樺島 正義(かばしま まさよし、1878年1月15日 - 1… 樺島 正義(かばしま まさよし、1878年1月15日 - 1949年)は、日本の橋梁技術者。構造家。 設計思想のうち橋梁については「橋梁外観に配慮することが経済的にマイナスとなっても配慮すべきで、よく練られた外観からもたらされるものは大きく、都市の風格を整えることになる」と、外観の重要性を強調している。 新常盤橋、一石橋、神宮橋、三原橋、鍛冶橋、今川橋、九道橋、高橋、二ノ橋、猫俣橋、羽衣橋、荒川鉄管橋、中川鉄管橋、安倍川橋、犬山橋、大井川橋、南旨橋、鼎岩橋、水郷大橋、境橋、南洋町パラオの橋梁、日本橋呉服橋、大阪四ツ橋、富士川橋など、後世に残る著名橋梁の設計や、日本製鉄工場貯炭場起重機設計など、多くの構造設計に関わったことで知られる。
松江 春次(まつえ はるじ、1876年(明治9年)1月15日… 松江 春次(まつえ はるじ、1876年(明治9年)1月15日 - 1954年(昭和29年)11月29日)は、日本の男性実業家。南洋興発の創業者で初代社長。 1876年(明治9年)、現在の福島県会津若松市で旧会津藩士・松江久平の次男として生まれる。 1895年(明治28年)会津中学を卒業(1回生)。特選生として通学していた野口英世と親交があった。 1899年(明治32年)に東京工業学校(東京高等工業学校、東京工業大学を経て、現東京科学大学)を卒業し、大日本製糖(現大日本明治製糖)に入社する。 1903年(明治36年)に農商務省の海外実業練習生試験に合格し、ルイジアナ州立大学に留学。同大学院で修士号(マスター・オブ・サイエンス)を取得した。
小西 重直(こにし しげなお、1875年(明治8年)1月15… 小西 重直(こにし しげなお、1875年(明治8年)1月15日- 1948年(昭和23年)7月21日)は、日本の教育学者。第9代京都帝国大学総長。 山形県米沢市出身。旧名は代吉。尊敬していた杉浦重剛、中村正直より一字をとり「重直」へ改名した。父は旧米沢藩士・富所幸吉。富所家は一刀流師範を務める家であったが、明治維新後の生活は苦しく、父の死後に母は小西と母子心中を企てた。その後母のいとこである旧会津藩士・小西馬之允の養子に迎えられる。私立日新館、福島尋常中学、二高に学ぶ。二高時代は学費に苦しみ、廃屋や廃寺で生活し、襖を布団代わりにしていた時期もあったが、米沢教育会の援助を受け東京帝大を卒業した。卒業論文は「倫理上の自我」。
高嶋 米峰(高島、たかしま べいほう、1875年1月15日 … 高嶋 米峰(高島、たかしま べいほう、1875年1月15日 - 1949年10月25日)は、日本の社会教育家、仏教学者、宗教家。東洋大学第12代学長。号は大圓。聖徳太子奉賛会理事を務め、『聖徳太子正伝』(明治書院)が天皇・皇后・皇太后・皇太子に献上されるなど、皇室とも深い関わりがあった。 1875年、新潟県中頸城郡竹直村(現在の上越市吉川区)生まれ。高田の興仁教校、西本願寺文学寮を経て1893年(明治26年)に上京して哲学館(後の東洋大学)に入学し、1896年(明治29年)卒業。井上円了の助手となり、『東洋哲学』の編集に従事する。その後『北國新聞』記者、京華尋常中学校講師を経て『中央公論』の評論を担当する。
小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1… 小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1951年10月5日)は、日本の技術者・実業家で、株式会社日立製作所の創業者である。 東京帝国大学工科大学電気工学科(現・東京大学工学部)を卒業し、日立製作所専務取締役や同社の初代取締役社長などを歴任した。 1910年には、国産初の5馬力誘導電動機(モーター)を完成させた。 小平は1874年1月15日、小平惣八、チヨの次男として栃木県下都賀郡家中村大字合戦場(現・栃木市都賀町合戦場)に生まれる。合戦場小学校(後に栃木小学校に転校)、栃木高等小学校を経て上京、東京英語学校を卒業。第一高等中学校を受験するも失敗し、その間に父が多額の借金を遺して病没。
神津 藤平(こうづ とうへい、1872年1月15日〈明治4年… 神津 藤平(こうづ とうへい、1872年1月15日〈明治4年12月6日〉 - 1960年〈昭和35年〉10月11日)は、明治末期から昭和にかけて活動した日本の実業家である。長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)の豪農神津家の一族に生まれ、志賀村長や長野県会議員、六十三銀行(八十二長野銀行の前身)常務取締役を務めたのち1920年(大正9年)に河東鉄道、後の長野電鉄の初代社長に就任。以後40年にわたり長野電鉄社長を務め、その間志賀高原開発を主導した。 弟は地質学者の神津俶祐。孫に第80代内閣総理大臣の羽田孜がいる。 明治4年12月6日(新暦:1872年1月15日)、神津清三郎の次男として生まれた。出身地は長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)。
堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3… 堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3年11月25日) - 1933年〈昭和8年〉1月23日)は、日本の社会主義者・思想家・歴史家・共産主義者・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚 渋六。 堺は没落士族の三男として、豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂(現:福岡県京都郡みやこ町犀川大坂字松坂)に生まれる。旧制豊津中学校を首席で卒業して上京後、進学予備校であった共立学校にて受験英語を学んだのちに第一高等中学校に入学するが、学費を滞納して除籍処分される。除籍後は大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めながら文学の世界で身を立てるべく、小説の執筆を始める。その後、同郷の末松謙澄の招待で東京に設けられた毛利家編輯所で「防長回天史」の編纂に従事し、同僚の山路愛山らと親交を深める。
浅井 敬吾(あさい けいご、1871年1月15日(明治3年1… 浅井 敬吾(あさい けいご、1871年1月15日(明治3年11月25日) - 1950年(昭和25年))は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、医師。長野県上田市長。旧姓は山本。 信濃国小県郡上田城下(現・上田市)の山本家に生まれ、旧上田藩士・浅井器水の養嗣子となる。東京済生学会を卒業し、東京順天堂医院(現・順天堂大学医学部附属順天堂医院)や横浜十全堂病院(現・横浜市立大学附属病院)を経て、東京帝国大学に入学し、小児選科を修了する。1893年(明治26年)旧制東京医学専門学校卒業。1899年(明治32年)故郷の上田に開業。このころ内村鑑三が訪れ、その影響で上田独立苦楽部を設立し、同会長となる。
田辺 又右衛門(たなべ またえもん、1869年1月15日 -… 田辺 又右衛門(たなべ またえもん、1869年1月15日 - 1946年1月20日)は日本の柔術家(不遷流4世・宗家)、柔道家(大日本武徳会範士)。社団法人兵庫県柔道整復師会初代会長。 1886年・翌87年の警視庁武術大会での大勝を機に日の出の勢いとなった新興の講道館柔道が各地に根付く柔術各派を圧倒し、在京の各派の多くが講道館の軍門に下る中、それでも一部の流派が講道館に挑み続けてその急先鋒と云われたのが不遷流出身の田辺であった。得意の寝技を以って講道館四天王の山下義韶や大豪・戸張滝三郎を破るなどし、富田常次郎、横山作次郎、西郷四郎など並居る講道館の重鎮たちが田辺との試合を避けてきた史実から、“講道館が最も恐れた男”として伝説的な存在となっている。
戸野 周二郎(との しゅうじろう、1867年1月15日(慶応… 戸野 周二郎(との しゅうじろう、1867年1月15日(慶応2年12月10日)– 1955年(昭和30年))は、日本の教育者。三重県四日市市長。 丹後田辺藩儒戸野周太郎の二男として舞鶴に生まれる。京都府師範学校を卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)を経て、1891年(明治24年)に東京高等師範学校文科を卒業。青森県師範学校校長、長野県視学、東京高等師範学校を歴任した。1902年(明治35年)、湖北師範学堂に総教習・学務顧問として招かれ、清に渡った。1904年(明治37年)に帰国した後は東京市教育課長に任じられた。1914年(大正3年)からは下谷区長を務め、1919年(大正8年)には東京市助役に就任した。
