武隈 徳三郎(たけくま とくさぶろう、1896年〈明治29年… 武隈 徳三郎(たけくま とくさぶろう、1896年〈明治29年〉8月3日 - 1951年〈昭和26年〉11月28日)はアイヌ出身の教員、鉄道員。後に縁戚の養子縁組を繰り返し、中村 徳三郎、宮島 徳三郎となる。『アイヌ物語』の著者として知られる。 1896年8月3日、武隈熊次郎・カツの子供として十勝国河西郡伏古村(現・帯広市)に生まれる。1910年に北海道庁立第二伏古尋常小学校を卒業後、校長の三野経太郎に嘱望されたことにより教員を志し、帯広准教員講習所で準教員、尋常小学校本科正教員養成常設講習会で尋常小学校本科正教員の資格を得る。 1913年に高島尋常小学校の准訓導、1914年に音更尋常小学校の訓導兼校長、1916年に井目戸旧土人学校(後の井目戸尋常小学校)の訓導兼校長となる。
大井 直之助(おおい なおのすけ、1895年(明治28年)8… 大井 直之助(おおい なおのすけ、1895年(明治28年)8月3日 - 1973年(昭和48年)11月29日)は、大正から昭和前期の農業指導者、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡矢島町(現・由利本荘市)長。 秋田県由利郡矢島町で生まれる。1914年(大正3年)秋田県立秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を卒業した。 1921年(大正10年)矢島町会議員に選出され4期在任。1934年(昭和9年)から1943年(昭和18年)まで秋田県会議員、矢島町長に在任。その他、本荘税務署所得調査委員、矢島町産業組合長、秋田県農業会由利支部長・理事、同県森林組合連合会理事、帝国在郷軍人会由利郡連合会分会長などを務めた。
中山 岩太(なかやま いわた、1895年8月3日 - 194… 中山 岩太(なかやま いわた、1895年8月3日 - 1949年1月20日)は、戦前の日本の新興写真を代表する写真家の1人。福岡県柳川市出身。 福岡県柳川で実業家・中山重行の一人息子として生まれる。小学生のときに家族で上京、仰高小学校、京北中学校を経て、1918年に東京美術学校臨時写真科を卒業(第1期生)。農商務省の派遣で、アメリカのカリフォルニア大学で学ぶ。その後、ニューヨークにて、菊地東陽のスタジオで働いたり、「ラカン・スタジオ」を開設したのち、1926年には渡仏。マン・レイや未来派のエンリコ・プランポリーニと知り合う。 1927年に日本に帰国したのちは、芦屋カメラクラブをハナヤ勘兵衛ら地元の写真愛好家を集め結成し、欧米での経験を生かして活躍。
坂口 献吉(さかぐち けんきち、1895年(明治28年)8月… 坂口 献吉(さかぐち けんきち、1895年(明治28年)8月3日 - 1966年(昭和41年)8月13日)は、大正 - 昭和期の日本の実業家。新潟市出身。元衆議院議員で元新潟新聞社社長の坂口仁一郎の長男。作家の坂口安吾の長兄。新潟日報社第2代社長。新潟放送初代社長。新潟県立新潟中学校、早稲田大学専門部政治経済科卒業。
児玉 九一(こだま きゅういち / くいち、1893年8月3… 児玉 九一(こだま きゅういち / くいち、1893年8月3日 - 1960年5月23日)は、日本の内務官僚。県知事、厚生次官、中国地方総監。 山口県出身。陸軍大将・児玉源太郎の七男として生まれる。 1912年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1918年10月、高等試験行政科試験に合格。1919年、内務省に入り地方局属となる。 以後、静岡県志太郡長、静岡県警視、内務事務官、復興局事務官、内閣総理大臣秘書官、鉄道省事務官、内務書記官、神社局総務課長、兼造神宮使庁主事、大臣官房会計課長などを歴任。
林田 正治(はやしだ まさはる、1892年8月3日 - 19… 林田 正治(はやしだ まさはる、1892年8月3日 - 1979年12月14日)は、日本の内務官僚、政治家。 衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)、熊本市長(16代)、新竹州知事。 熊本県下益城郡城南町(現熊本市南区)に生まれる。済々中学、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業し、1918年(大正7年)内務省に入省する。のち渡台し、1939年(昭和14年)新竹州知事を務める。 終戦後の1946年(昭和21年)第22回衆議院議員総選挙に熊本選挙区から日本進歩党より出馬し当選。1948年(昭和23年)熊本市助役を経て、1952年(昭和27年)第16代熊本市長に就任。1956年(昭和31年)第4回参議院議員通常選挙では熊本県選挙区から無所属で出馬し当選する。
