秋山 武三郎(あきやま たけさぶろう、明治6年(1873年)… 秋山 武三郎(あきやま たけさぶろう、明治6年(1873年)5月8日 - 昭和13年(1938年)3月6日)は、電気通信技術の専門家。勲五等(明治39年(1906年))。学資を稼ぎながら苦学して大成した後もつね子夫人とともに勤倹に努め、昭和11年(1936年)「郷里の教育基金に」と、米沢市に20万円を寄付した(当時の米沢市年間予算が39万円)。苦学力行の士として知られる。 置賜県米沢館山口町(現山形県米沢市)にて米沢藩御細工組(中士階級)秋山秀之助の長男として生まる。今村信次郎海軍中将は従弟、妻つねは岡田文次の義妹である。明治19年(1886年)米沢中学校入学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、山形尋常中学校(現山形県立山形東高等学校)、第二高等中学校を経て、明治32年(1899年)東京帝国大学工科大学卒業。
美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年〈明治6年〉5月7… 美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年〈明治6年〉5月7日 - 1948年〈昭和23年〉5月23日)は、日本の法学者、憲法学者、政治家。東京帝国大学名誉教授。天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られる。昭和期には天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職した。第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)には勲一等旭日大綬章を受章。一木喜徳郎門下。弟子に清宮四郎、宮沢俊義、柳瀬良幹、田中二郎、鵜飼信成、田上穣治など。 1873年(明治6年)5月7日、兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)の漢方医・美濃部秀芳(美濃部秀軒の子。)の次男として生まれた。高砂小学校、小野中学校(現:兵庫県立小野高校)、第一高等中学校を経て、1894年(明治27年)、帝国大学法科大学政治学科(現・東京大学法学部)に進み、天皇機関説を主唱した一木喜徳郎に師事する。
桝田 八次郎(ますだ やじろう、1873年〈明治6年〉5月7… 桝田 八次郎(ますだ やじろう、1873年〈明治6年〉5月7日 - 没年不明)は、日本の商人(呉服商)、鳥取市収入役。旧姓・池原。 鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市)、池原茂兵衛の二男として生まれる。小学校中等科卒業後農業に従事する。1895年に八村八次郎の養子となり、同年桝田の絶家再興をおこない、元魚町1丁目で呉服商を経営する。一時は智頭街道筋で呉服商を営む。 1900年に旧名・房吉を八次郎と改名し、京都呉服同業組合繁盛会地方幹事を嘱託され、1912年に廃業の居を東町に移し、1915年8月に鳥取市収入役となる。 1934年、自治功労者表彰を受ける。 1922年に刊行された『八頭鳥取地価表 弐百円以上』によると、桝田八次郎の地価所有高は「839円40銭」である。
真田 秀吉(さなだ ひできち、1873年(明治6年)5月5日… 真田 秀吉(さなだ ひできち、1873年(明治6年)5月5日 - 1960年(昭和35年)1月20日)は、明治時代後期から昭和時代の土木工学者、内務官僚。 広島県に生まれる。1898年(明治31年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に出仕する。第五区(大阪)土木監督署に入り、淀川改修に1911年(明治44年)まで従事した。淀川改修では主任技師として大規模な機械化施工を推し進めた。同年東京土木出張所に転じ、1921年(大正10年)まで利根川第三期改修工事に従事。淀川改修で確立した施工技術を応用してパナマ運河を凌ぐ大土木工事に尽力した。この間、1914年(大正3年)に欧米に出張した。 同年、東京土木出張所工務部長兼庶務部長になり、関東大震災後には管内の河川構造物の復旧工事を担当した。
武村 貞一郎(たけむら ていいちろう、1873年(明治6年)… 武村 貞一郎(たけむら ていいちろう、1873年(明治6年)5月4日 - 1936年(昭和11年)8月17日) は、日本の実業家。元東神倉庫会長。東洋レーヨン発起人。 東京府士族。1893年に高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三井物産でドイツ帝国ハンブルクの開拓にあたり、三井物産大阪支店長、三井物産神戸支店長、三井物産機械部長、三井物産取締役、東洋棉花取締役、日本レイヨン取締役などを務めた。1918年には安川雄之助、南条金雄とともに三井物産常務取締役に就任し、財務を統括した。1925年東洋レーヨン発起人。1935年から東神倉庫会長を務めたが、翌年死去した。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
