松本 君平(まつもと くんぺい、明治3年4月10日(1870… 松本 君平(まつもと くんぺい、明治3年4月10日(1870年5月10日) - 昭和19年(1944年)7月28日)は、静岡県出身のジャーナリスト、政治家、教育者、思想家。文学博士、衆議院議員。 妻は旧土佐藩士・岡内重俊の娘「壽(ひさ)」。 遠江国小笠郡中内田村(現:静岡県菊川市)の初代村長・松本丑太郎の二男として中内田村213番地に生まれる。幼名は貞次郎。母は木佐森茂助の三女「幸(こう)」。長じて岡田淡山の私塾・冀北学舎で国学・漢学・英語を3年間学んだ後、東京に遊学した。 1887年(明治20年)8月31日、名を「君平」と改める。 1890年(明治23年)9月11日、兄・栄太郎が廃嫡し、同月17日、静岡県佐野郡西郷村の松浦五平治の養子となって家を出た為、君平が惣領息子となる。
秋鹿 見橘(あいか けんきつ、1869年11月20日(明治2… 秋鹿 見橘(あいか けんきつ、1869年11月20日(明治2年10月17日) - 1954年(昭和29年)12月8日)は、明治から昭和時代前期の教育者。師範学校校長を歴任した後、沼津精華学園を創設。「我が国教育の急務は女子教育にあり」として、女子教育に尽力した。 1869年、徳川家とともに静岡に移った幕臣・秋鹿見山の長男として、沼津城下の棟割長屋に生まれる。沼津兵学校ゆかりの集成舎(沼津小学校)に学び、江原素六が設立し米山梅吉が学んだ私立沼津中学校を経、県立静岡師範学校に進み、1887年年3月29日、静岡県尋常中学校卒業。 上京して1888年4月、高等師範学校文学科に入学、1891年卒業。新潟県師範学校、及び各地の師範学校に勤務。
角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく、明治2年9月16日… 角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく、明治2年9月16日〈1869年10月20日〉 - 1916年〈大正5年〉3月16日)は、明治時代の詩人、北欧文学者、文芸評論家、新聞記者。本名:角田勤一郎。大阪の論壇・文壇で重きを成して世論形成に大きな力を持ち、東の坪内逍遥と並び称された。 新聞社ごとに号や筆名を使い分け、『國民新聞』では岳麓布衣、『大阪朝日新聞』では不二行者、出門一笑、『大阪毎日新聞』では迂鈍居士、鈍右衛門、『読売新聞』では剣南、伊吹郊人、豹子頭、『東京日日新聞』では浩々而歌閣主、他、剣南道士など。 駿河国富士郡大宮町(現・静岡県富士宮市)生まれで旧静岡藩士の家系。佐野天声の実兄である。
山崎 覚次郎(やまざき かくじろう、慶応4年6月15日〈18… 山崎 覚次郎(やまざき かくじろう、慶応4年6月15日〈1868年8月3日〉 - 昭和20年〈1945年〉6月28日)は、日本の経済学者。法学博士。東京帝国大学経済学部長。専門は貨幣論、金融論。 静岡県掛川に父・徳次郎の長男として生まれる。冀北学舎を経て、明治22年(1889年)東京帝国大学政治科卒業、大学院で研究する。 東京帝大法科助教授、経済学部教授等を歴任し、のち経済学部長。社会政策学会で指導的役割をはたし、退官後は中央大学教授、日銀顧問、金融学会初代理事会長をつとめた。1913年(大正2年)5月29日、帝国学士院会員となる。 東大時代の教え子である賀屋興宣(大蔵次官、大蔵大臣)は山崎の貨幣論に感銘を受け、山崎の理論に依拠して日本銀行法を作ったと述べている。
鏡 保之助(かがみ やすのすけ、慶応4年4月28日(1868… 鏡 保之助(かがみ やすのすけ、慶応4年4月28日(1868年5月20日) - 昭和6年(1931年)3月29日)は、明治から昭和始めにかけて活躍した農学者。農業教育者、庭園研究家。元姓は中川で人造肥料施用法原理を表した他、庭園研究にも勤しむ。駿河国(現在の静岡県)出身。 1890年(明治23年)、帝国大学農科大学卒業。1890年(明治23年)8月から1896年(明治29年)3月まで母校の静岡県尋常中学校で英語・博物・農業の教員を務める。1897年(明治30年)から農商務省農事試験場技師となる。1905年(明治38年)から1909年(明治42年)まで、京都府立農林専門学校に教諭として赴任し、のち校長を務める。
増田 次郎(ますだ じろう、慶応4年2月26日〈1868年3… 増田 次郎(ますだ じろう、慶応4年2月26日〈1868年3月19日〉 - 1951年〈昭和26年〉1月14日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家・政治家。 後藤新平秘書から衆議院議員となり、さらに実業界に転じて電気事業に参加。大同電力社長、日本発送電(日発)初代総裁、台湾電力(台電)社長などを務めた。駿河国(現・静岡県)出身。 増田次郎は慶応4年2月26日(明治元年、新暦:1868年3月19日)、駿河国志太郡稲川村(現・静岡県藤枝市)に増田儀右衛門の次男として生まれた。生家は120俵あまりの収穫がある比較的裕福な農家で、父儀右衛門は戸長に選ばれるような村の有力者であった。 小学校を出た後、世継ぎであり体の丈夫な兄・太郎に農業を継がせるので次郎は商人になるのがよい、という父の意向で、13歳のとき奉公に出され六合村にあった親類の商家に預けられた。
