太田 達人(おおた たつと、1866年 - 1945年)は、… 太田 達人(おおた たつと、1866年 - 1945年)は、陸奥国岩手郡東中野村(現盛岡市)出身の教育者。父は盛岡藩の武士。夏目漱石とは大学予備門時代からの親友で、晩年の自伝的作品「硝子戸の中」で友達「O」として登場している。
岩手県:1,223人
太田 達人(おおた たつと、1866年 - 1945年)は、… 太田 達人(おおた たつと、1866年 - 1945年)は、陸奥国岩手郡東中野村(現盛岡市)出身の教育者。父は盛岡藩の武士。夏目漱石とは大学予備門時代からの親友で、晩年の自伝的作品「硝子戸の中」で友達「O」として登場している。
菊池 寿人(きくち ひさと、元治元年10月20日(1864年… 菊池 寿人(きくち ひさと、元治元年10月20日(1864年11月19日) - 昭和17年(1942年)9月30日)は、日本の教育者。 岩手県紫波郡紫波町出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、さらに大学院で学んだ。1896年(明治29年)、陸軍教授となり、1898年(明治31年)に第一高等学校教授に転じた。1919年(大正8年)、第一高 等学校校長に就任し、1924年(大正13年)に退官した。 退官後は第一高等学校講師・東洋大学講師を務め、1931年(昭和6年)に第一高等学校名誉教授の称号を受けた。
粟野 健次郎(あわの けんじろう、元治元年5月18日(186… 粟野 健次郎(あわの けんじろう、元治元年5月18日(1864年6月21日) - 昭和11年(1936年)8月23日)は、日本の教育者。 陸奥国一関(現在の岩手県一関市)出身。新潟英語学校、新潟中学校を経て、文検に合格し1886年(明治19年)に中学師範各学校英語科教員免許状を受け、東京府中学校一等助教諭となった。翌年から第一高等中学校英語教員嘱託、1889年(明治22年)から第一高等学校教諭、1890年(明治23年)から第一高等学校教授を歴任した。東京時代の教え子に、夏目漱石、若槻禮次郎、本多光太郎らがいる。1892年(明治25年)、仙台の第二高等学校教授に転じ、土井晩翠、作家高山樗牛らを教導。
水上 助三郎(みずかみ すけさぶろう、1864年4月4日(元… 水上 助三郎(みずかみ すけさぶろう、1864年4月4日(元治元年2月28日) - 1922年(大正11年)7月30日)は、日本の漁業家。 陸前国気仙郡吉浜村(のち岩手県気仙郡吉浜村→三陸村→三陸町、現・大船渡市)千歳(せんざい)で半農半漁の家の水上助十郎の長男に生まれる。1881年(明治14年)父の金を持ち逃げして、上京、東京では煎餅屋に奉公した後、養鶏業を始めた。翌年、父に呼び戻され、帰郷。佐々木ソデと結婚する。吉浜で漁業を手伝いながら、機を見て5年後に再び上京、小笠原諸島の父島に渡り、製塩法を学んだが、島内で牛を見て、牛の飼育を思いつき、牛2頭を父島から吉浜に連れて牛の飼育を始めたが長続きしなかった。
清岡 等(きよおか ひとし、1864年1月16日(文久3年1… 清岡 等(きよおか ひとし、1864年1月16日(文久3年12月8日) - 1923年(大正12年)12月31日)は、日本の政治家、実業家。 陸奥国盛岡(現岩手県盛岡市)生まれ。父親行三の関係で秋田で過ごし太平学校(旧制秋田中学校、現秋田県立秋田高等学校)を卒業。1882年(明治15年)から1894年(明治27年)まで岩手県庁に勤務。1894年から1901年(明治34年)まで盛岡市長を務めた。1902年の第7回衆議院議員総選挙に出馬して原敬に敗れる。その後、盛岡電気社長、巖手日報の主筆、同社長などの事業を手がけた。
宮川 勇(みやかわ いさみ、1864年〈元治元年〉 - 19… 宮川 勇(みやかわ いさみ、1864年〈元治元年〉 - 1940年〈昭和15年〉)は、北海道・大沼公園の観光地化に尽力した日本の実業家。明治時代から昭和初期にかけて活動し、鉄道や宿泊施設の経営、観光資源の開発を通じて地域経済に大きな影響を与えた。 岩手県宮古市金浜(旧下閉伊郡磯鶏村大字金浜第四地割七拾番地)に生まれる。祖父勝弥の次男多次郎(天保十四年十月二日生)が父である。ー 北海道へ出稼ぎに行った父を追って、16歳(明治十三年三月十四日)の時、船で函館へ渡るが多次郎には会えぬまま、土工現場に従事した。 17歳の時、森田常吉率いる博徒団体マルモ一家(マルモは○の内側にモ)の創設に参加。- 明治20年(1887)から、函館を本拠に、全盛期には北海道、樺太、東京、青森、宮城、山形、秋田、岩手、新潟の1府2丁6県下に勢力を持ち、2万余の子分を擁した一大組織マルモ一家のナンバー2だったが、38歳で脱退。
葛西 萬司(かさい まんじ、 文久3年7月23日(1863年… 葛西 萬司(かさい まんじ、 文久3年7月23日(1863年9月5日) - 昭和17年(1942年)8月19日)は明治から昭和初期に活躍した設計建築家。盛岡市出身。辰野金吾と建築設計事務所を共同経営したことなどで知られる。 工手学校(現工学院大学)造家学科教員。
