大衡 照夫(おおひら てるお、1911年〈明治44年〉6月2… 大衡 照夫(おおひら てるお、1911年〈明治44年〉6月22日 - 1997年〈平成9年〉11月22日)は、日本の政治家。元宮城県古川市(現・大崎市)長(2期)。位階は正五位。 宮城県志田郡古川町(旧・古川市→大崎市古川)出身。旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)を経て、1948年、宇都宮高等農林学校(現・宇都宮大学農学部)卒。卒業後は全国購買組合連合会に入り、同連合会東京支所肥料部肥料飼料統制課属、同肥料課長、同肥料飼料統制課長となり、退職、帰郷し、1950年、保護司となる。1951年から古川市議会議員に当選し、7期務め、副議長、議長を歴任し、この間、宮城県社会教育委員を務めた。1976年の古川市長選挙に立候補し、現職の三上馨一を破って初当選した。
上法 快男(じょうほう よしお、1911年〈明治44年〉5月… 上法 快男(じょうほう よしお、1911年〈明治44年〉5月29日 - 2001年 )は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍主計将校として勤務。戦後は出版業界に入り、芙蓉書房社長や会長を務めた。 秋田県士族、上法眞廣(従五位勲三等陸軍主計中佐)次男。 弟は上法眞男(1945年1月、海上挺進第9戦隊長としてフィリピン ルソン島にて戦死、陸軍少佐)、上法達男(陸軍大尉)。 仙台一中・二高を経て東北帝国大学法文学部独法学科を卒業し、陸軍に入る。 主計将校として近衛歩兵第3連隊、歩兵第59連隊、第2師団、関東軍司令部、戦車第3師団、陸軍燃料本部総務部等で勤務し、階級は陸軍主計少佐に昇る。 1945年8月15日、陸軍省人事局附となり、人事局補任課にて復員軍人の職業輔導業務に従事。
高橋 英吉(たかはしえいきち、1911年4月13日 - 19… 高橋 英吉(たかはしえいきち、1911年4月13日 - 1942年11月2日)は日本の彫刻家。宮城県石巻市出身。 東京美術学校(現東京芸術大学)で木彫を学び、文展(現・日展)を中心に活躍した。「黒潮閑日」「潮音」「漁夫像」の《海の三部作》などにより将来を嘱望されたが兵役に就き、1942年にガダルカナル島の戦いで死亡した。 1911年4月13日、宮城県牡鹿郡石巻町(現・石巻市)湊本町に生まれる。生家は遠洋漁業や缶詰工場を経営する網元であった。1924年、旧制石巻中学(現・宮城県石巻高等学校)に入学。 1931年、東京美術学校彫刻科木彫部に入学する。1936年同校を卒業すると、研究科に進み、文部省美術展覧会(現・日展)に「少女像」を出展し、入選する。
内出 好吉(うちで こうきち、1911年3月26日 - 19… 内出 好吉(うちで こうきち、1911年3月26日 - 1994年6月5日)は、日本の映画監督。宮城県加美郡小野田町(現・加美町)出身。 旧制神奈川県立逗子中学校卒。早稲田大学文学部在学中の1934年に長谷川一夫の勧めで松竹京都撮影所に入社し大学を中退。1943年に召集され、1947年に復職。1955年に東映京都撮影所に移籍。東映の路線転換によりテレビ部のディレクターに転身し、1963年にフリーとなった。 主にナショナル劇場『水戸黄門』『大岡越前』『江戸を斬る』などのテレビ時代劇のディレクターとして活躍。『水戸黄門』では東野英治郎主演版第1部(1969年)から最終シリーズの第13部(1983年)まで足掛け13年半にわたり156本を担当し現役を退いた。
菅原 克己(すがわら かつみ、1911年1月22日 - 19… 菅原 克己(すがわら かつみ、1911年1月22日 - 1988年3月31日)は、昭和期の詩人。宮城県出身。1927年に室生犀星の『愛の詩集』を読んだことをきっかけにその口語自由詩に影響を受け、私淑する。日本共産党員の時期もあったが、1961年の第8回党大会前に、党の紀律にそむき、意見書や声明を発表し、除名された。新日本文学会の中心メンバーのひとりとしての活動を続けながら詩作を続け、日本文学学校の講師も担当した。 1911年、宮城県亘理郡亘理町に生まれる。父新兵衛、母金の第四子。1914年、父が県視学となり、仙台市に移住。1917年、宮城県立師範学校附属小学校卒業、父が勤務先の角田高等女学校の校長室で急死。
伊達 篤郎(だて とくろう、1911年 - 2007年)は、… 伊達 篤郎(だて とくろう、1911年 - 2007年)は、日本山岳協会最高顧問、仙台藩士会会長、瑞鳳殿顧問。伊達政宗の末裔(藩主一門分家の岩出山伊達家出身)。 宮城県大崎市に生まれる。大崎市立岩出山中学校、宮城県古川高等学校、東京高等工学校(現・芝浦工業大学)卒業。宮城県庁、仙台市役所勤務を経て、1968年仙台市博物館館長となる。1974年から瑞鳳殿再建期成会事務局長を務め、第二代・第三代の霊廟再建に当たる。1986年より財団法人瑞鳳殿顧問を務めた。 1972年藍綬褒章受章。
