榛葉 英治(しんば えいじ、1912年〈大正元年〉10月21… 榛葉 英治(しんば えいじ、1912年〈大正元年〉10月21日 - 1999年〈平成11年〉2月20日)は、日本の小説家である。 静岡県掛川市生まれ。静岡県立掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)を経て、早稲田大学英文科卒業。満洲国外交部に勤める。敗戦後引き揚げ、仙台市の東北連絡調整事務局に勤務したが、1948年、辞職、上京して創作活動に専念、多くの通俗小説を書く。初期作品に『渦』『淵』『流れ』三部作がある。1958年の『赤い雪』は敗戦時の満洲の混乱を描き、直木賞受賞。 外祖父の村岡素一郎は民間史論家で、徳川家康の出自に関して独自の研究を行った。
道上 伯(みちがみ はく、1912年10月21日 - 200… 道上 伯(みちがみ はく、1912年10月21日 - 2002年8月4日)は、日本の柔道家である。講道館七段、フランス柔道連盟九段。 愛媛県八幡浜市出身。1926年、愛媛県立八幡浜商業学校(のちの県立八幡浜高校)入学を機に柔道を始める。1927年に大日本武徳会柔道初段を取得。しかし実際は1926年の時点で既に昇段審査を通過しており、13歳という当時としては異例の若さでの合格だった為、試験官の一存によりこの時点での昇段は見送られていた。その後、15歳の誕生日を迎えた時に改めて正式に初段の段位を与えられている。 1929年、武徳会二段を取得。1930年、アメリカ渡航の夢を抱き、誰にも告げずに八幡浜から出奔。
吉田 善彦(よしだ よしひこ、1912年(大正元年)10月2… 吉田 善彦(よしだ よしひこ、1912年(大正元年)10月21日 - 2001年(平成13年)11月29日)は、東京都出身の日本の日本画家、教育者。本名誠二郎。
田鍋 健(たなべ まさる 1912年 <大正元年> 10月2… 田鍋 健(たなべ まさる 1912年 <大正元年> 10月21日 - 1993年 <平成5年> 8月2日)は、日本の実業家。積水ハウス元会長・社長。 大阪府大阪市出身。東京帝国大学卒業後、1936年に日本窒素肥料株式会社入社。1950年、新日本窒素肥料株式会社(現・チッソ株式会社)熊本営業所長。戦後、積水化学工業株式会社に入社。1955年に同取締役、1957年に同専務取締役就任。1963年に積水ハウス代表取締役社長に就任。累積赤字のふくらんだ同社を合理化と近代化で再建、プレハブ業界トップに育て上げた。1992年同会長就任。1977年 藍綬褒章受章。1984年勲二等瑞宝章 (現 瑞宝重光章)受章。
足立 護(あだち まもる、1912年10月20日 - 199… 足立 護(あだち まもる、1912年10月20日 - 1993年10月21日)は、日本の経営者。川崎汽船社長、会長を務めた。兵庫県出身。 1937年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に川崎汽船に入社。 1958年5月に取締役に就任し、1961年6月に常務、1964年11月に監査役、1966年11月に再び取締役、1968年5月に専務を経て、1969年5月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1976年5月に相談役に就任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲二等瑞宝章を受章。。 1993年10月21日心不全のために死去。81歳没。
栗林 四郎(くりばやし しろう、1912年10月19日 - … 栗林 四郎(くりばやし しろう、1912年10月19日 - 1992年5月24日)は、日本の経営者、銀行家。京都銀行頭取を務めた。大分県出身。 1935年に京都帝国大学を卒業し、朝鮮銀行での勤務を経て、1946年に大蔵省に入省。1951年に京都銀行に転じ、1953年に常務に就任し、1972年に頭取に就任。1979年には会長に就任。 1992年5月24日肺炎のために死去。79歳没。
南部 誠治(なんぶ せいじ、1912年10月19日 - 19… 南部 誠治(なんぶ せいじ、1912年10月19日 - 1981年7月1日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長を務めた。 福井県大野市出身。1936年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に山陽電気鉄道に入社。1957年11月に取締役に就任し、1959年9月に常務、1969年11月に専務、1974年11月に副社長を経て、1977年6月に社長に就任。 1970年6月に運輸大臣表彰を受け、1976年11月に藍綬褒章を受章。 1981年7月1日、急性心不全のために死去。68歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
