池上 三郎(いけがみ さぶろう、1855年3月14日〈安政2… 池上 三郎(いけがみ さぶろう、1855年3月14日〈安政2年1月26日〉 - 1914年〈大正3年〉11月10日)は明治期の司法官、検事。函館控訴院検事長。従三位勲二等。族籍は福島県士族。実弟に、第6代大阪市長、第6代朝鮮総督府政務総監を務めた池上四郎がいる。 安政2年(1855年)1月26日、若松城下本三ノ丁に会津藩士の父池上武輔と母ウメの長男として生まれる。初め八三郎と称し後に三郎と名乗る。元治元年(1864年)藩校日新館に入学、抜群に優秀な成績を修めた。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、14歳で隊頭西郷寧太郎の率いる中軍護衛隊に加わり北出丸の篭城戦で敵を防いだ(会津戦争)。開城後の明治2年(1869年)、上窪村(現塩川町)の肝煎鈴木家に家族と寄寓。
平島 松尾(ひらしま まつお、安政元年11月17日(1855… 平島 松尾(ひらしま まつお、安政元年11月17日(1855年1月5日) - 昭和14年(1939年)8月13日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→憲政本党→憲政会)。 陸奥国安達郡二本松(現二本松市)で二本松藩士平島正就の長男として生まれ、藩校で漢学を学ぶ。戊辰戦争に従軍した後、英学を学び、1873年(明治6年)に福島小学校の教員となった。その後、大蔵省、ついで福島県に勤務するが、1881年(明治14年)に官を辞し、自由党に入党した。しかし翌年、福島事件により河野広中とともに逮捕された。1889年(明治22年)、特赦により出獄し、河野とともに大同団結運動に参加した。 福島県会議員を経て、1894年(明治27年)の第3回衆議院議員総選挙に当選。
室原 重福(むろはら じゅうふく、1855年1月3日(安政元… 室原 重福(むろはら じゅうふく、1855年1月3日(安政元年11月15日)- 1934年(昭和9年)2月7日)は、明治期の日本の教員、翻訳家、政治家。衆議院議員。 陸奥国宇多郡中村(福島県相馬郡中村町を経て現相馬市)で生まれる。尺振八の塾(共立学舎)に入り英書を学び、同塾教師となる。同人社に転じ英学教員に就任。27歳で外務省翻訳局御用掛に転じ、条約改正事務を担った。1887年(明治20年)長崎県尋常中学校長に転出した。 1890年(明治23年)9月、立憲自由党に入党し、1897年(明治30年)河野広中の福島県下自由党の分党活動に反対し、目黒重真県会議長らと県下自由党組織の維持に貢献した。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(福島県郡部、立憲政友会)で初当選し、1903年(明治36年)3月の第8回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
赤羽 四郎(あかばね しろう、1855年(安政2年2月)- … 赤羽 四郎(あかばね しろう、1855年(安政2年2月)- 1910年(明治43年)1月28日)は、幕末の会津藩士で明治時代の外交官。日露戦争時のスペイン公使。 父は会津藩御旗奉行赤羽庄三郎。赤羽家は家禄350石の上級藩士であった。藩校日新館に学び、戊辰戦争では会津若松城に篭城して戦った。藩の降伏後猪苗代で謹慎していたが、同年輩の山川健次郎、柴四朗、高木盛之輔らと謹慎所を脱走。若松城下に赴き新政府軍に藩主父子の助命嘆願を行っている。のち斗南藩英学塾、次いで沼間守一が土佐藩藩邸に設けた塾で英学を学んだ。 1872年(明治5年)アメリカに留学しエール大学に学び、帰国後は東京大学予備門三等教諭、訓導を務めた。
小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1… 小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1854年12月17日〉 - 1925年〈大正14年〉9月11日)は、幕末・戊辰戦争期の武士、明治から大正にかけての警察官・実業家・政治家である。 会津藩藩士として生まれ、戊辰戦争に従軍。その後は警察官に転じ、各地の警察署長や県警察部長などを歴任した。1907年(明治40年)より実業界に転じて長野県の電力会社信濃電気の社長に就任し、1912年(大正元年)には郷里の福島県若松市(現・会津若松市)に戻って若松市長(第5代)を務めた。 小野木源次郎は、安政元年10月28日(新暦:1854年12月17日)、会津若松城下(現・福島県会津若松市)に生まれた。
高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月6日(嘉永7年… 高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月6日(嘉永7年/安政元年8月15日)- 1910年(明治43年)2月22日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。 会津藩上士(150石)の長男。幼時より英才を発揮し、1868年(明治元年)には数え14歳で会津藩小姓に抜擢され、戊辰戦争を戦った。 慶應義塾(現・慶應義塾大学)の塾生・教員を経て、師範教育調査のため文部省によりアメリカ合衆国へ派遣され、オスウィーゴ師範学校(現・ニューヨーク州立大学オスウィーゴ校 SUNY Oswego)に留学。帰国後は東京師範学校及び東京高等師範学校(ともに現・筑波大学)で教員・校長を務め、ペスタロッチ主義教育(開発教授)の導入と師範教育の近代化を推進した。
