原 健策(はら けんさく、1905年4月23日 - 2002… 原 健策(はら けんさく、1905年4月23日 - 2002年2月7日)は、日本の俳優。1953年までの芸名は原 健作。広島県呉市出身。本名は松原 義男。時代劇を中心に脇役として活躍した。 所属は第二新国劇から千恵プロ、1937年に解散した後は日活太秦撮影所、1942年に大都京都、1949年から東映へ移り、最後の芸能事務所は龍プロダクション。 娘は女優の松原千明、孫はモデルの松原すみれ。 1923年に旧制呉港中学校を中退。新民衆劇学校(のち第二新国劇)に1期生として卒業、2期生だった大河内傳次郎とともに第二新国劇の看板役者となる。 1925年に聯合映画芸術家協会『弥陀ヶ原の殺陣』の国定忠治役で映画デビュー。
秦 明友(はた めいゆう、1905年(明治38年)4月22日… 秦 明友(はた めいゆう、1905年(明治38年)4月22日 - 1983年(昭和58年)12月10日)は、日本の政治家。埼玉県大宮市(現・さいたま市)長(第8代 - 第12代)。旧姓・安藤。元埼玉県議の秦哲美は長男。さいたま市議の西山幸代は孫。 埼玉県北足立郡馬宮村(のち大宮市、現・さいたま市西区)に生まれる。のち、秦家の養子となる。1925年(大正14年)鉄道省大宮工場(現・大宮総合車両センター)に入る。1932年(昭和7年)中央大学法律学科卒。 戦後、日本社会党に入る。国鉄労働組合大宮工場支部書記長、社会党大宮支部長、同党埼玉県本部財務委員長などを経て、1951年(昭和26年)埼玉県議会議員に当選し、2期務める。
小沢 久之丞(おざわ きゅうのじょう、正字体:小澤久之亟、1… 小沢 久之丞(おざわ きゅうのじょう、正字体:小澤久之亟、1905年4月22日 - 1988年12月14日)は、日本の工学者、航空機技術者である。斬新な真空チューブ列車を考案した。 愛知県名古屋市出身。東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業。三菱重工業名古屋航空機製作所に就職し、第二次世界大戦中は四式重爆撃機「飛龍」を開発した。 1949年より名城大学理工学部教授に就任し、1971年から1972年まで学長を務めた。 1949年に『音速滑走体の構想』を発表した。1959年から愛知県の鍋田干拓地(現・弥富市)や農学部のあった鷹来キャンパス(春日井市)で実験をおこなった。真空パイプの中を走らせることで空気抵抗を減らす超音速滑走体の研究を進めた。
岩田 巌(いわた いわお、1905年4月20日 - 1955… 岩田 巌(いわた いわお、1905年4月20日 - 1955年3月3日)は、日本の会計学者。元一橋大学商学部教授。 東京都新宿区西大久保生まれ。先祖は武蔵野の郷士で、家には家系図が残されている。 1923年3月、私立豊山中学校(現・日本大学豊山中学校・高等学校)第4学年修了後、父の死去により、就職のためから早稲田実業学校(現・早稲田実業学校高等部)へ編入、1年間在籍するも、就職はしなかった。1930年、東京商科大学本科卒業、同年同大学研究科入学。大学時代はマックスウェーバーの研究に取り組む。1931年、中央会計研究所入所。1932年、東京商科大学研究科修了。1933年、東京商科大学予科講師、1937年同教授、1941年同大学助教授兼予科教授。
辰巳 柳太郎(たつみ りゅうたろう、1905年〈明治38年〉… 辰巳 柳太郎(たつみ りゅうたろう、1905年〈明治38年〉4月20日 - 1989年〈平成元年〉7月29日)は、日本の俳優。兵庫県赤穂郡坂越村(現・赤穂市)生まれ。本名は新倉武一。 島田正吾と共に、新国劇の屋台骨を支えた1人。 少年時代に養子に出されるも、養家を13件も転々としながら関西甲種商業学校(現・関西大学第一中学校・高等学校)を経て、商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)を中退。 1919年、小林一三が国民劇創設のため作った「男子養成会」の創設メンバー(男子専科生第一期生)として宝塚入り。 1926年に旅回りの一座に入り、長野県で初舞台を経験。半年後、小林一三主宰、坪内士行文芸部長の「宝塚国民座」に入団して東伍作の名で舞台に立つ。
泉 春子(いずみ はるこ、1905年〈明治38年〉4月20日… 泉 春子(いずみ はるこ、1905年〈明治38年〉4月20日 - 1998年〈平成10年〉?)は、日本の女優である。本名は、出生名が吉村 春子(よしむら はるこ)、俳優の中根龍太郎と結婚して山口 春子(やまぐち はるこ)、死別後に再婚して徳田 春子(とくだ はるこ)となった。デビュー作での芸名は沢村春子であったが、次の作品でこの芸名に改名した。身長は4尺3寸(約162.9センチメートル)、体重は12貫(約45.0キログラム)。 1905年(明治38年)4月20日、長崎県佐世保市下京町に「吉村春子」として生まれる。 1918年(大正7年)、旧制白南風小学校(現在の佐世保市立白南風小学校)を卒業、満15歳になる1920年(大正9年)には「娘歌舞伎」に入門する。
