福島 哲(ふくしま てつ、明治34年(1901年)4月19日… 福島 哲(ふくしま てつ、明治34年(1901年)4月19日 - 没年不明)は、日本の教育者。元境高等学校長。 旧制鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)では、西田税(二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人として逮捕され、北一輝とともに刑死)と同期だった。大正13年(1924年)、旧制金沢医科大学附属薬学専門部卒業。鳥取県立米子中学校教諭、同米子工業学校長、鳥取県立境高等学校長を歴任した。昭和32年(1957年)退職。 大正14年(1925年)3月、秩父宮が来陰した際、西田税は汽車に同車し、秩父宮と談笑した。西田と米子中学校(現・米子東高校)で同期だった福島は「西田が秩父宮様と汽車で御同車して談笑していたことは出迎えの西尾町長がびっくりして帰って役場で話し、町中の大評判になったものだ。
金 教臣(キム キョシン、1901年4月18日 - 1945… 金 教臣(キム キョシン、1901年4月18日 - 1945年4月25日)は、朝鮮のキリスト教指導者。本貫は慶州金氏。 咸鏡南道咸興府出身。1919年に日本の正則英語学校に留学し、1920年に東京のホーリネス教会で受洗、1921年内村鑑三のロマ書講義に感銘を受け、以後の聖書集会に出席した。1927年東京高等師範学校理科第3部を卒業後帰国し、咸興の永生女子高等普通学校の教師を務め、1928年からは京城の養正高等普通学校、1940年には第一高等普通学校、1941年には開城の松都高等普通学校に赴任した。 1927年には咸錫憲ら無教会主義の同志らと『聖書朝鮮』誌を創刊し、「世の中で一番良いものは聖書と朝鮮」であり、「新しい朝鮮を聖書の上に建てよ」と説き、朝鮮的キリスト教を追求した。
渡辺 本治(渡邊、わたなべ もとじ、1901年(明治34年)… 渡辺 本治(渡邊、わたなべ もとじ、1901年(明治34年)4月18日 - 1961年(昭和36年)3月14日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 愛媛県、後の西条市の農家に生まれる。10歳で父が死去し、商店や銅山で働き、17歳の時に一家で九州に移った。 1925年(大正14年)中島炭鉱に入社し採炭作業に従事。1933年(昭和8年)熊ヶ畑炭鉱(山田市)を開鉱。1936年(昭和11年)篠谷炭鉱(二瀬町)を開鉱。その後、伊岐須鉱・後牟田鉱(二瀬町)、赤間鉱(宗像町)、古月鉱(鞍手町)、稲築鉱、水江鉱などを経営し、渡辺鉱業社長、渡辺商事社長となる。1947年(昭和22年)小倉硝子工業を設立し社長に就任。
斉藤 利忠(さいとう としただ、1901年 <明治34年> … 斉藤 利忠(さいとう としただ、1901年 <明治34年> 4月17日 - 1981年 <昭和56年> 12月29日)は、日本の経営者、銀行家。安田倉庫、安田信託銀行各社長を務めた。群馬県出身。位階は従四位。 1925年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年4月に安田銀行に入行。1945年1月に安田保善社に転じ、1946年8月に安田倉庫専務に就任し、1948年には社長に昇格。1951年11月には安田信託銀行副社長に就任し、1957年6月には社長に昇格し、1963年5月から1970年5月までに会長を務めた 1966年4月に藍綬褒章を受章し、1971年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1981年12月29日に肺炎のために死去。
岩木 哲夫(いわき てつお、1901年(明治34年)4月15… 岩木 哲夫(いわき てつお、1901年(明治34年)4月15日 - 1980年(昭和55年)2月2日)は、日本の実業家、政治家。位階は正五位。参議院議員(1期)。旧姓は三宅川。 愛媛県越智郡富田村(現今治市)で、三宅川秀逸の長男として生まれ岩木六兵衛の養子となる。大阪大倉商業学校(現関西大倉中学校・高等学校)を卒業した。 藤本合資に入り、同社代表、大阪穀物商同業組合副組長、同組合長を経て、1937年(昭和12年)大阪府米穀商業組合理事長に就任。1942年(昭和17年)食糧営団の設立に伴い大阪府食糧営団専務理事となる。以後、中央食糧営団理事、大阪府食糧国防団団長、同物価協力会議食糧部長、同府経済警察協議員、大阪食糧科学学校講師、大阪地方検事局及び裁判所経済委員などを務めた。
毛利 与一(もうり よいち、1901年4月15日 - 198… 毛利 与一(もうり よいち、1901年4月15日 - 1982年1月30日)は、日本の弁護士。 福岡県北九州市で生まれる。 1925年に京都帝国大学法学部を卒業。1928年には大阪で法律事務所を開く。その後は第2次大本教事件、人民戦線事件、天理本道事件などの弁護人を務める。戦後、東京裁判では平沼騏一郎の補佐弁護人を務め、鈴木大阪警視総監名誉毀損事件ではGHQの裁判干渉に抗議しながら弁護に当たった。その他にも松川事件、八海事件、破壊活動防止法京都事件、朝日訴訟、砂川事件などで弁護活動を行った。 1958年『自由心証論 : 有罪心証としての』で立命館大学法学博士を取得。1959年に大阪弁護士会会長を務めた。
