小林 仲次(こばやし なかじ、1850年3月21日(元治元年… 小林 仲次(こばやし なかじ、1850年3月21日(元治元年3月1日)- 1944年(昭和19年)2月29日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、愛知県宝飯郡御津村長。 三河国宝飯郡西方村(愛知県宝飯郡御津村、御津町を経て現豊川市御津町西方)で、小林仲三郎の長男として生まれた。御馬村の石黒須賀雄に学んだ。素封家・小林伝八郎の養子となり1883年(明治16年)家督を相続した。農業、金融業を営んだ。社会公共のため、御油海水浴場の開設、港湾修築、道路開削などに私財を提供した。 1884(明治17年)西方村戸長に就任した。山本三太郎の死去に伴い1897年(明治30年)3月に実施された第4回衆議院議員総選挙愛知県第10区補欠選挙で初当選し、その後、第9回、第12回総選挙でも再選され、衆議院議員に通算3期在任した。
肥田 景之(ひだ かげゆき、1850年3月21日(嘉永3年2… 肥田 景之(ひだ かげゆき、1850年3月21日(嘉永3年2月8日)- 1932年(昭和7年)4月3日)は、幕末の薩摩藩士、明治から昭和初期の官吏・実業家・政治家。衆議院議員。 日向国諸県郡都城郷(宮崎県北諸県郡都城町を経て現都城市)で、薩摩藩士・肥田景正の二男として生まれた。1886年(明治19年)兄・景直が戊辰戦争で戦死していたため家督を相続した。 造士館で兵学を修め、都城明道館児輩指南、講武館兵式訓練教導を務めた。慶応3年10月(1867年)戦兵伍長となり戊辰戦争に従軍した。造士館助教授、都城神柱神社(神柱宮)祠官を務めた。西南戦争に従軍した。 1878年(明治11年)10月、鹿児島県警部に任官。
芦原 甫(あしはら はじめ、嘉永3年1月30日(1850年3… 芦原 甫(あしはら はじめ、嘉永3年1月30日(1850年3月13日) - 大正7年(1918年)9月25日)は大日本帝国陸軍の軍人。陸軍中佐。乃木希典大将の副官、日露戦争で人事管理部長。 西南戦争にて当時軍曹だった芦原甫は負傷した乃木希典少佐を介助したことにより、命の恩人と称される。 副官時、乃木に面会に来た静子夫人を返した「乃木大将妻返しの松」が香川県善通寺市金倉寺にある。 養子芦原信之(医師)の四男がシャンソン評論家の芦原敏信(英了)、五男が建築家の芦原義信、その長男が芦原太郎、長男芦原勝(耳鼻科医)の孫が心療内科医の芦原睦、甫の孫が旅行作家の芦原伸。 この項目は、軍事上の人物に関連した書きかけの項目です。
矢土 勝之(やづち / やつち かずゆき、1849年3月30… 矢土 勝之(やづち / やつち かずゆき、1849年3月30日(嘉永2年3月7日)- 1920年(大正9年)11月28日)は、明治から大正期の漢詩人・官僚・政治家。衆議院議員。字・実夫、号・錦山。 伊勢国飯野郡阿波曽村(三重県飯野郡射和村大字阿波曽、飯南郡射和村を経て現松阪市阿波曽町)で生まれる。土井聱牙に師事し漢学を修めた。 太政官に出仕。東京で岩倉具視、伊藤博文の知遇を得た。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(三重県第4区、自由党)で当選した。1902年(明治35年)8月の第7回総選挙(三重県郡部、立憲政友会)では落選し、衆議院議員に1期在任した。 森春濤の高弟で、その子森槐南らと交友した。
岩永 マキ(いわなが マキ、1849年3月29日〈嘉永2年3… 岩永 マキ(いわなが マキ、1849年3月29日〈嘉永2年3月3日〉 - 1920年〈大正9年〉1月27日)は、日本の社会事業家、福祉事業家。肥前国西彼杵郡浦上山里村(後の長崎県長崎市)の隠れキリシタン(潜伏キリシタン)の家の生まれであり、日本政府によるキリスト教弾圧「浦上四番崩れ」により配流され、帰郷後にフランス人宣教師のマルク・マリー・ド・ロ神父の指導のもと、孤児の養育施設を開き、生涯を孤児養育と救貧に捧げた。現存する児童養護施設の中でも最古のものの創設者の1人であり、孤児救済の先駆者、日本の福祉事業の礎を築いた女性ともされる。 浦上山里村の隠れキリシタンの農家で、長女として誕生した。浦上山里村は平穏な農村であると共に、隠れキリシタンの村との一面もあった。
山脇 玄(やまわき げん、嘉永2年3月3日(1849年3月2… 山脇 玄(やまわき げん、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)10月7日)は、日本の法学者、法制官僚、政治家、教育者。法学博士、行政裁判所長官、貴族院議員。 福井藩の藩医・山脇立樹の長男として生まれる。福井藩の医学校・済生館で学んだ後、長崎に遊学して蘭学を学んだ。 1870年(明治3年)、文部省留学生としてドイツに渡り、ベルリン大学、ライプツィヒ大学、ハイデルベルク大学などで法学等を学び、日本人として初めてドイツ政府よりドクトルの称号を授与された。 1877年(明治10年)5月に帰国。同年8月、司法省御用掛となり民法編纂掛分科詰に配属された。以後、司法権少書記官兼太政官権少書記官、太政官権少書記官、参事院議官補・法制部、法制局参事官、兼行政裁判所評定官、法制局第一部長、行政裁判所評定官、同裁判所部長などを歴任し、大日本帝国憲法・皇室典範の草案・起草にも参画した。