新田 愛祐(にった あいすけ、1892年〈明治25年〉8月3… 新田 愛祐(にった あいすけ、1892年〈明治25年〉8月3日 - 没年不明)は、日本の実業家。新田ベニヤ工業社長。日本皮革工聯理事長。父は新田帯革製造所(現・ニッタ)創業者の新田長次郎。 大阪府平民、新田帯革製造所社長・新田長次郎の四男、あるいは五男。1913年、東京高等工業学校応用化学科を卒業。 新田帯革北海道工場長、新田ベニヤ十勝工場長、日本畜産増殖、新田化学工業、新田帯革製造所各代表、日本皮革工聯理事長、新田膠質工業顧問、新田産業取締役、新田ベニヤ工業、日新ボード、新田産業各社長などをつとめる。 新田宗一、新田長三、新田昌次の弟である。会社重役である。1921年、分家する。 趣味は蹴球、競馬、読書。
福羽 発三(ふくば のぶぞう、1890年(明治23年)8月3… 福羽 発三(ふくば のぶぞう、1890年(明治23年)8月3日 - 1961年(昭和36年))は、日本の園芸家、造園家。 東京で農学者、福羽逸人の三男として生まれた。1916年(大正5年)、東北帝国大学農学部第一部(現・北海道大学農学部)卒業。卒業後農商務省に出仕。 1918年(大正7年)から翌年にかけて静岡県興津町にある農事試験場園芸部において疏菜の促成栽培法の研究を行う。 1924年(大正13年)に宮内技手として宮内省内匠寮勤務となり、新宿御苑詰となる。1934年(昭和9年)には主膳監兼任となる。1937年(昭和12年)に園芸施設および技術の研究のため、イギリス、フランス、ドイツヘ出張した。
織田 信恒(おだ のぶつね、1889年〈明治22年〉8月3日… 織田 信恒(おだ のぶつね、1889年〈明治22年〉8月3日 - 1967年〈昭和42年〉5月20日)は、日本の政治家、実業家、漫画原作者。貴族院議員。爵位は子爵。筆名は織田 小星(おだ しょうせい)。漫画『正チャンの冒険』の原案・文を作った。織田信正、織田信昭の父。 1889年(明治22年)8月3日、元相馬中村藩藩主の子爵相馬誠胤の長男として東京府に生まれる。生母は東明氏。初名は相馬秀胤(そうま ひでたね)。1895年(明治28年)6月、元天童藩藩主の子爵織田信敏の養嗣子となる。1901年(明治34年)7月1日、養父信敏の死去により襲爵。学習院高等科 (旧制)を経て、1915年(大正4年)に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、日本銀行に入行した。
熊野 英(くまの えい、1889年〈明治22年〉8月3日 -… 熊野 英(くまの えい、1889年〈明治22年〉8月3日 - 1963年〈昭和38年〉2月3日)は、日本の内務官僚、政治家。官選群馬県知事、松江市長。旧姓・石倉。 島根県出身。石倉家に生まれ、熊野家の養子となる。松江中学校を経て、第一高等学校を卒業。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1915年、内務省に入省し鹿児島県属となる。 以後、鹿児島県警視、同県日置郡長、同薩摩郡長、同県理事官、和歌山県理事官、同農林課長、同地方課長、帝都復興院書記官、復興局書記官・整地部庶務課長、同用地課長、愛知県書記官・学務部長、大阪府書記官・学務部長、岐阜県書記官・内務部長、三重県書記官・総務部長などを歴任。
柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3… 柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3日 – 1977年〈昭和52年〉9月15日)は、昭和期の宗教家、政治家。参議院議員(2期)。 東京府出身。中津中学校を修了した。 1935年(昭和10年)天理教校講師に就任。以後、天理教本部教学審議会委員長、同集会予算委員長、同東京教務支庁主事、同東中央分教会長、同文教部理事などを歴任した。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して初当選。1953年(昭和28年)4月の第3回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬して再選(補欠、任期3年)されたが、栃木県佐野市の投票所で候補者平林剛の所属政党名の誤記があったことにより、1954年(昭和29年)9月24日、最高裁判所の上告審判決により佐野市での選挙が無効となり、柏木を含めた6名が失格した。
