明治18年(1885年)にドイツ・ベルリン大学に留学。明治22年(1889年)東京大学医学部眼科学教室主任教授に着任。明治24年(1891年)、医学博士の学位を初めて眼科で受けた。
三輪 徳寛(みわ よしひろ、1859年9月9日(安政6年8月… 三輪 徳寛(みわ よしひろ、1859年9月9日(安政6年8月13日) - 1933年(昭和8年)2月19日)は、日本の医師・医学者。医学博士。千葉医科大学(現千葉大学医学部)初代学長。第15回日本外科学会会長。尾張国(現愛知県)出身。 三輪徳寛の故郷尾張国海西郡早尾村(現・愛知県愛西市早尾町)は木曽川河口の立田輪中にあり、徳寛が生まれた安政年間は戸数70戸弱の集落だった。三輪家は早尾村で代々医術を生業とし、祖父三輪景之進は産科を、父三輪徳太郎(字大成)は眼科医を営んでいた。父徳太郎は京都にて眼科医として当時名高かった中目道純に学び、帰郷後の1851年嘉永4年に早尾で開業し評判を得、三輪家は裕福な家であった。
弘田 長(ひろた つかさ、1859年7月14日(安政6年6月… 弘田 長(ひろた つかさ、1859年7月14日(安政6年6月15日) - 1928年(昭和3年)11月27日)は、日本の医師。東京大学小児学教室の初代教授。幼少時の昭和天皇の侍医を務めた。国内で初めて小児科を作った人物であり、国産初のベビーパウダーとなるシッカロールを東京帝国大学薬学科の丹波敬三とともに作った人物でもある。また、日本で最初の小児科学の教科書『児科必携』を出版している。 1859年(安政6年)6月15日、土佐国幡多郡中村町にて、弘田親厚の長男として出生。1871年、13歳で土佐藩の貢進生に選ばれて上京。この貢進生の制度は終わったが、勉強を続け、1880年7月に東京大学医学部を卒業して医学士の学位を得、助手としてユリウス・スクリバ教授のもとで外科を修業した。
榊 順次郎(さかき じゅんじろう、1859年7月12日(安政… 榊 順次郎(さかき じゅんじろう、1859年7月12日(安政6年6月13日) - 1939年11月16日)は、日本の産婦人科医。 沼津藩蘭方医・榊令輔の次男。兄は榊俶、弟は榊保三郎。1883年東京大学(のち東京帝国大学)医学部別科卒業、ドイツに留学、産科婦人科を研究し、帰国後医学博士。榊産婦人科病院を設立、日本産婆看護学校を設立し校長となる。墓所は染井霊園(1イ-5-5)。妻は陸軍獣医監・桑島景連の娘みの子、息子に医師の榊邦彦、女婿・養子に榊忠三がいる。 1892年に、脚気の原因を白米中に含まれる毒素に求めた。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。
杉田 雄(すぎた いさお/ゆう、安政5年12月22日(185… 杉田 雄(すぎた いさお/ゆう、安政5年12月22日(1859年1月25日) - 1906年(明治39年)7月31日)は、明治時代の兵庫県神戸市の外科医。県立神戸医学校教諭・神戸病院副院長、私立杉田病院長、神戸市医師組合初代組長。脊髄炎で早世した。号は春嵐。杉田玄白4世孫。 安政5年12月22日(1859年1月25日)江戸浜町山伏井戸(東京都中央区日本橋浜町二丁目)に杉田玄端の四男として生まれた。幼名は英吉/英吉郎。7歳で木村二梅に習字、高須某に漢学を学んだ。 明治元年(1868年)10月、徳川宗家の転封に従い両親・弟杉田盛と共に沼津八幡町柳下知之旧宅に移り、沼津兵学校附属小学校に通いながら、相磯格堂にも漢籍を学んだ。
相磯 慥(あいいそ まこと、1858年3月20日〈安政5年2… 相磯 慥(あいいそ まこと、1858年3月20日〈安政5年2月6日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月18日)は、日本の医師。宮中顧問官。 東京府出身。小柴家に生まれ、相磯格堂の養子となった。のち格堂の娘・正子と結婚。1882年(明治15年)、東京大学医学部を卒業し、岐阜県立医学校長・附属病院長ののち、ドイツに留学。1888年(明治21年)に侍医となった。専門は産婦人科。1924年(大正13年)に侍医を辞し、宮中顧問官に就任した。 食品微生物学者の相磯和嘉、永井荷風の側近の相磯凌霜は、義理の甥に当たる。
