松野 喜内(まつの きない、1879年〈明治12年〉9月15… 松野 喜内(まつの きない、1879年〈明治12年〉9月15日 - 1954年〈昭和29年〉10月30日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。慶應義塾大学教授、参議院議員などを務めた。 岐阜県本巣郡、のちの西郷村(現在の岐阜市)で松野喜一の三男として生まれる。1915年(大正4年)慶應義塾大学部理財科を卒業し、さらに渡米して1920年(大正9年)コロンビア大学経済学科を卒業した。 小学校教員、明治生命保険会社社員、国際労働会議臨時嘱託などを経て、慶應義塾大学教授に就任した。その他、東京高等工芸学校講師、立教大学講師、武蔵高等工業学校(現在の東京都市大学)講師、聖徳学園保姆養成所(現在の聖徳大学幼児教育専門学校)所長、日米文化りばてい塾長などを務めた。
八田 嘉明(はった よしあき、1879年9月14日 - 19… 八田 嘉明(はった よしあき、1879年9月14日 - 1964年4月26日)は、日本の鉄道技術者、官僚、実業家、政治家。工学博士。東京府生まれ。
佐久間 勉(さくま つとむ、1879年9月13日 - 191… 佐久間 勉(さくま つとむ、1879年9月13日 - 1910年4月15日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は大尉。第六潜水艇艇長として事故で殉職し、修身科教科書にも掲載された。滋賀県三方郡北前川村(現:福井県三方上中郡若狭町北前川)出身。 1879年9月13日に滋賀県三方郡北前川村(現:福井県三方上中郡若狭町北前川)で、前川神社神官で小学校教諭だった佐久間可盛の二男として生まれる。福井県立小浜尋常中学校、攻玉社を経て、海軍省入省(海軍兵学校29期入校)。 1901年12月、海軍兵学校卒業。同期に米内光政大将(のちに内閣総理大臣)、高橋三吉大将(連合艦隊司令長官)、藤田尚徳大将(のちに明治神宮宮司を経て昭和天皇侍従長)など。
川村 麟也(かわむら りんや、1879年〈明治12年〉9月1… 川村 麟也(かわむら りんや、1879年〈明治12年〉9月11日 - 1947年〈昭和22年〉10月31日)は、日本の医師、病理学者。著名なツツガムシ病の研究の他、日本住血吸虫症の研究や脂肪染色法など一般病理学面での業績も残している 。 東京大学医科学研究所名誉教授の川村明義は三男。 1879年(明治12年)川村将徳の四男として山梨県北巨摩郡志田村(現・甲斐市)に生まれる。 中学校卒業後東京の独逸語学校にてドイツ語を学んだ後、第一高等学校を経て東京帝国大学医科大学に入り病理学教室の山極勝三郎に師事。1906年同大を卒業しすぐに病理学教室に入る。 1908年(明治41年)に奨学金を受けてイギリスとドイツに渡り、特にベルリンのヨハネス・オルト (Johannes Orth) とフライブルクのルードヴィッヒ・アショフ (Ludwig Aschoff) に師事した。
池田 清秋(いけだ せいしゅう、1879年(明治12年)9月… 池田 清秋(いけだ せいしゅう、1879年(明治12年)9月10日 – 1966年(昭和41年)11月2日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 千葉県安房郡平群村(現在の南房総市)出身。日露戦争に従軍後、1908年(明治41年)に日本大学法律科を卒業。さらに中央大学高等研究科を卒業した。判事検事登用試験に合格し、司法官試補となった。その後、弁護士を開業し、さらに東京市会議員に選ばれた。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その後、蒲田女子高等学校理事・校長を務めた。
猪野 鹿次(いの しかじ、1879年(明治12年)9月7日 … 猪野 鹿次(いの しかじ、1879年(明治12年)9月7日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家。大日本帝国陸軍軍人。福岡県飯塚市長。号に城南。 猪野昌の長男として福岡区(現福岡市)に生まれる。1900年(明治33年)、福岡県中学修猷館を卒業。1902年(明治35年)12月、福岡県属となったのち陸軍に入り、1904年(明治37年)2月、陸軍歩兵少尉、1905年(明治38年)8月、中尉と進んだ。この間、日露戦争に出征した。1913年(大正2年)10月、福岡県築上郡長に就任し、1916年(大正5年)2月、同県三井郡長に転じる。1920年(大正9年)9月、筑紫郡長となり、1926年(大正15年)6月、退官した。
