大場 栄(おおば さかえ、1914年〈大正3年〉3月21日 … 大場 栄(おおば さかえ、1914年〈大正3年〉3月21日 - 1992年〈平成4年〉6月8日) は、大日本帝国陸軍軍人、実業家、政治家。最終階級は大尉。有限会社丸栄産業代表取締役、蒲郡市議会議員。愛知県蒲郡市出身。 大場と大場隊の活躍は、元アメリカ合衆国海兵隊隊員ドン・ジョーンズ著の『タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日(原題『OBA, THE LAST SAMURAI Saipan 1944-1945』)』(1982年刊行。中村定訳、祥伝社)としてノンフィクション小説となった。 2011年(平成23年)にはそれを原作とする映画『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』(監督・平山秀幸)が公開され、竹野内豊が大場役を演じた。
川本 泰三(かわもと たいぞう、1914年1月17日 - 1… 川本 泰三(かわもと たいぞう、1914年1月17日 - 1985年9月20日)は、愛知県瀬戸市出身のサッカー選手、サッカー指導者、実業家。ポジションはフォワード。 小学校時代に大阪へ転居、大阪府立市岡中学からサッカーを始め、1930年に第12回全国中等学校蹴球選手権大会に出場してベスト4の成績を残した。1931年に市岡中学を卒業し、早稲田高等学院(予科に相当)を経て早稲田大学に入学。予科在学中からア式蹴球部で試合出場し、予科3年の1933年から早大の関東大学リーグ4連覇に貢献した。 在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されて、5月15日のオランダ領東インド代表戦で初出場し、初得点も決めた。
豊田 英二(とよだ えいじ、1913年(大正2年)9月12日… 豊田 英二(とよだ えいじ、1913年(大正2年)9月12日 - 2013年(平成25年)9月17日)は、日本の実業家。位階は正三位。勲等は勲一等。豊田佐吉の甥。 トヨタ自動車工業株式会社社長(第5代)、トヨタ自動車株式会社会長(初代)、同社名誉会長(初代)、同社最高顧問(初代)、社団法人日本自動車工業会会長(第2代)、財団法人トヨタ財団理事長(初代)、学校法人トヨタ学園理事長(初代)、学校法人トヨタ東京整備学園理事長(初代)、助成財団資料センター(現公益財団法人助成財団センター)理事長(初代)などを歴任した。石田退三と共に「トヨタ中興の祖」と呼ばれている。 愛知県西春日井郡金城村(現・名古屋市西区堀端町)に豊田平吉の二男として生まれた。
権田 銈次(ごんだ けいじ、1913年8月17日 - 197… 権田 銈次(ごんだ けいじ、1913年8月17日 - 1978年1月26日) は、日本の実業家。第3代株式会社豊田自動織機製作所(現在の株式会社豊田自動織機)代表取締役社長。 勲章は勲三等旭日中綬章(旭日章)、藍綬褒章(褒章)、チェコスロバキア功労銀章。繊維不況の中、繊維機械一筋できて苦境にあった豊田自動織機を経営の多角化により建て直し現在の豊田自動織機の礎を築いた。 1913年(大正2年)8月17日、愛知県碧海郡小垣江(現在の刈谷市)生まれ。1932年3月 愛知県岡崎市立商業学校(現在の愛知県立岡崎商業高等学校)卒業。家は米屋で、9人兄妹の次男。曾祖父は、名古屋医学校(現在の名古屋大学医学部)創立に中心的に携わった権田錘 御用医師。
渡辺 淳(わたなべ じゅん、1913年7月13日 - 199… 渡辺 淳(わたなべ じゅん、1913年7月13日 - 1995年4月2日)は、日本の経営者、銀行家。日本債券信用銀行頭取を務めた。愛知県名古屋市出身。 1936年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行した。中央信託銀行常務、日本興業銀行常務、日本冶金工業会会長などを経て、1974年に日本債券信用銀行頭取に就任。1979年に顧問に就任。 1978年に藍綬褒章を受章。 1995年4月2日脳梗塞のために死去。81歳没。
横井 英樹(よこい ひでき、1913年(大正2年)7月1日 … 横井 英樹(よこい ひでき、1913年(大正2年)7月1日 - 1998年(平成10年)11月30日)は、日本の実業家。1953年(昭和28年)の老舗百貨店、白木屋(のちの東急百貨店日本橋店)の株買占めや東洋郵船設立による海運業への進出で脚光を浴びた。 愛知県中島郡平和村(平和町を経て現・稲沢市)の貧しい農家に二男として生まれた。生まれたとき、真っ赤な赤子であったことから、こんな赤い子は千人に一人いるかいないかだということで「千市」と名付けられた。本人はその名は好きではなく、1947年(昭和22年)「英樹」と改名する。 父親の鉞次郎(えつじろう)は18、9歳の頃に尻の出来物の手術をしたところ足が悪くなり仕事をしなくなった。
