岡野 喜一郎(おかの きいちろう、1917年2月19日 - … 岡野 喜一郎(おかの きいちろう、1917年2月19日 - 1995年8月13日)は、日本の経営者、銀行家。駿河銀行頭取、会長を務めた。静岡県沼津市出身。 1941年に慶應義塾大学法学部を卒業。三井銀行での勤務を経て、1949年に駿河銀行に転じ、1954年11月に取締役に就任し、1958年に常務、1963年に専務を経て、1964年8月には頭取に就任した。1981年3月に会長に就任。 1995年8月13日心不全のために死去。78歳没。
大塚 武(おおつか たけし、1917年(大正6年)1月9日 … 大塚 武(おおつか たけし、1917年(大正6年)1月9日 - 1983年(昭和58年)8月30日頃)は、日本の銀行家。北洋相互銀行取締役社長、日本銀行事務管理部長、北海道経営者協会会長などを歴任した。 静岡県静岡市出身。静岡県立静岡中学校を経て、1941年東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。卒業と同年に日本銀行に入行する。学生時代は年間百日以上も山登りに費やしたが、高橋泰蔵ゼミナールでは抜群の成績で、入行後も、2度ぐらい大学に戻らぬかといわれた逸材であった。 1953年に通商産業省に出向する。日銀に戻って外国為替局次長、新潟支店長を歴任後、1964年から札幌支店長を務め、大学同窓の森鼻武芳(のちに北海道銀行頭取)とゴルフや囲碁を嗜み、交遊を持つようになる。
加茂 正五(かも しょうご、1916年12月12日 - 19… 加茂 正五(かも しょうご、1916年12月12日 - 1977年9月14日)は、静岡県浜松市出身のサッカー選手。ポジションはFW(左ウイング)。 静岡県立浜松第一中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)の在学中より実兄の加茂健とともにサッカーを初め、早稲田大学に入学後はア式蹴球部に所属。在学中の1936年にベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出され、1回戦のスウェーデン代表戦に出場。0-2の状況から、49分に川本泰三、62分には右近徳太郎の得点をアシストして試合を振り出しに戻し、チームの逆転勝利に貢献した。 また、在学中の1938年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)でチームの優勝に貢献した。
宮崎 康二(みやざき やすじ、1916年(大正5年)10月1… 宮崎 康二(みやざき やすじ、1916年(大正5年)10月15日 - 1989年(平成元年)12月30日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100m自由形、800mリレーの金メダリスト。元・日本水泳連盟理事。 静岡県浜名郡吉津村(現在の湖西市)の出身。吉津尋常小学校を経て浜松一中(現・静岡県立浜松北高等学校)時代に15歳で1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。身長179cm、体重66kgの恵まれた体躯を生かし、100m自由形の予選で58秒7の日本新記録を樹立し、準決勝ではジョニー・ワイズミュラーの記録を破る58秒0の五輪新記録・日本新記録を打ち立てる。決勝では58秒2で金メダルを獲得、アメリカのこの種目の連勝を6でストップさせた。
大友 一明(おおとも かずあき、1916年9月16日 - 没… 大友 一明(おおとも かずあき、1916年9月16日 - 没年不明)は、静岡県浜松市出身の元プロ野球選手。ポジションは二塁手、投手。
内山 龍雄(うちやま りょうゆう、1916年(大正5年)8月… 内山 龍雄(うちやま りょうゆう、1916年(大正5年)8月28日 - 1990年(平成2年)8月30日)は、日本の物理学者(理論物理学)。重力場を含む一般ゲージ場の創設者。第14代大阪大学理学部長。大阪大学名誉教授。理学博士(大阪大学・論文博士・1951年)。 1954年ごろまでに、楊振寧、ロバート・ミルズとは別に重力と電磁力を結び付ける一般ゲージ理論(非可換ゲージ理論)の研究を完成させていた。同年京都大学基礎物理学研究所でのワークショップで発表したものの、反応は否定的で支持を得られなかった。( L O'Raifeartaigh"The Dawning of Gauge THeory"Princeton Univ.Press,p208-209, 『龍雄先生の冒険』窮理舎(痛恨の記))国外では、ヴォルフガング・パウリが1953年には、非可換ゲージ理論を完成させていたが、こちらもゲージボソンに質量を与える方法が分からないという理由で論文発表を控えていた。
