坂井 兵吉(さかい へいきち、1876年(明治9年)2月15… 坂井 兵吉(さかい へいきち、1876年(明治9年)2月15日 - 1953年(昭和28年)8月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。子に二・二六事件に参加した坂井直がいる。 三重県三重郡桜村出身。1897年(明治30年)陸軍士官学校第9期卒業。 1921年(大正10年)7月に陸軍歩兵大佐・堺連隊区司令官を経て、1923年(大正12年)8月に歩兵第37連隊長に任官。その後、1926年(大正15年)3月2日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月22日に予備役に編入した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
臼杵 才化(うすき さいか、1876年(明治9年)1月31日… 臼杵 才化(うすき さいか、1876年(明治9年)1月31日 - 1917年(大正6年)12月13日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の医学者・小児科医である。東京帝国大学卒、医学博士。 日本統治時代の台湾総督府医院小児科医長、台湾総督府医学校教授に任ぜられる。 東京帝国大学より医学博士の学位を授与される。正論文『生理的並びに病的関係に基ける哺乳児腸内に於ける脂肪の運命』。 30代臼杵仁(長男)(昭和20年12月10日没)も同墓地。31代臼杵薫(次男)(昭和37年3月10日没)は三重県尾鷲市、金剛寺。(28代臼杵玄貞までの先祖の墓地は、三重県津市榊原、海泉寺にあり永代供養されている)
佐佐木 信綱(ささき のぶつな、1872年7月8日(明治5年… 佐佐木 信綱(ささき のぶつな、1872年7月8日(明治5年6月3日) - 1963年(昭和38年)12月2日)は、日本の歌人・国文学者。正三位。勲六等。文学博士。日本学士院会員。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 一時は桂園派に連なる歌を詠んだが、和歌改良の風潮に接して革新の気風を抱き、1897年(明治30年)頃から独自の歌境をうち立て、有望な新星として注目された。「ひろく、ふかく、おのがじし」をモットーとし[要出典]、新詩社系、根岸短歌系双方との交流を深めた。 国文学者としての実績も豊富で、特に『万葉集』の研究で有名。 三重県鈴鹿郡石薬師村(現在の鈴鹿市石薬師町)で、国学者で歌人の佐々木弘綱の長男として生まれる。
柚原 完蔵(ゆはら かんぞう、1872年6月20日(明治5年… 柚原 完蔵(ゆはら かんぞう、1872年6月20日(明治5年5月15日) - 1940年12月6日)は、日本陸軍の軍人。陸士4期、陸大15期卒業。最終階級は陸軍中将。 元津藩士、衆議院議員・伊東祐賢の二男として生れ、陸軍幼年学校を経て、1893年(明治26年)7月、陸軍士官学校(4期)を卒業。1894年(明治27年)3月、歩兵少尉に任官し歩兵第19連隊付となる。同年9月から翌年7月まで日清戦争に出征。陸軍戸山学校教官、歩兵第19連隊中隊長などを経て、1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業。 1902年(明治35年)11月、陸士教官となり、のち教育総監部参謀に異動。1904年(明治37年)3月、同郷の官吏の柚原具致の養子となり、家督を継承する。
中村 豊次郎(豐次郎、なかむら とよじろう、1871年11月… 中村 豊次郎(豐次郎、なかむら とよじろう、1871年11月30日(明治4年10月18日)- 1945年(昭和20年)8月8日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員(三重県郡部選出、当選1回)。 桑名県桑名郡、のちの三重県桑名郡桑名町(現桑名市)で、中村太三郎の長男として生まれる。1898年(明治31年)、家督を相続した。東京専門学校で学び、アメリカ合衆国に漫遊した。 北海道で中村農場を経営し、開拓事業に従事。実業界では、京都電気鉄道取締役、日本興業取締役、東洋電業取締役、久城耐火煉瓦取締役、若王子鉱業取締役などを務めた。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(三重県郡部、無所属)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