池辺 棟三郎(池邊、いけべ とうざぶろう、1858年3月10… 池辺 棟三郎(池邊、いけべ とうざぶろう、1858年3月10日(安政5年1月25日) - 1926年(大正15年)4月13日)は、明治から大正時代の医師。宮中顧問官。旧姓は渡邊。子孫に香川京子と池辺晋一郎がいる。 渡邊建節の二男として豊後国(現大分県)に生まれ、1888年(明治21年)5月、池辺田村の養嗣子となり家督を相続する。1871年(明治4年)加藤賢成の門に入り漢学を修め、1873年(明治6年)大分町英学校、豊前中津において英語を研鑽したのち上京しドイツ人・ヒュルゲルマイステルに従いドイツ語を修めた。同年9月、東京外国語学校に進んだのち、翌年3月、帝国大学医学部に入り、1886年(明治19年)10月に卒業し、医学士の称号を得た。
尾澤 主一(おざわ しゅいち、1858年 - 1889年6月… 尾澤 主一(おざわ しゅいち、1858年 - 1889年6月21日)は、日本の医師、医学者(小児科学)。学位は医学士(東京大学・1883年)。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、新字体で尾沢 主一(おざわ しゅいち)とも表記される。旧姓は陣ノ內(じんのうち)。旧姓の「內」は「内」の旧字体のため、新字体で陣ノ内(じんのうち)とも表記される。 帝国大学医科大学助手などを歴任した。 武蔵国出身の医師である。東京大学医学部で学び、帝国大学医科大学にて小児科を担当した。また、ドイツ国の医学者であるカール・シュローダーの著作の翻訳を手掛けるなど、西洋の進んだ医療を紹介し、大日本帝国の医学の発展に尽力した。ドイツ国に留学したものの病にかかり、帰国途上に清で客死した。
臼井 幾蔵(うすい いくぞう、安政4年(1857年) - 昭… 臼井 幾蔵(うすい いくぞう、安政4年(1857年) - 昭和10年(1935年)1月)は、日本の医師。旧姓田淵。 二男・宗の妻は元鳥取県知事石破二朗(政治家石破茂の父)の姉。 鳥取県八上郡本角村(現鳥取市河原町)の医師・田淵養玄の二男。 幼時より学問もよく出来、佐貫の円浄寺の住職に漢書を学び、長じて鳥取川端一丁目で外科を開業していた黒川樹平について医学を学んだ。 明治17年(1884年)医師開業試験に合格。はじめ小畑で開業していたが臼井宗順の家を継いでからは市場で開業した。幾蔵は性格は厳格であったが常に西洋医学を学び新しい医療器具や技術を取入れて診療していたという。 外科が得意で、開業して間もない頃壊疽の患者の大腿切断術を施して村人達を驚服させたと伝えられている。
佐藤 三吉(さとう さんきち、1857年12月30日(安政4… 佐藤 三吉(さとう さんきち、1857年12月30日(安政4年11月15日) - 1943年(昭和18年)6月17日)は明治〜昭和期の外科医、医学博士、貴族院議員。美濃国大垣藩(現岐阜県大垣市)出身。 東京帝国大学教授、東京帝国大学医科大付属医院長、東京帝国大学医科大学長として、同じ岐阜県出身の青山胤通とともに、日本近代医学の創生期に活躍した。 佐藤三吉は1857年(安政4年)に大垣藩士佐藤只五郎の三男として生まれた。1870年(明治3年)父が死去し、義兄安藤就高の援助を受け上京し勉学の場を与えられた。 妻の滋子(1871年生)は小崎利準の長女。 実弟に東京興信所所長の佐藤正美、興業主の米山米吉がいる。