平田東助(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月… 平田東助(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)4月14日)は、日本の明治・大正期の官僚・政治家。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任する。山縣有朋の側近としても有名。また、第2次桂内閣において神社合祀を強力に推進した。
湯本 義憲(ゆもと よしのり、1849年3月19日(嘉永2年… 湯本 義憲(ゆもと よしのり、1849年3月19日(嘉永2年2月25日)- 1918年(大正7年)11月15日)は、明治期の政治家、治水家。埼玉県会議員、衆議院議員、岐阜県知事。旧姓は田島、馬込。幼名、増太郎。 武蔵国埼玉郡小針村(現行田市)の豪族、田島新六の第11子として生まれる。文久2年(1862年)、幕府道中伝馬役・馬込勘解由の養子となる。文久3年(1863年)に道中伝馬役見習いとなり、幕末動乱期のため繁忙を極めた。 明治維新となり江戸の東征大総督有栖川宮付属を命ぜられ、輜重運搬を担った。明治3年(1870年)、実家に戻り、1886年、湯本家を継承した。 1873年6月、埼玉県十四区学区取締となり、以後、埼玉県会議員、三郡土木集会議長などを務めた。
椎野 伝治郎(しいの でんじろう、1849年3月19日(嘉永… 椎野 伝治郎(しいの でんじろう、1849年3月19日(嘉永2年2月25日) - 1909年(明治42年)8月3日)は、日本の政治家。徳島県徳島市出身。 椎野庄左衛門の四男として名東郡八万村(現在の徳島市八万町)で生まれる。岡本塾に入り、晤室に漢学を学んだ。 その後、名東県・徳島県の役人となり、1882年(明治15年)に徳島県会議員となり、後に徳島県会議長を長く務めた。1889年(明治22年)、憲法発布に際し、徳島県民を代表して式典に参列した。 1892年(明治25年)には第2回衆議院議員総選挙に出馬し当選した。 1909年(明治42年)8月3日、61歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
末広鉄腸(すえひろ てっちょう、旧字体: 末廣 鐵腸、184… 末広鉄腸(すえひろ てっちょう、旧字体: 末廣 鐵腸、1849年3月15日(嘉永2年2月21日) - 1896年(明治29年)2月5日)は、自由民権派の政論家・新聞記者・衆議院議員・政治小説家。幼名雄次郎、後に重恭(しげやす)、字は子倹、号に鉄腸、浩斎。 宇和島藩の勘定役『禎介』の次男として、城下の笹町(現、愛媛県宇和島市笹町)に生まれた。 1860年(万延元年)、四書五経の素読を終え、翌年、藩校の『明倫館』に入って朱子学を修め、1869年(明治2年)、母校の教授になった。王陽明の伝習録に傾倒した。 1870年(明治3年)、上京したものの師を得ず、京都の春日潜庵に陽明学を学んだ。1872年(明治5年)、帰郷して神山県に勤め、1874年(明治7年)、大蔵省に転じたが、折からの自由民権運動の高まりの中で言論に志し、1875年(明治8年)4月、東京曙新聞の編集長になった。
山中 幸義(やまなか ゆきよし、1849年3月12日(嘉永2… 山中 幸義(やまなか ゆきよし、1849年3月12日(嘉永2年2月18日)- 1899年(明治32年)3月19日)は、明治期の内務官僚、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・麟趾、麟司。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡高家村(四日市町を経て現宇佐市)で山中柳平の四男として生まれ、従兄弟・山中幸左衛門の養子となる。 漢籍を鷺海量容、広瀬林外に師事した。1868年(明治元年)澤宣嘉九州鎮撫総督が長崎に着任後、それに従い戊辰戦争に従軍した。その後、慶應義塾で学んだ。 1873年(明治6年)6月、司法省十三等出仕となり、同年7月、権少解部に就任。1874年(明治7年)3月、内務省に転じ新治県少属となる。
和泉 邦彦(いずみ くにひこ、1849年3月12日(嘉永2年… 和泉 邦彦(いずみ くにひこ、1849年3月12日(嘉永2年2月18日)- 1913年(大正2年)6月6日)は、明治期の日本の政治家。衆議院議員。旧姓・児島。 薩摩国伊佐郡宮之城郷屋地村(鹿児島県伊佐郡宮之城郷屋地村、南伊佐郡宮之城郷屋地村、宮之城村、宮之城町を経て現さつま町)で薩摩藩士・児島七郎右衛門の長男として生まれ、1868年(明治元年)和泉少左衛門の養子となり家督を相続した。藩校造士館で学んだ。 明治維新後、東京愛宕下警察区長に就任。台湾出兵に参加。明治六年政変で下野した西郷隆盛に従い帰郷。西南戦争に参加し、戦後、東京の市谷監獄に入獄。出獄後、郷友会・三州会の設立に参画。1882年(明治15年)10月、『麑城新報』を創刊した。
朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年… 朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年3月12日) - 大正7年(1918年)1月31日)は、日本の実業家。王子製紙取締役会長。幼名は萬吉、鐵之助。族籍は大分県平民。短期だが三井財閥のトップである三井合名会社理事長を務めたこともある。 三越社長、帝国生命保険社長を務め、千代田組を創業した朝吹常吉は息子。マリンバ奏者の朝吹英一、フランス文学者の朝吹三吉と翻訳家の朝吹登水子は孫であり(ともに常吉の子)、フランス文学者、詩人の朝吹亮二は曾孫。弟・野依範治の曾孫が2001年、ノーベル化学賞を受賞した野依良治である。中上川彦次郎は義兄にあたる。2011年度、第144回芥川賞受賞者の作家朝吹真理子は玄孫である。
永久保 秀二郎(ながくぼ しゅうじろう、ながくぼ ひでじろう… 永久保 秀二郎(ながくぼ しゅうじろう、ながくぼ ひでじろう、1849年〈嘉永2年〉3月3日 - 1924年〈大正13年〉2月24日)は、日本の教育者。北海道の先住民族であるアイヌのために建立された釧路市の春採小学校において、開校間もない頃からアイヌの児童たちの教育の心血を注いだ。また、アイヌを差別や貧窮から救済するために、児童の教育、住民たちの生活環境の双方から改善を目指し、アイヌたちの生活向上を支援した。その献身的な精神により、春採のアイヌの人々からの尊敬と信頼を集めた。漢詩人でもあり、アイヌの儀式(イオマンテ)をもとに描いた『送熊行』は大きな反響を呼んだ。 磐城国刈田郡宮村(後の宮城県蔵王町)で誕生した。
日比谷 平左衛門(ひびや へいざえもん、弘化5年2月21日(… 日比谷 平左衛門(ひびや へいざえもん、弘化5年2月21日(1848年3月25日) - 大正10年(1921年)1月9日)は、明治期の紡績実業家。東京富士瓦斯紡績や日清紡績など紡績業に深く関わり、東京商業会議所副会頭を務めた。鐘淵紡績、東京毛織物各社長。 越後国蒲原郡裏館村(現・三条市)の旅宿営業者・大島栄造の3男として生まれる。万延元年(1860年)より江戸日本橋堀留の綿糸棉花問屋松本屋・斎藤弥助のもとで奉公し、のち日比谷家の養子となる。明治11年(1878年)に独立して浅草区茅町に綿糸染糸店を開くが、松本屋廃業によりそれを受け継ぎ、事務所を堀留に移して 綿糸・綿花を扱う卸商・日比谷商店を設立。
木原 章六(きはら しょうろく、嘉永元年2月17日(1848… 木原 章六(きはら しょうろく、嘉永元年2月17日(1848年3月21日) - 1889年(明治22年)9月30日)は明治時代の日本の裁判官。諱は祐之。従五位勲六等。旧広島藩士。兵庫裁判所検事、東京控訴裁判所検事、宮城控訴裁判所検事長、大阪控訴裁判所検事、函館控訴裁判所判事、東京重罪裁判所長、東京控訴院評定官等を歴任。
金田一 勝定(きんだいち かつさだ、1848年3月16日(弘… 金田一 勝定(きんだいち かつさだ、1848年3月16日(弘化5年2月12日) - 1920年(大正9年)12月31日)は、日本の実業家、和算家。 陸奥国岩手郡仁王村四ツ家町(現・岩手県盛岡市本町通二丁目)にて豪商「大豆屋」金田一伊門とリセの長男として生まれる。金田一京助は勝定の妹やすの子。金田一國士の養父。 1868年(慶応4年)、戊辰戦争鹿角口の戦いに従軍して足を負傷した。明治から大正初期の岩手県内実業界で盛岡銀行頭取、盛岡電気株式会社、岩手軽便鉄道株式会社など多くの企業を創立して社長となり、金田一財閥と呼ばれるまでに成長させ、県会議員、盛岡市会議員を務めた。勝定は幼少より学問を好み、盛岡和算に通じた最後の人で、和算書の収集に努力し、多大な費用をかけて和算家の阿部家、鬼柳家の蔵書を購入し、1912年(明治45年)、松原正固の蔵書とともに東北大学に寄贈した。
小野田 元熈(おのだ もとひろ、1848年3月15日(弘化5… 小野田 元熈(おのだ もとひろ、1848年3月15日(弘化5年2月11日) - 1919年(大正8年)6月12日)は、幕末の館林藩士、明治から大正期の警察・内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。旧姓・藤野、幼名・貞治。 館林藩下士・藤野逸平の二男として生まれ、同藩の小野田安兵衛の養子となる。館林藩では、徒士格大納戸役、家老付日記役心得、藩内監察、少属などを歴任。 明治4年11月(1871年末頃)、東京府取締組羅卒小頭となり、さらに司法省少警部となり1873年2月に退官。1874年1月、警視庁少警部として再度、警察官となる。1877年2月、内務省警視局三等大警部兼陸軍歩兵中尉として、別働第3旅団第1大隊副官として西南戦争に従軍した。
吉村 寅太郎(よしむら とらたろう、弘化5年2月5日(184… 吉村 寅太郎(よしむら とらたろう、弘化5年2月5日(1848年3月9日) - 大正6年(1917年)1月14日)は、日本の教育者。 但馬国豊岡(兵庫県豊岡市)出身。1869年(明治2年)から4年間慶應義塾で英学を学んだ。1873年(明治6年)、文部省に出仕し、広島外国語学校校長、広島英語学校長、広島県英学校長、広島県師範学校校長、広島県医学校長、広島県博物館長などを務めた。1879年(明治12年)からは文部一等属、文部省御用掛、同権少書記官、太政官御用掛、文部省視学官、同参事官を歴任。1887年(明治20年)、第二高等中学校(のち第二高等学校)校長に就任した。1897年(明治30年)に退官した後は、成女学校を創設し、校長に就任した。