尹 炳浩(ユン・ビョンホ、朝鮮語: 윤병호、1888年8月3… 尹 炳浩(ユン・ビョンホ、朝鮮語: 윤병호、1888年8月3日またはまたは1889年8月3日または1889年8月5日 - 1974年7月13日または7月14日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の実業家、政治家。第3代韓国国会議員。号は滄南。 慶尚南道南海郡出身、本籍は釜山府。普成専門学校経済科、早稲田大学政経科卒。1909年に大同青年団(のちの大韓青年団)を組織し、その後は独立運動のための秘密団体である白山貿易会社設立者、慶尚南道農林局長、原州蚕糸社長、第3代国会絶糧農家救護対策委員会委員長を務めた。 1974年7月13日、ソウル市永登浦区の自宅アパートで持病により死去。享年86。 1942年の朝鮮語学会事件により1年間投獄された。
瀬古 保次(せこ やすつぐ、1887年(明治20年)8月3日… 瀬古 保次(せこ やすつぐ、1887年(明治20年)8月3日 - 1964年(昭和39年)6月9日)は、貴族院書記官長、賞勲局総裁、貴族院勅選議員。 神奈川県三浦郡逗子町(現在の逗子市)で、瀬古保次郎の長男として生まれた。1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、文官高等試験行政科試験に合格した。東京府属、同豊多摩郡長を経て、貴族院書記官となり、内務参事官、同事務官、行政裁判所評定官を兼ねた。貴族院事務局議事課長を経て、貴族院書記官長に就任した。 1940年(昭和15年)からは賞勲局総裁に転じた。 1946年(昭和21年)2月5日には貴族院議員に勅選され、同成会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
3代 高広 次平(たかひろ じへい、1885年(明治18年)… 3代 高広 次平(たかひろ じへい、1885年(明治18年)8月3日 - 1950年(昭和25年)9月25日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は欣蔵。 2代高広次平の長男として富山県礪波郡福岡町(西礪波郡福岡町を経て現高岡市)に生まれる。早稲田大学政治経済科修了。1914年(大正3年)時点で県内で4番目の多額納税者だった。1920年(大正9年)3代次平を襲名した。 1915年(大正4年)中越鉄道の3代目社長に就任し、全線を開通させた。ついで1919年(大正8年)西礪波郡会議員を経て、福岡町会議員、同農会長を歴任する。ほか、山又機業社長、北陸信託、中越鉄道、富山県農工銀行、富山日報社各監査役などを歴任した。
小野 政方(おの まさかた、1885年(明治18年)8月3日… 小野 政方(おの まさかた、1885年(明治18年)8月3日 - 1945年(昭和20年)1月19日)は、日本の児童文学者・編集者。 妻は小説家の小野美智子。 山梨県東八代郡境川村(現:山梨県笛吹市)出身。山梨県師範学校を卒業後、八代尋常小学校に訓導として勤務した。その後、上京して巖谷小波に師事し、『少年世界』『少女世界』に童話を発表した。執筆活動初期には、故郷を流れる笛吹川にちなみ「小野小峡」の筆名を名乗った。1912年に山内秋生、竹貫佳水、蘆谷蘆村、大井冷光らと、日本初の児童文学団体である少年文学研究会を設立。1920年には、研究社『小学少女』の編集に当たっている。のちに、小川未明、楠山正雄、鹿島鳴秋、蘆谷蘆村、浜田廣介が創立準備をした童話作家協会に参画。