千葉 衛(ちば まもる、1911年 - 1973年)は、日本… 千葉 衛(ちば まもる、1911年 - 1973年)は、日本の画家、美術教育者。現在の宮城県大崎市出身。 宮城県大崎市に生まれる。幼少期から絵画に興味を持ち、地元の小学校・中学校で才能を発揮した。旧制古川中学校(現在の宮城県古川高等学校)を卒業後東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進学し、洋画を学ぶ。在学中から光風会や東光会に作品を出品し、頭角を現した。1930年代には帝展(帝国美術展覧会)に初入選し、画家としての将来が期待されるようになる。しかし、当時の日本は戦争の時代に突入し、画家としての活動が制限される状況となる。 東京美術学校研究科に進学したものの、戦時下の影響もあり研究科を中退した。その後台湾に渡り、現地で美術教育に携わる。
佐藤 章(さとう あきら、1911年 - 1985年)は、日… 佐藤 章(さとう あきら、1911年 - 1985年)は、日本の素描画家。drawings Artist。素描画 エッチング画 スケッチ 元日本山林美術協会会員。 宮城県栗原郡高清水町(現・栗原市)に生まれる。 太平洋美術学校卒業。鶴田吾郎に師事。「素描は米の飯というべきもので、ぜいたくな料理がないときほど、日本人には飯の味がよくわかるものである」という鶴田の言葉に励まされ、戦前戦後を通じ素描画専門の制作を貫く。素描のもつ素朴さと、その直截的な表現力に惹かれ、20数年、日本の民家をモノクロームの世界で描き続けた。 発表は主に個展で戦前「川向う 素描展」など6回。戦中は「工場地帯」「裏街」等、工場地帯で働く少年工を描く。
天野 幸一(あまの こういち、1910年(明治43年)12月… 天野 幸一(あまの こういち、1910年(明治43年)12月12日 - 1986年(昭和61年)12月11日)は、日本の政治家。元東京都大田区長。 宮城県伊具郡丸森町生まれ。大田区予算係長、財政課長、総務課長、教育委員会学務課長、総務部長などを歴任。1966年、助役に就任。 1973年8月5日、区長準公選条例に基づき区長候補選出の区民投票が実施され、天野が最高得票を集める。同年8月20日、区議会で区長に選任される。 1975年4月27日に行われた区長選挙に自民党の推薦を受けて立候補し初当選。 1986年12月11日、虚血性心不全のため75歳で死去。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
萱場 照雄(かやば てるお、1910年(明治43年)8月1日… 萱場 照雄(かやば てるお、1910年(明治43年)8月1日 - 1984年(昭和59年)7月3日)は、日本の剣道家。段位は範士八段。 1940年(昭和15年)の天覧試合で準優勝した逆二刀の剣道家である。 宮城県伊具郡枝野村(現角田市)に生まれる。1934年(昭和9年)2月、宮城県警察官に任官。第二高等学校 (旧制)剣道師範の乳井義博から二刀流を学ぶ。1940年(昭和15年)6月20日、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会府県選士の部で準優勝。1948年(昭和23年)4月、宮城県警察部を退職。その後、萱場産業を設立。 宮城県剣道連盟理事、仙台市剣道連盟名誉会長等を歴任した。
東 勇作(あずま ゆうさく、1910年(明治43年)4月18… 東 勇作(あずま ゆうさく、1910年(明治43年)4月18日 - 1971年(昭和46年)8月4日)は、日本のバレエダンサー、振付家である。 宮城県仙台市で生まれた。1922年、12歳の時にアンナ・パヴロワの来日公演を横浜で鑑賞して感銘を受けた。旧制仙台二中(現在の宮城県仙台第二高等学校)を卒業後に上京し、1930年に当時鎌倉の七里ガ浜でバレエスクールを開いていたエリアナ・パヴロワの内弟子となってバレエの道に進むことになった。 後にパヴロワの元を離れ、蘆原英了が創設した「日本チェケッティ協会」に加入してバレエの研究に取り組んだ。一方で日劇を本拠地にして1934年に高田せい子の門下だった益田隆、浅草の「カジノ・フォーリー」で活躍していた梅園竜子とともに「益田トリオ」を結成して活動し、1936年に来日したオリガ・サファイアのパートナーも務め、サファイアからソビエトバレエについての知識を得た。
三春 重雄(みはる しげお、1910年3月17日 - 199… 三春 重雄(みはる しげお、1910年3月17日 - 1996年1月8日)は、宮城県志田郡古川町(現・大崎市古川)生まれ、旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)、法政大学出身、日本の政治家。元・宮城県議会議員、日本社会党宮城県本部委員長、日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)宮城連合会長、河北新報社厚生部部長などを歴任。第46代内閣総理大臣の片山哲は義理の叔父にあたる。 仙台市博物館にある「魯迅の碑」設置にも尽力をした。
