小田桐 政信(おだぎり まさのぶ、慶応2年10月5日〈186… 小田桐 政信(おだぎり まさのぶ、慶応2年10月5日〈1866年11月11日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月)は、明治から昭和時代戦前の実業家、政治家。青森市会議長。 青森県士族の小田桐伊三郎の長男として生まれ、1897年(明治30年)家督を継ぐ。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を卒業し、1895年(明治28年)青森警察署に出仕する。 青森製材製柾社長、青森製氷・函館運送社・青森運送合同・運送相互保証各取締役、青森薪炭監査役などを歴任し、のち推挙され青森市参事会員となる。ほか、1941年(昭和16年)8月に青森県会議員に当選した。のち青森市会議長在任中に死去した。
五世 浜村 蔵六(ごせい はまむら ぞうろく、男性、慶応2年… 五世 浜村 蔵六(ごせい はまむら ぞうろく、男性、慶応2年(1866年) - 明治42年(1909年)11月25日)は、明治期の日本の篆刻家である。 名は裕、字は有孚、蔵六を号し、別号に無咎道人・彫虫窟主人。通称立平。陸奥国弘前出身。 三谷大足の次男として生まれ、東奥義塾で洋学を修めた。23歳のとき上京。金子蓑香に篆刻を学び、その後四世浜村蔵六の門下となる。四世蔵六に継嗣がいなかった為請われてその養子となり、明治27年(1894年)5月浜村蔵六を嗣ぎ、永らく向島に住む。各地を遊歴後、二度にわたって清国を訪問。康有為ら政治家と親交した。また呉昌碩や徐三庚と交わり、その奥義を伝えられる。このため浜村家に代々伝えられた印法が変容したとされるが、四世蔵六のとき代々伝えられた印籍類が火災で焼失したことが原因とも考えられる。
平野 勇造(ひらの ゆうぞう、1864年12月21日〈元治元… 平野 勇造(ひらの ゆうぞう、1864年12月21日〈元治元年11月23日〉 - 1951年〈昭和26年〉2月9日)は、日本の建築家。旧姓は堺、その後佐藤。幼名は七五郎。 石川島造船所創業者の平野富二、および東京海上保険支配人の益田克徳の娘婿で、長男は平野義太郎(最初の妻との間の子)。 ※以下の文章では当人を指す名称を1890年以前は「七五郎」、以後は「勇造」とする。 陸奥国北郡大畑(現在の青森県むつ市で、旧大畑町)に生まれる。堺喜藤治の四男だった。家系は堺で海運業を営んでいた「納屋衆」の系譜で、その一族から越前国の三国に嫁いだ女性の子孫が大畑に移り住み、海運が盛んな大畑で廻船問屋となった。「三国屋」の屋号を持ち、一族の故地にちなんで「堺」姓を名乗った。
白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - … 白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - 1915年4月11日)は、日本の政治家 、教育者。 白鳥家は、代々庄屋を務め、弘前藩主津軽家から苗字帯刀を許された家柄であった。2代藩主津軽信枚の生母・栄源院(津軽為信の側室。白鳥長久の娘とも。堀越城代・白取伊右衛門の妹。弘前藩家老職・白取瀬兵衛信次は甥にあたる)の生家の分家で、白鳥長久の末裔 という。白鳥氏は津軽家に仕えた後、「白鳥」を「白取」と改め、明治維新後に再び「白鳥」と改めた。 白鳥鴻彰は元治元年3月25日に津軽郡荒川村(現:青森市荒川)に、 白鳥慶一・いそ夫妻の長男として生まれる。幼名は初太郎または八太郎。 父・慶一は明治11年(1878年)に府県会規則が公布され、明治12年(1879年)3月県会の開催が決まると第1回の青森県会議員選挙に立候補、当選。
石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(18… 石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(1863年9月13日) – 昭和13年(1938年)9月12日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弘前市長。 弘前に生まれ、東奥義塾を卒業した。1889年(明治22年)、弘前市会議員となり、1891年(明治24年)には中津軽郡会議員となった。1896年(明治29年)、青森県会議員に選出され、1903年(明治36年)には議長に就任した。1907年(明治40年)、県会議長に再選され、弘前市会議長も兼ねた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1期務めた。1913年(大正2年)、再び市会議員となり、さらに1918年(大正7年)・1922年(大正11年)・1934年(昭和9年)の3度、弘前市長に選出された。
平山 浪三郎(ひらやま なみさぶろう、1862年12月19日… 平山 浪三郎(ひらやま なみさぶろう、1862年12月19日〈文久2年10月28日〉 - 1922年〈大正11年〉8月16日)は、日本の政治家(貴族院議員)、実業家、資産家、篤農家、青森県多額納税者、青森県の大地主。族籍は青森県平民。 陸奥国津軽郡五所川原村(現・青森県五所川原市)出身。平山助六の長男。1903年、家督を相続。農業を営む。 1917年(大正6年)青森県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年1月18日から1918年9月28日まで務めた。 五所川原銀行頭取、陸奥鉄道、五所川原銀行、青森県農工銀行各取締役などを務めた。 津軽地方の一大地主で、多額納税者である。住所は青森県北津軽郡五所川原町。