高山 岩男(こうやま いわお、1905年(明治38年)4月1… 高山 岩男(こうやま いわお、1905年(明治38年)4月18日 - 1993年(平成5年)7月7日)は、日本の哲学者。京都帝国大学教授・神奈川大学教授・日本大学教授・東海大学教授、秋田経済法科大学学長を歴任。 1905年、山形県山形市で生まれた。1918年、山形県立山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に入学。1925年、山形高等学校を卒業。西田幾多郎、田辺元の著書に触発され、京都帝国大学文学部哲学科に入学。当時の文学部には西田幾多郎、波多野精一、田辺元、和辻哲郎らが教員として在籍しており、京都学派の全盛期であり、特に田辺から多大な影響を受けた。西田幾多郎からは俊秀と評され、京都帝国大学を首席卒業した。
中川 信夫(なかがわ のぶお、1905年4月18日 - 19… 中川 信夫(なかがわ のぶお、1905年4月18日 - 1984年6月17日)は、日本の映画監督。 怪談映画の名手として知られる。 1905年(明治38年)4月18日、京都市洛西の嵯峨二尊院門前町に生まれる。父・中川竹次郎は嵐山の料理旅館「嵐峡館」のシン(板前の主任)、母・ソノは同旅館の仲居頭だった。橘尋常小学校卒業後、兵庫県の旧制育英商業学校(現在の育英高等学校)に入学。1924年(大正13年)卒業。文学者になることを目指し同人誌『幻魚』に小説を執筆するが、文学者になるには大学を出ていなければ駄目だと思いその道をあきらめ、映画の道に進む。 キネマ旬報読者寄書欄の素人映画評論家を経てマキノ・プロダクションに入社し、助監督となる。
有沢 忠一(ありさわ ただいち、1905年(明治38年)4月… 有沢 忠一(ありさわ ただいち、1905年(明治38年)4月16日 - 1990年(平成2年)9月27日)は、元三菱瓦斯化学株式会社社長、同社会長、元日本瓦斯化学工業株式会社社長、元株式会社有沢製作所社長、同社会長 その他、沢製作所株式会社会長、東邦天然ガス株式会社取締役、三菱製紙株式会社顧問、天然ガス鉱業会顧問を歴任した。墓所は多磨霊園。
黒田 秀俊(くろだ ひでとし、1905年4月15日-1989… 黒田 秀俊(くろだ ひでとし、1905年4月15日-1989年6月14日)は、日本のジャーナリスト、社会運動家。 静岡県下田市出身。明治大学政治経済学科中退、明治大学新聞高等研究科修了。 1938年中央公論社入社、42年南方派遣、のち「中央公論」編集長となり、44年横浜事件及び改造社、中央公論社解散に遭遇。 戦後は原水協事務局長、基地問題文化人懇談会事務局長、日本平和委員会常任理事などを務め、晩年は東京都中野区の教育委員準公選運動などに関わった。
水田 三喜男(みずた みきお、1905年〈明治38年〉4月1… 水田 三喜男(みずた みきお、1905年〈明治38年〉4月13日 - 1976年〈昭和51年〉12月22日)は、日本の政治家。位階は従二位。城西大学創立者。自由民主党政務調査会長(初代)。大蔵大臣を数度にわたり務めたほか、経済審議庁長官や通商産業大臣など経済閣僚を歴任した。戦後日本の代表的な財政家でもある。 千葉県安房郡曽呂村(現・鴨川市)出身。水田家は400年ほど前に讃岐(現在の香川県)の地から移住してきた家系とされる。祖父・竹蔵、父・信太郎はいずれも村長を務めた。旧運輸事務次官と日本航空副社長を務めた町田直は妻の実弟である。実家は、旧水田家住宅として保存されている。 旧制安房中学校(現・千葉県立安房高等学校)、旧制水戸高等学校(茨城大学の前身校)を卒業し、東京帝国大学を当初は志望したが、学生連合会の要請で親友の宇都宮徳馬とともに京都帝国大学(法学部)に入学した。
八百板 正(やおいた ただし、1905年4月12日 - 20… 八百板 正(やおいた ただし、1905年4月12日 - 2004年4月23日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(11期)、参議院議員(2期)。日本社会党副委員長を歴任。 福島県伊達郡飯野村(飯野町を経て現福島市)に生まれる。福島中学校(現福島県立福島高等学校)を経て、早稲田大学専門部法科卒業。旧制中学の恩師だった阪本勝(後の衆議院議員、兵庫県知事)を頼り、安部磯雄らの日本フェビアン協会に参加。河上丈太郎、賀川豊彦、櫛田民蔵の知遇を得る。日本労農党、社会大衆党などに参加して無産政党運動をする。1929年に郷里に帰って東北新人会を結成、伊達郡を中心に小作争議を指導し度々投獄される。1933年に全国農民組合(全農)中央委員に選出。
浜田 禎介(はまだ ていすけ、1905年〈明治38年〉4月1… 浜田 禎介(はまだ ていすけ、1905年〈明治38年〉4月11日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。熱海市議会議員。相模屋社長。伊豆山観光協会長。 新潟県・須山斌二郎の三男。1927年、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。東京大北電信会社に勤務。相模屋旅館・浜田三郎の養子となる。養父経営の相模屋旅館を継承する。1947年、熱海市議に当選。 教育委員長、早大稲門会会長、ユネスコ理事長に挙げられる。1948年、家業の相模屋を株式に改組と共に専務に就任。1955年、熱海商工会議所副会頭に就任。 宗教は真言宗。趣味は絵画、野球、乗馬、ゴルフ、カメラ、登山。住所は静岡県熱海市伊豆山。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