小川 三知(おがわ さんち、1867年7月1日(慶応3年5月… 小川 三知(おがわ さんち、1867年7月1日(慶応3年5月29日)- 1928年(昭和3年)10月24日)は大正から昭和初めに活躍したステンドグラスの工芸家。 橋本雅邦に学んだ高い日本画の素養と、アメリカで修行して身に付けた複雑な色調を生み出すガラス技法で、アール・ヌーヴォー、アール・デコ風でありながらどこか日本情緒を感じさせる作品を生み出し、日本初のステンドグラス作家といえる存在である。 慶応3年(1867年)、静岡県静岡市裏一番町十五番地(現在の住吉町)で静岡藩医・小川清斎の次男として生まれた。静岡濠頭小学校、静岡中学校卒業後、上京。明治16年(1883年)、独逸学協会学校予備科に入学。長男漣平が早世したため、家業の医者になるべく第一高等中学校に入学したが、絵画への憧れは消えなかった。
豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2… 豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2月14日) - 1930年(昭和5年)10月30日)は、日本の発明家・実業家。トヨタグループの創始者。 豊田式木鉄混製力織機(豊田式汽力織機)、無停止杼換式自動織機(G型自動織機)をはじめとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件を発明した。豊田紡織(現 トヨタ紡織)、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所(現 豊田自動織機)を創業した。 慶応3年2月14日(1867年3月19日)、遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市山口)に生まれた。父は豊田伊吉、母はゑいであり、佐吉は3男1女の長男だった。山口村は三河吉田藩領であり、豊田家は伊吉が百姓のかたわら大工で生計を立てていた。
石井 研二(いしい けんじ、1867年1月12日(慶応2年1… 石井 研二(いしい けんじ、1867年1月12日(慶応2年12月7日) - 1936年(昭和11年)4月3日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 伊豆国賀茂郡、のちの静岡県賀茂郡中大見村(田方郡中大見村、中伊豆町を経て現伊豆市)に生まれる。慶應義塾に学ぶ。韮山村会議員、君沢・田方二郡連合会議員、静岡県会議員、同参事委員を歴任した。財界では、三島乾燥、沼津委託倉庫各社長、東海起業取締役を務めた。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙では静岡県第10区から憲政会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
塚本 ハマ(つかもと ハマ、1866年7月31日(慶応2年6… 塚本 ハマ(つかもと ハマ、1866年7月31日(慶応2年6月20日)- 1941年(昭和16年)6月30日)は、日本の女性教育者である。旧姓は小川。 江戸の本郷にてうまれる。幼少時に静岡県に移住し、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に入学する。入学後両親を失った野口幽香と親交を持ち、欠席時の補佐として携わった。これにより幽香と共に1889年(明治22年)キリスト教に受洗し、卒業後は大阪女子師範学校(後の大阪第一師範学校、現在の大阪教育大学教育学部)にて教鞭を執り、その管理も務めた。後に同学校に勤務する傍ら、梅花女学校(現在の梅花女子大学)の教師も兼任した。 この頃に農学者の塚本道遠と結婚し、6人の子供を産む。
吉江 石之助(よしえ いしのすけ、1866年7月24日(慶応… 吉江 石之助(よしえ いしのすけ、1866年7月24日(慶応2年6月13日) - 1935年(昭和10年)3月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功四級。 福井藩士・吉江徳衛の長男として越前国(現・福井県)に生まれ、1894年(明治27年)家督を相続する。本籍は東京府、のち静岡県。 1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。翌年、陸軍歩兵少尉に任官。1902年(明治35年)陸軍大学校第16期卒業。 東京防禦総督部副官、近衛師団副官、第13師団参謀、歩兵第31連隊附、第14師団参謀、歩兵第59連隊附を経て、1912年(明治45年)4月に陸軍歩兵大佐・関東都督府高級参謀に任官。
中村 四郎兵衛(なかむら しろうべえ、1866年6月11日(… 中村 四郎兵衛(なかむら しろうべえ、1866年6月11日(慶応2年4月28日) - 1930年(昭和5年)5月15日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。 遠江国豊田郡、のちの静岡県豊田郡井通村(磐田郡井通村、豊田村、豊田町を経て現磐田市)に生まれる。浜松町会議員、同評議員、浜松市会議員、同参事会員、静岡県会議員、同議長を歴任したほか、浜松商業会議所議員、浜松瓦斯常務取締役、静岡県消防組連合会常議員を務めた。 1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では静岡県第2区から政友本党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