舟橋 正夫(ふなばし まさお、1913年 <大正2年> 5月… 舟橋 正夫(ふなばし まさお、1913年 <大正2年> 5月5日 - 1996年 <平成8年> 8月16日)は、日本の経営者。古河電気工業社長を務めた。位階は正四位。 愛知県名古屋市出身。1932年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に古河電気工業に入社。1964年11月に取締役に就任し、1968年7月に常務、1971年12月に専務を経て、1973年6月に副社長に就任し、1974年11月には社長に昇格。1983年6月に会長を経て、1989年6月から取締役相談役を務めた。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1996年8月16日食道がんのために死去。
木村 定三(きむら ていぞう、1913年〈大正2年〉3月1日… 木村 定三(きむら ていぞう、1913年〈大正2年〉3月1日 - 2003年〈平成14年〉1月21日)は、愛知県名古屋市出身の実業家・美術品収集家。 特に熊谷守一の収集家として知られていた。晩年や没後にはコレクションが愛知県美術館に寄贈されており、愛知県美術館は3309点の木村定三コレクションを有している。 1913年(大正2年)3月1日、木村定治郎ととくの三男として、愛知県名古屋市に生まれた。定治郎は名古屋市中区で肥料米穀仲買を商い、名古屋市内に多数の土地や家屋を所有する大地主でもあった。定治郎は大正初期に米穀肥料商を廃業し、土地や家屋の管理に専念していた。 1929年(昭和4年)に旧制愛知県熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業し、第八高等学校(現・名古屋大学)文科甲類に入学した。
清川 正二(きよかわ まさじ、1913年〈大正2年〉2月11… 清川 正二(きよかわ まさじ、1913年〈大正2年〉2月11日 - 1999年〈平成11年〉4月13日)は、日本の水泳選手、実業家。愛知県豊橋市出身。オリンピックに2度出場し、1932年ロサンゼルス五輪で100m背泳ぎ金メダリスト、1936年ベルリン五輪でも銅メダルを獲得。第二次世界大戦後は総合商社兼松江商の社長・会長を務める。アマチュアスポーツの振興にも尽力し、日本人として初めて国際オリンピック委員会(IOC)副会長となった。位階は従四位。 豊橋市関屋町出身。旧制愛知第四中学校(現・愛知県立時習館高等学校)、名古屋高等商業学校(現・名古屋大学)を経て、1936年(昭和11年)東京商科大学(現・一橋大学)卒業。
早瀬 鎮雄(はやせ しずお、1912年12月28日 - 19… 早瀬 鎮雄(はやせ しずお、1912年12月28日 - 1975年2月26日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。愛知県名古屋市出身。 1933年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日興証券に入社した。 1958年11月に取締役に就任し、1961年11月に常務、1964年10月に専務、1968年8月に副社長を経て、1973年12月に社長に就任。 1975年2月26日脳出血のために在任中に死去。62歳没。
大岩 和雄(おおいわ かずお、1912年12月2日 - 20… 大岩 和雄(おおいわ かずお、1912年12月2日 - 2001年2月14日 )は、日本の経営者。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)社長を務めた。 愛知県常滑市出身。1933年に名古屋高等商業学校を卒業した。佐藤商会での勤務を経て、1935年10月に伊奈製陶に入社した。1958年12月に取締役に就任し、1963年12月に常務、1967年12月に専務を経て、1971年12月に副社長に就任し、1976年1月に社長に就任した。1980年1月に会長に就任し、1984年6月からは相談役を務めた。 1976年10月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲三等瑞宝章を受賞した。 2001年2月14日、肺炎により死去した。
大野 耐一(おおの たいいち、1912年2月29日 - 19… 大野 耐一(おおの たいいち、1912年2月29日 - 1990年5月28日)は、日本の技術者、経営者である。トヨタ自動車工業の元副社長。 かんばん方式など生産管理のあり方として世界的に有名となった“トヨタ生産方式(Toyota Production System、略称TPS)”を体系化した人物である。その業績により、日本自動車殿堂と米国自動車殿堂の両方で殿堂入りしている。 中華民国の大日本帝国租借地関東州大連市生まれ。大野は旧制愛知県立刈谷中学校(現愛知県立刈谷高等学校)および名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)機械科を卒業後、1932年(昭和7年)豊田紡織(現:トヨタ紡織)に入社し、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)トヨタ自動車工業(現:トヨタ自動車)に転籍した。
権田 次良(ごんだ じろう、1911年6月15日 - 197… 権田 次良(ごんだ じろう、1911年6月15日 - 1973年4月21日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長を務めた。 愛知県常滑市出身。1935年に東京帝国大学法学部法科を卒業。 三井物産での勤務を経て、1947年に三井船舶に転じ、1960年5月に取締役、1962年10月に常務、1970年5月に副社長を経て、1972年5月に社長に就任 1973年4月21日、胃癌のために死去。61歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