小寺 源吾(こでら げんご、1879年(明治12年)9月7日… 小寺 源吾(こでら げんご、1879年(明治12年)9月7日 - 1959年(昭和34年)6月15日)は、日本の実業家。大日本紡績(ニチボー・ユニチカの前身)元社長。旧姓は西松。養家・小寺家共々岐阜県出身。(『小寺源吾別荘 (「世界の有名な別荘地#日本#兵庫県」の節)』、「日本一の富豪村・住吉村の本邸」も参照) 岐阜県平民西松権兵衛の三男にして西松喬の実弟。兵庫県及岐阜県士族・小寺成蔵の婿養子となった。1903年4月、慶應義塾大学部理財科を卒業。 同年尼崎紡績に入社。1918年、大日本紡績取締役となる。 1936年、綿業会館(日本綿業倶楽部)で開催された臨時株主総会の決議により同社社長に就任した(58歳)。
黒田 英雄(くろだ ひでお、1879年(明治12年)9月2日… 黒田 英雄(くろだ ひでお、1879年(明治12年)9月2日 – 1956年(昭和31年)11月1日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、貴族院議員、参議院議員。
四王天 延孝(しおうでんのぶたか、1879年〈明治12年〉9… 四王天 延孝(しおうでんのぶたか、1879年〈明治12年〉9月2日 - 1962年〈昭和37年〉8月8日)は、日本の陸軍軍人、政治家。ユダヤ陰謀論を唱え『シオン賢者の議定書』の邦訳などを行なった。最終階級は陸軍中将。衆議院議員。旧姓・西村。 前橋藩士・西村茂兵衛の弟として、埼玉県松山市あるいは群馬県前橋市に生まれ、前橋藩士・四王天政彬の養嗣子となった。1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、工兵少尉に任官し近衛工兵大隊付となる。 清国駐屯工兵中隊付などを経て日露戦争に出征。近衛工兵大隊中隊長、大本営運輸通信長官部副官、陸士教官、近衛工兵大隊付などを歴任し、1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業した。
津倉 亀作(つくら かめさく、1879年(明治12年)9月1… 津倉 亀作(つくら かめさく、1879年(明治12年)9月1日 - 1947年(昭和22年)2月27日)は、昭和時代の政治家。実業家。立憲民政党所属の衆議院議員。 静岡県磐田郡掛塚町長。大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中尉。 静岡県長上郡、のちの磐田郡掛塚町(竜洋町を経て現磐田市)出身。津倉勘六の弟として生まれ先代の津倉録平の養子となり1891年(明治24年)家督を相続する。日露戦争に従軍し、陸軍主計中尉に進む。 掛塚町会議員、磐田郡会議員、浜松市会議員、静岡県会議員、掛塚町長、所得税調査委員などを歴任。また材木商を営み、浜松商工会議所副会頭、浜松倉庫、浜松合同運送各取締役社長、遠州銀行、帝国製帽、浜松貯蓄銀行各監査役を務めた。
池内 宏(いけうち ひろし 1878年9月28日 - 195… 池内 宏(いけうち ひろし 1878年9月28日 - 1952年11月1日)は、東洋史学者。祖父は儒学者の池内大学。 1878年、東京府で生まれた。東京府尋常中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科に入学。東洋史を専攻した。1904年に東京帝国大学を卒業。 その後は、独協中学と早稲田中学教員を経て、1908年に南満洲鉄道歴史研究部の研究員に就いた。1913年に東京帝国大学講師に就いた。1916年に助教授昇格。1922年、学位論文『鮮初の東北境と女真との関係』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。1925年に教授昇格。朝鮮総督の依頼で満鉄調査部歴史調査部にて実証主義的(考証的)な満蒙・朝鮮の東洋古代史研究の基礎を確立した。
二木 千年(ふたき せんねん、1878年(明治11年)9月2… 二木 千年(ふたき せんねん、1878年(明治11年)9月25日 - 1928年(昭和3年)3月10日)は、日本の官僚。釧路市長、八幡市長を務めた。 長野県下伊那郡竜江村(現在の飯田市)出身。1898年(明治31年)、東京専門学校英学部を卒業。1905年(明治38年)、早稲田大学法学部を卒業。1908年(明治41年)、高等文官試験に合格した。翌年より内務属として内務省に勤務し、徳島県警視、大阪府警視兼事務官などを経て、1914年(大正3年)、佐賀県警察部長に就任した。 1917年(大正6年)、滋賀県警察部長に転任したが、第13回衆議院議員総選挙における寺内内閣の選挙干渉に従わなかったため、文官懲戒令により免職となった。
花城 永渡(はなしろ えいと、1878年(明治11年)9月2… 花城 永渡(はなしろ えいと、1878年(明治11年)9月24日 - 1938年(昭和13年)1月31日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 沖縄県八重山郡石垣町(現在の石垣市)出身。1899年(明治32年)、沖縄師範学校を卒業して、郷里の大川尋常小学校の訓導となった。1903年(明治36年)に上京して、東京市小石川第一尋常小学校訓導となり、そのかたわら日本大学高等師範科に通った。1906年(明治39年)、日本大学高等師範科を卒業し、東京府豊多摩郡千駄谷尋常高等小学校校長に就任した。その後も夜間通学を続けて、1907年(明治40年)に日本大学法科専門部を卒業した。同年、会計検査院属に任官された。