北海 大太郎(ほっかい だいたろう、1862年7月6日(文久… 北海 大太郎(ほっかい だいたろう、1862年7月6日(文久2年6月10日) - 1934年(昭和9年)5月19日)は、陸奥国津軽郡(現在の青森県平川市)出身で高砂部屋に所属した元力士。本名は岩渕 大次郎。164cm、88kg。最高位は東前頭筆頭。 相撲の盛んな青森県で草相撲に励んでいたが、1884年1月に21歳で高砂部屋に入門。低い重心からの腰投げを得手とした。1888年5月に新十両昇進を果たした後、1890年1月に新入幕。以後連続27場所幕内を務め、1896年1月には東筆頭の地位まで番付を上げた。40歳で十両に陥落してからも現役を続け、1910年1月に47歳を以て引退した。江戸時代の生まれで両国国技館の土俵にあがった力士のひとりである。
3代 加藤 宇兵衛(かとう うへえ、1862年1月27日(文… 3代 加藤 宇兵衛(かとう うへえ、1862年1月27日(文久元年12月28日) - 1929年(昭和4年)8月22日)は、明治から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。大地主。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(3期)。 造酒屋「沢成 (さわなり、屋号・沢屋)」の2代・加藤成之助の長男として、陸奥黒石藩領津軽郡黒石上町(青森県南津軽郡黒石町を経て現黒石市)に生まれる。1890年(明治23年)から青森県会議員に5回、1902年(明治35年)から衆議院議員に3回当選する。さらに1906年(明治39年)には青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、翌年1月18日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
千年川 政吉(ちとせがわ まさきち、文久元年7月25日(18… 千年川 政吉(ちとせがわ まさきち、文久元年7月25日(1861年8月30日) - 明治45年(1912年)7月4日)は、青森県つがる市出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は奈良 安吉(なら やすきち)。身長170cm、体重94kg。最高位は小結。 一ノ矢藤太郎を頼って津軽から上京。小結を5場所務めた。腸を患っていたため思うような活躍ができなかったが、技量も土俵態度も優れ、三役の風格を持っていた。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
工藤 善太郎(くどう ぜんたろう、1860年8月11日(万延… 工藤 善太郎(くどう ぜんたろう、1860年8月11日(万延元年6月25日) - 1932年(昭和7年)10月2日)は、明治から大正時代の政治家、地主、醸造家。衆議院議員(1期)。 のちの青森県南津軽郡大杉村(のち浪岡町、現在の青森市)に生まれる。地主で酒造業を兼業した。青森県師範学校卒業。1890年(明治23年)青森県会議員に当選し、通算5期14年在任したほか、1898年(明治31年)には県参事会員も務めた。ほか、大杉村会議員、南津軽郡会議員などを歴任した。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では青森県郡部から立憲政友会非公認で出馬し当選。1914年(大正3年)には政友会を脱党し、翌年の第12回総選挙では落選した。
6代 徳差 藤兵衛(とくさし とうべえ、1860年6月14日… 6代 徳差 藤兵衛(とくさし とうべえ、1860年6月14日(万延元年4月25日) - 1944年(昭和19年)10月19日)は、明治から昭和時代前期の政治家。衆議院議員(3期)。青森県東津軽郡筒井村長。 陸奥弘前藩領津軽郡原別村(青森県東津軽郡原別村を経て現青森市原別)の小笠原家に生まれ、筒井村(筒井町を経て現青森市筒井)の徳差家の婿養子となる。小学校教員、戸長、村連合会議員、学区会議員、同議長、学務委員、村会議員、東津軽郡会議員などを経て、1890年(明治23年)より青森県会議員を3期務めたのち1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選した。第6回、第7回総選挙でも当選し衆議院議員を3期務めた。
工藤 卓爾(くどう たくじ、万延元年3月25日(1860年4… 工藤 卓爾(くどう たくじ、万延元年3月25日(1860年4月15日) - 大正14年(1925年)7月19日)は、青森市初代市長。港湾、水道、中央停車場(現:青森駅)など青森市の振興に取り組んだ政治家として知られる。衆議院選挙には2度当選。政財界の巨頭でもあった。合浦公園には彼を偲んで「工藤卓爾君彰徳碑」が建てられている。孫には第26~29代青森市長の工藤正がいる。