丹野 実(實、たんの みのる、1910年(明治43年)2月1… 丹野 実(實、たんの みのる、1910年(明治43年)2月15日 - 1976年(昭和51年)7月2日)は、昭和期の漁業指導者、政治家。衆議院議員。 宮城県宮城郡塩竈町(現塩竈市)で、丹野富治郎の息子として生まれた 塩竃市漁業会長、宮城県水産評議員、同食糧品統制組合理事、同粉食協会常任理事、同社会事業協会顧問、同生活協同体連合会理事などを務めた。 政界では、塩竈市会議員、同参事会員を務めた。1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に宮城県全県区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、国民協同党政調会水産部長などを務めた。 その後、全国海苔増殖協会副会長、宮城県漁業協同組合会長、同県信用漁業協同組合連合会長、全国漁業協同組合連合会理事、関東北漁協連会長、大洋缶詰社長、日本ポゾラン会長、新東北化学社長などに在任した。
天野 良英(あまの よしふさ、1910年〈明治43年〉2月1… 天野 良英(あまの よしふさ、1910年〈明治43年〉2月12日 - 2001年〈平成13年〉3月3日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。最終階級は陸軍中佐、陸上幕僚長たる陸将。 陸士43期、陸大52期。第6代陸上幕僚長、第3代統合幕僚会議議長。息子は第26代西部方面総監の天野良晴。 宮城県登米郡宝江村大字田沼新井田(現・登米市中田町宝江新井田)出身。旧制宮城県立佐沼中学校から1927年(昭和2年)4月に陸軍予科士官学校に入校。1931年(昭和6年)7月、陸軍士官学校卒業(第43期)。同期には次の陸幕長の吉江誠一をはじめ広瀬栄一、藤原岩市など。1931年(昭和6年)11月、歩兵第17連隊で満州事変に従軍。
小野 栄(おの さかえ、1910年(明治43年)1月19日 … 小野 栄(おの さかえ、1910年(明治43年)1月19日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 宮城県仙台市出身。1934年(昭和9年)3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年10月、高等試験行政科に合格。1937年(昭和12年)4月、台湾総督府交通局書記に任じ、鉄道部自動車課勤務、庶務課勤務、殖産局商工課勤務を経て、1939年(昭和14年)7月、台北州蘇澳郡守に就任した。その後、拓務事務官・殖産局、拓北局青年課勤務を経て、1942年(昭和17年)10月、陸軍司政官に任じた。
安藤 太郎(あんどう たろう、1910年(明治43年)1月3… 安藤 太郎(あんどう たろう、1910年(明治43年)1月3日 - 2010年(平成22年)5月9日)は、日本の実業家。住友銀行副頭取、住友不動産社長・会長・相談役を務めた。第1次・第2次オイルショックの際に住友不動産を黒字化した実績から、「救世主」「中興の祖」と賞された。 安藤源治郎の長男として宮城県刈田郡七ヶ宿町で出生した。仙台二中、旧制水戸高校を経て、1934年(昭和9年)東京帝国大学法科を卒業して、住友銀行へ入行する。 住友銀行では、東京副支店長、東京事務所次長、本店営業部次長、そして銀座・日本橋の各支店長を歴任し、1959年(昭和34年)6月には東京事務所長、同11月取締役に就任する。
浅川 純直(あさかわ すみなお、1909年(明治42年)11… 浅川 純直(あさかわ すみなお、1909年(明治42年)11月29日 - 1991年(平成3年)3月9日)は、昭和時代の政治家。宮城県角田市長。奥州浅川氏の末裔。位階は正五位。 宮城県角田市生まれ。1942年(昭和7年)中央大学法学部卒。東京都職員を経て帰郷、角田市議会議長(4・5・6・7代)、角田市長(8・9代)を歴任。1990年(平成2年)市長を引退した。 角田市幡守会(角田石川藩家中の子孫の会)の会長を務めた。1991年死去。死没日付をもって正五位に叙された。
佐々 久(ささ ひさし、1909年10月1日 - 1989年… 佐々 久(ささ ひさし、1909年10月1日 - 1989年6月8日)は、日本の郷土史家、東洋史学者、教育者。宮城県図書館長、仙台郷土研究会会長などを務めた。 宮城県仙台市生まれ。東北帝国大学で東洋史を専攻し東北学院の教授などを務めたのち、30代後半で宮城県の郷土史研究に転じる。公務員として教育行政や文化財保護、図書館運営に携わりながら『仙台市史』、『宮城県史』の編纂・執筆をし、また宮城県内の多くの自治体の地方史を監修した。1981年、勲四等瑞宝章受章。蔵書は宮城県図書館に寄贈され「佐々久文庫」として所蔵されている。 1909年(明治42年)10月1日、宮城県仙台市二十人町に7人きょうだいの長男として生まれる。
