上村 進(かみむら すすむ、1883年1月23日 - 196… 上村 進(かみむら すすむ、1883年1月23日 - 1969年5月19日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(日本共産党公認)。自由法曹団設立に関わり、同団体の団長も務めた。 日本共産党機関誌「アカハタ」を印刷していたアカツキ印刷所の社長だった。 新潟県南魚沼郡塩沢町(現在の南魚沼市)出身。早稲田大学専門部法律科及び中央大学卒業。日露戦争に従軍し、退役後上京、二六新報社に入社した。1915年、弁護士試験に合格、弁護士となった。1920年には普選演説会で首相や両院議長に対して、普選反対議員へ天誅を行う旨の決議文を提出したこと(天誅事件)で起訴される(後に無罪判決)。翌年布施辰治や山崎今朝弥らと自由法曹団を結成し、労働運動、農民争議への支援を精力的に行った。
海老沢 亮(えびさわ あきら、1883年1月23日 - 19… 海老沢 亮(えびさわ あきら、1883年1月23日 - 1959年1月6日)は、日本組合基督教会の牧師であり、戦前は日本基督教連盟総主事として神の国運動を推し進め、戦後は日本基督教協議会(NCC) の初代総主事として超教派の活動を行った。 水戸藩士海老沢知成の3男として、茨城県西茨城郡笠間町に生まれる。立志学館を卒業した後、札幌農学校土木工学科で学ぶ。農学校在学中に、婦人宣教師のA・M・ドーデ―の英語教室でキリスト教に触れて, 1900年(明治33年) 田中兎毛牧師から洗礼を受ける。 1902年 (明治35年) に農学校を卒業後、日本鉄道会社に入社し、鉄道技手に任命される. 1904年(明治37年) 日露戦争が始まると陸軍少尉として、歩兵第25連隊に加わり、旅順に出征するが帰隊命令を受けて旅順攻囲戦には参加していない。
上田 直次(うえだ なおじ、1880年1月23日 - 195… 上田 直次(うえだ なおじ、1880年1月23日 - 1953年2月21日)は、日本の彫刻家。広島県賀茂郡川尻村生まれ。 1880年(明治13年)1月23日、広島県賀茂郡川尻村(現在の呉市川尻)宮大工の第一人者と称された上田治作の次男に生まれる。 1906年(明治39年)大阪産業博覧会で高村光雲の「浜辺で遊ぶ子ら」を見て感銘を受け、翌1907年、川尻村光明寺の住職日高緝熙に斡旋された浅草の広楽寺を目指して妻を残し単身上京。東京府下谷区谷中(清水町)真島町一番地にある太平洋画会研究所 に学ぶ。木彫を山崎朝雲に師事、塑像を朝倉文雄のもとで研究。旧広島藩第12代藩主浅野長勲に認められ、望月圭介の庇護を受けた。
上村清延(かみむら きよのぶ、1879年(明治12年)1月2… 上村清延(かみむら きよのぶ、1879年(明治12年)1月23日 - 1957年(昭和32年)11月1日)は、日本のドイツ文学者。現代ドイツ文学を専攻。東洋文学・思想のドイツ文学への影響を研究。 鹿児島県徳之島の亀津(現大島郡徳之島町)出身。東京帝国大学独文科卒。1943年「近代独逸文学と東洋」で九州帝国大学文学博士。第七高等学校教授、第一高等学校教授、旧制浦和高等学校教授、日本大学教授。1950年定年退任。墓所は青山霊園(1イ3-1)。 帝大時代には小山内薫、武林無想庵、吉田白甲らと同人誌『七人』を創刊し、同人の川田順によると、上村は樋口一葉に傾倒し、「にごりえ」「たけくらべ」は全部暗記していた。
好本 督(よしもと ただす、1878年(明治11年)1月23… 好本 督(よしもと ただす、1878年(明治11年)1月23日-1973年(昭和48年)4月14日)は、日本の教育者、研究者、キリスト教思想家、宗教家である。 視覚障害当事者として、イギリスの制度を日本に輸入し視覚障害者の権利向上のため尽くした。日本盲人の父と称される。 大阪市東区瓦町に生まれる。幼少期から網膜色素変性症のため弱視であった。 大阪府立第一中学校を卒業。 1898年前後(明治31年) 内村鑑三の聖書研究会に参加し、キリスト教徒となる 1900年(明治33年)東京高等商業学校を卒業。 1901年(明治34年)オックスフォード大学ジーザス校に留学。 1902年(明治35年)日本に帰国後、『真英国』を著す。