千葉 亀雄(ちば かめお、1878年(明治11年)9月24日… 千葉 亀雄(ちば かめお、1878年(明治11年)9月24日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は、日本の作家、評論家、ジャーナリスト。 山形県酒田市に生まれ、5歳から母の実家がある宮城県美里町、13歳から仙台市で育つ。早稲田大学高等師範部中退。はじめ江東の号で小説を書いたが、以後国民新聞、読売新聞、時事新報、東京日日新聞など新聞の社会部長や学芸部長を務め、その傍ら文芸評論も書いた。『サンデー毎日』編集長として「サンデー毎日新人賞」を開始するなど大衆文学にもかかわる。 大正末から昭和初年にかけての大きな文学潮流となった「新感覚派」の命名者として知られる。 死後、小説家の登竜門として「千葉亀雄賞」が創設され、井上靖、沙羅双樹、黒岩重吾らを輩出した。
青山 士(あおやま あきら、1878年9月23日 - 196… 青山 士(あおやま あきら、1878年9月23日 - 1963年3月21日)は、日本の土木技師、内務官僚。位階は従三位。勲等は勲三等。公益社団法人土木学会名誉会員。 ニューヨークセントラル・アンド・ハドソンリバー鉄道、パナマ運河工事委員会での勤務を経て内務技師となり、新潟土木出張所所長、内務技監、社団法人土木学会会長などを歴任した。 静岡県生まれの土木技術者である。内村鑑三の門下となり、東京帝国大学工科大学では広井勇の指導を受ける。パナマ運河建設に携わった唯一の日本人として知られる。帰国後は内務省に入省し、東京土木出張所においては荒川放水路の建設を指揮した。また、新潟土木出張所では所長として信濃川大河津分水路の改修工事を指揮した。
吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日… 吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。旧姓:竹内(たけうち)。 内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、外務大臣(第73・74・75・78・79代)、農林大臣(第5代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、衆議院議員(7期)、貴族院議員(勅選議員)、皇學館大学総長(初代)、二松學舎大学舎長(第5代)、日本自由党総裁(第2代)、民主自由党総裁、自由党総裁(初代)を歴任した。 東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、及び1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。
高石 真五郎(たかいし しんごろう、1878年(明治11年)… 高石 真五郎(たかいし しんごろう、1878年(明治11年)9月22日 - 1967年(昭和42年)2月25日)は、日本のジャーナリスト、実業家。国際オリンピック委員会(IOC)委員。毎日新聞社最高顧問。特殊法人日本自転車振興会第2代会長。 千葉県鶴舞町(現在の市原市)で高石四郎治の五男として生まれた。1901年(明治34年)に慶應義塾大学法学部を卒業すると共に、紹介により小松原英太郎の秘書となるが、7月に小松原が当時社長を務めていた大阪毎日新聞社に外国通信部員として入社する。 1902年(明治35年)に三井家から援助を受け、社籍を置いたままイギリスに留学するが、1904年(明治37年)の日露戦争開戦によりデイリー・エクスプレスの嘱託記者となり、翌年末には大阪毎日の特派員としてロシアのサンクトペテルブルクに赴いて半年以上現地に滞在し、その状況を日本に伝えた。
金山 季逸(かなやま きいつ、1878年(明治11年)9月2… 金山 季逸(かなやま きいつ、1878年(明治11年)9月22日 - 1943年(昭和18年)3月11日)は、司法官僚、検事。旧姓・武部。 富山県上新川郡山室村(現在の富山市)に武部尚志の四男として生まれ、同郡吏の金山彦一の養子となった。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。同年、司法官試補となり、東京地方裁判所に勤務した。1906年(明治39年)、検事となり、東京地方裁判所予備検事、前橋地方裁判所検事、八王子区裁判所検事、東京区裁判所検事、東京地方裁判所検事、横浜地方裁判所検事正、東京控訴院検事、横浜地方裁判所検事正、大阪地方裁判所検事正、東京地方裁判所検事正、長崎控訴院検事長、大審院検事を歴任した。