服部 米次郎(はっとり よねじろう、明治3年12月16日(1… 服部 米次郎(はっとり よねじろう、明治3年12月16日(1871年2月5日) – 昭和39年(1964年)7月1日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。大日本帝国陸軍軍人。 伊勢国一志郡高茶屋村(現在の三重県津市)出身。1894年(明治27年)7月27日に陸軍士官学校(5期)を卒業し、同年9月18日、砲兵少尉に任官。1898年(明治31年)には陸軍砲工学校普通科・高等科を卒業した。砲兵少佐に昇進し、その間に重砲兵第1連隊大隊長、永興湾要塞司令官を歴任した。1910年(明治43年)、憲兵少佐に転じ、統監府警務部長、朝鮮総督府警務部長を歴任した。1918年(大正7年)7月24日に待命となり、1919年(大正8年)、憲兵大佐で予備役に編入された。
松井 房吉(まつい ふさきち、1871年1月 - 1950年… 松井 房吉(まつい ふさきち、1871年1月 - 1950年6月24日)は、日本の大正期から昭和初期の実業家、相場師。松井房吉商店(現在の松井証券)の創業者。 明治初期に三重県桑名市の医者・加藤勘兵衞の次男として生まれる。松井家に養子に出され松井姓になる。日本橋蛎殻町で丸三商店(現在の丸三証券)創業者の1人である川北徳三郎のもとで相場を修業し、川北とともに日本橋兜町に進出する。兜町で5人の仲間と匿名組合を設立して、株取引の仲介業務を始め、1918年5月10日他の5人から権利を買い取り松井房吉商店を創業した。兜町では「売りの房吉」と恐れられ、第一次世界大戦後の1920年3月15日の株価大暴落で、兜町でただ1人大儲けをし、巨万の富を築く。
日下部 三九郎(くさかべ さんくろう、1870年9月16日(… 日下部 三九郎(くさかべ さんくろう、1870年9月16日(明治3年8月21日) - ?)は、日本の外交官。東京府平民。 旧暦明治3年8月21日(1870年9月16日)、伊勢国桑名(現:三重県桑名市)生まれ。共立学校(現:開成中学校・高等学校)、第一高等中学校を経て、1894年6月に帝国大学法科大学卒業。 1894年9月に外交官補となった後、領事官補、在スウェーデン・ノルウェー臨時代理公使、在イタリア臨時代理公使などを経て、1906年1月より公使館一等書記官・大使館一等書記官、1908年1月より関東都督府外事総長を務めた後、1909年2月に休職となる。1915年から1918年時点では福岡県にあった堀鉱業の監査役・取締役を務めていた。
奥村 鋭作(おくむら えいさく、1870年6月18日〈明治3… 奥村 鋭作(おくむら えいさく、1870年6月18日〈明治3年5月20日〉 - 1945年〈昭和20年〉11月12日)は、明治・大正期の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。奥村鋭作の外国駐在先については、一般向けの出版物(『人事興信録』や軍人についての辞典)に何も書かれていなかったり、「ドイツ」だけになっていたり、「ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国」(「独墺両国」)になっていたりする。 三重県河芸郡玉垣村(現:鈴鹿市)出身。父は要蔵(伊勢亀山藩士)で、母は(柘植)たき。1888年(9月4日、士官候補生(歩兵2等軍曹)として歩兵第9連隊(滋賀県大津)に入隊。1889年(明治22年)11月1日、陸軍士官学校(校長:寺内正毅)に入学。
曾我廼家 十郎(そがのや じゅうろう、1869年6月6日〈明… 曾我廼家 十郎(そがのや じゅうろう、1869年6月6日〈明治2年4月26日〉 - 1925年〈大正14年〉12月4日)は日本の俳優、劇作家。本名は大松福松。劇作家としては和老亭当郎と名乗った。 伊勢国松阪出身。家業は合羽、煙草の販売だった。 1900年(明治33年)、3代目中村歌六の弟子となり中村時代()を名乗る。歌舞伎の下積み役者として活動するなかで中村珊之助と出会い、2人で喜劇に舵をとる。曾我兄弟にあやかり、年上の時代が曾我廼家十郎、珊之助が曾我廼家五郎を名乗る。1904年(明治37年)2月、道頓堀「浪花座」にて狂言『無筆の号外』を上演して人気を得る。この際、時期が日露戦争の開戦と重なって十郎は尻込みしたが、五郎の牽引で興行した。