飯田 延太郎(いいだ のぶたろう、1873年〈明治6年〉5月… 飯田 延太郎(いいだ のぶたろう、1873年〈明治6年〉5月2日 - 没年不詳)は、日本の実業家。 飯田久助の長男として、福岡県穂波郡、のちの嘉穂郡桂川村(現桂川町)で生まれた。1896年福岡県立尋常中学修猷館を経て、1898年中央大学を卒業。 1899年弁護士試験に合格し、東京地方裁判所所属弁護士を経て、独立開業する。 1910年弁護士を廃業して玄洋社に入り、鉱山業に従事。1911年北海道炭山を三井鉱山に、次いで1915年美唄炭山を三菱合資に売却して、巨利を得て実業界に進出。南満洲太興を設立して代表社員となり、天図軽便鉄路、図們鉄道、弓張嶺鉄山、天宝山銀銅鉱などの事業を経営。新登川炭鉱社長、神国生命保険社長、有隣生命保険社長、萬朝報社長なども務めた。
熊澤 泰禅(くまざわ たいぜん、1873年5月1日 - 19… 熊澤 泰禅(くまざわ たいぜん、1873年5月1日 - 1968年1月7日)は、日本の仏教学者、僧侶。曹洞宗大学林(現駒澤大学)教授。曹洞宗總持寺独住16世貫首、永平寺73世貫首。道号は祖学。諡号は大光円心禅師。 明治6年愛知県丹羽郡丹陽村(現一宮市)生まれ。1880年郷里の文殊院石原泰豊師について出家、1886年滋賀県慈眼院諏訪周禅師につき得度、1891年同師より嗣法。1892年永平寺に転じる。1901年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。1902年宗門内地留学生となり、京都浄土宗専門学院(現学校法人佛教教育学園)に入り、唯識学を研究した。1905年師席を継ぎ慈眼院住職、1908年母校の曹洞宗大学林教授に就任。
四代目 嵐 芳三郎(よだいめ あらし よしさぶろう、明治5年… 四代目 嵐 芳三郎(よだいめ あらし よしさぶろう、明治5年4月25日(1872年5月31日)- 大正元年(1912年)10月11日)は、明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は豐島屋。俳名に橘丈。本名は寺田 市太郎(てらだ いちたろう)。 二代目嵐璃珏の孫として大阪島之内に生まれる。明治12年 (1879) 三代目嵐芳三郎(後の二代目市川権十郎)の門人となり、祖父がかつて名乗った二代目嵐市太郎を名乗る。四代目嵐芳三郎を襲名後、明治37年 (1904) 頃より東京の舞台にも出るようになり、宮戸座などの小芝居で活躍する。上方色濃厚な技巧派の芸風で、『夏祭浪花鑑』の團七、『桜鍔恨鮫鞘』の八郎兵衛などの上方世話狂言や、『伽羅先代萩』の政岡などの丸本時代物に秀でていた。
岡井 慎吾(旧字体:岡井愼吾)(おかい しんご、1872年〈… 岡井 慎吾(旧字体:岡井愼吾)(おかい しんご、1872年〈明治5年〉5月29日- 1945年〈昭和20年〉2月13日)は、日本の教育者、漢文学者。柿堂と号した。研究論文の『玉篇の研究』で知られている。 1872年に福井県丹生郡立待村(現・鯖江市)の地主の家に生まれる。 父親を早くに亡くしたため母親の元に育ち、福井師範学校を卒業後、福井中学校で教員心得となる。 1898年(明治31年)、教員検定試験で国語、漢文に合格し愛媛県西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)に転任。 旧制石川県第二中学校(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)教諭、石川県師範学校訓導を歴任、広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属中学校・高等学校)に招聘されたのち、1915年(大正4年)に朝鮮平壌中学に赴任した。
紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月2… 紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月22日) - 1936年(昭和11年)4月15日)は、日本の美術学者、美術評論家、早稲田大学講師・教授、本願寺文学寮講師、女子美術学校講師、日本美術学校校長。号は星峰(星峯)。 1872年5月28日(明治5年4月22日)、元津軽藩お抱えの能楽師(喜多流)である紀淑真の子として、東京市本所区(現・東京都墨田区)に生まれる。 東京専門学校普通科(1888年9月入学、1890年7年卒業)、東京専門学校文学科(1890年9月入学、1893年7月卒業)を経て、1893年(明治26年)9月から本願寺文学寮講師となり、国文学・英文学を担当する。1896年(明治29年)4月から早稲田尋常中学校教員、同年9月から東京専門学校講師となる。
秋保 安治(あきほ やすじ、明治5年4月21日(1872年5… 秋保 安治(あきほ やすじ、明治5年4月21日(1872年5月27日) - 昭和17年(1942年)1月9日)は、日本の教育者。東京高等工業学校(のちの東京科学大学)教授兼東京府技師や、文部省督学官、東京科学博物館(のちの国立科学博物館)館長等を務めた。 宮城県仙台市で旧仙台藩士秋保住房の四男として生まれる。宮城県師範学校(のちの宮城教育大学)卒業後、1896年(明治29年)、東京高等工業学校(のちの東京科学大学)附設工業教員養成所木工科を卒業。仙台市徒弟実業学校(のちの仙台市立仙台工業高等学校)教諭を経て、1899年(明治32年)同校長。1900年(明治33年)岩手県実業学校(のちの岩手県立盛岡工業高等学校)教諭。