新井 茂雄(あらい しげお、1916年〈大正5年〉8月8日 … 新井 茂雄(あらい しげお、1916年〈大正5年〉8月8日 - 1944年〈昭和19年〉7月19日)は、静岡県出身の日本の男子競泳選手。1936年ベルリンオリンピック800mフリーリレー金メダリスト、100m自由形銅メダリスト。戦前の日本競泳界を牽引した選手のひとり。1941年に佐藤宣子と結婚したため、自身は「佐藤茂雄」とも名乗っていた。なお2人の間に一女が生まれているが、早世している。 静岡県沼津市出身。静岡県立浜松農蚕学校から立教大学へと進学し、1936年ベルリンオリンピック800メートルリレーで金メダルを、100メートル自由形で銅メダルを獲得した。特に800メートルリレーでは遊佐正憲、田口正治、杉浦重雄とチームを組み、新井はアンカーで泳ぎ2位のアメリカを大きく引き離して8分51秒5の世界新記録をマークするなどの圧勝ぶりでもあった。
中山 武(なかやま たけし、1916年5月17日 - 197… 中山 武(なかやま たけし、1916年5月17日 - 1975年8月18日)は、静岡県出身のプロ野球選手(捕手)。
齊藤 了英(さいとう りょうえい、1916年(大正5年)4月… 齊藤 了英(さいとう りょうえい、1916年(大正5年)4月17日 - 1996年(平成8年)3月30日)は、日本の実業家。大昭和製紙(現・日本製紙)名誉会長。「東海の暴れん坊」の異名をとった。大昭和製紙創立者斉藤知一郎の長男。 齊藤知一郎の長男として静岡県に生まれた。 静岡県立沼津中学校を経て、1938年(昭和13年)に早稲田大学専門部商科、1941年(昭和16年)に日本大学専門部法科をそれぞれ卒業(旧制大学専門部は、旧制専門学校に相当)。父・知一郎が創業した大昭和製紙(現・日本製紙)に入社。取締役・専務・副社長を歴任。1961年(昭和36年)父の死後、2代目社長に就任。 1980年(昭和55年)から1981年(昭和56年)にかけて大昭和は過剰投資、過剰在庫、過剰借り入れにより経営危機に陥った。
木下 忠司(きのした ちゅうじ、1916年4月9日 - 20… 木下 忠司(きのした ちゅうじ、1916年4月9日 - 2018年4月30日)は、日本の作曲家。兄は映画監督の木下恵介。兄が監督した映画の音楽を数多く手掛けた。 妻は元音楽プロデューサーでiLabシリーズを販売するパントロン・ワンの創業者である木下美智子(関根光致子)。 静岡県浜松市生まれ。映画監督として有名な木下恵介の弟で、妹に脚本家の楠田芳子がいた。 静岡県立浜松第一中学校(現:浜松北高等学校)を卒業後、1934年に上京し諸井三郎に音楽理論を学び、武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)で声楽を学ぶ。1940年卒業、新交響楽団(現NHK交響楽団)の機関誌『フィルハーモニー』の編集に携わるが、応召して敗戦まで内地および支那で軍隊勤務する。
森 和夫(もり かずお、1916年(大正5年)4月1日 - … 森 和夫(もり かずお、1916年(大正5年)4月1日 - 2011年(平成23年)7月14日)は、日本の実業家。東洋水産創業者。静岡県賀茂郡田子村(現在の西伊豆町)出身。静岡県立豆陽中学校(旧制)(後の静岡県立下田高等学校)、水産講習所(現在の東京海洋大学)卒業。 実家は元々漁業を営んでいたが、父の代で冷蔵製氷業に転じ、1919年(大正8年)に田子製氷株式会社(2007年(平成19年)に東洋水産に吸収合併される)を設立し、田子村で冷蔵庫を運営していた。 和夫は水産講習所卒業後水産会社に就職するが、間もなく徴兵され、旅順の陸軍予備士官学校を経て1939年(昭和14年)のノモンハン事件に従軍。所属していた部隊がほとんど全滅に近い被害を受ける中、かろうじて生き残り帰国する。
大野木 浜市(おおのぎ はまいち、1916年 - 2004年… 大野木 浜市(おおのぎ はまいち、1916年 - 2004年7月5日)は、日本の元アマチュア野球選手。高校野球にて活躍した。静岡県出身。ポジションは外野手(主に右翼手)。 1916年に浜松市にて生まれた。1929年に尋常小学校卒業後、当時少年野球の強豪校と知られていた、浜松高等尋常小学校(現・浜松市立元城小学校)へ進み、1930年、高等尋常小2年の時には、戸塚球場で開かれた第11回全国少年野球優勝大会で優勝投手となった。元城小時代のチームメイトに、大友一明(元プロ野球選手。大東京軍、ゴールドスター等でプレー。)がいた。 1931年、中京商業学校に入学。甲子園には5回出場(春4回〈1932年~1935年〉。
