川田 晴久(川田 義雄)(かわだ はるひさ(かわだ よしお)… 川田 晴久(川田 義雄)(かわだ はるひさ(かわだ よしお)、本名:岡村 郁二郎、1907年〈明治40年〉3月15日 - 1957年〈昭和32年〉6月21日)は、昭和期を代表する日本の俳優、歌手、コメディアン、ボードビリアン。いわゆるボーイズものの創始者である。灘康次を始め、多くの弟子を育てたことでも知られる。また、美空ひばりの「師匠」または「芸能界の育ての親」としても、近年、再評価が為されている。戦前は主に吉本興業(東京吉本)所属。 東京府東京市本郷区根津の印刷所を経営する岡村嘉松の子として生まれる。貧しかった少年時代に、家々の屋根を棒で飛び越えるという遊びに興じていた際に転落してしまう。この不慮の事故により脊椎カリエスを患うことになり、これが終生川田を悩ませる病となる。
平原 寿恵子(ひらはら すえこ、1907年(明治40年)1月… 平原 寿恵子(ひらはら すえこ、1907年(明治40年)1月24日 - 1993年(平成5年)2月20日)は日本の声楽家(ソプラノ。ただしアルト、メゾソプラノを歌った記録がある)。音楽教育者。名前は壽惠子、壽恵子と表記されることがある。 東京府(現:東京都)出身。童謡歌手として1924年(大正13年)『叱られて』を東京レコードに吹き込む。1931年(昭和6年)東京音楽学校卒。1933年(昭和8年)東京音楽学校研究科修了。ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。1934年(昭和9年)東京音楽学校教授( - 1974年(昭和49年)東京芸術大学教授)。1935年(昭和10年)2月 日比谷公会堂におけるクラウス・プリングスハイム指揮、東京音楽学校オーケストラ第74回定期演奏会のマーラー交響曲第3番全曲日本初演のアルト独唱を務める。
嘉納 愛子(かのう あいこ、1907年〈明治40年〉1月1日… 嘉納 愛子(かのう あいこ、1907年〈明治40年〉1月1日 - 2016年〈平成28年〉3月29日)は、日本の声楽家(メゾソプラノ)・音楽教育者。相愛大学名誉教授(2011年時点)。 大阪府大阪市出身。官吏の家に生まれた三人姉妹の末っ子。親和高等女学校卒。東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部声楽科)に入学。高木東六や四家文子と同級。卒業後、山田耕筰の数少ない弟子の一人となり、山田らが確立した「日本歌曲」の真髄を叩き込まれる。修業を終えて帰阪後も声楽家として活動し、大阪BK(NHK大阪放送局)のラジオ放送や公演に出演するが、1934年(昭和9年)に旧家として名高い(嘉納家は嘉納財閥として知られる)灘の酒造家の嘉納鉄夫と結婚して引退。
飯島 綾子(いいじま あやこ、1907年 - 1954年9月… 飯島 綾子(いいじま あやこ、1907年 - 1954年9月25日)は、日本の舞台女優、日本舞踊家、歌手、声優。主に戦前の昭和初期に活躍した。本名は飯田 日出子(いいだ ひでこ)。舞踊家としては藤間 勘秀(ふじま かんひで)を名乗る。元夫は俳優の三島雅夫。 東京府東京市赤坂区(現・東京都港区赤坂)出身。幼少時に父親を亡くし、仕立物で生計を立てる母親のもとで育つ。 1921年(大正10年)に帝国劇場付属技芸学校(旧・帝国女優養成所。女優川上貞奴の創立した養成所)の7期生として入学し、1923年(大正12年)に卒業。同期に女優の河原崎しづ江(山岸静江→山岸しづ江)・舞踊家の吾妻徳穂(藤間春江)らがいる。
音丸(おとまる、1906年〈明治39年〉12月8日 - 19… 音丸(おとまる、1906年〈明治39年〉12月8日 - 1976年〈昭和51年〉1月18日)は、大正、昭和時代に活躍した日本の歌手。本名:永井 満津子。東京市麻布区(現在の東京都港区)麻布箪笥町生まれ。 1906年(明治39年)12月8日、麻布の老舗履物屋の店主永井幾吉の一人娘として生まれる。常磐津の名取りだった祖母は彼女が6歳になった6月6日から常磐津と舞踊を習わせた。13歳の時に美声を買われて橘流筑前琵琶を修行、旭翁派の名手としても知られるようになる。17歳のときには春日派の小唄を始めている。 しかし1930年、25歳のときに溺愛していた弟の幸太郎が亡くなり、重いノイローゼになる。その頃近所の民謡マニアの家に時々尺八の菊池淡水が指導に来ていて、いつしか聴き覚えた民謡を歌っているうちに病気が快方に向かい、心が晴れてくるのに気付いた。
市丸(いちまる、1906年7月16日 - 1997年2月17… 市丸(いちまる、1906年7月16日 - 1997年2月17日)は、昭和期の芸者歌手。本名は後藤 まつゑ(ごとう まつえ)、後藤聿古(いつこ)とも名乗っていた。端唄や小唄では江戸小歌市丸(えどこうた いちまる)の名前で活動した。江戸小歌中村派17世家元。近衛文麿の愛人でもあった。 明治39年(1906年)7月16日、長野県松本市で生まれる。本名、後藤まつゑ。16歳のとき、松本市の奥座敷として知られる浅間温泉で半玉(芸者見習い)となり、蝶々と名乗った。客に求められた長唄を知らず悔しい思いをしたことがきっかけとなり、単身19歳で上京。大正15年(1926年)6月18日、浅草の一松家から市丸の名で芸者お披露目し、清元・長唄・小唄それぞれで名取となるまでの精進を重ねた。