安立 綱光(あだち つなみつ、1901年4月15日 – 19… 安立 綱光(あだち つなみつ、1901年4月15日 – 1981年11月2日) は、日本の昆虫学者。 1921-1922年兵役をへて、1925年に東京大学農学部に入学し卒業。1932年に助手となり、1948年に助教授。 1954年、東洋大学教授に就任。 彼は1976年に退官。 足立は主に昆虫学に関する75の科学論文を執筆しており、そのほとんどがハネカクシに関するものであった。 彼の発見した11の新種はすべて日本から。 リー・H・ハーマン(2001)。 Staphylinidae(昆虫綱:甲虫目)のカタログ。 1758年から第二千年紀の終わりまで。 I.はじめに、歴史、伝記のスケッチ、およびオマリーングループ 、アメリカ自然史博物館紀要、265 :i + vi + 649 p。
吉富 滋(よしとみ しげる、1901年〈明治34年〉4月15… 吉富 滋(よしとみ しげる、1901年〈明治34年〉4月15日 - 1946年〈昭和21年〉10月18日)は、日本の内務・厚生官僚。官選高知県知事。 山口県出身。吉富瀬兵衛の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1928年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1929年、東京帝国大学法学部英法科を卒業。内務省に入省し、神奈川県属となる。 以後、福島県教育課長、同地方課長、島根県警察部特別高等警察課長、兵庫県警察部外事課長、内務省社会局事務官、厚生事務官、軍事保護院書記官、同業務局業務課長、厚生省大臣官房会計課長などを歴任。 1946年1月、高知県知事に就任。県立学校の統合、四国配電株式会社重役陣の改組、県内の復興などに取り組んだ。
廿日出 厖(はつかで ひろし、1901年〈明治34年〉4月1… 廿日出 厖(はつかで ひろし、1901年〈明治34年〉4月15日 - 1947年〈昭和22年〉10月19日)は、日本の教育者、政治家。浜松学院興誠高校の創立者、衆議院議員。 1901年(明治34年)広島県呉市豊町大長出身。ミカン農家の五男に生まれる。長崎高等商業学校を卒業し、1929年(昭和4年)3月に東北帝国大学宗教哲学科を卒業する。 内務大臣望月圭介の秘書官を経て、遠江商業学校校長に就任する。しかし、学校の経営責任者と対立し生徒らと共に学校を去り新たに普済寺で授業を開始する。 1933年(昭和8年)11月、文部大臣から財団法人・興誠商業学校の設立指定を受ける。 1946年(昭和21年)4月に、戦後第1回の総選挙に諸派から静岡県全県区で衆議院議員に当選した。
山本 正一(やまもと しょういち、1901年(明治34年)4… 山本 正一(やまもと しょういち、1901年(明治34年)4月15日 - 1979年(昭和54年)9月17日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(5期)、鎌倉市長(3期)、鎌倉市会議員、神奈川県会議員(鎌倉市選挙区)。山梨県生まれ、東京都出身。位階は従四位。
東 庄太郎(ひがし しょうたろう、1901年(明治34年)4… 東 庄太郎(ひがし しょうたろう、1901年(明治34年)4月15日 - 1945年(昭和20年)3月17日戦死認定)は、日本の軍人。硫黄島の戦いで小笠原兵団の高射砲隊を指揮した。最終階級は陸軍少佐、玉砕後大佐に二階級特進。 奈良県宇陀郡宇賀志村(現・宇陀市)佐倉出身。 1921年(大正10年)12月、伏見野砲兵第22連隊に現役入営。1930年(昭和5年)時点で本部附陸軍軍曹。1935年(昭和10年)、少尉候補者15期生として陸軍士官学校卒業。1936年3月、砲兵少尉。1937年(昭和12年)2月、陸軍野戦砲兵学校に入学(高射砲学生)。8月、千葉県柏市の高射砲第2連隊(第77部隊)に転じ、さらにその10日後、近衛師団第7高射砲隊に転じ、上海に上陸。
松下 正寿(松下 正壽、まつした まさとし、1901年〈明治… 松下 正寿(松下 正壽、まつした まさとし、1901年〈明治34年〉4月14日 - 1986年〈昭和61年〉12月24日)は、日本の元政治家、国際政治学者、著述家。第5代・6代・7代立教大学総長、元参議院議員(1期)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)初代議長、Ph.D(コロンビア大学)、正四位、勲二等旭日重光章受章。 極東軍事裁判では東条英機の弁護人を務めたほか、岸信介首相の特使として英国政府にクリスマス島の原水爆実験の中止要請を行った。強固な反共主義者としても知られ、民社党系の核禁会議の結成に尽力。1970年代以降、文鮮明を師と仰ぎ、世界平和教授アカデミー会長、世界日報論説委員、宗教新聞社社主を務めるなど統一教会の最高幹部として関連団体で要職を歴任した。