岡本 癖三酔(おかもと へきさんすい、明治11年〈1878年… 岡本 癖三酔(おかもと へきさんすい、明治11年〈1878年〉9月16日 - 昭和17年〈1942年〉1月12日)は、戦前日本の俳人、画家。有季自由律を代表する俳人で、俳画の先覚者としても非常に評価が高い。本名は簾太郎、別号に笛声、碧山水など。 父親は小田原藩士の岡本貞烋で、家庭は厳格を極めた。父の赴任先である群馬県高崎で生まれる。出生地は高崎とも前橋とも。幼稚舎から慶應義塾普通部に進み、慶應義塾大学を卒業。日本画を川端玉章に師事。 芸術としての俳句は正岡子規・河東碧梧桐に至って完成されたとの観点から、慶大在学中から正岡子規に師事。俳句、俳文、連句を学び、日本派、秋声会系の俳人として出発し、26歳の若さで第一期黄金時代の『ホトトギス』、『時事新報』の俳句選者を務め、松根東洋城、高浜虚子らと共に「俳諧散心(「日盛会」とも称した)」を唱える。
宇野 要三郎(うの ようざぶろう、1878年9月15日 - … 宇野 要三郎(うの ようざぶろう、1878年9月15日 - 1969年3月22日)は、日本の裁判官・弓道範士(10段)。大審院部長。終戦後に全日本弓道連盟を組織し、その初代会長を務めた。号は竹隠。 青森県黒石市出身。父は大地主で貴族院議員も務めた宇野清左衛門である。 青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)から第二高等学校を経て、京都帝国大学に進む。1904年、京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年判事に任官する。初任は神戸地方裁判所。横浜地方裁判所や東京地方裁判所の所長を務めた後、1934年に大審院部長となる(1941年に定年退官)。 終戦後は1947年から第一東京弁護士会に登録する弁護士となり、1952年には公安審査委員会委員長も務めた(1956年退任)。
東 猛夫(あずま たけお、1878年9月15日 - 没年不詳… 東 猛夫(あずま たけお、1878年9月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は同じとする資料も在るが、金網 正之助(かなあみ しょうのすけ)。吾妻 猛夫と表記に揺れがある。新派の女形として、サイレント映画の現代劇に出演した。身長は5尺1寸(約154.5センチメートル)、体重は13貫600匁(約48.8キログラム)。 1878年(明治11年)9月15日、兵庫県八部郡兵庫村(現在の同県神戸市兵庫区)に生まれる。 旧制・高等小学校を卒業し、1900年(明治33年)、新派の俳優・福井茂兵衛が主宰する一座に入門する。当時、同劇団は神戸市の歌舞伎座で公演を打っていた。娘役で初舞台を飾り、以降、女形の舞台俳優としての道を歩む。
安藤 正次(あんどう まさつぐ、1878年9月13日 - 1… 安藤 正次(あんどう まさつぐ、1878年9月13日 - 1952年11月18日)は、日本の国語学者。第3代台北帝国大学総長、東洋大学教授、文部省国語審議会会長。 1878年、埼玉県に生まれる。上田萬年に私淑し、神宮皇學館本科を経て、1904年東京帝国大学文科大学選科を修了。同年、神宮皇學館教授となり、1916年に文部省より国語に関する調査を嘱託される。1917年に日本女子大学校教授、1928年台北帝国大学教授。1941年からは同大学総長となり、1945年に辞任して帰国。 1945年には文部省国語審議会会長となって、国語国字問題の解決に尽力し、翌1946年には当用漢字および現代仮名遣いが制定された。
堀内 宗平(ほりうち そうへい、1878年(明治11年)9月… 堀内 宗平(ほりうち そうへい、1878年(明治11年)9月10日 - 1943年(昭和18年)6月13日)は、日本の海軍軍人(大佐)、実業家である。官位は従六位。 1878年(明治11年)9月19日、山梨県東八代郡、のちの黒駒村(現:笛吹市)に、堀内藤右衛門の三男として生まれる。1892年(明治25年)、兄の堀内良平に連れられて上京。1898年(明治31年)、海軍兵学校に入学(第29期)。 日露戦争において、浅間に第一分隊長として乗艦。仁川沖海戦に参加した。 1904年(明治37年)、連合艦隊第六艦隊に所属、旅順港口閉塞作戦に水雷艇付としての武勲により功五級金鵄勲章受賞。 1908年(明治41年)、陸奥湯長谷藩の第13代藩主であった内藤政養の次女、房子と結婚。
桑木 彧雄(くわき あやお、1878年〈明治11年〉9月9日… 桑木 彧雄(くわき あやお、1878年〈明治11年〉9月9日 - 1945年〈昭和20年〉5月16日)は、日本の物理学者、科学史家。九州大学名誉教授。日本科学史学会初代会長。理学博士。 1878年9月9日、旧金沢藩士の子として東京にて生まれた。1899年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、1903年頃に東京物理学校で講師に着任した。1907年に文部省に命じられ、ヨーロッパに留学した。翌年、明治専門学校の教授に着任し、1911年九州帝国大学が創設すると、同大学工科大学の講師に転任した。1914年に理学博士を取得し、同年に九州帝国大学の教授に昇任し、1938年の定年退官まで力学の講座を担当した。定年後、旧制松本高等学校の校長に着任し、1942年に辞任した。