本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応… 本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応2年11月29日〉 - 1925年〈大正14年〉11月25日)は、明治・大正期の英語教育者、イギリス文学者、ジャーナリスト、民間外交家。柔道3段。 美作国久米北条郡上打穴里村(現・岡山県久米郡美咲町打穴里)にて、農家の本田杢蔵・やゑの3男として生まれる。村の小学校(2006年3月廃校)を卒業後、医学を志し岡山県福渡の医師吉岡寛斎(吉岡弘毅の兄)のもとで2年修業した後、上京。 高木兼寛の紹介で、井上馨外務大臣の主治医などをしていた愛宕下田村町の医師松岡勇記の薬局生となる。高木らが設立した海軍軍医学校への進学を志し、試験に必要な英語を習得するため三田英語学校に通ったが、1883年より柔道を習えば無料で英語を学べることから神田神保町にあった嘉納治五郎の英語学校・弘文館に在籍し、講道館で柔道を学んだ。
3代岩崎 清七(いわさき せいしち、1865年1月15日(元… 3代岩崎 清七(いわさき せいしち、1865年1月15日(元治元年12月18日) - 1946年(昭和21年)4月11日)は、明治期の実業家。磐城セメント(住友大阪セメント)を創業した。 下野国都賀郡藤岡村(現・栃木県栃木市藤岡町藤岡)で2代・清七の長男として生まれる。家は代々醤油醸造と米穀肥料商を生業とする。小学校卒業後、郷里の鴎村学舎で漢学を修め、1880年東京に出て岡千刃の塾で漢学を修める。この塾で片山潜と知り合い、生涯親交した。1882年より片山のいた攻玉社で数学を専修し、1883年9月慶應義塾に入学。1884年2月慶應義塾の斡旋で渡米し、1885年6月コーネル大学で政治経済を学ぶが性に合わず、ニューヨーク領事の高橋新吉から実業家に役に立つ法科を勧められ、1887年6月、イェール大学で法律学を専修し学位を得て1889年に帰朝する。
盛田 善平(もりた ぜんぺい、1864年1月15日(文久3年… 盛田 善平(もりた ぜんぺい、1864年1月15日(文久3年12月7日) - 1937年(昭和12年)2月24日)は、日本の実業家。敷島製パンの創業者で初代社長。 尾張国知多郡小鈴谷村(現・愛知県常滑市)で造り酒屋を営んでいた盛田太助の五男で、敷島製パンの現社長盛田淳夫はひ孫。中埜酢店(現・ミツカン)の4代中埜又左衛門は叔父に当たる。 1864年1月15日(文久3年12月7日)、造り酒屋の五男として生まれた善平は家業を継ぐも酒税法の改正により廃業。当時ミツカンの創業家である中埜家の養子となっていた叔父の4代中埜又左衛門から「ビールづくりを手伝って欲しい」と頼まれたのを期に独学でビール造りを学び、1887年(明治20年)に又左衛門と共に丸三麦酒醸造所を創業する。
松野 祐次郎(まつの ゆうじろう、万延元年12月5日(186… 松野 祐次郎(まつの ゆうじろう、万延元年12月5日(1861年1月15日) - 大正3年(1914年)11月22日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、弁護士。 美濃国不破郡青野村(現在の岐阜県大垣市)に栗田武兵衛の長男として生まれ、松野清之助の養子となった。1878年(明治11年)、岐阜県立師範学校を卒業。明治法律学校(現在の明治大学)に学び、弁護士試験に合格。弁護士の業務に従事する傍ら、岐阜県会議員、同副議長、同議長に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙で当選を果たした。
坪井 九馬三(つぼい くめぞう、安政5年12月12日(185… 坪井 九馬三(つぼい くめぞう、安政5年12月12日(1859年1月15日) - 1936年1月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授。 1859年、摂津国西成郡九条村(現大阪府大阪市西区)に生まれる。 幼少時は僧侶の叔父に教育を受けた。14歳の時に父を失い、以後は親戚に引き取られ、大阪開成所と造幣寮の日進学社で学んだ。17歳の時に東京外国語学校に入学し翌年卒業。東京開成学校を受験し入学する。 1881年、東京大学文学部政治理財学科を卒業。1885年、同理学部応用化学科を卒業し、文学士と理学士という2つの学位を取得した。1886年に東京大学講師となる。その後、文学部と理学部の教員を兼務した後、史学に専念することとなる。
日匹 信亮(ひびき のぶすけ、安政4年12月1日(1858年… 日匹 信亮(ひびき のぶすけ、安政4年12月1日(1858年1月15日) - 昭和15年(1940年)11月22日)は旧日本陸軍の主計監(のちの主計少将)で、富士見町教会教会員。 妻は川本鶴吉の姉カヨ、日疋養鶏養豚場経営日疋道夫は子、日疋食品代表日疋文爾は孫、ひびき(旧社、後のHM管財)代表取締役日疋好春は曾孫。 安政4年(1857年)12月1日、日疋文七の三男として紀伊国(現和歌山県)に生まれる。幼名常吉である。1880年1月に陸軍士官学校(旧5期)に入校し、1882年12月25日に卒業し、陸軍歩兵少尉に任命される。歩兵中尉の時に主計科に転ずる。1904年8月14日、満洲軍倉庫長になり、日露戦争を迎える。