村上 先(むらかみ すすむ、文久3年1月8日(1863年2月… 村上 先(むらかみ すすむ、文久3年1月8日(1863年2月25日) - 1925年(大正14年))は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。実業家。号は李門。 陸奥国気仙郡矢作村(現在の岩手県陸前高田市)出身。仙台藩士伊藤武左衛門の二男として生まれ、村上大蔵の養子となった。漢学・英学を学び、鳥取県東伯郡長、札幌支庁長を務めた後、台湾総督府に移り、台北県滬尾弁務署長、臨時土地調査局事務官、塩水港庁長、台南庁長を歴任した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、台湾証券交換所社長、日鮮鉱業社長、大正活映社長、帝国殖産興業社長、東洋美術興業社長、旭製炭顧問などを務めた。
関口 松太郎(せきぐち まつたろう、1862年11月23日(… 関口 松太郎(せきぐち まつたろう、1862年11月23日(文久2年10月2日) - 1937年(昭和12年)12月29日)は日本の政治家。岩手県宮古町(現・宮古市)長、田老村(現・宮古市)長、岩手県会議員。 陸奥国閉伊郡花輪村(のち陸中国閉伊郡花輪村→岩手県東閉伊郡花輪村→下閉伊郡花輪村、現・宮古市)に生まれる。1883年東閉伊郡長沢村(のち花輪村)戸長役場書記となり、兵役を経て、東閉伊郡田鎖村外四ヶ村役場、東閉伊郡・北閉伊郡・中閉伊郡役所、下閉伊郡役所、重茂村長、下閉伊郡役所庶務兼財政課長などを経て、1908年宮古町長に当選する。その後、下閉伊郡会議員となり、1925年田老村長に就任する。1927年岩手県会議員に当選。
小田 文行(おだ ぶんこう、1861年12月9日(文久元年1… 小田 文行(おだ ぶんこう、1861年12月9日(文久元年11月8日) - 1921年(大正10年)4月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 陸奥国九戸郡宇部村(岩手県南九戸郡宇部村、九戸郡宇部村を経て現久慈市)出身。宇部村会議員、同村長、九戸郡会議員、岩手県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員、九戸馬産会員となる。 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙において岩手県郡部から憲政本党公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙には不出馬。1921年死去。
小野崎 耕夫(おのざき こうふ、1861年1月5日(万延元年… 小野崎 耕夫(おのざき こうふ、1861年1月5日(万延元年11月25日) - 1917年(大正6年)5月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 陸奥国稗貫郡、のちの岩手県稗貫郡宮野目村(現花巻市)出身。漢学を修める。農業を営み、黒沼学校(現・花巻市立八幡小学校)教諭、宮野目村外12ヶ村戸長、同村会議員、稗貫郡会議員、同参事会員、岩手県会議員となる。 1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙において岩手県郡部から大同倶楽部公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務め、1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1917年死去。
山崎 庸哉(やまざき ようや / ようさい、1861年〈文久… 山崎 庸哉(やまざき ようや / ようさい、1861年〈文久元年1月〉- 1916年〈大正5年〉2月11日)は、明治期の陸軍軍医、政治家。衆議院議員。最終階級は陸軍三等軍医正(少佐相当官)。 陸奥国閉伊郡津軽石村(岩手県閉伊郡津軽石村、東閉伊郡津軽石村、津軽石村を経て現宮古市津軽石)で生まれた。済生学舎で学び、陸軍軍医講習生を経て、1884年(明治17年)陸軍軍医学校を卒業した。 陸軍三等軍医(少尉相当官)に任官。日清戦争に従軍。1901年(明治34年)5月8日、陸軍一等軍医(大尉相当官)で予備役に編入された。 郷里で医院を開業した。篠民三の当選無効に伴い、1902年(明治35年)1月に実施された第6回衆議院議員総選挙岩手県第2区補欠選挙で当選し、憲政本党に所属し衆議院議員に1期在任した。
高橋 金治(たかはし きんじ、1859年6月4日(安政6年5… 高橋 金治(たかはし きんじ、1859年6月4日(安政6年5月4日)- 1917年(大正6年)8月22日)は、明治から大正期の地主、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国胆沢郡、のちの岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て現奥州市)で、大地主、仙台藩水沢伊達家家臣・高橋万右衛門の二男として生れ、1893年(明治26年)1月、兄・敬章の跡を継承した。藩校立生館で学んだ。1875年(明治8年)水沢県に出仕したが廃県後に辞職した。 その後、商業に従事したが事業に失敗して各地を放浪した。宮城県下で教師をしていたフランス人と出会い、日本語教授、翻訳助手となり、仏学を学んだ。 1895年(明治28年)同志と水沢銀行の設立に参画した。