小池 禮三(こいけ れいぞう、1915年(大正4年)12月1… 小池 禮三(こいけ れいぞう、1915年(大正4年)12月12日 - 1998年(平成10年)8月3日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの200m平泳ぎの銀メダリスト。1936年ベルリンオリンピックの200m平泳ぎの銅メダリスト。オリンピック2大会連続でメダルを獲得。 静岡県沼津市出身。沼津商業時代に頭角を現した。 1932年ロサンゼルスオリンピックでは本命視されるも、体調を崩していたこともあり鶴田義行に次いで銀メダルを獲得した。 慶應義塾大学法学部政治学科に進学。200m平泳ぎで世界最高記録を樹立した。 1936年ベルリンオリンピックでは、葉室鐵夫、エルヴィン・ジータス(ドイツ)に次いで銅メダルを獲得した。
石原 吉郎(いしはら よしろう、1915年(大正4年)11月… 石原 吉郎(いしはら よしろう、1915年(大正4年)11月11日 - 1977年(昭和52年)11月14日)は、日本の詩人。シベリア抑留の経験を文学的テーマに昇華した、戦後詩の代表的詩人である。
芹沢 常行(せりざわ つねゆき、1915年11月2日 - 2… 芹沢 常行(せりざわ つねゆき、1915年11月2日 - 2005年11月21日)は、日本の警察官。 静岡県三島市出身。中央大学法学部二部卒。昭和35年(1960年)に施行された検視官制度において、日本初の検視官3名のうちの一人。 1939年警視庁巡査となる。警邏係、警務係を経て、1948年愛宕警察署捜査係長、1956年本所警察署刑事課長、警視庁刑事部鑑識課現場鑑識係長、同捜査第一課係長を経て、1960年日本で初めての検視官となる。検視官として、臨場した変死体は、15年間で約3,000体。その仕事ぶりからいつからか、「スッポンの芹さん」というあだ名が付けられる。その後、調布警察署長、警視庁刑事部地方課長、警視庁刑事部鑑識課長、板橋警察署長、警視庁刑事部検死官室長(刑事部理事官)を歴任。
伊藤 三郎(いとう さぶろう、1915年7月18日 - 19… 伊藤 三郎(いとう さぶろう、1915年7月18日 - 1978年1月19日)は、日本の競泳選手。現役時代の種目は平泳ぎで、明治大学在学中に1936年ベルリンオリンピック日本代表のひとりとなり、男子200m平泳ぎ決勝で2分47秒6のタイムを出し、5位に入賞した。 静岡県磐田郡豊浜村(後の磐田市の南東部)出身。中泉農学校(後の静岡県立磐田農業高等学校の前身)から、明治大学に進んだ。 1938年に明治大学を卒業し、昭和製鋼所に入社と報じられた。 1941年、陸軍少尉となっていた伊藤は、第23軍第38師団の一員として香港島の戦いに参加した。そして、12月22日、戦闘中に銃創を負ったと報道された。 明治大学水泳部監督、日本水泳連盟常務理事、埼玉県水泳連盟副会長を歴任。
牧野 正蔵(まきの しょうぞう、1915年(大正4年)5月1… 牧野 正蔵(まきの しょうぞう、1915年(大正4年)5月15日 - 1987年(昭和62年)2月12日)は、日本の競泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの1500m自由形銀メダリスト、1936年ベルリンオリンピックの400m自由形銅メダリスト。400mおよび800m自由形で世界記録を更新した。 静岡県浜名郡鷲津町(現在の湖西市)出身。吉津尋常小学校(現 湖西市立鷲津小学校)に入学。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、男子100m自由形で金メダルを獲得した宮崎康二は吉津尋常小学校で牧野の1年後輩である。旧制静岡県立見付中学校(現在の静岡県立磐田南高等学校)から早稲田大学に進学する。
天城 勲(あまぎ いさお、1915年(大正4年)5月12日 … 天城 勲(あまぎ いさお、1915年(大正4年)5月12日 - 2011年(平成23年)7月22日)は、日本の文部官僚。 静岡県出身。府立一中、一高を経て1942年東京帝国大学法学部政治学科卒。朝鮮総督県道府警視、1946年文部省入省。 1960年大臣官房長、62年調査局長、65年管理局長、66年大学学術局長、69年事務次官。72年日本育英会理事長、76年日本学術振興会理事長。89年日本ユネスコ国内委員会会長。2011年死去。