平田 平三(ひらた へいぞう、1860年4月12日〈万延元年… 平田 平三(ひらた へいぞう、1860年4月12日〈万延元年3月22日〉 - 1933年〈昭和8年〉2月14日)は、日本の牧師。 万延元年(1860年)3月22日、青森県弘前城下に生まれる。明治8年(1875年)に朝陽小学校、明治12年(1879年)に東奥義塾を卒業し、明治12年(1879年)に耕教学舎(後の青山学院大学)に入学する。同年9月に横浜神学校に転校し、明治16年(1883年)に卒業する。 明治15年(1882年)に美以教会(メソジスト派)の伝道師になる。明治20年(1887年)に按手礼を受けて、牧師になる。 明治21年(1888年)に東京英和学校を卒業し、神田、飯田、松本、四谷の美以教会を歴任する。
山鹿 旗之進(やまが はたのしん、1860年2月16日〈安政… 山鹿 旗之進(やまが はたのしん、1860年2月16日〈安政7年1月25日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月1日)は、日本のメソジストの牧師、教育者、文筆家。 万延元年(1860年)に弘前藩の江戸藩邸に生まれる。津軽に帰郷し藩学を経て、東奥義塾に入り、ジョン・イングと本多庸一の指導を受ける。1877年(明治10年)、イングより洗礼を受ける。 弘前教会資産係を経て、勧士になる。1879年、横浜山手の美會神学校開校と同時に入学する。1887年に東京英和学校を卒業すると、母校の教師になる。 1887年、長老の按手礼を受け、名古屋中央教会に赴任し、岐阜・高山の開拓伝道を行う。名古屋清流女学校の創設にも関わる。
松下 賢之進(まつした けんのしん、1860年(万延元年) … 松下 賢之進(まつした けんのしん、1860年(万延元年) - 1930年(昭和5年))は日本の政治家。青森県弘前市長。 陸奥国津軽郡弘前に工藤秀三郎の次男に生まれる。後に松下長右衛門家を再興するため松下姓となる。青森県巡査から警部に進み、青森警察署長、警察部保安、衛生、警察の各課長を歴任。1899年、静岡県に移り警察に勤務し、間もなく山梨県の警察に勤務する。その後、山梨県北巨摩郡長となり、後に帰郷し、中津軽、三戸、南津軽の各郡長を務める。1921年、北海道に渡り、網走町長となった。1926年、憲政会から推されて弘前市長に就任した。市長は1930年まで務めた。
阿部 政太郎(あべ まさたろう、1859年12月24日(安政… 阿部 政太郎(あべ まさたろう、1859年12月24日(安政6年12月1日) - 1934年(昭和9年)10月4日)は、青森市長、衆議院議員(立憲政友会)。号は波城。 陸奥国南津軽郡浪岡村(現在の青森県青森市)出身。1878年(明治11年)、青森県師範学校予科を卒業し、小学校教員となった。ついで青森県医学校監事補、青森県御用掛を務めた。その後、官を辞して上京し、明治法律学校(現在の明治大学)で学んだ。 帰郷後、南津軽郡会議員に選出され、さらに青森県会議員に選出された。1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。その後、1917年(大正6年)と1925年(大正14年)の2度青森市長に選出された。
中田 久吉(なかだ ひさきち、1859年9月9日(安政6年8… 中田 久吉(なかだ ひさきち、1859年9月9日(安政6年8月13日) - 1905年(明治38年))は、メソジストの牧師。禁酒運動、廃娼運動に大きな働きをした。弘前ではリバイバル運動の先鋒だった。中田重治の実兄。 弘前藩足軽の父兵作、母千代の間に3人兄弟の長男として現在の青森県弘前市に生まれる。明治維新後、一家は南津軽郡大光寺村へ移住する。1875年、父の兵作が脳溢血で死去する。その後は弘前に戻り東奥義塾に通う。1878年、軍人養成所に入所して、西南戦争に出征するも、実戦に参加せずに1883年に弘前へ帰郷する。スパルタ式教育で弟の重治を教育する。 1884年(明治17年)軍隊へ戻り、金沢連隊の営所に転勤する。
山鹿 元次郎(やまが もとじろう、1859年2月2日〈安政5… 山鹿 元次郎(やまが もとじろう、1859年2月2日〈安政5年12月30日〉 - 1947年〈昭和22年〉12月31日)は、日本のメソジストの牧師、教育者。文筆家である。弘前教会牧師を長年務める。 津軽藩士の古田家の次男として江戸藩邸に生まれる。山鹿素行の後の津軽山鹿家の養子になり、別家を継いだ。帰郷し東奥義塾に入り、ジョン・イングと本多庸一の指導を受ける。1875年(明治8年)10月3日にイングより洗礼を受ける。 養家の山鹿家の都合で新聞社経営に参加し、記者の筆禍事件の責を負って禁錮7ヶ月判決を受けた。獄中で聖書を読んで、献身の召命を受ける。1882年に本多庸一の勧めで、弘前教会内の女学校(弘前学院)の校長になる。
竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年… 竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年3月21日) - 1929年(昭和4年)12月24日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、新聞経営者。衆議院議員(1期)。 弘前藩士・竹内多作の長男として弘前城下(現青森県弘前市)に生まれる。廃藩後、一家は南津軽郡浅瀬石村(現黒石市)へ移住する。ついで黒石町に住んだ。1877年(明治10年)召募巡査として西南戦争に参加し、その帰郷の際に政治家を志した。1886年(明治19年)黒石の政治結社益友会の常任書記に任じた。ほか、東津軽郡書記、戸長、山形村長、南津軽郡会議員、同参事会員などを歴任した。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では青森県郡部から出馬し当選。