角替 九郞平(つのがえ くろへい、1866年〈旧暦慶応2年1… 角替 九郞平(つのがえ くろへい、1866年〈旧暦慶応2年1月〉 - )は、日本の農家、政治家、銀行家。名の「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられているため、角替 九郎平とも表記される。 静岡県小笠郡土方村会議員、静岡県小笠郡土方村長、株式会社内田銀行頭取などを歴任した。 静岡県小笠郡土方村で農業を営んでいたが、政治家に転身し土方村会の議員に就任した。さらに土方村の村長に就任するなど、公職を歴任した。その後、内田銀行の頭取に就任するなど、銀行家としても活動した。 1866年(旧暦慶応2年1月)に角替九郞次の長男として生まれた。静岡県小笠郡土方村で農業を手広く手掛けており、角替家は豪農として知られていた。
桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶… 桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶応元年8月1日) - 1945年2月20日[3])は、日本の官僚。大蔵次官(心得)、台湾銀行頭取、第5代神戸市長(在任:1920年10月18日[4] - 1922年(大正11年)5月27日[5])。静岡県出身。
足立 文太郎(あだち ぶんたろう、慶応元年6月15日(186… 足立 文太郎(あだち ぶんたろう、慶応元年6月15日(1865年8月6日) - 1945年(昭和20年)4月1日)は、日本の解剖学者、人類学者、京都帝国大学医学部教授。専門は軟部人類学。日本人と欧米人の解剖学的差異を解明した。 静岡県田方郡市山村(現:伊豆市)出身。父親が失踪したため、母方の伯父の元で育つ。1894年東京帝国大学医科大学卒業後、1899年からドイツのストラスブール大学に留学、帰国後第三高等学校教授を経て京都帝国大学医学部教授となり、解剖学を担当。筋の異常の統計学的研究のほか、諸民族の体臭と耳垢についての遺伝学的・組織学的研究などが知られ、「身体的特徴において人種的優劣はない」と唱えた。
松下 牧男(まつした まきお、1865年5月26日(慶応元年… 松下 牧男(まつした まきお、1865年5月26日(慶応元年5月2日) - 1926年(大正15年)5月15日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 駿河国、のちの静岡県富士郡須津村(吉原市を経て現富士市)出身。漢学を学ぶ。煙草製造業を営む傍ら、ツルチュック醸造監査役を務めた。1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
青地 雄太郎(あおち ゆうたろう、1865年5月25日(慶応… 青地 雄太郎(あおち ゆうたろう、1865年5月25日(慶応元年5月1日) - 1926年(大正15年)12月24日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(4期)。 青地半三郎の長男として駿河国志太郡前島村(静岡県志太郡青島村、青島町を経て現藤枝市)に生まれる。1884年(明治17年)11月、家督を相続した。静岡中学校に学ぶ。静岡の朝陽義塾、掛川の冀北学舎を経て東京専門学校に入学し、1886年(明治19年)同校政治経済科を卒業する。1889年(明治22年)青島村初代村長に就任し、現在の東海道本線藤枝駅の青島への誘致、役場や学校の建設、伝染病予防のための隔離病舎の建設などに尽くした。ほか、地方金融の整備のため青島実業銀行(のち頭取)を創立し、物流集散のため青島運送合資会社を立ち上げた。
秋山 一裕(あきやま いちゆう、1865年4月10日(元治2… 秋山 一裕(あきやま いちゆう、1865年4月10日(元治2年3月15日) - 1943年(昭和18年)3月4日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 山縣銃太郎の弟、山縣昌繁の二男として駿河国志太郡島田宿(静岡県志太郡島田町を経て現島田市)に生まれ、1884年(明治17年)4月、秋山家の養子となり、同年6月、家督を相続する。1881年(明治14年)静岡師範学校高等師範科を卒業し、小学校教諭を経て、師範学校訓導となる。1887年(明治20年)10月、上京し慶應義塾に入り、1891年(明治24年)4月、同校を首席で卒業した。安田銀行に入行したのち、イーストレイクらと共に日本英学院を創立し教鞭をとる。
神戸 寅次郎(かんべ とらじろう、元治元年12月27日(18… 神戸 寅次郎(かんべ とらじろう、元治元年12月27日(1865年1月24日) - 昭和14年(1939年)5月17日)は、日本の法学者。専門は民法。慶應義塾大学法学部の育ての親。 静岡県庵原郡松野村出身。静岡県松野小学校、県立静岡中学校、静岡英学校を経て1887年慶應義塾正科に入学。1890年に新設された慶應義塾大学部法律科に入学し、ハーバード大学から派遣されたジョン・ヘンリー・ウィグモア教授のもとで学ぶ。同科を卒業した翌年の1892年に同教員となる。 慶應義塾第一回留学生に選ばれ、1899年8月から1902年12月にかけベルリン大学およびハレ大学で学ぶ。学位論文「日本の合名会社」にてハレ大学からドクトル・ユーリスの学位を授与される。