福地 銭吉(錢吉、ふくち せんきち、1868年11月25日(… 福地 銭吉(錢吉、ふくち せんきち、1868年11月25日(明治元年10月12日)- 1921年(大正10年)4月4日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員、三重県阿山郡東柘植村長。 伊賀国阿拝郡上柘植村(三重県阿山郡東柘植村上柘植、柘植町、伊賀町を経て現伊賀市)で、福地次郎の長男として生まれる。第三高等学校で学んだ。農業を営む。 伊賀筵叺同業組合長、阿山郡連合産業組合理事、東柘植村産業組合長、第八十三銀行取締役、東海製糸監査役などを務めた。 政界では、東柘植村長、阿山郡会議員、三重県会議員(1911年-1920年)などに在任し、学務委員、所得税調査委員なども務めた。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に三重県第10区から立憲国民党公認で出馬し、川崎克との激しい選挙戦を制して当選したが、議員在任中の1921年4月に死去した。
笹尾 鉄三郎(ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(18… 笹尾 鉄三郎(ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(1868年9月30日) - 大正3年(1914年)12月30日)は日本のキリスト教の大衆伝道者、牧師、神学校教師、宗教家、讃美歌作家。 淀橋教会初代牧師、聖書学校(柏木聖書学院)初代院長。 1868年8月15日 伊勢安濃郡古河村(後の新町、現在の三重県津市)に、代々庄屋の家柄である父・藤堂藩の郡奉行伊藤篤之助、母・そうの5人兄弟の末子(三男)として誕生。 幼少期に父を亡くす。兄、七左衛門が後見人になる。その土地に中学校がなかったので伊藤家が土地を寄付して、鉄三郎のために中学を創設する。中学時代には肺炎を患い生死をさまよう。 1886年(明治19年)に津中学を卒業後する。
田川 平三郎(たがわ へいさぶろう、旧姓・高橋、1868年4… 田川 平三郎(たがわ へいさぶろう、旧姓・高橋、1868年4月22日(明治元年3月30日) - 1951年(昭和26年)2月17日)は、日本の商人(米並びに酒商)、神奈川多額納税者、政治家。衆議院議員(神奈川県第四区選出、当選1回)。 三重県飯南郡花岡村(現松阪市)出身。高橋萬蔵の六男。田川幸蔵の養子となり1901年、養弟國太郎の後を承け家督を相続する。米並びに酒商を営む。 田浦町議、三浦郡議、神奈川県議、所得税、営業税の各調査委員、鎌倉銀行取締役、田浦土地建物取締役社長となる。 1922年、神奈川4区の補欠選挙において憲政会公認で当選した。衆議院議員を1期務めた。 1951年2月17日に死去した。
斎藤 緑雨(さいとう りょくう 齋藤緑雨、1868年1月24… 斎藤 緑雨(さいとう りょくう 齋藤緑雨、1868年1月24日(慶応3年12月30日) - 1904年(明治37年)4月13日)は、明治時代の小説家、評論家。本名・賢(まさる)。「正直正太夫」をはじめ、「江東みどり」「登仙坊」など別名も多数ある。幸田露伴がつけたという戒名は「春暁院緑雨醒客」。
加賀 卯之吉(かが うのきち、旧姓・山室、1867年7月4日… 加賀 卯之吉(かが うのきち、旧姓・山室、1867年7月4日〈慶応3年6月3日〉 - 1941年〈昭和16年〉11月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(三重県郡部選出、当選2回、憲政会)、ジャーナリスト。族籍は三重県平民。 伊勢国桑名(後・三重県桑名郡桑名町、現・桑名市)に生まれる。山室今助の長男。1884年、加賀金七の養子となり、1886年、養母の後を承け家督を相続した。英漢学を修めた。 桑名郵便局雇、同局長代理、名古屋逓信官吏局員を務めた。その後、伊勢新聞社、福岡日日新聞社及び神戸新聞社の経済通信の嘱託となる。また、日本商業新報を創刊し社長となった。 経済記者として、毎年8月から11月までの約90日間に渡って全国の米作の状況や農家の財政状況を視察して、次年度の需給の予測とその対策を発表し、『福岡日日新聞』『関門日日新聞』『神戸新聞』『やまと新聞』『中外日報』『帝国通信』などに記事を提供した。
福原 銭太郎(ふくはら せんたろう、慶応3年2月24日(18… 福原 銭太郎(ふくはら せんたろう、慶応3年2月24日(1867年3月29日) - 昭和13年(1938年)9月26日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。三重県桑名町長、長島村長。 伊勢国桑名郡長島村(現在の三重県桑名市)出身。士族・福原資英の長男として生まれ、1896年(明治19年)に家督を継ぐ。1884年(明治17年)に陸軍士官学校(旧9期)に入学し、1887年(明治20年)に卒業。同年7月歩兵少尉に任官し、陸軍大学校(10期)で学び、日清戦争に出征した。陸軍士官学校教官、参謀本部部員、近衛師団参謀を歴任。日露戦争時には第12師団高級参謀を務め、その後は留守第12師団参謀長、歩兵第68連隊初代連隊長、臨時朝鮮派遣歩兵第1連隊長、第16師団参謀長、第26旅団長を歴任した。