土井 英一(つちい(どい) えいいち、1909年(明治42年… 土井 英一(つちい(どい) えいいち、1909年(明治42年)9月17日 – 1933年(昭和8年)9月9日)は、戦前日本のエスペランティスト。詩人土井晩翠の長男。第二高等学校在学中からエスペラント運動に取り組み、特にドイツの小学校長ヨハネス・シュレーダーと親交した。東北帝国大学入学後、ハンセン病患者救済のため寄附金付切手の導入を働きかけたが、在学中に病没した。 1909年(明治42年)9月17日、土井晩翠・八枝夫妻の長男として生まれた。片平丁尋常小学校(現在の仙台市立片平丁小学校)在学中に教師に飛び級を勧められ、5年次修了後に宮城県立仙台第一中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)に入学した。1年生の夏期休暇には原釜海水浴場で鰹漁船まで泳いだり、蔵王に登山するなど健康だったが、4年生の秋に発火演習で無理をしてから体調を崩した。
大石 武一(おおいし ぶいち、1909年6月19日 - 20… 大石 武一(おおいし ぶいち、1909年6月19日 - 2003年10月19日)は、日本の医師、政治家。位階は正三位。医学博士。 衆議院議員(10期)、参議院議員(1期)。環境庁長官(第2代)、農林大臣(第47代)。 仙台市元常磐町1番地(現在の仙台市民会館付近)に 、後に衆議院議員を務めた大石倫治の長男として生まれた。宮城県男子師範附属小学校から、宮城県立仙台第二中学校(現在の宮城県仙台第二高等学校)、旧制第二高等学校理科乙類に進学し、中学校ではテニス、高等学校では野球に熱中した。高校時代には結核性の肋膜炎に罹患して留年、翌年には腹膜炎を患った。1935年(昭和10年)に東北帝国大学医学部を卒業、1940年(昭和15年)に同大学大学院医学博士課程を修了した。
斎藤 秀夫(さいとう ひでお、1909年〈明治42年〉5月4… 斎藤 秀夫(さいとう ひでお、1909年〈明治42年〉5月4日 - 2003年〈平成15年〉9月6日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法、特に競売法、司法学。学位は、法学博士(東北大学・論文博士・1952年)。東北大学名誉教授。司法権論、裁判官論など、日本の司法学の開拓者として著名。菊井維大門下。弟子に小室直人など。 宮城県出身。旧制仙台第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1933年東北帝国大学法文学部卒、同助手。東京帝国大学法学部に内地留学し、菊井維大、兼子一に師事した。その後、1937年東北帝国大学助教授、1949年東北大学法学部教授。1952年「国会と司法権の独立 国政調査権と裁判官弾劾」で東北大学より法学博士の学位を取得。
浜田 隼雄(はまだ はやお、旧字体:濱田 隼雄、1909年1… 浜田 隼雄(はまだ はやお、旧字体:濱田 隼雄、1909年1月16日 - 1973年3月26日)は日本統治時代の台湾で活躍した日本の小説家。代表作は『南方移民村』。 宮城県仙台市生まれ。旧制台北高等学校を経て、東北帝国大学卒業後、台湾で教員となる。小説を西川満が主宰する『文芸台湾』に発表。1943年(昭和18年)、『南方移民村』で台湾文学賞を受賞。戦後は郷土を題材とした作品を執筆した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大池 唯雄(おおいけ ただお、1908年10月30日 - 1… 大池 唯雄(おおいけ ただお、1908年10月30日 - 1970年5月27日 )は、日本の作家。本名は小池忠雄(こいけ ただお)。 宮城県柴田郡船岡町(現在の柴田町)出身。仙台第二中学校(現宮城県仙台第二高等学校)、旧制第二高等学校文科甲類卒、東北帝国大学文学部中退。 東北初の直木賞作家。幕末や明治維新など、歴史に題材を求めた短編を多く残している。社会教育にも力を注ぎ、槻木公民館長、柴田町公民館長などを歴任。船岡中学校校歌の作詞も手掛けた。1939年、「兜首」「秋田口の兄弟」で、第8回直木三十五賞受賞。 1970年5月27日に死去。告別式は同月30日、柴田町立船岡小学校体育館で町の教育委員会葬として行われた。
斎藤 忠(さいとう ただし、1908年〈明治41年〉8月28… 斎藤 忠(さいとう ただし、1908年〈明治41年〉8月28日 - 2013年〈平成25年〉7月21日)は、日本の考古学者。 1908年、北海道で生まれた。生後ほどなく仙台市に移り、幼少期を過ごした。1926年3月、宮城県仙台第二中学校を卒業し、同年4月に第二高等学校文科甲類入学。1929年4月、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1932年、卒業論文『本邦古代に於ける葬制の研究』を提出して同大学を卒業。 1955年、学位論文『新羅文化の考古学的研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。1965年、東京大学教授に就いた。1970年からは大正大学教授として教鞭を執り、1983年に退任。その後は財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所長を務めた。