山中 千之(やまなか かずゆき、1877年1月23日 - 1… 山中 千之(やまなか かずゆき、1877年1月23日 - 1949年)は、明治・大正期日本の外交官。元国際連盟委任統治委員。 青森県弘前市笹森町生まれ。1896年青森県第一尋常中学校(現青森県立弘前高等学校)卒業。1900年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1902年同専攻部銀行科卒業。 同期に出淵勝次元駐米大使、鈴木榮作元シドニー総領事、高嶋菊次郎元中支那振興総裁、上田貞次郎元帝国学士院会員など。また、在学中青森県出身学生のための寮として初めて東京に設立された修養社で佐藤尚武元外務大臣とともに住み、佐藤はのちに山中の紹介で山中の叔父佐藤愛麿の娘婿となった。 1903年在ホノルル領事館領事官補。
今村 繁三(いまむら しげぞう、1877年(明治10年)1月… 今村 繁三(いまむら しげぞう、1877年(明治10年)1月23日 - 1956年(昭和31年)4月19日)は、日本の銀行家。 相場で財を成した実業家、今村清之助の次男として生まれる。東京高等師範学校附属中学に学び、英国ケンブリッジ市にある全寮制パブリックスクール リース校 (The Leys School) に留学した。この学校は『チップス先生さようなら』のモデルとなった名門で、チャペルには後に今村らが寄付したことを記念して彼らの名前を記したステンドグラスが残っている。また、皇太子時代の昭和天皇が訪問したことでも知られる。 1899年に英国トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)に進学し、1902年に文学士の学位を受ける。
国友 鼎(くにとも かなえ、1877年(明治10年)1月23… 国友 鼎(くにとも かなえ、1877年(明治10年)1月23日 - 1957年(昭和32年)1月14日)は、日本の医学者。 1877年(明治10年)1月23日 大分県大野郡川登村(現・臼杵市)に生まれる。 1900年(明治33年)11月 第五高等学校医学部卒業。 1904年(明治37年)7月 長崎医学専門学校教授就任。 1913年(大正2年)10月 高等官三等に叙任。 1923年(大正12年) 長崎医専の大学昇格と共に長崎医科大学教授に就任。 1931年(昭和6年) 日本解剖学会理事長に就任。 1940年(昭和15年) 長崎市会議長に就任。 1941年(昭和16年) 県立長崎博物館長に就任。 解剖学の1分野である発生学、とりわけ日本人の胎児の研究を生涯のテーマとして、国内はもとより海外においても第一人者として知られる。
黒谷 了太郎(くろたに りょうたろう、1874年1月23日 … 黒谷 了太郎(くろたに りょうたろう、1874年1月23日 - 1945年5月11日)は、日本の官吏、都市計画家、第3代旧鶴岡市長。 酒田県田川郡鶴岡(現・山形県鶴岡市)生まれ。名古屋の都市計画に携わっていた折、イギリスの田園都市の設計を担当したレーモンド・アンウィンに教えを請うたことがきっかけで、アンウィンに傾倒するようになる。田園都市思想を日本の事情を踏まえたうえで、「山林都市」という形で具現化すべく提唱するも、賛同を得るに至らなかった。後に請われて生地、鶴岡市の市長となるも、教育人事をめぐる政争がきっかけで、排斥運動が起き、辞任する。名古屋時代の部下に石川栄耀がいる。石川のことを可愛がり、親しい友人でもあった。
4代 吉村 伊助(よしむら いすけ、1873年1月23日 -… 4代 吉村 伊助(よしむら いすけ、1873年1月23日 - 1928年3月15日)は、兵庫県城崎郡日高村(現・豊岡市)出身の実業家・政治家。株式会社吉村商店を設立して縮緬(丹後ちりめん)製造業を営み、峰山町長や衆議院議員(2期)を務めた。 1873年(明治6年)1月、兵庫県城崎郡日高村(現・豊岡市)の太田治右衛門の二男として生まれた。幼名は新太郎。1880年(明治15年)2月13日生まれとされることもあり、京都府出身とされることもある。長兄の太田寿之助は江原銀行株式会社専務取締役などを務めている。 小学校卒業後に京都市の西本願寺経営学校で学んだ。高等商業学校(後の旧制東京商科大学、現・一橋大学)を卒業したとされることもある。