多賀 秋五郎(たが あきごろう、1912年10月19日 - … 多賀 秋五郎(たが あきごろう、1912年10月19日 - 1990年5月15日)は、日本の東洋史学者。 岐阜県出身。1949年東京文理科大学史学科東洋史卒、東京教育大学大学院教育研究科博士課程教育史専攻満期退学、1962年「宗譜の研究」で文学博士。中央大学文学部助教授、1959年教授、1983年定年、名誉教授、国士舘大学教授。1978年紫綬褒章、1983年勲三等瑞宝章受勲。1985年「中国宗譜の研究」で日本学士院賞受賞。アジア教育史、中国の同姓・血縁の集団である宗族の系譜、ほか郷里の飛騨史も研究した。
山田 一雄(やまだ かずお、1912年(大正元年)10月19… 山田 一雄(やまだ かずお、1912年(大正元年)10月19日 - 1991年(平成3年)8月13日)は、日本の指揮者、作曲家。本名は和雄。和男、夏精(かせい)を経て、1968年に一雄と改名した。「ヤマカズさん」の愛称で親しまれ、朝比奈隆らと並んで日本のクラシック音楽界を支えた指揮者であり作曲家。東京芸術大学名誉教授。 東京府生まれ。学習院中等科2年の頃にピアノを独学で学び、作曲にも熱中した。学習院高等科へ進学するも東京音楽学校への進学を志して休学。1931年に東京音楽学校(現東京芸術大学)ピアノ科首席卒業ののち研究課程に進み、卒業後は同校で教鞭を取るようになった。在学中からクラウス・プリングスハイムに師事し作曲を学び、作曲関連の各種の賞を獲得。
川島 宙次(かわしま ちゅうじ、1912年10月15日 - … 川島 宙次(かわしま ちゅうじ、1912年10月15日 - 1998年)は、日本の民家研究家・画家。 東京生まれ。1932年大阪市立都島工業学校建築科卒。一級建築士。大林組に入り、住宅部長、大林ハウジング取締役を歴任。欧米、東南アジア諸国を歴訪し住居建築を研究。1990年第1回竹内芳太郎賞受賞。日本民族建築学会評議員、東京民芸協会会員、日本美術家連盟会員。
野田 良之(のだ よしゆき、1912年10月15日 - 19… 野田 良之(のだ よしゆき、1912年10月15日 - 1985年10月11日)は、日本の法学者、東京大学名誉教授。専門はフランス法、比較法。
瀬良 明(、1912年〈大正元年〉10月14日 - 没年不詳… 瀬良 明(、1912年〈大正元年〉10月14日 - 没年不詳)は、日本の俳優。岡山県児島郡味野町[要出典]出身。本名は渡辺 章()。 広島県立福山誠之館中学を経て大阪外国語学校スペイン語部を卒業。 1935年(昭和10年)、大阪共同劇団の創立に参加し、久板栄二郎作『断層』や真船豊作『裸の町』などの舞台に出演。1939年(昭和14年)、今井正監督の『沼津兵学校』で映画初出演。劇団解散後の1941年(昭和16年)、大阪放送劇団創立に参加するが、翌1942年(昭和17年)に退団、上京して瑞穂劇団に参加し、終戦まで移動演劇を続けた。 戦後、大阪共同劇団出身であった田中友幸の誘いにより東宝の専属となり、黒澤明監督の『生きる』を始め多くの映画に出演。
森田 安次(もりた やすじ、1912年〈大正元年〉10月14… 森田 安次(もりた やすじ、1912年〈大正元年〉10月14日 - 1959年〈昭和34年〉8月11日)は、日本の書家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
穂積驚(ほづみ みはる、1912年10月13日 - 1980… 穂積驚(ほづみ みはる、1912年10月13日 - 1980年1月19日)は長崎県出身の小説家である。本名は森健二(もりけんじ)。
曽根 元吉(そね もときち、1912年10月12日 - 20… 曽根 元吉(そね もときち、1912年10月12日 - 2000年9月28日)は、日本の翻訳家・編集者。専門はフランス文学。本名・谷口 正元。明治大学教授などを歴任。 京都帝国大学文学部仏文科卒業。1955年に、休刊していた文芸誌『同時代』の再刊に参加。同志社大学、大谷大学各講師を経て、関西日仏学館教授、明治大学教養部教授などを歴任。 東京創元社編集長もつとめ、『ジャン・コクトー全集』を編纂した。息子は谷口正和。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