小川 鼎三(おがわ ていぞう、1901年4月14日 - 19… 小川 鼎三(おがわ ていぞう、1901年4月14日 - 1984年4月29日)は、日本の解剖学者・医史学者。東京大学名誉教授。日本学士院会員。元日本医史学会理事長。大分県出身。 1901年、大分県杵築町で生まれる。三高、東京帝国大学医学部卒業。東北帝国大学助教授、東京帝国大学助教授、1944年教授。東京大学教授を62年に定年退官、名誉教授、順天堂大学教授、順天堂大学医学部医史学研究室を創設した。1934年、医学博士(東北大学)(学位論文:「水棲哺乳動物の中枢神経系に関する知見補遺 (独文)」)取得。 1951年「小細胞性赤核の機能解剖学研究」で日本学士院賞受賞。1964年『医学の歴史』で毎日出版文化賞受賞。
山中 正夫(やまなか まさお、1901年4月14日 - 19… 山中 正夫(やまなか まさお、1901年4月14日 - 1989年2月3日)は、日本の経営者。三菱セメント社長、三菱鉱業セメント会長を務めた。福岡県築上郡築城町出身。位階は正四位。 1925年に東京帝国大学工学部鉱山学科を卒業し、同年4月に三菱鉱業に入社。1950年に取締役に就任し、1954年に三菱セメント常務、1957年5月に副社長を経て、1958年5月には社長に就任。1973年5月に三菱鉱業セメント会長に就任し、同年11月には相談役に就任。 1966年4月に藍綬褒章を受章し、1971年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年2月3日呼吸不全のために死去87歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
小島 鉦作(こじま しょうさく、1901年(明治34年)4月… 小島 鉦作(こじま しょうさく、1901年(明治34年)4月13日 - 1996年(平成8年)8月29日)は、日本の歴史学者。成蹊大学名誉教授。愛知県出身。 1901年(明治34年)、愛知県愛知郡天白村(現在の名古屋市天白区)に小島万太郎の子として生れる。1919年(大正8年)に愛知県立第五中学校(現在の愛知県立瑞陵高等学校)卒業、1923年(大正12年)3月に神宮皇學館本科を卒業と同時に神宮文庫司書兼神宮皇學館助手に任じられる。同年12月、一年志願兵として名古屋歩兵第六連隊に入隊、終えて東京帝國大學史料編纂業務嘱託、その後同大学史料編纂官補。 小島家は代々、熱田神宮大宮司領の庄屋として村方役をつとめ、父も鉦作が熱田神宮の神職になることを期待していた。
佐々木 彦一郎(ささき ひこいちろう、1901年4月13日 … 佐々木 彦一郎(ささき ひこいちろう、1901年4月13日 - 1936年4月10日)は、日本の地理学者。民俗学・経済学・社会学的な研究を加味して人文地理学を追究した。1930年前後に目覚ましく活躍するものの、36歳で亡くなり、研究生活は10年間にとどまった。 1901年、秋田県鹿角郡花輪町(現在の鹿角市)で生まれる。幼くして父母を亡くし、祖母に育てられる。小学校卒業とともに広島県呉市に住む叔父にひきとられ、広島県立呉中学校(現在の広島県立呉三津田高等学校)で学ぶ。卒業後は第二高等学校(現在の東北大学)文科に入学した。休日ごとに仙台の周辺を歩いたという。卒業後は東京帝国大学理学部地理学科に進み、山崎直方・辻村太郎・多田文男らの指導を受ける。
安部 志雄(あべ ゆきお、1901年 <明治34年> 4月1… 安部 志雄(あべ ゆきお、1901年 <明治34年> 4月13日 - 1974年 <昭和49年> 6月24日)は、日本の経営者。大分県別府市出身。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 1926年に東京帝国大学法学部英法科を卒業。藤本ビルブローカー銀行での勤務を経て、1943年に大和証券に転じ、1948年に取締役に就任した。常務、専務、名古屋支店長を経て、1958年11月に副社長に就任し、1963年4月に社長に昇格し、1970年11月までに務めた。経済団体連合会常任理事も務めた。 1974年6月24日脳出血のために死去。73歳没。死没日付をもって正四位に叙され、勲二等旭日重光章を追贈された。
柏山 大五郎(かしわやま だいごろう、1901年4月12日 … 柏山 大五郎(かしわやま だいごろう、1901年4月12日 - 1979年1月20日)は、新潟県古志郡(現在の長岡市)出身で山科部屋に所属した大相撲力士。本名は青柳 政一。身長174cm、体重86kg。関脇まで昇進したが、現役引退後は廃業してしまった。 最盛期でも86キログラムという軽量だったので、最初は新弟子検査にも通らなかったが、増量して合格、山科部屋から1917年1月場所に初土俵を踏んだ。昇進は順調で、1921年5月場所には新十両、1922年5月に入幕した。出足を利用しての吊り技が得意であった。新入幕の場所に7勝2敗1預と健闘し、幕内上位に進出。新小結となった1924年5月場所には、横綱西ノ海と預りの熱戦を含め7勝3敗1預の好成績をあげ、翌1925年1月場所には関脇に昇進した。