吉田 亀太郎(よしだ かめたろう、1858年10月26日(安… 吉田 亀太郎(よしだ かめたろう、1858年10月26日(安政5年9月20日) - 1931年(昭和6年)12月26日)は、明治時代に東北地方で活動した伝道者・牧師。祖父は仙台藩亘理伊達氏に仕えた新妻興左衛門、父はその四男吉田雄吉。 1858年(安政5年)、陸奥国稗貫郡花巻(現岩手県花巻市)で生まれ、現在の宮城県石巻で育った。新潟に赴任した時に、T・A・パームと押川方義らの説教を聞いてキリスト教に回心し、1878年(明治11年)に洗礼を受けた。それから、パーム、押川と共に伝道に従事した。 1880年(明治23年)、吉田は押川と共に、宮城県の伝道を始める。仙台についた吉田と押川は、北三番町木町通り角屋敷に「基督教講義所」の看板を掲げて伝道を開始した。
北守 政直(きたもり まさなお、安政5年7月21日〈1858… 北守 政直(きたもり まさなお、安政5年7月21日〈1858年8月29日〉 - 大正15年〈1926年〉1月18日)は、明治から大正時代の日本の政治家、実業家。函館区長。通称は縫人、清次郎。 盛岡藩士・北守政智の長男として生まれ、1870年(明治3年)家督を相続し、盛岡藩権大属となる。当時、北守家は御新丸番頭家格で家禄は250石。同年免官し、1876年(明治9年)岩手県に出仕。地租改正係となる。その後、県税係を経て、1878年(明治11年)開拓使函館支庁に出向し、会計課配属となる。翌年の1879年(明治12年)民事課に転じ、1880年(明治13年)岩手県からの出向停止となり、開拓使に採用され准判任官に任官。
長沼 守敬(ながぬま もりよし、1857年11月9日〈安政4… 長沼 守敬(ながぬま もりよし、1857年11月9日〈安政4年9月23日〉 - 1942年〈昭和17年〉7月18日)は、明治時代から大正時代に活躍した日本の彫刻家である。 陸奥の一関(現在の岩手県一関市)に士族の家系を持つ子として生まれる。維新後の1875年(明治8年)に上京しイタリア公使館に勤務し、これにより1881年(明治14年)留学のためイタリアに渡った。ヴェネツィアに居住しヴェネツィア王立美術アカデミー(現在のヴェネツィア美術アカデミー)でルイジ・フェラーリ(イタリア語版)及びアントニオ・ダル・ツォット(英語版)から彫刻学を学んだ。後に同地の王立高等商業学校で日本語の教鞭を執った。1885年(明治19年)に優秀な成績を収めた事で卒業が認められ、1887年(明治21年)に帰国する。
伊東 圭介(いとう けいすけ、1857年9月22日(安政4年… 伊東 圭介(いとう けいすけ、1857年9月22日(安政4年8月5日)- 1895年(明治28年)2月5日)は、明治時代の政治家、弁護士。自由民権運動家。衆議院議員(2期)。 盛岡藩目付役の父、伊東元右衛門の子として盛岡に生まれる。幼くして藩校作人館に入り和漢学を修め、大清水の小原洋学塾で学び、上京したのち岩手県聴訴課に奉職する。法律に目覚め、官を辞して法学を研究し、1875年(明治8年)代言人となった。翌年、協同社を、1878年(明治11年)には改進社を設立、さらに同社を合併し自由党盛岡支部を設立するなど自由民権運動に傾倒するが、1884年(明治17年)政談演説会で黒田内閣顧問の職務を誹毀したとして侮辱罪に問われ重禁錮2ヶ月罰金10円に処された。
一ノ倉 貫一(いちのくら かんいち、1857年1月23日(安… 一ノ倉 貫一(いちのくら かんいち、1857年1月23日(安政3年12月28日)- 1922年(大正11年)12月11日)は、明治から大正期の大地主、教育者、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国和賀郡、のちの岩手県東和賀郡小山田村(和賀郡小山田村、東和町を経て現花巻市)で、一ノ倉家に生まれ、一ノ倉宇兵衛の養子となり1893年(明治26年)8月に家督を相続した。 1878年(明治11年)宮城師範学校を卒業。仙台市小学校訓導、宮城県師範学校教員、岩手県属、岩手県獣医学校長、郡長などを歴任した。その他、徴兵事務官、勧業諮問会員、市町村制実施法取調委員、府県制郡制実施法取調委員、日本赤十字社特別社員なども務めた。
大内 貞三郎(おおうち ていたろう、1857年(安政4年7月… 大内 貞三郎(おおうち ていたろう、1857年(安政4年7月)- 1916年(大正5年)12月24日)は、明治期の公吏、教育者、政治家。衆議院議員、岩手県胆沢郡古城村長。 陸奥国胆沢郡関村(水沢県胆沢郡稲置村、磐井県胆沢郡稲置村、岩手県伊沢郡古城村、前沢町を経て現奥州市)で、仙台藩士・大内行雄の二男として生まれた。仙台中教院で学んだ。 松川村・門崎村戸長、胆沢郡・江刺郡書記を務めた。上京して遊学した。西磐井郡・東磐井郡書記を務めた。 1890年(明治23年)岩手県会議員に選出され、同常置委員も務めた。同年7月、第1回衆議院議員総選挙(岩手県第4区、国民自由党)で落選したが、1892年(明治25年)2月の第2回総選挙(岩手県第4区、中央交渉会)では当選し、衆議院議員に1期在任した。
大隈 英麿(おおくま ひでまろ、安政3年9月11日(1856… 大隈 英麿(おおくま ひでまろ、安政3年9月11日(1856年10月9日) - 1910年(明治43年)5月14日)は、明治時代の教育者、政治家。東京専門学校(早稲田大学の前身)初代校長(1882年 - 1886年)や衆議院議員を務めた。陸奥盛岡藩主南部家に生まれ、一時期は大隈重信の婿養子になったが、後に離縁した。 1856年10月9日(安政3年9月11日)、第14代盛岡藩主南部利剛の次男として盛岡城内に生まれる。幼名(初名)は剛建。1870年(明治3年)、14歳のときに姉・郁子の夫である華頂宮博経親王に従って渡米する(従者に五十川基)。現地の小・中学校を経てダートマス大学へ入学して天文学を専攻、のち指導教授の転任に伴いプリンストン大学に移り、数学を修めた。