陸 羯南(くが かつなん、安政4年丁巳10月14日(1857… 陸 羯南(くが かつなん、安政4年丁巳10月14日(1857年11月30日) - 明治40年(1907年)9月2日)は、日本の国民主義の政治評論家。日本新聞社長。正岡子規を育て、池辺三山、徳富蘇峰とともに明治の三大記者と称された。幼名は巳之太郎、のち実、号は羯南。 弘前藩の御茶坊主頭・中田謙斎と妻・なほ(旧姓、種市)の子として、陸奥国弘前(現・弘前市)在府町に生まれた。長男・次男 の両説がある。謙斎は微禄であった。 明治4年(1871年)頃から、藩校の教官・工藤他山の私塾・思斉堂に学び、明治6年(1873年)、旧藩校の後身・東奥義塾へ進み、明治7年(1874年)に宮城師範学校に転じたが、明治9年(1876年)に校長・松林義規(旧大村藩士)に逆らい退校処分を受けた。
佐藤 源蔵(さとう げんぞう、1857年11月20日(安政4… 佐藤 源蔵(さとう げんぞう、1857年11月20日(安政4年10月4日)- 1937年(昭和12年)1月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 陸奥国津軽郡畑中村(現在の南津軽郡田舎館村)に生まれる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を持つ大地主 佐藤治郎左衛門の長男。 その後、1889年(明治22年)の 町村制施行とともに田舎館村収入役に就任し、2期務める。1905年(明治38年)佐藤、田沢周助(田沢吉郎の父)、宮舘貞吉の提唱により信用組合を創立し、組合長に就任。衆議院議員の加藤宇兵衛や宇野清左衛門と共に、黒石銀行取締役や津軽銀行取締役などを歴任し、県内での銀行の普及に努めた。
伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9… 伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9月9日) - 1926年(大正15年)8月5日)は、日本の明治より大正期にかけての医師・政治家・思想家。現在の青森県出身で、青森県医師会会長や弘前市長、衆議院議員を歴任した。今東光の母方の伯父にあたる。 1857年(安政4年)旧暦9月9日の重陽節句の日に、現在の弘前市元長町において、津軽藩典医伊東家久・もと夫妻の次男として生まれる。幼名は滝次郎と称した。 1865年(慶応元年)、原子塾に入塾。後に黒滝学校に転じ、1868年(明治元年)藩校稽古館に入学。1871年(明治4年)藩命により英学修行を命じられ、英学塾(翌年東奥義塾と改名)に入塾。
仁太坊(にたぼう、安政4年7月7日(1857年) - 昭和3… 仁太坊(にたぼう、安政4年7月7日(1857年) - 昭和3年1月2日(1928年))は青森県生まれの津軽三味線奏者。本名・秋元仁太郎。津軽三味線の始祖。 1857年(安政4年)に金木新田(かなぎしんでん)の神原村(現・青森県五所川原市金木町神原)に生まれる。本名は仁太郎(にたろう)。父・三太郎は岩木川の河原の舟小屋に住み、渡し守を務めていた。母は出産後しばらくして体を壊し、亡くなっている。 仁太郎は8歳で天然痘にかかり失明。当時の幕藩体制下では、目の不自由な男性が経済的に身を立てるため琵琶や三味線、そして按摩や鍼灸の技能を習得する職能ギルドのような組織として「当道座」があった。しかし、当道座は封建体制の中の身分制組織であり、「筋目悪しき者」とされていた渡し守の子である仁太郎は当道座に入ることが許されなかった。
関 春茂(せき はるしげ、1857年5月8日(安政4年4月1… 関 春茂(せき はるしげ、1857年5月8日(安政4年4月15日) - 1939年(昭和14年)2月26日)は、日本の政治家。衆議院議員、青森県八戸町長。 八戸藩士・関彦市の息子として八戸城下で生まれる。1875年(明治8年)に蛇口胤親によって開設された八戸で初の英学校「開文舎」で学ぶ。翌年に陸奥国八戸光学会でギリシア正教の洗礼を受ける。1881年(明治14年)に明治天皇が八戸に巡幸した際には漢詩の祝詞を贈ったこともある。 1888年(明治21年)に青森県会議員に初当選、翌年に奈須川光宝らと自由党系の政治結社である八戸土曜会を結成した。1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙で青森県郡部から選出され、衆議院議員に1期在任した。
佐藤 愛麿(さとう あいまろ(よしまろ)、1857年4月22… 佐藤 愛麿(さとう あいまろ(よしまろ)、1857年4月22日〈安政4年3月28日〉 - 1934年〈昭和9年〉1月12日、満76歳没)は、日本のメソジスト派牧師、外交官(特命全権大使)、宮中顧問官。 弘前藩家老山中逸郎泰靖の次男として生まれる。幼名は次郎。勘定奉行佐藤清衡の養子になり、20歳の時に愛麿と改名。 1875年(明治8年)ジョン・イングより洗礼を受け、弘前バンドの一人として伝道に従事。東奥義塾創設と同時に入学し、弘前公会の設立に参画した。 1876年(明治9年)に菊池九郎、本多庸一、イングに引率されて、東北巡幸中の明治天皇に謁見し、珍田捨巳、伊東重らと共に英文演説を奉呈した。 1877年(明治10年)イングの紹介で、珍田捨巳らとともにアメリカのインディアナ・アスベリー大学(現・デポー大学)に留学し、Bachelor of Arts 及び Master of Philosophy を取得。