斎藤 寿雄(さいとう ひさお、弘化4年2月10日(1847年… 斎藤 寿雄(さいとう ひさお、弘化4年2月10日(1847年3月26日) - 1938年(昭和13年)2月17日)は、日本の外科医、政治家。衆議院議員(3期)、群馬県会議員(10期)、初代群馬県医師会長。 上野国北甘楽郡高瀬村(現・群馬県富岡市)の小幡藩藩医、斎藤寿幹(のち寿安)の子として生まれる。幼名・鋌策。はじめ藩の学問所で学び、文久元年(1861年)江戸の医師・福富玄同に弟子入りし、翌年群馬郡野田村(現・北群馬郡吉岡町)の外科医・原沢文仲の弟子となった。また高崎の五藤俊英に種痘術の教えを受けた。慶応3年(1867年)小幡藩奥詰医師となり寿幹の名を襲名。七日市藩医も兼務した。 明治2年(1869年)寿雄と改名し東京に遊学、明治4年(1871年)より大学南校に学び、翌年帰郷。
石原 半右衛門(半右衞門、いしはら はんうえもん、1847年… 石原 半右衛門(半右衞門、いしはら はんうえもん、1847年3月25日(弘化4年2月9日)- 1930年(昭和5年)2月20日)は、明治期の文部官僚・政治家。衆議院議員。 丹波国船井郡大戸村(京都府船井郡川辺村字大戸、園部町を経て現南丹市園部町大戸)で、江戸幕府旗本滝川氏家臣、地役人・石原三左衛門の二男として生まれた。 明治維新後、文部属、大阪専門学校雇、岩手県尋常師範学校長、京都師範学校幹事、京都府船井郡長などを歴任。 また、川辺村会議員、京都府会議員、同常置委員、平安遷都千百年記念祭協賛会評議員、第4回内国勧業博覧会評議員を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙(京都府第5区、1890年7月、大成会)で初当選し、その後、第6回総選挙まで4回再選され、最後は三四倶楽部に所属して衆議院議員に通算5期在任した。
5代 大針 徳兵衛(德兵衞、おおばり とくべえ、1847年3… 5代 大針 徳兵衛(德兵衞、おおばり とくべえ、1847年3月17日(弘化4年2月1日)- 1908年(明治41年)8月11日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、福井県坂井郡雄島村長。幼名・長之助。 越前国坂井郡安島浦(福井県坂井郡安島浦、雄島村安島、三国町安島を経て現坂井市三国町安島)で、回漕業・4代大針徳兵衛の長男として生まれた。明治のはじめに5代徳兵衛を襲名した。回漕業を営む。 里正、組合総代、敦賀県第53大区小2区戸長、第14大区23小区戸長、浦役人、学務委員、所得税調査委員などを務めた。1889年(明治22年)5月、雄島村会議員となり、1890年(明治23年)2月、雄島村長に就任し、安島道の改修に尽力した。
三浦 仙三郎(みうら せんざぶろう、1847年3月8日〈弘化… 三浦 仙三郎(みうら せんざぶろう、1847年3月8日〈弘化4年1月22日〉 - 1908年〈明治41年〉8月15日)は、日本の酒造家。1887年(明治20年)創案した軟水による酒醸造法「三浦式醸造法」は、天下の名酒広島酒発展の基礎を築いた。「吟醸酒の父」ともいわれる。また酒造りの傍ら、村会議員、三津町長および町会議員としても活躍した。 1847年(弘化4年)雑貨問屋を営む清水屋忠兵衛の長男として広島県賀茂郡三津村(現東広島市安芸津町三津)に生まれる。雑貨問屋を営んでいたが家督を弟に譲り、1876年(明治9年)酒造場を譲り受け酒造業を始め、1878年(明治11年)創業した。1898年(明治31年)、軟水に適した改良醸造法を考案し、同年「改醸法実践録」を発刊してその普及をはかった。
渡辺 国武(わたなべ くにたけ、旧字体: 渡邊 國武、184… 渡辺 国武(わたなべ くにたけ、旧字体: 渡邊 國武、1846年3月29日〈弘化3年3月3日〉- 1919年〈大正8年〉5月11日)は、明治期の日本の官僚、政治家。位階・勲等・爵位は正二位勲一等子爵。旧姓は小池。第2次伊藤内閣の大蔵大臣、逓信大臣、第4次伊藤内閣の大蔵大臣を歴任した。兄は伯爵渡辺千秋。 1846年3月29日(弘化3年3月3日)、信濃国諏訪郡東堀村(後の長野県岡谷市)にて諏訪高島藩士の家に生まれた。父渡辺政徳は、武士が桃の節句に生まれたのでは具合が悪いということで、藩庁に端午の節句の5月5日生まれと届けている。両親と早く死別したため、兄の千秋とともに祖母の手によって養育された。10歳の時にコレラにかかるが、一命を取り留める。
武内 維積(たけうち いせき、1846年3月22日(弘化3年… 武内 維積(たけうち いせき、1846年3月22日(弘化3年2月25日)- 1903年(明治36年)11月7日)は、明治期の日本の検察官、内務官僚。官選佐賀県知事。位階および勲等は従四位・勲四等。幼名は検一郎。 播磨国揖西郡龍野(現兵庫県たつの市)出身。武内宇三郎の二男として生まれる。林田藩儒・河野鉄兜に学んだ。 1883年12月27日、検事に任官。その後、内務省に転じ、内務権少書記官、大阪府少書記官、同書記官、大分県書記官、愛媛県書記官、宮城県書記官などを歴任。1892年2月、第2回衆議院議員総選挙に兵庫県第8区から出馬するが落選。 1897年4月、第2次松方内閣により佐賀県知事に任じられた。