鵜飼 節郎(うかい せつろう、1856年6月21日〈安政3年… 鵜飼 節郎(うかい せつろう、1856年6月21日〈安政3年5月19日〉 - 1931年〈昭和6年〉9月5日)は、日本の政治家、衆議院議員(立憲政友会)。 盛岡藩士の子として盛岡に生まれた。藩校で学んだ後、上京して法学・経済学を学んだ。1877年(明治10年)、西南戦争が起こると同志を率いて上京し、警部補・新撰旅団小隊長心得に任命された。その後自由民権運動に参加し、自由党東北常備委員として党勢の拡張に尽力した。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙に、自由党から岩手県第4区で立候補したが落選した。 1902年(明治35年)、第7回総選挙に立憲政友会から岩手県郡部選挙区で立候補し、当選。
片桐 清治(かたぎり せいじ、安政3年1月17日〈1856年… 片桐 清治(かたぎり せいじ、安政3年1月17日〈1856年2月22日〉 - 1928年〈昭和3年〉1月21日)は日本の牧師で、日本組合基督教会の東北地方の重鎮として活躍する。 安政3年1月17日(1856年2月22日)仙台藩伊達家の陪臣片桐英之助の子として、水沢に生まれる。一の関師範伝習所を卒業して、小学校の教員として働いている時、1879年夏、友人で同志社英学校の学生であった山崎為徳によりキリスト教に接する。 1880年(明治13年)より友人山崎為徳の招きで同志社英学校邦語学科に入学する。在学中、病気療養中の山崎の看病を続ける。1881年(明治14年)5月1日同志社教会においてM・L・ゴードン宣教師から洗礼を受ける。
平田 箴(ひらた ただし、1855年12月17日(安政2年1… 平田 箴(ひらた ただし、1855年12月17日(安政2年11月9日)- 1925年(大正14年)8月15日)は、明治から大正期の弁護士、政治家。衆議院議員、岩手県会議長。 陸奥国磐井郡、のちの岩手県西磐井郡一関町(現一関市)で、一関藩士の家に生まれた。藩校教成館で文武の課程を修めた。 警察官を志願し、盛岡警察署(現盛岡東警察署)詰巡査となる。その後退職して自由党に加わり、代言人(弁護士)の業務に従事。その清潔公平な働きで信頼を得て、村会議員、一関町会議員に選出された。その後、岩手県会議員となり、同副議長、同議長を務めた。その他、所得税調査委員、郡徴兵参事員、破産管財人なども務めた。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(岩手県第5区、自由党)で初当選し、第4回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
阿部 勇治(あべ ゆうじ、1855年5月26日(安政2年4月… 阿部 勇治(あべ ゆうじ、1855年5月26日(安政2年4月11日)- 1919年(大正8年)8月29日)は、明治から大正期の地主、政治家。衆議院議員。 陸奥国稗貫郡、のちの岩手県稗貫郡宮野目村(現花巻市)で、農業・大地主の家に生まれた。 1887年(明治20年)4月、村会議員に選出された。以後、岩手県会議員、稗貫郡会議員、同参事会員なども務めた。1901年(明治34年)10月、日本赤十字社特別社員となる。 1904年(明治37年)3月の第9回衆議院議員総選挙で岩手県郡部区から帝国党所属で出馬して初当選。その後、第11回総選挙(中央倶楽部所属)では落選したが、1915年(大正4年)3月の第12回総選挙で立憲同志会から出馬して再選され、その後憲政会に所属して衆議院議員に通算2期在任した。
金子 弥平(かねこ やへい、安政元年12月(1854年) -… 金子 弥平(かねこ やへい、安政元年12月(1854年) - 1924年2月17日)は、明治期の官僚、満州開拓者、実業家。興亜会や黒龍会といったアジア主義団体に幅広く通じたナショナリストの魁的な存在。正式名は金子弥兵衛。 弥平はペリー来航の翌年、安政元年12月(1854年)に現在の岩手県花巻市で生まれる。金子家は近江系の有力商家で、南部藩から苗字帯刀を許されていた郷士に当たる人物である。明治維新後の1872年(明治5年)の春に単身上京して福澤諭吉の書生となり、翌年の1873年(明治6年)5月には慶應義塾に入る。卒業後は、郷党の先輩・東政図に触発され、清国北京公使館通弁見習として大陸に渡り、種々の活動を試みた。
小野 慶蔵(おの けいぞう、1854年7月24日〈嘉永7年6… 小野 慶蔵(おの けいぞう、1854年7月24日〈嘉永7年6月30日〉 - 1920年〈大正9年〉10月31日)は、日本の実業家、政治家。 陸奥国盛岡呉服町にて、豪商小野組の支流である芳野屋の子として生まれた。藩校作人舘に学び,1872年(明治5年)、18歳で京都に出て商業の修業をした。帰郷後に金銀・株売買業で産を成し、盛岡の経済界に頭角を現すようになる。盛岡に市制が施行された1889年(明治22年)に35歳で市会議員となり、1912年(明治45年)まで23年間務めた。 1890年(明治23年)第九十国立銀行取締役に就任以来、同行株式を集め、筆頭株主でありながら1907年(明治40年)に(旧)岩手銀行を設立し、これ以来、“盛岡経済界の風雲児”と呼ばれるようになる。