珍田 捨巳(ちんだ すてみ、1857年1月19日〈安政3年1… 珍田 捨巳(ちんだ すてみ、1857年1月19日〈安政3年12月24日〉- 1929年〈昭和4年〉1月16日)は、日本の外交官。侍従長・枢密顧問官・外務次官。位階・勲等・爵位は従一位勲一等伯爵。キリスト教牧師(メソジスト派)。 弘前藩の下級藩士・珍田有孚の長男として、現在の青森県弘前市で生まれる。藩校の稽古館を経て、東奥義塾に学び、本多庸一の薫陶を受けて学び卒業。本多庸一校長の下で1874年(明治7年)東奥義塾の職員になる。1877年(明治10年)勇躍渡米しインディアナ・アスベリー大学で4年間学び、25歳のときに帰国した。当時、アメリカ事情と語学への通暁者は貴重な存在だった。1886年(明治19年)メソジストの弘前教会(現在の日本基督教団弘前教会教会堂)の副牧師になった。
芹川 得一(せりかわ とくいち、1857年(安政4年) - … 芹川 得一(せりかわ とくいち、1857年(安政4年) - 1923年(大正12年)2月)は日本の政治家。青森県青森市長。 陸奥国津軽郡弘前で津軽藩士芹川高正の家に生まれる。東奥義塾に入り、キリスト教に入信する。卒業後は同塾の教師となった。1889年、弘前市発足後の弘前市会議員選挙に出馬して当選する。2年後の1891年の府県制施行後の青森県会議員選挙に出馬して当選し、連続5期務める。この間、県参事員も務めた。 1904年1月に青森市長に就任。在任中に青森港の外国貿易特別輸出港の指定に尽力、それが実現した。また、1908年に青森を発着とする青函連絡船が就航した。さらに上水道整備に着手した。 市長は1908年まで務め、退任後は第五十九銀行頭取に就任した。
樋口 喜輔(ひぐち きすけ、1856年8月11日(安政3年7… 樋口 喜輔(ひぐち きすけ、1856年8月11日(安政3年7月11日) - 1933年(昭和8年)11月10日)は、青森県出身の政治家、実業家。 安政3年(1856年)、南津軽郡浪岡村(浪岡町を経て現青森市)に山内伝三郎の三男として生まれた。 一代で財を築き、当時の市財界の指導的立場に立つとともに、町政・市政にも関与。 明治25年に町会議員に当選して以来、20年にわたって町会・市会議員を務め、明治43年には市会議長に就任。明治45年には衆議院に当選(政友会)。 この間、青森港第2期拡張工事、水道事業の開始などに尽力。 大正10年青森貯蓄銀行(のち,みちのく銀行)を設立,頭取となる。他に、第五十九銀行監査役,青森電灯取締役などもつとめた。
綾浪 徳太郎(あやなみとくたろう、1856年6月3日(安政3… 綾浪 徳太郎(あやなみとくたろう、1856年6月3日(安政3年5月1日) - 1901年(明治34年)7月12日)は、陸奥国津軽郡(現在の青森県南津軽郡藤崎町)出身で高砂部屋に所属した力士。本名は高木 徳太郎。6代追手風。174cm、90kg。最高位は東関脇。 入門までは郷里にいて、主に農業や力仕事(蔵米の運搬)をしていた。怪力ぶりが惜しいと勧められ高砂部屋に入る。1880年5月に二枚目格付出で初土俵(序ノ口)。1886年1月に入幕を果たす。新入幕で2代目劔山をいきなり倒すなど6勝1敗2預の好成績を挙げた。1891年には関脇に昇進し連続4場所務めたが、1892年6月限り引退、追手風を襲名した。無類の怪力で知られ、巡業や花相撲で五斗俵を一度に8俵持ち上げ、土俵を一周する余興を行った。
一ノ矢 藤太郎(いちのや とうたろう、1856年4月29日(… 一ノ矢 藤太郎(いちのや とうたろう、1856年4月29日(安政3年3月25日) - 1923年(大正12年)2月15日)は、青森県南津軽郡田舎館村出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は福士 藤太郎。最高位は大関。現役時代の体格は178cm、95kg。 角界の革命児と謳われた初代高砂に入門し、1880年(明治13年)5月場所序ノ口。序ノ口から7場所目となる1883年(明治16年)5月場所で入幕を果たす。彼の入幕以降2026年3月場所時点まで143年間、青森県出身の幕内力士(現在は錦富士が平幕に在位)が不在だった場所は一度もない。幕下二段目から十両を一気に飛び越しての昇進であり、期待の大きさをうかがわせる。
市田 兵七(いちた/いちだ ひょうしち、1856年4月29日… 市田 兵七(いちた/いちだ ひょうしち、1856年4月29日(安政3年3月25日) - 1914年(大正3年)5月29日)は、明治時代の政治家、銀行家。衆議院議員(2期)。 陸奥弘前藩領津軽郡木作新田(青森県西津軽郡木造町を経て現つがる市)に生まれる。近江国神崎郡市田村(滋賀県神崎郡竜田村、北五個荘村、五個荘町を経て現東近江市)を本拠とした市田家の子孫。1885年(明治18年)西津軽郡会議員に当選し、議長代行者を務める。1891年(明治24年)には青森県会議員となり、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙では工藤行幹の急死に伴う補欠選挙で当選した。第10回総選挙でも憲政本党の非公認で出馬し当選。
