月形 龍之介(つきがた りゅうのすけ、1902年(明治35年… 月形 龍之介(つきがた りゅうのすけ、1902年(明治35年)3月18日 - 1970年(昭和45年)8月30日)は、日本の俳優。本名は門田 潔人(もんでん きよと)。俳優の月形哲之介は息子。 戦前から戦後の約半世紀の間時代劇スターとして活躍し、阪東妻三郎、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「七剣聖」と呼ばれた。戦前期はニヒルな剣士役で人気を得、伊藤大輔監督の『斬人斬馬剣』などの名作に主演した。戦後は渋みと風格のある脇役となり、悪役も演じた。戦後の当たり役は水戸光圀で、14本のシリーズ作品がある。晩年はテレビドラマにも出演。生涯に出演した映画は約500本以上に上る。
東 勇路(あずま ゆうじ、1902年3月15日 - 没年不詳… 東 勇路(あずま ゆうじ、1902年3月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名中島 勇(なかじま いさむ)、芸名を東 勇治、東 勇二とクレジットされた時期もあった。小笠原明峰率いる小笠原プロダクション創立時のスター俳優であり、日活に移籍後は、現代劇のバイプレイヤーとして知られた。 1902年(明治35年)3月15日、福岡県八女郡北山村(現在の同県八女市立花町北山)に生まれる。 旧制・福岡県立八女中学校(現在の福岡県立八女高等学校)を卒業し、旧制・西南学院高等学部(現在の西南学院大学)に進学するが、中途退学し、1923年(大正12年)の小笠原プロダクションの設立に参加した。学歴については、『世界のキネマスター』(報知新聞社)には、明治大学を卒業した旨の記述がみられる。
山本 嘉次郎(やまもと かじろう、1902年(明治35年)3… 山本 嘉次郎(やまもと かじろう、1902年(明治35年)3月15日 - 1974年(昭和49年)9月21日)は、日本の映画監督、俳優、脚本家、随筆家である。脚本を書く際や、俳優としてデビューした当初は、平戸延介、平田延介名義を使用することも多かった。 東京市銀座采女町で生まれる。父の嘉太郎は天狗タバコの総支配人であった。 慶應義塾大学部理財科時代に偶然から映画に出演することとなり、1920年に製作された『真夏の夜の夢』で岡田嘉子と共演して俳優デビュー。慶應義塾を中退して映画界入りをする。しかし、このことが原因で親から勘当され、その手切金で[要出典]1922年「無名映画協会」を設立し、自ら出演した。
国島 荘一(くにじま そういち、1902年3月11日 - 1… 国島 荘一(くにじま そういち、1902年3月11日 - 1932年9月1日)は、日本の俳優である。國島 莊一と表記されることもある。本名は比佐 良夫(ひさ よしお)。旧芸名は國島 昇(くにじま のぼる)。大正末期に松竹蒲田撮影所などで活躍した二枚目俳優であったが、早世した。 1902年(明治35年)3月11日、福島県福島市に生まれる。 1914年(大正3年)、福島県福島中学校(現在の福島県立安積高等学校)に入学するが、同年7月3日に中退して井上正夫一座に入り、本郷座で初舞台を踏む。1922年(大正11年)、松竹蒲田撮影所へ入社し、国島昇を名乗って、1923年(大正12年)7月1日に公開された池田義信監督映画『水藻の花』などに出演、同作で映画デビューとされている。
石川 秀道(いしかわ しゅうどう、1902年〈明治35年〉2… 石川 秀道(いしかわ しゅうどう、1902年〈明治35年〉2月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。芸名の読みは「いしかわ ひでみち」と表記されることもある。本名は石川 秀道(いしかわ ひでみち)。新派の井上正夫門下を経て映画界に転向、島津保次郎の撮影助手および助監督を経て俳優となり、東亜キネマ甲陽・等持院撮影所の現代劇で主役を張り、トーキー以降は時代劇に転じた。 1902年(明治35年)2月17日、東京市日本橋区久松町(現在の東京都中央区日本橋久松町)の米穀商「三州屋」の三男として生まれる。1909年(明治42年)に家業が思わしくなく養子に出されるが、その後養子先を逃亡、1918年(大正7年)、16歳のときに映画界の道を志して井上正夫門下に入る。
菅野 七郎(かんの しちろう、1902年1月1日 - 没年不… 菅野 七郎(かんの しちろう、1902年1月1日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名同じ。 1902年(明治35年)1月1日、福島県相馬郡原町(後の同県原町市、現在の同県南相馬市原町区)に生まれる。 旧制中学校を中退後、満州に渡り各地を放浪していたが、1922年(大正11年)、徴兵のため帰国。その後、会社員を経て1923年(大正12年)8月、松竹蒲田撮影所に入社。同年8月18日に公開された島津保次郎監督映画『貫一と満枝』(『寛一と満枝』)で映画初出演。以降、数本の作品に脇役として出演するが、1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・十四年』(東京朝日新聞)によれば、菅野自身の代表作は1925年(大正14年)2月21日に公開された吉野二郎監督映画『呪の女』であるという。