渡辺 武(わたなべ たけし、1915年(大正4年)3月24日… 渡辺 武(わたなべ たけし、1915年(大正4年)3月24日 - 2005年(平成17年)10月4日)は、日本の政治家、経済学者。日本共産党参議院議員。 静岡県沼津市出身。1941年(昭和16年)九州帝国大学法文学部経済学科を卒業する。福岡経済専門学校(後の福岡大学)教授を務めた後、1946年(昭和21年)日本共産党に入党。党中央委員、中央委員会経済調査部長、経済政策委員会責任者などを歴任。 1968年(昭和43年)第8回参議院議員通常選挙で全国区から立候補し当選する。当選回数2回。党参議院国会対策委員長などを務めた。 2005年(平成17年)10月4日多臓器不全のため死去。90歳。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
山内 隆博(やまうち たかひろ、1915年3月3日 - 19… 山内 隆博(やまうち たかひろ、1915年3月3日 - 1990年10月6日)は、日本の経営者。大和証券社長を務めた。 静岡県磐田市出身。3歳で新宿区大久保に移る。少年期は野球に打ち込んだ。1938年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友銀行に入行し、名古屋支店に勤務するもわずか半年で応召。近衛歩兵第1連隊に入営して間もなく甲種幹部候補生に合格し、盛岡陸軍予備士官学校に入学。原隊復帰後、初年兵教育を担当したのち防衛総司令部参謀附に転属。これで戦地に赴くことはないと思い1941年10月に結婚するも間もなく、11月3日に第16軍編成人員に転属、南方へと派遣される。移動中、乗船していた神州丸が雷撃で大破しながらも船にとどまり、2000ギルダーの軍資金を肌身離さず守り抜いた。
森谷 良平(もりや りょうへい、1914年10月16日 - … 森谷 良平(もりや りょうへい、1914年10月16日 - 1992年10月2日)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは一塁手。
志村 敏夫(しむら としお、1914年10月13日 - 19… 志村 敏夫(しむら としお、1914年10月13日 - 1980年7月7日)は、日本の脚本家、映画監督である。 1914年(大正3年)10月13日、静岡県志太郡島田町(現在の同県島田市)に生まれる。 1936年(昭和11年)、22歳になるころ、高田稔の高田プロダクションと新興キネマが共同製作した牛原虚彦監督の『五々の春』に脚本参加する。1940年(昭和15年)には、東宝映画に所属し、斎藤寅次郎監督作の脚本を書いた。 第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)、新東宝設立に参加、萩原遼監督『大江戸の鬼』でチーフ助監督を務める。1948年(昭和23年)、同社と竹井プロダクションの共同製作作品『群狼』で監督としてデビューする。
松永 行(まつなが あきら、1914年9月21日 - 194… 松永 行(まつなが あきら、1914年9月21日 - 1943年1月20日)は、静岡県志太郡出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。 静岡県志太郡東益津村(現焼津市)出身。松永信夫、松永碩は実弟。静岡県立志太中学校(現:静岡県立藤枝東高等学校)に入学してサッカー部に所属した。なお、笹野積次は志太中での1年先輩に当たる フォワードを務め、100メートルを10秒8台で走る俊足であったという。東京文理科大学附置東京高等師範学校に入学し、蹴球部に所属。在学中の1935年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第15回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に中垣内勝久らと出場して準優勝の成績を残した。 1936年のベルリンオリンピックの日本代表に選出。
加藤 省吾(かとう しょうご、1914年7月30日 - 20… 加藤 省吾(かとう しょうご、1914年7月30日 - 2000年5月1日)は、静岡県富士市出身の作詞家。孫は声優の加藤有生子。 青春時代に聴いた流行歌「丘を越えて」に触発され、作詞家を志すようになった。1935年に単身上京、印刷会社に就職し、合間を縫って自作の歌詞をレコード会社に売り込んだ。1937年に書いた「かわいい魚屋さん」が山口保治の作曲を得て翌1938年にレコード化され、初のヒットとなった。その後音楽新聞社の記者を務めながら作詞を続ける。1946年には海沼實の依頼で創作した「みかんの花咲く丘」が空前の大ヒット、1949年にコロムビアと専属契約を結ぶ。1957年にキングレコードに移籍後は、子供向けテレビ番組の主題歌「隠密剣士の歌」「快傑ハリマオ」などがヒットした。