奈須川 光宝(なすがわ みつとみ、1855年9月2日(安政2… 奈須川 光宝(なすがわ みつとみ、1855年9月2日(安政2年7月21日) - 1926年(昭和元年)12月29日)は、日本の政治家。青森県八戸町長、衆議院議員。 八戸城下の八戸藩士川勝家の子として生まれる。1862年(文久2年)に奈須川光武の養子となる。八戸初の英学校である開文舎で英語などを学び、1875年(明治8年)に八戸小学校の教諭となる。 1885年(明治18年)に青森県会議員に初当選。1888年(明治21年)に県会副議長を務め、翌年に自由党系の政治結社である八戸土曜会を結成した。 1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に青森県第1区から出馬し当選。その後、第5回、第6回総選挙で当選し、衆議院議員を通算三期務めた。
一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、1855年8月2日〈安政2年… 一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、1855年8月2日〈安政2年6月20日〉- 1931年〈昭和6年〉9月2日)は、日本陸軍の軍人。官位は陸軍大将正二位勲一等功二級。 教育総監、軍事参議官、第1・第4・第17師団長を歴任し、軍を退いてからは学習院院長・明治神宮宮司・帝国在郷軍人会長等の公職に就く。 弘前藩士一戸範貞の長男として生まれ、東奥義塾を経て1874年(明治7年)10月には陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り、1876年(明治9年)3月には陸軍少尉試補・歩兵第2連隊付を命ぜられる。1877年(明治10年)の西南戦争に出征し、負傷する。同年5月、少尉に進級する。1878年(明治11年)2月、歩兵第1連隊付に移り、1880年(明治13年)5月には中尉に進級し陸軍教導団小隊長を命ぜられる。
小山内 鉄弥(おさない てつや、嘉永6年7月3日(1853年… 小山内 鉄弥(おさない てつや、嘉永6年7月3日(1853年8月7日) – 明治44年(1911年)11月23日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弘前市長。 津軽藩士小山内連司の子として弘前に生まれる。1868年(慶応4年)2月、海岸警備のため平舘に派遣され、翌年には箱館戦争に参加し、旧幕府軍と戦った。1877年(明治10年)、警視局に出仕し、三等少警部心得、警部補、二等警部を歴任したが、ほどなくして辞職した。辞職後は郷里に帰り、北津軽郡相内村に協就社という牧場を開いた。 1884年(明治17年)、県会議員に当選し、1889年(明治22年)には議長に就任した。日清戦争の際には第1師団司令部に属して視察に赴き、実際に戦闘にも参加した。
江南 哲夫(えなみ てつお、嘉永6年〈1853年〉 - 19… 江南 哲夫(えなみ てつお、嘉永6年〈1853年〉 - 1916年〈大正5年〉11月21日)は、会津藩士、白虎隊士、実業家、書家。旧姓林、諱は哲夫、号は蝦農。勲六等瑞宝章。 文久元年(1861年)に会津藩の南学館友善社に入り漢学を修めると、大学試験に及第し藩校日新館に入る。会津戦争では、数え15歳で白虎隊士(寄合組一番隊)として越後口の防衛戦に出動、戦後は越後高田に謹慎となる。その間、南摩羽峯に学び、明治3年(1870年)に赦されて上京、増上寺徳水院の藩塾に入る。のち淀藩主稲葉正邦公の給費生として同藩校に入り、転じて同年大阪開成所に入り英学を修める。次いで、鹿児島兵学校、東奥義塾、共慣義塾等を転々とした。
4代 松木 彦右衛門(まつき ひこえもん、1851年(嘉永4… 4代 松木 彦右衛門(まつき ひこえもん、1851年(嘉永4年11月) - 1921年(大正10年)1月9日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 弘前城下松森町(弘前松森町を経て現弘前市松森町)で酒造業・松木家に生まれる。1867年(慶応3年)以降、弘前藩御用達となり、ついで松前商社頭取となった。1894年(明治27年)弘前両益銀行を創立し頭取に就任。1898年(明治31年)弘前銀行取締役を経て、のち第4代頭取となる。 そののち弘前電燈発起人筆頭を経て、1899年(明治32年)10月、青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年11月21日から務め、任期途中の1902年(明治35年)6月13日に辞職して、宮本甚兵衛にその職を譲った。
寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日(嘉永3年… 寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日(嘉永3年5月9日)- 1917年(大正6年)11月17日)は、明治期の教育者・政治家(立憲政友会所属)。勲四等。 弘前藩士の子。藩校「稽古館」で国学漢学を修めたのち、藩命により箱館でロシア正教会伝道者ニコライよりロシア語を学び、1869年(明治2年)には慶應義塾で政治学・法律学を修める。南部盛岡藩征討、箱館の乱、賊徒追討で軍功を挙げ藩主より金百を賜る。 その後、教育者として弘前英漢学校英学係、一等教授兼幹事、小学校教員、同校長を務める。また。政治家として土手町会議員、同学区会議員、郡町村連合会議員、同副議長、青森県会議員、同副議長、議長などを歴任。