加賀美 光賢(かがみ みつかた、弘化3年2月24日(1846… 加賀美 光賢(かがみ みつかた、弘化3年2月24日(1846年3月21日) - 1907年(明治40年)4月8日)は、日本の海軍軍人(軍医)、医師。宮中顧問官。最終階級は海軍軍医総監。位階および勲等は正四位・勲三等。 弘化3年(1846年)2月24日、甲斐国西山梨郡住吉村(現在の山梨県甲府市で、身延線の甲斐住吉駅周辺)にある住吉神社の神職・加賀美光矩と、その妻である察の子として生まれる。清和源氏武田氏流・加賀美氏の末裔。 薩摩藩の医師石神良策に師事し、西洋医学をイギリス人医師のウィリアム・ウィリスに学ぶ。1872年、海軍軍医部の創設にともない軍医頭となり、1892年、海軍軍医学校長に任命された。
大寺 安純(おおでら やすずみ、1846年3月9日〈弘化3年… 大寺 安純(おおでら やすずみ、1846年3月9日〈弘化3年2月12日〉- 1895年〈明治28年〉2月9日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現:鹿児島県鹿児島市)で、薩摩藩士・大寺七郎の二男として生まれる。幼名は彌七。幼くして父を失う。 20歳にして造士館助教(授讀助)となった。 戊辰戦争従軍の後は陸軍にすすむ。1871年(明治4年)に陸軍少尉に任官して一番大隊分隊長、陸軍中尉として半小隊長、東京鎮台付などを経て、1874年(明治7年)2月から5月にかけて佐賀の乱に出征し、続いて台湾出兵に従軍した。 広島鎮台付、歩兵第12連隊付などを経て、陸軍戸山学校で学ぶ。
浮田 桂造(うきた けいぞう、1846年3月2日(弘化3年2… 浮田 桂造(うきた けいぞう、1846年3月2日(弘化3年2月5日)- 1927年(昭和2年)9月16日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、大阪商業会議所会頭。旧姓・梅咲。 大和国十市郡池之内村(奈良県磯城郡安倍村、桜井町を経て現桜井市)で梅咲善六の二男として生まれ、1870年(明治3年9月)五龍円の販売で知られた売薬卸小売業・先代浮田桂造の養子となり、1871年(明治4年)家督を相続し浮田桂造を襲名した。 1873年(明治6年)10月、南大組第6区安堂寺橋通4丁目戸長に就任。南大組第6区3等戸長、第2大区6小区3等戸長、第2大区4小区2等戸長兼5等学区取締、書籍館掛、中学校事務掛、学監などを歴任。
小林 やす(こばやし やす、1846年3月2日(弘化3年2月… 小林 やす(こばやし やす、1846年3月2日(弘化3年2月5日)? - 1964年(昭和39年)5月29日)は、長寿日本一とされていた山梨県大月市の女性。その長寿記録は老年学研究者団体ジェロントロジー・リサーチ・グループ (GRG) によって認定されていない。資料によっては「やそ」、「やと」という表記も見られるが、「やす」が正しい。 1846年(弘化3年)に山梨県東山梨郡平等村(現在の山梨市)の雨宮重右衛門の娘として出生。大月市役所保存の戸籍では妻(やすの母)は不詳で次女となっているが、山梨市役所保存の戸籍では妻:いえの子で長女であるとしている。また、養子の婿によると甲府勤番の武士であった福島某の孫で各地を養女として転々としたと言われている。
初代 小布施 新三郎(おぶせ しんざぶろう、こぶせ しんざぶ… 初代 小布施 新三郎(おぶせ しんざぶろう、こぶせ しんざぶらう、1845年3月31日(弘化2年2月24日) - 1925年(大正14年)2月17日)は、日本の金融実業家。 信濃国高井郡高梨村(現・長野県須坂市)生まれ。江戸での丁稚奉公の後に帰郷し、明治維新後に横浜に出て外国商館に勤務する傍らドル相場を研究し、1879年(明治12年)に東京兜町に公社債・株式仲買業や古金銀売買を営む小布施商店(現・ちばぎん証券)を開業。1883年(明治16年)には東京株式取引所の仲買人となり、明治20年代からの金利安による株式の活況や日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦期の景気の上昇に乗じた投機を積極的に行って業績を伸ばした。
桜井 昭悳(さくらい あきのり、1845年3月22日(弘化2… 桜井 昭悳(さくらい あきのり、1845年3月22日(弘化2年2月15日) - 1917年(大正6年)2月16日)は日本基督教会の牧師である。 神官宇都宮若狭の長男として、伊予国喜多郡若宮村(現愛媛県大洲市若宮)に生まれる。神官になるのを嫌い、上京する。海軍に入隊し、海軍少尉に昇進する。 1872年に平野ちかと結婚する。妻の感化でキリスト教に入信する。1876年にディビッド・タムソンより洗礼を受ける。 海軍を辞め、北海道開拓使の御用船の船員になるが、北海道伝道のために献身し、日本基督教会の牧師になる。函館で開拓伝道を行った。 その頃、東京で桜井女学校を開いていた妻ちかが、函館女子師範学校の英語教師になり、共に伝道をする。