林 頼三郎(はやし らいざぶろう、1878年〈明治11年〉9… 林 頼三郎(はやし らいざぶろう、1878年〈明治11年〉9月6日 - 1958年〈昭和33年〉5月7日)は、日本の刑法学者。検事総長・大審院院長・司法大臣を歴任した。旧姓・三輪。現在の埼玉県行田市出身。 三輪礼三の四男として生まれた。父は忍藩の御典医だったが、製粉業に失敗し、貧しい生活を強いられた。忍高等小学校在学中、父が病気となり、途中、北埼玉郡役所給仕となる。家計を助ける傍ら、出勤前早朝に恩師の自宅で英語を学ぶ努力家であり、16歳のときにその人物を見込まれ、政治家で北埼玉郡長林有章の養子となる。同年、林郡長の友人である高橋捨六弁護士の書生をしながら、東京法学院(中央大学の前身)に進学した。
宮城 長五郎(みやぎ ちょうごろう、1878年〈明治11年〉… 宮城 長五郎(みやぎ ちょうごろう、1878年〈明治11年〉9月5日 - 1942年〈昭和17年〉6月25日)は、明治から昭和にかけての裁判官、検察官、政治家。司法大臣、貴族院議員。旧少年法および矯正院法(少年院法の前身)の成立に尽力した人物として名高い。 埼玉県出身。農業・宮城藤次郎の二男として生まれる。郁文館中学、第一高等学校を経て、1906年(明治39年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法官試補となり千葉地方裁判所詰となる。 1908年(明治41年)4月、判事に任官し東京地方裁判所に着任。以後、八王子区裁判所予審判事、東京地裁判事を歴任。1913年(大正2年)5月、東京区裁判所検事に異動し、同年9月、司法省参事官となり法務局に勤務。
安藤 貫一(あんどう かんいち、1878年〈明治11年〉9月… 安藤 貫一(あんどう かんいち、1878年〈明治11年〉9月4日 - 1924年〈大正13年〉12月27日)は日本の英文学者。鹿児島県立第一中学校教諭、大阪高等商業学校教授。夏目漱石の小説『吾輩は猫である』の英訳で知られる。 1878年(明治11年)9月4日、東京府深川西大工町(現:東京都江東区清澄二丁目)に生まれた。 1894年(明治27年)6月、ジェームス・サマーズの欧文正鵠学館を卒業した後、国民英学会に入学して磯辺弥一郎・岡倉由三郎等に学び、1895年(明治28年)11月正科、1896年(明治29年)11月英文科を共に首席で卒業した。同期には勝俣銓吉郎・菅野徳助・南日恒太郎・鷲見亀五郎・米田実・河上清・最上梅雄等がいた。
武田 秀一(たけだ ひでいち、1878年(明治11年)9月3… 武田 秀一(たけだ ひでいち、1878年(明治11年)9月3日 - 1939年(昭和14年)5月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。正四位勲三等功四級。字は魯男。 1878年(明治11年)9月、高知県香美郡野市村(現在の香南市)に武田秀山の長男として生まれる。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。 千葉陸軍歩兵学校教官などを経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し青森連隊区司令官に就任。1924年(大正13年)8月、歩兵学校教導連隊長となり、豊橋陸軍教導学校長に転じ、1929年(昭和4年)8月、陸軍少将に進級。 1930年(昭和5年)8月、歩兵第37旅団長となり、近衛師団司令部付を経て、1933年(昭和8年)8月、陸軍中将に進んだ。
福岡 幸吉(ふくおか こうきち、1878年(明治11年)9月… 福岡 幸吉(ふくおか こうきち、1878年(明治11年)9月2日 - 没年不詳)は、日本の政治家。室蘭市長。小樽市長。 鹿児島県出身。東京府城北尋常中学校(現・城北中学校・高等学校)卒。1906年北海道庁属釧路支庁に勤務する。1909年上川支庁上川郡比布村(現・比布町)長に就任。その後、増毛、留萌、室蘭の各支庁に勤務する。1917年留萌町(現・留萌市)長に就任。翌1918年室蘭市助役となる。1929年室蘭市長中村俊清の辞職により、室蘭市長に就任。しかし、市長就任後、消火栓購入に絡む汚職事件や市立病院医師の退隠料支給問題、さらに市役所職員の税金横領事件の不祥事が発覚し、福岡は市長としてその責任を問われ、「一身上の事由」で市長を辞職した。
小倉 嘉明(おぐら よしあき、1878年(明治11年9月2日… 小倉 嘉明(おぐら よしあき、1878年(明治11年9月2日)[出典無効] - 1949年(昭和24年)11月23日)は、日露戦争から戦間期にかけて活躍した大日本帝国海軍軍人。海兵27期、海大甲種7期。 水雷畑を歩み、海軍大学校教官、海軍水雷学校教頭など教育に携わり、軍令部参謀、海軍艦政本部部長、横須賀海軍工廠長などを歴任した。最終階級は海軍中将。1905年(明治38年)の日本海海戦では第二艦隊浅間分隊長。 神奈川県出身。静岡県尋常中学校を経て、1896年(明治29年)、海軍兵学校(27期)入校[出典無効]、1899年(明治32年)12月16日卒業[出典無効]。同日、海軍少尉候補生、比叡乗組。1900年(明治33年)、千代田乗組[出典無効]。