吉川 久衛(きっかわ きゅうえ、1905年4月10日 - 1… 吉川 久衛(きっかわ きゅうえ、1905年4月10日 - 1978年6月20日)は農業協同組合運動の推進者、衆議院議員。 長野県上伊那郡飯島村生まれ。赤穂村立公民実業学校(長野県赤穂高等学校)を経て、1932年に明治大学法学部英法学科卒業。同年農林省(現・農林水産省)に入省し大臣官房吏員、興農合作社中央会科長、中央農業会課長、戦時農業団秘書役などを歴任した。戦時中は満洲に5年間派遣された。 1947年の第23回衆議院議員総選挙を皮切りに長野県第3区から出馬し、断続的に計8回当選した。 衆議院では農林政務次官(第2次鳩山一郎内閣)、農林水産・決算・地方行政の各常任委員長などを歴任し、農業基本法・農業管理法の制定、農協共済制度・農林年金制度の確立などに功績があった。
北根 貞雄(きたね さだお、1905年4月10日 - 198… 北根 貞雄(きたね さだお、1905年4月10日 - 1987年9月19日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1927年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に愛知銀行に入行。 1955年に取締役に就任し、1958年11月に常務、1961年5月に専務を経て、1962年5月に中央信託銀行副社長に就任し、1965年12月には社長に昇格。1970年12月に会長に就任し、1975年12月に取締役相談役を経て、1978年6月に相談役に就任。 1975年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1987年9月19日呼吸不全のために死去。82歳没。
松尾 信人(まつお のぶと 、1905年〈明治38年〉4月9… 松尾 信人(まつお のぶと 、1905年〈明治38年〉4月9日 - 1990年〈平成2年〉9月19日)は、日本の政治家。公明党衆議院議員(2期)。 長崎県長崎市生まれ。1928年(昭和3年)、長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)卒業。同年、長崎税関に入った。長崎税関総務部長、離島振興対策審議会委員を務めた。1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙で長崎1区に公明党から出馬し、初当選。以後連続2期務める。同年の選挙には立候補せずに引退した。 その他、創価学会副理事長や中央選挙管理会予備委員務めた。 1990年(平成2年)9月19日、心不全のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。
星 克(ほし かつ、1905年4月9日 - 1977年5月2… 星 克(ほし かつ、1905年4月9日 - 1977年5月25日)は、戦前の沖縄県の教育者で、沖縄群島政府、琉球政府及び沖縄県の政治家。沖縄県石垣市出身。 戦前の教職時代に沖縄民謡「安里屋ユンタ」を基に「新安里屋ユンタ」を作詞したことでも知られる。 1905年(明治38年)4月9日生まれ。1922年(大正11年)に石垣島の白保尋常高等小学校代用教員となる。戦前は教育界に身を置いた。 沖縄戦後は大浜町に就職し、収入役・助役・町長の三役を務めた後、八重山群島議会議員に就任。そして琉球政府発足後の第2回立法院議員総選挙で初当選した。 琉球政府立法院では、当時の保守政党であった沖縄自由民主党の重鎮として活躍する。
倭島 英二(わじま えいじ、1905年4月8日 - 1982… 倭島 英二(わじま えいじ、1905年4月8日 - 1982年4月6日)は、昭和時代の日本の外交官。 鳥取県出身。東京帝国大学法学部在学中の1928年(昭和3年)、外交官試験に合格。翌年外務省入省。米国、中華民国、興亜院、本省政務局勤務などを経て、1942年(昭和17年)11月、中華民国駐在大使館の1等書記官で赴任。1945年(昭和20年)2月、大臣官房会計課長。同年8月より終戦連絡中央事務局第4部長・名古屋事務局長等を務めた後、1948年(昭和23年)1月より本省管理局長として引揚げ推進のためGHQなどとの折衝に尽力した。 アジア局の復活に伴い1951年(昭和26年)12月、同局長。1953年(昭和28年)11月、特命全権公使に任命され、同年12月より日本・インドネシア国交樹立、賠償、その他懸案事項の処理交渉を行う。