荒井 良平(あらい りょうへい、1901年10月22日 - … 荒井 良平(あらい りょうへい、1901年10月22日 - 1980年10月22日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優である。 1901年(明治34年)10月22日、長野県上田市に生まれる。 長じて東京に移ったが、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起き、焼け出されて大阪に移る。当時、日活大将軍撮影所の時代劇の原作募集に応募、入選した。これをきっかけに同所の池永浩久の面接を受けて、監督志望である旨を伝えたが、俳優研究生として同社に入社した。記録に残るもっとも早い時期の出演作は、1926年(大正15年)2月28日に公開された楠山律監督の現代劇『愛の貴公子』における「滝川耀子の父・義人」役で、満24歳にして宮部静子の父親役を演じた。
鶴丸 睦彦(つるまる むつひこ、1901年10月10日 - … 鶴丸 睦彦(つるまる むつひこ、1901年10月10日 - 1989年7月5日)は、日本の俳優。本名は松井 睦彦。 1901年(明治34年)10月10日、鹿児島県鹿児島市に医師の父・文蔵の6人兄妹の長男として生まれる。早稲田高等学院卒業後の1923年(大正12年)に渡米し、その後エル・グレコの絵を見たさに旅費をためてスペインに渡る。1927年(昭和2年)に帰国。左翼系劇団の美術部員から俳優に転じ、同年に佐々木孝丸、村山知義らの前衛劇場に入り、1928年(昭和3年)には東京左翼劇場、1934年(昭和9年)には新協劇団に参加する。1938年(昭和13年)、木村荘十二監督の『牧場物語』で映画に初出演する。
田村 道美(たむら みちよし、1901年8月4日 - 199… 田村 道美(たむら みちよし、1901年8月4日 - 1990年代)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。戦前の無声映画時代に活躍し、当時の人気女優の入江たか子と結婚した。長女はおなじく女優の入江若葉である。 1901年8月4日、東京市京橋区新富町(現中央区新富)に生まれる。祖父の田村成義は、「田村将軍」の異名を持つ歌舞伎興行の大御所であった。 慶應義塾大学経済学部を卒業後、1931年、30歳にして京都の日活太秦撮影所に入社、同年11月13日公開の村田実監督の無声映画『白い姉 前篇』でデビューした。翌1932年、三枝源次郎監督の『海に散る花』では早くも主役の座を獲得する。 同年、当時人気絶頂、新興キネマと提携し映画製作会社「入江ぷろだくしょん」を設立したばかりの入江たか子(1911年 - 1995年)と交際、自らの人気を考え籍を入れず別居結婚とする。
谷 幹一(たに かんいち、1901年7月18日 - 1939… 谷 幹一(たに かんいち、1901年7月18日 - 1939年9月12日)は、日本の俳優である。愛称は「タニカン」、本名は岡村 文雄(おかむら ふみお)である。第二次世界大戦後、同姓同名のコメディアン・俳優の谷幹一が登場したころにはすでに他界していた。 1901年(明治34年)7月18日、東京市京橋区(現在の東京都中央区)に「岡村文雄」として生まれる。 神田区錦町(現在の千代田区神田錦町)にあった錦城学校尋常中学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業し、美術学校に入学、日本画を専攻する。19歳になる1920年(大正9年)10月に設立された松竹キネマ研究所に入所、小山内薫に師事した。翌1921年(大正10年)8月には同研究所は解散した。
里見 明(さとみ あきら、1901年〈明治34年〉5月16日… 里見 明(さとみ あきら、1901年〈明治34年〉5月16日 - 1972年〈昭和47年〉12月27日)は、日本の俳優である。サイレント映画時代の映画スターである。本名は松本 米三(まつもと よねぞう)。「浅草オペラ」のスターから映画俳優に転向した。旧芸名小松 明(こまつ あきら)。 1901年(明治34年)5月16日、東京府東京市本所区向島須崎町(現在の東京都墨田区向島4-5丁目のあたり)に生まれる。兄はのちの映画監督の松本英一である。築地工手学校(現在の工学院大学)予科を修了後、太平洋画会(現在の太平洋画会研究所)で洋画を学んだが、兄同様に芝居に転向していく。 佐藤紅緑の劇団「日本座」に入団し函館で初舞台を踏み、浅草公園六区の「観音劇場」、新日本劇団を経て、「浅草オペラ」の根岸大歌劇団に入団、「小松明」名で一躍人気を集めた。
光岡 龍三郎(みつおか りゅうざぶろう、1901年3月15日… 光岡 龍三郎(みつおか りゅうざぶろう、1901年3月15日 - 1961年8月4日)は、日本の俳優である。新字体光岡 竜三郎、本名は中澤 喜一(なかざわ きいち)である。 1901年(明治34年)3月15日、北海道亀田郡大野村(現在の北斗市大野地区)に「中澤喜一」として生まれる。11歳上の兄に俳優の葛木香一がいる。 当初舞台劇の俳優であったが、1924年(大正13年)、東亜マキノ等持院撮影所に入社し、映画俳優に転向する。翌1925年(大正14年)、阪東妻三郎主演、二川文太郎監督の『江戸怪賊伝 影法師』前篇・後篇等に出演する。二川監督の『墓石が鼾をする頃』に出演した後、牧野省三らは東亜キネマと分離するが、光岡は東亜キネマに残る。