仙石 政敬(せんごく まさゆき、1872年5月26日〈明治5… 仙石 政敬(せんごく まさゆき、1872年5月26日〈明治5年4月20日〉- 1935年〈昭和10年〉9月16日)は、明治時代から昭和初期にかけての官僚・政治家。子爵。 1872年(明治5年)、旧出石藩主・仙石政固の長男として生まれる。1891年(明治24年)7月、学習院高等学科を卒業。1893年(明治26年)、久邇宮朝彦親王の六女・素子女王と結婚した。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科を卒業。1899年(明治32年)11月、高等文官試験に合格。その後、一時志願兵として近衛師団に入営したが、1900年(明治33年)、足疾のために現役を免除された。 宮内省諸陵頭などを務めたのち、1923年(大正12年)賞勲局総裁、1925年(大正14年)宗秩寮総裁を歴任した。
北村 季晴(きたむら すえはる、1872年5月22日(明治5… 北村 季晴(きたむら すえはる、1872年5月22日(明治5年4月16日) - 1931年(昭和6年)6月17日)は、明治・大正期日本の作曲家、作詞家、演出家。東京府銀座出身。 明治5年4月16日(西暦1872年5月22日)、東京府銀座(東京市京橋区を経て現在の東京都中央区)に漢学者で14代将軍・徳川家茂の侍講を務めた北村季林・鉞夫妻の一子として生まれた。江戸時代前期の国文学者・北村季吟は7代前の先祖で、季晴は季吟から見て仍孫(じょうそん)に当たる。 父と親交のあったジェームス・カーティス・ヘボンが開設したヘボン塾の後身であるジョン・C・バラの築地大学校で学ぶ。その後、ヘボンが開校した明治学院に入学し、同級生となった島崎藤村と親交を結ぶが季晴に音楽の才能を見出したヘボンの薦めもあり学院を中退。
加藤 小太郎(かとう こたろう、明治5年4月16日(1872… 加藤 小太郎(かとう こたろう、明治5年4月16日(1872年5月22日) – 昭和10年(1935年)4月27日)は、日本の日本の政治家・衆議院議員(立憲同志会→憲政会)。京都市助役。実業家。旧名太郎松。族籍は新潟県士族。 新潟県北蒲原郡新発田町(現在の新発田市)出身。新潟県士族・先代小太郎の長男。1898年(明治31年)、同志社大学部政治科を卒業。1902年(明治35年)まで滋賀県立商業学校で教壇に立った。その後、国民新聞社大阪支局長、『東京日日新聞』を発行する日報社の業務担当社員・理事を歴任した。1909年(明治42年)、京都市助役に就任。1914年(大正4年)までの在任中、京都市三大事業を手掛け、また京都商品陳列所所長、京都市盲唖院院長、京都市水道事務所所長、京都市立第一商業学校校長などを兼ねた。
市来 乙彦(いちき おとひこ、正体字:市來 乙彥、明治5年壬… 市来 乙彦(いちき おとひこ、正体字:市來 乙彥、明治5年壬申4月13日〈1872年5月19日〉 - 昭和29年〈1954年〉2月19日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。大蔵次官、大蔵大臣(加藤友三郎内閣)、日本銀行総裁、東京市長、貴族院議員(勅選)、参議院議員(1期3年)などを歴任した。 旧薩摩藩士の三男として、鹿児島県鹿児島市春日小路町に生まれる。地元の中学造士館を卒えて、1888年(明治21年)鹿児島高等中学造士館予科に進むが、家計の都合で中退。1889年(明治22年)に上京し、田尻稲次郎の書生となって苦学する。1890年(明治23年)10月に第一高等中学校予科へ編入学し、翌年本科へ進む。
西風 重遠(にしかぜ しげとお、1872年 5月13日(明治… 西風 重遠(にしかぜ しげとお、1872年 5月13日(明治5年4月7日)– 1942年(昭和17年)11月30日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・伊之輔。 和歌山県那賀郡、のちの粉河村(粉河町を経て現紀の川市)で西風清五郎の長男として生まれた。1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1916年(大正5年)5月に家督を相続した。 大学卒業後、大阪商船に入社し、長崎、台湾、宇品、朝鮮の各支店長を歴任。1909年(明治42年)に退社して和歌山市で回漕業を営んだ。その他、富島組取締役、武庫酒造取締役、摂陽商船取締役、大阪商運監査役などを務めた。 1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙で和歌山県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
相良 安之助(さがら やすのすけ、1872年5月13日(明治… 相良 安之助(さがら やすのすけ、1872年5月13日(明治5年4月7日) - 1948年(昭和23年)6月8日)は、明治から昭和時代前期の政治家・実業家。貴族院多額納税者議員。 鹿児島県鹿児島市柳町生まれ。相良笑蔵の長男で、1905年(明治38年)9月、家督を相続する。生家は酒造業を営む。明治法律学校を卒業後、1897年(明治30年)鹿児島市柳町衛生組合組長、県衛生組合連合会会長、鹿児島市会議員、同市商業会議所議員、鹿児島県会議員、鹿児島肥料、鹿児島銀行、鹿児島朝日新聞各取締役などを歴任した。 1931年(昭和6年)鹿児島県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年7月4日から翌年の9月28日まで在任した。