山本 正明(やまもと まさあき、1912年10月12日 - … 山本 正明(やまもと まさあき、1912年10月12日 - 1997年7月17日)は、日本の経営者。沖電気工業社長、会長を務めた。滋賀県大津市出身。 1936年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に安田銀行(のちの富士銀行)に入行。1959年に沖電気工業常務に就任し、1966年に専務、1969年5月に副社長を経て、1972年11月に社長に就任。1978年6月に会長に就任し、1979年6月から相談役を務めた。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1997年7月17日心不全のために死去。84歳没。
浜名 志松(濱名 志松、はまな しまつ、1912年10月12… 浜名 志松(濱名 志松、はまな しまつ、1912年10月12日 - 2009年1月9日)は、日本の民俗学者、天草文化研究家、キリシタン研究家。 熊本県天草郡魚貫村(現・天草市魚貫町)出身。1936年より小学校・中学校教員、熊本県立本渡高等女学校(現・熊本県立天草高等学校)教諭、熊本県教育庁指導主事、天草教育研究所長、1972年天草町教育長。1959年天草文化賞、1987年信有社賞受賞、1991年熊日賞受賞、勲五等双光旭日章受章、1992年荒木精之賞受賞、1995年地域文化功労者文部大臣表彰受賞、1998年天草観光協会賞、日本観光協会九州支部長賞受賞。
吉田 宗雄(よしだ むねお、1912年〈大正元年〉10月10… 吉田 宗雄(よしだ むねお、1912年〈大正元年〉10月10日 - 1944年〈昭和19年〉12月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐(死後)。 佐賀県小城郡牛津町(のちの小城市)出身。海軍兵学校62期。1944年(昭和19年)12月30日、駆逐艦「呉竹」艦長としてバシー海峡において戦死。 禅林寺の長男として生まれる。旧制小城中学校(現佐賀県立小城高校)を経て、
島村 千枝子(しまむら ちえこ、旧姓:生越、1912年〈大正… 島村 千枝子(しまむら ちえこ、旧姓:生越、1912年〈大正元年〉10月7日 - 1976年〈昭和51年〉9月2日)は、日本のピアニスト。 元東京音楽学校教授。元武蔵野音楽大学音楽学部教授。元徳島文理大学音楽学部教授。 東京音楽学校ピアノ科卒業。東京都出身。息子は地震学者の島村英紀。 東京都出身。1937年(昭和12年)に東京音楽学校ピアノ科を卒業した。 1938年(昭和13年)から1947年(昭和22年)まで東京音楽学校で教鞭を執り、その後は武蔵野音楽大学音楽学部や徳島文理大学音楽学部で教授を務めた。 1976年(昭和51年)9月2日、死去。享年63。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。
渋沢 言忠(しぶさわ あきただ、1912年10月6日 - 1… 渋沢 言忠(しぶさわ あきただ、1912年10月6日 - 1987年)は、日本の実業家。古河合名会社、新立川航空機常務(1954年 - ?)を務めた。 男爵・津軽行雅(1881年 - 1923年、細川行真の子で津軽承昭の娘婿)の三男で、実母は津軽理喜子(承昭の庶出子)である。養父は渋沢武之助、養母は渋沢(旧姓:福原)美枝(1894年 - 1976年)で、妻の渋沢昭子(1915年 - ?)は養父母の実子である。親戚に渋沢敬三(妻昭子の従兄)と渋沢雅英(敬三の長男)がいる。 妻の昭子が東京女学館出身であることから、東京女学館の理事を務めた。言忠没後は昭子の意向により、宗家当主の渋沢雅英がその職を引き継いだ。
安斎 政威(あんざい まさたけ、大正元年(1912年)10月… 安斎 政威(あんざい まさたけ、大正元年(1912年)10月6日 - 平成25年(2013年)1月8日)は、日本の牧師、福音派の指導者。 この項目は、キリスト教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:キリスト教/PJ:キリスト教)。
井田 正孝(いだ まさたか、1912年(大正元年)10月5日… 井田 正孝(いだ まさたか、1912年(大正元年)10月5日 - 2004年(平成16年)2月6日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中佐。後に旧姓・岩田に復した。 1912年(大正元年)10月、岐阜県不破郡関原村にて野砲兵第18聯隊附岩田富士太郎砲兵少佐(のち砲兵大佐、陸士9期)の四男として生れる。岐阜県大垣中学校を経て、1929年(昭和4年)4月に陸軍士官学校予科に合格する。1933年(昭和8年)7月には、陸軍士官学校本科(45期)を卒業。卒業序列は皇族(孚彦王)・公族(李鍝公)を除いて6番/335名という優秀なものだった。同年10月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第1聯隊附となる。同聯隊には、終戦時に宮城事件の首謀者となる畑中健二(46期)も所属していた。