初代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、安政3年12月20日〈… 初代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、安政3年12月20日〈1857年1月15日〉 - 1917年〈大正6年〉2月26日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・源四郎、名・応家。 本間千五郎応次、たに子の二男として上野国佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)に生まれる。佐渡国の戦国武将、本間高統の後胤。幼少期に文学に目覚め、足立春英(竹陰)に漢学などを学ぶ。 慶応元年7月(1865年)亡兄十四松の跡を継いだ。1880年(明治13年)市場村外五箇村戸長に就任。ついで連合村会議員を経て、1885年(明治18年)3月、最多票数を獲得し佐位郡選出の群馬県会議員となる。1887年(明治20年)12月、満期退職後、佐波郡会議員、同参事会員などを歴任した。
稲賀 龍二(いなが りゅうじ、嘉永元年12月21日(1849… 稲賀 龍二(いなが りゅうじ、嘉永元年12月21日(1849年1月15日) - 昭和6年(1931年)3月15日)は日本の政治家。上道村長(初代、第4代)。境町長(第11代)。元鳥取県会議員(議長、副議長)、郡会議員(議長)、村会議員。 孫娘のしげのは元郵政大臣手島栄の妻。同じく孫の稲賀幸は元稲賀外科医院長。鳥取県済生会境港総合病院院長稲賀潔は曾孫。 伯耆国会見郡上道村(現鳥取県境港市上道町)に生まれた。父貞次郎は最後の上道村庄屋。 明治21年(1888年)鳥取県会議員に当選、その後明治28年(1895年)から明治32年(1899年)にかけて当選3回、その間明治30年(1897年)には第15代の県会議長に就任した。
市川 量造(いちかわ りょうぞう、1845年1月15日(弘化… 市川 量造(いちかわ りょうぞう、1845年1月15日(弘化元年12月8日) - 1908年(明治41年)2月15日)は、元長野県会議員、元信飛新聞社社長、啓蒙家。松本城が競売にかけられ落札されたが、買い戻した人物として知られる。幼名は泰之助。 信濃国筑摩郡松本城下の下横田町の名主の家に生まれ、明治維新後は南佐久郡郡長、戸長を務めた。幕末に江戸で学問を修めた後、松本に戻り『信飛新聞』を発行した(同紙は長野県初の日刊新聞)。 1872年(明治5年)、松本城が大蔵省によって競売にかけられ、天守閣が235両、付合物を合わせて計309両で落札された。落札者は天守閣を取り壊そうとしたが、量造は「城がなくなれば松本は骨抜きになる」と紙面で訴え、先祖伝来の蔵書を売るなどして金を工面し始める。
花城 黒和(はなしろ くろかず、女性、1月15日 - )は、… 花城 黒和(はなしろ くろかず、女性、1月15日 - )は、日本の漫画家、同人作家。愛知県出身。 愛知淑徳大学メディアプロデュース学部創造表現専修コース卒業。在学中はとりいかずよしゼミに学んだ。 麻貴早人とともに、高等学校時代から漫画製作を始め、大学においても「幻想文学研究会」に所属して彼女と切磋琢磨し、製作に励んだ。大学4年のとき行われた第73回小学館新人コミック大賞にて投稿作の「仮面の街」が少年部門の〈佳作〉に入賞し、以後プロ活動に入った。 同人活動ではクロワッサンという名義も用いる。
マサ 小浜(マサ こはま、Masa Kohama、1月15日… マサ 小浜(マサ こはま、Masa Kohama、1月15日 - )は、長年アメリカ合衆国で、現在は日本で活動しているギタリスト・ソングライターである。 ブラックミュージックを土台としつつ多様かつ独自な音楽性を特徴とし、幅広いアーティストの作品やライブに参加すると共に、グラミー賞受賞作に携わった経験も持つ。 群馬県前橋市出身。前橋市立第二中学校、群馬県立前橋高等学校を経て、青山学院大学文学部英米文学科を卒業後、1991年に渡米、ミュージシャンズ・インスティチュートを卒業。 ロサンゼルスにて、黒人教会(シティ・オヴ・レフュージ)でハウス・ギタリストとして9年間ゴスペルを演奏しながら、ビリー・プレストンやスティーヴィー・ワンダー、ウォーレン・G、イディナ・メンゼル、ジェイムス・ギャドソン(英語版)、テンプテーションズのアリ・オリー・ウッドソン(英語版)等のミュージシャンと共演を重ねた。