長谷川 実雄(はせがわ じつお、1911年3月1日 - 20… 長谷川 実雄(はせがわ じつお、1911年3月1日 - 2001年5月9日)は、日本の経営者。読売新聞社常務、読売ジャイアンツ球団代表を務めた。愛知県江南市出身。 1937年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、同年に読売新聞社に入社した。社会部、編集局婦人部長、社会部長、編集局総務を経て、1969年に報知新聞社副社長兼編集局長に就任し、1971年に読売新聞社編集局長兼取締役に就任し、1973年に常務に就任した。1975年6月から1987年までに読売ジャイアンツ球団代表を務めた。1978年から1979年にかけての江川事件では球団代表として対応にあたった。 1987年にセントラル・リーグから連盟特別功労賞として表彰され、同リーグの顧問も務めた。
柴山 幸雄(しばやま ゆきお、1911年1月1日 - 198… 柴山 幸雄(しばやま ゆきお、1911年1月1日 - 1988年4月11日)は、日本の経営者。住友商事社長、会長を務めた。愛知県名古屋市出身。 1934年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に住友合資会社に入社した。1946年に住友商事に転じ、1951年に総務部長に就任し、常務、専務などを歴任し、1969年に副社長に就任し、1973年には社長に昇格した。1977年に会長に就任し、1983年から会長を務めた。 1971年に藍綬褒章を受章し、1981年に勲二等旭日重光章を受章した。 1988年4月11日腎不全のために死去。77歳没。
鈴木 充(すずき たかし、1908年9月4日 - 2000年… 鈴木 充(すずき たかし、1908年9月4日 - 2000年6月30日)は、日本の実業家。中日新聞社副社長と東海テレビ放送社長を務めた。 愛知県渥美郡赤羽根町出身。1928年にハルピン学院を卒業し、1933年に中日新聞社の前身である名古屋新聞社に入社した。 編集局長、取締役、常務、専務を経て、1968年に中日新聞社副社長に就任した。1971年に東海テレビ放送社長にも就任し、1987年6月から会長を務め、1992年6月から相談役を務めた。東海テレビでの在職時にメキシコ、中国などの放送局と姉妹提携し、国際化に力を入れた。 1974年に藍綬褒章を受章し、1980年に勲二等旭日重光章を受章した。1957年にボーン国際記者賞を受賞した。
野崎 利夫(のざき としお、1908年〈明治41年〉4月4日… 野崎 利夫(のざき としお、1908年〈明治41年〉4月4日 - 1989年〈平成元年〉4月11日)は、日本の新聞記者、経営者。プロ野球中日ドラゴンズ球団社長を務めた。愛知県豊橋市出身。 第八高等学校を経て、1932年に東京帝国大学文学部を卒業し、1936年に新愛知新聞社に入社。 新聞記者として勤務し、名古屋タイムズ社社長を経て、1962年には中部日本新聞社(現在の中日新聞社)取締役に就任。1964年には球団史上初めての中日ドラゴンズ球団社長に就任し、1967年までに務めた。 1989年4月11日食道ガンのために死去。81歳没。 著書に「天国と地獄の間」がある。
塚本 亮一(つかもと りょういち、1908年3月15日 - … 塚本 亮一(つかもと りょういち、1908年3月15日 - 2000年7月11日)は、日本の経営者。愛知県名古屋市出身。 1931年に東北帝国大学法文学部経済学科を卒業し、同年に第一生命保険に入社。1948年に総務部長に就任し、取締役、常務、専務を経て、1967年に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格した。1977年4月から1987年4月までに会長を務めた。 日本経営者団体連合会常任理事、経済団体連合会常任理事も務めた。 1972年10月に藍綬褒章を受章し、1979年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 2000年7月8日肺炎のために死去。92歳没。
乾 豊彦(いぬい とよひこ、1907年(明治40年)1月28… 乾 豊彦(いぬい とよひこ、1907年(明治40年)1月28日 - 1993年(平成5年)9月20日)は、日本の実業家。乾家5代目当主、乾汽船社長、広野ゴルフ倶楽部理事長、関西ゴルフ連盟理事長、日本ゴルフ協会(JGA)名誉会長などを務めた。旧姓は高橋。 名古屋の旧家高橋家、高橋彦治郎(後に彦次郎に改名)の七男として生まれる。父彦治郎は、中京財界の大立者といわれた人物で、茶人、美術収集家でもあった。 幼少の頃から父の勧めで書道、能楽、茶道などを習う。愛知一中、名古屋高等商業学校を卒業。 三井物産時代、四代目乾新兵衛こと日本鉄線鋼索の経営者乾新治の一人娘の道子と結婚。乾家に入るが、義父の急死で、33歳で乾汽船の社長に就任し、乾倉庫などの事業を引き継ぎ「関西のうるさ型」と言われ活躍した。