山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年/安政元年閏7月… 山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年/安政元年閏7月17日〈1854年9月9日〉- 昭和6年〈1931年〉6月26日)は、明治から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者。男爵、理学博士。東京帝国大学総長の在任期間は計11年11か月に及び歴代最長。 会津藩出身で白虎隊士(途中離脱)として明治政府と戦った後、アメリカへの官費留学を経て東京開成学校・東京大学(日本人初の物理学教授)に登用された。その後、東京帝国大学理科大学長、東京帝国大学総長、明治専門学校(九州工業大学の前身)初代総裁、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、旧制武蔵高等学校(武蔵高等学校中学校および武蔵大学の前身)校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。
井深 梶之助(いぶか かじのすけ、嘉永7年6月10日(185… 井深 梶之助(いぶか かじのすけ、嘉永7年6月10日(1854年7月4日) - 昭和15年(1940年)6月24日)は、日本の牧師。日本基督教会の指導者。明治学院の2代目総理、日本基督教青年会同盟委員長を務めた。 会津藩士井深宅右衛門(禄高550石)の長男として生まれた。幼名は清佶である。代々小姓を出している家柄であった、井深は最後の会津藩主松平容保の小姓であった。慶応4年(1868年)15歳の時白虎隊年少組の斥候として会津戦争に加わる。また小姓として松平容保の側で、山川健次郎、高木盛之輔、高峰秀夫らと共に戦った。 敗戦後、会津藩士たちと共に猪苗代で謹慎生活を送る。1869年(明治2年)の年の初め、藩士は東京に護送されることになったが、井深は老幼女子に行くように命じられ、河沼郡水谷地村(現、喜多方市豊川町高堂太水谷地)に帰り、親族と共同生活をする。
飯沼 貞吉(いいぬま さだきち、嘉永7年3月25日(1854… 飯沼 貞吉(いいぬま さだきち、嘉永7年3月25日(1854年4月22日) - 昭和6年(1931年)2月12日)は、白虎隊士(士中二番隊所属)、通信技師、軍人。維新後は名を貞雄と改め、逓信省通信技師となる。後に孤舟、孤虎と号した。軍人としての最終階級は陸軍大尉。栄典は正五位勲四等。 年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが、死に切れず命を救われた。維新後は貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍した。1931年(昭和6年)2月12日、76歳で生涯を終えた。戒名は、白巖院殿孤虎貞雄居士。 嘉永7年(1854年)3月25日、会津藩・飯沼時衛一正の二男として郭内本二之丁と三之丁間、大町通りにて生まれる。
9代 佐藤 伝兵衛(傳兵衞、さとう でんべえ、1854年1月… 9代 佐藤 伝兵衛(傳兵衞、さとう でんべえ、1854年1月13日(嘉永6年12月15日)- 1938年(昭和13年)8月11日)は、明治から昭和前期の大地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・菅野。 陸奥国安達郡、後の福島県安達郡小浜村(小浜町、岩代町を経て現二本松市小浜)で菅野善右衛門の三男として生まれ、安積郡郡山村(郡山町を経て現郡山市)の商家、大地主・佐藤喜一郎の養子となる。 1884年(明治17年)7月、郡山村会議員に就任し、その後、郡山町会議員、所得税調査委員、安積郡会議員、郡山本町郵便局長、営業税調査委員などを務めた。 1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、研究会に所属して活動し1925年(大正14年)9月28日まで在任した。
高木 盛之輔(たかぎ もりのすけ/たかき もりのすけ、185… 高木 盛之輔(たかぎ もりのすけ/たかき もりのすけ、1854年(安政1年)- 1919年(大正8年)2月19日)は、日本の武士、検察官。会津藩藩士として戊辰戦争を、別働第二旅団の一員として西南戦争を戦った。姉の高木時尾は照姫附き祐筆で、元新撰組副長助勤斎藤一(藤田五郎)に嫁ぐ。福島県立会津高等学校の創立功労者の一人である。 会津藩高士、家禄300石の高木家に生まれる。高木家は藩大目付を務める家柄であった。会津戦争の当初は伝令を務め、松平容保、定敬兄弟が出陣していた滝沢本陣に危急を報告した。その後年少者で組織された護衛隊に属して篭城戦を戦った。藩降伏後は猪苗代で謹慎生活を送る。この際軍事方水島純の命で同年輩の山川健次郎、赤羽四郎、柴四朗ら五人で謹慎所を脱出し、若松で土佐藩の伴中吉に主君容保、喜徳父子への寛大な措置を嘆願した。