笠井 信一(かさい しんいち、1864年7月22日(元治元年… 笠井 信一(かさい しんいち、1864年7月22日(元治元年6月19日) - 1929年7月25日)は、日本の内務官僚・政治家。貴族院議員。 静岡県出身。笠井勘三郎の三男として生まれる。静岡県立静岡中学校、第一高等学校を経て、1892年、帝国大学法科大学を卒業した。 1893年2月、内務省に入り、内務属として警保局に配属された。その後、警保局監獄課長、山形県参事官、岩手県警察部長、高知県書記官、台湾総督府事務官、台南県書記官、岐阜県書記官、新潟県書記官、同県第一部長、熊本県第一部長などを歴任。 1907年1月、岩手県知事に就任。1913年3月、地元出身初の静岡県知事に就任。1914年6月、岡山県知事に転じた。
岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年… 岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年5月4日〉- 1934年〈昭和9年〉3月23日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の文部官僚、政治家。号は恭堂。 旧制山口高等学校(山口大学の前身の一つ)校長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、文部次官・大臣、東洋大学学長、大日本報徳社社長、産業組合中央会会頭、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 遠江国佐野郡倉真村(現:掛川市)出身。東京府第一中学では、澤柳政太郎、狩野亨吉、松崎蔵之助、幸田露伴などが同期に当たる。大学予備門を経て、1887年(明治20年)7月、帝国大学文科大学哲学科(のちの東大文学部)卒業、大学院へ。 第二高等中学校教授を経て、1893年(明治26年)に文部省視学官。
岡野 喜太郎(おかの きたろう、1864年5月9日(元治元年… 岡野 喜太郎(おかの きたろう、1864年5月9日(元治元年4月4日) - 1965年(昭和40年)6月6日)は、日本の銀行家。 駿河国駿東郡青野村(現・静岡県沼津市青野)出身。静岡県多額納税者。スルガ銀行創設者。沼津市名誉市民。静岡県屈指の実業家であった。 駿河国駿東郡青野村(現・静岡県沼津市青野)に名主の長男として生まれた。岡野弥平太の長男。1879年(明治12年)に集成舎(後の静岡県立沼津中学校、現在の静岡県立沼津東高等学校)に入学。1885年(明治18年)には静岡県立豆陽中学校(現・静岡県立下田高等学校)に入学したが、故郷は1884年(明治17年)9月の暴風による飢饉にあえいでおり、結局師範科を中退して故郷で農業に専念した。
鈴木 辰次郎(すずき たつじろう、1864年3月27日(元治… 鈴木 辰次郎(すずき たつじろう、1864年3月27日(元治元年2月20日) - 1932年(昭和7年)12月9日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(2期)。 駿河田中藩領志太郡忠兵衛新田(静岡県志太郡大洲村を経て現藤枝市)出身。石田武雄の弟として生まれ、先代喜三郎の養子となり1891年(明治24年)家督を相続する。1883年(明治16年)静岡師範学校を卒業する。 農業を営む傍ら教育に従事する。また、日露戦争に従軍した。大洲村長、志太郡会議員、静岡県会議員、同参事会員、県農会副会長、焼津町長、日本簇機取締役などを歴任した。1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。
黒田 重兵衛(くろだ じゅうべえ、1863年10月27日(文… 黒田 重兵衛(くろだ じゅうべえ、1863年10月27日(文久3年9月15日) - 1952年(昭和27年)3月1日)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。衆議院議員(1期)。前名は孝造。 伊豆国田方郡、のちの静岡県田方郡上狩野村(天城湯ケ島町を経て現伊豆市)に生まれ、のち静岡県賀茂郡下河津村(現河津町)に住む。足立清次郎の三男として生まれ、先代重兵衛の養子となり、1895年(明治28年)家督を相続し前名を改めた。下河津村農会長、同村会議員、賀茂郡会議員、静岡地方森林会議員、静岡県会議員を歴任したほか、静岡農工銀行監査役、下田銀行頭取、下田自動車会社取締役を務めた。 1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では静岡県第10区から憲政会所属で出馬し当選。
池田 猪三次(いけだ いさんじ、1863年9月25日(文久3… 池田 猪三次(いけだ いさんじ、1863年9月25日(文久3年8月13日) - 1942年(昭和17年)11月26日)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。衆議院議員(2期)。旧姓は矢部。 遠江国豊田郡浦川村(静岡県豊田郡浦川村、磐田郡浦川村、浦川町、佐久間町を経て現浜松市天竜区)の矢部家に生まれ、1879年(明治12年)引佐郡伊平村(引佐町を経て現浜松市浜名区)の池田徳治郎の長女さわと結婚し養子となる。1886年(明治19年)伊平戸長役場の用係に出仕し、同村会議員を経て、1893年(明治26年)同村長に就任した。養蚕、学校建設、道路整備に尽力した。引佐郡会議員を経て、1903年(明治36年)静岡県会議員となり、1911年(明治44年)同議長を務めた。