大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月… 大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月18日 - 1987年(昭和62年)7月13日)は、日本の陸軍軍人、実業家、経営評論家。 軍人として第53軍参謀・東部軍参謀等を務め、階級は陸軍中佐に至る。戦後東洋精密工業社長、同社相談役や偕行社副会長を歴任する。愛知県蒲郡市出身。 明治39年11月陸軍中佐大橋崧次郎の四男として生まれ、愛知四中・名古屋陸軍幼年学校・陸軍士官学校予科を経て昭和2年7月19日に陸軍士官学校を卒業。同年10月25日、陸軍砲兵少尉に任官され、野戦重砲兵第2連隊附を命ぜられる。士官候補生第39期の大橋の同期には陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将・陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、関東軍作戦主任参謀の草地貞吾大佐がいる。
浅岡 齋(あさおか ひとし、1906年10月17日 - 19… 浅岡 齋(あさおか ひとし、1906年10月17日 - 1983年3月22日)は、日本の官吏、政治家、実業家。岡崎市役所職員として戦災復興と都市計画事業に大きく貢献。また、岡崎市助役として3期12年にわたって竹内京治・太田光二市政を支えた。愛知県議会議員を1期務めた。 愛知県額田郡広幡町大字伊賀(現・岡崎市伊賀町)に生まれる。両親は岡崎町大字松本(現・岡崎市松本町)で置屋「浅岡」を営んでいた。上京し東京実業学校に学んだが2年で中退。19歳の時に豊橋市の騎兵連隊に入隊。1929年(昭和4年)、母親を心臓病で亡くす。意気阻喪した浅岡は除隊し、樺太の造林会社に活路を見出した。森林から伐採した木材を積んだイカダに一旦乗った以上、イカダをつなぐ一本の綱が切れたら一巻の終わりという過酷な仕事に「どこをどうしても貫き通すつもりで」打ち込んだものの、会社の事業不振から2年足らずで内地に引き揚げることとなる。
松山 英夫(まつやま ひでお、1906年3月27日 - 19… 松山 英夫(まつやま ひでお、1906年3月27日 - 1986年4月11日)は、日本の映画プロデューサー、実業家である。マキノトーキー製作所企画部長、大映専務取締役、ダイニチ映配取締役社長を歴任した。和製英語「ゴールデンウィーク」と「シルバーウィーク」の名付け親として知られる。 1906年(明治39年)3月27日、愛知県宝飯郡蒲郡町(現在の同県蒲郡市)に生まれる。 1928年(昭和3年)、関西学院を卒業する。 満29歳であった1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、これに入社して「企画部長」に就任、翌年1936年(昭和11年)1月、同社の陣容を発表した際に名を連ね、同部のメンバーには岡本潤、中川信夫、坂田重則らがいた。
水野 久男(みずの ひさお、1904年11月25日-1985… 水野 久男(みずの ひさお、1904年11月25日-1985年2月12日)は東京電力の第5代社長(1971年 - 1976年 )。
田中 均一郎(たなか きんいちろう、1904年 - 1979… 田中 均一郎(たなか きんいちろう、1904年 - 1979年)は、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身の実業家。名古屋市南区の機械製造会社である太平製作所社長。1963年(昭和38年)に名古屋市に土地と建物を寄付し、同施設は翌年に名古屋市南図書館として開館した。「蛇々子」の俳号をもつ俳人としても知られる。 1904年(明治37年)に印刷工の息子として愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)に生まれた。父親は刈谷町にある太田商事の印刷部主任を務めた人物である。 享栄貿易学校(現・享栄高等学校)を卒業し、名古屋市西区の木工所に勤めた。やがて名古屋市南区戸部町の機械製造会社である太平製作所に転職し、1943年(昭和18年)に39歳で社長となった。
神野 太郎(かみの たろう、1903年9月9日 - 1983… 神野 太郎(かみの たろう、1903年9月9日 - 1983年9月24日)は、愛知県渥美郡牟呂村(現・豊橋市)出身の実業家。中部瓦斯(現在のサーラエナジー)社長。豊橋市名誉市民。 神野新田を開発した初代神野金之助の孫であり、豊橋市名誉市民である神野三郎の長男である。西春日井郡清洲村の旧家に生まれた三郎は、18歳の時に新田開発を行うために渥美郡にやってきて、1898年(明治31年)に義兄神野金之助の三女りきと結婚した。 1903年(明治36年)9月9日、神野太郎は愛知県渥美郡牟呂村大字牟呂字松島44番地(現・豊橋市神野新田町)に生まれた。1908年(明治41年)には豊橋市大字花田字城海津の借家に転居し、1910年(明治43年)に豊橋市立狭間尋常小学校(現・豊橋市立松山小学校)に入学した。