小笠原貞信(おがさわら ていしん、1853年3月31日(嘉永… 小笠原貞信(おがさわら ていしん、1853年3月31日(嘉永6年2月22日)- 1903年(明治36年)2月18日)は、福島県出身の法律家、衆議院議員(第2回、第3回)。福島民報初代社長(在任:1892年 - 1896年)。旧姓・今江。 陸奥国安達郡、のちの福島県安達郡二本松町(現二本松市)で二本松藩士・今江又兵衛の子として生まれる。12歳の時に二本松藩士の小笠原是馬助の養子となる。1875年に上京し、翌年の9月に司法省法学校の第二期生として入学する。その後、1884年7月に修業年限8年(予科4年、本科4年)を終え、法律学士の称号を得る。検事試補となり、千葉始審裁判所に勤務し、1885年12月に検事として任命される。
柏原 左源太(かしわら / かしわばら さげんた、1852年… 柏原 左源太(かしわら / かしわばら さげんた、1852年11月17日(嘉永5年10月6日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国磐城郡赤井村(現福島県いわき市平赤井)の旧家に生まれた。磐城平藩儒・大須賀筠軒に学び漢学を修めた。 自由民権運動に参加し興風社に加盟。赤井村長、福島県会議員を歴任。三島通庸県令への反対運動に加わるが福島事件での逮捕は避けられた。 その後、立憲政友会に加わり福島支部の発起人となる。1908年5月の第10回衆議院議員総選挙に福島県郡部区から出馬し当選。衆議院議員を一期務めた。その他、三星炭鉱 (株) 取締役、平銀行 (株) 取締役、赤井軌道 (株) 常務取締役などを務めた。
丹羽 五郎(にわ ごろう、1852年5月2日(嘉永5年3月1… 丹羽 五郎(にわ ごろう、1852年5月2日(嘉永5年3月14日) - 1928年(昭和3年)9月6日)は、幕末の会津藩士。明治、大正期の警察官、開拓者である。西南戦争では抜刀隊としても戦い、戦後はせたな町の一部となっている丹羽村を開村した。警察官時代は田村五郎と名乗る。 会津藩重臣丹羽家(1000石)の分家に生まれる。曽祖父の丹羽能教は家老であった。父の丹羽族は100石取りの藩士で、戊辰戦争において越後口八十里越方面の兵糧総督として自刃した。丹羽は本家に男子がいなかったため養子として跡を継ぐ。戊辰戦争時は会津藩主・松平喜徳の側近くで仕えたが、この戦いで一族40名以上を失い、従兄弟の永瀬勇次、有賀織之助は白虎隊士として自刃した。
日下 義雄(くさか よしお、嘉永4年12月25日(1852年… 日下 義雄(くさか よしお、嘉永4年12月25日(1852年1月16日) - 大正12年(1923年)3月18日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。位階および勲等は正四位・勲二等。 現在の会津若松市で会津藩の侍医・石田龍玄(常雄)の長男として生まれる。父は農家の出身だが、幼年より医学を学び公家の側醫格となり士分に登用され七人扶持を賜った。龍玄は特に内科の名医として名声があり、貧しきものには無銭にて薬を処方した。母は中村為七郎の娘のちえ子。幼名は五郎。初名は石田伍助。弟に白虎隊二番士中組の1人で飯盛山で自刃した石田和助がいる。妻は水野忠精の娘。 藩校・日新館で学び、鳥羽・伏見の戦いに従軍。会津戦争では、大鳥圭介らと行動をし、落城前に会津を脱出し、箱館戦争に加わった。
9代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1851年12月2… 9代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1851年12月24日(嘉永4年12月2日)- 1911年(明治44年)8月2日)は、明治期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・九八郎。 陸奥国信夫郡八島田村(福島県信夫郡野田村、吾妻町を経て現:福島市八島田。当時は越後新発田藩の領地。)に於いて名主吉野安兵衛の四男として生まれる。兄・周太郎の死後に9代周太郎を襲名し、1898年(明治31年)4月に家督を相続した。 1897年(明治30年)以降、第百七国立銀行取締役、同頭取などを務めた。1904年(明治37年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、 1911年8月、在任中に死去した。
内藤 ユキ(ないとう ゆき、嘉永4年5月15日(1851年6… 内藤 ユキ(ないとう ゆき、嘉永4年5月15日(1851年6月14日) - 昭和19年(1944年)11月9日)は、幕末から昭和初期にかけての女性。旧姓は日向(ひなた)。会津藩士・日向左衛門の次女で、旧薩摩藩士・内藤兼備(かねとも)の妻。 会津藩の上士で御旗奉行(後に町奉行)を務めていた父・日向左衛門、母・ちかの次女として会津若松城下に生まれた。 ちかは会津藩士・飯沼粂之進の娘。ちかの姉(ユキの伯母にあたる人物)は藩家老・西郷頼母の妻・千恵子。 元白虎隊士・飯沼貞吉はユキの母方の陸軍軍人・柴五郎は父方のいとこに当たる。 3歳で生母を失い、後に有賀豊之助の妹・秀が左衛門の後妻となる。日向家の近所には、藩砲術師範であった山本権八や、藩大目付であった高木小十郎の家があったことから、彼らの娘である山本八重・高木時尾とは幼馴染であった。
遠藤 敬止(えんどう けいし、1851年1月24日(嘉永3年… 遠藤 敬止(えんどう けいし、1851年1月24日(嘉永3年12月23日) - 明治37年(1904年)6月15日)は、幕末期の武士(会津藩士)、明治期の大蔵官僚、七十七銀行第二代・四代頭取、仙台商工会議所初代会頭。 嘉永4年(1851年)、会津藩士・遠藤清直の長男として江戸に生まれる。幕府の開成所に学んだ後、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いの際には会津軍として歴戦し、鶴ヶ城の籠城戦に加わりのち敗れて江戸にて謹慎生活を送る。独学で英学を修め、慶應義塾に入って経済学を学ぶ。大蔵省に銀行事務講習所が創設されると、講師として出仕。渋沢栄一に見出されて第一国立銀行勤務後、第七十七国立銀行頭取となり、仙台商業会議所会頭ほか、会津銀行設立や学校の創立など多くの事業を支援。