島 耕二(しま こうじ、本名・鹿児島武彦、1901年2月16… 島 耕二(しま こうじ、本名・鹿児島武彦、1901年2月16日 - 1986年9月10日)は、日本の俳優、映画監督。女優の大谷良子、片山夏子、轟夕起子は元妻。俳優の片山明彦は実子(大谷と間の子)。映画・テレビドラマの監督の湯浅憲明は甥。 1901年(明治34年)2月16日、長崎県長崎市に、医者の息子として生まれる。日本映画俳優学校を第一期生として卒業し、1925年(大正14年)、日活大将軍撮影所に入社する。現代的な二枚目俳優として内田吐夢、阿部豊、溝口健二などの作品に出演する。しかし、1934年(昭和9年)の労働争議で内田、村田実、伊藤大輔らとともに日活を脱退し、新映画社の創立に参加する。解散後、新興キネマを経て、日活多摩川撮影所に入り、『明治一代女』、『真実一路』などの作品に出演し、日活黄金期を支えるスター俳優としての地位を確立する。
伊志井 寛(いしい かん、1901年2月7日 - 1972年… 伊志井 寛(いしい かん、1901年2月7日 - 1972年4月29日)は、日本の俳優である。 本名:石井 淸一、旧芸名及び別名:竹本 津駒太夫(たけもと つこまだゆう)、石井 寛(読み同じ)。 1901年2月7日(木曜日)、東京府東京市牛込区神楽坂(現:東京都新宿区)に、落語家4代目三升亭小勝と竹本清之助(本名は富沢つね)の子として生まれる。1906年、5歳で父と死別する。 17歳まで銀座の商家に奉公に出ていたが身に合わず、1919年に文楽座の竹本津太夫の門に入り、竹本津駒太夫名義で初舞台を踏む。ところが満20歳の徴兵検査を機に文楽界を退き、1922年、松竹蒲田撮影所に入社。伊志井寛と改名し、旧劇活動写真の写実化に成功したといわれている1923年公開の野村芳亭監督映画『女と海賊』等に脇役として出演。
石川 冷(いしかわ れい、1901年1月25日 - 没年不詳… 石川 冷(いしかわ れい、1901年1月25日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は石川 良平(いしかわ りょうへい)だが、婚姻後は齋藤 良平(さいとう - )と名乗った。旧芸名は石川 鳳堂(いしかわ ほうどう)。妻は舞踊家の藤間寿美枝(本名は斎藤 千代子)である。 1901年(明治34年)1月25日、東京府東京市本所区業平(現在の東京都墨田区)に生まれる。父親である杢平は人形師であった為、人形作りを手伝いながら、1914年(大正3年)に小学校を卒業。卒業後は琴古流尺八を習い、石川鳳堂と名乗った。 1920年(大正9年)、新派俳優の武田正憲(1890年 - 1962年)の門下となり、東京で初舞台を踏む。
深見 泰三(ふかみ たいぞう、1901年1月22日 - 没年… 深見 泰三(ふかみ たいぞう、1901年1月22日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は植岡 隆逸(うえおか たかいつ)。 1901年(明治34年)1月22日、宮崎県に生まれる。実家は旅館業を経営していた。京都府立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)中退。 1926年(大正15年)5月、坪内士行(1887年 - 1986年)等の宝塚国民座の創立に参加し俳優となる。1929年(昭和4年)、松竹大阪の専属俳優となり、同年8月には大阪浪花座で旗揚げした関西歌舞伎の阪東壽三郎(1886年 - 1954年)を中心とする第一劇場に参加した。同劇場には小堀誠、吉田豊作、進藤英太郎、八雲恵美子などがいた。
土屋 詩朗(、1901年〈明治34年〉1月5日 - 没年不詳… 土屋 詩朗(、1901年〈明治34年〉1月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は土屋 德四郎()。旧芸名は土屋 四郎(読み同じ)、土屋 博敏()。 1901年(明治34年)1月5日、秋田県に生まれる。 1918年(大正7年)、正式な名称は不明だが、秋田県横手市の旧制中学校を卒業して東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に進学。声楽を学ぶ傍ら、中島六郎、樋口信平に師事してヴァイオリンを修業する。ところが、同年のシベリア出兵により、土屋は出征され、1年だけロシアに在住して間も無く帰国。その後、正式な名称は不明だが、土屋四郎という芸名で劇団に所属し、全国各地を巡業した。また、浅草オペラの舞台にも出演していたが、1924年(大正13年)12月、松竹蒲田撮影所へ入社。
中村 是好(なかむら ぜこう、1900年〈明治33年〉12月… 中村 是好(なかむら ぜこう、1900年〈明治33年〉12月6日 - 1989年〈平成元年〉12月6日)は、日本の俳優・盆栽家。本名は中村愚堂。愛称はゼコやん。 榎本健一のカジノ・フォーリーの旗揚げに参加し、エノケン一座の中堅として活躍。エノケン主演の映画でも三枚目を演じ、戦後は庶民的な演技で多くの作品に出演した。晩年は盆栽家として知られ、日本小品盆栽協会会長を務めた。 1900年(明治33年)12月6日、佐賀県杵島郡朝日村大字(現武雄市)に生まれる。11歳の時に嬉野市の瑞光寺で得度して、名を禅徳、号を愚堂と改め、のち愚堂を本名とする。1919年(大正8年)に京都市の大徳寺の般若林に入学する。 1921年(大正10年)、新派新声劇の伊東好郎の門下となり、以後、道頓堀の山長一座や神田劇場の中村歌扇一座、根岸大歌劇団、曾我廼家十吾一座、曾我廼家五九郎劇などで活動する。