久保山 愛吉(くぼやま あいきち、1914年6月21日 - … 久保山 愛吉(くぼやま あいきち、1914年6月21日 - 1954年9月23日)は、日本の漁船員。マグロ漁船第五福竜丸操業中にビキニ環礁付近でアメリカの水爆実験の被害に遭い半年後に死去した。 1914年6月21日、静岡県志太郡焼津町(現在の焼津市)に生まれる。 1942年1月9日(当時27歳)、久保山はクェゼリン島第四艦隊第6防備隊に配属された特別監視艇(焼津港所属漁船)「第五福吉丸」に乗り組んでいた。1944年1-3月、船は撃沈されたが、久保山は43年5月に虫垂炎で入院・帰国していて助かった。 1954年1月、マグロ漁船第五福竜丸無線長として出航。南太平洋ビキニ環礁付近で操業中の同年3月1日未明、核実験(ブラボー実験)で被曝した。
金指 正三(かなさし しょうぞう、1914年〈大正3年〉6月… 金指 正三(かなさし しょうぞう、1914年〈大正3年〉6月14日 - 1989年4月24日)は、日本の歴史家。法学博士。法制史、海事慣習制度の研究者。 1914年6月14日、静岡県富士市に生まれる。静岡県立富士中学校、福岡高等学校文科丙類を卒業。1941年3月、東京帝国大学文学部国史学科卒業。1943年、同経済学部経済学科卒業。のち、同大学院経済学研究科修了。1962年、「江戸時代の海難救助制度の研究」により明治大学から法学博士の学位を取得。1952年、海上保安大学校教授。1973年4月から1975年4月まで教頭。1976年11月、海上保安大学校退官、名誉教授の称号を授与される。山陽女子短期大学教授、呉市立図書館長。
青山 良道(あおやま よしみち、1914年(大正3年)3月3… 青山 良道(あおやま よしみち、1914年(大正3年)3月31日 - 1986年(昭和61年)4月23日)は、日本の政治家、教諭。東京都中野区長(2期)、東京都議会議員(3期)を務めた。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 長男は石原慎太郎東京都知事の下で東京都副知事を務めた青山佾。 静岡県御殿場市生まれ。1943年立正大学専門部地理学科卒業。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)教諭、東京都高等学校教職員組合委員長を務めた。 1955年、日本社会党公認で東京都議会議員選挙に出馬し、初当選を果たした。3期目任期中の1965年に都議を辞職した。 1971年2月26日から1979年2月9日まで足掛け3期、中野区教育委員を務めた。
宇佐美 一夫(うさみ かずお、1914年3月15日 - 20… 宇佐美 一夫(うさみ かずお、1914年3月15日 - 2000年6月8日)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは捕手、一塁手。
水野 清隆(みずの きよたか、1914年〈大正3年〉3月14… 水野 清隆(みずの きよたか、1914年〈大正3年〉3月14日 - 2026年〈令和8年〉2月8日)は、日本のスーパーセンテナリアン、長寿の男性。2024年(令和6年)8月21日以降、死去するまで日本国内の男性最高齢者であった。静岡県磐田郡豊岡村(現在の磐田市)出身。 1914年(大正3年)3月14日、静岡県磐田郡豊岡村(現在の磐田市)に生まれる。 若年期は、近衛兵として近衛歩兵第三連隊に勤務し、1936年の二・二六事件発生時には陸軍省と皇居の警備に当たった。また、日中戦争に応召した際は近衛歩兵第一連隊に所属し、翁英作戦、賓陽作戦などで中国各地を転戦した。太平洋戦争勃発後は満州で編成された部隊に転属し、博多を経由して南方に向かうも、フィリピン沖で雷撃に逢い輸送船が撃沈。
川瀨 健治(かわせ けんじ、1914年 - 1974年2月6… 川瀨 健治(かわせ けんじ、1914年 - 1974年2月6日)は、日本の商工、通産官僚。 旧制静岡中学、旧制静岡高校を経て、1937年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。商工省入省。終戦直後、1945年8月27日、日本政府の対GHQ渉外機関として外務省に終戦連絡事務局が設立され、商工事務官を務めていた川瀬が出向。通商産業省に変わってからも様々な役職を経て、福岡通産局長に就任。1956年、熊本県で水俣病が発生し深刻となり、1959年11月、不知火海漁業紛争調停委員会が発足、寺本広作熊本県知事は通産省の意向を取り入れるために川瀬をオブザーバーに加えている。その後、東京通産局長に就任した。正四位。墓所は多磨霊園。