木本 正次(きもと しょうじ、1912年10月5日 - 19… 木本 正次(きもと しょうじ、1912年10月5日 - 1995年1月26日)は、日本の小説家。毎日新聞元編集委員。 1912年(大正元年)10月5日、徳島県海部郡牟岐町出身。 神宮皇學館(現皇學館大学)卒業後、毎日新聞に入社。 毎日新聞時代は新聞記者として数々の出来事の現場取材を経験。 毎日新聞中部本社報道部長、毎日新聞西部本社ラジオ報道部長、毎日新聞大阪本社整理部顧問を務め、毎日新聞東京本社及び大阪本社では出版局参与を務めた。 毎日新聞記者を務める傍ら、小説家としての活動を並行して進め、1960年(昭和35年)に『刀塚』が直木賞候補となった。 木本の代表作である『黒部の太陽』は、毎日新聞東京本社編集委員在任中の1964年(昭和39年)に、毎日新聞連載小説として発表した作品である。
伏見 博英(ふしみ ひろひで、1912年〈大正元年〉10月4… 伏見 博英(ふしみ ひろひで、1912年〈大正元年〉10月4日 - 1943年〈昭和18年〉8月21日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。第二次世界大戦時に太平洋戦線で戦死。最終階級は海軍少佐。爵位は伯爵。臣籍降下以前の名は博英王(ひろひでおう)。 1912年10月4日に誕生。伏見宮博恭王の第4王子。香淳皇后(昭和天皇后)の再従弟にあたる。 海軍兵学校(第62期)卒業。同期に同じく戦死した皇族軍人の音羽正彦少佐など。 最上級生のときは、ノーブルな雰囲気ながらも下級生が何かヘマをやろうものなら「待て! 貴様!」と鉄拳をふるう、やや御気性の荒っぽい宮様だったという。 1932年(昭和7年)10月3日、貴族院皇族議員に就任。
豊錦 規矩雄(とよにしき きくお、1912年10月4日 - … 豊錦 規矩雄(とよにしき きくお、1912年10月4日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。井筒部屋→九重部屋→朝日山部屋所属。本名は上田 菊男(うえだ きくお)。最高位は東十両8枚目。得意技は突っ張り、右四つ、寄り。 大分県宇佐市出身。井筒部屋に入門し、1927年1月場所に初土俵を踏む。その後、同郷の大関・豊國福馬が独立した際に九重部屋に移籍した(その後朝日山部屋に移籍)。1934年1月場所に十両に昇進したが、2場所続けて負け越し、幕下に陥落。「祝洋」に改名後の1937年1月場所に廃業した。
淡輪 就直(たんのわ なりただ、1912年 <大正元年> 1… 淡輪 就直(たんのわ なりただ、1912年 <大正元年> 10月3日 - 2000年 <平成12年> 4月29日)は、日本の経営者。三井石油化学工業(現・三井化学)社長を務めた。位階は正四位。 福岡県柳川市出身。1937年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1955年7月に三井石油化学工業に転じ、1963年5月に取締役に就任し、1966年11月に常務、1971年11月に副社長を経て、1977年6月に社長に就任。1982年11月に会長に就任し、1985年6月に相談役を経て、1987年6月に再び会長に就任。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等瑞宝章を受章。
村岸 博三(むらぎし ひろぞう、1912年10月3日 - 1… 村岸 博三(むらぎし ひろぞう、1912年10月3日 - 1971年4月10日)は、日本の実業家。総合商社の丸紅(丸紅飯田)常務取締役、日本ゴム輸入協会会長、日本ゴム輸入組合理事長などを歴任した。 滋賀県彦根市出身。1934年、彦根高等商業学校本科(滋賀大学経済学部)を卒業し、同年に大同貿易(現 丸紅)へ入社した。また、彦根高等商業学校の同級生の川村喜太郎も、のちに丸紅で常務取締役を務めている。 大同貿易本社輸出織物部に入社後、フィリピンのセブ支店やマニラ支店で勤務し、輸出麻部・輸入雑貨部などで実務経験を積んだ。その後は神戸本店で繊維製品課長を務めた。 戦時中には南方軍司令部報道班員を務めたほか、朝鮮釜山支店長に就任。