八甲山 純司(はっこうざん じゅんじ、1884年8月3日 -… 八甲山 純司(はっこうざん じゅんじ、1884年8月3日 - 1951年1月10日)は、青森県東津軽郡横内村(※現役当時、現・同県青森市)出身で湊川部屋(入門時は若松部屋)に所属した大相撲力士。本名は、清藤 純司(せいどう じゅんじ)。引退後は8代高島を襲名して高島部屋を創設、大関をはじめとする多くの幕内力士を育てた。 1884年8月3日に、当時の青森県東津軽郡横内村で生まれる。子供の頃から怪力で、19歳で土地相撲での活躍を見た若松から勧誘されたが、自身は長男だったために両親から反対された。それでも3年後に角界入りを決意し、兵役終了後に家出して若松部屋へ入門した。1908年1月場所において幕下付出で初土俵を踏むと順調に出世していき、1910年6月場所で新十両昇進、その十両も1場所で通過して1911年2月場所では新入幕を果たすというスピード出世だった。
宮城 音五郎(みやぎ おとごろう、1883年8月3日 - 1… 宮城 音五郎(みやぎ おとごろう、1883年8月3日 - 1967年9月14日)は、日本の工学者、政治家。 東北帝國大学教授、宮城県知事、東北工業大学学長などを歴任した。 1883年(明治16年)埼玉県出身。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、1908年(明治41年)東京帝國大学卒業。 仙台高等工業学校(現・東北大学工学部)教授となった後、1917年(大正6年)から翌年にかけてアメリカ合衆国に留学した。帰国後は東北帝國大学の工学部長などを務めて1945年(昭和20年)に退官、1946年から1950年までは宮城県仙台第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)の校長を務めた。1952年(昭和27年)から1956年(昭和31年)まで宮城県知事を一期務めた。
小野 武夫(おの たけお、1883年(明治16年)8月3日 … 小野 武夫(おの たけお、1883年(明治16年)8月3日 - 1949年(昭和24年)6月5日)は、日本の農業経済学者。法政大学教授。専門は農民経済史。 大分県で生まれる。1901年に大分県立農学校を卒業して代用教員となり、数年後には日露戦争に従軍する。1906年に上京し、農商務省に勤務しながら、1912年7月に法政大学専門部政治学科を卒業する。 1913年に帝国農会に入り、次いで1920年に農商務省に移って永小作慣行の本格的な調査を行なう。その調査結果は1924年に「永小作論」として刊行され、その精緻な研究は当時の学界から高く評価された。1925年に「郷士制度史論」によって農学博士(東京帝国大学)。
岡上 彦三(おかがみ ひこぞう、1880年(明治13年)8月… 岡上 彦三(おかがみ ひこぞう、1880年(明治13年)8月3日 - 没年不明)は、日本の政治家。兵庫県飾磨市(現・姫路市)長(1期)。 兵庫県飾東郡飾万津(のち飾磨津→飾磨町→飾磨市、現・姫路市)大浜に生まれる。旧制兵庫県立姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)卒業。陸軍に入り、中尉で退役した。 1912年(明治45年)飾磨郡会議員に当選。飾磨町会議員を経て、1931年(昭和6年)飾磨町長に就任。1940年(昭和15年)4月飾磨市の市制施行により、初代市長となったが、4ヶ月で退任した。 このほか、飾磨運輸株式会社社長を務めた。
岩崎 小弥太(いわさき こやた、1879年(明治12年)8月… 岩崎 小弥太(いわさき こやた、1879年(明治12年)8月3日 - 1945年(昭和20年)12月2日)は、日本の実業家で、三菱財閥の4代目総帥。男爵。 2代目岩崎弥之助(岩崎弥太郎の弟)の長男として東京府(現・東京都)に生まれた。母は後藤象二郎の長女早苗である。 1891年(明治24年)に高師附属小(現・筑波大附小)、1896年(明治29年)に高師附属中(現・筑波大附中・高)を卒業。旧制第一高等学校入学。一高の寮同室には馬場鍈一がいた。一高を経て明治32年に東京帝国大学法科大学に入学するが翌年の明治33年に中退。 1905年(明治38年)ケンブリッジ大学を卒業し、翌年の明治39年に帰国して三菱合資会社の副社長となり、明治41年に父弥之助の死去に伴い男爵を継承して1916年(大正5年)には従兄である3代目岩崎久弥(弥太郎の長男)の後を継いで社長に就任、三菱財閥の4代目となった。
