小橋 三四子(こはし みよこ、1883年(明治16年)7月2… 小橋 三四子(こはし みよこ、1883年(明治16年)7月23日 - 1922年(大正11年)5月11日)は、日本の明治期のジャーナリストである。1914(大正3)年、日本で最初の婦人面といわれる『読売新聞よみうり婦人付録』の編集主任となった。。 1883年(明治16年)、静岡県で小橋光次郎の次女として生まれた。5歳で上京し、東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高等学校)に入学した。1901年(明治34年)、創設されたばかりの日本女子大学校(現・日本女子大学)国文学部に第一回生として入学した。この頃キリスト教に入信した。 1904年(明治37年)、日本女子大学校を卒業した。同校の卒業生組織として桜楓会が創設され、同校初代校長の成瀬仁蔵の要請に応えて橋本八重子(柳八重子)とともに同窓会誌 『家庭週報』 『家庭』 の編集人を務めた。
坂口 武市(明治16年(1883年)7月23日 - 昭和33… 坂口 武市(明治16年(1883年)7月23日 - 昭和33年(1958年)3月5日))は、日本の実業家、政治家。旧姓井上。米子商工会議所会頭、県会議員、米子市議会議員を務めた。鳥取県平民。 鳥取県人・井上豊治郎の二男、井上喜代太の弟、初代平兵衛の養子。坂口家は藩政時代“沢屋”と称し、綿、木綿仲買業を営んでいた。初代平兵衛が、「坂口財閥」と呼ばれるように家業を発展させた。 明治39年(1906年)7月早稲田大学法学科卒業。山陰電気常務取締役に就任。明治42年(1909年)、分家して一家を創立す。 大正15年(1926年)8月合併により広島電気(中国電力の前身)取締役山陰支社長となる。 大正2年(1913年)9月の町会議員当選以来、昭和2年(1927年)3月まで13年7か月にわたり町勢伸展に尽くし、同6年(1931年)6月に市会議員当選と共に市会議長に選任され、同10年(1935年)6月再選まで通算20有余年議員の職にあり、その間2期県会議員に当選した。
大蔵 公望(おおくら きんもち、1882年(明治15年)7月… 大蔵 公望(おおくら きんもち、1882年(明治15年)7月23日 – 1968年(昭和43年)12月24日)は、日本の鉄道官僚。貴族院男爵議員。南満州鉄道理事。 陸軍中将・男爵大蔵平三の三男として東京府で生まれる。1904年(明治37年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。渡米してミズーリ・パシフィック鉄道、タイドウォーター鉄道などに勤務。1908年(明治41年)に帰国して鉄道院に入り、静岡駅助役、新橋運輸事務所長、運輸局貨物課長、神戸鉄道管理局運輸課長、西部鉄道管理局運輸課長などを歴任した。父の死去に伴い、1911年(明治44年)9月20日、男爵を襲爵。1919年(大正8年)に南満州鉄道に転じ、運輸部次長を経て理事に就任し、計画部長・殖産部長・地方部長を兼ねた。
松井 房治郎(まつい ふさじろう、1881年(明治14年)7… 松井 房治郎(まつい ふさじろう、1881年(明治14年)7月23日 - 1937年(昭和12年)12月10日)は、朝鮮総督府官僚。 京都府愛宕郡岩倉村(現在の京都市左京区)出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学を卒業。大蔵省を経て、朝鮮総督府で財務部長や税関長を務め、全羅南道内務部長、慶尚南道内務部長、京畿道内務部長、京城府尹を歴任し、1929年(昭和4年)に咸鏡南道知事に就任した。 1930年(昭和5年)に退官した後は、朝鮮米穀倉庫株式会社社長、朝鮮郵船株式会社取締役、朝鮮農会副会長などを務めた。