高平 小五郎(たかひら こごろう、1854年1月29日〈嘉永… 高平 小五郎(たかひら こごろう、1854年1月29日〈嘉永7年1月1日〉- 1926年〈大正15年〉11月28日)は、日本の外交官。男爵。貴族院議員等を務めた。日露講和会議で小村寿太郎とともに全権委員を務め、日露戦争後の日米関係を定めた高平・ルート協定を締結した。 現在の岩手県一関市の生まれ。陸奥国一関藩の藩士田崎三徹の三男であったが、同藩士高平真藤の養子となった。1868年の戊辰戦争には奥羽越列藩同盟側として従軍した。1870年(明治3年)貢進生として大学南校(現在の東京大学)に入学し、1873年(明治6年)には同校を卒業して工部省に出仕した。1876年(明治9年)以降は外務省に出仕し、1879年(明治12年)には在米国公使館在勤。
鈴木 文三郎(すずき ぶんざぶろう、1853年1月30日(嘉… 鈴木 文三郎(すずき ぶんざぶろう、1853年1月30日(嘉永5年12月21日)- 1926年(大正15年)11月9日)は、明治から大正期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員、岩手県東磐井郡生母村長。 陸奥国磐井郡赤生津村(岩手県岩井郡赤生津村、東磐井郡生母村大字赤生津、前沢町を経て現奥州市前沢生母)で肝入・鈴木兵之助の長男として生まれた。漢学を修めた。1886年(明治19年)3月、家督を相続した。 1873年(明治6年)水沢県地租改正掛勤務となる。1876年(明治9年)2月、磐井県15等出仕となり同年4月まで在任。同年8月、岩手県等外1等出仕となり、同県17等出仕、同10等警部を経て、1879年(明治12年)7月、新潟県9等属に転じ、1880年(明治13年)9月に退官した。
高橋 亦助(たかはし またすけ、1853年 - 1918年)… 高橋 亦助(たかはし またすけ、1853年 - 1918年)は、明治から大正にかけての高炉技師。西洋式の製鉄所として我が国で初めての事業的な成功例となった釜石鉱山田中製鉄所の創立に寄与した。 陸奥国(岩手県)釜石村東前、上の沢の旧家で肝煎を務めた父・岩間宇右衛門と母・トメ(高橋は母の旧姓)の三男として1853年(嘉永6年)に生まれる。1857年(安政4年)5歳の時に父と死別し、その翌年より当時生家の近くにあった石応禅寺の学僕となったが、2年で寺を飛び出して遠野の商家や釜石の漁師の手伝いなどをしていた。 1875年(明治8年)亦助22歳の時に工部省鉱山局釜石出張所の求人に応募し採用される。5年越しの建設工事が終わり、1880年(明治13年)より日本で最初の官営製鉄所が操業開始。
高橋 嘉太郎(たかはし かたろう、嘉永5年2月7日(1852… 高橋 嘉太郎(たかはし かたろう、嘉永5年2月7日(1852年2月26日) - 昭和3年(1928年)12月18日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 陸奥国和賀郡二子村(現在の岩手県北上市)出身。高橋嘉兵衛、ツギ夫妻の長男として生まれる。1873年(明治6年)に二子村戸長となり、岩手県御用掛、岩手県会議員、同常置委員を歴任した。1897年(明治30年)、県会議員を辞し、岩手毎日新聞社の経営にあたった。その他、和賀郡農会会長、岩手県農会副議長を務めた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第13回衆議院議員総選挙でも再選された。 1928年(昭和3年)12月18日、岩手毎日新聞社社長在任のまま病没。
阿部 浩(あべ ひろし、嘉永5年1月3日(1852年1月23… 阿部 浩(あべ ひろし、嘉永5年1月3日(1852年1月23日) - 大正11年(1922年)10月7日)は、日本の内務官僚、政治家。群馬県知事、千葉県知事(2期)、富山県知事、新潟県知事、東京府知事(2期)を歴任。衆議院議員(2期)、貴族院議員、日本赤十字社特別社員を務めた。位階および勲等は正三位・勲一等。陸奥国岩手郡盛岡出身。邸は荏原郡大井町元芝にあった。 南部藩士阿部雄平の子として生まれる。4つ年下の原敬とはいわゆる幼馴染の間柄であり、後に原に郵便報知新聞入社を勧めたのも阿部であったとされている。戊辰戦争後に上京して慶應義塾(後の慶應義塾大学)に学び、苦学の末に卒業して1874年に岡山県職員として採用され、後に工部省職員、鉄道事務官を経て内務省に移籍して社寺局長にまで昇った。
佐藤 秀蔵(さとう ひでぞう/しゅうぞう、1851年4月29… 佐藤 秀蔵(さとう ひでぞう/しゅうぞう、1851年4月29日(嘉永4年3月28日)- 1934年(昭和9年)3月27日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は亀次郎。 陸奥国磐井郡摺沢村(岩手県東磐井郡摺沢村、摺沢町、大東町を経て現一関市)で、先代・佐藤秀蔵の長男として生まれる。1889年(明治22年)秀蔵を襲名した。1898年(明治31年)摺沢村会議員に当選。ついで東磐井郡会議員、所得税調査委員、八十八銀行取締役、横屋社長、陸中国東山製糸組合長などを歴任した。1909年(明治42年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年6月3日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