渡辺 光子(わたなべみつこ、1906年(明治39年)4月11… 渡辺 光子(わたなべみつこ、1906年(明治39年)4月11日 - 2003年(平成15年))は昭和期の歌手。他に和田春子等、多くの芸名がある。 東京都出身。東京高等音楽学院卒業後、東京音楽学校で教鞭をとる傍ら、レコード吹込みを行う。 1932年(昭和7年)には、7月に発売した「旅は青空」、和田春子名義で10月に発売したパーロフォンレコード「幌馬車の唄」、そして渡瀬春枝名義の11月発売「時雨ひととき」(池上利夫(松平晃)「忘られぬ花」B面)がそれぞれ別名で大ヒットを記録した。翌年も「街の流れ鳥」の大ヒットを飛ばすなど数々のヒット曲と共に、その別名の多さで知られた。 また、1937年(昭和12年)7月ポリドールレコード発売の「春の唄」も大ヒットする。
佐々木 章(ささき あきら、1906年(明治39年)2月16… 佐々木 章(ささき あきら、1906年(明治39年)2月16日 - 1963年(昭和38年))は昭和期の歌手、作曲家。 北海道函館市出身。函館商業学校中退。1936年(昭和11年)末より大村能章に声楽を師事した。1937年(昭和12年)9月に発売された「露営の歌」の吹き込みに参加。 戦後は作曲家として活動。デビュー前の三波春夫などを指導した。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
四家 文子(よつや ふみこ、1906年(明治39年)1月20… 四家 文子(よつや ふみこ、1906年(明治39年)1月20日 - 1981年(昭和56年)7月16日)は、昭和期の歌手、声楽家。息子は元日本テレビプロデューサーの横田岳夫。 東京府出身。東京府立第三高等女学校の1学年上には女優の高島愛子がいた。東京音楽学校でネトケ=レーヴェに師事。首席で卒業後、「不壊の白珠」で歌手デビューする。とはいえ、四家が契約したビクターは当時、「波浮の港」「東京行進曲」「愛して頂戴」「紅屋の娘」などのヒット曲を連発していた佐藤千夜子がトップ歌手だったので、四家のデビューは小さいものだった。それに四家自身は「音楽学校卒業者があまり低俗にはしるのもよくない」として藤野豊子という変名で吹き込みも行っていた。
杉井 幸一(すぎい こういち、1906年〈明治39年〉 - … 杉井 幸一(すぎい こういち、1906年〈明治39年〉 - 1942年 〈昭和17年〉 4月5日)は、日本の編曲家、男性歌手、アコーディオン奏者。彼は日本のジャズのパイオニアとみなされている[誰によって?]。彼の音楽アレンジは、東アジアと西洋の音楽スタイルを巧みに融合させ、アメリカのオーケストラジャズ、日本の民謡、中国の民謡を組み合わせることで、複雑で多様かつ旋律豊かな音楽スタイルを生み出した。ある研究者[誰?]は彼の音楽を「戦前・戦時中の日本のジャズにおいて最も魅力的な独創的なスタイルのひとつ」と評し、また別の研究者[誰?]は「日本の戦時ジャズの頂点」と称賛した。 大阪商船社員から音楽家へ転身した日本の編曲家・バンドリーダー。
薗田 誠一(そのだ せいいち、1905年〈明治38年〉10月… 薗田 誠一(そのだ せいいち、1905年〈明治38年〉10月5日 - 1986年〈昭和61年〉8月3日)は、日本の声楽家(テノール)、オペラ歌手、音楽教育者、音楽評論家、音楽学者、合唱指揮者。お茶の水女子大学名誉教授。 千葉県出身。1930年(昭和5年)東京音楽学校(現: 東京藝術大学音楽学部)卒業。マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ、ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 卒業後、戦前からリサイタル、コンサートで活動し、特にドイツ歌曲を得意とした。 戦後まもなく演奏活動に復帰。門下生の柴田睦陸が結成し、二期会の母体となった東京藝術大学歌劇研究部 ベルリオーズ『ファウストの劫罰』の主役ファウストを務めている。
丸山 和歌子(まるやま わかこ、1905年〈明治38年〉8月… 丸山 和歌子(まるやま わかこ、1905年〈明治38年〉8月22日 - 1945年〈昭和20年〉)は、戦前に活動した日本の女性歌手。ステージからレコードで活動し、その分野では珍しく広い音域(特に高音のソプラノ)を持つ歌手だった。浅草オペラ館で活躍した。 東京・神田で篠原幼稚園を営む丸山和太郎の次女として生まれる。女子学院を経て、東洋音楽学校本科声楽部を卒業。永井郁子らに師事。 卒業後は、姉とともに実家の幼稚園経営を引き継いだ。1931年に浅草の金龍館で歌手デビューし、同年にはレコードもリリースされた。ステージに立つと「ワカちゃーん」というかけ声が上がったという。 1937年(昭和12年)にレコード歌手を引退した後はステージでの歌手活動を続け、戦争中は慰問活動で歌声を披露した。
伊藤 武雄(いとう たけお、1905年(明治38年)8月2日… 伊藤 武雄(いとう たけお、1905年(明治38年)8月2日 - 1987年(昭和62年)12月2日)は、日本の声楽家(バリトン)、教育者。広島県広島市出身。 1930年東京音楽学校(東京芸術大学)卒業。研究科に残りヘルマン・ヴーハーペニッヒ、ネトケ=レーヴェに師事。1935年デビューリサイタル。戦前から歌曲とオペラに活躍。1937年日中戦争に召集され従軍、上海の戦闘で右手を失うが、帰国後は母校の助教授として後進の育成に尽力した。またコロムビア・レコード専属となり、ドイツ歌曲の吹き込みを行う。1940年山田耕筰に請われオペラ『夜明け』で初舞台。しかし助教授がオペラに出るのは学校も文部省も当時許さず、学校は退職した。