土川 元夫(つちかわ もとお、1903年〈明治36年〉6月2… 土川 元夫(つちかわ もとお、1903年〈明治36年〉6月20日 - 1974年〈昭和49年〉1月27日)は日本の実業家。名古屋鉄道社長など歴任。勲一等瑞宝章受章。 1903年6月、愛知県中島郡一宮町(現在の一宮市)に生まれる。旧制愛知県第一中学校(現在の愛知県立旭丘高等学校)・第四高等学校(現在の金沢大学)を経て、1928年京都帝国大学を卒業し、(旧)名古屋鉄道(後に名岐鉄道、愛知電気鉄道との合併を経て(現)名古屋鉄道となる)へ入社。1945年11月には運輸部長、同年12月に運輸部長の職責のまま名鉄労組の初代執行委員長に就任。 1946年5月同社取締役、1949年6月常務取締役、1953年2月専務取締役、1955年1月取締役副社長を経て、1961年12月2日取締役社長に就任。
青木 清(あおき きよし、1902年1月9日 - 1978年… 青木 清(あおき きよし、1902年1月9日 - 1978年5月6日)は、日本の経営者。東邦ガス社長。愛知県名古屋市出身。 1927年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に東京ガスに入社。1930年4月に東邦ガスに転じ、同年10月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1964年8月に社長に就任。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等旭日重光章を受章。。 1978年5月6日急性心筋梗塞のために死去。76歳没。
柴田 正(しばた ただし、1901年7月21日 - 1968… 柴田 正(しばた ただし、1901年7月21日 - 1968年3月13日)は日本の実業家。理化学ガラスの製造メーカー柴田科学株式会社の創業者。日本理化学硝子機器工業会会長、日本科学機器団体連合会理事などの要職を務め、業界の発展に貢献。 愛知県豊田市にて柴田鏡三郎とつる夫婦の長男として誕生する。祖父の柴田順平は挙母藩の郡奉行を務めていた。15歳の時、家族と共に東京へ上京し、浅草吉野町の小熊信蔵の経営する硝子工場へ弟子入りし、理化学硝子工業への第一歩を踏み出す。17歳の時、本郷弓町の村井友次郎のガス加工場へ引き抜かれて行く。大正十年(1921年)本郷金助町に柴田製作所を創業し、理化学硝子の加工品の製造販売を始めた。
福井 道二(ふくい みちじ、1901年(明治34年)5月22… 福井 道二(ふくい みちじ、1901年(明治34年)5月22日 - 1991年(平成3年)4月4日)は、昭和期の実業家。南満州鉄道株式会社の社員(参事)。 愛知県渥美郡高松村(現在の田原市)において、父作蔵と母とも(旧姓:中藪)の十三人兄弟姉妹の四男として生をうける。作蔵は福井作蔵商店を興し明治42年(1909年)、渥美半島の片浜(太平洋岸)十三里(約50km)の地引き網100ヵ統への資材の供給する網元であった。 高松尋常高等小学校を卒業し、田原にあった成章中学校(旧藩校:成章館)に進んだ。その後、両親は親戚が東京神田で鉄鋼の商いをしているので一橋商大(東京商科大学、現:一橋大学)を勧め、兄からは名古屋高等工業学校(現:名古屋工業大学)の紡織科を勧められている。
四代目豊島 半七(よんだいめとよしま はんしち、1900年〈… 四代目豊島 半七(よんだいめとよしま はんしち、1900年〈明治33年〉11月6日 - 1962年〈昭和37年〉1月21日)は、愛知県中島郡一宮町(現・一宮市)出身の実業家。出生名は鈴木 孝三(すずき こうぞう)であり、1921年に豊島家の養嗣子となると、1937年4月に四代目豊島半七を襲名した。株式会社山一商店代表取締役、豊島株式会社社長、東海紡績株式会社社長。一宮市名誉市民。 天保12年(1841年)、初代豊島半七は尾張国の中島郡一宮村で綿花の仲買人の商売をはじめ、「綿屋半七」の商号を掲げた。農家から糸を購入して問屋に売っていたが、幕末には自身が問屋を構えるまでに成長した。1868年(明治元年)には長男の善七が家督を継いで、二代目豊島半七を名乗った。
成田 米蔵(なりた よねぞう、1900年8月29日 - 19… 成田 米蔵(なりた よねぞう、1900年8月29日 - 1975年4月4日)は日本の実業家、教育者。 名古屋市出身。1923年東京商科大学(現一橋大学)卒業する。同年に愛知銀行へ入行する。1941年に東海銀行へ勤務する。1946年に東海銀行監査役となる。その後、1956年王子製鉄取締役会長、東京化工取締役、東海製線代表取締役、東京溶接棒取締役、大同不動産取締役、名古屋臨海鉄道取締役、大同製鋼取締役副社長などを歴任する。1969年-1971年には、大同工業大学(現大同大学)学長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
榊原 巌(さかきばら がん、1898年〈明治31年〉11月1… 榊原 巌(さかきばら がん、1898年〈明治31年〉11月17日 - 1994年〈平成6年〉11月30日)は、日本の経済学者、キリスト教(アナバプティズム)研究家、政治家、実業家。青山学院大学名誉教授。筆名は、吾妻 東一、福田 逸史。 妻は衆議院議員の榊原千代。息子はヒッポファミリークラブ創設者の榊原陽。 愛知県碧南市生まれ。1921年(大正10年)3月、官立神戸高等商業学校を中途退学する。同年4月に東京商科大学(現・一橋大学)本科に入学し、1924年(大正13年)3月に卒業する。同年4月に横浜社会問題研究所の研究員に就任する。 1926年(大正15年)6月から福島高等商業学校(現・福島大学)講師、1927年(昭和2年)7月から同校教授に就任する。