神田 俊二(かんだ しゅんじ、1900年10月25日 - 1… 神田 俊二(かんだ しゅんじ、1900年10月25日 - 1940年代)は、日本の俳優、元実業家である。本名同じ。短期間ではあるが、日活太秦撮影所に所属していた二枚目俳優である。 1900年(明治33年)10月25日、東京府東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区)に神田鐳蔵の庶子として生まれる。鐳蔵は紅葉屋商会、神田銀行(1927年倒産)を経営していた財界の大物であった。 暁星小学校を経て慶応義塾大学に入学するが、1923年(大正12年)に中退し、父が経営する紅葉屋商会の社員となる。1926年(大正15年)、特作映画社が製作した映画『我は海の子』(『吾は海の子』)で主演に抜擢されていたが、資金難で小笠原プロダクションに引き継がれ、主演も原田龍次(後の原田譲治、1904年 - 没年不詳)に変更された為、念願だった俳優になれずじまいであった。
小野 宮吉(おの みやきち、1900年4月27日 - 193… 小野 宮吉(おの みやきち、1900年4月27日 - 1936年11月20日)は、日本の俳優、演出家、脚本家。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。 この項目は、共産主義に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/プロジェクト 政治)。
鈴木 傳明(すずき でんめい、1900年3月1日 - 198… 鈴木 傳明(すずき でんめい、1900年3月1日 - 1985年5月13日)は、日本の映画俳優、水泳選手。本名は同じ鈴木傳明だが、読みはつぐあきら。 無声映画時代に活躍した現代劇の映画スターで、学生時代は水泳選手として活躍。明治大学在学中に『路上の霊魂』で映画デビューした。その後日活を経て松竹蒲田撮影所に入社、牛原虚彦監督とのコンビで『彼と東京』『陸の王者』『彼と人生』などの明朗な青春映画に主演し、スポーツマンタイプの二枚目スターとして人気を得た。戦後は実業界に転じた。 1900年(明治33年)3月1日、東京府東京市下谷区上野桜木町(現在の東京都台東区上野桜木)に、父・康正と母・和喜の1男3女の長男として生まれる。
神戸 光(かんべ ひかる、1900年2月13日 - 1992… 神戸 光(かんべ ひかる、1900年2月13日 - 1992年1月または2月1日)は、日本の元俳優、映画プロデューサー、新聞記者である。本名は近藤 茂雄(こんどう しげお)。旧芸名は神戸 光男(かんべ みつお)、カンベ・ヒカル。 1900年(明治33年)2月13日、兵庫県神戸市湊町3丁目(現在の同県同市兵庫区)に生まれる。関西学院大学を卒業。 卒業後、貿易商社員や「労働運動」誌支局員、大正活映(神戸光男名義)を経て、1926年(大正15年)6月、アナキストである笹井末三郎(1901年 - 1969年)の紹介で日活大将軍撮影所に入社。神戸光という芸名で畑本秋一監督映画『舶来頓珍漢騒動』などに出演。
榊田 敬二(、1900年〈明治33年〉1月15日 - 没年不… 榊田 敬二(、1900年〈明治33年〉1月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名・旧芸名は榊田 敬治(読み同じ)。おもに現代劇に出演し、戦後は東宝特撮に多く出演。 1900年(明治33年)1月15日、秋田県仙北郡大曲町に生まれる。 東京に移り、旧制・赤坂中学校(現在の日本大学第三高等学校)を卒業後、1921年(大正10年)10月、高田馬場に撮影所を持つ小松商会に入社し、『熱火の狼』に出演し、満21歳で映画界にデビューした。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の後、京都に移り、日活大将軍撮影所に入社、1924年(大正13年)7月4日に公開された三枝源次郎監督の『民族の黎明』に出演している。
押本 映治(おしもと えいじ、1900年1月3日 - 194… 押本 映治(おしもと えいじ、1900年1月3日 - 1946年5月26日)は、日本の俳優である。本名は米村 俊民(よねむら としたみ)。芸名の表記は押本 英治、押本 暎治、押本 映二、押本 榮二と揺れがある。創立間もない松竹蒲田撮影所に所属した若手俳優で、大正末期までは冒険活劇のスターとして活躍、後年は日活多摩川撮影所、大映東京撮影所などであらゆる役柄をこなした名脇役として知られる。 1900年(明治33年)1月3日、鳥取県岩美郡富桑村(現在の同県鳥取市行徳、鳥取市行徳町は誤り)に生まれる。富桑尋常高等小学校(現在の鳥取市立富桑小学校)を経て、旧制鳥取県立鳥取中学校(後の旧制鳥取県立鳥取第一中学校、現在の鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業する。
伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2… 伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2日 - 1946年(昭和21年)9月21日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。本名:池内 義豊(いけうち よしとよ)。 「日本のルネ・クレール」と呼ばれた知性派の監督で、挿絵画家として活躍後、同窓の伊藤大輔の勧めで映画界に入り、片岡千恵蔵プロダクションへ入社。作風は風刺と諧謔、人間味に富み、これまでの立ち回り主体の時代劇とは一線を画す現代的な時代劇 で稲垣浩とともに新生面を開いた。その後は闘病生活を余儀なくされるが、シナリオ執筆や映画論、社会批評など著述に専心した。主な監督作に『國士無双』『赤西蠣太』、シナリオに『無法松の一生』『手をつなぐ子等』など。
山野 一郎(やまの いちろう、1899年12月15日 - 1… 山野 一郎(やまの いちろう、1899年12月15日 - 1958年12月18日)は、日本の活動写真弁士、漫談家、俳優。本名は山内幸一。 弟の山地幸雄(本名:山内倉司)も活動写真弁士である。 1919年、三浦さくと結婚。第1子は夭逝したが、第2子・山内明は俳優、第3子・山内久は脚本家、第4子・山内正は作曲家、また、第5子山内幸子は作曲家小杉太一郎(俳優小杉勇の長男)の妻となった。タレント・エッセイストの山内美郷は孫(明の長女)。 新潟県古志郡半蔵金村生まれ。幼年期に一家で東京に出て、向島に育つ。なお、生涯、自分が東京生まれでないことを隠していたという。東京府立第三中学校卒業。 はじめ俳優を志したが叶わず、三越の店員などを経て弁士となる。
浅岡 信夫(あさおか のぶお、明治32年(1899年)12月… 浅岡 信夫(あさおか のぶお、明治32年(1899年)12月15日 - (昭和43年)1968年11月12日)は、日本の俳優、政治家である。第二次世界大戦前、サイレント映画時代の日活スター俳優であり、映画監督、プロデュースも務めた。戦後、参議院議員も務めた。身長177.3cm、体重93Kg。身長180cm、体重90Kg。
秋田 伸一(あきた しんいち、1899年11月25日 - 1… 秋田 伸一(あきた しんいち、1899年11月25日 - 1941年10月4日)は、日本の元俳優である。本名同じ。サイレント映画の時代に、松竹蒲田撮影所、阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画、マキノ・プロダクション等が製作した現代劇に主演した、線の細い二枚目スターとして知られる。 1899年(明治32年)11月25日、東京府東京市京橋区南新堀(現在の東京都中央区新川)に生まれる。実家は酒問屋であったとも、醤油問屋であったともされる。生年月日については、初期の資料である『日本映画年鑑 大正十三・四年』には「明治三十二年十月二十日」(1899年10月20日)と記されている。 育った町内にあった旧制・中央商業学校(のちの中央商科短期大学、2001年廃校)に進学、同学を卒業した後、1920年(大正9年)に小林喜三郎が代表を務める帝国興行に入社した。
大友 純(おおとも じゅん、明治32年(1899年)11月2… 大友 純(おおとも じゅん、明治32年(1899年)11月21日 - 昭和53年(1978年)12月28日)は、日本の俳優である。綜芸プロ、テアトロ脚光、ハナブサプロ、東京俳優生活協同組合に所属していた。 1899年(明治32年)11月21日、宮城県仙台市に生まれる。 旧制・東京音楽学校(現在の東京芸術大学)乙種師範科卒業。1923年(大正12年)から1929年(昭和4年)まで、旧制・大阪市立難波高等小学校(現在の大阪市立難波元町小学校)と同じく旧制の群馬県師範学校(のちの群馬師範学校、現在の群馬大学学芸学部)に音楽教師として勤務した。1929年、田谷力三、淡谷のり子らと松竹座チェーンのアトラクションに出演し、以後は歌手兼俳優としてカジノ・フォーリーやムーランルージュ新宿座、榎本健一一座などで活躍した。
進藤 英太郎(しんどう えいたろう、1899年11月10日 … 進藤 英太郎(しんどう えいたろう、1899年11月10日 - 1977年12月18日)は、日本の俳優。本名:真藤 辰五郎。 舞台俳優を経て映画界に入り、幅広い演技で620本にもおよぶ作品に出演した。『山椒大夫』『近松物語』『赤線地帯』など溝口健二監督作品の常連として脇役を好演し、東映時代劇では悪役として活躍した。後年はテレビドラマに活躍の場を移し、『おやじ太鼓』などのホームドラマに出演して人気を得た。 1899年(明治32年)11月10日、福岡県福岡市大名町(現在の福岡市中央区大名)に生まれる。生家はカムチャツカ漁業を経営しており、進藤の叔父は北洋漁業の開発者でカムチャッカ漁業の権威である眞藤愼太郎である。
友田 恭助(ともだ きょうすけ、1899年(明治32年)10… 友田 恭助(ともだ きょうすけ、1899年(明治32年)10月30日 - 1937年(昭和12年)10月6日)は、日本の新劇俳優。本名は伴田五郎。 1899年(明治32年)、東京市日本橋区(現 : 東京都中央区)に実業家の伴田六之助の子として生まれる。幼い頃から芝居を好んで過ごし、錦城中学校へと進んだ。中学生の頃に土方与志と知り合い、伯母の住む神奈川県茅ヶ崎の家に南湖座と名付けられた芝居小屋を作ってもらい、土方らと素人劇団を作りそこで演劇をしていた。1917年(大正6年)に早稲田大学独文科へと進み、在学中に新劇協会の畑中蓼坡の指導を受けて、1919年(大正8年)に『ワーニャ伯父さん』で本格的な舞台初出演を果たした。