宮崎 滔天(みやざき とうてん、1871年1月23日〈明治3… 宮崎 滔天(みやざき とうてん、1871年1月23日〈明治3年12月3日〉 - 1922年〈大正11年〉12月6日)は、自由民権思想を根幹とする世界革命を目指し活動した近代日本の社会運動家。孫文ら中国の革命家たちを支援した日本人の代表格として知られ、孫文の自伝「志有れば竟に成る」で「革命の為に奔走して終始おこたらざりし者」 としてその名が挙げられている。本名は寅蔵(もしくは虎蔵)。白浪庵滔天と号した。 荒尾宮崎家は1647年、宮崎弥次兵衛正之が荒尾村の有力武士の娘を嫁に迎え、定住したことに始まる。肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に遠祖を菅原道真とする郷士の家柄に、その9代目となる宮崎政賢と佐喜夫妻の八男として、1871年(明治3年)に生まれる。
倉知 鉄吉(くらち てつきち、明治3年12月3日(1871年… 倉知 鉄吉(くらち てつきち、明治3年12月3日(1871年1月23日) - 昭和19年(1944年)12月22日)は、日本の外務官僚。貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。実業家。 加賀藩士倉知行徳の長男として生まれる。第四高等学校を経て、1894年(明治27年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。内務属となったが、1897年(明治30年)に外務省参事官に転じ、ドイツ公使館書記官、統監府書記官などを歴任した。1908年(明治41年)、外務省政務局長に就任し、1912年(明治45年)には外務次官に昇進した。政務局長・次官在任中に日清協約、日露協約、韓国併合、条約改正などに関わった。 1913年(大正2年)に退官するとともに、貴族院勅選議員(2月13日)、錦鶏間祗候(2月14日)に任じられた。
岡倉 秋水(おかくら しゅうすい、明治元年12月11日(18… 岡倉 秋水(おかくら しゅうすい、明治元年12月11日(1869年1月23日) - 昭和25年(1950年)12月30日)は明治時代の日本画家。 越前国福井老松下町に生まれる。本名は覚平。岡倉天心は叔父にあたる。幼少の頃に上京、明治11年(1878年)4月に東京外国語学校仏蘭西学部に入学しフランス語を学んでいる。明治13年(1880年)に退学して画家を志し狩野芳崖に師事して絵の修業を始め、明治16年(1883年)5月からアーネスト・フェノロサについて美学を学ぶ。岡不崩、狩野忠信とともに鑑画会に少壮画家として参加、明治18年(1885年)の第1回鑑画会大会にはフェノロサの示唆を受け「文殊」、「羅漢」、「鷲」を出品すると「鷲」が四等褒状を受け、明治19年(1886年)4月の第2回鑑画会大会には「山水」を出品している。
高見 松太郎(たかみ まつたろう、1866年1月23日(慶応… 高見 松太郎(たかみ まつたろう、1866年1月23日(慶応元年12月7日) - 1930年(昭和5年)1月5日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 長崎県出身。1910年、法政大学卒。長崎県会議員、長崎市会議員、同議長代理、所得税調査委員、長崎港湾改良調査会幹事、私立長崎盲啞学校(現・長崎県立盲学校)理事、長崎慈善学会幹事、日本海員掖済会地方委員、長崎麦粉会社、九州生命保険(株)各取締役、長崎米穀株式取引所、長崎勧業信託(株)各監査役、長崎電気瓦斯、長崎ラジウム鉱泉(株)各取締役となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において長崎市選挙区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1903年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。