山田 揆一(やまだ きいち、嘉永元年12月27日(1849年… 山田 揆一(やまだ きいち、嘉永元年12月27日(1849年1月21日) - 大正12年(1923年)1月5日)は、大正時代に仙台市長を務めた人物である。 陸奥国一関(現在の岩手県)に、藩士・櫻岡頼純の4子として生まれた。官吏となり、宮城県収税長、熊本県税務管理局長・司税官、宮城県書記官、北海道内務部長などを歴任の後、1915年(大正4年)から1919年(大正8年)まで、仙台市長を務めた。 仙台市青葉区にある宮城県知事公館の土地・建物は、もともと伊達家家臣の邸宅だったものであるが、明治維新後の1868年(明治元年)、山田が購入した。また、山田は1917年(大正6年)、仙台に関する総覧『仙台叢書』の別冊、『仙台物産沿革』を編集した。
工藤 寛得(くどう かんとく、1849年1月11日〈嘉永元年… 工藤 寛得(くどう かんとく、1849年1月11日〈嘉永元年12月17日〉 - 1911年〈明治44年〉12月17日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。幼名は六太郎。 陸奥国岩手郡大更村(岩手県北岩手郡大更村、西根村、西根町を経て現八幡平市大更)で、工藤織人の長男として生まれる。生家は古くから林業や商業などで財を成した。藩校作人館を経て、江戸に出て安井息軒の門に学び、帰郷後の1879年(明治12年)北岩手郡会議員に当選する。自由民権運動に際しては多くの資金援助を行った。ほか、北岩手郡各村連合会議員、岩手県会議員、岩手県農工銀行発起人などを歴任した。 1890年(明治23年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から翌年の6月12日まで在任。
上田 農夫(うえだ のうふ、1848年6月30日(嘉永元年5… 上田 農夫(うえだ のうふ、1848年6月30日(嘉永元年5月30日)- 1895年(明治28年)8月29日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。幼名は馬太郎。 陸奥国岩手郡、のちの岩手県南岩手郡東中野村(現盛岡市)で盛岡藩士・上田長次の二男として生まれる。藩校作人館を経て1872年(明治5年)東京で遊学し、帰郷後の1876年(明治9年)岩手県に奉職する。聴訟課権少属、警部を経て、久慈警察署長、一関警察署長を歴任。1877年(明治10年)の西南戦争では官軍の新撰旅団小警部心得として出征する。自由民権運動に加わり、政治結社・求我社に加わった。1879年(明治12年)には岩手県会議員に当選し、議長を歴任した。
伊藤 儀兵衛(いとう ぎへい、1848年6月10日(嘉永元年… 伊藤 儀兵衛(いとう ぎへい、1848年6月10日(嘉永元年5月10日)- 1923年(大正12年)9月20日)は、岩手県花巻市出身の商人、政治家(貴族院議員)。 1848年(嘉永元年)、花巻に生まれる。生家は岩手県下一の豪商・豪農で、屋号は笹屋だった。 1881年(明治14年)8月18日 明治天皇の東北御巡幸の際に自宅を行在所として提供。数百円を投じて御休憩所を新築した。 1889年(明治23年) 四男の儀七(岡山不衣)を岡山直機の養子とする。 1890年(明治23年) 東北本線が盛岡駅まで開通して、花巻駅が開業した。当時、地主たちは鉄道をおそれ、駅の敷地を提供する者がいなかったという。その状況で、花巻地方では花巻川口町の沢藤家と並ぶ豪商の主だった儀兵衛は、進んで現在の駅の敷地を無償で提供した。
金田一 勝定(きんだいち かつさだ、1848年3月16日(弘… 金田一 勝定(きんだいち かつさだ、1848年3月16日(弘化5年2月12日) - 1920年(大正9年)12月31日)は、日本の実業家、和算家。 陸奥国岩手郡仁王村四ツ家町(現・岩手県盛岡市本町通二丁目)にて豪商「大豆屋」金田一伊門とリセの長男として生まれる。金田一京助は勝定の妹やすの子。金田一國士の養父。 1868年(慶応4年)、戊辰戦争鹿角口の戦いに従軍して足を負傷した。明治から大正初期の岩手県内実業界で盛岡銀行頭取、盛岡電気株式会社、岩手軽便鉄道株式会社など多くの企業を創立して社長となり、金田一財閥と呼ばれるまでに成長させ、県会議員、盛岡市会議員を務めた。勝定は幼少より学問を好み、盛岡和算に通じた最後の人で、和算書の収集に努力し、多大な費用をかけて和算家の阿部家、鬼柳家の蔵書を購入し、1912年(明治45年)、松原正固の蔵書とともに東北大学に寄贈した。
屋須 弘平(やす こうへい / Juan José de J… 屋須 弘平(やす こうへい / Juan José de Jesús Yas / 1846年〈弘化3年〉12月27日 - 1917年〈大正6年〉11月29日)は、岩手県(陸奥国)で生まれ、アンティグア・グアテマラへと移住した日本人写真家である。日本の写真創成期の写真家達(上野彦馬や下岡蓮杖など)とは無縁に、グアテマラで写真術を習得した。 1846年、岩手県一関市藤沢町藤沢に生まれた。父は蘭学医の尚安。幼少期より父から蘭学を学び、1863年、15歳で上京し叔父より漢学を学ぶ。その後医学や天文学などを修学し、1868年に帰郷。3年ほど医業に携わり、再び上京。 1874年に神奈川県横浜市で通訳として金星観測を行った著名なメキシコン人天文学者コバルビアス率いるメキシコ科学調査隊との出会いをきっかけとして、メキシコへ渡った。