服部 綾雄(はっとり あやお、1863年1月30日(文久2年… 服部 綾雄(はっとり あやお、1863年1月30日(文久2年12月11日) - 1914年(大正3年)4月1日)は、日本の牧師、教育者、政治家である。 1863年(文久2年)駿河国沼津城下に生まれた。明治維新により、1868年(明治元年)沼津藩が上総国市原郡菊間に移封されたので、菊間に移住する。1873年(明治6年)、10歳の時に横浜で遊学し、J・C・ヘボンに書生として住み込み、ヘボン塾で英語を学んだ。 ヘボンより薫陶を受け、キリスト教信仰を持つ。1874年(明治7年)にヘンリー・ルーミス宣教師より洗礼を受ける。1880年(明治13年)築地大学校の創立時に転入する。1882年(明治19年)築地大学校卒業後に大学校の幹事になる。
萩原 正夫(はぎわら まさお、1863年(文久3年8月) -… 萩原 正夫(はぎわら まさお、1863年(文久3年8月) - 1917年(大正6年)2月14日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 伊豆国君沢郡小坂村(静岡県君沢郡小坂村、川西村、田方郡川西村、伊豆長岡町を経て現伊豆の国市)出身。静岡皇学舎に学んだのち漢学を修める。学務委員、町村組合会議員、伊豆四郡組合会議員、田方郡会議員、静岡県会議員を歴任した。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙では静岡県第7区から立憲自由党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
伊藤 市平(いとう いちへい、1862年9月3日(文久2年8… 伊藤 市平(いとう いちへい、1862年9月3日(文久2年8月10日) - 1923年(大正12年)12月31日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(1期)。 伊藤長重郎の子。遠江国麁玉郡宮口村(現・静岡県浜松市浜名区宮口)出身。1881年(明治14年)7月、浜松中学校を卒業後上京し同人社に入るが1883年(明治16年)7月、退学する。東京専門学校に転じ1886年(明治19年)7月、卒業をもって帰郷し1888年(明治21年)2月、静岡県茶業組合連合会議員となり、1890年(明治23年)2月には静岡県会議員に当選した。ほか同副議長、同参事会員、中央茶業組合会議所議員、関東茶業会本部主事、宮口銀行頭取、宮口委託監査役などを歴任した。
長沢 市蔵(ながさわ いちぞう、文久2年7月22日(1862… 長沢 市蔵(ながさわ いちぞう、文久2年7月22日(1862年8月17日) - 大正4年(1915年)3月3日)は、山梨県出身の衆議院議員(憲政本党)、第一高等学校教授。 甲斐国巨摩郡天神中条村(後の南巨摩郡増穂町、現在の南巨摩郡富士川町)に、農業の傍ら質屋業を営む父「源三郎」の三男として生まれる。少年時代は長沢村の墨池堂大森塾で大森杜庵から学び、明治10年(1877年)4月に静岡県沼津中学校に入学後、明治12年(1879年)に同校を退学し同年2月に東京府第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に転学し同校を卒業。明治12年(1879年)9月に東京大学予備門に入学後、明治19年(1886年)7月に東京帝国大学文科大学を卒業、大学院を経て、明治20年(1887年)11月には第一高等中学校教諭、明治23年(1890年)9月26日には第一高等学校教授となった。
小林 勝民(こばやし かつたみ、文久2年4月5日(1862年… 小林 勝民(こばやし かつたみ、文久2年4月5日(1862年5月3日) – 昭和18年(1943年)7月7日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。ジャーナリスト。弁護士。 駿河国益津郡藤枝(現在の静岡県藤枝市)出身。和漢学、英学、法学を学んだ。『朝野新聞』記者、『日刊民報』記者、『静岡民友新聞』主筆、『台湾民報』主筆、雑誌『国士』主筆、雑誌『大亜細亜』主筆などを務めた。また台北市に弁護士事務所を開いた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他、台湾物産株式会社取締役、台湾石鹸株式会社監査役などを務めた。
小野 鵞堂(おの がどう、文久2年2月11日〈1862年3月… 小野 鵞堂(おの がどう、文久2年2月11日〈1862年3月11日〉 - 1922年〈大正11年〉12月6日)は、駿河国生まれの書家。名は鐧之助、字は間金、鵞堂は号。別号を斯華翁、斯華書屋主人という。斯華廼舎、二柳居の堂号もある。 明治、大正のかな書道界を代表する大家で、現代のかな書道の基礎を築いた一人である。平安期の草仮名を基底として独自の流麗なスタイルを案出し、その書風は鵞堂流と称され多くの門弟を得た。また「斯華会」を創設し、この組織をもって普及に努めたため、婦人たちで習字をするものはほとんど鵞堂流を習うという盛況を現出した。 文久2年(1862年)駿河国(静岡県)藤枝宿に、田中藩士の武道師範、小野清右衛門成命の長男として生まれる。