鹿岡 円平(かのおか えんぺい、1901年(明治34年)4月… 鹿岡 円平(かのおか えんぺい、1901年(明治34年)4月11日 - 1944年(昭和19年)11月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 福島県出身。医師・鹿岡貫治の四男として生れる。旧制石川中学校を経て、1921年7月、海軍兵学校(49期)を卒業。皇族2名を除いた席次は172名中5番。翌年5月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を首席卒業し、「加古」分隊長、アメリカ駐在(イェール大学)、「夕霧」航海長、「夕凪」水雷長、「羽黒」分隊長などを経て、1934年7月、海軍大学校(甲種32期)を首席で卒業。 軍令部出仕、「嵯峨」艦長、軍令部第1部第2課部員、第2根拠地隊参謀、海軍省軍務局第1課局員などを歴任し東條英機首相秘書官となった。
勝野 金政(かつの きんまさ、1901年4月9日 - 198… 勝野 金政(かつの きんまさ、1901年4月9日 - 1984年1月13日)は、日本の作家・思想家である。パリ、モスクワに滞在中フランス共産党員、ソ連共産党員として活動し、大粛清に遭遇してラーゲリに収容されながら、日本への帰国を果たした。21世紀においては、大粛清に対する先駆的批判者として「日本のソルジェニーツィン」と紹介されることもある。 長野県木曽郡読書村(現南木曽町)に生まれる。島崎藤村とは旧知であり、若いころから文学に憧れた。1914年旧制愛知一中に入学。1919年早稲田大学に入学し、フランス文学、ロシア文学を専攻する。在学中の1924年(大正13年)、フランスに留学、パリ大学で学び、フランス共産党に入党した。
川並 秀雄(かわなみ ひでお、1901年〈明治34年〉4月9… 川並 秀雄(かわなみ ひでお、1901年〈明治34年〉4月9日 - 1984年〈昭和59年〉1月24日)は、日本の文学研究家。愛知県出身、関西大学卒業。 関西大学大学院でアメリカ・イギリス文学研究を納めた後、1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけてアメリカ合衆国のロチェスター大学、ケンブリッジ大学で比較文学研究を納めた。 1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)まで、アメリカの大学で客員教授として教壇に立った。帰国後は関西大学、大阪商業大学、関西学院大学の講師を歴任。日本国内外で日本文学、特に石川啄木の生涯と文学についての講義を行なった。一方で啄木や有島武郎の研究家としても知られ、資料の発掘に貢献、啄木研究の最長老ともいわれた。
岩崎 純孝(いわさき じゅんこう、1901年4月9日 - 1… 岩崎 純孝(いわさき じゅんこう、1901年4月9日 - 1971年2月27日)は、日本の伊文学者。日本ファシズム連盟創設者。 静岡県出身。かつて平塚市長を務めた作家の戸川貞雄の弟。東京外国語学校イタリア語科卒業。本名は「よしたか」(漢字は同じ)。 イタリアのファシズムの台頭に応じてファシズム文学、イタリア文学の翻訳家として活躍。1932年に日本ファシズム連盟を結成した。戦後は児童文学の再話・翻訳などを多く手掛け、ボッカッチョ「デカメロン」、ダヌンツィオ「死の勝利」などを訳した。「沙漠の秘密」「馬と少年」などの創作童話も書いた。 没後の1988年に、絶版となって久しいボンテンペルリ『わが夢の女』が、ちくま文庫に収められ話題となった(『わが夢の女』は短編集であり、そのうちの1篇「太陽の中の女」が、『ちくま文学の森4 おかしい話』にも所収、新版・ちくま文庫、2010年)。
清水 博春(しみず ひろはる、1901年〈明治34年〉4月8… 清水 博春(しみず ひろはる、1901年〈明治34年〉4月8日 - 1931年〈昭和6年〉3月1日)は、日本の戦前の華族。男爵、備中清水氏。 1901年(明治34年)4月、公爵伊藤博邦の二男として生まれる。男爵清水資治の養子となり、1923年(大正12年)に家督を相続する。1926年(大正15年)に法政大学法学部を卒業し、王子製紙に勤める。 1931年(昭和6年)2月28日に神奈川県逗子町の自宅から家出して行方不明となり、翌3月1日に愛知県名古屋市の熱田神宮神域の瓢箪池畔の古木で縊死しているところを発見された。また、同日には夫人と弟の伊藤博通宛てに遺書が郵送されていた。遺体は一旦身元不明として仮埋葬されていたが、後に家族が引き取って火葬し、遺骨は東京に持ち帰られた。
大門 義雄(だいもん よしお、1901年 <明治34年> 4… 大門 義雄(だいもん よしお、1901年 <明治34年> 4月8日 - 1975年 <昭和50年> 5月1日)は、昭和時代の労働運動家。全国一般労働組合委員長。位階は従六位。 富山県西砺波郡戸出町(現高岡市)生まれ。旧姓は安田。幼少時に大門家の養子になった。法政大学専門部中退。1926年上京、1927年東京瓦斯会社(現東京ガス)に入社、東京瓦斯工組合に加盟。1931年東京瓦斯工組合教育出版部長。争議を指導してたびたび検束された。1935年東京瓦斯工組合書記長、1938年執行委員長。1941年東京瓦斯会社を退社、1942年日本曹達勤労部に入社、1942年化学工業統制会に勤務。この間、1929年新労農党創立に参加、1931年全国労農大衆党、1932年社会大衆党の結党で中央委員。