門馬 尚経(もんま たかつね、1851年(嘉永4年4月) -… 門馬 尚経(もんま たかつね、1851年(嘉永4年4月) - 1915年(大正4年)7月23日)は、明治から大正時代の政治家。実業家。自由民権運動家。衆議院議員。 陸奥国宇多郡玉野村(現相馬市)に生まれる。 1878年(明治11年)福島県第21区戸長兼学区取締在職中に公同社を創立し民権運動に関わる。翌年、県学務課に転任し、文部属普通学務局勤務を経て、1881年(明治14年)官職を辞した。 1888年(明治21年)東京専門学校卒業。在学中の1886年(明治19年)10月、福島県会議員補欠選挙に当選した。 学校卒業後直ちに両潤社員(国後硫黄礦事務長)となり、ついで佐賀県私立中学鎔造館教師兼幹事、同評議員を務めた。
角田 秀松(つのだ ひでまつ、1850年3月25日(嘉永3年… 角田 秀松(つのだ ひでまつ、1850年3月25日(嘉永3年2月12日) - 1905年(明治38年)12月13日)は、日本の武士(会津藩士)、海軍軍人。最終階級は海軍中将。戊辰戦争において「朝敵」とされた会津藩出身者として最初の海軍将官となった人物である。 会津藩医、角田良智の二男として生まれる。父の蝦夷地赴任に同行し、南摩綱紀に学んだ。秋月悌次郎に従って上洛し、林権助に洋式訓練を受ける。鳥羽・伏見の戦い、会津戦争と歴戦したが、藩の降伏を迎えた。古川庄八らに学んだ後、商船の水夫となり船長代理に昇る。征台の役に運送船に乗組んだ際に西郷従道の知遇を得て、1874年10月、長崎海軍出張所雇となる。
三浦 信六(みうら しんろく、1850年(嘉永3年7月)- … 三浦 信六(みうら しんろく、1850年(嘉永3年7月)- 1897年(明治30年)9月19日)は、明治期の政治家。衆議院議員、福島県耶麻郡加納村長。 陸奥国耶麻郡上野村(福島県耶麻郡米岡村、加納村、熱塩加納村を経て現喜多方市熱塩加納町米岡上野)で、肝煎(庄屋)三浦嶺八の息子として生まれる。日新館で学び、その後江戸に出て昌平坂学問所で学んだ。 1881年(明治14年)頃から自由民権運動に加わり、同年5月、会津地方有志大親睦会で座長となり、自由党会津支部の創設に尽力し、1882年(明治15年)2月に同支部常任委員に就任。同年12月、福島県会議員に選出され、三島通庸県令反対派であったが、会津三方道路問題には関与しなかった。
栗村 左衛八(くりむら さえはち、嘉永2年6月1日(1849… 栗村 左衛八(くりむら さえはち、嘉永2年6月1日(1849年7月20日) - 昭和4年(1929年)5月17日)は、日本メソジスト教会の最初の日本人伝道者の一人、後に同教団の牧師。会津藩士。1878年(明治11年)6月12日日本最初のキリスト教式結婚式を挙げた人物として知られる。 会津藩士荒木進三郎の次男として会津若松に生まれる。1864年(元治元年)に栗村家を継ぐ。1868年(慶応4年)会津戦争に従軍する。東京で謹慎処分を受けた会津藩士の一人として名前が載っている。 1873年(明治6年)の廃藩置県の後で、横浜に行き蓮卒(警察官)になる。横浜で教会に行き、キリスト教に回心する。 1875年(明治8年)にロバート・S・マクレイに就いて神学を治める。
加藤 寛六郎(かとう かんろくろう、嘉永2年5月2日(184… 加藤 寛六郎(かとう かんろくろう、嘉永2年5月2日(1849年6月21日) - 昭和10年(1935年)6月17日)は、幕末の会津藩士、明治時代の地方官吏、警察官、教育者、銀行家である。号は六石。 若松城下に生まれる。藩が戊辰戦争に敗れたのち、青森中学の助教となる。次いで警察官となり、千葉県警察署長に就任。明治9年(1876年)、同藩出身の永岡久茂らが萩の乱に呼応して挙兵を図り千葉へ向う途中で乱闘となり検挙された(思案橋事件)。これは千葉に加藤ら会津藩出身の警察官がいたため、永岡は加藤らの協力を期待して千葉での挙兵を計画したといわれる。 翌年生起した西南戦争において加藤は抜刀隊小隊長となり歴戦している。
長郷 泰輔(ちょうごう たいすけ/なごう たいすけ/ながさと… 長郷 泰輔(ちょうごう たいすけ/なごう たいすけ/ながさと やすすけ、1849年2月11日(嘉永2年1月19日)- 1911年(明治44年)7月15日)は、明治時代に活動した日本の建築家。ニコライ堂の建設で知られる。 陸奥国会津郡(現・福島県会津若松市)に生まれる。父は会津藩士の長郷佐平で、その三男だった。戊辰戦争に従軍後、敗戦により函館に移り、そこでイギリス領事の知遇を得る。 明治4年2月(1871年3月 - 4月)に上京。上京翌年の1872年(明治5年)には、長郷(当時は古田姓を名乗る)は、ロシア正教会大主教・ニコライ・カサートキンに従者として仕え、正教を受洗して「イリヤ」の洗礼名を授かっていた。