大橋 頼摸(おおはし らいも、1861年3月19日(万延2年… 大橋 頼摸(おおはし らいも、1861年3月19日(万延2年2月9日) - 1912年(大正元年)11月5日)は、明治時代の政治家。実業家。新聞経営者。衆議院議員。静岡県磐田郡井通村長。 遠江国豊田郡小立野村(静岡県豊田郡井通村、磐田郡井通村、豊田村、豊田町を経て現磐田市)に生まれる。浜松師範を卒業し、西之島学校(現磐田市立豊田南小学校)教員となる。ついで郡書記を経て25歳にして川井村外11宿村戸長に就任し、1888年(明治21年)には静岡県会議員に当選した。15年に渡り県議を務め、さらに県常置委員、県参事会員、井通村長、中遠農会長、磐田郡米穀改良組合長、静岡県農会長などを歴任した。 その後、静岡新報を立ち上げ社長として経営に当たったほか、静岡印刷の社長も務めた。
石川 倉次(いしかわ くらじ、1859年2月28日〈安政6年… 石川 倉次(いしかわ くらじ、1859年2月28日〈安政6年1月26日〉 - 1944年〈昭和19年〉12月23日)は、日本の教育者。ルイ・ブライユが考案した6点点字を基に日本語に翻案して全国を回り点字を広める等、今日の日本語点字の基礎を築き、「日本点字の父」といわれている。 1859年(安政6年)、浜松藩士の父・専七と母・ゑしの子として名残組屋敷(現在の浜松市中央区鹿谷町)に生まれる。8歳から9歳の頃から手習いに通い、現在の高町にあった藩校・克明館に入学し、漢籍や西洋の砲術、英語を学んで、優秀な成績を修めていた。 当時、専七の勤める浜松藩は財政困窮や政局の行方に揺れており、妹ぎんを出産後は病気がちだった母ゑしの体調とともに、少年倉次の心配事となっていた。
波多野 承五郎(はたの しょうごろう、1858年12月29日… 波多野 承五郎(はたの しょうごろう、1858年12月29日(安政5年11月25日) - 1929年(昭和4年)9月16日)は、日本の実業家、政治家。帝国議会衆議院議員を務めた。慶應義塾出身で福澤諭吉の弟子。『時事新報』記者、慶應義塾評議員、三井銀行理事、玉川電気鉄道取締役。 次男は波多野元武(三井物産)で、その妻は瀬下清(三菱銀行会長)の三女克、子(孫)が犬養智子である。長女みねは草間時光(草間時福次男)に、次女花は松井春生に、三女春は富井恒雄(男爵富井政章四男)にそれぞれ嫁いだ。系譜は犬養家の係累を通して正田家や天皇家にもつながっている。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。
川島 瀧蔵(かわしま たきぞう、1858年9月17日(安政5… 川島 瀧蔵(かわしま たきぞう、1858年9月17日(安政5年8月11日) - 1930年(昭和5年)3月26日)は、明治から昭和時代初期の政治家、畜産家。衆議院議員(1期)。 遠江国、のちの静岡県山名郡於保村(磐田郡於保村を経て現磐田市)出身。畜産業を営み、興農社、畜産組合、共同競馬会などを創立したほか、獣医養成所、水産物製造伝習所を設立した。ほか、副戸長、村長、静岡県会議員、同参事会員、磐田郡会議員、地方森林会議員を歴任した。1904年(明治37年)3月の第9回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から憲政本党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
原崎 源作(はらさき げんさく、1858年〈安政5年〉 - … 原崎 源作(はらさき げんさく、1858年〈安政5年〉 - 1946年〈昭和21年〉)は、日本の実業家、茶業家、製茶技術者。富士合資会社総支配人。静岡茶を中心とする日本茶の輸出事業に関わり、製茶再製機械の改良に取り組んだ人物として知られる。 1858年(安政5年)、駿河国榛原郡地頭方村(現在の静岡県牧之原市)に生まれた。のちに小笠郡西方村堀之内(現在の菊川市堀之内)を経て、静岡市に移った。 明治期、原崎は横浜の茶売込問屋に関わり、輸出茶の再製工程に携わった。当時、輸出向けの茶は品質を整えるために再製工程を経る必要があり、静岡県内には再製茶工場が発達していった。原崎はこの工程の効率化と品質向上を目指し、製茶再製機械の改良に取り組んだ。
内田 周平(うちだ しゅうへい、1857年12月26日〈安政… 内田 周平(うちだ しゅうへい、1857年12月26日〈安政4年11月7日〉 - 1944年〈昭和19年〉12月23日)は、日本の漢学者・哲学者。朱子学崎門派の末裔、中国哲学研究の開拓者、西洋哲学の紹介者、国体論者。哲学館・慶應義塾・大東文化学院など東京の大学や、熊本の第五高等学校で講義した。 字は仲準。号は遠湖(内田遠湖)・遠湖釣者・帆影子。堂号は谷門精舍。 1857年(安政4年)、遠江国浜松にて、漢学者兼蘭法医の父のもとに生まれる。生年を1854年(安政元年)とする文献もあるが誤りとされる。 1875年(明治8年)、上京し本郷壬申義塾でドイツ語を学ぶ。1876年外国語学校入学。1877年東京大学医学部予科入学、1881年本科進学。