神谷 正太郎(かみや しょうたろう、1898年(明治31年)… 神谷 正太郎(かみや しょうたろう、1898年(明治31年)7月9日 - 1980年(昭和55年)12月25日)は日本の実業家。
相馬 敏夫(そうま としお、1898年(明治31年)7月6日… 相馬 敏夫(そうま としお、1898年(明治31年)7月6日 - 1980年(昭和55年)2月24日)は、日本の大蔵官僚、実業家。官選栃木県知事、明治製糖社長。旧姓・上平。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)出身。上平猶一の三男として生まれる。旧制長野県飯田中学校(現・長野県飯田高等学校)から旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)へ転校し、旧制第八高等学校を経て東京帝国大学法学部に進学。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝大法学部法律学科(独法)を卒業。大蔵省に入省し理財局属となる。1923年、相馬半治の養子となる。 以後、大蔵省銀行局勤務、英仏駐在・財務書記、横須賀税務署長、永代橋税務署長、東京地方専売局事業課長、専売局販売部販売課長、大蔵書記官・上海財務官事務所勤務、専売局参事官・長官官房総務課長、大蔵書記官・河内総領事、専売局煙草事業部長、大蔵省監理局長、東京都参事官などを歴任。
山崎 宮市(やまざき みやいち、1898年7月3日 - 19… 山崎 宮市(やまざき みやいち、1898年7月3日 - 1980年7月1日)は、日本の経営者。愛知県名古屋市出身。 1923年に明治大学法学部法律学科を卒業し、翌年11月に東邦ガスに入社。1943年7月に西部ガスに転じ、1949年8月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1960年2月に社長に就任。1970年2月に会長。福岡大学理事、日本ガス協会理事なども歴任。 1961年11月に藍綬褒章を受章し、1967年1月に紺綬褒章を受章し、1968年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1980年7月1日肺腫瘍のために死去。81歳没。
杉田 六一(すぎた ろくいち、1897年3月7日 - 197… 杉田 六一(すぎた ろくいち、1897年3月7日 - 1976年8月9日)は、古代オリエント研究者、実業家。 愛知県豊橋市出身。旧制中学時代、叔父にもらった英文の聖書を読み古代オリエントに興味を持ち、聖書研究の目的で青山学院大学に進学。1921卒業、同大講師を務めるが、奥日光の観光業者・南間久吉の娘と結婚、戦時中は奥日光に疎開し独学で古代イスラエルの研究に従事。戦後、奥日光で観光物産会社・杉田商事代表取締役となり、奥日光開発取締役などを務めた。日本イスラエル文化研究会理事長。
久田 慶三(ひさだ けいぞう、1897年(明治30年)1月2… 久田 慶三(ひさだ けいぞう、1897年(明治30年)1月20日 - 1983年(昭和58年)7月29日)は、日本の政治家、実業家。愛知県常滑市長(5期)、西浦町長、西浦町議会議員、常滑市名誉市民。 愛知県常滑市出身。1911年(明治44年)、西浦町立第一尋常高等小学校卒業。西浦町議会議員、西浦町長、常滑市参与、常滑市助役などの公職を歴任した。 1959年(昭和34年)常滑市長に初当選。1979年(昭和54年)まで5期20年にわたり市政を担った。 市長在職中、老朽校舎解消のため4中学校、8小学校のすべてを鉄筋構造に改築し、さらに屋内運動場やプールも積極的に建設した。1968年(昭和43年)9月に愛知県陶磁器試験場(現在の「あいち産業科学技術総合センター 産業技術センター 常滑窯業試験場」)を移転新築、1970年(昭和45年)に常滑市陶磁器会館を建設し、業界の振興と発展に大きく寄与した。
山口 昇(やまぐち のぼる、1896年〈明治29年〉4月5日… 山口 昇(やまぐち のぼる、1896年〈明治29年〉4月5日 - 1976年〈昭和51年〉3月20日)は、日本の実業家であり、愛知県を主な販売エリアとする自動車ディーラー・愛知トヨタ自動車の創業者である。愛知県自動車配給社長、愛知トヨタ自動車社長・会長(初代)などを歴任した。 1896年(明治29年)、愛知県碧海郡新川町(現・碧南市)に生まれた。 1913年(大正2年)、慶應義塾商工学校に入学した。在学中は慶應普通部の野球部に所属し、腰本寿監督の下、投手・キャプテンとして1916年(大正5年)の第2回全国中等学校優勝野球大会に出場、投打に活躍し優勝に貢献した。この時のチームメイトには、エドウィン・ダンの三男である日米混血のジョン・ダン、ハワイ出身の日独混血の河野元彦などがいた。
豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、旧字体: 豐田喜一郞、18… 豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、旧字体: 豐田喜一郞、1894年(明治27年)6月11日 - 1952年(昭和27年)3月27日)は、日本の経営者、技術者、トヨタ自動車創業者。位階は従五位。勲等は勲四等。豊田佐吉の長男。 トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)社長(第2代)、社団法人自動車技術会会長(第2代)などを歴任した。 豊田佐吉と佐原たみ(佐吉の妹の友人で最初の妻)の長男として生まれる。1892年(明治25年)から夫婦は東京市浅草外(当時の浅草区千束町)に住んでおり、里帰り出産のため静岡県敷知郡吉津村山口(現在の湖西市山口)で生まれるが、出生3か月のとき、貧困の中家庭を顧みることなく発明に没頭する夫に愛想を尽かした母親が家出したため祖父母の家で育つ。
鈴木 亨市(すずき きょういち、1894年5月24日 - 1… 鈴木 亨市(すずき きょういち、1894年5月24日 - 1969年7月30日)は、日本の経営者。愛知県豊橋市出身。 1919年に東京帝国大学法学部独法科を卒業し、同年に日本銀行に入行。1943年10月に東海銀行に転じ、頭取となり、1959年から会長を務めた。 1962年3月から1968年2月までに名古屋商工会議所会頭を務めた。 1958年に藍綬褒章を受章。
塚原 嘉一(つかはら かいち、1894年 - 1959年)は… 塚原 嘉一(つかはら かいち、1894年 - 1959年)は、愛知県東春日井郡小牧町春日寺(現在の小牧市)出身の実業家・政治家。小牧町長(1944年 - 1945年)。 朝鮮・満州・中国などに毛織物を輸出した塚原毛織の創業者である。1935年(昭和10年)頃の塚原毛織は約500人もの従業員を抱える大工場だった。塚原毛織には若い女工が多かったことから、小牧高等女学校(現在の愛知県立小牧高等学校)の開校に力を注いだ。名鉄小牧線の開業、町村立組合春日井病院(現在の小牧市民病院)の開院などにも尽力している。
司 忠(つかさ ただし、1893年〈明治26年〉10月5日 … 司 忠(つかさ ただし、1893年〈明治26年〉10月5日 - 1986年〈昭和61年〉5月1日)は、愛知県渥美郡豊橋町八町(現・豊橋市八町通3丁目)出身の実業家。丸善社長・会長。 丸善社長就任時にはワンマン独裁を宣言し、洋書部門の再建や著作権法改正に尽力した。国外に流出していた西洋絵画の松方コレクションの返還交渉にも関与している。 1893年(明治26年)10月5日、愛知県渥美郡豊橋町八町(現・豊橋市八町通3丁目)にある安久美神戸神明社の家に生まれた。1906年(明治39年)9月に高浜尋常高等小学校を退学すると、13歳で書籍商の丸善株式会社に見習生として入社した。 1922年(大正11年)5月10日に結婚している。
加藤 五一(かとう ごいち、1891年8月26日 - 198… 加藤 五一(かとう ごいち、1891年8月26日 - 1989年4月9日)は、日本の経営者。三井造船(現在の三井E&S)社長、会長を務めた。愛知県豊田市出身。 1918年に東京帝国大学英法科を卒業。三井物産での勤務を経て、1944年に三井造船に転じ、1946年5月に取締役に就任し、同年12月に常務を経て、1947年5月には社長に就任。1960年5月に会長に就任し、1966年6月には相談役に就任。 日本造船工業会会長、日本原子力事業副社長、経済団体連合会常任理事なども歴任。 1959年にデンマーク・ダンネプログ勲章を受章し、1959年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1989年4月8日呼吸不全のために死去。
川村 貞四郎(かわむら ていしろう、1890年(明治23年)… 川村 貞四郎(かわむら ていしろう、1890年(明治23年)7月23日 - 1987年(昭和62年)6月18日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選山形県知事、東洋インキ製造 (株) 社長。旧姓・古橋。 愛知県北設楽郡出身。大地主・古橋源六郎の三男として生まれ、川村秀豊の養子となる。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、日本中学校を経て、第一高等学校を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年(大正4年)5月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年6月、内務省に入省し警視庁警部兼内務属となる。 1917年(大正6年)9月、本所太平警察署長に就任。以後、防疫官兼内務書記官・衛生局勤務、内務事務官・警保局保安課勤務、欧米出張(1924年1月)、警視庁書記官・衛生部長、山形県書記官・内務部長、青森県書記官・内務部長などを歴任。