高野 源之助(たかの げんのすけ、1848年5月28日(嘉永… 高野 源之助(たかの げんのすけ、1848年5月28日(嘉永元年4月26日)- 1907年(明治40年)6月15日)は、幕末の会津藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 陸奥国会津郡若松城下で会津藩士の息子として生まれる。漢学、武術、英蘭学を修めた。戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦い、東北の戦闘に従軍。 1873年、小樽に渡り船舶回漕業を営んだ。1890年8月、小樽総代人に選出された。その後、小樽区会議員、北海道会議員を務めた。1903年3月、第8回衆議院議員総選挙に北海道庁小樽区から出馬し当選。交友倶楽部に所属し衆議院議員を一期務めた。 その他、小樽商業会議所会頭、北海道拓殖銀行創立委員、小樽米穀外五品取引所監査役、小樽銀行取締役、北海木材 (株) 監査役、北海生命保険 (株) 社長、北海道鉄道 (株) 取締役、大同生命保険 (株) 取締役、小樽電燈合資会社執行社員なども務めた。
海老名 リン(えびな りん、1848年(嘉永1年)- 190… 海老名 リン(えびな りん、1848年(嘉永1年)- 1909年(明治42年)4月20日)は、日本の教育者。福島県で保母の資格を取得した最初の人物であり、会津地方の幼児教育、女子教育に功績を持つ。婦人矯風会副会頭。 父は会津藩藩士日向新介。17歳で同藩士海老名季昌に嫁ぐ。季昌は戊辰戦争において家老に昇進し、北出丸の指揮官として会津若松城籠城戦を戦ったが、入城することができず高田に避難した。高田に敵来たるとの情報があった際、戦闘準備を整えていたが、この敵は別方向に向かい戦闘は生起しなかった。開城後、季昌は東京で謹慎生活を送り、リンは一家で斗南へ移住した。 季昌は紆余曲折を経て警察官、地方官の地位につき、夫の任地に従い住居を転々とした。
内藤 魯一(ないとう ろいち、弘化3年10月6日(1846年… 内藤 魯一(ないとう ろいち、弘化3年10月6日(1846年11月24日) - 明治44年(1911年)6月29日)は、幕末から明治にかけて活躍した自由民権運動家。衆議院議員(立憲政友会)。東海地方の民権運動の嚆矢として知られる。 弘化3年10月6日(1846年11月24日)、陸奥国福島(現在の福島県福島市)に生まれた。内藤家は福島藩藩士の家であり、代々譜代大名板倉氏の家老職を務めた家柄だった。 慶応4年 (1868年)の戊辰戦争の際、福島藩は奥羽越列藩同盟に参加したが、内藤はこれに反対して孤立したが、福島藩が敗北すると事態の収拾に尽くした。その後、三河国の重原藩(現在の愛知県刈谷市)に転封されたものの、執政大参事として藩政の立て直しに参画し、廃藩置県後も藩士の授産活動に尽くした。
石井 収(いしい おさむ、弘化3年(1846年) - 大正1… 石井 収(いしい おさむ、弘化3年(1846年) - 大正14年(1925年)10月10日)は、日本の武士、警察官、地方官吏である。会津藩士として戊辰戦争を、また西南戦争を戦った。田山花袋は義弟。旧姓生亀、雅号盤石。 会津藩士の生亀家に生まれる。父は可汲。戊辰戦争では佐川官兵衛麾下として北越戦争を戦い、重傷を受け若松へ後送されている。明治5年(1872年)に警察官となり、少警部に昇進。また明治10年(1877年)には陸軍歩兵中尉に任官した。西南戦争に出征し、再び負傷している。警察官としては五等警視 に昇り、淀橋警察署、富岡門前警察署、本郷警察署でそれぞれ署長を務めた。明治19年(1886年)から明治25年(1892年)まで東白川郡郡長を務めて退官した。
山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年1… 山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年12月4日〉- 明治31年〈1898年〉2月4日)は、日本の武士(会津藩家老)、陸軍軍人、政治家、教育者。最終階級は陸軍少将、位階勲等・爵位は従三位勲三等・男爵。 陸軍省人員局長 兼 輜重局長、陸軍省総務局制規課長、高等師範学校長・附属中学校初代校長、貴族院議員を歴任した。明治初年までの諱は重栄、字は士亮、通称は大蔵(おおくら)、与七郎。号は屠竜子。 祖父は、会津藩家老・山川兵衛 重英。父は、山川尚江 重固。山川家の家禄は1千石。 祖父の重英が高齢まで隠居せずに家老職にあったため、父の重固は山川家の嗣子の立場で会津藩に出仕して郡奉行主役を務めていた。
小出 光照(こいで みつてる、弘化2年〈1845年〉 - 明… 小出 光照(こいで みつてる、弘化2年〈1845年〉 - 明治7年〈1874年〉2月18日)は、幕末の会津藩士、明治時代の地方官吏である。通称は鉄之助、号は斗南。 父・小出只五郎は篠田家の出身である。妻・操は山川浩の妹、山川健次郎・大山捨松の姉で、のちに明治天皇フランス語通訳兼昭憲皇太后付女官で権掌侍。 藩校・日新館の秀才として知られ、通常より3年早く15歳で一等試学に及第。藩主・松平容保の小姓に抜擢される。小出は江戸遊学を許されて古屋佐久左衛門の私塾に通い、洋学を学んだ。しかし花見の帰りに番所役人に咎めを受け、揚屋入りを命じられる。藩は小出に帰藩を命じたが、古屋と相談した小出は脱藩して外国に赴くことを決意。