鈴木 芳太郎(すずき よしたろう、1913年11月8日 - … 鈴木 芳太郎(すずき よしたろう、1913年11月8日 - 1978年5月10日)は、静岡県出身の元プロ野球選手(投手)。
堀江 忠男(ほりえ ただお、1913年9月13日 - 200… 堀江 忠男(ほりえ ただお、1913年9月13日 - 2003年3月29日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者、経済学者。早稲田大学名誉教授。 現役時代のポジションはポジションはフルバック(現在のディフェンダー)。静岡県浜名郡舞阪町(現:浜松市)出身。 静岡県立浜松第一中学校(現:静岡県立浜松北高等学校)時代にサッカーを始め、早稲田高等学院を経て早稲田大学政治経済学部に進学。在学中はア式蹴球部に所属した。 在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されて、5月15日のフィリピン代表戦で初出場した。また、1936年にはベルリンオリンピックの日本代表に選出された。
山本敬三郎(やまもとけいざぶろう、1913年8月17日 - … 山本敬三郎(やまもとけいざぶろう、1913年8月17日 - 2006年5月6日)は、元静岡県知事。参議院議員。静岡県出身。
松田 靖彦(まつだ やすひこ、1913年〈大正2年〉7月26… 松田 靖彦(まつだ やすひこ、1913年〈大正2年〉7月26日 - 1979年〈昭和54年〉12月24日)は、日本の元陸軍軍人及び陸上自衛官。最終階級は少佐、2等陸佐。第3代秋田駐屯地司令、第3代山梨地方連絡部長を務めた。 静岡県五和村出身。陸軍中将松田巻平の長男。1934年3月17日、予科卒業(12期、第2中隊第5区隊)歩兵第79連隊に配属され、本科48期卒(第2中隊第3区隊)。日中戦争に従軍し、本部作戦主任を経て1939年6月、第1大隊第1中隊長。 中隊長在任中の部下にのち韓国陸軍中将・駐日大使の崔慶禄がおり、士官学校への入学を推薦したほか、演習を視察で訪れた小野武雄中佐とも引き合わせた。 久留米第一予備士官学校歩兵生徒隊中隊長、西部軍教育隊中隊長を経て、郷里静岡で編成された第143師団(長:鈴木貞次中将)参謀として終戦を迎える。
飯塚 正二(いいづか しょうじ、1913年〈大正2年〉2月2… 飯塚 正二(いいづか しょうじ、1913年〈大正2年〉2月24日 - 1999年〈平成11年〉4月27日)は、昭和から平成時代の政治家。位階は正五位。静岡県藤枝市長。 藤枝市出身。1930年(昭和5年)静岡県藤枝農学校卒業。 静岡県庁に入り、1966年(昭和41年)副出納長、1967年(昭和42年)事業部長、1968年(昭和43年)公営企業管理者を経て、1972年(昭和47年)藤枝市助役に転じた。 1976年(昭和51年)6月、藤枝市長に就任。4期務め、1992年(平成4年)引退した。 1999年(平成11年)4月27日死去、86歳。死没日をもって正五位に叙される。
佐藤 公一(さとう こういち、1913年(大正2年) - 1… 佐藤 公一(さとう こういち、1913年(大正2年) - 1991年(平成3年))は、日本の農業技術者。元農林省技官。日本で初めて柑橘水耕栽培を行った。農学博士。静岡市出身。 安倍郡美和村(現在の静岡市)に生まれる。静岡県立静岡中学校を経て、旧制静岡高等学校卒業。東京帝国大学卒業。農林省園芸試験場(興津)見習生終了後、1938年(昭和13年)、静岡県、山形県、山梨県農業試験場を経て、1946年(昭和21年)、米軍水耕農場の管理に雇用される。1947年(昭和22年)、農林省園芸試験場東海支場(興津)。1950年(昭和25年)、農業技術研究所園芸部(平塚)に転出、果樹部長を経て、1967年(昭和42年)、園芸試験場興津支場長。
石上 良平(いしがみ りょうへい、1913年 - 1982年… 石上 良平(いしがみ りょうへい、1913年 - 1982年11月9日)は、日本の政治学者。専門は社会思想史、特にイギリス政治思想研究。1949年に開設された創立期の成蹊大学で丸山眞男らと共に政治経済学部教授を務めた。 旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校文科甲類を経て、1936年、東京帝国大学経済学部卒業。河合栄治郎門下生。1949年、成蹊大学政経学部教授。政治学概論と社会思想史を担当した。1967年、退職。