古川 為三郎(ふるかわ ためさぶろう、旧字体: 古川 爲三郞… 古川 為三郎(ふるかわ ためさぶろう、旧字体: 古川 爲三郞、1890年(明治23年)1月18日 - 1993年(平成5年)5月19日)は、日本の実業家。愛知県中島郡萩原村(現・一宮市)出身。 約30社からなるヘラルドグループの創業者であり、一代で日本を代表する映画配給会社へと育て上げたほか、映画事業のほかにも手広く事業を行った。「古為」(ふるため)という愛称で親しまれた。 1890年(明治23年)1月18日、愛知県中島郡萩原村(現・一宮市萩原)に生まれた。父は中野清助、母はたきであり、為三郎は五男だった。1893年(明治26年)10月、名古屋市矢場町に住む遠縁の古川己之助の養子となった。 1896年(明治29年)4月には白川尋常高等小学校(現・名古屋市立栄小学校)に入学し、1899年(明治32年)4月には高等科に進んだ。
大西 英一(おおにし えいいち、1889年〈明治22年〉12… 大西 英一(おおにし えいいち、1889年〈明治22年〉12月7日 - 1955年〈昭和30年〉12月16日)は、日本の土木技術者、実業家。工学博士。第4代日本発送電総裁や初代電力中央研究所理事長、第39代土木学会会長を務めた。 福井県で鉄道官吏の子として生まれる。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)を経て、1912年(明治45年/大正元年)名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)土木科卒業。鉄道院を経て、1914年神通川電力入社。中学・高工の先輩石川栄次郎の誘いを受け矢作水力に移り、1940年(昭和15年)取締役に昇格。 1942年日本発送電入社。1945年日本発送電理事。1947年日本発送電総裁。
篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1… 篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1975年6月9日)は、日本の経営者、薬学博士。第一製薬社長を務めた。 愛知県海部郡蟹江町出身。第八高等学校を経て、1914年に東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、1922年にはイギリスのマンチェスター大学に留学。 東京薬学専門学校、徳島高等工業学校で教授を務め、1934年に第一製薬に入社し、1935年に取締役に就任し、1938年に常務を経て、1947年には社長に就任。1963年に会長を経て、1966年には相談役に就任した。 1960年5月に藍綬褒章を受章し、1964年に勲三等瑞宝章を受章。 1975年6月9日、心不全のために死去。86歳没。
石田 退三(いしだ たいぞう、1888年11月16日 - 1… 石田 退三(いしだ たいぞう、1888年11月16日 - 1979年9月18日)は、日本の実業家。位階は従三位。勲等は勲一等。旧姓は澤田(さわだ)。 豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)及びトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の社長・会長・相談役。戦後のトヨタ自動車の建て直しをし、「トヨタの大番頭」と呼ばれる。また、豊田英二と共に「トヨタ中興の祖」とも呼ばれる。 愛知県知多郡小鈴谷村字大谷(現常滑市)に生まれた。澤田徳三郎の五男。家は農家で男の兄弟が五人あった。 父親を早くになくし、進学できず丁稚奉公に出されるところに遠戚に当たる児玉一造(豊田佐吉と親交があり、弟は佐吉の婿養子となる豊田利三郎)の支援で滋賀県立第一中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)を卒業し、しばらくは代用教員として働く。
江崎 浮山(えざき ふざん、1887年(明治20年)8月2日… 江崎 浮山(えざき ふざん、1887年(明治20年)8月2日 - 1984年(昭和59年)1月17日)は、愛知県東春日井郡小牧町(現在の小牧市)出身の実業家(藤枝江﨑新聞店経営者・興行師)・併立写真収集家。本名は江崎 千代吉(えざき ちよきち)。浮山という号の名付け親は評論家の徳富蘇峰であり、静岡市の浮月楼で歓談していた際に命名された。 1887年(明治20年)8月2日に愛知県東春日井郡小牧町(現在の小牧市)に生まれた。出生名は江崎千代吉。父親は江崎友吉であり、千代吉は五男である。 地元の小学校を卒業した後、名古屋市に出て米屋で働き始めた。20歳の時に独立してメリケン粉卸商となり、30歳になると芝居屋という趣味店も開店させた。
山田 佐一(やまだ さいち、1886年(明治19年)7月2日… 山田 佐一(やまだ さいち、1886年(明治19年)7月2日 - 1960年(昭和35年)4月2日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 愛知県知多郡乙川村(亀崎町を経て現半田市)で、山田保造の三男として生まれる。高等小学校を卒業し、1913年(大正2年)に分家した。 木綿織布業を営み、知多商工会議所副会頭、知多白木綿同業組合長、愛知県織物同業組合連合会長、日本織物中央会副会頭、日本輸出綿織物同業組合連合会代表、日本白巾白生地工業組合連合会長、山田商店代表社員、山田紡織会長、山田織布取締役などを務めた。 政界では、亀崎町会議員、知多郡会議員、同参事会員、愛知県会議員、同参事会員、半田市会議員、同議長などを歴任した。