ジョン・ムーア・アリソン(John Moore Alliso… ジョン・ムーア・アリソン(John Moore Allison, 1905年4月7日 - 1978年10月28日)は、アメリカ合衆国の外交官。駐日大使、駐インドネシア大使、駐チェコスロヴァキア大使を歴任した。
大野 勝巳(おおの かつみ、1905年4月6日 - 2006… 大野 勝巳(おおの かつみ、1905年4月6日 - 2006年9月1日)は、北海道浜中町出身の外交官。駐英大使、外務事務次官、帝国ホテル社長、日英協会理事長、日本国際問題研究所理事長など歴任した。勲一等瑞宝章受章。 北海道釧路支庁管内浜中町の貧しい酪農家で産まれる。旧制立教中学、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)を経て、1929年(昭和4年)京都帝国大学経済学部卒。同年外務省に入省し、外交官補としてドイツに駐在。同期に朝海浩一郎(終戦連絡事務局長官、駐米大使)、山田久就(事務次官、駐ソ大使、環境庁長官)など。外相兼大東亜相秘書官・終戦連絡中央事務局賠償部長、外務省管理局長などを経て、1948年総務局長、翌年政務局長。
太田 三郎(おおた さぶろう、1905年4月5日 - 197… 太田 三郎(おおた さぶろう、1905年4月5日 - 1978年7月19日)は、日本の外交官、政治家。初代公選横須賀市長を経て、駐ビルマ特命全権大使、駐ポーランド特命全権大使、駐オーストラリア特命全権大使を歴任した。 茨城県出身。1925年第五高等学校文科甲類卒業。1928年東京帝国大学法学部卒業、外務省入省。1930年任外交官補、英国在勤。1931年在シドニー領事館補。1937年在ソビエト連邦大使館三等書記官。1940年外務省欧亜局第三課長。1943年外務省調査局第三課長。 1945年8月ポツダム宣言による終戦受諾により終戦連絡中央事務局第三部長、9月2日、ミズーリの艦上での降伏文書調印式では日本側全権団随員で参列した。
寺尾 威夫(てらお たけお、1905年4月5日 - 1974… 寺尾 威夫(てらお たけお、1905年4月5日 - 1974年5月25日)は、日本の実業家。大和銀行元頭取、会長。奈良県吉野郡十津川村出身。 1929年に東京帝国大学法学部を卒業し、野村銀行(のちの大和銀行、統合により、現在はりそな銀行となる。)に入行した。 1947年1月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1950年8月には社長に就任し、1951年11月からは大和銀行頭取を務め、1973年4月からは会長を務めた。頭取在職中に、1965年に大蔵省から行政指導により、信託業務を分離するように命令を受けたが、これを拒否し、信託併営を堅持した。 その一方で、関西経済同友会幹事、大阪商工会議所副会頭などを歴任した。
野村 正二郎(のむら しょうじろう、旧姓:杉村(すぎむら)、… 野村 正二郎(のむら しょうじろう、旧姓:杉村(すぎむら)、1905年4月4日 - 1975年1月15日)は、大阪府大阪市出身の科学者、大学教授およびサッカー選手。男爵。 父は杉村倉庫創業者の杉村正太郎、弟は阪急電鉄常務を務めた杉村正三郎であり、大阪商工会議所初代会頭の五代友厚が母方の祖父に当たる。 大阪府立天王寺中学校(現:大阪府立天王寺高等学校)を卒業後、早稲田大学に入学してア式蹴球部に所属。在学中の1927年に第8回極東選手権大会のサッカー日本代表に選出され、8月27日の中華民国代表で代表初出場を果たした。 男爵を叙爵した野村維章を祖とする野村家に大学を卒業する前に養子に入って野村姓に改名し、1928年2月2日に男爵を襲爵した。
神谷慶治(かみや けいじ、1905年4月2日 - 1998年… 神谷慶治(かみや けいじ、1905年4月2日 - 1998年10月26日)は、日本の農業経済学者。東京大学名誉教授。 静岡県掛川市生まれ。1931年東京帝国大学農学部農業経済学科卒、1932年同副手となり、1935年講師、1939年助教授、1948年教授となり、東京大学農学部教授、1962年農学部長を務め、1966年定年退官、名誉教授、東京農業大学教授、1976年退職。そのほか、1951年農林省農業綜合研究所長。1974-1979年大日本報徳社社長。日本農業経済学会会長、日本農村更生協会会長を務めた。日本学術会議会員。1960年「日本農業機械化の分析」(共編)で日経・経済図書文化賞、1968年日本農学賞受賞。
湊 顯(湊 顕、みなと あきら、1905年(明治38年)4月… 湊 顯(湊 顕、みなと あきら、1905年(明治38年)4月2日 - 1992年(平成4年)3月20日)は、日本の薬学者。薬学博士。専門は臓器薬化学。北海道薬科大学初代学長。千葉大学名誉教授。位階は従三位。 岩手県生まれ。1930年(昭和5年)東京帝国大学医学部薬学科卒業。同年、同医学部助手。1937年(昭和12年)東京薬学専門学校講師。1942年(昭和17年)千葉医科大学薬学専門部教授。1951年(昭和26年)千葉大学薬学部教授。1962年(昭和37年)同薬学部長。1974年(昭和49年)千葉大学停年退官。同名誉教授。北海道薬科大学初代学長に就任。1984年(昭和59年)北海道薬科大学退職。1992年死去。