原 澄治(はら すみじ、1878年7月23日 - 1968年… 原 澄治(はら すみじ、1878年7月23日 - 1968年1月4日)は、岡山県児島郡藤戸村(現在の倉敷市藤戸町)出身の実業家、地方政治家。旧姓は星島。号は彰邦。倉敷市名誉市民。 実業家として、倉敷紡績(クラボウ)専務、中国民報社(現在の山陽新聞社)役員を務め、大原孫三郎の右腕として実業界で活躍した。 1945年(昭和20年)に辞任するまで系列の奨農土地会長、倉敷絹織(現在のクラレ)取締役、中国信託社長、岡山合同貯蓄銀行頭取、中国銀行取締役などを兼任した。 また1912年(明治45年)から郡議、町議を務め、1918年(大正7年)から1924年(大正13年)までは倉敷町長も歴任した。 1913年(大正12年)に蔵書を寄贈し倉敷旭町小学校(後の倉敷東小学校)内に倉敷図書館を設立。
永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年(明治9年)7月… 永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年(明治9年)7月23日 - 1943年(昭和18年)9月17日)は、兵庫県三原郡長田村(現:南あわじ市倭文長田)出身の日本の官僚、政治家、俳人、随筆家。第18代官選三重県知事、第8代・第14代東京市長、第4代拓殖大学学長、貴族院勅選議員。廣田内閣の拓務大臣、阿部内閣の鉄道大臣を歴任。俳名・筆名は永田 青嵐(ながた せいらん)で、多くの著書や句集を残している。 長男は自由民主党衆議院議員の永田亮一。 初代倭文村村長を務めた永田実太郎の次男として出生。弟に京都市土木局長、横浜市電気局長を務めた永田兵三郎がいる。 三原高等小学校卒業後、進学校の1つだった姫路中学校を受験するが不合格となる。
久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年… 久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年〉7月23日 - 1929年〈昭和4年〉1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級および位階勲等は軍事参議官、元帥陸軍大将、大勲位、功四級。久邇宮朝彦親王の第3王子。久邇宮第2代当主。香淳皇后(昭和天皇后)の父。上皇の外祖父、今上天皇の曽祖父にあたる。 1887年(明治20年)、父・朝彦親王の継嗣と定められ、京都府立中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、学習院を経て東京の成城学校(現:成城中学校・高等学校)に入学する。1891年(明治24年)、朝彦親王薨去を受けて久邇宮を継承する。 1896年(明治29年)、陸軍士官学校を卒業し陸軍士官として勤務し、1902年(明治35年)に陸軍大学校卒業。
五島 盛光(ごとう もりみつ、1873年〈明治6年〉7月23… 五島 盛光(ごとう もりみつ、1873年〈明治6年〉7月23日 - 1923年〈大正12年〉5月30日)は、明治時代から大正時代の華族(子爵)。五島家第33代当主。位階は従三位。旧名は溝口歓十郎。 旧越後国新発田藩主・溝口直溥の十六男として生まれる。1893年(明治26年)旧福江藩主五島家当主の五島盛主が嗣子無くして卒去したため、翌1894年(明治27年)に養嗣子として五島家を継いだ。同年1月25日、盛光と改名した。1902年(明治35年)、自ら巨費を投じて旧制五島中学校を創設した。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1921年(大正10年)5月14日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、死去するまで在任した。
牧ロ 常三郎(まきぐち つねさぶろう、1871年7月23日(… 牧ロ 常三郎(まきぐち つねさぶろう、1871年7月23日(明治4年6月6日)- 1944年(昭和19年)11月18日)は、日本の教育者、宗教家。 1871年7月23日(明治4年6月6日)、柏崎県刈羽郡荒浜村(現:新潟県柏崎市)で渡辺長松・イネの長男として誕生。出生名は渡辺 長七(わたなべ ちょうしち)。1877年、親戚である牧口善太夫の養子となる。 1885年に尋常小学校を卒業後、単身、北海道へ職を求めて渡る。小樽警察署の給仕をしながら苦学の末に、1891年、札幌の北海道尋常師範学校(現:北海道教育大学)第一学部3学年に編入。 1893年、常三郎(つねさぶろう)と改名。同年3月に卒業し、母校の付属小学校の教師となる。
梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7… 梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7月23日〉 - 大正6年〈1917年〉4月23日)は、明治時代から大正時代にかけての日本画家。本名は錠次郎(ていじろう)。初め英洲と号す。二度目の妻は尾崎紅葉門下の作家北田薄氷。 明治3年6月25日(1870年7月23日)、彫金師の梶田政晴の長男として東京下谷御徒町で生まれた。家は代々幕府の鷹匠だったが、父は彫金を業としていた。家業は弟が継ぎ、幼少から画才のあった半古は明治15年に下谷練塀尋常高等小学校を卒業すると、苦しい家計を助けるため、早朝から深夜まで輸出品の団扇・扇子やハンカチーフに絵を描いて問屋へ運んだという。明治16年(1883年)13歳の時、浮世絵師で楊洲周延の弟子鍋田玉英について絵を学ぶ。
伊賀 駒吉郎(いが こまきちろう、1869年7月23日〈明治… 伊賀 駒吉郎(いが こまきちろう、1869年7月23日〈明治2年〉 - 1946年〈昭和21年〉3月3日)は、日本の思想家、教育者、心理学者、宗教学者。関西教育界の第一人者であり、特に、女子教育で定評があった。当時、菊池寛、三土忠造とともに、香川県出身の代表的な三人として並べられることもあった。甲陽学院中学校・高等学校創立者。
伊藤 武七郎(いとう ぶしちろう、1868年7月23日(明治… 伊藤 武七郎(いとう ぶしちろう、1868年7月23日(明治元年6月4日)- 1936年(昭和11年)10月26日)は、大正から昭和前期の大地主、政治家。衆議院議員、東京府荏原郡荏原町長。 武蔵国荏原郡下蛇窪村(東京府荏原郡平塚村、平塚町、荏原町、東京市荏原区を経て現東京都品川区)で、地主・伊藤受房の二男として生まれる。父は杜松斎景湖と名乗り寺子屋を開いていた。攻玉社中学校(現攻玉社中学校・高等学校)で学んだ。1917年(大正6年)5月に家督を相続した。 平塚村内堀普通水利組合議員、同村会議員、同耕地整理組合長、荏原郡会議員、荏原町長、東京府会議員(4期)、同副議長、土地貸借価格調査委員、品川普通水利組合会議員、東京市会議員、同参事会員、荏原区公民学務委員などを務めた。
小林 丑三郎(こばやし うしさぶろう、慶応2年6月12日〈1… 小林 丑三郎(こばやし うしさぶろう、慶応2年6月12日〈1866年7月23日〉 - 1930年〈昭和5年〉1月16日)は、日本の衆議院議員(公友倶楽部→公正会)、経済学者。 上野国邑楽郡小泉村(現在の群馬県邑楽郡大泉町)に、慶次郎の次男として生まれる。1894年(明治27年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。大蔵省に入省した後、1896年(明治29年)に法制局参事官、1898年(明治31年)に法制局書記官に任じられた。1907年(明治40年)に台湾総督府財務局長に転じ、また法学博士の学位を授けられた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に立候補し、当選を果たした。1917年(大正6年)、海外駐箚財務官に任命され中華民国に赴任した。
近藤 虎五郎(こんどう とらごろう、1865年7月23日〈慶… 近藤 虎五郎(こんどう とらごろう、1865年7月23日〈慶応元年6月1日〉 - 1922年〈大正11年〉7月17日)は、明治-大正時代の土木技師。戦前前期の土木界を代表する人物の一人。日本初の工学博士。 村上藩士・近藤金彌の長男に生まれ、新潟学校を卒業。1878年(明治11年)9月明治天皇北越御巡行の折、特に学術優秀ということで、目録を贈られている。その後、東京帝国大学工科大学土木工学科に進学。常に主席を通し、特待生として1887年(明治20年)に卒業。私費で2年間米国留学し土木工学の先進技術を学び帰国。1890年(明治23年)内務省土木局に入り内務技師となり、1896年(明治29年)の河川法制定後国費による河川改修工事や湾岸・上下水道の新設工事の監督指導に当たる。