松島 詩子(まつしま うたこ、本名:内海 シマ、1905年〈… 松島 詩子(まつしま うたこ、本名:内海 シマ、1905年〈明治38年〉5月12日 - 1996年〈平成8年〉11月19日)は、日本の歌手。山口県玖珂郡日積村(現在の柳井市の一部)出身。夫は戦前期浅草オペラやニットーレコードで歌手として活躍した内海一郎(1898年 - 1972年)。 テレビ東京系「出没!アド街ック天国」のワンコーナー「〇〇物語」のBGMにこの曲のインストゥルメンタルが使われている。
曽我 直子(そが なおこ、1905年 - 1995年7月24… 曽我 直子(そが なおこ、1905年 - 1995年7月24日)は、昭和初期に活動した日本の歌手である。本名は岡田 田鶴(おかだ たづ)。別の芸名として浅香 つる江がある。蒲田行進曲を川崎豊とデュエットで歌ったことで知られる。 1905年、愛知県で生まれる。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)声楽科、帝国劇場歌劇部(のちの洋劇部。1912年-1916年)研究生を経て歌手となる。主にニッポノホン、コロムビア、ヒコーキ(3つとも現在はコロムビアミュージックエンタテインメント)等のレコードレーベルで多くの曲を歌い、ヒット歌手となった。1995年7月24日死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、歌手に関連した書きかけの項目です。
榎本 健一(えのもと けんいち、1904年(明治37年)10… 榎本 健一(えのもと けんいち、1904年(明治37年)10月11日 - 1970年1月7日)は、日本の俳優、歌手、コメディアンである。当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていった。「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で国民的喜劇俳優として活躍した。 東京市赤坂区青山(現在の東京都港区青山)で生まれる。幼少期に母を亡くし、その家系の祖母が引き取るが、その祖母も死去。父親の元で育てられるものの、生来のやんちゃな性格が仇となり、学校から親が呼び出されることもしばしばあった。小学校時代の通信簿に「修身」で「甲乙丙丁」の落第点である「丁」をつけられて、鉛筆で上手に丁の字に線を書き加えて「甲」に見せかけて父親に見せたが、すぐに見破られて大変叱られたエピソードがある。
城多 又兵衛(きた またべえ、1904年(明治37年)3月3… 城多 又兵衛(きた またべえ、1904年(明治37年)3月30日 - 1979年(昭和54年)3月30日)は、日本の声楽家(テノール)、音楽教育者、音楽学者、作曲家。 三重県出身。三重県立津中学校(現・三重県立津高等学校)卒業。1929年(昭和4年)東京音楽学校卒業。1931年(昭和6年)東京音楽学校研究科修了。同年イタリアにわたり、1934年(昭和9年)までローマのサンタ・チェチーリア音楽院に学ぶ。船橋栄吉、スコラーリに師事。 1936年(昭和11年)ヴェルディ『レクイエム』で歌手デビュー。同年演奏会形式でヴェルディ『椿姫』アルフレードを歌い、のちベルリオーズ『ファウストの劫罰』や、オペラにも出演。
浅野 千鶴子(あさの ちづこ、旧字体: 淺野 千鶴子 、19… 浅野 千鶴子(あさの ちづこ、旧字体: 淺野 千鶴子 、1904年(明治37年)3月22日 - 1991年(平成3年)3月3日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。東京藝術大学名誉教授。民謡歌手で秋田県出身の浅野千鶴子は同姓同名の別人。 高知県高知市出身。1927年(昭和2年)東京音楽学校研究科修了。永井郁子に師事し、マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ、長坂好子の指導も受けた。1920年代から文化学院の教壇に立つ。1929年(昭和4年)4月 京城で「山田耕筰作品発表会」に出演(ピアノ:山田耕筰、ヴァイオリン:黒柳守綱、ソプラノ:浅野千鶴子)。1930年(昭和5年)東京でリサイタル・デビュー。1935年(昭和10年)東京音楽学校第75回定期演奏会(於:日比谷公会堂)でバッハ『聖母讃歌』ソリスト(指揮:クラウス・プリングスハイム、ソプラノ:浅野千鶴子、メゾソプラノ:田中伸枝、アルト:齋藤英子、テノール:木下保、バス:伊藤武雄)。
木下 保(きのした たもつ、1903年(明治36年)10月1… 木下 保(きのした たもつ、1903年(明治36年)10月14日 - 1982年(昭和57年)11月11日)は、日本の声楽家(テノール)、音楽教育者、指揮者、合唱指揮者、オペラ歌手、音楽評論家、作曲家・編曲家。日本の洋楽の黎明期を代表する音楽家として多大な功績を残した。 兵庫県城崎郡豊岡町(現: 豊岡市)に三人兄弟の次男として生まれる。父・松吉は特産「柳行李」製造卸業。1920年(大正9年)3月上京。ヴァイオリンを川上淳、声楽を澤崎定之に師事。1922年(大正11年)4月東京音楽学校予科入学。1926年(大正15年)同校本科声楽部を卒業し研究科進級。ペツォード、ネトケ=レーヴェに師事。 ベートーヴェン『第九』は、学生時代に東京音楽学校定期演奏会での公式初演で合唱団メンバーとして参加し、1927年(昭和2年)5月新交響楽団(現「NHK交響楽団」の前身)による初演奏「ベートーヴェン没後百周年演奏会」でソリストとしてデビュー。