源 晟(みなもと あきら、1850年(嘉永3年8月) - 1… 源 晟(みなもと あきら、1850年(嘉永3年8月) - 1918年(大正7年)9月29日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。弁護士。日本ハリストス正教会洗礼者(霊名パウェル)。衆議院議員(2期)。旧姓・河原木。幼名は滝蔵。 八戸藩士。祐筆を務めた河原木弥兵衛の九男に生まれる。藩学校で漢学や洋学を修めたのち明治維新前後は八戸藩学二等寮長となり、1871(明治 4)年5月に東京に遊学した。1872年(明治5年)壬申戸籍編成の時、八戸に伝わる義経伝説にちなんで、源晟と姓名を改める。 21歳で代言人となったのち、公娼廃止運動や救貧運動的な考えを持ちギリシャ正教に傾倒する。1876年(明治9年)陸奥国八戸光栄会を設置し関春茂や久保忠勝(のち鮫村長)らと共に沢辺琢磨より八戸初の洗礼を受ける。
本多 庸一(ほんだ よういつ、1849年1月7日(嘉永元年1… 本多 庸一(ほんだ よういつ、1849年1月7日(嘉永元年12月13日) - 1912年(明治45年)3月26日)は、日本のキリスト教伝道者・牧師・教育者・政治家。日本メソヂスト教会の初代監督。青森県弘前市生まれ。新島襄、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる。 本多の先祖は、徳川家譜代の本多氏の流れを汲む。 弘前藩士、石高300石の本多八郎左衛門久元(1823年-1896年)と本多トモの長男として1848年(嘉永元年)に弘前城下在府町に生まれる。幼名を徳蔵と言った。祖父、東作久貞は藩の要職を歴任した人物であった。 1858年、10歳より弘前藩の藩校稽古館で漢書の素読、儒学を学んだ。
稲城 篤実(いなき あつみ、1849年(嘉永2年) - 19… 稲城 篤実(いなき あつみ、1849年(嘉永2年) - 1918年(大正7年))は、日本の政治家。青森県八戸町長。 八戸城下の下組町に生まれる。町村制が成立する直前に八戸町の戸長となり、1889年(明治22年)から1893年(明治26年)まで八戸町長を務める。 1894年(明治27年)からは青森県立八戸中学校(後の青森県立八戸高等学校)の書記となり、死去するまで務めた。 八戸町役場が発足した時に、戸長役場の職員がそのまま引き継がれた。町村制施行により、それまで三戸郡役所が受け持っていた学校の授業料徴収や町税徴収の事務が町役場に移管されたが、新制度への対応がスムーズに行われず、出納事務に不手際が続出する事態となった。
長尾 義連(ながお よしつら、1848年1月18日(弘化4年… 長尾 義連(ながお よしつら、1848年1月18日(弘化4年12月13日) - 1928年(昭和3年)6月17日)は、幕末の弘前藩士。明治から大正時代の政治家。青森県弘前市長。 弘前藩士長尾定八の長男として生まれ、1873年(明治6年)9月に家督を相続する。明治に入り、戸長や北津軽郡長を歴任し、1888年(明治21年)青森県会議員に当選する。翌年の1889年(明治22年)弘前市助役の時に菊池九郎市長の辞任に伴い第2代市長に当選するが、後任の助役選出による派閥争いで市会は紛糾し、翌年辞任した。 1896年(明治29年)赤石行三市長の病死に伴い、菊池九郎の推薦により市長に返り咲き、1902年(明治35年)再選し、1905年(明治38年)まで務めた。
宮本 甚兵衛(みやもと じんべい、1848年(嘉永元年8月)… 宮本 甚兵衛(みやもと じんべい、1848年(嘉永元年8月) - 1932年(昭和7年)1月9日)は、明治から昭和時代初期の政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・小野。 小野七郎の長男として弘前城下桶屋町(弘前桶屋町を経て現弘前市桶屋町)に生まれ、のち先代宮本甚兵衛の養嗣子となる。幼少期は下学校に通い、13歳から17歳までは弘前東長町の丸金、荒関小間物店で見習奉公する。17歳の時独立し、弘前土手町に小間物店を開業。東京から品物を仕入れ、数年のうちに業績を大きく伸ばした。弘前市が発足すると第1回市会議員選挙に当選。ほか、中津軽郡町村連合会議員、弘前市参事会員、同市第4区会議員、同市所得税調査委員などを歴任した。
菊池 九郎(きくち くろう、1847年10月26日(弘化4年… 菊池 九郎(きくち くろう、1847年10月26日(弘化4年9月18日) - 1926年(大正15年)1月1日)は、日本の武士(弘前藩士)、教育者、官吏、政治家。東奥義塾創立者。新聞『東奥日報』創刊者。東津軽郡郡長、初代・第7代弘前市長、山形県知事、農商務省農務局長、衆議院全院委員長等を歴任。諱は武行。 「東奥の西郷隆盛」と言われ絶賛された。正五位勲四等旭日小綬章。 弘前藩(津軽藩士)・菊池新太郎の長男として弘前城下に生まれる。幼名は喜代太郎。 藩校・稽古館に学び、皇漢の学を修め、1864年(元治元年)より藩の勤務。藩校・稽古館で司監を務める。戊辰戦争に際して藩論が新政府支待に傾くと脱藩して庄内藩に向かう。
工藤 則勝(くどう のりかつ、弘化4年5月17日〈1847年… 工藤 則勝(くどう のりかつ、弘化4年5月17日〈1847年6月29日〉 - 1916年〈大正5年〉1月11日)は、明治時代の司法官。大審院検事。 工藤勇蔵の長男として陸奥弘前(現青森県弘前市)に生まれる。弘前藩藩校稽古館で学ぶ。1871年(明治4年)司法省に奉職し検事となり、1878年(明治11年)判事に転じる。1880年(明治13年)岩手重罪裁判長兼控訴院評定官となり、1889年(明治22年)宇都宮予審裁判所長、1892年(明治25年)東京地方裁判所検事正、1898年(明治31年)函館控訴院検事長を経て、1903年(明治36年)大審院検事に進んだ。