斎藤 安雄(齋藤、さいとう やすお、1865年7月23日(慶… 斎藤 安雄(齋藤、さいとう やすお、1865年7月23日(慶応元年6月1日)- 1931年(昭和6年)1月28日)は、日本の教育者、実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。旧名・慶之助。 武蔵国榛沢郡中瀬村(のち埼玉県大里郡中瀬村、現:深谷市)で、素封家・斎藤雄之助の長男として生まれる。1879年(明治12年)、家督を相続し安雄と改名。1885年(明治18年)、埼玉県師範学校を卒業。1891年(明治24年)まで小学校訓導を務めた。 1893年(明治26年)、自由党埼玉県支部が結成され同党に加盟。1894年(明治27年)、埼玉県会議員となる。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙で埼玉県第四区から自由党所属で出馬して当選。
恩田 重信(おんだ しげのぶ、文久元年6月16日(1861年… 恩田 重信(おんだ しげのぶ、文久元年6月16日(1861年7月23日) - 昭和22年(1947年)7月30日)は、日本の薬学者。明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)の創立者。 信濃国松代城下 (現在の長野県長野市松代町) に松代藩士恩田十郎時篤の子として生まれる。1882年東京帝国大学医学部製薬学科を卒業。内務省に入省。千葉医学校附属病院薬局長を経て陸軍薬剤官から二等薬剤官となった。日清戦争、日露戦争に従軍し、医学用語の統一を図り、「独和他国字書大全」、「独和新医学大字典」を刊行、陸軍医官であった森鴎外からも業績をたたえられた。 1902年(明治35年)東京市神田区に東京薬学専門学校(のち明治薬学専門学校に移行)を創立し初代校長となる。
小山 健三(こやま けんぞう、1858年7月23日(安政5年… 小山 健三(こやま けんぞう、1858年7月23日(安政5年6月13日) - 1923年(大正12年)12月19日)は明治時代から大正時代にかけての日本の官僚、教育者、実業家。 前半生は教育者、近代日本教育の建設者として、とりわけ専門教育の礎を築くことに大きな功績を残し、高等商業学校(1902年に東京高等商業学校に改称、現・一橋大学)校長などを歴任。後半生は、三十四銀行(後の三和銀行、現三菱UFJ銀行)第2代頭取に就任して、事業を大きく発展させるとともに、日本の金融界の発展に尽くす。福澤諭吉の養子であり「日本の電力王」と呼ばれた福澤桃介に、「東に渋沢栄一、西に小山健三あり」と言わしめた。貴族院議員。
武石 敬治(たけいし けいじ、1858年7月23日〈安政5年… 武石 敬治(たけいし けいじ、1858年7月23日〈安政5年6月13日〉 - 1904年〈明治37年〉10月13日)は、衆議院議員(自由党→立憲革新党→進歩党→憲政本党→立憲政友会)。 出羽国雄勝郡山田村(現在の秋田県湯沢市)生まれ。里正を務め、1881年(明治14年)には秋田改進党を結成し、自由民権運動を推進した。1883年(明治16年)に秋田県会議員に雄勝郡の補欠として当選した。その後、1885年(明治18年)10月、1889年(明治22年)にも再選した。同年11月28日から1890年(明治23年)7月まで第10代同副議長を務めた。1889年(明治22年)に大同団結運動がおきると、たびたび東京・大阪を往来して実現に尽力した。
富永 隼太(とみなが はやた、1857年7月23日(安政4年… 富永 隼太(とみなが はやた、1857年7月23日(安政4年6月3日)- 1926年(大正15年)10月25日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(5期)。 肥前大村藩領彼杵郡大村(長崎県東彼杵郡大村、大村町を経て現大村市)に生まれる。生家は農業を営んだ。幼くして漢学と英学を修めた。1882年(明治15年)から8年間に渡り長崎県会議員を務め、その間、常置委員、徴兵参事員、所得税調査委員、学務委員などを歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では長崎県第1区から出馬し当選。第3回、第4回、第5回、第6回総選挙でも当選し衆議院議員を通算5期務めた。