木村東介(きむら とうすけ、1901年4月8日 - 1992… 木村東介(きむら とうすけ、1901年4月8日 - 1992年3月11日)は美術商。本名は文雄。山形県米沢市出身。建設大臣などを務めた木村武雄は弟。 山形県議会議員を務めた木村忠三の長男として生まれる。 米沢商業学校を中退して上京。やくざな生活や院外団暮らしを続け、一時は憲政公論社に入社。乱闘で片腕を失う。法廷で出会った裁判官の人格と気骨に打たれ改心する。 柳宗悦の指導を受け、1936年、東京・湯島天神下に羽黒洞を創立。肉筆浮世絵、大津絵、泥絵などの民族美術を取り上げる。1960年、上野池之端に不忍画廊(しのばずがろう)を開く(2012年日本橋に移転)。 放浪の画家である長谷川利行の絵画、米沢出身の東洋思想家宮島詠士の書を世に紹介した。
丸尾 長顕(まるお ちょうけん、1901年4月7日 - 19… 丸尾 長顕(まるお ちょうけん、1901年4月7日 - 1986年2月28日)は、作家、演出家。 大阪府生まれ。本名・一ノ木長顕(ながあき)。1918年(大正7年)、関西甲種商業学校(現・関西大学第一高等学校)を卒業後、1922年、旧制・関西学院高等部商科(現・関西学院大学)卒業。 1928年、「芦屋夫人」が「週刊朝日」の懸賞に入選、モダニスムの代表作といわれる。宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の文芸部に所属し、同歌劇団機関誌「歌劇」の編集長も務めた。1933年、新妻莞に誘われて宝塚から大毎に社員として入り学芸部に配属されたが城戸事件により短期間で退社。この年に上京し「婦人画報」編集長となる。戦時中、陸軍省情報部長嘱託となったため、戦後一時公職追放。
蒲生礼一(蒲生禮一、がもう れいいち、1901年4月7日 -… 蒲生礼一(蒲生禮一、がもう れいいち、1901年4月7日 - 1977年8月12日)は、日本のイスラム学者。東京外国語大学名誉教授。 1901年、島根県生まれ。東京外国語学校を卒業。1925年、東京外国語学校講師となった。その一方で、回教圏研究所でも研究活動を続けた。 太平洋戦争終結後の1950年、東京外国語大学教授に就任。1954年からは東京大学文学部講師を兼任した。1964年に東京外国語大学を定年退官し、名誉教授となった。
松波 直秀(まつなみ なおひで、1901年4月5日 - 20… 松波 直秀(まつなみ なおひで、1901年4月5日 - 2000年6月14日)は、日本の経営者。荏原製作所社長を務めた。東京都出身。 1926年に東京帝国大学工学部機械工科を卒業し、同年に荏原製作所に入社。1940年6月に取締役に就任し、1947年8月に常務、1956年12月に専務を経て、1965年1月に副社長に就任し、1970年12月には社長に昇格。1976年4月に会長を経て、1978年7月には相談役に就任。 1972年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年6月14日老衰のために死去。99歳没。
尾見 半左右(おみ はんぞう、1901年4月5日 - 198… 尾見 半左右(おみ はんぞう、1901年4月5日 - 1985年1月30日)は、日本の通信技術者。富士通の常務取締役、電気通信学会及び情報処理学会の会長などを歴任。 茨城県真壁郡明野に生誕。1923年、東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。南満州鉄道の鉄道研究所に入社し、電気通信の研究に従事する。1936年、富士通信機製造株式会社に入社。情報・通信の技術開発・研究に従事し、同社の取締役、常務取締役、富士通研究所の代表取締役社長などを歴任。その他、鉄道通信協会の副会長、電気通信学会会長、情報処理学会会長、神戸工業株式会社の取締役社長、富士電機化学株式会社の代表取締役社長なども務めた。 情報・通信分野で技術発展・産業振興に国内外で広く尽力し、国産大型電子計算機の開発にとくに貢献した。
井上 隆治(いのうえ たかはる、1901年4月4日 - 没年… 井上 隆治(いのうえ たかはる、1901年4月4日 - 没年不明)は、日本の実業家。丸石製薬社長。江崎グリコ取締役。妹の芳江は江崎グリコ創業者江崎利一の長男誠一に嫁いだ。 大阪府出身。1925年3月、東京帝国大学医学部薬学科卒業、薬学士。丸石製薬に入り、1942年、社長に就任。宗教は真宗。趣味は読書、観劇。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
中野 武雄(なかの たけお、1901年(明治34年)4月3日… 中野 武雄(なかの たけお、1901年(明治34年)4月3日 - 1969年(昭和44年)6月28日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 京都府出身。1929年(昭和4年)早稲田大学英法科を卒業し、さらに同大学院で学んだ。その後、醤油醸造、食料品製造業を営む。 京都市会議員、同参事会員となる。京阪伏見桃山農業会連合会長、京都市開拓協会長、鳳凰醸造監査役、日本食料専務取締役、伏見小運搬取締役社長、近畿砂利社長、京都伏見農業協同組合連合会顧問などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に京都府選挙区から日本自由党公認で出馬して初当選。以後、京都府第2区から出馬して第25回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続4期在任した。