福山 敏男(ふくやま としお、1905年4月1日 - 199… 福山 敏男(ふくやま としお、1905年4月1日 - 1995年5月20日)は、日本の建築史家。京都大学名誉教授。 1905年、福岡県山門郡城内村(現柳川市)で生まれた。第五高等学校を経て、京都帝国大学工学部建築学科に進学。1927年に卒業。 修了後は、内務省造神宮使庁嘱託に採用された。1939年、京都帝国大学から工学博士の学位を取得。1942年、文部技師に昇格として宗教局に勤務。のち教化局総務課勤務を経て、1943年11月1日付けで教学局文化課勤務。 1947年より東京国立博物館附属美術研究所(東京国立文化財研究所)に勤務。1951年より同所資料部長、1954年より同所美術部長。1959年、京都大学教授に転じた。
磯部 浅一(いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1… 磯部 浅一(いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、皇道派青年将校。 陸軍幼年学校、陸軍士官学校(38期)を経て陸軍歩兵将校となるが、中尉の時に経理部に転科した。陸軍一等主計の時に、陸軍士官学校事件により停職、「粛軍に関する意見書」配布により免官となった。二・二六事件において決起将校らと行動を共にし、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。 1905年(明治38年)4月1日、山口県大津郡菱海村(現長門市)河原に農業兼左官磯部仁三郎の三男として生まれる。 高等小学校、広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1926年(大正15年)7月に陸軍士官学校(38期)を卒業する。
田岡 香逸(たおか こういつ、1905年4月 - 1992年… 田岡 香逸(たおか こういつ、1905年4月 - 1992年1月31日)は、日本の郷土史家。旧名を旭香という。 兵庫県生まれ。1924年、兵庫県立第一神戸中学校卒業。以後、家業の傍ら郷土史研究に努める。1939年、西宮史談会を再興し、幹事長となる。1946年3月から1951年4月まで西宮市立図書館嘱託。また、1947年、西宮市議会議員に当選。1951年、西宮文化協会理事長就任。1971年、西宮市民文化賞を受賞する。
椙杜 正太郎(すぎのもり しょうたろう、1905年(明治38… 椙杜 正太郎(すぎのもり しょうたろう、1905年(明治38年)4月 - 1977年(昭和52年)4月20日)は、商工省ないし通商産業省の官僚。東京帝国大学卒。72歳で没した。元アラビア石油常務。元石油鉱業連盟顧問。
大山 定一(おおやま ていいち、1904年4月30日 - 1… 大山 定一(おおやま ていいち、1904年4月30日 - 1974年7月1日)は、昭和期日本のドイツ文学者。京都大学名誉教授。 香川県出身。旧制第六高等学校から京都帝国大学文学部独文科に進み1928年に卒業。学生時代は土井虎賀寿と下宿が同じで、親友であった。旧制第三高等学校講師、京都帝国大学文学部講師、法政大学予科講師などを経て、1946年に京都大学文学部助教授、1950年に同教授となり、1968年に京大を定年退官してからは関西学院大学教授を務めた。 文人気質の外国文学者としてゲーテやリルケをはじめとする多数の翻訳を著した。戦後まもなく出版された『洛中書問』は、中国文学者の吉川幸次郎との往復書簡で、東西古典の翻訳のあり方をめぐる論議である。
古川 栄一(ふるかわ えいいち、1904年4月29日 - 1… 古川 栄一(ふるかわ えいいち、1904年4月29日 - 1985年4月30日)は、日本の経営学者。学位は、商学博士(一橋大学・論文博士・1954年)。一橋大学名誉教授。増地庸治郎門下、増地の経営財務論を継承。一橋大学商学部教授を経て、同門の招きで青山学院大学教授に就任。郵政省顧問等も歴任。藍綬褒章受章。 新潟県古志郡長岡町(現:長岡市)出身。現在の長岡商業高校を経て、1929年に東京商科大学(現:一橋大学)経営学科卒業。1954年「財務管理の本質と組織に関する研究」で一橋大学より商学博士の学位を取得。学生時代に受洗。大学では上田貞次郎教授のゼミを希望していたが、人気のため果たせず、増地庸治郎助教授のゼミに参加。
小川 友三(おがわ ともぞう、1904年〈明治37年〉4月2… 小川 友三(おがわ ともぞう、1904年〈明治37年〉4月29日 - 1968年〈昭和43年〉3月16日)は、日本の実業家、政治家。元参議院議員(1期)。 埼玉県出身。1921年(大正10年)に明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)を卒業して薬剤師免許を取得し、薬局や製薬会社を開業。古物商・農業などを手がける一方で東京市議選や府議選にも出馬し、昭和会から衆議院議員への立候補を目論んだ。1938年(昭和13年)には中華民国への移住絡みの詐欺事件で逮捕されている。 戦後は国民協同党に入党。同党公認で1947年(昭和22年)4月5日の埼玉県知事選挙に出馬するものの、直後に離党して自ら親米右翼の『親米博愛勤労党』を結成。