平井 繁男(ひらい しげお、慶応3年2月3日〔1867年3月… 平井 繁男(ひらい しげお、慶応3年2月3日〔1867年3月8日〕- 大正14年〔1925年〕9月10日)は、日本の実業家、官吏、特許辨理士。推理作家・江戸川乱歩の父。 三重県津市出身。武士の家柄で津藩の藤堂家に仕えていた七代目平井杢右衛門(陳就)・後妻の和佐との間に生れた。関西法律学校(現・関西大学)第一回卒業生として卒業後、青年官吏として三重県名賀郡右名張町(名張市)役所に奉じた。この頃、津藩家臣の長女のきくと結婚し、1894年 (明治27年)第一子を儲け、太郎と命名。これが後の江戸川乱歩である。間もなく、鈴鹿郡へ転勤。1897年に東海紡績同盟会の職員となり、名古屋に移った。東海紡織同盟会書記長を歴任。
杉野 孫七(すぎの まごしち、1867年1月24日(慶応2年… 杉野 孫七(すぎの まごしち、1867年1月24日(慶応2年12月19日) - 1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人。日露戦争での広瀬武夫とのエピソードで知られる。 1867年に三重県奄芸郡磯山村(後の河芸郡栄村大字磯山、現在の鈴鹿市磯山町)で農業・杉野孫太夫の長男として生まれる。小学校卒業後、代用教員・巡査・監守を経て1886年3月に海軍水兵を志願し、二等水兵として[要出典]浦賀屯営に入営した。「日進」「筑波」と転乗し、1891年から「松島」回航委員付としてフランスへ渡った。 日清戦争では第五号水雷艇に乗り組み、威海衛防材排除の功によって勲八等白色桐葉章および年金36円を支給される。
小屋 光雄(こや みつお、慶応2年7月19日(1866年8月… 小屋 光雄(こや みつお、慶応2年7月19日(1866年8月28日) – 昭和17年(1942年)5月16日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部→新正倶楽部)。医師。 伊勢国一志郡久居(現在の三重県津市)出身。1888年(明治21年)に大阪医学校を卒業した後、東京帝国大学医科大学と伝染病研究所で学んだ。大阪府警察本部詰医・大阪地方裁判所嘱託医を務めた後、小屋病院を開業し、一志郡医師会長、三重県医師会評議員・議長、大日本医師会評議員などを歴任した。また久居町長、一志郡会議員、同議長、三重県会議員に選出された。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、中勢鉄道株式会社社長、伊勢電気鉄道株式会社取締役などを務めた。
九鬼 紋七(くき もんしち、1866年3月10日(慶応2年1… 九鬼 紋七(くき もんしち、1866年3月10日(慶応2年1月24日) - 1928年(昭和3年)3月15日)は、三重県四日市市出身の政治家、また九鬼産業グループを経営する実業家。四日市電灯・三重人造肥料・四日市倉庫社長・東洋紡績取締役・四日市商工会議所副会頭等。四日市の政財界の指導者。四日市九鬼家当主で8代目九鬼紋七を襲名した。国政に進出して衆議院議員(1期)を務める。甥は四日市政財界の大御所であった九鬼紋十郎。家業を継いだ長男・徳三(9代目紋七)も衆議院議員を務めた(妻は外交官市河彦太郎の妹)。 1886年(慶応2年)1月に四日市の中納屋町69番地在住の大地主である四日市九鬼家に誕生する。四日市九鬼家は戦国時代から安土桃山時代に活躍した九鬼水軍の末裔である。
森 茂生(もり しげお、1865年6月18日(慶応元年5月2… 森 茂生(もり しげお、1865年6月18日(慶応元年5月25日)- 1929年(昭和4年)8月22日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、三重県桑名郡桑名町長。幼名・栄次郎。 伊勢国桑名郡矢田村(三重県桑名郡益生村大字矢田、桑名町を経て現桑名市矢田)で、森純次郎の二男として生まれる。慶應義塾で学んだ。1889年(明治22年)6月に家督を相続した。 政界では、益生村会議員、町村組合会議員、桑名郡会議員、同参事会員、同議長、三重県会議員(1890年-1902年)、同参事会員、同副議長、桑名町長などを務めた。1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙(三重県郡部、中正倶楽部)で初当選。