村上 太三郎(むらかみ たさぶろう、1857年11月4日〈安… 村上 太三郎(むらかみ たさぶろう、1857年11月4日〈安政4年9月18日〉 - 1915年〈大正4年〉4月25日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 遠江国長上郡川袋村(掛塚村、磐田郡掛塚村、掛塚町、竜洋町を経て現磐田市)に生まれる。7歳の時に父と死別し、12歳の時に母の勧めで商人を志し横浜に出て回米問屋を開業する。1892年(明治25年)東海屋鉄工場の設立および経営に関与し、以後、日本精製糖、日本石油精製、日本製粉、小樽木材など数々の会社を立ち上げ重役を歴任した。さらに、株式仲買業にも携わり、東京株式取引所仲裁委員、東京商業会議所議員、横浜四品取引所理事などを務めたほか、日本重石、九州炭鉱汽船、日本醤油醸造、宝石油、日本活動写真、東京澱粉各取締役、営口水道電気、旭薬各監査役などを歴任し、鉱山業の経営にも従事した。
角田 竹冷(つのだ/すみだ ちくれい、1857年8月4日(安… 角田 竹冷(つのだ/すみだ ちくれい、1857年8月4日(安政4年6月15日) - 1919年(大正8年)3月20日)は、明治・大正期の俳人・政治家。本名は真平(しんぺい)。駿河国加島(現静岡県富士市)生れ。東京に出て代言人(弁護士)となり、東京府会議員、東京市会議員、衆議院議員を歴任した。位階及び勲等は正六位、勲四等。 農業・角田彦右衛門の二男として生まれる。1874年(明治7年)に上京し法律学を修めた。1880年(明治13年)、代言人試験に合格した。東京府会議員、同副議長、神田区会議員、同議長、牛込区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京市臨時市区改正局長兼水道局長などを歴任。 その他、跡見女学校理事、秀英舎取締役、中央窯業取締役、帝国劇場取締役、東京株式取引所理事などを務めた。
影山 秀樹(かげやま ひでき、1857年5月11日(安政4年… 影山 秀樹(かげやま ひでき、1857年5月11日(安政4年4月18日) - 1913年(大正2年)10月15日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。大地主。衆議院議員(3期)。 駿河国富士郡岩本村(静岡県富士郡岩松村岩本を経て現富士市)の農家に生まれる。1872年(明治5年)沼津兵学校附属小学校を卒業し、山梨県の近藤漢学塾で漢籍を修めたのち上京・遊学し、1877年(明治10年)帰郷し、岩松村および富士郡の地主惣代となった。1880年(明治13年)富士勧業を創立して社長となり養蚕、製糸、製茶などの事業に傾倒する。1883年(明治16年)には県庁に要請し、養蚕伝習所を設け静岡県内に蚕の温度飼育法を広めた。
松島 廉作(まつしま れんさく、安政3年8月29日(1856… 松島 廉作(まつしま れんさく、安政3年8月29日(1856年9月27日) - 昭和14年(1939年)4月22日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党)。 遠江国豊田郡美川村(現在の静岡県袋井市)に金井文平の二男として生まれ、長上郡五島村(現在の浜松市中央区)の松島五右衛門の養子となった。東京専門学校(現在の早稲田大学)で政治学・経済学を学んだ。1886年(明治19年)、静岡県会議員に当選した。1892年(明治25年)、第2回衆議院議員総選挙に当選。以後、当選回数は6回を数えた。 また、静岡民友新聞社を創設し、社長を務めた。
大森 鍾一(おおもり しょういち、1856年6月16日〈安政… 大森 鍾一(おおもり しょういち、1856年6月16日〈安政3年5月14日〉- 1927年〈昭和2年〉3月3日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、皇太后宮大夫、男爵。 幕臣、駿府与力・大森直正(水野忠邦家臣森川源左衛門の男)と先代鯛次郎直由の娘である銀の長男として生まれる。幼名は鍾一郎、後に諱の直興を名乗る。静岡学校、名古屋学校を経て、明治5年10月(1872年11月)に林欽次塾に入り、後に中退。 1873年(明治6年)4月、明治政府に出仕し陸軍造兵司・一等附属となる。司法省、法制局、太政官を経て、1878年(明治11年)10月、内務省に移り四等属に任官。以後、内務権大書記官、兼戸籍局長、内務卿官房長心得、内務大臣秘書官(山縣有朋大臣)、内務書記官・総務局文書課長兼勤、県治局長、兼警保局長などを歴任した。
井口 省吾(いぐち しょうご、1855年9月20日〈安政2年… 井口 省吾(いぐち しょうご、1855年9月20日〈安政2年8月10日〉- 1925年〈大正14年〉3月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将 従二位勲一等功二級。日清戦争、日露戦争期を代表する軍人の一人である。駿河国出身。 歩兵第九聯隊大津分営に兵卒として入営し、翌年、陸軍士官学校を受験している。 陸軍士官学校(旧2期)、陸軍大学校(1期)を経て1887年(明治20年)にドイツ留学。日露戦争時には満州軍総司令部参謀となり、奉天会戦などの作戦指揮にあたった。児玉源太郎は口癖のように、「俺には普賢菩薩と文殊菩薩がついている。」と井口と松川敏胤の両名を頼りにしていたという。またドイツ留学の経験を生かし、いろいろな訳書を行った。
西尾 伝蔵(にしお でんぞう、1855年1月27日(安政元年… 西尾 伝蔵(にしお でんぞう、1855年1月27日(安政元年12月10日)- 1895年(明治28年)7月16日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。幼名は道郎、諱は行信、通称は伝右衛門。 西尾雄一郎の子として、遠江国豊田郡友永村(三川村、静岡県磐田郡三川村、袋井町を経て現袋井市)に生まれる。地元の医師鈴木宗元が開いていた寺子屋で学んだところ、たちまち先輩を追い抜く才を示した。その後杉浦某に入門し漢学を、また馬杉雲外のもとで詩文を学んだ。1873年(明治6年)友永村戸長となり、1883年(明治16年)から磐田・山名・豊田郡長を務めた。「経世済民」を掲げ、1878年(明治11年)9月、遠江有志同盟会という政談社を組織し国会開設請願運動に傾倒した。