加納 鉄哉(かのう てっさい、1845年3月22日〈弘化2年… 加納 鉄哉(かのう てっさい、1845年3月22日〈弘化2年2月15日〉 - 1925年〈大正14年〉10月28日)は、幕末から明治時代に活動した彫刻家。本名は光太郎。 美濃国厚見郡岐阜(現・岐阜県岐阜市)に生まれ、幼少の頃から芸術に知識が深かった父より南画や彫刻等を学ぶ。1858年(安政5年)には禅寺に修行のため出家し、仏画や根付の制作に携わり鶴洲から彫刻を学んだ。明治維新直後の1868年(明治元年)に還俗し、尾張にて鉄筆画の技法について研究した後に上京しその技法を用いた絵画や彫刻の制作を行う。 1881年(明治14年)に開催された第2回内国勧業博覧会には鉄哉の作品が出品され、その後は日本および中国の古美術品の研究に携わった。
広瀬 進一(ひろせ しんいち、1845年3月19日(弘化2年… 広瀬 進一(ひろせ しんいち、1845年3月19日(弘化2年2月12日)- 1904年(明治37年)7月29日)は、日本の法制官僚。官選秋田県知事。旧名・篤譲。 本籍・東京府。近江国犬上郡(後の日夏村字古屋、現:彦根市)で、浄土真宗・専精寺住職、広瀬天超の長男として生まれる。漢籍を学び、幕末には三条実美の知遇を得、諸藩の志士と交際した。廃藩置県後に上京し、1871年11月10日(明治4年9月28日)、正院十等出仕となる。 1874年9月、小野梓らが結成した啓蒙団体「共存同衆」に参加。1876年5月、法制局一等書記に就任。1880年9月、太政官権少書記官となる。以後、参事院議官補、法制局参事官、兼行政裁判所評定官などを歴任。
石黒 忠悳(いしぐろ ただのり、1845年3月18日〈弘化2… 石黒 忠悳(いしぐろ ただのり、1845年3月18日〈弘化2年2月11日〉- 1941年〈昭和16年〉4月26日)は、明治時代の日本陸軍軍医、日本赤十字社社長。茶人。草創期の軍医制度を確立した。爵位は子爵。 幼名は庸太郎(つねたろう)。父・平野順作良忠は幕府代官の手代になり、奥州(福島県)の梁川陣屋(戦国期の梁川城)に務めているときに庸太郎が生まれた。1856年2月に元服して忠恕(ただのり)を名乗り、平野庸太郎忠恕と称したが、やがて忠徳、後に忠悳と改めた(悳は徳の古字)。父母は早く亡くなり、天涯孤独となる。16歳のとき、父の姉が嫁いでいた越後国三島郡片貝村(今の新潟県小千谷市)の石黒家の養子になった。
二代目本間 金之助(ほんま きんのすけ、旧姓・山内、1845… 二代目本間 金之助(ほんま きんのすけ、旧姓・山内、1845年3月17日(弘化2年2月10日) - 1929年(昭和4年)1月14日)は、日本の政治家(貴族院議員)、秋田県多額納税者、実業家。第四十八銀行、秋田貯蓄銀行各頭取。北秋木材監査役。族籍は秋田県平民。勲四等。 出羽国雄勝郡(現・秋田県湯沢市)出身。山内三郎兵衛の三男。辻兵吉の兄。幼名は、山内由松。幼い頃より商才があった。戊辰の前後出て久保田城下(秋田市)に来て、独力雑貨を商い、多売薄利を主義として奮闘したため忽ち世間の信用を博した。1872年(明治5年)、本間金之助の養子となり、後家督を相続し、二代目金之助を襲名。 1892年(明治25年)以降秋田県実業調査会、同山林会、秋田市教育会等の役員を務めた。
梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1845年3月16日… 梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1845年3月16日(弘化2年2月9日) - 1928年(昭和3年)6月15日)は、筑前国上座郡志波村梅ヶ谷(現・福岡県朝倉市)出身で玉垣部屋(入門時は大坂相撲の湊部屋)に所属した大相撲力士。第15代横綱。本名は小江 藤太郎(おえ とうたろう)。 明治時代前期の角界の第一人者であり、「古今十傑」「明治以後の五大力士」等、相撲史上でも特筆される存在となっている。 1845年3月16日(弘化2年2月9日)に、筑前国上座郡志波村梅ヶ谷で生まれる。にわかには信じがたいが赤子の頃から石臼を引き摺るほどの怪童で、母乳や菓子より酒を欲しがったため、酒で育てられたという。
大島 貞益(おおしま さだます、弘化2年2月17日(1845… 大島 貞益(おおしま さだます、弘化2年2月17日(1845年3月14日) - 大正3年(1914年)10月19日)は明治時代の著作家(経済評論家)・翻訳家・教育者。号は「石華」。 日本におけるF・リストの紹介者および保護貿易論者として知られ、「日本のリスト」と称される。 但馬国養父郡大藪村(現兵庫県養父市大藪)で、大藪領主旗本小出英道の家臣、西洋兵学者・大島貞薫と敦子の三男に生まれる。幼名は益三郎。箕作麟祥の英学塾に学んだ後、慶応4年(1868年)7月に新政府の海軍省翻訳方に出仕し、以降文部省・統計寮・外務省などを転々とし明治11年(1878年)1月に外務省御用掛を免職となるまで翻訳業務に従事した。