山川 二葉(やまかわ ふたば、弘化元年8月19日〈1844年… 山川 二葉(やまかわ ふたば、弘化元年8月19日〈1844年9月30日〉 - 明治42年〈1909年〉11月14日)は、日本の教育者 。 陸奥国会津藩若松城下(現在の福島県会津若松市)にて、国家老山川重固とえん(艶;会津藩士西郷近登之の娘)の長女として生まれる。弟妹は浩、三輪、操、健次郎、常磐、さき(捨松)。万延元年(1860年)に父が死去した当時、二葉は数え17歳で、16歳の浩が家督を継いだ。 明治維新以前、後に家老職に就く梶原平馬と婚姻したものの、短期間で離縁して復籍(離縁日時は不詳)、一子景清(慶応2年11月16日生)は二葉が養育した。 旧暦明治元年8月-9月(1868年10月-11月)の会津城籠城戦において、その家柄故に山川家の人々は相応の役割を果たし、婦女子は調理と配布、負傷者の看護、旧式銃弾の製造と補充などの業務に当たった。
北原 雅長(きたはら まさなが、天保14年12月24日(18… 北原 雅長(きたはら まさなが、天保14年12月24日(1844年2月12日) - 大正2年(1913年)7月24日)は、初代長崎市長。 号は清華、歌仏庵。 会津藩家老神保内蔵助の次男として生まれる。通称、半助。兄に神保修理がいる。母方の実家の北原光吉の養子となる。京都守護職となった藩主松平容保とともに京に上り、藩主近くで機密事項を担当しながら、禁門の変にも参加した。慶応4年(1868年)、会津戦争では、母成峠の戦いで大鳥圭介や田中源之進らの隊の参謀役を務めたのち、藩主のもとで籠城戦を指揮し降伏するまで戦った。謹慎地の東京で戦争責任者となった家老萱野権兵衛の切腹に立ち会い、遺骸を芝白金の興禅寺に埋葬する。
海老名 季昌(えびな すえまさ/えびな としまさ、1843年… 海老名 季昌(えびな すえまさ/えびな としまさ、1843年(天保14年)- 1914年(大正3年)8月23日)は、幕末の会津藩家老。明治時代の警察官、地方官吏である。幼名秀次郎、通称郡治。郡次とも表記される。 父は海老名季久。海老名家は家禄250石であった。季久は1851年(嘉永4年)房総半島の警備を命じられた会津藩の軍事奉行として出動。その後品川砲台(金杉陣屋)、蝦夷地警備でも軍事奉行として活躍した。海老名は父と行動を共にし、ペリー来航の際は、父に貰った陣羽織を手に開戦に備えていた。 幼少の頃は天然痘に罹患するなど、3度も死に瀕する重病を患った。安政の大地震の際は歩行もできなくなっていた。弓馬刀槍に加え砲術、儒学と厳しい教育に耐え切れず、家出を図ったことさえあったという。
若嶌 久三郎(わかしま きゅうざぶろう、1842年9月 - … 若嶌 久三郎(わかしま きゅうざぶろう、1842年9月 - 1891年1月6日)は、福島県会津若松市出身の大相撲力士。本名は小沢 久三郎(旧姓根本)。最高位は大関。現役時代の体格は174cm、113kg。福島県出身の力士でただ一人大関になっている。 漆器塗師の二男として生まれ、家業を手伝いながら宮相撲で活躍していた。江戸に出て5代楯山(元・大槇)に入門、文久元年(1861年)10月場所で初土俵を踏んだ。押し相撲を得意としたが取り口が慎重すぎたためか出世が遅く、幕下十枚目(十両)内に入ったのが明治3年(1870年)11月場所、入幕は明治7年(1874年)3月場所ですでに数え年で33歳になっていた。
永岡 久茂(ながおか ひさしげ、天保10年(1840年) -… 永岡 久茂(ながおか ひさしげ、天保10年(1840年) - 明治10年(1877年)1月12日)は、江戸時代後期(幕末)から明治時代の会津藩士、志士。通称敬次郎。当肉楼主人とも号した。 天保10年(1840年)、永岡冶左衛門の子として若松城下に生まれる。藩校日新館や江戸の昌平黌で学び詩作に優れた。江戸留学中に起きた戊辰戦争では初め江戸大砲隊の一員として鳥羽・伏見の戦いに参戦。これに敗れてからも北越戦争に赴き、奥羽列藩同盟時には同盟締結のため梶原平馬の片腕として奔走した。また、会津戦争で若松城が包囲された際には榎本武揚より兵100名を借り受けるが救援に失敗。会津三絶と言われる「独木誰支大力傾」という詩を詠み、これを嘆いた。
赤城 信一(あかぎ しんいち、1839年11月11日(天保1… 赤城 信一(あかぎ しんいち、1839年11月11日(天保10年10月6日) - 1896年(明治29年)2月1日)は戊辰戦争の時の会津藩の医師、後に北海道開拓使に出仕した人物である。 1839年(天保10年)会津藩の医者阿部昌信の第3子として会津に生まれる。その後、叔父の赤城家の家督を継ぐ。1868年(慶応4年)藩令により長崎遊学をしている時に鳥羽・伏見の戦いに巻き込まれ、敗走する会津歩兵隊付軍医になり会津に帰還した。 会津戦争にも軍医として参加するが、鶴ヶ城が降伏すると、負傷兵を伴って仙台藩に落ち延びる。その後、榎本武揚らの旧幕府軍に参加した。医官高松凌雲の元で、佐々城本支(伊東友賢)らと函館病院でも軍医として働く。
安西 徳兵衛(あんざい とくべえ、天保10年6月14日(18… 安西 徳兵衛(あんざい とくべえ、天保10年6月14日(1839年7月24日) - 大正2年(1913年)9月2日)は、日本の実業家、政治家。幕末から生糸貿易で財を成し、小野組でも活躍。横浜市会議員なども務めた。 1839年7月24日、安西彦惣の三男として、陸奥国二本松(現福島県二本松市)に生まれる。明治2年(1869年)3月に分家。明治3年(1870年)から横浜で生糸貿易業を行い成功。また、郷里福島の生糸生産改良をもくろみ、小野組と協力して二本松製紙工場を設立。後、小野組の整糸会社に入社。1885年に会社が解散すると、東京の弁天通りに生糸売込商店を開き、国内有数の生糸商となり、生糸輸出に貢献。