綾曻 竹藏(あやのぼり たけぞう、1908年5月20日 - … 綾曻 竹藏(あやのぼり たけぞう、1908年5月20日 - 1969年7月14日)は、宮城県仙台市青葉区出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は大場 竹藏(おおば たけぞう)。最高位は西関脇。 1908年5月20日に宮城県仙台市青葉区で生まれる。当初は、日中を仙台の税務署で勤務しながら過ごして夜は学校に通って勉強する生活(現在で言えば定時制)を送っていたが、ある日近所の好角家から体格を見出されたことで千賀ノ浦部屋へ入門、1925年1月場所で初土俵を踏んだ。 1928年に部屋ごと出羽海部屋へ移籍してからは、当時角界一の強豪とも言われていた出羽海部屋の関取から激しい稽古を受けて成長し、1931年5月場所において双葉山定次と共に新十両昇進を果たした。
大沼 康(おおぬま こう、1908年(明治41年)4月8日 … 大沼 康(おおぬま こう、1908年(明治41年)4月8日 - 1959年(昭和34年)1月12日)は、日本の政治家である。
成田 春人(なりた はると、1908年3月31日 - 199… 成田 春人(なりた はると、1908年3月31日 - 1992年3月17日)は、日本の建築家。宮城県仙台市出身。1950年に国鉄施設局建築課長となり、鉄道建築の総締めの地位につく。位階は従五位。 国鉄の建物の多くは木造であり、成田は建築物の不燃化に取りくみ、「不燃化の成田さん」として知られた。 終戦直後の1945年10月、伊藤滋鉄道省建築課長から「鉄道に来てくれるような良い建築技師が軍にいないだろうかと相談を受けた」のちに同僚となる太田和夫は成田春人を陸軍航空本部に訪ねた。成田は同僚の井上英彦と高山馨を誘うことを約束し、同年12月に3人が鉄道省に入ることになったという。 井上英彦によると木造の格納庫建築のために木造大張間構造の実現が求められ、陸軍航空本部では木材の接合部の処理を釘とジベルの2つとし、釘は高山馨、ジベルは成田が中心となって担当することとなり、いずれの工法も成功して鋼材の節約に貢献したという。
伊東 信雄(いとう のぶお、1908年(明治41年)3月17… 伊東 信雄(いとう のぶお、1908年(明治41年)3月17日 - 1987年(昭和62年)4月10日)は、日本の考古学者。東北地方の縄文・弥生・古墳時代、古代・中世・近世史、樺太(サハリン)の先史時代研究に大きな業績を残した。東北大学名誉教授。 1957年に東北大学考古学講座初代教授に就任した。東北地方の原始・古代文化を考古学的手法により解明し、「東北の考古学の父」と呼ばれた。伊東は、山内清男とともに東北の古い縄文土器の編年を確立し、特に青森県垂柳遺跡の発掘において、東北地方の稲作農耕を明らかにする研究を進めた。 戦前には、通説として「東北の古代文化は遅れていた」、「東北地方は鎌倉時代まで石器時代が続いた」とされていた。
谷田 専治(たにだ せんじ、1908年1月19日 - 199… 谷田 専治(たにだ せんじ、1908年1月19日 - 1994年1月1日)は、日本の生物学者、北海道大学名誉教授。 1908年、宮城県仙台市生まれ。1933年、東北帝国大学理学部を卒業。卒業後は、三井海洋生物研究所の研究員となり、下田で暮らす。1942年、北京・同仁会の華北防疫処に衛生昆虫研究室を開設するため赴任。1944年、学位論文『日本産石灰海綿の研究』を提出して理学博士号を取得。 1945年に太平洋戦争が終結すると、1946年に日本へ引き上げ帰国。その後は函館水産専門学校教授となった。1950年、水産資源研究所増殖部に着任。同研究所では、陸奥湾におけるホタテガイの耳づり養殖を試みるなどしている。
三戸 寿(みと たもつ、1908年〈明治41年〉1月17日 … 三戸 寿(みと たもつ、1908年〈明治41年〉1月17日 - 1971年〈昭和46年〉8月27日)は、昭和期日本の法制史学者。学位は法学博士(京都大学)。「三戸壽」とも表記される。法制史学会発起人の1人。専門はローマ法。神戸史学会評議員、法制史学会理事を歴任。 宮城県仙台市出身。第二高等学校 (旧制)(1928年卒業)を経て、1931年に東北帝国大学法文学部を卒業した。同年に同学部副手となる。1937年に関西学院大学法文学部講師に転じ、助教授(1939年)を経て、1942年に教授に就任した。1947年に学部改編で法学部所属となり、1951年に法学部長・同大学院法学研究科委員長に就任した。1952年2月、京都大学より論題「ローマ法継受史の研究」で法学博士の学位を取得した。