青木 昌吉(あおき しょうきち、明治5年4月5日(1872年… 青木 昌吉(あおき しょうきち、明治5年4月5日(1872年5月11日) - 昭和14年(1939年)3月2日)は、日本のドイツ語学者。日本ゲーテ協会初代会長。 東京府南多摩郡鶴川村大蔵(現・東京都町田市)出身。旧姓は中溝。神奈川県議会議長の中溝昌弘(東京都知事の鈴木俊一の曾祖父)の長男にあたる。衆院議員で京浜電鉄社長の青木正太郎の娘婿。 小学校には行かず、寺小屋に学び、医者になるつもりで私塾で独語を一年半学んだのち、第一高等中学校で6年間学ぶ。東京帝国大学文科大学独逸文学科卒業後、大学院に進んだが翌年退学し、熊本の第五高等学校教授となる。当時の校長は中川元、教員仲間に夏目漱石、上田整次、児島献吉郎、小島伊佐美、田丸卓郎らがおり、多大な影響を受けた。
藤戸 達吾(ふじと たつご、1872年5月10日(明治5年4… 藤戸 達吾(ふじと たつご、1872年5月10日(明治5年4月4日) – 1920年(大正9年)7月27日)は、日本の新聞人。地方政治家。 1872年(明治5年)[西暦年要検証]4月4日高知県安芸郡土居村(現在の安芸市土居)に堀内弁次の子に生まれた。1895年(明治28年)東京専門学校(現在の早稲田大学)英文科卒業。黒岩涙香の万朝報社に入社。 安芸の瓦製造業藤戸家の養子となり帰郷。土陽新聞に入社。以後松月の号で南海文壇に重きをなした。1905年(明治38年)高知新聞創設に参加し、文筆を持って活動する。岡本社長亡き後は野中楠吉、杉駸三郎とともに新聞社の元老格となる。 1919年(大正8年)県会議員に当選した。
和田 潤(わだ じゅん、1872年5月8日(明治5年4月2日… 和田 潤(わだ じゅん、1872年5月8日(明治5年4月2日)- 1947年(昭和22年)7月30日)は日本の内務官僚、政治家。沖縄県知事、郡山市長、松阪市長。 1872年(明治5年)4月2日、高知県香美郡に生まれる。1899年(明治32年)に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業し、1901年(明治34年)に文官高等試験に合格する。 内務省に入省。警視庁警部。北海道庁警視、香川県事務官・第四部長、島根県事務官・警察部長、佐賀県事務官・警察部長、大分県・鳥取県・沖縄県内務部長を経て、1921年(大正10年)に沖縄県知事に就任し、1923年(大正13年)に退官する。 1929年(昭和4年)に福島県郡山市長(-1937年(昭和12年))、1937年(昭和12年)に三重県松阪市長(-1941年(昭和16年))を務める。
田崎 慎治(たざき しんじ、1872年5月6日(明治5年3月… 田崎 慎治(たざき しんじ、1872年5月6日(明治5年3月29日) - 1954年(昭和29年)4月3日)は、日本の商学者。村瀬春雄門下で、専門は海運論、海上保険論。神戸大学名誉教授、神戸商業大学(現神戸大学)初代学長。パルモア学院学院長(1944年-1947年)。正三位勲一等。 長崎県西彼杵郡三重村(現長崎市三重)出身。田崎慶治の三男、同周三郎の弟、同武男の兄として生まれ、1910年(明治43年)分家する。 長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)を経て、1901年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部保険科を卒業。日本における保険学の祖である村瀬春雄の最初の門下生となった。村田省蔵は友人。
木下 竹次(きのした たけじ、明治5年3月25日(1872年… 木下 竹次(きのした たけじ、明治5年3月25日(1872年5月2日) - 1946年(昭和21年)2月14日)は、日本の教育者。 足羽県大野郡勝山町(現在の福井県勝山市)出身。1898年(明治31年)、東京高等師範学校文科を卒業し、研究科の修身科・教育科で学んだ。奈良県師範学校教諭、富山県師範学校教諭を経て、1904年(明治37年)に鹿児島県師範学校教諭に転じた。1910年(明治43年)、鹿児島県女子師範学校が分離・独立すると校長に就任し、鹿児島県立第二高等女学校校長も兼ねた。1917年(大正6年)、京都女子師範学校校長となり、翌年には京都府立桃山高等女学校校長を兼ねた。 1919年(大正8年)、奈良女子高等師範学校教授となり、同附属実科高等女学校主事、同附属小学校主事を兼ねた。
内海 弘蔵(うつみ こうぞう、明治5年3月24日(1872年… 内海 弘蔵(うつみ こうぞう、明治5年3月24日(1872年5月1日) - 昭和10年(1935年)12月7日)は、神奈川県出身の国文学者、歌人。号は月杖(げつじょう)。 神奈川県生まれ。獨逸学協会学校、第一高等中学を経て、1898年(明治31年)に東京帝国大学国文科を卒業。早稲田大学等の講師を経て1904年、明治大学講師に就任、後に教授。また、落合直文の短歌結社「浅香社」に参加し、歌人としても活動した。 『平家物語』や『方丈記』などの注釈書を著しており、特に『徒然草』を兼好の「一大趣味論」とした『徒然草評釈』で知られる。 1910年に明治大学硬式野球部が創設されると同時に部長を務めることになった。
奈倉 次郎(なぐら じろう、1872年5月〈明治5年4月〉-… 奈倉 次郎(なぐら じろう、1872年5月〈明治5年4月〉- 1947年11月20日)は、日本の英文学者、英語教育者、翻訳家。山口高等商業学校(現・山口大学)教授、立教学校(現・立教大学)英語教授。多くの編著があり、英語教科書や青年英文学叢書など広く読まれた。 1872年5月(明治5年4月)、静岡県伊豆生まれ。兄は静岡県人・奈倉新一郎。 伊豆学校で学んだ後、東京へ出て、東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で修学する。英国人アーサー・ロイド(立教学院総理)、米国人ジエーキンボル両氏に就いて英語及び英文学を修める。 1890年(明治23年)、郷里に戻って伊豆学校の英語教師となる。その後、再び東京へ出て、1891年(明治24年)、私立錦城学校英語専攻科を卒業。