日野 強(ひの つとむ、1866年1月23日(慶応元年12月… 日野 強(ひの つとむ、1866年1月23日(慶応元年12月7日)- 1920年(大正9年)12月23日)は、日本の探検家、大日本帝国陸軍の軍人である。幼名は熊吉。「強」の読み方は戸籍上は「つとむ」であるが、中国で活動していた時期には一般に「きょう」と読まれ、東京地学協会や出口王仁三郎は「つよし」と呼んでいた。日野本人は「きょう」という読み方を使い、「つとむ」の読み方を使っていたのは改まった場面だけだったという。 伊予小松町(現西条市)の常吉、ツヤ夫妻の家に生まれ、一家には強のほかに兄一人、弟二人、妹二人がいた。小学校卒業後に愛媛県師範学校に進み、教職に就くが、転勤先の堀江の小学校の環境に失望する。
川島 浪速(かわしま なにわ、慶応元年12月7日(1866年… 川島 浪速(かわしま なにわ、慶応元年12月7日(1866年1月23日) - 昭和24年(1949年)6月14日)は、日本の大陸浪人。満蒙独立運動の先駆者として知られる。 信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士川島良顕と、その妻・栄子の長男として生まれる。出生時には父親が長州征討のため大坂に出陣中であったため、「浪速」と命名された。明治8年(1875年)に一家で東京に移住。その後、東京外国語学校に入学し中国語を学ぶ。明治19年(1886年)に同校を退学、同年に上海に渡航し、中国各地を見聞する。明治22年(1889年)、病を得て帰国。 明治27年(1894年)、日清戦争が勃発すると、陸軍通訳官として従軍、中国大陸から台湾に転戦する。
上島 長久(うわじま ながひさ、1865年1月23日〈元治元… 上島 長久(うわじま ながひさ、1865年1月23日〈元治元年12月26日〉- 1918年〈大正7年〉5月18日)は、日本の衆議院議員(憲政会)。ジャーナリスト。号は笠山。義兄に検事総長の春木義彰。 大和国平群郡法隆寺村(現在の奈良県生駒郡斑鳩町)に中宮寺門跡家司で勤王家の上島掃部の子として生まれる。 1885年(明治18年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業。裁判所書記、釧路十勝共同汽船会社社員、函館商業学校嘱託教員を経て、『函館新聞』記者となった。1895年(明治28年)、報知新聞社に入り、主筆を務めた。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(18… 田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(1864年1月23日) - 昭和8年(1933年)4月26日)は、日本の近江商人、実業家。大阪紡績取締役。東洋紡・日清紡ホールディングス・江商(現・兼松)の設立に関与した。また、綿糸相場師として活躍し『田附将軍』と呼ばれた。「売りの田附」として有名。ニュース・キャスターの国谷裕子の曾祖父。 文久3年(1864年)に近江国佐生村(後の滋賀県神崎郡五峰村佐生、神崎郡能登川町佐生を経て現・東近江市佐生町)に産まれる。船場八社の一つの田附商店を開業し、綿花取引や、綿業界をリードする存在であった。また、社会貢献として、京都大学に財団法人田附興風会、郷里の神崎郡五峰村に公益財団法人五峰興風会、帝塚山学院、大阪市に北野病院などを開設している。
頭本 元貞(ずもと もとさだ、1863年1月23日〈文久2年… 頭本 元貞(ずもと もとさだ、1863年1月23日〈文久2年12月4日〉- 1943年〈昭和18年〉2月15日)は、日本のジャーナリスト、衆議院議員(1期)。英語力に秀で、伊藤博文や渋沢栄一といった実力者に重用され、長年にわたって国際的舞台で活躍するジャーナリストとなったほか、英語教育教材の開発者、代議士としても活動した。右翼的国家主義者と評されることが多い。 伯耆国(後の鳥取県日野郡黒坂村、黒坂町を経て現日野町)出身。鳥取県と愛知県の中学校に在籍した後、東京大学予備門を経て、1880年に札幌農学校に入学し、武信由太郎や志賀重昂らとともに4期生として学んだ。在学中にジュゼッペ・マッツィーニの文章に触れ、日本の国情を海外へ紹介することを自らの使命と決意したとされる。