笠原 鯥太郞(かさはら むつたろう、1855年〈旧暦安政2年… 笠原 鯥太郞(かさはら むつたろう、1855年〈旧暦安政2年〉 - 1937年〈昭和12年〉)は、日本の政治家。名の「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられていることから、笠原 鯥太郎(かさはら むつたろう)とも表記される。 静岡県城東郡来福村戸長、静岡県城東郡千浜村長などを歴任した。 遠江国出身の政治家である。静岡県城東郡においては来福村の戸長を経て、千浜村の村長に就任した。来福村と成行村との合併を推進するとともに、両村の対立の収拾に成功した。また、砂地の開拓を推進し、千浜村に豊かな畑地を齎したことでも知られている。 1855年(旧暦安政2年)、遠江国城東郡来福村にて生まれた。
大竹 森吉(おおたけ しんきち、1855年〈安政2年〉 - … 大竹 森吉(おおたけ しんきち、1855年〈安政2年〉 - 1930年〈昭和5年〉6月6日)は、日本の柔術家である。戸塚派楊心流柔術と向井流水法の師範である。 1855年(安政2年)沼津藩士の大竹儀八の長男として沼津藩(現在の静岡県沼津市)に生まれた。 幼少より沼津藩校で柔術師範をしていた戸塚彦介の高弟の柏崎又四郎から戸塚派楊心流を学んだ。その後、戸塚彦介の門人となって一意専心で技を磨いて奥義を極めた。 1886年(明治19年)東京市本所区相生町に道場を開いて戸塚派楊心流を教えた。 1888年(明治21年)更に東京市日本橋区浜町に道場を設立して多数の門弟を育てた。 1890年(明治23年)より日本橋浜町で戸塚派楊心流柔術に加えて向井流水法の教授を開始した。
河井 重藏(かわい じゅうぞう、1854年8月5日(安政元年… 河井 重藏(かわい じゅうぞう、1854年8月5日(安政元年7月12日) - 1925年(大正14年)1月26日)は、日本の政治家。河井 重蔵(かわい じゅうぞう)と表記されることもある。 静岡県会議員(2期)、衆議院議員(3期)などを歴任した。 1854年、遠江国佐野郡上張村にて生まれた。父である河井重高は上張村の庄屋であった。 静岡県会議員選挙に立候補し当選を果たし、2期に渡って務めた。在任中は、静岡県磐田郡佐久間村(のちの浜松市)にて発生した久根鉱山の鉱毒事件の解決に取り組んだ。この頃、足尾銅山にて同じく鉱毒事件の解決に取り組んでいた、政治家の田中正造と知り合う。1897年に足尾銅山を視察に訪れた際には、田中が案内役を買って出ている。
井上 彦左衛門(いのうえ ひこざえもん、1853年11月25… 井上 彦左衛門(いのうえ ひこざえもん、1853年11月25日(嘉永6年10月25日) - 1929年(昭和4年)5月2日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家。新聞経営者。大地主。衆議院議員(5期)。幼名は幾次郎。 先代の豪農・井上彦左衛門の長子として、駿河国有渡郡八幡村(安倍郡豊田村を経て現静岡市)に生まれ、1883年(明治16年)3月、家督を相続する。下総の遠藤良規に学ぶが水戸城焼失事件で疑われ投獄される。1873年(明治6年)釈放され帰郷し、1882年(明治15年)野崎銀行創立に参画し取締役兼支配人に就任する。1884年(明治17年)静岡県会議員に当選し1890年(明治23年)まで務めた。
笹野 甚四郎(ささの じんしろう、1853年11月3日〈嘉永… 笹野 甚四郎(ささの じんしろう、1853年11月3日〈嘉永6年10月3日〉 - 1928年〈昭和3年〉12月6日)は、日本の資産家、実業家。藤相鉄道社長。共盛銀行頭取。族籍は静岡県平民。 静岡県志太郡藤枝町出身。藤枝宿下伝馬の郷宿「ならや」を営む八百次の長男。幼名は十三吉。恵まれた環境であったが5歳の時に実父を、12歳の時に祖父を、14歳の時に継父を亡くし笹野家は苦境に立たされる。 1868年、家督を相続。祖父の甚四郎の名を襲名し「ならや」の看板を捨て、料理屋を起こす。1869年、隣家からの火事で全焼し、それを機に駿河半紙を扱う紙屋に転身、同業者が増えると次に運送業を始める。 1891年、東京へ出る。
池谷 繁太郎(いけたに しげたろう、1853年(嘉永6年6月… 池谷 繁太郎(いけたに しげたろう、1853年(嘉永6年6月) - 1908年(明治41年)3月3日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。諱は茂時、号は岳雲。 池谷七郎平の長男として駿河国富士郡大宮東町(静岡県富士郡大宮町を経て現富士宮市)に生まれる。幕末、韮山の江川塾に入り漢籍、砲術を学んだ。1872年(明治5年)副戸長となり、学区取締、医務取締、地租改正調、第二大区長、町村連合会議長を経て、1876年(明治9年)静岡県民会議員となり、1880年(明治13年)静岡県会議員に当選した。国会開設請願運動の建白総代に名を連ね、1881年(明治14年)の静岡県改進党の結成に加わり、翌年結成された岳南自由党にも参加した。