日高 亀市(ひだか かめいち、1845年3月11日(弘化2年… 日高 亀市(ひだか かめいち、1845年3月11日(弘化2年2月4日) - 1917年(大正6年)10月23日)は、明治期の日本の実業家、漁業技術改良者。明治期の日本水産業界に革命を起こし、巨万の富を築くとともに地域社会に貢献した功績が讃えられ、「ブリ大尽」と呼ばれた。 1845年3月11日(弘化2年2月4日)、日向国臼杵郡赤水村(現在の宮崎県延岡市赤水)の網元、日高喜右衛門為康の四男として生まれる(日高家は、寛永年間に紀伊国から日向国細島に移住した日高為明の末裔といわれる)。当時の赤水村近辺はイワシやアジを中心に漁業が盛んであったうえ、イワシを追ったブリの大群も押し寄せる良港であり、その様子は海面が赤みを帯びるほどだったという。
星野 長太郎(ほしの ちょうたろう、弘化2年2月3日(184… 星野 長太郎(ほしの ちょうたろう、弘化2年2月3日(1845年3月10日) - 明治41年(1908年)11月27日)は、日本の実業家・政治家。衆議院議員当選1回(当初は甲辰倶楽部で、後の大同倶楽部に所属)。農民出身であったが外国人居留地外商を介さず日本人による初の生糸直輸出を実現した。産業組合結成などにも取り組み、明治期における日本製生糸の品質向上と輸出の飛躍的拡大の先駆者となった。 上野国(現群馬県)勢多郡水沼村(後の黒保根村、現桐生市黒保根町)の農民であったが、明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目して、群馬県初の日本人の手による民間洋式器械製糸所を開設。実弟をニューヨークへ派遣し、市場開拓・販路を確保するなどして日本人による初の生糸直(じか)輸出を実現した。
堀江 佐吉(ほりえ さきち、弘化2年2月3日(1845年3月… 堀江 佐吉(ほりえ さきち、弘化2年2月3日(1845年3月10日) - 明治40年(1907年)8月18日)は、明治時代の青森県において洋風建築を多く手がけた大工棟梁である。青森県弘前市出身。 弘前の覚仙町の生まれ。祖父の代から弘前藩の御用大工で、父の伊兵衛も「お城大工」として知られた。弘前で初めて、また青森県でも最古ともいう洋風建築を手がけたといわれる棟梁の今常吉が佐吉の家の近くに洋風の個人邸宅を建設し始めたことがきっかけで現場に日参して技術を習得した。 1879年(明治12年)(35歳)に北海道に出稼ぎに渡ると函館の洋風建築の街並みに驚き、開拓使関係の工事に従事しながら洋風建築を見て回り、見取図を作って構造を研究した。
笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年… 笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年3月3日) - 大正4年(1915年)9月29日)は日本の探検家、政治家、実業家。当時の日本において辺境の地であり、その実態がほとんど分かっていなかった南西諸島や千島列島を調査した他、奄美大島の島司や第2代青森市長も務めている。 また、南西諸島調査の詳細な記録である著書『南嶋探験』は、柳田國男など後の民俗学者に大きな影響を与えた。 1845年(弘化2年)、陸奥国弘前在府町(現・青森県弘前市在府町)に、弘前藩士・笹森重吉の子として生まれる。藩校稽古館(現・東奥義塾高等学校)で学んだ後、弘前藩・青森県に勤め、中津軽郡長も務めるなどしたが、1881年(明治14年)に辞職。
伊達 文三(だて ぶんぞう、1844年3月26日(弘化元年2… 伊達 文三(だて ぶんぞう、1844年3月26日(弘化元年2月8日) - 1901年(明治34年)10月25日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。旧姓・羽田。 羽田家の三男として伊豆国君沢郡三津村(静岡県君沢郡内浦村、田方郡内浦村を経て現沼津市)に生まれ、20歳の時に富士郡神谷村(須津村、吉原市を経て現富士市)の伊達松翁の養子となる。土木請負業を営む傍ら静岡県会議員を務め、1881年(明治14年)岳南自由党に参加した。沼川石水門の工事に私財を投じ、伊達組を興して山陽本線の工事を請け負うなど公共のために尽くした。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙では静岡県第2区から出馬し当選。
関矢 孫左衛門(せきや まござえもん、1844年3月12日(… 関矢 孫左衛門(せきや まござえもん、1844年3月12日(弘化元年1月24日) - 1917年(大正6年)6月21日)は、明治時代の政治家、銀行家、実業家。衆議院議員(1期)。北海道開拓者。号・道菴、北海道人。 越後国刈羽郡新道村(新潟県刈羽郡日高村、高田村を経て、現柏崎市新道)出身。飯塚七十郎の子として生まれ、1858年(安政5年)魚沼郡並柳新田(新潟県北魚沼郡並柳村、下条村、広瀬村、広神村を経て現魚沼市)の関矢家の養子となった。戊辰戦争では居之隊に属して新政府軍とともに各地に転戦した。西南戦争にも従軍した。 1870年(明治3年)帰郷後、大区長に就任。のち三等警部、地租改正御用掛、北魚沼郡長兼南魚沼郡長を歴任する。