渡辺 忠三郎(わたなべ ちゅうざぶろう、1860年1月23日… 渡辺 忠三郎(わたなべ ちゅうざぶろう、1860年1月23日(安政7年1月1日) - 1940年(昭和15年)3月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 越前福井藩領南条郡府中町(福井県南条郡武生町、武生市を経て現越前市)出身。渡辺等の三男、渡辺洪基の弟としてのちの福井県に生まれる。1874年(明治7年)陸軍幼年学校に入ったのち、1877年(明治10年)陸軍士官学校に入学し(旧3期)、1879年(明治12年)12月、陸軍砲兵少尉に任官する。日清戦争では大総督府兵站総監部附として従軍した。 1901年(明治34年)5月、駐米公使館附を経て、同年11月、大佐に進み、陸軍砲工学校教官に転じるが、日露戦争の勃発を受け1904年(明治37年)2月、大本営幕僚部勤務を拝命する。
藤野 辰次郎(ふじの たつじろう、1858年1月23日(安政… 藤野 辰次郎(ふじの たつじろう、1858年1月23日(安政4年12月9日)- 1909年(明治42年)7月29日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 近江国愛知郡下枝村(滋賀県愛知郡下枝村、日枝村大字下枝、犬上郡豊郷村を経て現豊郷町)で、豪農・7代藤野四郎兵衛良久の二男として生まれた。神戸高等商業学校、東京高等商業学校専攻部を卒業した。他店で経験を積み、その後、藤野店を担当した。 1876年(明治9年)6月、大阪第三区大区二等戸長兼学区取締に就任。その後、大阪府会議員に選出された。1885年(明治18年)滋賀県会議員にも選ばれた。その他、破産管財人、神崎愛知郡所得税調査委員、愛知郡所得税取調委員なども務めた。
一ノ倉 貫一(いちのくら かんいち、1857年1月23日(安… 一ノ倉 貫一(いちのくら かんいち、1857年1月23日(安政3年12月28日)- 1922年(大正11年)12月11日)は、明治から大正期の大地主、教育者、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国和賀郡、のちの岩手県東和賀郡小山田村(和賀郡小山田村、東和町を経て現花巻市)で、一ノ倉家に生まれ、一ノ倉宇兵衛の養子となり1893年(明治26年)8月に家督を相続した。 1878年(明治11年)宮城師範学校を卒業。仙台市小学校訓導、宮城県師範学校教員、岩手県属、岩手県獣医学校長、郡長などを歴任した。その他、徴兵事務官、勧業諮問会員、市町村制実施法取調委員、府県制郡制実施法取調委員、日本赤十字社特別社員なども務めた。
吉田 謙次郎(よしだ けんじろう、安政2年12月16日(18… 吉田 謙次郎(よしだ けんじろう、安政2年12月16日(1856年1月23日) - 1928年(昭和3年))は戦前日本のドイツ語教師。金沢藩貢進生、第一高等学校教授、独逸学協会学校附属独逸語専修学校講師。 安政2年12月16日(1856年1月23日)武蔵国江戸下谷御徒町に加賀藩士吉田淳一郎の子として生まれた。幼名は幸太郎、後に謙之助、謙次郎。 明治3年(1870年)前田肇、桜井房次郎と共に金沢藩貢進生に選ばれ、大学南校に入学し、安東清人、保志虎吉、関澄蔵等とドイツ語を専攻した。 明治4年(1871年)9月28日外務省洋語学所に転じ、飯盛挺造等と独逸語学教授東条一郎に学んだ。1873年(明治6年)洋語学所は文部省外国語学所に改組し、6月12日独逸語学級長となった。
龍岡 信熊(たつおか しんくま、安政2年12月16日〈185… 龍岡 信熊(たつおか しんくま、安政2年12月16日〈1856年1月23日〉 - 1940年〈昭和15年〉7月27日)は、日本の警察官、政治家。函館区長(第8代)、函館支庁長(初代)、小樽区長、小倉市長(第4代)などを務めた。 薩摩国薩摩郡平佐村(現薩摩川内市)に生まれる。明治8年、警察官(四等巡査)になり第五方面勤務となる。西南戦争では植木口警視が率いる一番小隊の伍長を任される。明治17年に28歳で那覇警察署長となると、さらに2年後の明治19年には沖縄県警察 トップの警部長(本部長)にまでに昇りつめ、以後、宮崎県警察部、岡山県警察部、滋賀県警察部、佐賀県警察部各部の警部長を歴任した。その後は石川県書記官及び石川県参事会員を経て台湾へ渡り、台北県書記官や台湾総督府法院の高等法院検察官などを務めた。