中村 茂(なかむら しげる、明治34年(1901年)4月2日… 中村 茂(なかむら しげる、明治34年(1901年)4月2日 - 昭和53年(1978年)2月6日)は、NHKのアナウンサー。 東京府出身。1923年東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部卒業、日蘭貿易入社。NHKラジオが放送開始された1925年にNHK入局。二・二六事件で「兵に告ぐ」を担当。NHK業務局告知課長として「淡々調アナウンス」を主導。 NHK国際局亜州部長、理事兼札幌中央放送局長を経て、1950年NHK放送文化研究所所長。1956年に退職後、電波タイムス社社長。1962年藍綬褒章受章。1971年勲四等瑞宝章受章(放送事業功労)。1978年に老衰のため死去し、従五位に叙された。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。
井汲 卓一(いくみ たくいち、1901年4月1日 - 199… 井汲 卓一(いくみ たくいち、1901年4月1日 - 1995年7月25日)は、日本の経済学者、東京経済大学学長。 1901年、滋賀県で生まれた。旧制東京府立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に進学。しかし東京帝国大学文学部に転学して卒業。 卒業後は、富山高等学校講師となり赴任。翌1925年に教授となったが、1927年に京大事件に連座したとして富山高等学校を辞職した。その後、同年中に日本大学講師となって、1929年まで在職した。 1928年9月、産業労働調査所の所員となった。1931年4月に検挙されたが保釈され、その後岩波書店における『日本資本主義発達史講座』の編集作業に参画し、羽仁五郎、大塚金之助と知り合った。
狩野 敏(かの びん、1901年(明治34年)4月1日 - … 狩野 敏(かの びん、1901年(明治34年)4月1日 - 1981年(昭和56年)10月8日)は、日本の右翼活動家。元拓殖大学理事長。狩野を「かのう」と読むものもある。 1919年(大正8年)、静岡県立静岡中学校卒業。1920年(大正9年)、拓殖大学入学。1922年(大正11年)10月、「魂の会」設立。1924年(大正13年)3月、拓殖大学支那語科卒業。同年、日本新聞入社。1925年(大正14年)、静岡市でカフェー経営(〜1930年(昭和5年)4月)。1925年(大正14年)、静岡聖刃社結成。 1930年(昭和5年)、大川周明の思想に共感し、行地社本部で専任事務、機関誌月刊「日本」の編集発行にあたり、その腹心的役割を果たす。
長部 謹吾(おさべ きんご、1901年4月1日 - 1991… 長部 謹吾(おさべ きんご、1901年4月1日 - 1991年12月8日)は、新潟県出身の検察官。最高検察庁次長検事、最高裁判所判事を務めた。小説家・黒井千次(本名・長部舜二郎)は次男。孫にフジテレビプロデューサーの長部聡介。 1925年(大正14年)3月に東京帝国大学法学部独法科を卒業。いったん日本興業銀行に入ったが「性に合わない」と2ヶ月で退職した。1926年(大正15年)4月に司法官試補、1927年(昭和2年)12月に検事となり、大審院検事などを務め、1951年(昭和26年)2月に長野地検検事正となる。 その後、東京高検次席検事となり、次いで最高裁検事、高松・広島両高検検事長を務める。東京高検次席検事は造船疑獄にぶつかったが胃潰瘍の手術のため病床にいて殆どタッチしなかった。
伊藤 謹二(いとう きんじ、1901年(明治34年)4月 -… 伊藤 謹二(いとう きんじ、1901年(明治34年)4月 - 1968年(昭和43年)9月3日)は、日本の内務・厚生官僚。官選石川県知事、厚生次官。
武若 時一郎(たけわか ときいちろう、1901年(明治34年… 武若 時一郎(たけわか ときいちろう、1901年(明治34年)4月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。最後の官選広島県知事。 京都府出身。武若喜太の長男として生まれた。第八高等学校を卒業。1925年、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業。内務省に入省し東京府属となる。1926年12月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、京都府社会課勤務、内務属・土木局勤務、内務事務官、内閣紀元二千六百年祝典事務局書記官、内閣情報部書記官、神祇院書記官兼秘書官、造神宮主事、外務書記官、近畿地方行政事務局次長などを歴任。 楠瀬常猪が知事選挙に立候補するため広島県知事を辞任したことを受け、近畿地方行政事務局次長であった武若が事実上の選挙管理知事として任命され、1947年3月14日に40代官選広島県知事に就任。