三隅 正(みすみ ただし、1879年(明治12年)8月3日 … 三隅 正(みすみ ただし、1879年(明治12年)8月3日 - 1935年(昭和10年)2月24日)は日本の弁護士、政治家。元東京府会議長。 1879年(明治12年)8月、島根県に生まれる。1907年(明治40年)、和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。 1909年(明治42年)に判事検事登用試験に合格し、司法官試補を経て、弁護士を開業する。その後、東京府会議員、麹町区会議長を経て、1933年(昭和8年)に東京府会議長に就任する。 1935年(昭和10年)2月24日に死去、57歳。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 196… 三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 1966年7月12日)は、日本の裁判官。行政裁判所長官。岡山県岡山市出身。 岡山城下の友野家に生まれ、のち、下道郡岡田村(のち吉備郡岡田村→同大備村→同真備町、現・倉敷市)の三宅家の養子となる。旧制岡山中学、第三高等中学校を経て、1896年東京帝国大学法科卒。司法官試補として京橋区裁判所に勤務し、東京区裁判所判事となり、東京地方裁判所、東京控訴院などの判事となる。1907年行政裁判所評定官、同部長兼務、1939年行政裁判所長官に就任し、1942年まで務めた。墓所は多磨霊園。
津島 源右衛門(つしま げんえもん、1871年8月3日〈明治… 津島 源右衛門(つしま げんえもん、1871年8月3日〈明治4年6月17日〉 - 1923年〈大正12年〉3月4日)は、日本の政治家、実業家、青森県多額納税者、資産家。衆議院議員(青森県郡部選出、当選1回)。貴族院議員。族籍は青森県平民。 小説家太宰治の父である。孫は俳優の津島康一、小説家の津島佑子、小説家の太田治子、曾孫は政治家の津島恭一、政治家の津島淳、劇作家の石原燃などがいる。 青森県西津軽郡木造村(現つがる市)の松木家に、8代目七右衛門の四男として生まれる。旧名は永三郎。1888年、北津軽郡金木村(現五所川原市)の津島家の婿養子となる。1892年、「源右衛門」と改名。農業、商業を営む。 金木銀行設立の議が起ると率先して尽力する。
石川 久兵衛(いしかわ きゅうべえ、1869年8月3日(明治… 石川 久兵衛(いしかわ きゅうべえ、1869年8月3日(明治2年6月26日)- 1935年(昭和10年)1月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 尾張国愛知郡、のちの愛知県愛知郡呼続村(呼続町を経て現名古屋市)出身。麩製造業を営む。名古屋市会議員、愛知県会議員、同市部会議長となる。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙において愛知1区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1935年死去。
山崎 覚次郎(やまざき かくじろう、慶応4年6月15日〈18… 山崎 覚次郎(やまざき かくじろう、慶応4年6月15日〈1868年8月3日〉 - 昭和20年〈1945年〉6月28日)は、日本の経済学者。法学博士。東京帝国大学経済学部長。専門は貨幣論、金融論。 静岡県掛川に父・徳次郎の長男として生まれる。冀北学舎を経て、明治22年(1889年)東京帝国大学政治科卒業、大学院で研究する。 東京帝大法科助教授、経済学部教授等を歴任し、のち経済学部長。社会政策学会で指導的役割をはたし、退官後は中央大学教授、日銀顧問、金融学会初代理事会長をつとめた。1913年(大正2年)5月29日、帝国学士院会員となる。 東大時代の教え子である賀屋興宣(大蔵次官、大蔵大臣)は山崎の貨幣論に感銘を受け、山崎の理論に依拠して日本銀行法を作ったと述べている。
岸 清一(きし せいいち、慶応3年7月4日(1867年8月3… 岸 清一(きし せいいち、慶応3年7月4日(1867年8月3日) - 1933年(昭和8年)10月29日)は、日本の弁護士、政治家。国際オリンピック委員会(IOC)委員。日本の体育・スポーツ界発展のため尽力し、“近代スポーツの父”として慕われた。法学博士。 慶応3年7月4日(1867年8月3日)、松江雑賀町(現在の島根県松江市雑賀町)に松江藩の下級武士・岸伴平の次男として生まれる。小学校時代の同級生に若槻禮次郎(第25代・第28代内閣総理大臣)がいる。岸と若槻は血のつながりはないが、近い親類だった。 松江雑賀小学校、島根県第一中学校(現在の島根県立松江北高等学校)、大学予備門を経て東京帝国大学法科大学英法科に進学。