阿部 浩(あべ ひろし、嘉永5年1月3日(1852年1月23… 阿部 浩(あべ ひろし、嘉永5年1月3日(1852年1月23日) - 大正11年(1922年)10月7日)は、日本の内務官僚、政治家。群馬県知事、千葉県知事(2期)、富山県知事、新潟県知事、東京府知事(2期)を歴任。衆議院議員(2期)、貴族院議員、日本赤十字社特別社員を務めた。位階および勲等は正三位・勲一等。陸奥国岩手郡盛岡出身。邸は荏原郡大井町元芝にあった。 南部藩士阿部雄平の子として生まれる。4つ年下の原敬とはいわゆる幼馴染の間柄であり、後に原に郵便報知新聞入社を勧めたのも阿部であったとされている。戊辰戦争後に上京して慶應義塾(後の慶應義塾大学)に学び、苦学の末に卒業して1874年に岡山県職員として採用され、後に工部省職員、鉄道事務官を経て内務省に移籍して社寺局長にまで昇った。
折田 平内(おりた へいない、1847年1月23日(弘化3年… 折田 平内(おりた へいない、1847年1月23日(弘化3年12月7日) - 1905年(明治38年)5月6日)は、明治時代の日本の政治家。薩摩藩士。開拓大書記官、内務書記官、警視総監を務め、山形県令、福島・栃木・広島・滋賀県知事など多くの官選知事を歴任。後に貴族院勅選議員となる。 薩摩国鹿児島城下山下町(現在の鹿児島県鹿児島市山下町)に生まれる。勤皇を志して、 諸国の名士と交流を持ち、黒田清隆の門下であった。1872年12月に開拓使八等出仕となる。1872年8月に開拓大主典、1873年10月に七等出仕となり、1875年8月8日に開拓幹事。1877年1月に開拓権少書記官となり、翌1878年11月に権大書記官となる。
矢野 裕子(やの ひろこ、1月23日 - )は、日本の女優。… 矢野 裕子(やの ひろこ、1月23日 - )は、日本の女優。 神奈川県出身。上智大学国際教養学部 卒業 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
小林 直(こばやし なお、1月23日 - )は東京都生まれ、… 小林 直(こばやし なお、1月23日 - )は東京都生まれ、北海道育ちのシンガーソングライターである。水瓶座、血液型A型。 高校卒業後に東京の音楽学校に入学。学校の発表会にて、透明感溢れる声と、まるで映画のワンシーンの様に聴く人の心を打つ詩の世界で絶賛され[要出典]、プロデューサー:天野滋(NSP)にスカウトされる。2000年にフォーライフレコードより「たくさんのキス」でデビュー。 1stアルバム「ネイビー」、他マキシシングル5枚をリリース。 同時期にFM神戸とFM長崎にて1年間番組を担当し、ラジオパーソナリティを経験。 2003年、より自分らしい音楽を求めて活動の場をインディーズに移し、Clip recordsよりミニアルバム「drop of water」をリリース。
林 ふみの(はやし ふみの、1月23日 - )は日本の漫画家… 林 ふみの(はやし ふみの、1月23日 - )は日本の漫画家。福井県出身。福井県立高志高等学校卒業。野球好き、中日ドラゴンズファン。相撲好き[要出典]。 学生時代からの同人活動を経て、1995年に「三日月の寝台」で第1回エニックス21世紀マンガ大賞奨励賞受賞[要出典]。 1996年、『月刊Gファンタジー』5月号に匠 龍啓(たくみ りゅうけい)名義で掲載された「アンケス〜星の名前〜」でデビュー。当時10代であった[要出典]。
仲井 和紀(なかい かずき、1月23日生まれ)は日本のシャン… 仲井 和紀(なかい かずき、1月23日生まれ)は日本のシャンソン歌手。水瓶座。 1969年大阪音楽大学音楽学部声楽学科卒業。卒業後クラシックより転向、シャンソン歌手として活動。 関西を拠点にライブハウス・ピアノBARに出演し、1996年には旧新歌舞伎座で中条きよしと共演している。 中之島リーガロイヤルホテル・セラーバーでのピアノ弾き語り演奏など、関西を中心に音楽活動を行っている。 大阪にてシャンソン教室を主宰している。 作家藤本義一の妻でタレントの藤本統紀子は、師事する人物として、同じくシャンソン歌手の深緑夏代と共に仲井和紀の名を上げている。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。