浅利 鶴雄(あさり つるお、1899年10月29日 - 19… 浅利 鶴雄(あさり つるお、1899年10月29日 - 1980年4月15日)は、東京府出身の演劇プロデューサー、俳優である。 明治中学を経て、1922年(大正11年)、慶應義塾大学部理財科(現・経済学部)卒業。1924年(大正13年)、小山内薫、友田恭助、和田精、汐見洋、土方与志とともに新劇の専門劇場である築地小劇場を創立。後に松竹に移り、俳優として「三田英児」の名でサイレント映画に出演。松竹では社長秘書などの他、プロデューサーを務め、2代目左団次が行った歌舞伎界初のソ連公演には秘書として参加。また、戦前・戦後を通し一時代を築いた浅草国際劇場の初代支配人に就任し、こけら落としではチャップリンを招聘。
根岸 東一郎(ねぎし とういちろう、1899年〈明治32年〉… 根岸 東一郎(ねぎし とういちろう、1899年〈明治32年〉10月 - 1970年〈昭和45年〉)は、日本の元俳優、元映画監督、元脚本家である。本名同じ。 1899年(明治35年)10月、群馬県前橋市紅雲町に生まれる。 1917年(大正6年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒。明治学院から早稲田大学商学部へ進学して、卒業後は新劇団金星座に入り初舞台を踏む。1925年(大正14年)2月、日活京都撮影所に入社。同年、同撮影所第二部で製作された村田実・三枝源次郎共同監督による現代劇のサイレント映画『法を慕ふ女』に出演して映画デビューした。同社では現代劇俳優であった。 1928年(昭和3年)4月、マキノ・プロダクションに移籍。
坂本 武(さかもと たけし、1899年(明治32年)9月21… 坂本 武(さかもと たけし、1899年(明治32年)9月21日 - 1974年(昭和49年)5月10日)は、日本の俳優。本名は永石 武平。 松竹蒲田撮影所で軽妙な脇役として活躍し、斎藤寅次郎監督らによる短篇喜劇映画に多く出演した。小津安二郎監督作品にも常連出演し、『出来ごころ』『浮草物語』などの「喜八もの」では主人公の喜八を演じて人気を得た。上記以外の出演作品に『カルメン故郷に帰る』『煙突の見える場所』など。 1899年(明治32年)9月21日、兵庫県赤穂郡坂越村(現在の赤穂市坂越)に、漁師の父・安吉と母・ます江の5人兄弟の長男として生まれる。坂越尋常高等小学校卒業後、大阪の時計店に勤めるうち、松旭斎天勝一座の奇術を観に行き、舞台からの呼びかけに奇術の相手として飛び入り出演する。
渡辺 邦男(わたなべ くにお、1899年6月3日 - 198… 渡辺 邦男(わたなべ くにお、1899年6月3日 - 1981年11月5日)は、大正・昭和期の俳優、映画監督。 静岡県田方郡三島町(現:三島市)出身。 旧制静岡県立沼津中学(現:静岡県立沼津東高等学校)卒業後、早稲田大学商学部に入学し、浅沼稲次郎らと建設者同盟を結成し、左翼運動家として活躍。卒業後はコネで朝日新聞社の営業部に入るが、部長から「もぐり入社」と言われ憤然し退社。劇団に加わり地方巡業に出るが、解散の憂き目を見る。 仕事を求めて日活大将軍撮影所長・池永浩久に紹介される機会を持ち、面接で監督志望を伝えるが「3年間は俳優をしろ」と命じられ、初任給30円で雇われる。 1924年、『青春の歌』(村田実監督)で、運動会の応援団の旗手役で映画デビュー。
中村 紅果(なかむら こうか、1899年5月7日 - 196… 中村 紅果(なかむら こうか、1899年5月7日 - 1961年1月29日)は、日本の俳優である。本名中村 縣三(なかむら けんぞう)、別芸名中村 憲三(なかむら けんぞう)。 1899年(明治32年)5月7日、秋田県雄勝郡弁天村(現在の同県湯沢市弁天地区)に、旧家の主である父・中村一徳の三男として生まれる。 旧制・秋田縣立横手中學校(現在の秋田県立横手高等学校)を卒業し、1917年(大正6年)に東京に移り、出版社の雑誌記者や旧制小学校の教師などの職を経て、早稲田大学文科に入学、坪内逍遙の新文藝協会に入って新劇運動に参加する。1920年(大正9年)に明治座での『法難』で岡田嘉子、加藤精一らと共演、初舞台を踏んだ。
水野 浩(みずの ひろし、1899年4月23日 - 1970… 水野 浩(みずの ひろし、1899年4月23日 - 1970年3月22日[要出典])は、日本の俳優である。本名は水野 浩一(みずの こういち)。青年期の舞台俳優から映画俳優に転向、老年期まで脇役に徹したことで知られる。 1899年(明治32年)4月23日、兵庫県神戸市に生まれる。 旧制・兵庫県第二神戸中学校(通称神戸二中、現在の兵庫県立兵庫高等学校)を卒業し、演劇を志して、佐藤紅緑が1915年(大正4年)に起こした劇団「日本座」に参加、その後、喜劇や歌劇(オペラ)、剣劇等の劇団を渡り歩く。満30歳を迎える1929年(昭和4年)、京都の松竹下加茂撮影所に入社、舞台俳優から映画俳優に転向する。その後、月形龍之介の月形プロダクション、尾上菊太郎の尾上菊太郎プロダクションに移籍したというが、出演記録は不明である。