松崎 章太郎(まつざき しょうたろう、明治5年(1872年)… 松崎 章太郎(まつざき しょうたろう、明治5年(1872年)5月 – 没年不詳)は、東京市麻布区長、東京府豊多摩郡落合町長、医師。 岡山県和気郡福河村(現在の備前市)出身。1893年(明治26年)、第三高等中学校を卒業し、翌年医術開業免状を得た。日清戦争では陸軍三等軍医として従軍した。その後岡山や大阪で開業。1903年(明治36年)より内務省衛生局に技手として勤務し、日露戦争では陸軍二等軍医として従軍した。その後、静岡県技師・警察医長、同衛生課長、宮城県技師・衛生課長、愛知県技師・衛生課長などを歴任した。退官後、東京市主事・衛生課長に任命され、のち麻布区長に転じた。1928年(昭和3年)、落合町長に選ばれた。
大道寺 慶男(だいどうじ よしお、1872年(明治5年)5月… 大道寺 慶男(だいどうじ よしお、1872年(明治5年)5月 - 1962年(昭和37年)2月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。弁護士。 三重県名賀郡比奈知村(現在の名張市)出身。1897年(明治30年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。判事検事登用試験に合格し、司法官試補・検事代理を務めた。のち岐阜市に弁護士事務所を開業し、岐阜弁護士会長に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
田所 美治(たどころ よしはる、明治4年4月13日(1871… 田所 美治(たどころ よしはる、明治4年4月13日(1871年5月31日) - 昭和25年(1950年)5月6日)は、日本の文部官僚・内務官僚・貴族院勅選議員。文部次官、錦鶏間祗候。 土佐藩士田所美之の長男として生まれる。第二高等中学校を首席で卒業。1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入り内務属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。以後、愛媛県、宮城県、東京府の参事官を歴任した。その後、文部省に転じ、参事官、書記官、文部大臣秘書官、普通学務局長、文部次官を歴任した。また学習院御用掛、宮内省御用掛、学習院評議会会員を兼ねた。 1918年(大正7年)9月21日、貴族院議員に勅選され、退官した。
加島 恵太郎(かしま けいたろう、明治4年4月13日(187… 加島 恵太郎(かしま けいたろう、明治4年4月13日(1871年5月31日) - 昭和25年(1950年)7月6日)は日本の実業家、政治家、漢詩人。鳥取県西伯郡境町長(第5代、7代)、境町会議員、鳥取県会議員。号は洗心。 境町に生まれた。加島房太郎の実弟。 鳥取中学から東京物理学校に学んだが、病気のため帰郷した。家業の加島呉服店を手伝い、28歳で独立して隠岐汽船、境ドッグ、境電気等の会社経営に関係した。 2度にわたって町長をつとめたが名誉職だったので、生活の基盤は家業にあり、急用が起きると走って役場に出かけた。 明治38年(1905年)9月、日露戦争戦勝祝賀会を挙行、町中が沸く中を杉山校長と共に旗行列、提灯行列の先頭に立った。
10代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1871年5月3… 10代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1871年5月30日〈明治4年4月12日〉 - 1937年〈昭和12年〉5月22日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓は伊藤、幼名は要三。福島経済界の「巨人」と称された。 陸奥国白河郡、後の福島県西白河郡白河町(現白河市)で素封家・伊藤善右衛門の三男として生まれ、1888年(明治21年)7月、信夫郡八島田村(信夫郡野田村、吾妻町を経て現:福島市八島田)の9代吉野周太郎の婿養子となる。1911年(明治44年)8月、養父の死去に伴い家督を継承し、同年11月、10代周太郎を襲名した。 養父の築いた多額の財産により、福島第六銀行頭取、第百七銀行頭取、福島銀行頭取、武蔵野銀行頭取、岩代銀行頭取、福島電灯社長、夏井川水電取締役会長、福島羽二重取締役会長、福島県購買組合連合会理事長、同県信用組合連合会理事長などを務めた。
山内 豊政(やまうち / やまのうち とよまさ、1871年5… 山内 豊政(やまうち / やまのうち とよまさ、1871年5月29日(明治4年4月11日) - 1955年(昭和30年)10月18日)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員、南邸山内家3代当主。 土佐藩南邸山内家2代当主・山内豊積(10代藩主山内豊策五男・山内豊著の三男)の長男として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)1月8日に男爵を襲爵した。 学習院高等科、和仏法律学校(現・法政大学)を修了。1896年(明治29年)12月、一年志願兵として歩兵第22連隊に入隊し、1899年(明治32年)2月、陸軍歩兵少尉に任官し、1905年(明治38年)後備役となる。 1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