中川 藤右衛門(なかがわ とうえもん、1865年4月5日〈慶… 中川 藤右衛門(なかがわ とうえもん、1865年4月5日〈慶応元年3月10日〉 - 没年不明)は、日本の商人(中川屋、呉服洋反物商)、三重県多額納税者、三重県の大地主、銀行・会社の重役、政治家。津市会議員。旧姓・鈴木。族籍は三重県平民。 三重県河芸郡黒田村(現・津市)に生まれる。鈴木藤次郎の二男。鈴木平兵衛の弟。中川家の養子となり、1899年に家督を相続し、前名・魁蔵を改める。 呉服洋反物商を営み、三重県下の多額納税者に列し又推されて津商工会議所常議員である。伊勢晒工場を設立する。方面委員、安濃津地裁調停委員、呉服商組合長を兼ねる。 津農商銀行取締役、三重合同電気、津電燈各監査役をつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。
安保 庸三(あぼ ようぞう、1865年 3月13日(元治2年… 安保 庸三(あぼ ようぞう、1865年 3月13日(元治2年2月16日)– 1942年(昭和17年)5月16日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、三重県会議長。旧姓・四方。 伊勢国飯高郡、のちの三重県飯南郡松阪町(現松阪市)で、四方梅次郎の長男として生まれ、1884年(明治17年)安保ひさ の養子となり家督を相続した。明治法律学校で学んだ。 才賀藤吉の指導を受けて松阪電気を設立し、のち社長に就任。その他、松阪鉄道社長、勢和自動車社長、南勢新聞社長、松阪共産取締役、三重出版取締役、三重県農工銀行監査役、松阪劇場監査役などを務めた。 政界では、松阪町会議員、飯南郡会議員、三重県会議員、同議長などを務めた。
伊藤 為吉(いとう ためきち、1864年1月 - 1943年… 伊藤 為吉(いとう ためきち、1864年1月 - 1943年5月)は、日本の建築家・発明家。伊勢国松坂(現三重県松阪市)出身。
川村 曄(かわむら あきら、文久3年5月26日(1863年7… 川村 曄(かわむら あきら、文久3年5月26日(1863年7月11日) - 大正12年(1923年)8月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。号は経山。 伊勢国安濃郡津(現在の三重県津市)出身。川村弥右衛門の長男として生まれる。漢学やドイツ学を学んだ。1889年(明治22年)より新聞記者や雑誌記者を務めた。 1909年(明治42年)、衆議院補欠選挙で当選。第11回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、立憲政友会院外団理事を務めた。
森本 確也(もりもと かくや、1862年5月11日(文久2年… 森本 確也(もりもと かくや、1862年5月11日(文久2年4月13日)- 1927年(昭和2年)2月10日)は、明治から大正期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。号・得堂。 志摩国英虞郡、のちの三重県志摩郡鵜方村(鵜方町、阿児町を経て現志摩市阿児町鵜方)で、大地主・森本佐左衛門、なつ の長男として生まれる。1877年(明治10年)三重県師範学校を卒業。さらに同人社英学科及び漢学科を卒業し、専修学校(現専修大学)で経済学を学んだ。帰郷して、しばらく著作業に従事した。 1891年(明治24年)3月、家督を相続して農業を営み、三重県会議員に選出され、同常置委員も務めた。また、三重県農工銀行取締役、同頭取、三重銀行取締役、津商業会議所特別議員などに在任した。
御木本 幸吉(みきもと こうきち、1858年3月10日(安政… 御木本 幸吉(みきもと こうきち、1858年3月10日(安政5年1月25日) - 1954年(昭和29年)9月21日) は、日本の実業家。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。ミキモト・パール、真珠王とも呼ばれた。 志摩国答志郡鳥羽城下の大里町(現在の三重県鳥羽市鳥羽一丁目)で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。
深山 聳峮(ふかやま たかつら、1858年(安政5年2月)-… 深山 聳峮(ふかやま たかつら、1858年(安政5年2月)- 1912年(大正元年)9月9日)は、明治期の政治家。衆議院議員。 伊賀国名張郡、のちの三重県名張郡箕曲村(一次)(名賀郡箕曲村、名張町、箕曲村(二次)を経て現名張市)で生まれる。漢学を修めた。 三重県会議員に選出され、同常置委員も務めた。1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(三重県第6区、自由党)で初当選し、以後、第5回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