鳥居 正(とりい ただし、1899年2月11日 - 没年不詳… 鳥居 正(とりい ただし、1899年2月11日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は鳥居 笑次(とりい しょうじ)。鳥井 正と表記に揺れがある。 1899年(明治32年)2月11日、鹿児島県鹿児島市に生まれる。1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』では、生年月日は不詳、本名も不詳という旨が記されている。幼少期から数本の歌劇に出演していたとされている。 専修大学を中退後、1917年(大正6年)に沢田正二郎(1892年 - 1929年)が創立して間も無い新国劇に入り、幹部俳優として活躍。立ち回りの巧さで定評があった。1925年(大正14年)、聯合映画芸術家協会と連携して製作された衣笠貞之助監督映画『月形半平太』や、同じく東亜キネマと連携して製作されたマキノ青司(牧野省三)総指揮・監督映画『国定忠治』で沢田と共演。
押本 七之輔(おしもと しちのすけ、1899年 - 1970… 押本 七之輔(おしもと しちのすけ、1899年 - 1970年8月18日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、元俳優である。本名および旧筆名押本 七之助、のちに押本 七乃輔とも表記した。市川右太衛門プロダクション設立第1作の監督に抜擢されたことで知られる。 1899年(明治32年)、東京府豊多摩郡渋谷村(現在の東京都渋谷区)に生まれる。『映画年鑑 1973』の「映画人物故録」には「68歳没」との記述があり、1902年(明治35年)前後の生まれの可能性がある。 学歴等は伝えられていないが、満21歳となる1920年(大正9年)、国際活映に入社している。同年、すぐに同社を退社して仁科熊彦らとともに映画の制作プロダクションに参加、奈良での撮影に携わったものの、同社が解散したため、東京に戻る。
明石 潮 (あかし うしお、1898年9月11日 - 198… 明石 潮 (あかし うしお、1898年9月11日 - 1986年11月26日)は、日本の俳優。本名は明石 義仁。
南部 彰三(なんぶ しょうぞう、1898年6月26日 - 1… 南部 彰三(なんぶ しょうぞう、1898年6月26日 - 1981年11月16日)は、日本の俳優である。本名は鴛海 正次(おしうみ まさじ)。旧芸名は南部 章三(読み同じ)、南部 彰(なんぶ あきら)。 1898年(明治31年)6月26日、大分県速見郡日出町に生まれる。 1916年(大正5年)、大分県立杵築中学校(現在の大分県立杵築高等学校)卒業後、県下で代用教員を務め、1919年(大正8年)、歩兵47聯隊に入隊。同年4月、シベリア出兵に従軍し、同年8月に帰還。1921年(大正10年)に除隊後、再び代理教員を務めていたが、1922年(大正11年)4月に上京。陸軍省東京経理部に就職すると共に日本大学商学部予科に入学する。
東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没… 東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名品川 久義(しながわ ひさよし)。海外を柔道行脚した前歴から、日本のサイレント映画の全盛期に現れた「スポーツ俳優」の一人として知られ、現代劇を中心に多く主演した。 1898年(明治31年)3月26日、島根県に生まれる。『日本映画俳優名鑑』の「昭和四年版」(1929年版・1928年発行)および「昭和五年版」(1930年版・1929年発行)には「島根縣の一寒村」に生まれたと記述されている。 長じて東京に移り、旧制・海城中学校(現:海城中学校・高等学校)に進学、同校を卒業後に大阪に移り、関西大学法学部に進学する。
大河内 傳次郎(おおこうち でんじろう、新字体:伝次郎、18… 大河内 傳次郎(おおこうち でんじろう、新字体:伝次郎、1898年(明治31年)2月5日(戸籍上は3月5日)- 1962年(昭和37年)7月18日)は、日本の映画俳優。本名:大邊 男(おおべ ますお)。 戦前を代表する時代劇スターの一人であり、阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。サイレント期は、伊藤大輔監督・唐沢弘光撮影のトリオで『忠次旅日記』『新版大岡政談』などの名作を生んだ。悲愴()感ただよう演技とスピード感あふれる殺陣で、従来の時代劇スターの定型を破り、人気を不動のものとした。当たり役は丹下左膳で、トーキー時代の作品では地元の豊前なまりで「シェイハタンゲ、ナハシャゼン(姓は丹下、名は左膳)」と言う決めゼリフで人気を得た。
森 敏治(もり びんじ、1898年〈明治31年〉1月29日 … 森 敏治(もり びんじ、1898年〈明治31年〉1月29日 - 1975年〈昭和50年〉6月12日)は、日本の映画俳優。本名は森 敏治(もり としはる)とするものと花川戸 勇(はなかわど いさむ)とするものがある。 1898年(明治31年)群馬県多野郡鬼石町(現・藤岡市)の生まれ。関西大学に学ぶが中退。 倉橋仙太郎の新民衆劇学校で演技を学び、新民衆劇一派(のちに第二新国劇に改称)で活躍。同劇団には原健策、大河内傳次郎らがいた。第二新国劇解散後、日活太秦撮影所に入社。1933年、松竹下加茂撮影所に移籍。1936年、大都映画に移ると、本名の花川戸勇に改名。1939年に東宝へ移り、それから岡譲司劇団に加わる。