井上 友一(いのうえ ともいち、明治4年4月10日(1871… 井上 友一(いのうえ ともいち、明治4年4月10日(1871年5月28日) - 大正8年(1919年)6月12日)は、東京府知事を務めた、地方行政を専門とした内務官僚。号は明府。弟に、陸軍中将・井上一次。 救済事業の精神は、救貧より防貧、さらに教化が重要であると考え、感化救済事業や地方改良運動などを推進した。
永田 新之允(ながた しんのじょう、明治4年4月8日(187… 永田 新之允(ながた しんのじょう、明治4年4月8日(1871年5月26日) – 昭和46年(1971年)6月21日)は、日本の衆議院議員(憲政会→中正倶楽部→新正倶楽部)。岩国市長。ジャーナリスト。 周防国玖珂郡岩国(現在の岩国市)出身。扶桑新聞社で活版職工として勤務。1888年(明治21年)より名古屋逓信管理局、東京逓信管理局、横浜郵便電信局、東京郵便電信局で勤務した。1896年(明治29年)に読売新聞社記者、編集局長となる。その後、国民新聞社に転じ、1902年(明治35年)には理事・編集長となった。さらに1904年(明治37年)に実業之日本社に移り、理事、編集長、営業部長、総務部長を歴任した。
斎木 逸造(さいき いつぞう、明治4年4月8日(1871年5… 斎木 逸造(さいき いつぞう、明治4年4月8日(1871年5月26日) - 昭和30年(1955年)11月1日)は、山梨県出身の政治家。甲府市長(官選第16代)。号は天民。 甲府県巨摩郡牧原村(現在の山梨県北杜市)に漢方医の父「良斎」、母「たけ」の長男として生まれる。明治18年(1885年)頃、山梨県北巨摩郡祖母石村の漢学者菊島茂村が開いた茂村塾に入門し漢学、書道を学び、明治21年(1888年)に武里村(明治8年(1875年)に牧原村、新奥村及び宮脇村が合併して成立)の冨里尋常小学校の授業生として採用された。この頃、当時の思想的主流であった自由民権運動に関心を示し、特に中江兆民に心酔した斎木は、存分に自由民権運動に挺身することを決意し、受業生を辞して北海道に渡り一旦は巡査に採用されたものの、内務省巡査採用規程による採用年齢に達していないため不採用となった。
中川 吉造(なかがわ よしぞう、1871年5月24日(明治4… 中川 吉造(なかがわ よしぞう、1871年5月24日(明治4年4月6日) - 1942年(昭和17年)8月1日)は、明治から昭和時代の土木技術者、内務技監。 中川吉太郎の弟として大和国葛下郡高田村(現・奈良県大和高田市)に生まれ、1913年(大正2年)分家する。1896年(明治29年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、内務省に入省し、第1区土木監督署附となり、利根川改修の調査に当たる。 1897年(明治30年)土木監督署技師に転じ、翌年、関宿工営所主任として利根川治水工事に関与。1905年(明治38年)内務技師に進み、東京土木出張所技師となる。1910年(明治43年)から一年間、渡欧し、ドナウ川の鉄門などを視察。
2代 大浜 忠三郎(大濱、おおはま ちゅうざぶろう、1871… 2代 大浜 忠三郎(大濱、おおはま ちゅうざぶろう、1871年5月19日(明治4年4月1日)- 1925年(大正14年)11月24日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、横浜市会議長。幼名・茂七郎。 武蔵国久良岐郡、現在の横浜市で、洋糸織物商・初代大浜忠三郎の長男として生まれる。横浜商業学校(現横浜市立横浜商業高等学校)を経て、1888年(明治21年)東京専門学校(現早稲田大学)英語本科を卒業し、欧米諸国を遊歴した。 家業を継承して洋織物商「信濃屋」を経営し、1904年(明治37年)10月、家督を相続し忠三郎を襲名した。横浜取引所理事長、横浜商業会議所議員、横浜生命保険社長、横浜倉庫取締役、神奈川県農工銀行取締役などを務めた。
坂本 志魯雄(さかもと しろお、1871年5月19日(明治4… 坂本 志魯雄(さかもと しろお、1871年5月19日(明治4年4月1日) – 1931年(昭和6年)4月11日)は、日本の政治家、実業家、記者。高知県生まれ。号は弔民(ちょうみん)。坂本素魯哉の弟。 1871年5月19日(明治4年4月1日)、土佐国長岡郡瓶岩村亀岩(現・高知県南国市)に生まれる。 1887年(明治20年)土佐立志社に入社。専修学校(現・専修大学)を卒業後、朝鮮政府内務顧問秘書となる。 中外商業新報(現・産経新聞、日経新聞)の記者となり、1894年(明治27年)、日清戦争に際しては、軍事探偵となって満蒙の情報を収集。その後、臨時台湾総督府鉄道隊に奉職。1896年(明治29年)、フィリピン独立運動の時、台湾総督・乃木希典の密命を帯び、フィリピン群島の内情を探査。
後藤 環爾(ごとう かんじ、明治4年4月1日(1871年5月… 後藤 環爾(ごとう かんじ、明治4年4月1日(1871年5月19日) - 昭和11年(1936年)2月23日)は日本の宗教家、僧。元西本願寺執行長。号は素雲。 高知県幡多郡宿毛村(現在の宿毛市)清宝寺に生まれた。1899年東京仏教大学校を卒業後、帰郷して父をたすけて、清宝寺の住職にいそしんだ。林有造の門をたたいて指導を受けた。 本願寺よりまねかれて京都本山勤務となり、教学局注記に任ぜられた。31歳の時であった。日露戦争には、本願寺の従軍布教僧を命ぜられ、第三軍司令部付として活躍。凱旋の後、東京築地本願寺別院勤務となり、やがて東京出張所長を命ぜられた。 1929年本願寺執行長に就任した。本願寺の要職を歴任、東京市や仏教連合会等の他団体の重要役員を兼ねて活躍した。