田口 真二(たぐち しんじ、1904年4月28日 - 198… 田口 真二(たぐち しんじ、1904年4月28日 - 1984年5月16日)は、日本の経営者。平和不動産社長を務めた。 東京都出身。1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に住友銀行に入行。後に田口証券に転じ、1955年には社長に就任。1956年に東京証券取引所理事に就任し、1957年に専務、1961年に副理事長を経て、1971年5月には平和不動産社長に就任。1977年6月には取締役相談役に退いた。 1976年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1993年3月2日、急性心不全のために死去。88歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
有山 兼孝(ありやま かねたか、1904年〈明治37年〉4月… 有山 兼孝(ありやま かねたか、1904年〈明治37年〉4月26日 - 1992年〈平成4年〉5月5日)は、日本の物理学者。専門は物性物理学。名古屋大学名誉教授。第12期日本物理学会会長。位階勲等は従三位勲二等旭日重光章。 1904年4月26日、東京にて生まれた。1928年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業後1年で大学院を中退し、東京工業大学で助手・講師を務めた。1933年3月から1936年3月まで、文部省在外研究員として、ゲッチンゲン、ミュンヘン、ライプツィヒ、コペンハーゲンに留学した。帰国後、理化学研究所の仁科芳雄研究室の助手に着任し、のちに学習院大学の教授に異動した。1942年4月、名古屋帝国大学理学部の創設に伴い、同大学の物理学科の教授に転任した。
生汐 左衛門(いくしお さえもん、1904年4月26日 - … 生汐 左衛門(いくしお さえもん、1904年4月26日 - 没年不明)は、福岡県柳川市出身で、陸奥部屋に所属した元大相撲力士。本名は近藤 儀一郎。最高位は十両6枚目。 陸奥部屋に入門し、1923年1月序ノ口に就く。1932年5月十両に昇進。十両は2場所とも負け越しに終わった。1935年5月廃業。
森 薫(もり かおる、1904年(明治37年)4月24日 -… 森 薫(もり かおる、1904年(明治37年)4月24日 - 1986年(昭和61年)9月18日)は、日本の実業家である。出身地は大阪府。神戸電鉄の会長、阪急電鉄・北大阪急行電鉄の社長を務めた。 大阪府出身。宗太郎の息子。 1928年、京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、当時の新京阪鉄道に入社した。当時、新京阪を含む京阪電気鉄道グループは事業の拡張のため多くの大学・専門学校卒業生を採用しており、森もその一人だった(戦後、京阪の社長を務めた青木精太郎は同じ京大電気工学科を卒業して同期で京阪に入社している)。新京阪の京阪への合併、京阪と阪神急行電鉄の合併による京阪神急行電鉄の発足と京阪の再分離を経て、阪急電鉄に就職した。
樋口 勝彦(ひぐち かつひこ、1904年(明治37年)4月2… 樋口 勝彦(ひぐち かつひこ、1904年(明治37年)4月24日 - 1964年(昭和39年)3月19日)は、昭和中期のラテン文学、西洋古典学研究者。慶応義塾大学教授。日本西洋古典学会委員。オウィディウス『アルス・アマトリア』の訳者。
細谷 喜一(ほそや きいち、1904年〈明治37年〉4月23… 細谷 喜一(ほそや きいち、1904年〈明治37年〉4月23日 - 1980年〈昭和55年〉11月3日)は、日本の内務官僚。内閣官房副長官。 群馬県山田郡桐生町横山(現・桐生市横山町)出身。細谷信次郎の長男として生まれる。旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て、第一高等学校を卒業。1931年10月、高等試験行政科試験に合格。1932年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、内務省に入省し警視庁警部補となる。 以後、警視庁警務課教養係長、大塚警察署長、渋谷警察署長、地方警視・静岡県警察部刑事課長、岡山県警察部特別高等警察課長、興亜院事務官・政務部第三課勤務、警視庁警視・労働課長、兼警視庁事務官・調停官、地方警視・京都府警察部特別高等警察課長、千葉県官房長、四国地方総監府副参事官、香川県部長・警察部長などを歴任。