佐藤 清右衛門(さとう せいえもん、1846年6月7日(弘化… 佐藤 清右衛門(さとう せいえもん、1846年6月7日(弘化3年5月14日)- 1929年(昭和4年)2月5日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。徳清の9代目、貴族院多額納税者議員。幼名は種次郎。 盛岡出身。佐藤徳次郎の長男として生まれる。幼少期に小野組の銭店で丁稚奉公する。1879年(明治12年)10月、祖父清右衛門から家督を相続した。ほか、北上回漕会社、交話会、第九十国立銀行重役などを歴任した。1896年(明治29年)には盛岡銀行の創立に参画し、岩手農工銀行の重役も務めた。 1892年(明治25年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年6月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任。
猪狩 八郎(いかり はちろう、1846年(弘化3年7月) -… 猪狩 八郎(いかり はちろう、1846年(弘化3年7月) - 1905年(明治38年)8月23日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 陸奥国江刺郡片岡村(のち岩手県江刺郡岩谷堂町、江刺町、江刺市を経て現・奥州市)生まれ。農業を営む。片岡村戸長、胆沢江刺郡書記、西根三ヶ尻村戸長を経て、1889年の町村制施行による岩谷堂町発足により、初代町長に就任し、1897年まで務めた。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において岩手4区から進歩党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党から立候補したが落選した。1899年から再び岩谷堂町長に就任。1905年8月に退任し、間もなく死去した。
8代 式守 伊之助(はちだい しきもり いのすけ、天保14年… 8代 式守 伊之助(はちだい しきもり いのすけ、天保14年5月14日(1843年6月11日) - 明治30年(1897年)12月18日)は、大相撲の立行司。本名は後藤文次郎(与太夫)。出身地は現在の岩手県北上市。 6代式守伊之助の弟子。初代の式守錦太夫で、安政3年(1856年)11月に初めて番付に載る。明治4年(1871年)3月に3代式守与太夫を襲名し、地道に昇進していった。明治17年(1884年)5月に8代式守伊之助を襲名。1年後に次席となった。堅実な軍配裁きに定評があった。明治30年(1897年)12月18日死去した。享年54。墓所は東京都江東区の万徳院。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
篠 民三(しの たみぞう、1843年5月(天保14年4月)-… 篠 民三(しの たみぞう、1843年5月(天保14年4月)- 1910年(明治43年)8月28日)は、明治期の漁業家、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国閉伊郡浦鍬ヶ崎村(岩手県閉伊郡浦鍬ヶ崎村、東閉伊郡浦鍬ヶ崎村、鍬ヶ崎町、下閉伊郡鍬ヶ崎町、宮古町を経て現宮古市鍬ヶ崎)で、徳三郎の長男として生まれた。独学で学問を修めた。 1878年(明治11年)汽船を用いて天然氷40トンを初めて東北から東京へ輸送することに成功。1880年(明治13年)閉伊川沿岸埋立工事を計画し、3年間の工期で切通しを開削して交通の利便性を向上させた。1882年(明治15年)宮古湾漁業会社を設立して、鮭建網、鮭留網の新漁場を開いた。
梅津 喜八(うめづ きはち、1843年(天保14年2月)- … 梅津 喜八(うめづ きはち、1843年(天保14年2月)- 1909年(明治42年)2月26日)は、明治時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 沿岸部との交易により一代で財を成した花巻の豪商。大地主として小間物商、薬種商を営んだ。1879年(明治12年)岩手県会議員に当選。ほか、花巻銀行取締役、稗貫郡花巻川口町会議員、同郡会議員などを歴任した。 1908年(明治41年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年10月2日から務めたが、在任中に死去した。小学校の教科書を出版するなど教育振興にも務めた。
小笠原 定一(おがさわら ていいち、1840年(天保11年9… 小笠原 定一(おがさわら ていいち、1840年(天保11年9月) - 1905年(明治38年)10月31日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 陸奥国九戸郡(のち岩手県南九戸郡久慈町、九戸郡久慈町を経て現久慈市)生まれ。岩手県属、九戸、二戸両郡長を務めた。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙において岩手2区から国民協会所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年9月の第4回衆議院議員総選挙では立憲改進党から立候補して落選した。1905年に死去した。