村瀬 春雄(むらせ はるお、1871年5月18日(明治4年3… 村瀬 春雄(むらせ はるお、1871年5月18日(明治4年3月29日) - 1924年(大正13年)4月9日)は、日本の保険学者、実業家。法学博士。族籍は兵庫県平民。 日本の海上保険学の祖とされる。東京高等商業学校(現一橋大学)教授や帝国海上保険副社長を歴任し、独自の保険学を確立するとともに、多くの後進を育てた。申酉事件で母校防衛に尽力し、没後キャンパス内に胸像が設置された。 東京で生まれた。旧福井藩士・関戸由義の二男。兵庫県神戸市北長狭通出身。父である関戸由義は福沢諭吉の知人で、自家の屋敷内で福沢らが神戸商業講習所を設立。1883年、東京府平民・村瀬さだの死跡を相続する。 神戸商業講習所が改組された兵庫県立神戸商業学校(現兵庫県立神戸商業高等学校)を5回生として卒業後、1886年高等商業学校(現一橋大学)に入学。
岡田 正美(おかだ まさよし、1871年5月17日(明治4年… 岡田 正美(おかだ まさよし、1871年5月17日(明治4年3月28日) - 1923年(大正12年)10月21日)は、日本の国語学者。号は雲亭。位階は従四位、勲等は勲五等。 長野県出身。1897年に東京帝国大学文科大学国文科卒。1900年、議会に国語・国文の改良に関する請願書を提出。国語調査会の補助委員として国語の整理、改革に参与。東京帝大講師、東京外国語学校教授。墓所は染井霊園1-ロ-12にある。
建部 遯吾(たけべ とんご、明治4年3月21日(1871年5… 建部 遯吾(たけべ とんご、明治4年3月21日(1871年5月10日) - 昭和20年(1945年)2月18日)は、社会学者、東京帝国大学教授、政治家。 新潟県蒲原郡横越村(現新潟市江南区横越中央)出身。1896年帝国大学文科大学哲学科卒。翌年から講師として母校の社会学講座を担当、1898年ヨーロッパ留学、留学中1900年助教授に任ぜられ、1901年帰国してただちに東京帝大教授。帝大社会学講座の初代担当教授として長く建部時代を築いた。1922年退官。1913年日本社会学院(学会)を創設、主宰した。オーギュスト・コントに依拠した総合的社会学を講じた。対露強硬論を唱えた。その後、衆議院議員をへて1938年貴族院議員。
岩本 熊雄(いわもと くまお、明治4年3月21日(1871年… 岩本 熊雄(いわもと くまお、明治4年3月21日(1871年5月10日) - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、鉄道官僚。一年志願兵を経て将校となり、鉄道会社勤務を経て帝国鉄道庁・鉄道省に出仕。札幌鉄道局苗穂工場長や北海道鉄道管理局旭川工場長等を歴任する。東京府士族で官位は陸軍歩兵少尉従五位勲四等。 岡山県岡山市富田町に生まれ、1893年(明治26年)に東京工業学校機械工芸部機械科を卒業、同年12月、一年志願兵として歩兵第2連隊に入隊。1895年(明治28年)7月、歩兵少尉任官と共に予備役となり日本鉄道株式会社に入社、汽車課に勤務する。同年10月、勲六等瑞宝章を受章。1896年(明治29年)2月、盛岡工場に転属。
逆鉾 与治郎(さかほこ よじろう、1871年5月10日 - … 逆鉾 与治郎(さかほこ よじろう、1871年5月10日 - 1939年10月22日)は、鹿児島県日置郡金峰町(現南さつま市)出身で高砂部屋、のち井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は今井 与次郎(旧姓年永)。最高位は東関脇。現役時代の体格は168cm、82kg。得意手はハズ押し、左四つ。 子供の頃から土地の宮相撲で活躍していたが、巡業で鹿児島を訪れた初代西ノ海・小錦一行に誘われて高砂へ入門、1893年(明治26年)1月場所序ノ口で初土俵を踏んだ。2年後の1895年(明治28年)6月場所には早くも十両に昇進、十両もわずか2場所で通過して1896年5月場所入幕した。この年の1月場所で初代西ノ海が引退、井筒部屋を興したのでこれに従った。
横堀 治三郎(よこぼり じさぶろう、明治4年3月20日(18… 横堀 治三郎(よこぼり じさぶろう、明治4年3月20日(1871年5月9日) - 昭和13年(1938年)5月27日)は、衆議院議員(立憲政友会)、冶金学者。 上総国長柄郡茂原町(現在の千葉県茂原市)出身。共立学校、第一高等中学校を経て、1894年(明治27年)に東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業。三菱合資会社高島炭鉱技師となったが、1896年(明治29年)に東京帝国大学工科大学助教授に就任した。翌年よりドイツに留学し、1899年(明治32年)に帰国した後は京都帝国大学理工科大学教授に迎えられた。1901年(明治34年)、工学博士号を受ける。 1913年(大正2年)に澤柳事件により京都帝国大学を辞したが、1917年(大正6年)に秋田鉱山専門学校校長に就き、1925年(大正14年)まで在職した。