清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈18… 清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈1857年11月29日〉 - 明治18年2月26日〈1885年〉)は、日本の医学者、産婦人科医。医学博士第1号。初代の東京大学医学部産婦人科学教授。広島県吉津村(現・福山市)生まれ。 慶応元年(1865年)、藩校誠之館(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学、早くからその穎才を認められ明治2年(1869年)には、全国各藩の俊才数十名が選抜された東京遊学に、16歳から20歳という年齢制限が有るにもかかわらず12歳にして選ばれる。 明治4年(1871年)、大学南校(現・東京大学)入学、独学を専攻。翌明治5年(1872年)、大学東校(現・東京大学医学部)に転入。
伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9… 伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9月9日) - 1926年(大正15年)8月5日)は、日本の明治より大正期にかけての医師・政治家・思想家。現在の青森県出身で、青森県医師会会長や弘前市長、衆議院議員を歴任した。今東光の母方の伯父にあたる。 1857年(安政4年)旧暦9月9日の重陽節句の日に、現在の弘前市元長町において、津軽藩典医伊東家久・もと夫妻の次男として生まれる。幼名は滝次郎と称した。 1865年(慶応元年)、原子塾に入塾。後に黒滝学校に転じ、1868年(明治元年)藩校稽古館に入学。1871年(明治4年)藩命により英学修行を命じられ、英学塾(翌年東奥義塾と改名)に入塾。
榊 俶(さかき はじめ、安政4年8月28日(1857年10月… 榊 俶(さかき はじめ、安政4年8月28日(1857年10月15日) - 明治30年(1897年)2月6日)は、明治期の医師、医学博士。幼名は善太郎。父は蘭学者の榊令輔。弟の榊順次郎と榊保三郎も医学者である。 はじめ駿府において堀越愛国のもとで英学を学んだとされる。明治13年(1880年)に東京大学を卒業後、明治15年(1882年)にベルリン大学に留学し精神病学を専攻した。明治19年(1886年)に帰国、帝国大学医科大学教授に就任し、精神病学教室を開設、帝国大学医科大学草創期において精神病、精神衛生、小児精神論、看護法を講じ、剖検、司法精神鑑定相馬事件など幅の広い活動を行なった。墓所は染井霊園(1イ-5-8)。
中浜東一郎(なかはま とういちろう、安政4年7月7日(185… 中浜東一郎(なかはま とういちろう、安政4年7月7日(1857年8月26日)- 1937年(昭和12年)4月11日)は、日本の医師、医学者。ジョン万次郎の子。 中浜万次郎の長男として江戸土佐藩邸中屋敷にて出生。明治5年(1872年)、横浜十全医院に入り医学を研修、翌6年(1873年)に大学東校に入り、明治14年(1881年)に(旧)東京大学医学部を卒業。 1881年(明治14年)に福島県医学校校長に任命され、その後、岡山・金沢各医学校教授兼病院長を歴任。1885年(明治18年)10月、内務省の命により、衛生学に属する部分の研究のためドイツへ留学差遣される。1886年(明治19年)1月、ライプツィヒ大学衛生試験所の衛生学ホフマン教授に師事する。
佐藤 佐(さとう たすく、1857年3月6日〈安政4年2月1… 佐藤 佐(さとう たすく、1857年3月6日〈安政4年2月11日〉 - 1919年〈大正8年〉3月3日)は、明治期の医師、医学者、順天堂医院副院長。大日本薬局方調査會委員。 佐倉藩士井上信利の三男井上虎三として生まれ、11歳で藩医佐藤尚中に入塾する。大学東校に入り、1878年夏、脚気の再発で足腰が立たないまでの症状に陥ったが翌年から復学、1881年3月、東京大学医学部を卒業。卒業が確定となった事で佐藤尚中の三女:楽との婚姻を結び、佐藤家へ養嗣子となる。 同期は三浦守治、高橋順太郎、中濱東一郎、森林太郎、賀古鶴所であった。 明治15年(1882年)2月4日、佐藤佐と同じく明治14年度派遣留学生、三浦守治、榊俶、高橋順太郎とフランス客船メンザリー号で横浜港を出発、3月23日にベルリンに到着、ドイツ及びオーストリアに私費留学、1886年(明治19年)に帰朝し、順天堂医院の内科医療に従事する。