5代淡谷 清蔵(あわや せいぞう、1846年11月11日(弘… 5代淡谷 清蔵(あわや せいぞう、1846年11月11日(弘化3年9月23日) - 1923年(大正12年)7月10日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、青森市長。幼名・清作。 陸奥国津軽郡青森(現青森県青森市)で、淡路島を祖とする呉服商「大世」の家に生まれる。成人となり家業に従事し、安方町組頭となる。1889年(明治22年)5月22日に清蔵と改名した。同年、青森町会議員に当選した。1891年(明治24年)、銀行に類似した「盛融会」(ため講)を創立。1892年(明治25年)にも町会議員に当選したが、1895年(明治28年)4月に辞職した。その後、商業会議所会頭、農工銀行取締役、青森電燈会社取締役、青森倉庫会社社長、青森貯蓄銀行専務取締役、青森銀行頭取、第五十九銀行取締役などを務めた。
菊池 楯衛(きくち たてえ、弘化3年2月2日(1846年2月… 菊池 楯衛(きくち たてえ、弘化3年2月2日(1846年2月27日) - 1918年〈大正7年〉4月8日)は、日本の果樹園芸家。「青森リンゴの先駆者」や「青森りんごの始祖」と呼ばれる。 現在の青森県弘前市鷹匠町出身。家は津軽藩の武家の成田瀧弥の次男として生まれ、菊地家の養子となった。実父は儒者の工藤他山の友人であった。明治2年(1869年)に津軽藩において山林取締役を命ぜられ、樹藝方を兼務し各地の山林の樹木植付に従事した。明治4年(1871年)に家屋建築用の材木配布方を命ぜられ明治6年(1873年)まで務めた。明治7年(1874年)には青森県山林調査係を命ぜられ、翌年中調査を結了した 明治8年(1875年)に内務省勧業寮から青森県庁を通じてリンゴやブドウなどの果樹苗の下付けを受けて洋種果樹の栽植に着手した。
大坂 金助(おおさか きんすけ、1845年11月26日〈弘化… 大坂 金助(おおさか きんすけ、1845年11月26日〈弘化2年10月27日〉 - 1925年〈大正14年〉3月12日)は、日本の政治家(貴族院議員、衆議院議員、青森市会議員)、青森県の大地主、醸造家、青森県多額納税者、資産家、実業家。青森商業会議所会頭。族籍は青森県平民。 陸奥国津軽郡蜆貝村(現・青森県青森市)出身。大坂彌吉の長男。漢学を修めた。幼くして両親と死別して孤児となった。一時ヤクザの世界に身を置いた。塩町に貸座敷・大金楼を開業した。のち酒造業、質屋を開いた。清酒醸造兼金銭貸付業を営んだ。 青森商業銀行、青湾貯蓄銀行、青森電燈会社、青森瓦斯会社などを設立した。青森商業銀行、青湾貯蓄銀行各頭取、青森電燈、青森倉庫、青森瓦斯各社長、青湾貯蓄銀行、歌舞伎座各取締役などをつとめた。
堀江 佐吉(ほりえ さきち、弘化2年2月3日(1845年3月… 堀江 佐吉(ほりえ さきち、弘化2年2月3日(1845年3月10日) - 明治40年(1907年)8月18日)は、明治時代の青森県において洋風建築を多く手がけた大工棟梁である。青森県弘前市出身。 弘前の覚仙町の生まれ。祖父の代から弘前藩の御用大工で、父の伊兵衛も「お城大工」として知られた。弘前で初めて、また青森県でも最古ともいう洋風建築を手がけたといわれる棟梁の今常吉が佐吉の家の近くに洋風の個人邸宅を建設し始めたことがきっかけで現場に日参して技術を習得した。 1879年(明治12年)(35歳)に北海道に出稼ぎに渡ると函館の洋風建築の街並みに驚き、開拓使関係の工事に従事しながら洋風建築を見て回り、見取図を作って構造を研究した。
笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年… 笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年3月3日) - 大正4年(1915年)9月29日)は日本の探検家、政治家、実業家。当時の日本において辺境の地であり、その実態がほとんど分かっていなかった南西諸島や千島列島を調査した他、奄美大島の島司や第2代青森市長も務めている。 また、南西諸島調査の詳細な記録である著書『南嶋探験』は、柳田國男など後の民俗学者に大きな影響を与えた。 1845年(弘化2年)、陸奥国弘前在府町(現・青森県弘前市在府町)に、弘前藩士・笹森重吉の子として生まれる。藩校稽古館(現・東奥義塾高等学校)で学んだ後、弘前藩・青森県に勤め、中津軽郡長も務めるなどしたが、1881年(明治14年)に辞職。
神 辰太郎(じん たつたろう、1844年10月23日〈弘化元… 神 辰太郎(じん たつたろう、1844年10月23日〈弘化元年9月12日〉- 1925年〈大正14年〉12月16日)は、幕末の弘前藩士、明治期の海軍軍人。のちに機関長を歴任した。最終階級は海軍機関少監(機関少佐相当官)。本名・手塚冝道(のりみち)、宜道の表記あり。 陸奥国津軽郡弘前城下瓦ケ町(現青森県弘前市)で弘前藩の手塚家の生まれ。幕末に活躍した同藩士・神東太郎がいるが関係は不詳。 神家を継いで、慶応元年(1865年)に江戸に出て鉄砲洲慶應義塾に入学。明治2年(1869年)に兵部省「飛龍丸」二等士官、明治4年(1871年)に海軍少尉に任官。以後20年以上を機関関係の海軍士官として活躍し、「龍驤艦」機関長、「天城艦」機関長などを経て、1888年(明治21年)海軍機関少監に進み「金剛」機関長となる。