石黒 五十二(いしぐろ いそじ、1855年7月23日(安政2… 石黒 五十二(いしぐろ いそじ、1855年7月23日(安政2年6月10日) - 1922年(大正11年)1月14日)は、明治時代の官僚、土木技術者、政治家。 加賀藩士・石黒千尋の二男として加賀国石川郡金沢に生まれる。明治維新前は、藩校で修めた西洋砲術を教授していたという。 維新後は、加賀藩主の命を受けて大学南校(開成学校を経て、後に東京大学)に進み、1878年(明治11年)、土木工学科を卒業。同年、神奈川県土木課に出仕したが、翌1879年(明治12年)、文部省の選抜によりイギリスに留学した。留学中は、アレキサンドリア港の水道工事をはじめ多数の工事に携わったほか、ジョン・フレミングとともにインシュライトの発明を行うなどもした。
安田 勲(やすだ いさお、1853年7月23日(嘉永6年6月… 安田 勲(やすだ いさお、1853年7月23日(嘉永6年6月18日)- 1916年(大正5年)6月9日)は、明治から大正初期の畜産家・政治家。衆議院議員、千葉県長狭郡大山村長。 安房国長狭郡平塚村(千葉県長狭郡大山村平塚、安房郡大山村、長狭町を経て現鴨川市平塚)で安田栄存の長男として生まれる。3歳で母を失い祖母に養育された。嶺田楓江から学び、その後上京し岡鹿門に師事して漢学を修めた。洋学を志し、1871年(明治4年)慶應義塾に入り政治学、経済学などを学んだ。 1876年(明治9年)帰郷し、第二大区区会議員に就任し、1877年(明治10年)第二大区の代議員(千葉県代議人)に当選し千葉県会に出席した。
三輪 猶作(みわ なおさく、1850年7月23日(嘉永3年6… 三輪 猶作(みわ なおさく、1850年7月23日(嘉永3年6月15日)- 1917年(大正6年)9月17日)は、明治から大正前期の地主、実業家、政治家。衆議院議員、四日市市会議長。 伊勢国三重郡浜田村(三重県三重郡四日市町浜田を経て現四日市市)で、大地主、酒造業・三輪嘉平(嘉左衛門)の長男として生まれる。堀木恥堂から漢籍を学んだ。酒造業、肥料商を営む。 1886年(明治19年)頃、三重県酒造改良協会の設立を主導し、専門技術者を招聘して醸造術の近代化を図り、酒造法の改善に貢献した。また、四日市米穀取引所、四日市銀行の設立に尽力し、取引所理事長、銀行2代頭取を務めた。その他、関西鉄道監査役、三重県人造肥料監査役、三重土木取締役、四日市倉庫重役、四日市商業会議所役員なども務めた。
相馬 一郎(そうま いちろう、1848年7月23日(嘉永元年… 相馬 一郎(そうま いちろう、1848年7月23日(嘉永元年6月23日)- 1929年(昭和4年)11月22日)は、明治期の政治家。衆議院議員、新潟県北蒲原郡五十公野村長。 越後国蒲原郡新発田(新潟県北蒲原郡新発田町を経て現新発田市)で、相馬善右衛門、よし の長男として生まれる。農業を営む。 用掛小区長、副大区長、学務委員、五十公野村長、北蒲原郡会議員、同議長、新潟県会議員、同副議長などを務めた。憲政本党に所属していたが、1901年(明治34年)の増税案に対して党議と意見が不一致のため離党し、同志と共に新潟進歩党を組織した。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙に新潟県郡部から同志倶楽部所属で出馬して初当選。
池松 豊記(豐記、いけまつ とよき、1846年7月23日(弘… 池松 豊記(豐記、いけまつ とよき、1846年7月23日(弘化3年6月1日)- 1921年(大正10年)9月13日)は、明治期のジャーナリスト、農業経営者、政治家。衆議院議員、熊本県球磨郡上村長。 肥後国玉名郡上小田村(熊本県玉名郡上小田村、小田村を経て現玉名市上小田)で、医師・池松玄操の二男として生まれた。 明治の初めころに東京に出て自由民権運動に加わる。1875年(明治8年)評論新聞が創刊され、記者となる。西南戦争後に帰郷し、民権活動家に呼びかけ1878年(明治11年)5月、民権結社・相愛社を組織し社長に就任。1881年(明治14年)7月、その機関紙「東肥新報」発刊して民権思想を広めた。1882年(明治15年)2月、相愛社は実学党と公議政党を形成し、その後、九州改進党となった。