中村 清造(なかむら せいぞう、1871年5月9日(明治4年… 中村 清造(なかむら せいぞう、1871年5月9日(明治4年3月20日) - 1932年(昭和7年)7月21日)は、日本の実業家、醸造家、政治家。衆議院議員。 筑前国宗像郡上西郷村(現:福岡県福津市)で、酒造家・中村清作の長男として生まれる。1889年(明治22年)県立中学校を卒業。日清戦争、日露戦争に従軍した。 上西郷村長、津屋崎町長、宗像郡会議員、同参事会員、福岡県会議員、同参事会員などを歴任。その他、福岡県地方森林会議員、全国酒造組合連合会評議員、宗像郡酒造組合長などを務めた。 1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に福岡県第9区から立憲政友会所属で出馬して当選。第15回総選挙でも当選し、衆議院議員を連続2期務めた。
高田 実(たかた みのる、1871年5月8日(明治4年3月1… 高田 実(たかた みのる、1871年5月8日(明治4年3月19日)- 1916年(大正5年)9月24日)は、日本の新派俳優である。 東京の千住の生まれ。初めは鉄道の駅員を務めていたが、後に俳優に転向し芸能界入りし新派に属した。1892年(明治25年)、川上音二郎が創設した一座に入門し、初めて舞台に立つ。1896年(明治29年)には活動の場を大阪に移り、同派の俳優であった喜多村緑郎らと共に「成美団」を結成した事で、一躍有名となった。「角座」や「朝日座」等関西における新派を生み出した。 1904年(明治37年)に東京に戻った後は「本郷座」を創設し、同派の座長となる。高田の演技が特徴を持った事により、庶民からは「新派(新演劇)の團十郎」と呼ばれた。
丸山 浪弥(まるやま なみや、1871年5月7日(明治4年3… 丸山 浪弥(まるやま なみや、1871年5月7日(明治4年3月18日) - 1944年(昭和19年)11月21日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員(2期)。 信濃国安曇郡、後の長野県南安曇郡三田村(現安曇野市)で、農業・丸山実太の二男として生まれる。1890年、明治法律学校を卒業。1896年3月、北海道庁に入庁し拓殖部に勤務。同年9月、のちの岩内町に転居し『岩内新報』を創刊した。 その後、札幌市会議員、北海道会議員、同参事会員、同副議長、同議長、北海道国防義会会長、胆振鉄道会社役員などを務めた。 1924年5月の第15回衆議院議員総選挙で北海道第12区から出馬し当選。以後、第18回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算2期務めた。
杉山 東太郎(すぎやま とうたろう、1871年5月4日(明治… 杉山 東太郎(すぎやま とうたろう、1871年5月4日(明治4年3月15日) - 1936年(昭和11年)12月27日)は、明治から昭和時代初期の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(3期)。 杉山半蔵の長男として静岡県周智郡村松村(山名郡久努村、磐田郡久努村、袋井町を経て現袋井市)に生まれる。久津部の刮目舎(現袋井市立東小学校)から明治法律学校に学び、自由民権運動に傾倒する。19歳にして久努村長に就任し、同村会議員、磐田郡会議員、静岡県会議員を経て、1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から出馬し当選。つづく第12回、第13回総選挙でも当選し、衆議院議員を3期務めた。
小田 省吾(おだ しょうご、1871年5月2日 - 1953… 小田 省吾(おだ しょうご、1871年5月2日 - 1953年12月12日)は、日本の歴史学者。専門は朝鮮史。 1871年、三重県鳥羽市で生まれた。1887年、神宮皇學館に入学したがすぐに退学して上京し、国民英学会や東京英語学校で学んだ。東京帝国大学文科大学史学科に進学し、1899年に卒業。 卒業後は、長野県師範学校で教職に就いた。後に徳島県師範学校校長、奈良県立畝傍中学校校長、第一高等学校教授をつとめた。 1908年、大韓帝国政府に招聘され、教育制度改革に従事。教科書編輯課長として教科書の編纂などにあたった。 日韓併合後の1918年には、朝鮮総督府中枢院編纂課長として朝鮮史の編纂にあたり、1923年には朝鮮史学会を創立した。
小林 萬吾(こばやし まんご、1870年5月31日(明治3年… 小林 萬吾(こばやし まんご、1870年5月31日(明治3年5月2日) - 1947年(昭和22年)12月6日)は、日本の洋画家。アナウンサーの小林完吾(南日本放送→日本テレビ→フリー)は孫。 作品は、外光表現を取り入れた明るい色彩で、穏健な画風の日本洋画の正統派といえる。主題は日本的情趣のある風俗や風景が中心となっている。 庄屋の長男として讃岐国三野郡詫間村(現・香川県三豊市)に生まれる。漢学を修めた後、松山の官立中学に入学、はじめは安藤仲太郎、原田直次郎に師事し。1889年(明治22年)に内国勧業博覧会に「芝東照宮図」が入選。1895年(明治28年)、黒田清輝主宰の天真道場に入門する。1898年(明治31年)、東京美術学校西洋画科選科修了。
平山 午介(ひらやま うますけ、1870年5月26日(明治3… 平山 午介(ひらやま うますけ、1870年5月26日(明治3年4月26日)- 1959年(昭和34年)7月11日)は、明治から昭和期の逓信官僚、実業家、政治家。衆議院議員。 常陸国茨城郡、のちの茨城県水戸市赤沼町で平山貞吉の三男として生まれた。1891年(明治24年)6月に家督を相続した。青弘塾で漢籍を修め、経済学者塩澤昌貞と同門で共に将来を嘱望された。1886年(明治19年)に上京して苦学しながら普通学を修めた。 逓信省に入省し、通信事務官補、通信事務官、大阪郵便為替貯金管理支所長、郵便貯金局事務官、大阪貯金支局長などを歴任。この間、記帳の様式にルーズリーフ式を採用するなど貯金事務の改善に貢献した。