新橋 喜代三(しんばし きよぞう、女性、1903年10月12… 新橋 喜代三(しんばし きよぞう、女性、1903年10月12日 - 1963年3月23日)は昭和初期から中期に活躍した芸者歌手。鹿児島県の種子島熊毛郡北種子村(現在の西之表市)出身。本名は中山嘉子。旧姓は今村、旧名はタネ。(読み方は同じで「タ子」と書かれた書物もある)。作曲家中山晋平の後妻。享年59。 1903年(明治36年)10月12日、鹿児島県種子島熊毛郡北種子村(現・西之表市)で父今村正義、母チカの元に9人兄妹の長女(第1子)として誕生。出生地の種子島に因んで「タネ」と名付けられた。間もなく両親と鹿児島市に移り住む。 正義は本来畳職人であったが、水商売を好み旅館や料亭など幾多の商売を手がけるもいずれもうまく行かず、鹿児島市内を転々として過ごした。
徳山 璉(とくやま たまき、1903年〈明治36年〉7月27… 徳山 璉(とくやま たまき、1903年〈明治36年〉7月27日 - 1942年〈昭和17年〉1月28日)は、戦前から戦中に活躍した日本の声楽家(バリトン)・流行歌手・俳優。愛称は「徳さん」。 1903年(明治36年)7月27日、神奈川県高座郡藤沢町(現在の同県藤沢市)の開業医の家に生まれた。 開校したばかりの逗子開成中学校(現在の逗子開成高等学校)を経て、1928年(昭和3年)、東京音楽学校声楽科(現在の東京芸術大学音楽学部声楽科)を卒業。武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)の教師になったが、流行歌手として日本で初めて大スターになった佐藤千夜子のピアノ伴奏をした縁で、1930年(昭和5年)、ビクターから『叩け太鼓』で流行歌手としてデビュー。
奥田 良三(おくだ りょうぞう、1903年6月12日 - 1… 奥田 良三(おくだ りょうぞう、1903年6月12日 - 1993年1月27日)は、日本のテノール歌手。 1903年(明治36年)6月12日に北海道札幌区(現・札幌市)で生まれる。後に陸上選手となる南部忠平は幼稚園からの幼なじみ。北海道庁立札幌第一中学校3年修了時に上京。同郷の先輩である梁田貞の世話により、成城中学校と東京音楽学校分教場夜間部に入り、また村井満寿から個人レッスンを受ける。1922年(大正11年)に東京音楽学校に入学するが、翌1923年の関東大震災により国内での勉学を断念し、同校を中退。その後渡欧して、ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミア、ベルリン音楽大学で声楽を学ぶ。帰国後、1934年(昭和9年)ポリドールレコードから映画『狂乱のモンテカルロ(ドイツ語版)』主題歌「モンテ・カルロの一夜」「これぞマドロスの恋」や、映画『会議は踊る』主題歌「命かけて只一度」を吹き込む。
牧 嗣人(まき つぐんど、1903年6月2日 - 1987年… 牧 嗣人(まき つぐんど、1903年6月2日 - 1987年1月13日)は、日本のバス歌手、俳優である。 1903年(明治36年)6月2日、大分県にうまれる。 大阪に出て、関西学院大学神学部に入学するが中退し、外山国彦に師事した。東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)に入学、卒業後、山田耕筰に師事した。 1930年代(昭和初年)、フランスに渡り、俳優に転向、マルセル・レルビエやクリスチャン=ジャック、フランス時代のロバート・シオドマクの作品に出演した。フランス映画『Macao, l'enfer du jeu』やドイツ映画に出演[要出典]している。 1940年(昭和15年)には帰国し、東宝映画に2作出演、いずれも歌う役である。
佐藤 美子(さとう よしこ、1903年5月25日 - 198… 佐藤 美子(さとう よしこ、1903年5月25日 - 1982年7月4日)は、日本の声楽家・オペラ歌手である。日本国内で初めて『カルメン』を演じ、「カルメンお美」と呼ばれる。 1903年5月25日、神戸税関の職員の佐藤友太郎とフランス人の母・ルイズのもと、5人兄弟の末っ子として生まれた。兄に英夫、勇次、明来がいる。後に妹のミチが生まれた。姉の綾子は鹿児島県出身の弁護士で薬品貿易業を営む大嶺俊介の妻となる。 父の友太郎は長崎県出身の佐藤元狩の長男として文久2年8月に生まれた。元狩は維新後京都府に出仕しフィラデルフィア万国博覧会委員として渡米したが、1876年4月30日にサンフランシスコにおいて病死した。
ベルトラメリ 能子(ベルトラメリ よしこ、1903年4月1日… ベルトラメリ 能子(ベルトラメリ よしこ、1903年4月1日 - 1973年8月2日)は、日本の声楽家・ソプラノ歌手。旧姓は鐵(てつ)。 1903年(明治36年)4月1日に鉄信夫、こん夫妻の長女として生まれた。生家の鉄家は茨城県多賀郡大津町(現・北茨城市)で遠洋漁業と缶詰製造業を営む旧家であり、能子の祖父鉄伝七は茨城県議(2期)、第19代茨城県会議長を務めた。日露戦争後に鉄家は家業の水産業を東京の水産会社に譲渡し、一家で東京に移った。 8歳頃から東京で育つ。1917年(大正6年)4月に東京音楽学校(現東京芸術大学)乙種師範科に入学し、1918年(大正7年)3月に卒業。引き続き東京女子音楽園で学んだのち、高輪尋常小学校で教師をしながら矢野寿美子、山田耕筰、米国人女性バーカーに師事し、アドルフォ・サルコリにベルカント唱法を学んだ。