五味 國男(ごみ くにお、1898年1月2日 - 没年不詳)… 五味 國男(ごみ くにお、1898年1月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優、映画監督、元子役である。新漢字表記五味 国男。クレジットは五味 國雄(新漢字表記五味 国雄)と表記されることもあった。本名小崎 久雄(こさき ひさお)、父を初代とし、二代目 五味 國太郎(にだいめ ごみ くにたろう、新漢字表記五味 国太郎)を名乗ることもあった。 1898年(明治31年)1月2日、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる。父は俳優の五味國太郎(1875年 - 1922年)、妹はのちに女優の五味國枝(1905年 - 没年不詳)になった。生年月日については、初期の文献である『日本映画年鑑 大正十三・四年』には「明治三十年一月二日」(1897年1月2日)、『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』では「明治三十年一月元旦」(1897年1月1日)とされている。
小川 虎之助(、1897年〈明治30年〉12月1日 - 19… 小川 虎之助(、1897年〈明治30年〉12月1日 - 1967年〈昭和42年〉12月29日)は、日本の俳優。本名は小川 寅次。 1897年(明治30年)12月1日、東京市浅草区蔵前に生まれる。5歳のときに新派の舞台で初舞台を踏み、弟の小太郎と共に新派の名子役といわれる。のちに新国劇に入団。沢田正二郎に芸の細かさを認められ、『三等水兵の日記』『髪』などでのコミックな役や、『国定忠次』などの老爺役を得意として大幹部俳優となる。戦後の1946年(昭和21年)に退団して新国民座を主宰するが、経済的事情から解散する。 1951年(昭和26年)、映画俳優に転向し、大映の『万華地獄』に出演して以来、各社の作品に出演。
河村 黎吉(かわむら れいきち、1897年9月1日 (一説に… 河村 黎吉(かわむら れいきち、1897年9月1日 (一説に6月16日) - 1952年12月22日)は、日本の俳優。本名は河村石五郎(かわむら いしごろう)。 松竹で活躍した脇役俳優の一人であり、300本近い作品に出演した。島津保次郎監督作品に常連出演し、江戸っ子役や三枚目役で知られた。戦後に社長シリーズの前身である『三等重役』に社長役で出演したことでも有名。 1897年(明治30年)9月1日、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)に生まれる。神田の錦城商業学校予科を卒業後、13歳で中洲の真砂座で初舞台を踏む。新派劇の無名劇団に参加して地方巡業で各地を転々とし、自ら小劇団を組織したこともあった。
佐藤 圓治(さとう えんじ、明治30年(1897年)8月24… 佐藤 圓治(さとう えんじ、明治30年(1897年)8月24日 - 昭和46年(1971年)7月30日)は、日本の俳優。娘は女優の三條美紀、孫は元女優の紀比呂子。 山形県東田川郡東栄村(藤島町を経た後に鶴岡市)出身。大正4年(1915年)山形県立荘内農業学校卒業。上京して慶應義塾大学に入るが中退。兵役につき、大正7年(1918年)にシベリアに従軍。大正11年(1922年)に帰還した。除隊後に会社(日本体育用品株式会社)に取締役として勤めるが、方向転換し、大正12年(1923年)に水口薇陽が設立した日本映画俳優学校に第1回目の入学生として入校した。同期には小杉勇、島耕二、森岩雄、八木保太郎等がいる。
ユン・シムドク(尹 心悳、朝鮮語: 윤심덕、1897年7月2… ユン・シムドク(尹 心悳、朝鮮語: 윤심덕、1897年7月25日 - 1926年8月4日)は、日本統治時代の朝鮮の歌手、俳優。 高身長で首の長い欧米人のような外貌であり、闊達な性格であったとされる。 1897年7月25日、李氏朝鮮で平安道の平壌府(現: 朝鮮民主主義人民共和国平壌直轄市)にて敬虔なキリスト教信者であるユン・ホビョン(父)と金氏(母)のもと、4人兄妹の2番目の娘として生まれた。その後すぐに鎮南浦(現: 南浦特別市)へ移住し、崇義女学校(現: 崇義女子高等学校)を卒業した。同校を卒業後、はじめは医者と教師になるため平壌女子高等普通学校と京城女子高等普通学校で学び、1914年に卒業した。
花菱 アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年〈明治30年〉… 花菱 アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年〈明治30年〉7月10日 - 1974年〈昭和49年〉7月25日)は、大正・昭和期の漫才師、俳優である。本名:藤木 徳郎。福井県勝山市出身。 生家は法沢寺という寺院であった。幼くして両親とともに大阪に移り住む。父は仏壇職人になった。移住後、アチャコは奉公に出るなどしていたが、遊芸に興味を持ち、1913年に15歳で新派の山田九州男(山田五十鈴の父)の一座に入って「東明幸四郎」と名乗り、千日前敷島倶楽部で初舞台を踏む。1914年、神戸の喜劇一座「鬼笑会」に入り、漫才に転向。このとき「花菱アチャコ」を名乗る。芸名のうち、亭号の「花菱」は、生家の家紋が由来である。