髙相 祐子(たかそう ゆうこ、7月23日 - )は、元岐阜放… 髙相 祐子(たかそう ゆうこ、7月23日 - )は、元岐阜放送 (GBS) のアナウンサー。 岐阜県中津川市出身。岐阜県立恵那高等学校、愛知淑徳大学卒業。 大学を卒業後、ケーブルテレビ会社の春日井小牧コミュニケーションテレビ(現・中部ケーブルネットワーク (CCNet) 春日井局)に2年半勤務。同社で経験を積んだ後、NHK松山放送局の契約キャスターとなる。その後はNHK長野放送局の契約キャスターを経て、2007年春から岐阜放送のアナウンサーを務めていた。
石井 裕(いしい ゆたか、7月23日生)は、東京都出身の作詞… 石井 裕(いしい ゆたか、7月23日生)は、東京都出身の作詞家、作曲家、ギタリスト。 東京都立青山高等学校、早稲田大学政治経済学部卒業後、様々なアーティストのレコーディングやライブサポートを行う。使用しているミュージックシーケンサーはLogic Pro。レコーディングやサポートの傍ら自身のバンドGlowlampで活動中。ラーメンが好物。 貴水博之、喜多修平、生熊耕治(cune)、PROJECT~凛~、style-3!、高嶋英輔、真崎ゆか、mimika、片山遼、LANDFORCE、新村健三、SUTEMI、etc.
宮城 理子(みやぎ りこ、7月23日 - )は、日本の漫画家… 宮城 理子(みやぎ りこ、7月23日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。血液型はA型。
星野 由美子(ほしの ゆみこ、生年非公開、7月23日 - )… 星野 由美子(ほしの ゆみこ、生年非公開、7月23日 - )は、日本のイラストレーター・漫画家。
猪砂 和世(いのさこ かずよ、7月23日 - )は、日本の女… 猪砂 和世(いのさこ かずよ、7月23日 - )は、日本の女性声優、ナレーター。奈良県出身。血液型はA型。 四天王寺学園中学校・高等学校、京都工芸繊維大学工芸学部卒業。 以前は大阪テレビタレントビューロー、ケッケコーポレーションに所属していた。2019年現在ではイノサコイノコ名義で活動している。 TBS系『明石家さんちゃんねる』専属アナウンサー試験の最終選考に残るも、選ばれず。 いずれもイノサコイノコ名義 この項目は、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:アニメ/PJ:声優)。
美馬 利恵子(みま りえこ、7月23日 - )は、日本の女性… 美馬 利恵子(みま りえこ、7月23日 - )は、日本の女性声優。大阪府出身。 奈良教育大学、青二塾大阪校26期卒業。 以前は青二プロダクションに所属していた。 趣味は旅行、読書。特技は手芸。 資格・免許は幼稚園教諭1種・小学校教諭1種・中学校教諭1種(家庭)・高等学校教諭1種(家庭)・学校図書館司書教諭免許。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:芸能人)。
越乃 リュウ(こしの りゅう、7月23日 - )は、元宝塚歌… 越乃 リュウ(こしの りゅう、7月23日 - )は、元宝塚歌劇団月組の男役。元月組組長。 新潟県新潟市、沼垂高等学校出身。身長172cm。血液型B型。愛称は「リュウ」。 1991年、宝塚音楽学校入学。 1993年、宝塚歌劇団に79期生として入団。月組公演「グランドホテル/BROADWAY BOYS」で初舞台。 1994年、組まわりを経て月組に配属。 2007年11月12日付で月組副組長に就任。 2008年7月7日付で月組組長に就任。入団15年目での抜擢となり、宝塚史上、最年少での組長誕生ともなった。 2013年10月6日、「ルパン/Fantastic Energy!」東京公演千秋楽をもって、宝塚歌劇団を退団。