増山 元三郎(ますやま もとさぶろう、1912年10月3日 … 増山 元三郎(ますやま もとさぶろう、1912年10月3日 - 2005年7月3日)は、日本の数理統計学者。 北海道小樽市生まれ。旧制第一高等学校理科乙類を経て、1937年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業。中央気象台衛生気象係。1939年、東京大学医学部物療内科教室嘱託。1943年「ベクトル量の相関測度について」で理学博士の学位を取得。1944年文部省統計数理研究所第三部兼任所員。1952~1953年インド統計研究所客員教授として、P・C・マハラノビス所長のもとで研究。1965年ノースカロライナ大学統計学部客員、1966年カトリック大学数学科統計研究室教授、1970年~1988年、東京理科大学教授。
米山 正夫(よねやま まさお、1912年〈大正元年〉10月3… 米山 正夫(よねやま まさお、1912年〈大正元年〉10月3日 - 1985年〈昭和60年〉2月22日)は、日本の作曲家、作詞家である。日本コロムビア専属。別名に勝沼久、Jason Albert。生涯に1000曲以上を作曲し、美空ひばりの「リンゴ追分」など昭和のヒット曲を数多く手がけた。 東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町穏田(おんでん、現在の渋谷区)に生まれる。父親の米山正は倉知誠夫(三越会長)、山本留次、益田英作(益田孝の弟)らと東京蓄音機株式会社を設立し、専務取締役を務めた実業家。旧制成蹊高等学校尋常科に進むが、音楽の道を諦めきれずに東洋音楽専門学校(現在の東京音楽大学)へ転入する。 1934年にピアノ科を首席で卒業し、藤原義江のピアノ伴奏などで修行を重ねる。
飛島 斉(とびじま ひとし、1912年10月2日 - 200… 飛島 斉(とびじま ひとし、1912年10月2日 - 2006年4月11日 )は、日本の経営者。飛島建設社長、会長を務めた。 福井県出身。1937年に東北帝国大学工学部化学工学科を卒業し、同年に飛島組(のちの飛島建設)に入社した。1943年8月に社長に就任し、1985年6月に会長に就任。1991年6月に再び社長に就任し、1994年4月に相談役を経て、1998年6月には相談役に就任。 1974年11月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2006年4月11日、急性心不全のために死去。93歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
増野 正衛(ますの まさえ、1912年10月1日 - 198… 増野 正衛(ますの まさえ、1912年10月1日 - 1985年〈昭和60年〉3月10日)は、日本の英文学者、翻訳家。 1938年京都帝国大学文学部英文科卒、立命館大学助教授、京都工芸繊維大学教授、甲南大学教授、就実女子大学教授。ワイン研究家でもあった。 父親は、増野製作所創業者の増野清香。2代目社長の増野香次、3代目社長の増野鋼四郎は弟である。 東京府立第五中学校時代の同級生にNHKアナウンサーの田辺正晴がいる。
堀内 一彌(ほりうち かずや、1912年10月1日 - 19… 堀内 一彌(ほりうち かずや、1912年10月1日 - 1972年4月11日)は、日本の衛生学者。 慶應義塾大学附属医学専門部教授(1945年9月-1949年3月)、大阪市立医科大学(現・大阪市立大学大学院医学系研究科)教授(1947年3月-1972年4月11日)。重金属による環境汚染、とりわけ鉛中毒を専門とした。衛生学の分野に科学的手法を取り入れた、公害対策の第一人者であった。 東京都出身。1937年慶應義塾大学医学部を卒業し、同年聖路加病院内科に勤務する。1938年に陸軍の召集を受け、軍曹として軍務に付く。1939年6月少尉に任官し、1940年12月中尉に昇進する。1941年4月に召集解除となり、5月に慶應義塾大学医学部衛生学教室助手に就任。
服部 高顯(はっとり たかあき、1912年〈大正元年〉10月… 服部 高顯(はっとり たかあき、1912年〈大正元年〉10月1日 - 1993年〈平成5年〉3月24日)は、日本の裁判官。第9代最高裁判所長官。愛知県出身。位階は従二位。 第八高等学校、東京帝国大学法学部卒業。裁判官になったあと陸軍に召集され、下士官を過ごした。英語が抜群の出来で、戦後は司法省大臣官房で連合国との折衝にあたった。最高裁民事局第一課長の時に家事審判規則の制定に参画した。その後、司法研修所教官や東京地裁で裁判実務についた。1954年にフォード財団が支援した日米法学者交流でアメリカの大学に2年間留学した。帰国後、津地裁所長、東京高裁判事、福岡高裁長官、大阪高裁長官を歴任。 1975年12月3日に最高裁判所判事に就任。