高井 ルビー(たかい ルビー、1903年2月7日 - 197… 高井 ルビー(たかい ルビー、1903年2月7日 - 1972年7月5日)は、日本の歌手、女優である。本名は「天田 春音(あまだ はるね)」。大正期~昭和初期の浅草オペラでソプラノの歌姫として活躍。 東京都本所区向島にて出生。東京育ちではあるが、祖父は群馬の博徒国定忠治の子分の一人であり左の腕にあたる人物であったという。 鎌倉高等女学校を卒業後、歌手・井上起久子に師事。1920年に演出家の獏与太平に見初められオペラ女優の仲間入りを果たす。初期の芸名は「高井爾美」(読み同じ)。この芸名は井上に付けられたという。なお、芸名の由来は駆け出しの頃大学生のパーティに招かれた際、指輪がないので小道具の指輪をはめて行き、学生に「あっ、高いルビー」と言われたのにちなんだと言われる。
石田 一松(いしだ いちまつ、本名同じ、1902年11月18… 石田 一松(いしだ いちまつ、本名同じ、1902年11月18日 - 1956年1月11日)は、日本の政治家、演歌師、演歌歌手。作詞家、作曲家。位階は正五位。 芸人で、吉本興業(東京吉本)所属。戦前の一時期、石田一涙と芸名を名乗る。戦後は並行して衆議院議員を務め、タレント議員第一号とされる。身長五尺四寸、体重十七貫(自著記載より)。なぎら健壱は孫弟子にあたる。諷刺の先駆者、及びシンガーソングライターの先駆けともされ、その弾き語りは一世を風靡した。 広島県安芸郡府中村字山田(現府中町)生まれ。3歳で実母とは生き別れて、その後4人の継母に育てられた。うち3人の継母から虐められこれを耐え抜いたという。父・石田喜一は井戸堀職人で、その後米相場で失敗。
河原 喜久恵(かわはら きくえ、1902年(明治35年)9月… 河原 喜久恵(かわはら きくえ、1902年(明治35年)9月21日 - 1997年(平成9年))は昭和期の声楽家(ソプラノ)。 東京府芝区田村町(現在の東京都港区)出身。士官である河原喜久蔵の二女として生まれる。1920年(大正9年)に日本高等女学校(現・相模女子大学)を卒業。1923年(大正12年)に東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)に入学して長坂好子とマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事し、1927年(昭和2年)3月に同校本科声楽部を卒業。1929年(昭和4年)3月に同校研究科声楽部を修了。山田耕筰の推薦によりコロムビアに入社。 1930年(昭和5年)「ザッツ・オーケー」「麗人の唄」、1931年(昭和6年)「月の浜辺」が大ヒット。
羽衣 歌子(はごろも うたこ、1902年(明治35年)4月5… 羽衣 歌子(はごろも うたこ、1902年(明治35年)4月5日 - 1979年(昭和54年)9月7日)は、青森県出身の歌手。本名:加藤絢子。民謡歌手の三島一声は元夫。 東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を卒業後、1930年(昭和5年)にデビュー。1931年(昭和6年)に、広津和郎の小説を原作とした映画「女給」の主題歌「女給の唄」がヒット。日本ビクター蓄音機社の社歌や、「満州行進曲」などを吹き込む[要出典]。その後「東京音頭」で知られる、民謡歌手の三島一声と結婚するが、離婚。 戦後は引退していたが、音楽塾を経営し、歌の指導を行っていた。 昭和40年代の懐メロブームで復帰。1966年(昭和41年)に、田谷力三や榎本健一と共に出演した、第202回三越名人会「浅草オペラ」の歌唱が認められ、文部省芸術祭大衆芸能部門奨励賞を受賞し、再び表舞台へと返り咲いた。
平井 美奈子(ひらい みなこ、1902年(明治35年)3月3… 平井 美奈子(ひらい みなこ、1902年(明治35年)3月31日 - 2004年(平成16年)3月3日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、歌手、童謡歌手、音楽教育者。 旧姓:早川(はやかわ) 実業家、早川鉄冶の子として東京に生まれる。6歳から山田流箏曲を山木派の須藤春賀に学ぶ。1919年(大正8年)青山女学院卒業。東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)でハンカ・シェルデルップ・ペツォルトとマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事し、1923年(大正12年)同校本科声楽部卒業。1925年(大正14年)同校研究科声楽部修了。1925年8月函館市で本居長世・みどり・貴美子、吉田晴風、早川美奈子による演奏。
鳥取 春陽(とっとり しゅんよう、1900年12月16日 -… 鳥取 春陽(とっとり しゅんよう、1900年12月16日 - 1932年1月16日)は大正時代の街頭演歌師。街頭演歌師の立場から洋楽の手法をもって民衆歌謡を創作した。 岩手県新里村(現在の宮古市)出身。本名:鳥取 貫一(とっとり かんいち)。 「籠の鳥」を作曲し、演歌師・作曲家として一世を風靡した。また、ヒコーキ印の帝国蓄音器商会で吹込んだ「船頭小唄」は鳥取春陽の街頭演歌師としての声価を高めた。 1923年、関東大震災後、活動拠点を大阪に移し、歌手兼作曲家として活躍。大正後期、鳥取春陽は絶頂期を迎えた。「すたれもの」「赤いばら」などが街頭やカフェーで流れた。1926年、日本蓄音器商会傘下のオリエントレコード専属となる。