橋本 梧郎(はしもと ごろう、1913年 - 2008年8月… 橋本 梧郎(はしもと ごろう、1913年 - 2008年8月26日)は、ブラジルの生物学者(植物学)、博物学者。勲等は勲五等。学位は名誉博士(静岡県立大学)。称号は小笠町名誉町民。サンパウロ博物研究会顧問。 1913年生まれ。静岡県小笠郡小笠町出身。 静岡県立掛川中学校卒業。 1934年、単身ブラジルに渡る。ブラジルの農学校を卒業して以来、博物館職員や学校教師としての活動のかたわら植物採集を続けた。生涯をかけて集めた標本は10万とも15万ともいわれ、個人が所蔵する植物標本としては世界最大である。1950年、植物愛好家らを組織化しサンパウロ博物研究会を設立した。 ブラジルに帰化し、サンパウロ州サンパウロ市にて植物研究を続けていたが、2008年、多臓器不全により死去。
木下 惠介(きのした けいすけ、新字体:恵介、1912年12… 木下 惠介(きのした けいすけ、新字体:恵介、1912年12月5日 - 1998年12月30日)は、日本の映画監督、脚本家。本名は同じ(旧名:正吉)。日本映画の黄金期を築いた一人で、抒情的な作風で知られ、数多くの名作・話題作を生み出した。弟は作曲家の木下忠司、妹は脚本家の楠田芳子。監督としての映画の名前の表記は1960年代には「恵介」が混在している。
山本 定蔵(やまもと さだぞう、1912年11月29日 - … 山本 定蔵(やまもと さだぞう、1912年11月29日 - 1991年1月17日)は、日本の経営者。トヨタ自動車販売社長を務めた。静岡県湖西市出身。 旧制姫路高等学校を経て、1937年に京都帝国大学法学部を卒業し、1940年にトヨタ自動車工業に入社。 1950年にトヨタ自動車販売に転じ、1953年に取締役に就任し、1960年に常務、1967年に専務、1971年に副社長を歴任し、1979年6月に社長に就任し、1981年6月までに務めた。千代田火災海上保険会長も務めた。 1976年4月に藍綬褒章を受章し、1984年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1991年1月17日肺炎のために死去。78歳没。
栗山 茂(くりやま しげる、1912年11月18日 - 20… 栗山 茂(くりやま しげる、1912年11月18日 - 2010年9月9日)は、日本の版画家。紐版画や紙版画など多彩で自在な試みを展開した。日本版画協会名誉会員。静岡県版画協会名誉会長。 静岡市鷹匠町に生まれる。雑誌『若草』で竹久夢二の絵にふれて憧れ、 同じ頃木版画を試作。のち青木四郎を介して知った浦田儀一の父(摺師)から版画の手ほどきを受ける。平塚運一や永瀬義郎の技法書にも学ぶ。1929年秋、小川龍彦、中村岳(仲蔵)、杉山正義、青木四郎とともに童土社結成。同年10月、童土社創作版画展第1回展開催。 1930年、中学卒業記念に同人誌『艸笛』を創刊、友人とともに版画や童謡、詩を寄せる。同年末、それぞれ個々に 版画誌を主催していた小川の『まるめろ』と中村の『有加利樹』に『艸笛』を統合、新たに『ゆうかり』を創刊。
榛葉 英治(しんば えいじ、1912年〈大正元年〉10月21… 榛葉 英治(しんば えいじ、1912年〈大正元年〉10月21日 - 1999年〈平成11年〉2月20日)は、日本の小説家である。 静岡県掛川市生まれ。静岡県立掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)を経て、早稲田大学英文科卒業。満洲国外交部に勤める。敗戦後引き揚げ、仙台市の東北連絡調整事務局に勤務したが、1948年、辞職、上京して創作活動に専念、多くの通俗小説を書く。初期作品に『渦』『淵』『流れ』三部作がある。1958年の『赤い雪』は敗戦時の満洲の混乱を描き、直木賞受賞。 外祖父の村岡素一郎は民間史論家で、徳川家康の出自に関して独自の研究を行った。
森田 安次(もりた やすじ、1912年〈大正元年〉10月14… 森田 安次(もりた やすじ、1912年〈大正元年〉10月14日 - 1959年〈昭和34年〉8月11日)は、日本の書家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