両角 彦六(もろずみ ひころく、慶応元年6月12日(1865… 両角 彦六(もろずみ ひころく、慶応元年6月12日(1865年8月3日) - 明治41年(1908年)3月21日)は、日本の衆議院議員(壬寅会→中正倶楽部)。弁護士。 信濃国諏訪(現在の長野県諏訪市)に諏訪藩士の子として生まれる。1884年(明治17年)に司法省法学校予科を修了し、1888年(明治21年)に東京帝国大学法科大学を卒業した。判事試補、司法省参事官試補、宮城控訴院書記長、函館地方裁判所判事、横浜区裁判所・横浜地方裁判所判事を歴任した。1893年(明治26年)に退官し、弁護士を開業した。また和仏法律学校(現在の法政大学)の理事兼講師、明治法律学校(現在の明治大学)講師、専修学校(現在の専修大学)講師を務めた。
井上 八重吉(いのうえ やえきち、元治元年7月2日(1864… 井上 八重吉(いのうえ やえきち、元治元年7月2日(1864年8月3日) - 昭和6年(1931年)12月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→交友倶楽部)。弁護士。 相模国高座郡座間村(現在の神奈川県座間市)に内藤甚左衛門の三男として生まれ、井上利助の養子となった。1881年(明治14年)、神奈川県師範学校に入り、卒業後は小学校訓導を務めた。その後、東京法学院(現在の中央大学)に入り、1890年(明治23年)に卒業した。同年、高等文官試験に合格。司法官試補、横浜区裁判所検事代理、八王子区裁判所検事、同判事、高崎区裁判所判事、横浜地方裁判所判事を歴任した。1898年(明治31年)、退官して横浜市で弁護士を開業した。
広野 織蔵(ひろの おりぞう、1862年8月3日〈文久2年7… 広野 織蔵(ひろの おりぞう、1862年8月3日〈文久2年7月18日〉 - 1940年〈昭和15年〉7月24日)は、日本の銀行家、実業家。百三十三銀行(滋賀銀行の前身)の「育ての親」と評される。衆議院議員を務めた広野規矩太郎は子息。 第百三十三国立銀行の創始者の一人である廣野古矩の二男として、彦根に生まれる。廣野家は彦根藩士の家系で、1915年時点で織蔵も滋賀県の士族であったと『人事興信録』に記されている。兄は源太郞で、織蔵がのちにその跡を継いだ。 幼少時は彦根藩の藩校に学んだ後、彦根中学校(現・滋賀県立彦根東高等学校)を卒業した。その後京都に出て儒学者の谷鉄臣・草場船山らに漢籍の指導を受けた。
山田 寒山(やまだ かんざん、男性、安政3年7月3日(185… 山田 寒山(やまだ かんざん、男性、安政3年7月3日(1856年8月3日) - 大正7年(1918年)12月26日)は、明治期の日本の篆刻家である。曹洞宗の僧侶であり詩書画にも堪能であった。 名は潤子、号が寒山。 尾張国愛知郡長久手村(現・愛知県長久手市)出身。曹洞宗の僧であったが、18歳の頃、小曽根乾堂に訪ねて篆刻について問い、24歳のときに福井端隠に入門し高芙蓉の流れを汲む古体派の篆刻を学ぶ。明治16年(1883年)に最明寺(熊野市二木島町)住持を任されるが、明治19年(1886年)には辞して大坂に出る。明治28年(1895年)に東京に移り住み芝瓢箪池畔に芝仙堂と名付けた庵を結ぶ。明治30年(1897年)に清国に渡り、呉昌碩と親しく交わりその門下となっている。
市川 文吉(いちかわ ぶんきち、1847年8月3日(弘化4年… 市川 文吉(いちかわ ぶんきち、1847年8月3日(弘化4年6月23日) - 1927年(昭和2年)7月30日)は、明治時代のロシア語通訳、外交官、教育家。幼名は秀太郎。 1847年、広島藩士・市川兼恭の長男として江戸神田新白銀町で生まれる。1860年(安政7年)、蕃書調所の仏学稽古人となり、1864年(元治元年)、開成所の仏学科教授手伝並に任ぜられた。 かねてより駐日ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチは幕府にロシアへ留学生を送ることを提案していた。1865年(慶応元年)、幕府は提案を採り上げ、遣露留学生を送ることを決定。当時開成所教授で、ロシアとロシア語に関心を持っていた父の推薦で留学生に選ばれた。