中川 万之丞(なかがわ まんのじょう、1838年5月19日 … 中川 万之丞(なかがわ まんのじょう、1838年5月19日 - 1912年5月25日)は、占い師。喜多方市塩川町出身。 農家の長男に生まれ、本名は惣三郎(武田惣角の3男時宗の幼名と同じ)、千葉県成田山新勝寺で修行、真言密教、湯殿山修験、九字護身法、呪法、易学、宿曜道、民間療法、天文暦法(独自の星座図)などに通じていた。幕末の会津藩士が出入りし、藩から名人呼称の万之丞の名前、銘刀の道辰・手柄山の短刀、元藩主松平容保の祝歌掛軸を与えられた。信者に治療と占いを無料で行い、勝手に置いた贈答品は欲しい人に与え、独特の霊符も与えた。。初体面の客を顔を見ただけで、何の用向きかを察する霊視能力があった。子どもはいなかった。
和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ、1838年1月8日(天保… 和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ、1838年1月8日(天保8年12月13日) - 1903年(明治36年)3月28日)は、会津兼定のうち11代目に相当する、江戸時代末期から明治時代にかけて活動した刀工。加茂打ちと呼ばれる1869年(明治2年)から1874年(明治7年)までに越後加茂にて鍛刀した作品で知られ、1892年(明治25年)には皇太子に刀を献納する。銘は「陸奥国会津住兼元」「奥州会陽臣和泉守兼㝎」「会津刀匠和泉守兼㝎」「岩代国若松住和泉守兼㝎」「於新発田和泉守藤原兼㝎謹鍛」「大日本岩城国会津住兼㝎」「奥州會津住兼本」「和泉守兼定」「岩代國會津住兼定」。 1838年1月8日(天保8年12月13日)に会津若松浄光寺町に生まれる。
安部井 磐根(あべい いわね、天保3年3月17日(1832年… 安部井 磐根(あべい いわね、天保3年3月17日(1832年4月17日) - 大正5年(1916年)11月19日)は、日本の武士(二本松藩士)、自由民権運動家、政治家。衆議院議員(大成会→憲政本党)。 二本松藩士安部井又之丞の子として生まれる。戊辰戦争の際には、奥羽諸藩の衆議所詰となり仙台や白石などを奔走したが、二本松城陥落の際に又之丞は自刃した。 戊辰戦争終結後、若松県に出仕し、少参事、典事を歴任したが、まもなくして辞職した。1874年(明治7年)、板垣退助らによって自由民権運動がおこると、これに呼応して一政社という政社を組織した。1878年(明治11年)、福島県会議員となり、議長に互選された。
西郷 頼母(さいごう たのも、1830年5月16日(文政13… 西郷 頼母(さいごう たのも、1830年5月16日(文政13年閏3月24日) - 1903年(明治36年)4月28日)は、幕末の会津藩の家老。名は近悳(ちかのり)、幼名龍太郎、字を汝玉(じぎょく)、明治維新後は保科 近悳(ほしな ちかのり)と改名。号を栖雲(せいうん)、酔月軒(すいげつけん)、晩年は八握髯翁(やつかぜんおう)と称した。 西郷家は、もとは「保科」姓で、信州高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町一帯)藩主保科正直の弟三河守正勝から始り、後に会津藩主となった保科家の分流である。保科家は高遠城主で清和源氏頼季流に属し、正俊の代に武田氏に従い、正直の代から徳川氏に従った名家である。 近悳は、文政13年閏3月生まれ。
広沢 安任(ひろさわ やすとう、文政13年2月2日(1830… 広沢 安任(ひろさわ やすとう、文政13年2月2日(1830年2月24日) - 明治24年(1891年)2月5日)は、江戸時代後期(幕末)から明治期の武士(会津藩藩士)、牧場主である。通称富次郎(とみじろう)。 広沢庄助の次男。文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に任ぜられ、安任は先んじて上京し京都の情勢を探った。容保上京後は公用方に任ぜられ、公卿、諸藩士、新選組などと交流を持った。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸そして会津に戻った容保らの立場を新政府に嘆願するため、江戸に残ったが新政府軍に投獄された。明治2年(1869年)に釈放されているが、これは親交のあった英国外交官アーネスト・サトウの進言があったと言われている。
井深 宅右衛門(いぶか たくえもん、文政13年1月26日(1… 井深 宅右衛門(いぶか たくえもん、文政13年1月26日(1830年2月19日) - 明治30年(1897年)3月19日)は、日本の幕末から明治にかけての武士(会津藩士)、地方官吏、教育者である。幼名は梶之助、名は重義、宅右衛門は通称である。 父の死去により、家禄550石の井深家を継ぐ。物頭、組頭、町奉行、奏者番上席などを歴任し、京都守護職となった会津藩軍事奉行として幕末の京へ赴く。慶応2年(1866年)に会津へ戻り学校奉行に就任。藩校・日新館館長として教育にあたる。後の白虎隊士らが在籍していた時期である。鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津藩は藩領の防衛体制を固めることになり、宅右衛門は日新館の教師、学生などから構成された第二遊撃隊頭として出陣。