白井 富次郎(しろい とみじろう、1912年4月18日 - … 白井 富次郎(しろい とみじろう、1912年4月18日 - 1993年5月1日)は、日本の経営者。静岡県湖西市出身。愛知製鋼の元社長。湖西市長も務めた。 1930年に静岡県立浜松商業学校を卒業し、1932年12月に豊田自動織機製作所に入社。 1949年11月に取締役に就任し、常務を経て、1963年2月に愛知製鋼専務に就任した。1969年12月に社長に就任し、1980年3月に会長を経て、1985年3月から相談役を務めた。1987年から1992年までに湖西市長も務めた。 1979年5月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1993年5月1日心不全のために死去。81歳没。
塚本 俊雄(つかもと としお、1912年(明治45年)3月2… 塚本 俊雄(つかもと としお、1912年(明治45年)3月29日 - 1990年(平成2年)9月1日)は、昭和から平成初期の地方公務員、政治家。東京都目黒区長(4期)。 静岡県磐田市生まれ。目黒区総務課長、1965年総務部長、監査委員、1970年助役を経て、1975年区長。 1990年9月1日、急性心不全のため任期中に死去。78歳没。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
東富士夫(あずまふじお、1912年2月18日 - 1991年… 東富士夫(あずまふじお、1912年2月18日 - 1991年1月1日)は昭和時代の寄席芸人、曲芸師。 静岡県下田市出身。18歳で針金渡り名人の東冨士子に弟子入りし、富士坊を名乗る。1935年、東冨士夫に改名。出征を経て、1946年に復員。その後は駐留軍のキャンプ回りも経験。寄席出演時には撥の曲、皿回し、帽子回しなどの他、足で樽を回す曲芸などを披露した。 この項目は、お笑いタレント・コメディアン(これらの関連記事を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:お笑い/PJ:お笑い)。
安藤 はつ(あんどう はつ、1912年〈明治45年〉1月20… 安藤 はつ(あんどう はつ、1912年〈明治45年〉1月20日 – 1985年〈昭和60年〉12月4日)は、政治家、衆議院議員(1期)。旧姓は千。日本初の女性代議士の一人である。 静岡県田方郡韮山村(現伊豆の国市)出身。静岡県の教員養成所を卒業後、大見村の国民学校で教鞭を執り、安藤秀雄との結婚により退職した。その後、疎開で長野県に移った。 1946年の第22回衆議院議員総選挙に日本平和党公認で長野県から立候補し当選し、日本初の女性代議士の一人となった。その後、国民協同党に移り、1947年の第23回衆議院議員総選挙で落選した。 1951年7月23日に有価証券詐欺などの容疑で夫婦ともに起訴され、懲役一年に処された。
市川 都志春(いちかわ としはる、1912年〈明治45年〉1… 市川 都志春(いちかわ としはる、1912年〈明治45年〉1月18日 - 1998年〈平成10年〉4月29日)は、日本の作曲家、音楽教育者。教育芸術社の創業者。静岡県浜松市出身。 音楽教育に力を入れ、多くの音楽教科書の著述、編集を務めたことで知られる。また、各地の学校で校歌の作曲を多く手がけている。 浜松市で生まれ、中学からは東京に移り住んだ。旧制市立ニ中(現・東京都立上野高等学校)では、福田恆存(英文学)、高橋義孝(独文学)と同期。作曲を志し、1935年に東京音楽学校の器楽部ヴァイオリン科に入り、安藤幸子、ウィリー・フライに師事した。また課外でクラウス・プリングスハイムに作曲を学び、1937年本科卒業後は研究科に進んで、信時潔に半年間作曲を学ぶ。
法月 惣次郎(のりづき そうじろう、1912年(明治45年)… 法月 惣次郎(のりづき そうじろう、1912年(明治45年)1月1日 - 1995年(平成7年)3月12日)は望遠鏡製作者。静岡県焼津市生まれ。 鉄工所を経営するかたわら、日本初のパラボラ式電波望遠鏡の製作をはじめとし、約400台の望遠鏡を作った。その多くが天文台、研究所、大学で使用され、日本の天文学を支えた。「日本には、秘密の精密工場があるに違いない」と、世界中の技術者に言わしめた、天体望遠鏡製作の世界的権威であったが、本人は生涯を職人気質で通した。大胆かつ緻密な手法に、世界中の天文学者、技術者からの信頼を得ていた。 製作した主な望遠鏡には、美星天文台101cm赤道儀式天体望遠鏡、早稲田大学2.4m電波望遠鏡、栃木県子ども総合科学館75cm赤道儀式天体望遠鏡などがある。
桜井誠(さくらい まこと、1912年 - 1983年5月11… 桜井誠(さくらい まこと、1912年 - 1983年5月11日)は、主に絵本や児童書などの挿絵の執筆で活動した日本の挿絵画家。静岡県静岡市出身。