連 震東(れん しんとう、1904年〈明治37年〉4月23日… 連 震東(れん しんとう、1904年〈明治37年〉4月23日 - 1986年〈民国75年〉12月1日)は、中華民国の政治家。中国国民党所属で、第1期(中国語版)国民大会代表、台北県長、内政部長などを歴任した。日本統治下台湾の台南庁(現:台南市)出身の本省人。字は定一。歴史学者の連横(中国語版)は父で、中華民国副総統、中国国民党主席などを歴任した連戦は長男。 1904年(明治37年)、台南庁(現:台南市)で生まれる。板橋林家の林熊徵(中国語版)から資金援助を受けて内地の慶應義塾大学経済学部に進学し、1929年(昭和4年)に卒業した。台湾に戻ると昭和新報に入社した。 1931年(昭和6年)4月10日、父の連横が中国国民党・国民政府の元老であり旧友の張継に手紙を書き、連震東に対し「台湾を解放したければ、まず祖国を建設しなければならない。
梅津 はぎ子(うめづ はぎこ、1904年〈明治37年〉4月2… 梅津 はぎ子(うめづ はぎこ、1904年〈明治37年〉4月22日 - 1989年(平成元年)10月8日)は、日本の労働運動家。紡績工での過酷な労働を経て、戦前の紡績工の女性従業員たちの労働の実態を代弁し、何度も検挙されながらも、大正期から昭和期にかけての社会運動で活躍した。高知県高岡郡高岡町(後の土佐市)出身、旧姓は中平。別名は梅津 萩子。 幼少時に両親が離婚後、親戚の養女となった。尋常小学校時代より、子守り奉公などで苦労を重ねた。結婚話が持ち上がったが、気が進まずに家を出た。女中や製紙工場で働いた後、1921年(大正10年)、保土ヶ谷にある富士瓦斯紡績の工場に勤めた。 当時の富士紡は最盛期で、全従業員は約1500人の内、8割近くが女性、大半が出稼ぎの十代の少女であった。
打木 村治(うちき むらじ、1904年4月21日 - 199… 打木 村治(うちき むらじ、1904年4月21日 - 1990年5月29日)は、日本の小説家・児童文学作家。本名、打木 保(うつぎ たもつ)。 大阪府に生まれ、父の病気により、母の実家があった埼玉県比企郡唐子村(現・東松山市)で育つ。早稲田大学政治経済学部卒。大蔵省勤務のおりに知り合った川端康成に才能を認められ、文学活動に入り『作家群』を主宰した。その後、『文芸評論』への関りから1936年(昭和11年)にコム・アカデミー事件で検挙されるも、翌1937年(昭和12年)には『部落史』で芥川賞候補となった。昭和初期の不況を背景に資本主義下にあえぐ農村、都会の下層の人々を描き、農民文学作家の地位を築く。
秋山 清(あきやま きよし、1904年4月20日 - 198… 秋山 清(あきやま きよし、1904年4月20日 - 1988年11月14日)は、福岡県小倉市(現・北九州市)出身の詩人、アナキスト。終戦まで局(つぼね)清のペンネームを用いる。 1904年、福岡県小倉市(現・北九州市)で生まれる。小倉中学(現・県立小倉高)を経て日本大学中退。1924年創刊のアナーキズム系の詩誌『詩戦行』に参加。1930年、小野十三郎と『弾道』創刊。第二次世界大戦後、1946年、金子光晴、岡本潤、小野十三郎とともに詩誌『コスモス』を創刊。アナキスト連盟や新日本文学会常任委員の活動のかたわら、『新日本文学』、『現代詩』に詩や評論を発表。詩史や自伝、作家論などの著作も多い。
栗生 純夫 (くりう すみお、1904年(明治37年)4月2… 栗生 純夫 (くりう すみお、1904年(明治37年)4月20日 - 1961年(昭和36年)1月17日)は、日本の俳人、小林一茶研究家。本名は神林 新治(かんばやし しんじ)。須坂市名誉市民。 長野県上高井郡須坂町(現在の須坂市東横町)の農業・繭糸商の家に生まれる。小諸市出身の臼田亜浪に師事。実作者の立場から小林一茶を研究し、軍隊入営中に『一茶新考』を出版するなど、書物を数多く発表。1946年(昭和21年)、郷里の長野県須坂町で俳誌『科野』(しなの)を創刊し、『信濃毎日新聞』俳壇選者を長く担当するなど、信濃俳壇の中心となって活躍した。一茶研究により日本俳文学会会員に推挙される。1961年死去。
早川 勝(はやかわ まさる、1904年4月19日 - 197… 早川 勝(はやかわ まさる、1904年4月19日 - 1979年2月5日)は、日本の柔道家(講道館8段)、実業家。 学生時代に旧制第六高校師範の金光弥一兵衛や同校柔道部員らと共に前三角絞を開発した事で知られ、社会人となってからは三菱鉱業を経て日本経営者団体連盟専務理事を務めるなど実業家として活躍した。また兄・昇(のぼる)も学生時代に柔道選手として腕を鳴らし、後には王子製紙にて専務取締役を務めている。 東京府中野区に生まれ、4歳年長の兄・昇と同じ県立第一神戸中学校(後の県立神戸高校)に進学して柔道を始めた。中学在学中には昇が籍を置いていた金光弥一兵衛率いる旧制第六高校柔道部の選手たちと共に前三角絞を編み出し、勝は大日本武徳会兵庫支部主催のもと1921年11月に開かれた兵庫県下中学柔道大会に主将として出場しこの技を駆使して優勝、その有効性を証明して見せた。