下八川 圭祐(しもやかわ けいすけ、1900年(明治33年)… 下八川 圭祐(しもやかわ けいすけ、1900年(明治33年)11月18日 - 1980年(昭和55年)3月18日)は、日本の声楽家(バス、バリトン)、音楽教育者。藤原歌劇団創設メンバーの一人、二代目総監督。現・学校法人東成学園(昭和音楽大学、昭和音楽大学短期大学部)の創立者。 高知県高岡郡佐川町出身。 1926年(大正15年)東洋音楽学校(現・東京音楽大学)本科声楽科卒業。矢田部勁吉、ベレッティに師事。 1930年(昭和5年)下八川圭祐声楽研究所を創立。ヴォーカル・フォアに参加。1934年(昭和9年)藤原義江とともに藤原歌劇団を創設。同団創設後はその中心メンバーとして『カルメン』の闘牛士役など多くのオペラに出演している。
有馬 大五郎(ありま だいごろう、1900年9月12日 - … 有馬 大五郎(ありま だいごろう、1900年9月12日 - 1980年10月3日)は、日本の音楽教育家、音楽学者、声楽家。NHK交響楽団副理事長、国立音楽大学学長などを歴任。 兵庫県神戸市で江戸時代から続く富裕な米穀肥料卸売商「有馬商店」の当主の家に生まれる。入江尋常小学校(現:神戸市立入江小学校)在学中、東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)出身の音楽教師の感化で音楽に熱中。1913年、兵庫県立第一中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)に入学。1915年、学区変更により兵庫県立第二中学校(現:兵庫県立兵庫高等学校)に編入。1919年、同校卒業。1920年、北海道帝国大学予科入学。同校を1年で中退し、1921年、慶應義塾大学文学部予科に転じる。
金 文輔(キム・ムンボ、日本語読み: きん ぶんすけ、朝鮮語… 金 文輔(キム・ムンボ、日本語読み: きん ぶんすけ、朝鮮語: 김문보、1900年〈光武3年〉 - 没年不明)は大韓帝国出身のバリトン歌手、作曲家。 大韓帝国大邱郡出身。1918年、京城の徽文義塾(朝鮮語版)卒業後に日本に渡航。1919年、東京音楽学校予科に特別入学。1924年3月、同校本科声楽部を修了。東京音楽学校在学中に船橋榮吉とハンカ・ペツォルトに、修了後にマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事。関東学院の音楽教員となった。作曲家としての作品に『朝鮮樵夫の哀調歌』がある。 ソプラノ歌手であった先妻の吉澤なを(金直子)と結婚。移住の直前に文輔の弟子であった長野県出身の宇田豊子(朝鮮名:金朝美、キム・チョミ)と再婚。
村井 満寿(むらい ます、1899年〈明治32年〉10月13… 村井 満寿(むらい ます、1899年〈明治32年〉10月13日 - 1988年〈昭和63年〉9月7日)は、日本のアルト歌手。北海道札幌市の札幌市時計台を題材とした楽曲「時計台の鐘」の歌い手として知られる。同曲の作曲者である高階哲夫は1人目の夫。2人目の夫はバリトン歌手にして日本初の腹話術師でもある澄川久(本名:村井武雄)であり、後夫との子にクラリネット奏者の村井祐児がいる。納豆の研究で知られる農学者の半澤洵は母方の叔父にあたる。 北海道札幌区(後の札幌市)で誕生した。旧姓は相沢。幼少時に、教会の宣教師の賛美歌に感銘を受けて、音楽の道を志した。また自宅の窓からは時計台が針まではっきりと見え、時計台に馴染んで少女期を送った。
関 鑑子(せき あきこ、1899年(明治32年)9月8日 -… 関 鑑子(せき あきこ、1899年(明治32年)9月8日 - 1973年(昭和48年)5月2日)は、日本の声楽家、音楽教育者、音楽評論家。プロレタリア音楽同盟の委員長に選ばれ、「アカイ歌手」と騒がれた。 第二次世界大戦後、日本共産党員として同党の文化政策に基づく実践活動を行い、国内外において、日本のうたごえ運動の創始者と見なされるようになった。 父 関厳(美術評論家。雅号 "関如来")、母 トヨの長女として、東京都本郷区龍岡町(当時)に生まれる。弟に関忠亮。関家は代々郡山藩の江戸詰め御典医の家系で、読売新聞の美術担当だった父親は美術評論の草分けであり、鑑子が生まれた時はパリ万国博覧会 (1900年)へ出品する美術品の鑑定官をしていたことから、娘の名に「鑑」の字をつけ、秋生まれであったことから「アキ」と読ませた。
澄川 久(すみかわ ひさし、1898年〈明治31年〉12月1… 澄川 久(すみかわ ひさし、1898年〈明治31年〉12月15日 - 2000年〈平成12年〉4月3日)は、日本の腹話術師、声楽家。本名は村井武雄。妻はアルト歌手の村井満寿(満寿の2人目の夫)、三男はクラリネット奏者の村井祐児。 東京府で誕生した。慶應義塾大学を卒業後、劇作家の小山内薫の招きで、築地小劇場に参加した。声楽を学んだ後、田谷力三らと共に、日本劇場の専属歌手として、終戦近くまで活動した。1932年(昭和7年)に日本音楽コンクールで、バリトン歌手として最優秀賞を受けた。 村井満寿の前夫である高階哲夫と友人だったこと、高階と離婚後の満寿に澄川が歌を習ったことが縁で、1933年(昭和8年)に満寿と結婚。