野呂 栄太郎(のろ えいたろう、旧字体: 野呂 榮太郞、19… 野呂 栄太郎(のろ えいたろう、旧字体: 野呂 榮太郞、1900年〈明治33年〉4月30日 - 1934年〈昭和9年〉2月19日)は、日本の在野のマルクス経済学者で、戦前の非合法政党時代の日本共産党の理論的指導者の一人であるとともに、幹部(委員長)として党を指導するなど、実践活動にも関わった。 北海道長沼町に生まれ育ち、旧制北海中学(現北海高等学校)から慶應義塾大学部理財科(現在の経済学部)に進む。少年時代は野球のスコアラーを勤めたが、小学2年で関節炎のため片足を切断した。彼が北海中学、慶應義塾大学部に入学したのは、片足切断という障害のために公立中学・官立高校には入学を認められなかったからである。
石中 象治(いしなか しょうじ、1900年4月28日 - 1… 石中 象治(いしなか しょうじ、1900年4月28日 - 1981年11月12日)は、ドイツ文学者、九州大学名誉教授。 熊本県生まれ。東京帝国大学独文科卒、戦後九州大学教授、1964年定年退官、名誉教授、千葉商科大学教授。
小野 宮吉(おの みやきち、1900年4月27日 - 193… 小野 宮吉(おの みやきち、1900年4月27日 - 1936年11月20日)は、日本の俳優、演出家、脚本家。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。 この項目は、共産主義に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/プロジェクト 政治)。
生悦住 求馬(いけずみ もとめ、1900年(明治33年)4月… 生悦住 求馬(いけずみ もとめ、1900年(明治33年)4月26日 - 1993年(平成5年)12月13日 )は、日本の官僚、政治家。 1900年4月26日、三重県久居市に生まれる。1919年、三重一中から第八高等学校文科甲類入学。同級に憲法学者穂積八束の息子の穂積秀二郎がいた。1921年、東京帝国大学英法科入学。穂積八束宅に二年間下宿する。 1924年、高等文官試験に通る。大学の成績は英法科首席。卒業後、第一希望の内務省入省。辞令は「内務省属、六級俸月七十五円を給す」。警保局属。直属の上官は新聞検閲主任事務官であった唐沢俊樹。初めて検閲した本は荒畑寒村『赤露行』。九月十七日発売頒布禁止処分。 1925年、高等官任官。
辻 利平(つじ りへい、1900年4月22日 - 1988年… 辻 利平(つじ りへい、1900年4月22日 - 1988年4月15日)は、日本の洋画家。 明治33年(1900年)、長崎県北松浦郡星鹿村(現・松浦市星鹿町)生まれ。大正11年(1922年)長崎師範学校卒業後に教師となる。その後、大正14年(1925年)に東京美術学校図画師範科に入学、昭和3年(1928年)卒業。大阪で大谷学園に勤務しながら斎藤与里に師事した。 昭和8年(1933年)に第1回東光会展でT氏奨励賞を受賞、第14回帝展で入選。昭和15年(1940年)に東光会会員となる。昭和41年(1966年)に第9回日展で菊華賞受賞、昭和45年(1970年)より日展会員。昭和41年(1966年)から夙川学院短期大学造形美術科主任教授、昭和48年(1973年)名誉教授。
市来 吉至(いちき よしじ、1900年 <明治33年> 4月… 市来 吉至(いちき よしじ、1900年 <明治33年> 4月21日 - 1971年 <昭和46年> 2月28日)は、昭和時代の台湾総督府官僚、陸軍司政長官。位階は従四位。 市来半次郎の二男として、鹿児島県姶良郡に生まれる。台北中学から第七高等学校造士館を経て、1925年(大正14年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、台湾銀行に入行する。1929年(昭和4年)10月、高等試験行政科に合格。以後、台湾総督府交通局書記、地方理事官・高雄州岡山郡守、高雄台中各州内務部勧業課長、総督府事務官・鉄道部監督課長、鉄道部経理課長兼庶務課長兼交通局総務課長、鉄道部勤務などを経て、1942年(昭和17年)6月、香港占領地総督部民事部長に就任した。
谷川 貞夫(たにがわ さだお、1900年4月20日 - 19… 谷川 貞夫(たにがわ さだお、1900年4月20日 - 1989年12月22日)は、日本の社会事業家。 神戸市生まれ。1930年東京帝国大学文学部哲学科中退。1962年まで愛隣団セツルメント指導員、1925-48年愛隣中学校校長、1937-61年吾嬬幼稚園園長、1933-47年愛隣小学校校長、1946-79年日本社会事業大学教授。1956-61年西南学院大学教授兼任、1967-78年常磐学園短期大学教授兼任。愛隣館セツルメント総主事、社会事業研究所長。1952-1973年社会福祉法人愛の友協会(千葉県長生郡)初代理事長として、障がい者福祉に尽力。