三代 正田 文右衛門(さんだい しょうだ ぶんえもん、181… 三代 正田 文右衛門(さんだい しょうだ ぶんえもん、1818年8月3日〈文政元年7月2日〉 - 1895年〈明治28年〉3月26日)は、群馬県館林の商人(米穀商、質屋)、醤油醸造家。正田醤油の基礎を作った。幼名藤十郎、家督を継ぐと、先代文右衛門を襲名し、隠居後更に文七と改めた。実業家の正田貞一郎は孫。上皇后美智子は玄孫にあたる。 館林で生まれた。祖父の業を継ぎ米穀商を営み、その傍らで質屋も家業とした。17歳のころより盛んに販路を江戸へ拡張し、常に高瀬舟数十隻を利根川・渡良瀬川の両川に浮かべ、大量取引に役だてた。とくに東国での大麦の評判は高く、「本館麦」として世間にその名が広まった。 また、海路遠く大阪までその影響力が及んで、当時、道頓堀において「上州米文」の名でよく相場の変動が左右された。
蒼樹 うめ(あおき うめ、8月3日 - )は、日本の漫画家・… 蒼樹 うめ(あおき うめ、8月3日 - )は、日本の漫画家・イラストレーター・同人作家。女性。兵庫県出身、福岡県育ち。武蔵野美術大学造形学部デザイン情報学科出身。主に4コマ漫画を執筆。 名の由来についてはとらのあなのインタビューで漠然と答えている。「うめ先生」の他に「うめてんてー」や「ウメス」と呼ばれている。別名義として「Magica Quartet」がある。 ねこねこソフトの公式サイトでは、同ブランドによる作品『サナララ』で原画を担当した“双子の姉”の「藤宮アプリ」がいるとしていた。 兵庫県で生まれ、3〜4歳の頃まで大阪府豊中市で、小学5年生まで福岡県で過ごし、その後東京に移り住んでいる。 小学2年生の頃から漫画に興味を持ち始め、小学3年生の頃には漫画家を志していた。
しばあみ(8月3日 - )は、愛媛県新居浜市出身の歌手、作詞… しばあみ(8月3日 - )は、愛媛県新居浜市出身の歌手、作詞家、作曲家。本名「柴 亜実」。血液型O型。現役OLシンガーソングライター。 大学卒業後、NHK松山放送局の番組レポーターを経て、その後東京で音楽活動を開始。アロマを嗅いだ時にホッとするような音楽、心に響く『アロマポップス』という独自のジャンルを築き、定期的にアロマイベントを開催。 アルバム収録曲「スピード」がテレビ東京系「アリケン」のエンディングテーマに、シングル「地球の涙」がTBS系「噂の!東京マガジン」エンディングテーマに起用。 現在は、ファッション雑誌出版社に勤めながら音楽活動を続ける現役OLシンガーソングライター。代表曲「アイになる」「地球の涙」が、カラオケDAMにて全国配信中。
甲田 真理(こうだ まり、mari koda、8月3日 - … 甲田 真理(こうだ まり、mari koda、8月3日 - )は、日本の女優、ダンサー、経営者。 東京都渋谷区出身(新宿区出生)。米国ニューヨーク在住。ダンサー名「kodance」(読み:コ-ダンス)。 映画、TV、CM等様々な分野で活躍中。世界的に有名なヒップホップ・アーティスト集団『ロック・ステディー・クルー』に所属。ヒップホップだけでなく、サルサ、ハッスル、ハウス、バレエなどジャンルに隔たりなく、音楽に合ったパフォーマンスを心がけている。ダンス映画の歴代興行成績をたった1週間で塗り替えたディズニー配給のハリウッド映画「ステップ・アップ2:ザ・ストリート」の一般公募オーディションに参加、1500人の中から役を勝ちとった彼女は『2』に出演するだけでなく、ディズニーから『3』出演の要望を受けた。
石川 真(いしかわ しん、本名および旧芸名:石川 功久()、… 石川 真(いしかわ しん、本名および旧芸名:石川 功久()、8月3日 - )は、日本の俳優、モデル。身長185cm。大阪府出身。中京大学文学部卒業。モデルとしての所属はプレステージ。 子供のころより映画が好きであったことから、大学卒業後に関西芸術座付属研究所に入所。その後、映画『マイフェニックス』で俳優としてデビュー。 1992年、オリジナルビデオ『真・仮面ライダー 序章』で主人公・風祭真 / 仮面ライダーシンを演じた。 その後、芸名を石川 真に改める。なお、改名の理由は、辻理から「功久(かつひさ)は読みにくい」と言われたことと、前述の『真・仮面ライダー』で風祭真を演じた名残もあるという。 1998年には『ウルトラマンガイア』に塚守亨隊員(チームファルコンのメンバー)役で出演。