古内 広雄(古内 廣雄、ふるうち ひろお、1907年10月2… 古内 広雄(古内 廣雄、ふるうち ひろお、1907年10月24日 - 1972年11月5日)は、日本の外交官、政治家。衆議院議員(2期)。位階は正三位。勲等は勲二等。 宮城県岩沼市生まれ。伊達忠宗の家老職を務めた古内家の末裔である。第二高等学校文科乙類から東京帝国大学法学部に進み、大学在学中に高等試験外交科合格。外務省に入省してからはドイツに赴任して経験を積み1941年に本省に戻る。終戦直後は進駐軍との終戦連絡の折衝にあたるも、いわゆる「Y項パージ」で一時期省外へ出され公正取引委員会事務局総務部長、公正取引委員会事務局長などを務めた。 1953年に外務省に戻るとレバノン、オーストリア、パキスタン、インドネシアの各国大使を歴任し、池田勇人首相の奨めもあって1964年に退官して自由民主党公認で1965年の参院選に宮城県選挙区から立候補するが、地元組織の分裂から次点に終わる。
愛知 揆一(あいち きいち、1907年〈明治40年〉10月1… 愛知 揆一(あいち きいち、1907年〈明治40年〉10月10日 - 1973年〈昭和48年〉11月23日)は、日本の大蔵官僚、政治家。参議院議員から衆議院議員に転じ、内閣官房長官(第18・29代)や外務大臣(第92-93代)、大蔵大臣(第77代)などを歴任した。 東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、愛知敬一・祥夫妻の長男として生まれた。父・敬一は物理学者で、1911年に東北帝国大学理科大学物理学科の教授に就任したため、一家は仙台市へ移った。母・祥の実家も代々漢学者の系統という家柄で、一家を挙げての学者家庭だったという。 愛知は旧制宮城県第二中学校(現在の仙台第二高等学校)、旧制第二高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学法学部政治学科に入学、1931年に卒業した。
小野 浩(おの ひろし、1907年9月1日 - 1997年)… 小野 浩(おの ひろし、1907年9月1日 - 1997年)は、日本の哲学研究者。 仙台第一中学校、第二高等学校、1933年東北帝国大学哲学科卒業、同副手、高橋里美に師事、1938年仙台陸軍幼年学校教授、1942年二高教授、戦後1947年公職追放、1953年明治大学講師、助教授、1959年教授、1974年定年退職、城西大学教授。1982年定年退職。同11月勲四等旭日小綬章叙勲。 ドイツ哲学・文学を専門とし、日本美術、文学も論じた。
長尾 雅人(ながお がじん、1907年8月22日 - 200… 長尾 雅人(ながお がじん、1907年8月22日 - 2005年3月13日)は、日本の仏教学者・チベット学者。京都大学名誉教授。日本学士院会員。仏典に対する文献学的な研究を推し進め、また、チベット学の樹立に対しても貢献した。 1907年、宮城県仙台市生まれ。父雲龍は広島の寺院住職であった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
佐々木 直(ささき ただし、1907年(明治40年)5月19… 佐々木 直(ささき ただし、1907年(明治40年)5月19日 - 1988年(昭和63年)7月7日)は、日本の第22代日本銀行総裁。 父の任地、仙台市で誕生。釜山中学校(現釜山高等学校)、東京府立四中、第一高等学校を経て、東京帝国大学経済学部卒業(本位田祥男ゼミ)。日本銀行入行。戦前は総力戦研究所にも出向し,模擬内閣で日銀総裁役を務めた経験もある。 戦後、“日銀のプリンス”と称され、日銀総裁の座が近づいた時、池田勇人や、時の田中角栄蔵相らの意向で市中銀行(三菱)出身の宇佐美洵に総裁の座をさらわれ、日銀もすっかり大蔵省による金融行政の脇役に収まっていた。日銀副総裁時代には山一證券の破綻時、田中角栄の意向で日銀特別融資で乗り切り、さらに田中角栄内閣時代には日銀総裁を務めた。
桂川 質郎(かつらがわ しちろう、1907年〈明治40年〉3… 桂川 質郎(かつらがわ しちろう、1907年〈明治40年〉3月29日 - 2003年〈平成15年〉10月24日)は、宮城県名取郡(現在の名取市)出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は楯山部屋)に所属した大相撲力士。本名は檀崎 質郎(だんざき しちろう)。現役時代の体格は身長170cm、体重88kg。得意手は右四つ、突っ張り、吊り。最高位は、西前頭筆頭(1937年(昭和12年)1月場所)。 引退後は夢想神伝流居合の修行に没頭し、檀崎 友彰(だんざき ともあき)と名乗った。段位は居合道範士九段、杖道範士七段、剣道教士七段。 1927年(昭和2年)10月場所に於いて、20歳で初土俵。四股名ははじめ、出身地の宮城県名取郡に因んだ「名取川」を名乗った。