篠田 時化雄(しのだ しげお、1857年1月9日〈安政3年1… 篠田 時化雄(しのだ しげお、1857年1月9日〈安政3年12月14日〉 - 1936年〈昭和11年〉4月27日)は、江戸時代後期から昭和初期にかけての国学者、神職、歌人であり、精華学園(後の京都精華学園中学校・高等学校)の設立者である。号は小笠乃屋・龍孫。
宮崎 道三郎(みやざき みちさぶろう、1855年10月14日… 宮崎 道三郎(みやざき みちさぶろう、1855年10月14日(安政2年9月4日) - 1928年(昭和3年)4月18日)は、三重県津市出身の法学者。法学博士。東京帝国大学教授(法制史)。日本法律学校(現・日本大学)創立者(総代)。 1855年(安政2年)9月に、伊勢国安濃郡津新道(現在の三重県津市)にて出生。藩校有造館で漢籍や国史などを学んで、1872年(明治5年)に上京。日本法律学校(現日本大学の前身)の創立時には、設立評議員の一人である司法大臣山田顕義らによって、宮崎は若手の法律学者11名とともに設立者の代表として創立に深く関与している。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
井島 茂作(いじま もさく、1855年9月18日(安政2年8… 井島 茂作(いじま もさく、1855年9月18日(安政2年8月8日)- 1925年(大正14年)8月31日)は、三重県四日市市(伊勢国)出身の政治家、教育者、実業家。第2代四日市市長(官選市長)。 井島家は戦国時代には北畠氏の家臣であったが、1570年(元亀元年)に多気郡浅香(現在の松阪市嬉野町付近)から四日市に移住して、北勢四十八家の1つの浜田氏の重臣となった。江戸時代には、市場町四日市を開拓した旧家として名高く、代々庄屋を務めた。1804年(文化元年)以降は苗字帯刀永久御免となった。 竪町(現在の四日市市北町)に誕生した茂作は、1867年(慶応3年)に庄屋役見習い、1872年(明治5年)には度会郡の山田国札引替役に任命された。
栗原 亮一(くりはら りよういち、1855年5月6日(安政2… 栗原 亮一(くりはら りよういち、1855年5月6日(安政2年3月20日)- 1911年(明治44年)3月13日)は、明治期の日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。旧姓は中村。 志摩国鳥羽藩士中村武市の三男として生まれ、同藩士・栗原亮休の養子となる。藩校で漢学を修める。明治の初めに上京し同人社で学んだ。 1876年、自主社を創立し『草莽雑誌』『莽草雑誌』を刊行して政府批判を行う。自由民権運動に加わり自由党の結党に参加。『自由新聞』の主筆を務め、1882年、板垣退助の渡欧に随行した。『東雲新聞』の主筆となり、大同団結運動に加わった。 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙において三重県第一区から出馬し当選。
前田 慧雲(恵雲、まえだ えうん、安政2年1月14日(185… 前田 慧雲(恵雲、まえだ えうん、安政2年1月14日(1855年3月2日) - 昭和5年(1930年)4月29日)は、伊勢国桑名(現・三重県桑名市)出身の浄土真宗本願寺派の学僧。第2代東洋大学長、龍谷大学学長。「含潤」、「止舟斎」とも号した。 1855年(安政2年)、桑名の西福寺に生まれた。漢文を大賀旭川、佐藤牧山の下で学び、また仏教学を西山教校、比叡山で修めた。松島善譲にも学んでいる。 1888年に上京して大内青巒と共に尊皇奉仏を唱え、新欲主学問所の主事となった。東京大学講師として教鞭を執り、1904年からは高輪仏教大学学長を務めた。1906年、井上円了の意志を継いで哲学館大学を東洋大学と改称し、第2代学長に就任(1914年に退任)。
11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年1… 11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年10月12日(安政元年8月21日)- 1905年(明治38年)10月15日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・卯之助、六太郎。号・顕堂。 伊賀国阿拝郡上野福居町(三重県阿拝郡上野町福居町、阿山郡上野町、上野市を経て現伊賀市)で、商業、10代・森川六右衛門(顕斎)、欽子の息子として生まれる。熊田二爻に学び、さらに猪飼箕山(猪飼敬所の子)、富士林東峡、速水謙堂、山中房之助などにつき和漢学を修めた。津藩武術指南役・太田小源太、橋本佐源太らにつき剣術砲術を修めた。 1869年(明治2年)津藩から米問屋役を命じられた。1873年(明治6年)私塾を開いて漢学、数学を伝授した。