小田 為綱(おだ ためつな、天保10年9月29日(1839年… 小田 為綱(おだ ためつな、天保10年9月29日(1839年11月4日) - 明治34年(1901年)4月5日)は、岩手県九戸郡宇部村(現:久慈市宇部町)出身の学者・教育者・政治家。通称は仙弥。 昌平黌に学んだ後、盛岡藩の藩校である作人館の教授・寮長となり、原敬らを指導する。明治維新後、北奥羽開拓の構想を建白するが顧みられなかった。 明治10年(1877年)の西南戦争に呼応して、東北地方での士族挙兵の計画に参画するが未然に検挙され(首謀者の神職の名から「真田太古事件」と呼ばれる)、他の参加者らとともに禁固刑に処せられた。明治31年(1898年)には第5回衆議院議員総選挙に岩手県第2区から出馬し衆議院議員に当選。
佐藤 昌蔵(さとう しょうぞう、1833年7月31日(天保4… 佐藤 昌蔵(さとう しょうぞう、1833年7月31日(天保4年6月25日)- 1915年(大正4年)11月30日)は、日本の政治家。衆議院議員。 1833年(天保4年)6月、岩手県盛岡市に生まれる。盛岡藩士となり、明治維新後は藩の公用人を務める。 廃藩置県後は青森県・岩手県・茨城県などの勧業課長や郡長を経て、1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙に岩手県第3区より立候補して当選。以後、第3回衆議院議員総選挙まで3回連続して当選する。当時の佐藤は政党には所属せず、第1回総選挙後は院内会派の大成会、第2回総選挙後は同じく院内会派の中央交渉会に所属したが、第3回総選挙時は、中央交渉会の後身に当たる国民協会を脱退して無所属であった。
名須川 良平(なすかわ りょうへい、1831年1月31日〈天… 名須川 良平(なすかわ りょうへい、1831年1月31日〈天保元年12月18日〉 - 1900年〈明治33年〉2月3日)は、幕末から明治期の漢学者、政治家。衆議院議員。号・他山。 陸奥国稗貫郡、のちの岩手県稗貫郡花巻町(現花巻市)で生まれた。儒学、武田流兵法(甲州流軍学)を修めた。花巻の郷学・揆奮場の教授、また、作人館修文所教授を務めた。 明治維新後、上京して神奈川県公吏、師範学校教師を務めた。帰郷後、1877年(明治10年)私塾・他山塾を開き、1878年(明治11年)ころに花巻の自由民権結社・大有社で教えた。1887年(明治20年)郡立稗貫高等小学校長に就任した。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(岩手県第3区)で初当選し、同年8月の第6回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
大島 高任(おおしま たかとう、文政9年5月11日(1826… 大島 高任(おおしま たかとう、文政9年5月11日(1826年6月16日) - 明治34年(1901年)3月29日)は、明治時代の鉱山学者。父・大島周意は藩医として盛岡藩に勤めた。 文政9年5月11日(1826年6月16日)、盛岡仁王小路にて盛岡藩侍医・大島周意の長男として生まれる。天保13年(1842年)17歳で留学、江戸で蘭方医の箕作阮甫や坪井信道に師事し、長崎では採鉱術を学ぶ。嘉永6年(1853年)、水戸藩主の徳川斉昭から招かれて那珂湊反射炉を建造。大砲の鋳造に成功するが、原材料が砂鉄の為にその性能は高くはなかった。西洋と並ぶ高品質な鉄を造るべく、良質の鉄鉱石が産出する大橋(釜石)の地にU・ヒュゲーニン著の「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」を参考として西洋式高炉を建造、安政4年12月1日(新暦1858年1月15日)に鉄鉱石製錬による本格的連続出銑に成功する。
錦木 塚右エ門(にしきぎ つかえもん、1822年〈文政5年〉… 錦木 塚右エ門(にしきぎ つかえもん、1822年〈文政5年〉 - 1861年12月27日〈文久元年11月26日〉)は、現在の岩手県北上市(旧・陸奥国和賀郡)出身で二所ノ関部屋に所属した力士。本名は工藤とのみ伝わっている。身長、体重ともに不明。最高位は西前頭筆頭。南部藩の抱えであった。 最初は南部相撲で相撲人生をスタートさせた。1845年3月に初土俵(二段目〈現在の幕下〉)を踏んだ。1852年11月西二段目8枚目にあがり、現在でいう十枚目昇進を果たす。この場所、6勝3敗1預の優勝次点という好成績を挙げた。1856年11月場所で新入幕を果たした。幕内では目立った成績を残せず、勝ち越しも一度きり(西前頭4枚目だった1859年11月場所)と芳しくなかった。
菊池 金吾(きくち きんご、1812年10月12日(文化9年… 菊池 金吾(きくち きんご、1812年10月12日(文化9年9月9日) - 1893年(明治26年)5月4日)は、江戸時代から明治時代の武士(盛岡藩士)、実業家。明治期に盛岡一の大富豪となった。 陸奥国稗貫郡亀ヶ森村(現在の岩手県花巻市大迫町)にて盛岡藩上級武士の藤枝宮内家臣(藩主から見れば陪臣)菊池弥兵衛、セキの三男として生まれた。父弥兵衛は金吾を医者にしようと、紫波郡郡山駅(現在の紫波町日詰と二日町の上町・下町を合わせた通称地名)に住む木村某という医師に預けたが、数日で脱走し実家に帰った。 1826年(文政9年)、盛岡に出て藩の重臣である加判役の花輪伊豆守に仕えた。後に同藩士大石貫一郎家に養子として入り、大石金吾と名乗る。