真山 青果(まやま せいか、旧字体:眞山 靑果、1878年(… 真山 青果(まやま せいか、旧字体:眞山 靑果、1878年(明治11年)9月1日 - 1948年(昭和23年)3月25日)は、日本の劇作家・小説家。本名は、真山 彬(まやま あきら)。日本芸術院会員。 宮城県仙台市裏五番町三番地に生まれる。父・寛は旧伊達藩士の士族で小学校の校長だった。1895年宮城県尋常中学校を中退。1896年に上京し、1897年日本中学校を卒業。同年、第二高等学校医学部に入学するも、小説や詩の習作に熱中して落第。1904年、佐藤紅緑に師事し「青果」の号を与えられる。翌年には小栗風葉門下となる。1907年、仙台市に近い農村を舞台とした農民文学の『南小泉村』(「新潮」1907年5月号)で注目されるも、1908年原稿二重売り事件を起こす。
橋本 青雨(はしもと せいう、1878年9月1日 - 194… 橋本 青雨(はしもと せいう、1878年9月1日 - 1944年8月24日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家、ドイツ語学者。 宮城県出身。1902年小説と俳句を収めた『ほし草』を刊行。 1904年東京帝国大学文学部独文科卒。のち独文学を中心とする翻訳に従事。イプセン、シラー、ハウプトマンなどの翻訳を「帝国文学」「新小説」「新声」などに掲載し、明治末に最も活躍した。 のち第三高等学校教授、松本高等学校教授、海軍大学嘱託教授、中央大学講師となり研究に従事した。 孫は橋本和孝(関東学院大学名誉教授)。
大山 斐瑳麿(おおやま ひさまろ、1878年(明治11年)9… 大山 斐瑳麿(おおやま ひさまろ、1878年(明治11年)9月1日 - 1950年(昭和25年)2月8日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。平沼騏一郎、黒田英雄とともに津山出身の「出世三羽ガラス」と称された。 岡山県東南条郡上之町(津山東町、苫田郡津山町を経て現津山市上之町)で、浄土真宗本願寺派浄圓寺・大山達聞、竹の二男として生まれる。兄が夭死したため寺の跡取りとなるが、それを嫌って上京し、苦学して日本法律学校(現日本大学)で学んだ。1903年(明治36年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1904年(明治37年)日本法律学校を卒業し、大蔵省に入省し専売局に配属され、大蔵書記兼専売局属、煙草専売局事務官、函館煙草販売所長を歴任し、在省2年で退官した。
国木田 収二(くにきだ しゅうじ、1878年〈明治11年〉9… 国木田 収二(くにきだ しゅうじ、1878年〈明治11年〉9月1日 - 1931年〈昭和6年〉3月4日)は、明治から大正にかけての新聞記者、ジャーナリスト。号は北斗(ほくと)。 小説家である国木田独歩の弟。 1878年9月1日、広島県に生まれた。東京専門学校を卒業した後に國民新聞社に入り、兄の独歩とともに徳富蘇峰門下の逸材と称された。蘇峰は、独歩よりも収二の方が大成すると期待していたといわれる。 日清戦争で独歩が従軍記者として現地に派遣された際に、収二宛の手紙を模して戦況報告を送った『愛弟通信』は、兄弟愛の美談として喧伝された。 1899年(明治32年)に南洋諸島へ視察旅行をした。その後、神戸新聞社に主筆兼編集部長として入社した。
豊道 春海(ぶんどう しゅんかい、1878年〈明治11年〉9… 豊道 春海(ぶんどう しゅんかい、1878年〈明治11年〉9月1日 - 1970年〈昭和45年〉9月26日)は、大正から昭和に活躍した天台宗の僧、書家。幼名は川上 寅吉(かわかみ とらきち)、得度後の僧名は慶中(けいちゅう)。別号に龍渓(りゅうこく)、谷門道人(こくもんどうじん)、天門海翁(てんもんかいおう)がある。栃木県佐久山町(現:大田原市)の出身。子に天台僧で書道家の印南溪龍、孫に天台僧で書道家の印南溪峻がいる。 6歳で僧籍に入り、13歳のときに叔父・篠原守慶から得度を受け、慶中と称した。1891年(明治24年)より書を西川春洞に学んで、六朝風の楷書に独自の書風を作り出した。1900年(明治33年)から東京浅草の天台宗華徳院の住職を務め、戦後に行元寺へ移った。
岸原 重治(きしはら しげはる、1878年9月 - 没年不詳… 岸原 重治(きしはら しげはる、1878年9月 - 没年不詳)は、日本の電気技術者・実業家。官営八幡製鐵所の草創期から電気技師を務め、鉄鋼電気技術の基礎を築いた。 福岡県士族岸原義路の長男として生まれる。1896年福岡県立尋常中学修猷館、1899年7月第五高等学校工科を経て、1903年7月京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業。 1905年、創立間もない官営八幡製鐵所の電気工事嘱託となり、1909年技師に任ぜられる。1910年に開設された、青少年未経験工の技術教育を行う「製鉄所幼年職工養成所」の教科書編纂委員を命ぜられ、「電気学大意」を作成した。その後、工務部電気科長を経て、1923年動力部長に就任。