天川 三蔵(三藏、あまかわ さんぞう、1844年3月5日(弘… 天川 三蔵(三藏、あまかわ さんぞう、1844年3月5日(弘化元年1月17日) - 1916年(大正5年)12月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 摂津国、のちの大阪府大阪市北区中之島常安町(現中之島)で生まれた。 1883年(明治16年)西区仲之町会議員に当選。以後、連合町会議長、西区会議員、同区会議長を務めた。1894年(明治27年)日清戦争の澎湖列島占領の混成支隊に従軍した。 1895年(明治28年)大阪市会議員に当選。以後、大阪築港期成会委員、所得税調査委員長、憲政党大阪支部常議員、大阪築港商議員、大阪運河 (株) 顧問、大阪瓦斯顧問などに在任。1899年(明治32年)大阪府会議員に選出され、同参事会員も務めた。
香川松石(かがわ しょうせき、弘化元年1月15日(1844年… 香川松石(かがわ しょうせき、弘化元年1月15日(1844年3月3日) - 明治44年(1911年)9月28日)は、学校で用いられる書道の教科書を記した書道家。千葉師範学校(現在の千葉大学教育学部)教諭。通称、香川熊蔵。
内藤 伝右衛門(ないとう でんえもん、1844年3月2日(天… 内藤 伝右衛門(ないとう でんえもん、1844年3月2日(天保15年1月14日)- 1906年(明治39年)11月18日)は、日本の実業家。峡中新聞(現在の山梨日日新聞)創業者。 山梨県東山梨郡八幡北村(現山梨市)出身。幼名・猪之甫。実父は手塚仙一。養父は甲府で商家「藤屋」を営んでいた初代内藤伝右衛門、養母は女子教育の先駆者の内藤萬春。 10代半ばに初代伝右衛門が他界し家業を継ぎ2代目伝右衛門を襲名した。1862年(慶応2年)平田国学(篤胤)の殿堂気吹堂に入門する。1872年(明治5年)7月1日、 県令土肥実匡の指示、篤胤門下で初代中巨摩郡長の三枝七内の資金援助により峡中新聞(山梨日日新聞)を創刊した。
山口 小一(やまぐち こいち、1841年3月29日(天保12… 山口 小一(やまぐち こいち、1841年3月29日(天保12年2月7日)- 1911年(明治44年)8月27日)は、幕末の佐賀藩武雄領主・武雄鍋島家家臣、明治期の政治家。衆議院議員。 肥前国杵島郡武雄村小楠(現佐賀県武雄市)で武雄鍋島家家臣(足軽)の家に生まれる。幕末には名誉とされていた武雄領の時報役を務めた。戊辰戦争では主君鍋島茂昌に従い羽州を転戦した。 その後、武雄軍団所史生、副戸長を務め、1880年、長崎県会議員に当選。1883年、佐賀県会議員に選出され、1887年、鎌田景弼佐賀県知事により抜擢され佐賀県属・土木課副長に就任。その後、退官して県会議員に復帰し、1902年、県会議長に就任した。
野間 豊五郎(豐五郎、のま とよごろう、1841年3月28日… 野間 豊五郎(豐五郎、のま とよごろう、1841年3月28日(天保12年2月6日) - 1934年(昭和9年)11月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 伊予国越智郡本庄村(のち愛媛県越智郡津倉村→吉海町、現・今治市)の大地主の生まれ。漢学と数学を学ぶ。農業を営む。村民総代、学務世話係、本庄村戸長、津倉村助役、同村長、同村会議員、同議長、越智郡会議員、愛媛県会議員、日本赤十字社特別社員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において愛媛2区から自由党公認で立候補して初当選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党から出馬して再選を果たした。1902年の第7回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
千坂 高雅(ちさか たかまさ、天保12年閏1月19日(184… 千坂 高雅(ちさか たかまさ、天保12年閏1月19日(1841年3月11日)- 大正元年(1912年)12月3日)は、日本の官僚・政治家・実業家。陸軍中佐、錦鶏間祗候。幼名は與市、戊辰戦争中は太郎左衛門、喜遯斉。 出羽国米沢藩家老の家に生まれ、英国留学後内務省に勤務。西南戦争に陸軍中佐として出征した後、石川県令、内務大書記官、岡山県令および県知事を歴任し、明治27年に依願免本官後には貴族院の勅撰議員に就任した。 天保12年(1841年)、米沢藩家老千坂高明の長男として米沢城下の桂町(現松が岬3丁目)に生まれた。千坂家は上級家臣の侍組に属しており、代々国家老や江戸家老などの藩の重職を務めた名門だった。
大音 龍太郎(おおど りゅうたろう/おおと りょうたろう、天… 大音 龍太郎(おおど りゅうたろう/おおと りょうたろう、天保11年2月19日〈1840年3月22日〉 - 1912年〈大正元年〉11月23日)は、幕末から明治初期の地方官僚。幕末の志士(彦根藩郷士)。姓は伊賀。字は厚龍、雅号に菱陀。幕臣・小栗忠順の処刑に関与したことで知られる。上野国岩鼻県知県事として強権を振るったことで「首切り龍太郎」の異名をとり恐れられたが、住民から罷免要求が出され半年で免職となった。 大音龍太郎は、天保11年2月19日[要出典](1840年3月22日)、近江伊香郡大音村(現・滋賀県長浜市木之本町大音)に生まれた。父の周倫は厚斎と号する医者で、彦根藩の北国街道柳ヶ瀬の関守を勤める郷士であった。