老松 一吉(おいまつ かずよし、おいまつ かずきち、1911… 老松 一吉(おいまつ かずよし、おいまつ かずきち、1911年(明治44年)10月30日 - 2001年(平成13年)3月24日)は、日本の男性フィギュアスケート選手。富山県東礪波郡出町(現・砺波市)出身。1932年レークプラシッドオリンピック、1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック男子シングル日本代表。ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックでは日本選手団の旗手。日本初のフィギュアスケートのオリンピック代表選手の一人。 中学2年の時、大阪でスケートを始める。1930年(昭和5年)、第1回全日本選手権に最年少で出場し5位に入る。翌1931年、第2回全日本選手権では優勝する。1932年(昭和7年)には北米に遠征し、1932年レークプラシッドオリンピックで9位、世界選手権で7位となった。
宮本 三郎(みやもと さぶろう、1911年10月29日 - … 宮本 三郎(みやもと さぶろう、1911年10月29日 - 1981年6月7日)は、日本の国文学者。 1936年東京帝国大学文学部国文科卒、学習院大学文学部教授。定年前に死去。俳諧、特に芭蕉を専門とした。
近藤 天(こんどう たかし、1911年(明治44年)10月2… 近藤 天(こんどう たかし、1911年(明治44年)10月29日 - 1994年(平成6年)1月23日)は、元体操選手、実業家。 東京市神田区に生まれる。1936年(昭和11年)早稲田大学専門部法科卒。在学中に、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 現役引退後は、体操指導者となり、1956年メルボルンオリンピックおよび1960年ローマオリンピックでは体操総監督を務めた。ほか、1968年の第8回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補したが落選。日東鉄工社長、国際体操連盟副会長、日本オリンピック委員会常任委員、アジア体操連合会会長を歴任し、1982年(昭和57年)日本体操協会会長となり、1991年(平成3年)名誉会長に就任した。
寒川 喜一(かんかわ きいち、1911年(明治44年)10月… 寒川 喜一(かんかわ きいち、1911年(明治44年)10月27日 - 1990年(平成2年)2月3日)は、日本の地方公務員、政治家。衆議院議員。 徳島県出身。1933年に関西大学専門部第1部法科を卒業。大阪府書記となり、地方事務官、大阪府人事委員会事務局長、同府労働部長などを歴任。その後、大阪府職業訓練協会副会長、寒川労働コンサルタント所長、関西大学評議員などを務めた。 1963年(昭和38年)第30回衆議院議員総選挙、次の第31回総選挙で落選。1969年(昭和44年)12月、第32回総選挙で大阪府第1区に民社党から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。民社党大阪府支部連合会副会長、同会長代理、同大阪1区連会長、同党本部中央委員、同沖縄対策部会長、民社中小企業政治連合大阪1区連合会会長などを務めた。
花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1… 花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1978年1月14日)は、日本の編集者・グラフィックデザイナー・ジャーナリスト・コピーライター。生活雑誌『暮しの手帖』の創刊者。 1911年、兵庫県神戸市に6人兄弟の長男として生まれる。父親の花森恒三郎は裕福な薬種商であったが、競馬や株などで財を無くし、安治が8歳のときには火事で家が全焼したため長屋暮らしとなった。安治は幼い頃より画才に優れ、神戸市立雲中小学校の同級には田宮虎彦がいた。旧制兵庫県立第三神戸中学校では活動写真部と弁論部に入り、1年浪人して旧制松江高等学校に進む。旧制高校時代、田所太郎らと校友会雑誌(第20号:1932年12月が花森の責任編集号)の編集に参加したことが編集者としての出発点になったと語る。