東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12… 東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12月11日 - 1972年(昭和47年)10月4日)は、秋田県秋田市出身の流行歌手。位階は正五位。 戦前から戦後にかけて活躍し、ロイド眼鏡をかけて燕尾服を着用して直立不動の姿勢で歌う特徴があった。 東海林は1898年(明治31年)に秋田県秋田市台所町(現:千秋矢留町)で生まれた。保戸野尋常小学校を卒業後、1908年(明治41年)に父・大象が秋田県庁を退職して南満洲鉄道へ入社するのに伴い、両親が満洲へ向かう中、太郎は秋田に残って祖母・カツの下で生活する。 秋田県立秋田中学校在学時にヴァイオリンに魅せられ、満洲に滞在する父・大象に懇願するが逆鱗に触れてしまい、断念している[要検証 – ノート]。
藤原 義江(ふじわら よしえ、1898年(明治31年)12月… 藤原 義江(ふじわら よしえ、1898年(明治31年)12月5日 - 1976年(昭和51年)3月22日)は、日本の男性オペラ歌手、声楽家(テノール)。愛称は吾等のテナー(われら-)。 太平洋戦争の戦前から戦後にかけて活躍した世界的オペラ歌手。藤原歌劇団を創設した。父親はスコットランド人で貿易商、母親は日本人で琵琶芸者、大阪府で生まれた。 1898年(明治31年)、山口県下関市で貿易会社のホーム・リンガー商会下関支社「瓜生商会」を営んでいた28歳のスコットランド人、ネール・ブロディ・リード(Neil Brodie Reid)と、同県で活動していた23歳の琵琶芸者、坂田キクとの間に出生。母キクの実家がある大阪で生まれたが、ネールは我が子を認知せず、また手切れ金の類を渡すこともなかった為、キクは働きながら九州各地を転々とした。
内海 一郎(うつみ いちろう、1898年(明治31年)5月7… 内海 一郎(うつみ いちろう、1898年(明治31年)5月7日 - 1972年(昭和47年))は、昭和初期に活躍した日本の歌手、舞台演出家。東京府(現:東京都)出身。 浅草オペラ時代には宇津美 清(うつみ きよし)の名で知られていた。妻は同じく歌手の松島詩子。 東京府吾嬬町(後に東京市向島区東)で履物商を営む内海喜太郎の長男として生まれる。1916年(大正5年)に東京音楽学校卒業後、浅草オペラで活躍した。1917年(大正6年)、河合澄子、天野喜久代、千賀美寿一らとともに佐々紅華の東京歌劇座に参加している。 レコードは宇津美清の時代からニッポノホンでお伽歌劇などを吹き込んでいるが、昭和期にはオリエントおよびニットーレコードでジャズソングを数多く録音した。
天野 喜久代(あまの きくよ、本名:新井 ふく、1897年(… 天野 喜久代(あまの きくよ、本名:新井 ふく、1897年(明治30年)8月24日 - 1945年(昭和20年)3月10日)は、昭和初期の歌手、女優。 千葉県佐倉市出身。日本橋高等女学校卒業。 1913年(大正2年)に帝劇歌劇部二期生として入部し、1914年(大正3年)2月より舞台に出演。1916年(大正5年)5月に帝劇洋劇部が解散、その後伊庭孝、佐々紅華らの主催する歌舞劇協会、東京歌劇座を経て浅草オペラで活躍。 東京音楽学校で教えていたハンカ・ペツォールドに声楽を師事していたため基礎ができており、浅草オペラ凋落後の1929年(昭和4年)1月25日ほか浅草電気館レビューで活躍する傍ら東京の松竹少女歌劇団の声楽教師に就く。
ユン・シムドク(尹 心悳、朝鮮語: 윤심덕、1897年7月2… ユン・シムドク(尹 心悳、朝鮮語: 윤심덕、1897年7月25日 - 1926年8月4日)は、日本統治時代の朝鮮の歌手、俳優。 高身長で首の長い欧米人のような外貌であり、闊達な性格であったとされる。 1897年7月25日、李氏朝鮮で平安道の平壌府(現: 朝鮮民主主義人民共和国平壌直轄市)にて敬虔なキリスト教信者であるユン・ホビョン(父)と金氏(母)のもと、4人兄妹の2番目の娘として生まれた。その後すぐに鎮南浦(現: 南浦特別市)へ移住し、崇義女学校(現: 崇義女子高等学校)を卒業した。同校を卒業後、はじめは医者と教師になるため平壌女子高等普通学校と京城女子高等普通学校で学び、1914年に卒業した。
佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月1… 佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月13日 - 1968年(昭和43年)12月13日)は、日本初のレコード歌手。本名は佐藤千代。山形県東村山郡天童村(現:天童市)出身。中山晋平の歌謡曲を世に広め、古賀政男の才能を発見したことで、それ以後の日本大衆音楽史の発展に大きな功績がある。華々しくかつ浮き沈み激しい人生は、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」のモデルとなった。
荒尾 静一(あらお せいいち、1897年1月 - 没年不詳)… 荒尾 静一(あらお せいいち、1897年1月 - 没年不詳)は、日本の元俳優、舞踏家、振付師、元オペラ歌手である。荒尾 靜一と表記されることもある。本名及び旧芸名は吉冨 一郎(よしとみ いちろう)。マキノ・プロダクションの主要人物の一人であり、東京少女歌劇団の花形としても知られる。 1897年(明治30年)1月、鹿児島県に生まれる、とされている。『日本歌劇俳優写真名鑑』(歌舞雑誌社)には、生年は「明治三十年五月十三日」(1897年5月13日)である旨が記されている。また、2000年(平成12年)4月1日に発行された『日本映画興亡史 マキノ一家』(ワイズ出版)には、生年・出生地は不詳としている。 旧制・海城中学校(現在の海城高等学校)在学中から音楽研究所で声楽を学び、1912年(明治45年)、同中学校卒業後は早稲田大学に進学する傍ら高田舞踊団に入団、西本朝春らと同じ小学校出身の高田雅夫、石井漠らに師事して舞踊を学ぶ。