蘆田 伊人(あしだ これと、1877年(明治10年)9月28… 蘆田 伊人(あしだ これと、1877年(明治10年)9月28日 - 1960年(昭和35年)6月6日)は、明治から昭和にかけて活動した日本の歴史地理学者。旧福井藩士家に生まれ、早稲田大学卒業後、東京帝国大学史料編纂掛に所属、次いで越前松平家等華族諸家や帝国学士院の委嘱により歴史調査に携わった。『大日本地誌大系』『大日本読史地図』の編纂や、明治大学蔵蘆田文庫などで知られる。 1877年(明治10年)9月28日、石川県管下越前国足羽郡福井日ノ出下町(旧新屋敷、現・福井県福井市日之出)に、石川県第三師範学校(後の福井師範学校)漢学教授蘆田碩と福井藩士有沢権四郎娘岩子の間の長男に生まれた。1882年(明治15年)9月旭小学校に入学、1891年(明治24年)に福井県尋常中学校(現・福井県立藤島高等学校)に進んだ。
鈴木 清寿(すずき きよひさ、1877年〈明治10年〉9月2… 鈴木 清寿(すずき きよひさ、1877年〈明治10年〉9月28日 - 1937年〈昭和12年〉10月18日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。神奈川県平塚市長。 平塚で質屋を営む鈴木春蔵の長男として生まれる。平塚小学校、東京大成学館を経て、東京法律専門学校を卒業後に帰郷した。日露戦争開戦の年に中郡役所書記となり、ついで1918年(大正7年)から同14年まで神奈川県庁地方課勤務となる。 1925年(大正14年)9月、平塚町助役、1927年(昭和2年)3月に同町長代理を経て、1929年(昭和4年)6月、22代町長に就任した。1932年(昭和7年)4月に平塚市が市制施行すると市長代理を経て、同年8月に初代市長に就任し、翌年病気により退任した。
兼坂 隆(かねさか たかし、1877年(明治10年)9月25… 兼坂 隆(かねさか たかし、1877年(明治10年)9月25日 - 1961年(昭和29年)12月16日)は、日本の海軍軍人。海兵27期。海大甲種10期。最終階級は海軍中将。号は三州。 千葉県出身。八雲艦長、横須賀海兵団長、砲術学校長、大要司令官などを歴任。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
一條 成美(いちじょう せいび/なるみ、男性、1877年9月… 一條 成美(いちじょう せいび/なるみ、男性、1877年9月25日 - 1911年3月16日)は、明治時代の日本の画家。
北村 耕造(きたむら こうぞう、1877年(明治10年)9月… 北村 耕造(きたむら こうぞう、1877年(明治10年)9月25日- 1939年(昭和14年)6月27日)は、日本の建築家。宮中顧問官。 京都で、代々近衛家の家臣をつとめる家に生まれる。 1903年(明治36年)に東京帝国大学建築学科を卒業。同期の卒業生には佐野利器、佐藤功一、大熊喜邦、田辺淳吉らがおり、同期の集名「どんぶり会」の一人。 卒業後は建築請負業清水満之助商店本店(現・清水建設)に入社。在籍中には海外の建築界を視察するために一年間の長期出張を命ぜられた。 1913年(大正2年)に清水組大阪支店長を歴任したのち、1917年(大正6年)に清水組を退社。今度は財団法人理化学研究所建設工事主任技師へと転じた。
伍堂 卓雄(ごどう たくお、1877年(明治10年)9月23… 伍堂 卓雄(ごどう たくお、1877年(明治10年)9月23日 - 1956年(昭和31年)4月7日)は、日本の政治家、実業家、海軍造兵中将。東京府士族。正三位。工学博士。
柴田 桂太(しばた けいた、1877年〈明治10年〉9月20… 柴田 桂太(しばた けいた、1877年〈明治10年〉9月20日 - 1949年〈昭和24年〉11月19日)は、日本の植物生理学者・生化学者・微生物化学者。薬学者・柴田承桂の長男。弟に化学者柴田雄次がいる。薬学者・柴田承二(文化功労者)の父。 東京府出身。1899年に東京帝国大学理科大学植物学科を卒業後、第一高等学校・東北帝国大学などで教鞭をとった後、1910年に母校講師となり、直後にドイツに留学してヴィルヘルム・ペッファーに師事した。1912年に帰国して助教授となると、日本で最初の植物生理学・生化学の講座を開いた。1918年、植物界におけるフラボン体の研究で学士院恩賜賞を受賞、同年教授に昇進する。
篠田 次助 (1877年9月17日 - 没年不詳) は、日本… 篠田 次助 (1877年9月17日 - 没年不詳) は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 この項目は、軍事上の人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:軍事、プロジェクト:軍事史/Portal:軍事)。