川喜田 四郎兵衛(かわきた しろうべえ、嘉永7年1月12日〈… 川喜田 四郎兵衛(かわきた しろうべえ、嘉永7年1月12日〈1854年2月9日〉 - 1919年〈大正8年〉7月31日)は、明治から大正時代にかけて三重県津市を拠点に活動した日本の実業家・政治家である。「四郎兵衛」は当主が代々襲名した名跡であり、諱は政孝という。 家業として酒類・米穀・肥料などを扱う問屋を営みつつ地元財界に進出し、津商業会議所(現・津商工会議所)会頭と百五銀行頭取を約25年にわたり兼任。政界では1889年(明治22年)の市制施行以来30年にわたり津市会議員を務め、その間副議長・議長を歴任した。女婿に百五銀行頭取の職を継いだ川喜田久太夫(諱は政令、号は半泥子)がいる。 嘉永7年1月12日(=安政元年、新暦:1854年2月9日)、先代川喜田四郎兵衛(隠居号「岫斎」、1832年生)の長男として生まれた。
十代目伊藤伝七(じゅうだいめ いとう でんしち、1852年8… 十代目伊藤伝七(じゅうだいめ いとう でんしち、1852年8月9日(嘉永5年6月24日) - 1924年(大正13年)8月12日)は、 明治大正期の企業家。三重県四日市市出身の三重紡績創設者で第2代東洋紡績株式会社社長。三岐鉄道建設に私費を投じて沿線に小野田セメントを誘致した四日市市名誉市民の十一代目伊藤伝七は息子(養子)である。 伊勢国三重郡室山村(現在の三重県四日市市四郷地区)の酒造業の伊藤家に生まれる。母は進士みす。幼名は伊藤清太郎。江戸時代の幕末期に元服して伊藤伝一郎。1883年(明治16年)に父の9代目伊藤伝七が亡くなり、伊藤伝七(10代目)を襲名した。 1879年(明治12年)5月60歳で没した稀代の製糸王伊藤小左衛門 (5代目)の遺志を継いだのは、製糸頭の伊藤小十郎(伊藤小左衛門5代目の子)と、後に紡績王と称される伊藤伝一郎(伊藤伝七10代目、後の伊藤伝七知周)の2人であった。
牛場 卓蔵(うしば たくぞう、1851年1月29日(嘉永3年… 牛場 卓蔵(うしば たくぞう、1851年1月29日(嘉永3年12月28日) - 1922年(大正11年)3月5日)は、明治期から大正期のジャーナリスト、官僚、実業家、政治家。慶應義塾出身、衆議院議員、山陽鉄道取締役会長などを務めた。 伊勢国安濃郡渋見村(後の安東村、現三重県津市)の井草家に生まれる。伊勢国一志郡(後の七栗村、現三重県津市)の牛場圭次郎の養子となる。慶應義塾に学び、島田三郎らと共に陸奥宗光の家に寄食する。 『郵便報知新聞』記者、兵庫県庁の勧業課長を経て、内務省に出仕。1881年(明治14年)、明治十四年の政変で罷免され下野。1882年(明治15年)、新聞『時事新報』の創刊に参画し記事を執筆。
椿 蓁一郎(つばき しんいちろう、1850年10月9日(嘉永… 椿 蓁一郎(つばき しんいちろう、1850年10月9日(嘉永3年9月4日) - 1935年(昭和10年)9月10日)は、幕末の桑名藩士、明治期の教育者・内務官僚。三重県師範学校長、官選県知事、小樽区長。旧姓・塚田、旧名・丈夫。 江戸八丁堀の桑名藩邸で同藩士・塚田長平の二男として生まれ、同藩士・椿重三郎の養子となる。藩校・立教館で学んだ。戊辰戦争では幕府方として転戦した。その後、桑名に帰るも、1973年に上京して東京師範学校で学び、1874年1月、同校を卒業。 1874年2月、文部省三等訓導任官。1875年9月、度会県師範学校二等訓導に就任。以後、同校監事兼一等訓導、三重県師範学校長を歴任。1880年2月、地方官に転じ三重県四等属となる。
三輪 猶作(みわ なおさく、1850年7月23日(嘉永3年6… 三輪 猶作(みわ なおさく、1850年7月23日(嘉永3年6月15日)- 1917年(大正6年)9月17日)は、明治から大正前期の地主、実業家、政治家。衆議院議員、四日市市会議長。 伊勢国三重郡浜田村(三重県三重郡四日市町浜田を経て現四日市市)で、大地主、酒造業・三輪嘉平(嘉左衛門)の長男として生まれる。堀木恥堂から漢籍を学んだ。酒造業、肥料商を営む。 1886年(明治19年)頃、三重県酒造改良協会の設立を主導し、専門技術者を招聘して醸造術の近代化を図り、酒造法の改善に貢献した。また、四日市米穀取引所、四日市銀行の設立に尽力し、取引所理事長、銀行2代頭取を務めた。その他、関西鉄道監査役、三重県人造肥料監査役、三重土木取締役、四日市倉庫重役、四日市商業会議所役員なども務めた。