平野 友輔(ひらの ともすけ、1857年2月3日〈安政4年1… 平野 友輔(ひらの ともすけ、1857年2月3日〈安政4年1月9日〉 - 1928年〈昭和3年〉4月3日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員。 相模国高座郡藤沢宿(のち神奈川県高座郡藤沢大坂町、現:藤沢市)で、薬種商・平野六三郎、ツル夫妻の長男として生まれる。読書院(後の耕余塾)に通い小笠原東陽に漢学を学んだ。1875年(明治8年)10月、第十八大区小学校(現藤沢市立藤沢小学校)の代用教員となる。1880年頃から自由民権運動に加わる。1883年8月、東京大学医学部別課を卒業した。 1884年、神奈川県南多摩郡八王子に移住し医院を開業して、診療は午前のみで、午後には民権運動の活動を行う。八王子でキリスト教に入信。
長町 耕平(ながまち こうへい、安政3年(1856年)11月… 長町 耕平(ながまち こうへい、安政3年(1856年)11月 - 大正8年(1919年)6月23日)は、香川県出身の医師、山梨県病院院長、香川県立高松病院長。号は象東、藻海。 讃岐国高松藩富熊村(現在の香川県丸亀市)の薬種商、長町徳兵衛の子として生まれる。明治14年(1881年)7月に東京帝国大学医科大学を卒業、新潟県の公立三条病院長を経て、明治17年(1884年)2月8日に山梨県病院(現在の山梨県立中央病院)の第5代院長となり、明治24年(1891年)4月2日まで務めた後、香川県立高松病院長となり、明治31年(1898年)には高松市西新通町に拙誠堂医院を開業。また、高松市会議員を務めている。 山梨県内における地方病 (日本住血吸虫症)の最初の公式記録である、明治14年(1881年)に東山梨郡春日居村から東山梨郡役所経由で山梨県に提出された、その惨状を訴え出た「御指揮願」、明治17年(1884年)2月20日に同村から再度の上申書が提出され、当該上申書に基づき山梨県が同年3月15日に検診医を現地に派遣しているが、その後も、予防の方法もないまま地方病の患者が増加していく村の現状を憂いた同村は、明治20年(1887年)2月10日付で再度地方病の原因調査を山梨県に上申している。
瀬川 昌耆(せがわ まさとし、安政3年4月17日〈1856年… 瀬川 昌耆(せがわ まさとし、安政3年4月17日〈1856年5月20日〉- 1920年(大正9年)12月21日)は、日本の医学者、小児科医。医学博士。瀬川小児病院初代院長。
川俣 英夫(かわまた ひでお、1856年5月11日〈安政3年… 川俣 英夫(かわまた ひでお、1856年5月11日〈安政3年4月8日〉 - 1924年〈大正13年〉1月23日)は、現在の栃木県那須烏山市出身の医師、教育者。 1856年4月下野国烏山藩に生まれる。14歳のとき、烏山藩学校に入門。横浜の高島学校、修文館を経て東京英語学校(後の東京大学予備門)に入学。帝国大学医学部別科、東亜医学校をへて1880年(明治13年)東京府医学開業試験に合格し、郷里にて開業する。烏山町町議会議員、烏山町長を歴任する。医師として万民公平の観点から、貧困者の積極的治療を行う傍ら、地域教育の重要性を真摯に考え、県立中学校の設立を栃木県に誓願するも、却下されてしまう。その後、私財を投じて私立烏山学館(後の私立烏山中学校をへて、栃木県立烏山中学校から、現在の栃木県立烏山高等学校の前身)を設立。