鈴木 安孝(すずき やすたか、1877年(明治10年)9月1… 鈴木 安孝(すずき やすたか、1877年(明治10年)9月15日 - 1955年(昭和30年)2月27日)は、日本の政治家、法律家。衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、秋田市長(第8代)を務めた。 宮城県出身。1903年(明治36年)に和仏法律学校(現法政大学)法律科を卒業すると秋田地方裁判所判事に任官され、4年後に秋田県で弁護士を開業。1913年(大正2年)に 秋田市会議員に当選(以後6期当選)して政界入りし、その後1919年(大正8年)には秋田県会議員に当選(以後3期当選)して1927年(昭和2年)に県会議長に就任。翌1928年の総選挙に立憲政友会公認で出馬し衆院議員に当選、通算3期務めた。
山崎 今朝弥(やまざき けさや、旧漢字表記:山崎 今朝彌、1… 山崎 今朝弥(やまざき けさや、旧漢字表記:山崎 今朝彌、1877年9月15日 - 1954年7月29日)は、明治・大正・昭和期の弁護士である。社会主義者の事件を多く扱った。 1877年、現在の長野県岡谷市(旧・諏訪郡川岸村)出身。上京後、明治法律学校(現・明治大学)に学び、1901年卒業。同年第1回判事検事登用試験に合格(弁護士試験にも合格)、司法官試補となり甲府区裁判所詰となるも翌年依願免官し、1903年渡米。赤羽一、岩佐作太郎、幸徳秋水らと知り合った。 1907年に帰国し、東京弁護士会に入会して弁護士となった。 1913年、合同法律事務所の先駆けとなる東京法律事務所を設立。1916年、平民法律所開設。
宮本 雄一郎(みやもと ゆういちろう、1877年(明治10年… 宮本 雄一郎(みやもと ゆういちろう、1877年(明治10年)9月12日 - 1945年(昭和20年)5月7日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。衆議院議員。静岡県会議長。静岡県小笠郡朝比奈村長。前名は熊太郎。 静岡県城東郡、のちの朝比奈村(小笠郡朝比奈村、浜岡町を経て現御前崎市)に生まれる。1898年(明治31年)宮本庄平の婿養子となり熊太郎から雄一郎に改名した。 1907年(明治40年)朝比奈村会議員に選ばれ、以後同村助役、村長と1942年(昭和17年)まで33年間に渡り村政を担当し、河川改修、砂防、郡道、県道の新設などに尽くした。 1901年(明治34年)小笠郡農会農事巡回教師、小笠郡農会長、1924年(大正13年)静岡茶業組合理事を歴任し茶業を振興した。
喜多 又蔵(きた またぞう、1877年(明治10年)9月11… 喜多 又蔵(きた またぞう、1877年(明治10年)9月11日 - 1932年(昭和7年)1月31日)は、日本の実業家。日本綿花(現双日)社長や、鈴政式織機社長を務めた。 奈良県南葛城郡葛城村(現御所市)字鳥井戸で、金剛山下の酒屋喜多長七郎の三男として生まれる。1894年に市立大阪商業学校(現大阪市立大学)を卒業し、成瀬隆蔵校長の紹介で日本綿花(現双日)に入社。田中市兵衛の知遇を得て、ムンバイ支店長、本店支配人、常務取締役を経て、1917年から社長を務め、東洋棉花(現豊田通商)の児玉一造と仕手で争いを繰り広げた。1919年には第一次世界大戦のパリ講和会議全権大使隨員を務め勲三等に叙された。1920年鈴政式織機(現エンシュウ)社長。
片山 正夫(かたやま まさお、1877年9月11日 - 19… 片山 正夫(かたやま まさお、1877年9月11日 - 1961年6月11日)は、日本の物理化学者。東北帝国大学理科大学教授。開成中学校校長(第9代)。 岡山県都窪郡茶屋町(現・倉敷市茶屋)に生まれる。一高を経て、1900年(明治33年)、東京帝国大学理科大学化学科を卒業。1902年東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気化学科教授となる。1905年秋から1909年初めにかけてスイスとドイツに留学。チューリッヒ工科大学のリヒャルト・ローレンツ(英語版)のもとで電気化学を研究し、可逆電池の起電力がギブスの自由エネルギーであることを明らかにした。ついでベルリン大学のW. ネルンストのもとでボーデンシュタイン(英語版)とともに二酸化窒素および硫酸の解離平衡を研究した。
亀井 喜一郎(かめい きいちろう、1877年(明治10年)9… 亀井 喜一郎(かめい きいちろう、1877年(明治10年)9月11日 - 1935年(昭和10年)8月2日)は、日本の銀行家。函館製綿監査役。函館貯蓄銀行支配人・同行取締役。族籍は北海道平民。評論家亀井勝一郎の父。 北海道・工藤嘉七の叔父。1906年、先代亀井ミヤの入夫となり、家督を相続した。東京専門学校(現・早稲田大学)邦語行政科卒業。函館貯蓄銀行支配人をつとめ、1919年に辞任する。北海道函館市元町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。