大庭 恭平(おおば きょうへい、天保元年〈1830年〉 - … 大庭 恭平(おおば きょうへい、天保元年〈1830年〉 - 明治35年〈1902年〉1月5日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての人物。会津藩の密偵である。別名は機、景範、松斎。 天保元年(1830年)、大庭弘訓の次男として生まれる。文久2年(1862年)に藩主・松平容保が京都守護職に任じられて上洛すると、これより先に上洛する。会津藩の重臣である田中玄清や野村左兵衛の密命で浪人となって京都で活動する過激派の攘夷浪人の監視を行なうためだったとされている。文久3年(1863年)には足利三代木像梟首事件が起こり、事件後に情報を会津藩に流した大庭も犯人の1人として捕縛され、信濃国上田藩に幽閉された。
瓜生 岩子(うりゅう いわこ、1829年3月19日〈文政12… 瓜生 岩子(うりゅう いわこ、1829年3月19日〈文政12年2月15日〉- 1897年4月19日)は、明治時代の社会事業家。孤児・窮民の救済、授産指導などに尽力した。藍綬褒章受章者。瓜生 岩としても知られる。 陸奥国耶麻郡熱塩村(現:福島県喜多方市)に渡辺利左衛門、りえの長女として誕生。生家は会津藩領の商家(油商)で、山形に支店もあった。岩4歳の時に天保の大飢饉が始まり、会津でも天変地異や凶作のため農村は疲弊していた。天保8年(1837年)9歳で父が急病となり死別。その49日後に家が火災に遭い、母の実家である温泉業「山形屋」に母、弟と3人で身を寄せることとなり、瓜生姓を名乗る。 14歳の時に若松に住む叔父、山内春瓏のもとに行儀見習いのため預けられる。
山本 覚馬(やまもと かくま、旧字体: 山本 覺馬、文政11… 山本 覚馬(やまもと かくま、旧字体: 山本 覺馬、文政11年1月11日(1828年2月25日) - 明治25年(1892年)12月28日)は、幕末の会津藩士、砲術家(津田流炮術)、明治時代の地方官吏、政治家。京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した。また、同志社英学校(現:同志社大学)の創立者・新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。号は相応斎。 会津藩士で砲術指南役の山本権八(禄高は22石4人扶持)の長男として、鶴ヶ城近くの武家屋敷に生まれる。山本家の遠祖は甲州流軍学の祖とされる山本勘助で、代々兵学をもって藩に仕えた。母は佐久。
日向 内記(ひなた ないき、文政9年〈1826年〉 - 明治… 日向 内記(ひなた ないき、文政9年〈1826年〉 - 明治18年〈1885年〉)は幕末の会津藩士。白虎隊士中二番隊の隊長として知られる。 会津若松城下に生まれる。日向家は家禄700石の上級藩士で内記は藩の軍制改革前は家老附組頭、その後砲兵隊頭となった。1868年3月、朱雀士中二番隊頭となる。4月18日には白虎士中二番隊頭に任命された。 白虎隊は予備部隊として設けられ、士中隊は主君の警護役である。新政府軍が会津国境を越えた8月22日には松平容保に従って滝沢本陣に入った。ここで、戸ノ口原方面(十六橋を会津若松城側に超えたところ)への援軍要請があったため、士中二番隊を率いて行軍し明朝の戦に備えて夜営を命じる。
秋月 悌次郎(あきづき ていじろう、文政7年7月2日(182… 秋月 悌次郎(あきづき ていじろう、文政7年7月2日(1824年7月27日) - 明治33年(1900年)1月5日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。名は胤栄、字は子錫、号は韋軒。明治維新後は、胤永(かずひさ)と名乗る。婿養子・胤継は、漢学者(文学博士、第六高等学校教頭、懐徳堂講師)。 下総国発祥千葉氏の末裔である会津藩士・丸山胤道(150石)の次男として若松城下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。藩校・日新館に学び、南摩綱紀とともに藩内でも秀才として知られた。天保13年(1842年)に江戸に遊学し、私塾や昌平坂学問所などで学び、また薩摩・長州など諸国を渡る。
南摩 綱紀(なんま つなのり、文政6年11月25日(1823… 南摩 綱紀(なんま つなのり、文政6年11月25日(1823年12月26日) - 明治42年(1909年)4月13日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。通称は八之丞、号は羽峯。 南摩家は元下野国南摩城主であった。会津藩においては家禄300石の上級藩士であったが、綱紀は次男で当主ではない。藩校日新館に学び、秋月悌次郎とともに秀才として知られた。昌平坂学問所に留学し、その後洋学も修めている。西国諸国を歴訪し、その見聞を『負笈管見』と題して著す。帰藩後は日新館教授を務め次いで蝦夷地代官として現地に赴任。現地でも藩士子弟の教育にあたり、その中に会津藩出身者として最初の海軍将官となる角田秀松がいた。蝦夷地代官としての手当ては5両3人扶持であった。
佐藤 元萇(さとう げんちょう、文政元年(1818年)- 明… 佐藤 元萇(さとう げんちょう、文政元年(1818年)- 明治30年(1897年)8月7日)は、日本の医師。江戸幕府医学館教授。森鷗外の漢詩、漢文の師である。号は応渠。 父は佐藤重俊である。陸奥国会津に生まれ、会津藩藩主松平容保の侍講を務めた高津淄川に学んだ。江戸詰御医師として五人扶持を給され、藩邸を拠点に多紀元堅(多紀茝庭)から医学を学ぶ。佐藤は多紀塾の塾頭に進んだ。黒船来航後に種痘を学び、郷里で施術を行っている。安政4年(1857年)に幕命によって医学館医書校正となり、講師を経て教授に進んだ。文久3年(1863年)には征夷大将軍徳川家茂に拝謁し、袋杖登城を許された。藩命により幕末の京へも赴いている。