香月 泰男(かづき やすお、1911年〈明治44年〉10月2… 香月 泰男(かづき やすお、1911年〈明治44年〉10月25日 - 1974年〈昭和49年〉3月8日)は、山口県大津郡三隅町(現・長門市)出身の洋画家。昭和を代表する洋画家の一人。 開業医の息子として生まれるも、幼い頃両親が離婚。厳格な祖父に育てられる。山口県立大津中学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業後、川端美術学校を経て1931年に東京美術学校に入学、藤島武二の教室に学ぶ。 1936年、美術学校卒業後、北海道庁立倶知安中学校(現・北海道倶知安高等学校)の美術科教師として着任。その後、山口県立下関高等女学校(現・山口県立下関南高等学校)に転任する。 1942年、太平洋戦争勃発により召集を受け、兵として満州へ。
及川 道子(おいかわ みちこ、1911年10月25日 - 1… 及川 道子(おいかわ みちこ、1911年10月25日 - 1938年9月30日)は、日本の女優。 1920年代後半〜1930年代前半の日本映画で、清楚で近代的なキャラクターを数多く演じ、「永遠の乙女」と呼ばれた。 1911年10月20日、東京府豊多摩郡渋谷町(現・東京都渋谷区)に生まれる。父・鼎寿は、社会主義運動家の経歴を持ち、後に出版社の春秋社に勤務した。両親ともにクリスチャンであり、その影響で道子も敬虔なキリスト教信者となる。1924年に小学校を卒業し、当時存在した東京音楽学校一橋分教場声楽科に入学。同年秋、小山内薫の紹介で、築地小劇場に加わる。 同年12月の第18回公演『そら豆の煮えるまで』で主役の少年に抜擢され初舞台。
森田 素夫(もりた もとお、1911年〈明治44年〉10月2… 森田 素夫(もりた もとお、1911年〈明治44年〉10月24日 - 1961年〈昭和36年〉11月17日)は、日本の小説家。1942年、「冬の神」で芥川賞にノミネートされた。 1911年、群馬県北群馬郡伊香保町の旅館・古久屋に生まれる。前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学び1930年準卒業。第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学文学部英文科を卒業。在学中に『早稲田文科』を創刊、『象徴時代』『泉』『文芸主潮』『早稲田文学』などの雑誌にも関与した。神近市子などから高い評価を受けた。1942年より応召。同年、「冬の神」で芥川賞にノミネートされる。 戦後は一時期東西出版社で『旬刊ニュース』の編集に携わる。
千種 義人(ちぐさ よしんど、1911年10月24日 - 2… 千種 義人(ちぐさ よしんど、1911年10月24日 - 2000年9月3日)は、日本の理論経済学者、慶應義塾大学名誉教授、関東学園大学名誉教授。広島修道大学学長。紫綬褒章受章。 1911年、兵庫県で生まれた。慶應義塾大学経済学部に入学し、金原賢之助のゼミナールに所属した。1937年に同大学を卒業し、ドイツ留学。 1937年、慶應義塾大学経済学部助手に採用された。1943年に助教授昇格。1944年からは警察大学校講師も兼任。 戦後も変わらず経済原論を担当した。1949年に教授に昇任。1960年、学位論文『資本主義計画経済の研究』を慶應義塾大学に提出して経済学博士を取得。1959年より1年間、ケンブリッジ大学およびハーバード大学に派遣研究留学。
小畑 千秋(おばた ちあき、1911年10月24日 - 19… 小畑 千秋(おばた ちあき、1911年10月24日 - 1995年9月16日)は、日本の経営者。日本ペイント社長を務めた。兵庫県出身。位階は正五位。 1935年に神戸商業大学を卒業し、日本生命保険での勤務を経て、1937年12月に日本ペイントに入社。1944年2月に取締役に就任し、1946年2月に常務、1952年12月に専務を経て、1965年6月には社長に就任。1975年7月には会長に就任。 1973年4月に藍綬褒章を受章し、1981年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1995年9月16日心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
早瀬 喜太郎(はやせ きたろう、1911年10月22日 - … 早瀬 喜太郎(はやせ きたろう、1911年10月22日 - 1977年3月17日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。北海道奥尻島生まれ。 1929年旧制東京府立第五中学校を卒業後、朝鮮の金山や日本の喜茂別・大土森鉱山などに勤務。1940年早稲田大学理工学部採鉱冶金学科に入学、1943年に同学科を修業、1945年に早稲田大学専門部工科講師となる。1949年4月新制大学発足に伴い理工学部鉱山学科講師となり、同年10月助教授に昇進。1950年同大学より工学博士の学位取得。博士論文の表題は「松尾硫黄鉱床の成因と採鉱」。退任まで鉱物学実験・岩石学実験などを担当、該博な知識と長年の実務経験を生かし、多くの学生を育てる。