板垣 修(いたがき おさむ、1907年2月26日 - 198… 板垣 修(いたがき おさむ、1907年2月26日 - 1987年11月19日)は、日本の外交官。 宮城県仙台市出身。1931年高等試験外交科、行政科試験に合格。翌32年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省に入省。英国、中国などに勤務し、南京の中華民国大使館勤務中に終戦を迎える。1946年以降、外務省管理局経済部総務課長、総務局資料課長、同局総務課長、中国連絡調整事務局長、貿易局長、経済審議庁審議官を務める。 その後、香港総領事、通産省通商局長、外務審議官、アジア局長を経て1959年7月ノルウェー大使に就任。1962年5月フィリピン大使、65年2月インド大使、66年8月カナダ大使、69年5月中華民国(台湾)大使を歴任した後、72年3月に退官。
奈街 三郎(なまち さぶろう、1907年1月2日 - 197… 奈街 三郎(なまち さぶろう、1907年1月2日 - 1978年12月23日)は、日本の児童文学作家。宮城県仙台市出身。東京商業学校(現在の一橋大学)卒業。本名:山田三郎。 小川未明に師事する。 1952年、『まいごのドーナツ』で第1回小学館児童文化賞受賞。1959年、『とけいの3じくん』で文部大臣賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
伊達ノ花 静(だてのはな しずか、1907年1月1日 - 1… 伊達ノ花 静(だてのはな しずか、1907年1月1日 - 1944年12月11日)は、宮城県遠田郡涌谷町出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は深山 静。170cm、120kg。最高位は西前頭15枚目。 1923年1月初土俵、1932年2月十両昇進。1935年5月新入幕したが、わずか2場所の在位で1936年1月廃業し、茨城県日立市で割烹を経営、のちに北海道に渡ったが、戦時中に若くして亡くなった。 色白の肥満体で玉のようにきれいで(本名も女性っぽい静)、明治の横綱・小錦のようとも言われたが、小錦と違い出足に欠けて勝ち味が遅かった。
岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> … 岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> 7月4日- 1981年 <昭和56年> 3月19日)は、日本の経営者。日産自動車社長。位階は正四位。 鳥取県出身。旧制仙台一中、旧制弘前高校を経て、1931年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。東京乗合自動車での勤務を経て、1937年に日産自動車に転じ、1952年11月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1973年11月から1977年6月までに社長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1981年3月19日、肝不全のために死去。74歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
亀田 孜(かめだ つとむ、1906年(明治39年)3月4日 … 亀田 孜(かめだ つとむ、1906年(明治39年)3月4日 - 1982年(昭和57年)12月5日)は、日本の美術史学者。 宮城県伊具郡角田町(現・角田市)出身。吉野臥城(甫)の三男として生まれ、1922年(大正11年)亀田よねの養子となる。宮城県立第一中学校、第二高等学校理科甲類、東北帝国大学文学部卒、奈良国立博物館学芸員、1950年(昭和25年)東北大学文学部助教授、1952年(昭和27年)教授。1969年(昭和44年)定年退官、名誉教授。1962年(昭和37年)「白鳳後期美術の諸形相」で東北大学文学博士。
井上 東治郎(いのうえ とうじろう、1906年(明治39年)… 井上 東治郎(いのうえ とうじろう、1906年(明治39年)1月13日 - 1980年(昭和55年)9月29日)は、日本の農業指導者、政治家。衆議院議員。旧姓・升。 宮城県柴田郡村田町で升健蔵の長男として生まれ、井上ちせの養子となった。1924年(大正13年)市立仙台商業学校(現仙台市立仙台商業高等学校)を卒業した。新聞販売業を営んだ。 村田町農会長、全国治水砂防協会評議員、同県支部長、宮城県森林組合連合会長、同県蒟蒻栽培生産組合連合会副会長、全国蒟蒻原料配給統制協議会常任理事、宮城県蒟蒻原料統制 (有) 取締役社長、商工組合中央会理事、宮城県蚕糸連盟評議員などを務め、農民の福祉の向上に尽力した。
山本 恭子(やまもと きょうこ、1906年ごろ - 1996… 山本 恭子(やまもと きょうこ、1906年ごろ - 1996年11月6日)は、日本の映画評論家、翻訳家、編集者。本名、山本田鶴。山本田鶴子の名義も用いた。 京都府船井郡和知町出身。宮城県第一高等女学校卒業。女性映画評論家の草分けである。 洋画の字幕スーパーや原作本の翻訳に従事した。ユナイテッド・アーティスツ日本支社、雑誌『キネマ旬報』編集部、のち『映画之友』などの編集者として活躍した。雑誌『映画ファン』の編集長も務めた。