富田 直之(とみた なおゆき、1900年 <明治33年> 4… 富田 直之(とみた なおゆき、1900年 <明治33年> 4月20日 - 1987年 <昭和62年> 10月31日)は、日本の政治家。王子区会議員(2期)、東京市会議員(1期)、東京都議会議員(8期)、第23代都議会議長を歴任した。位階は正五位。戸籍名は冨田 直之。 1900年4月20日、東京府(現東京都)に生まれる。1930年に東京帝国大学文学部(現東京大学文学部)卒業。1936年から王子区会議員を2期11年務めた。また、1942年6月15日から1943年6月30日まで、東京市会議員を1期務めた。1951年の東京都議会議員選挙に北区選挙区から立候補して、初当選する。その後、都議会自民党政調会長(1957年から1958年)、都議会自民党幹事長(1961年から1962年)を歴任した。
岡田 包義(おかだ かねよし、1900年 <明治33年> 4… 岡田 包義(おかだ かねよし、1900年 <明治33年> 4月19日 - 2000年 <平成12年> 7月6日)は、日本の内務官僚。徳島県知事、北海道庁長官。位階は正四位。 岡山県岡山市出身。岡田吟平の五男として生まれる。第六高等学校を経て、1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、内務省に入り東京府属となる。以後、社会局勤務、茨城県事務官、静岡県経済部長、和歌山県総務部長、長崎県総務部長、福岡県書記官・総務部長、同内政部長などを歴任。 1945年6月、徳島県知事に就任。1947年2月、官選最後の北海道庁長官に就任し、同年4月に退任。1950年6月、北海道開発庁が発足すると、初代次長(事務次官)に就任し、1953年1月に退官した。
椿 八郎(つばき はちろう、1900年4月18日 - 198… 椿 八郎(つばき はちろう、1900年4月18日 - 1985年1月27日)は、日本の作家。眼科医。本名は藤森 章。 長野県東筑摩郡松本町(現松本市)生まれ。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て、慶應義塾大学医学部卒業後、1925年同大眼科教室助手となった。その後は満鉄長春医院眼科医長、満鉄撫順医院眼科医長を歴任。 1946年に引き揚げ、東京電力病院眼科医長などを歴任した。 「テノン氏嚢の研究」「ミュッレル氏筋の研究」など眼科研究論文を発表。 大学在学中、本名で正木不如丘主宰の同人誌『脈』に小品を発表。1949年『宝石』に「カメレオン黄金虫」を発表し推理小説作家として登場した。1951年に『宝石』に発表した「扉」が翌年の第5回探偵作家クラブ賞候補作となる。
衣笠 十四三(きぬがさ としぞう、本名小亀 壽三、1900年… 衣笠 十四三(きぬがさ としぞう、本名小亀 壽三、1900年4月17日 - 1976年7月30日)は、日本の映画監督である。おなじく映画監督の衣笠貞之助は実兄である。 1900年(明治33年)4月17日、三重県亀山町(現・亀山市)に生まれる。20歳前後のころは富岡正らと旅芝居をしていた。またそのころ、東京の日活向島撮影所で富岡に溝口健二を紹介されている。 俳優、舞台演出を経て、1933年(昭和8年)、新興キネマ京都撮影所に入社、翌1934年、日活太秦撮影所に移籍、1935年には監督昇進、片岡千恵蔵プロダクション製作の『初祝鼠小僧』で監督としてデビュー、同作は新興キネマの配給で同年12月31日、電気館や新宿大東京などで公開された。
中原与茂九郎(なかはら よもくろう、正字は中原與茂九郎、19… 中原与茂九郎(なかはら よもくろう、正字は中原與茂九郎、1900年〈明治33年〉4月16日 - 1988年〈昭和63年〉3月27日)は、日本の西洋史学者、アッシリア学者、京都大学名誉教授。日本における古代メソポタミア研究の先駆けの一人で、特にシュメール行政・経済文書の研究で優れた業績を残した。 出身は岡山県倉敷市浅口郡西阿知町(現・倉敷市西阿知地区)。1919年(大正8年)に岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)、1922年(大正11年)に第六高等学校、1925年(大正14年)3月に京都帝国大学文学部(西洋史学専攻)を卒業した。同大文学部助手ののち、翌1926年(大正15年)3月、新設の広島高等学校教授に任命された。
山本 丘人(やまもと きゅうじん、1900年(明治33年)4… 山本 丘人(やまもと きゅうじん、1900年(明治33年)4月15日 - 1986年(昭和61年)2月10日)は、日本画家。文化勲章受章者。本名は山本 正義(やまもと まさよし)。 東京市麻布(現在の東京都港区)に生まれる。府立三中、府立工芸を経て、1924年(大正13年)東京美術学校卒業。その後松岡映丘に師事。 1936年(昭和11年)、文展に出品した『海の微風』が選奨(文部大臣賞に次ぐ賞)を受賞 1944年(昭和19年)東京芸術大学助教授、1947年(昭和22年)女子美術専門学校(現女子美術大学)教授に就任、多数の後進を育てる。1977年(昭和52年)文化勲章受章、文化功労者顕彰。 「到春」 1942年、彩色・絹本・軸(1面)58.0cm×72.5cm「冬岳」 1953年、絹本・彩色・額(1面)55.4cm×71.5cm