松平 里子(まつだいら さとこ、1896年(明治29年)7月… 松平 里子(まつだいら さとこ、1896年(明治29年)7月31日 - 1931年(昭和6年)9月22日)は大正~昭和期のソプラノ歌手。本名は松平 佐登子(旧姓:岩田)。夫は海軍技師の松平博(大給松平家当主松平乗承の三男)。 1896年、東京市浅草区浅草花川戸町(現在の東京都台東区花川戸)生まれ。東京府立第一高等女学校(現在の東京都立白鷗高等学校・附属中学校)を経て東京音楽学校に入学。東京音楽学校ではハンカ・シェルデルップ・ペツォルトに師事し、1919年(大正8年)3月に同校本科声楽部を卒業。引き続き同校聴講科で独唱を1年学んだ。1921年(大正10年)に帝国劇場のオペラチックコンサートに出演。
水野 康孝(みずの やすたか、1896年 <明治29年> 3… 水野 康孝(みずの やすたか、1896年 <明治29年> 3月3日 - 1987年 <昭和62年> 3月11日)は、日本の大正から昭和時代に活動した作曲家、声楽家、音楽教育者。元岡山大学教育学部長。位階は正四位。 現在の岡山市北区出身。医事評論家の水野肇は長男。 1896年(明治29年)、岡山市(現在の北区)中山下に生まれる。1916年(大正5年)に東京音楽学校本科声楽部を卒業し、同校の研究科に所属したが中退ののち大阪市立中大江東尋常小学校(大阪市立中大江小学校の前身校)に音楽専科教員として採用される。同年内に大阪音楽学校講師となり、1922年(大正11年)に楽劇「百合姫」へ出演。1923年(大正12年)に日東蓄音機(ニットーレコード)へ入社し、東京へ拠点を移すが関東大震災で被災し大阪へ戻る。
武岡 鶴代(たけおか つるよ、1895年(明治28年)9月1… 武岡 鶴代(たけおか つるよ、1895年(明治28年)9月18日 - 1966年(昭和41年)9月30日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。国立音楽大学の創立メンバーの一人。 岡山県東南条郡林田(はいだ)村(現在の津山市川崎)にて、米問屋の父・安次郎、母・澤のもと、六人姉妹の六女として生まれる。岡山県津山高等女学校卒業後、1913年(大正2年)東京音楽学校予科入学。1914年(大正3年)東京音楽学校本科声楽科入学。ハンカ・ペツォルトとマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事。1917年(大正6年)卒業、上真行奨励賞受賞。研究科に進み、1919年(大正8年)修了。同年5月御前演奏会に出演。同年10月、東京音楽学校「秋季演奏会」に出演、公式に楽会にデビュー。
黒沢 三一(くろさわ さんいち又はくろさわ さんいつ、189… 黒沢 三一(くろさわ さんいち又はくろさわ さんいつ、1894年11月23日 - 1967年1月31日)は、秋田の民謡歌手。 秋田県仙北郡太田町東今泉(現在の大仙市太田町東今泉)に大信田七重郎の三男として生まれる。1915年の春に黒沢重四郎(後に町議となる黒沢良太郎)の家に奉公し、翌年に黒沢コナミと結婚した。本業は大工であった。 1922年に日三市鉱山の祭典に飛び入り参加し1等賞になり有名になった。1927年に飾山囃舞踊団に加わった。1930年に東京の第5回全国郷土舞踊民謡大会に出場した。1931年に大阪で初のレコーディングを行った。1932年に仙北歌踊団に入った。1938年に上京しレコーディングを行い、全国的に好評を得た。
左 卜全(、1894年〈明治27年〉2月20日 - 1971… 左 卜全(、1894年〈明治27年〉2月20日 - 1971年〈昭和46年〉5月26日)は、日本の俳優、オペラ歌手。本名は三ヶ島 一郎()異母姉は三ヶ島葭子。 1894年(明治27年)2月20日(火曜日)、埼玉県入間郡小手指村北野に小学校校長の次男として生まれる。三ヶ島家は代々、埼玉県入間郡三ヶ島村の氷川神社の神官だったが、祖父が分家して一家をなした。 1901年(明治34年)に北野小学校に入学する。1902年(明治35年)、父の転勤のため東京市麻布区(現在の東京都港区)の南山小学校に転校。まもなく東京府南葛飾郡船堀村(現在の江戸川区船堀)に移った。1905年(明治38年)、船堀小学校を卒業。京橋のばら歯磨本舗「東光園」へ小僧奉公に出るが、1907年(明治40年)に船堀に戻り高等小学校3年に編入した。
原 信子(はら のぶこ、1893年〈明治26年〉9月10日 … 原 信子(はら のぶこ、1893年〈明治26年〉9月10日 - 1979年〈昭和54年〉2月15日)は、日本の声楽家、大正時代から昭和時代にかけて活躍した国際的オペラ・ソプラノ歌手。五十嵐喜芳、大谷冽子、増田晃久、久富吉晴、松浦知恵子、松島詩子、伊藤京子、宗孝夫等多くの歌手を育てた。 青森県八戸市大工町出身、幼少期に一家で上京する。1903年(明治36年)から三浦環に師事。東京音楽学校器楽科に入学。のちに声楽科に移るも中退し、その後ハンカ・ペツォールトやアドルフォ・サルコリに師事して声楽を修める。20歳の時、上海のヴィクトリア劇場で「蝶々夫人」に出演、歌手としてデビュー。 外遊のため退団した三浦環の後任として、帝国劇場歌劇部に入る。