菅原文哉 (すがわらぶんや、1906年-1977年4月) は… 菅原文哉 (すがわらぶんや、1906年-1977年4月) は、日本の都市計画家で、旧東京府や旧満州国で各地都市の都邑計画立案や改正都邑計画法起草に携わる。戦後は乞われて全国各地の総合都市計画立案に関わり、戦後日本の近代都市の基盤確立に従事していく。 宮城県栗原郡金田村生まれ。1923年に上京して東京府庁に入る。東京府では土木部建設事務所、都市計画課及び整地課に勤務。整地課時代は府下各地の土地区画整理基本調査と駒沢や上馬、下馬、練馬などの広範囲に及ぶ土地区画整理組合設立参画で事業実施の指導にあたる。その傍らで攻玉社工学校に進学し1927年に卒業後に東京府土木部に勤務を継続して帝都復興事業に従事しながら攻玉社高等工学校土木工学科に進学し、1931年に同校を卒業。
南沢 十七(みなみざわ じゅうしち、一部文献にある「なんざわ… 南沢 十七(みなみざわ じゅうしち、一部文献にある「なんざわ としち」は誤り、1905年3月10日 - 1982年9月26日)は日本の探偵小説・科学小説家、翻訳家。ペンネームの「十七」は17歳のときに父親を亡くしたことによる。代表作に『緑人の魔都』などがある。 本名である川端 男勇(かわばた まさお)名義では科学者の伝記の翻訳や、ノンフィクションの執筆を行った。別名義に本名をもじった川端 勇男(いさお)や、巳貴 千尋、米田 華舡 がある。雑誌『科学画報』の編集長を務めた。 中国研究家の米田祐太郎は叔父。 宮城県仙台市出身。三田中学(現・三田学園高校)を卒業(一説によれば幼児の頃に満州に渡って成人まで滞在していたという)。
牧野 周一(まきの しゅういち、1905年2月21日 - 1… 牧野 周一(まきの しゅういち、1905年2月21日 - 1975年5月3日、本名:宇野主一)は、日本の映画説明者、漫談家。東京演芸協会第2代会長。
大友 よふ(おおとも よふ、1904年8月31日 - 198… 大友 よふ(おおとも よふ、1904年8月31日 - 1988年6月28日)は日本の女性活動家、平和運動家、日本地婦連会長、北方領土返還要求運動連絡協議会(北連協)初代議長、日中友好協会全国本部副会長、岩沼市名誉市民。トルーカ名誉市民。 宮城県岩沼市生まれ。旧姓・高橋。同じ岩沼市出身で日本国憲法制定に尽力した日本社会党衆議院議員の菊地養之輔は従兄、世界医師会会長の武見太郎とも親戚関係にある。 大正11年、宮城県第二女子高等学校(現在の宮城県仙台二華中学校・高等学校)卒。会員600万人の全国最大の婦人団体組織全国地域婦人団体連絡協議会会長として国際的に活躍した。消費者保護や核兵器廃絶などに幅広く活動した。
鈴木 隆夫(すずき たかお、1904年2月27日 - 198… 鈴木 隆夫(すずき たかお、1904年2月27日 - 1980年12月16日)は、日本の官僚、国会職員。法学博士。第二次世界大戦後、55年体制の成立期において衆議院事務総長を務めた。その退職後は、第2代国立国会図書館長となり、また、味の素株式会社の経営に携わった。 宮城県伊具郡角田町(角田市の前身)の医師の家に生まれる。宮城県立白石中学校、旧制弘前高等学校を経て、東北帝国大学法文学部卒業。在学中、高等文官試験司法科(1929年)・行政科(1930年:首席と伝えられる)に合格した。1931年、内務省に入省して警視庁に配属されたが、同年、守衛副長として衆議院事務局に転じ、守衛(後の衛視)の教育に当たる。
小杉 勇(こすぎ いさむ、本名・小杉 助治郎、1904年2月… 小杉 勇(こすぎ いさむ、本名・小杉 助治郎、1904年2月24日 - 1983年4月8日)は、日本の映画俳優、映画監督。作曲家の小杉太一郎は息子。息子の妻は漫談家の山野一郎の娘。 宮城県石巻市に生まれる。石巻商業学校を卒業後、上京し、「日本橋白木屋百貨店」に就職する。しかし、1923年、日本映画俳優学校設立と同時に入学する。同期に八木保太郎、吉村廉、島耕二などがいる。 1925年、日活京都撮影所に入社する。当時の日活は看板スターであった鈴木傳明や岡田時彦などが去り、新しいスターを必要としていた。また、左翼思想の台頭などもあり、たくましさも兼ね備えた小杉が新しい時代を象徴する存在として注目された。
水上 不二(みずかみ ふじ、男性、1904年(明治37年)1… 水上 不二(みずかみ ふじ、男性、1904年(明治37年)1月10日 - 1965年(昭和40年)3月31日)は、日本の詩人、童話作家、絵本作家、作詞家。 宮城県本吉郡大島村(現在の気仙沼市)字長崎にて父・佐助、母・あやの の次男として生まれる。 1918年(大正7年)、本吉郡立水産学校(現在の宮城県気仙沼向洋高等学校)に入学し、卒業後は1922年(大正11年)9月より本吉郡内の小学校3校に勤務した。その後、1928年(昭和3年)4月に上京し、東京府南葛飾郡の松江第一小学校に勤務した。 1930年(昭和5年)、処女詩集『私の内在』を発行する。この頃より鈴木三重吉、北原白秋らが発刊した「赤い鳥童謡運動」に参加。