柏木 千秋(かしわぎ ちあき、1911年〈明治44年〉10月… 柏木 千秋(かしわぎ ちあき、1911年〈明治44年〉10月22日 - 2003年〈平成15年〉2月21日)は、日本の法学者、弁護士、元判事。法学博士。専門は刑法。名古屋大学名誉教授。司法省事務官として内藤文質、森田宗一とともに1948年少年法の立法に携わった。 東京出身。三重県士族・柏木五百次郎の三男。静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、1937年、東京帝国大学法学部卒業。東大在学中に司法試験に合格。 判事司法事務官などを経て、1949年、東京地方裁判所判事から、1949年、名古屋大学に転じ、名古屋大学法学部教授。1975年、名古屋大学を定年退官。 その後、筑波大学、慶應大学教授などを経て、1993年、創価大学教授を退職。
平田 俊春(ひらた としはる、1911年10月22日 - 1… 平田 俊春(ひらた としはる、1911年10月22日 - 1994年11月14日)は、日本の歴史学者。防衛大学校名誉教授。正四位勲三等旭日中綬章。
塚本 信男(つかもと のぶお、1911年10月22日 - 1… 塚本 信男(つかもと のぶお、1911年10月22日 - 1993年4月16日)は、日本の実業家。六甲バターの創業者。兵庫県出身。 1928年に大阪城東商業学校を卒業。1942年に東亜木工製作所を経営し、1943年に神戸港運を経て、1948年に六甲バターを設立し、社長に就任。1985年に会長に就任。 1984年11月に勲五等双光旭日章を受章した。 1993年4月16日呼吸不全のために死去。81歳没。
佐々木 洋興(ささき ひろおき、1911年10月22日 - … 佐々木 洋興(ささき ひろおき、1911年10月22日 - 2008年6月19日 )は、日本の有機化学者。民間財団法人経営者。理学博士。 1911年(明治44年)、佐々木隆興の長男として、東京に生まれた。東京高等学校修了後、東北帝国大学理学部化学科で学び、卒業。 卒業後は同大学副手に採用された。1945年、財団法人佐々木研究所研究員となり、理事を兼ねた。1958年、学位論文『グリシンから出発するアミノ酸の生成およびその関連反応について』を東北大学に提出して理学博士号を取得。1965年、慶應義塾大学教授に就任。1966年、父の佐々木隆興の後を受けて(財)佐々木研究所第2代理事長に就任。以後35年間理事長職にあったが、2001年に(財)佐々木研究所名誉理事長・特別顧問に引いた。
八木 義徳(やぎ よしのり、1911年(明治44年)10月2… 八木 義徳(やぎ よしのり、1911年(明治44年)10月21日 - 1999年(平成11年)11月9日)は、日本の小説家。日本芸術院会員。位階は従四位。 北海道胆振国室蘭郡室蘭町大字札幌通4丁目(現在の室蘭市中央町1丁目)に、父・田中好治、母・八木セイの次男(庶子)として生まれる。父の好治は山梨県東山梨郡春日居村(現在の笛吹市春日居町)の出身で、東京帝国大学医科大学を卒業し、義徳が出生した時点では町立室蘭病院(現在の市立室蘭総合病院)に務めていた。名医と評判であり、その後独立して室蘭市内に田中病院を開業している。一方、母のセイは青森県東津軽郡油川村(現在の青森市大字油川字大浜)出身で、小樽市の海産物商の養女となるが養家が没落し、室蘭で芸妓となり田中好治と知り合った。
石津 謙介(いしづ けんすけ、1911年10月20日 - 2… 石津 謙介(いしづ けんすけ、1911年10月20日 - 2005年5月24日)は、20世紀に活動した日本のファッションデザイナー。株式会社ヴァンヂャケット創業者。日本メンズファッション協会最高顧問。 高度経済成長期にあたる1960年代の日本に登場した男性ファッション「アイビールック」の生みの親で、“メンズファッションの神様”と呼ばれた。岡山県岡山市出身。石津祥介は長男、ファーストサマーウイカは曽姪孫。 岡山の紙問屋の次男として生まれる。岡山師範学校附属小学校から旧制第一岡山中学(現・県立岡山朝日高校)を経て、明治大学専門部商科に入学。スポーツ万能であるとともに流行の先端をいく遊びに長け、明大在学中はオートバイ・クラブ、自動車部、航空部などを創部した他、ローラースケート、乗馬、水上スキーなどにも興じた。