古賀 武夫(こが たけお、1904年4月19日 - 1992… 古賀 武夫(こが たけお、1904年4月19日 - 1992年5月3日)は、日本の法学者。西南学院大学学長、西南学院名誉顧問。 1904年(明治37年)、福岡県甘木市に生まれる。 1928年(昭和3年)、東京帝国大学法科卒業。1943年(昭和18年)、東京帝国大学大学院修了。その後日本貯蓄銀行、関東学院勤務などを経て、1949年(昭和24年)に西南学院大学教授に就任。1956年(昭和31年)から1969年(昭和44年)までのおよそ13年間に渡り同大の学長をつとめる。また1989年(平成元年)から西南学院理事長を2年間務めた。 専門は民法。勲三等旭日中綬章を1974年(昭和49年)に受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
本間 茂雄(ほんま しげお、1904年(明治37年)4月19… 本間 茂雄(ほんま しげお、1904年(明治37年)4月19日 - 1974年(昭和49年)11月3日)は、日本の体操競技選手、指導者で、体育学者。 1932年ロサンゼルスオリンピック日本代表で、日本では最初の体操競技オリンピック選手の一人である。 新潟県の佐渡島出身。旧畑野町(現・佐渡市)の畑野尋常小学校から東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区牛込)の牛込尋常小学校高等科(現在の新宿区立牛込仲之小学校)、府立四中、東京高等師範学校を経て、1933年(昭和8年)東京文理科大学教育学科を卒業した。大学在学中に主将として1932年ロサンゼルスオリンピックに体操競技初の日本代表メンバーとして出場したが、チームは最下位だった。
木村 雄吉(きむら ゆうきち、1904年4月17日 - 19… 木村 雄吉(きむら ゆうきち、1904年4月17日 - 1989年10月10日)は、日本の生化学者・科学哲学者、東京大学名誉教授。木村謹治の弟。 秋田県秋田市生まれ。山形高等学校を経て、1928年東京帝国大学理学部動物学科卒。大学では五島清太郎に師事、求道学舎で近角常観に師事する。医学部生化学教室で柿内三郎に教えを受け、1933年理化学研究所入所、1937年第二高等学校教授、1946年東京医科歯科大学教養部設立に参与。1949年東京大学教養学部教授。1956年伝染病研究所細胞化学研究部長。1965年定年退官。1974年勲三等瑞宝章受章。1989年10月10日、肺癌のため死去。
青木 重夫(あおき しげお、1904年〈明治37年〉4月17… 青木 重夫(あおき しげお、1904年〈明治37年〉4月17日 - 1961年〈昭和36年〉6月8日)は、昭和期の実業家、農林業経営者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 本籍・栃木県。農業経営者・青木梅三郎(杉孫七郎三男)の長男として生まれる。父の死去に伴い、1941年(昭和16年)10月15日、子爵を襲爵した。 1930年(昭和5年)、東北帝国大学法文学部を卒業。1932年(昭和7年)、日本生命保険に入社し、その後、常磐簡易火災保険副支配人、日本火災保険副支配人、日本火災海上保険支配人を務めた。その他、栃木県那須郡高林村(現:那須塩原市)で農林業の経営を行う。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
有泉 龍之助(ありいずみ たつのすけ、1904年〈明治37年… 有泉 龍之助(ありいずみ たつのすけ、1904年〈明治37年〉4月16日 - 1945年〈昭和20年〉8月31日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。最終階級は海軍大佐。 東京都出身。旧幕臣で日本海海戦に参戦した海軍主計中佐・有泉庚午の長男として生まれる。静岡中学校を経て、1923年(大正12年)7月、海軍兵学校(51期)を卒業。1924年(大正13年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科、海軍潜水学校(乙種学生)で学ぶ。 1931年(昭和6年)4月、「呂号第六十四潜水艦」乗組となり、装甲巡洋艦「浅間」分隊長、「伊号第五十一潜水艦」「伊号第百五十六潜水艦」「伊号第七十潜水艦」の各水雷長を経て、1937年(昭和12年)7月、海軍大学校(甲種35期)を卒業。
淀野 隆三(よどの りゅうぞう、1904年〈明治37年〉4月… 淀野 隆三(よどの りゅうぞう、1904年〈明治37年〉4月16日 - 1967年〈昭和42年〉7月7日)は、日本の文芸評論家。フランス文学者。 京都府紀伊郡伏見町(現・京都市伏見区)生まれ。本名・三吉。淀野家は伏見過書町で手広く鉄工所を営んでいた。京都府立京都第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)を卒業後、1922年に第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)文科甲類に入学。野球部に入り、一高三高戦で三塁手として活躍した。三高劇研究会に所属し、卒業した先輩の梶井基次郎、中谷孝雄、外村茂と知り合う。 1925年、三高卒業後に東京帝国大学文学部仏文科に入学。前年に同校に進んでいた梶井基次郎、中谷孝雄、外村茂の創刊した同人誌『青空』の6月号・通巻4号から同人参加した。