平田 力之助(ひらた りきのすけ、1850年2月21日(嘉永… 平田 力之助(ひらた りきのすけ、1850年2月21日(嘉永3年1月10日)- 1932年(昭和7年)10月1日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。 伊勢国朝明郡、のちの三重県三重郡大矢知村(現四日市市)で生まれる。漢学、英学、普通学を学び、1888年(明治21年)慶應義塾を卒業。農業、商業を営む。 大矢知村会議員、学務委員、三重郡会議員、三重県会議員を務めた。一貫して自由党系政党に所属し、地価修正、地租軽減に尽力した。 和波久十郎の失職に伴い、1900年(明治33年)11月に実施された第6回衆議院議員総選挙三重県第3区補欠選挙に出馬して初当選し、その後、第8回まで再選され、衆議院議員に連続3期在任し、この間、政友会院内主事などを務めた。
原田 二郎(はらだ じろう、嘉永2年10月10日〈1849年… 原田 二郎(はらだ じろう、嘉永2年10月10日〈1849年11月24日〉 - 昭和5年〈1930年〉5月5日)は、日本の実業家・篤志家。伊勢国松阪(現・三重県松阪市)出身。公益財団法人原田積善会の創設者。歌人としての号は原田嘉朝、詩人としての号は原田均斎。 嘉永2年10月10日(1849年11月24日)、伊勢国松阪城下の同心町(現・三重県松阪市殿町)に生まれた。父は東谷小平次の四男である清一郎、母は田中彦左衛門の長女である時雨子であり、いずれも原田家に養子に入った人物である。幼名は徳松であり、上京する頃までこの名前を用いた。原田家は下級武士の家であるが、徳松は文武両道に秀でており、14歳だった文久2年(1862年)には松阪学問所から褒章を受けている。
加太 邦憲(かぶと くにのり、嘉永2年5月19日(1849年… 加太 邦憲(かぶと くにのり、嘉永2年5月19日(1849年7月8日)- 昭和4年(1929年)12月4日)は戦前日本の司法官僚、政治家。桑名藩士、大津始審裁判所長、京都始審裁判所長、大阪控訴院長、貴族院勅選議員。初名は三治郎、後に縫殿介。実名は孝基。号は吉甫、白鷹。 幕末に桑名藩士として生まれた。禁門の変後、桑名藩の京都警備に当たったが、この時フランス兵学を学んだことを契機として、洋学を志した。東京に遊学し、村上英俊私塾、大学南校等を経て司法省明法寮に入学し、ボアソナード等に最新のフランス法を学び、第1期生として卒業した。 卒業後しばらく東京法学校に留まった後、フランス、ドイツに留学し、帰国後大津始審裁判所長、京都始審裁判所長、大阪控訴院長を歴任した。
矢土 勝之(やづち / やつち かずゆき、1849年3月30… 矢土 勝之(やづち / やつち かずゆき、1849年3月30日(嘉永2年3月7日)- 1920年(大正9年)11月28日)は、明治から大正期の漢詩人・官僚・政治家。衆議院議員。字・実夫、号・錦山。 伊勢国飯野郡阿波曽村(三重県飯野郡射和村大字阿波曽、飯南郡射和村を経て現松阪市阿波曽町)で生まれる。土井聱牙に師事し漢学を修めた。 太政官に出仕。東京で岩倉具視、伊藤博文の知遇を得た。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(三重県第4区、自由党)で当選した。1902年(明治35年)8月の第7回総選挙(三重県郡部、立憲政友会)では落選し、衆議院議員に1期在任した。 森春濤の高弟で、その子森槐南らと交友した。
館 潔彦(たて きよひこ、1849年(嘉永2年) - 192… 館 潔彦(たて きよひこ、1849年(嘉永2年) - 1927年(昭和2年)6月4日)は、明治時代に活躍した陸地測量師(陸軍技師)。舘清彦(たちきよひこ)として紹介されることもある。現在の三重県出身。穂高岳(前穂高岳は初登頂)をはじめ、263もの一等三角点を選点したことで知られる。測量誌「測量」2005年6月号の表紙では、柴崎芳太郎とならんで描かれるなど明治期の特筆すべき測量技術者である。 嘉永2年に桑名藩士・館淳夫の長男として伊勢国桑名にて生まれる。幼名釘次郎。明治維新後に19歳で上京し、岸俊雄義塾苟新館の門下生となり英語及び数学を学ぶ。明治5年10月3日工部省に出仕、測量司に属し、測量四等少手となる。
天春 文衛(あまがす ぶんえい、1847年12月16日(弘化… 天春 文衛(あまがす ぶんえい、1847年12月16日(弘化4年11月9日) - 1927年(昭和2年)8月24日)は、日本の政治家、実業家。帝国議会において、衆議院議員(政友本党所属)や貴族院多額納税者議員を務めた。朝明郡の大地主・天春家の当主。伊勢国三重郡保々村出身(現在の三重県四日市市保々地区出身)。 明治時代から大正時代にかけての政治家で、農事改良や地価改良運動に取り組んだ。 天春文衛は、朝明郡中野村の名門地主の天春家の跡継ぎとして弘化年間に誕生した。朝明郡の中野村は以下の変遷の地方自治体となる。 東京に上京して、島田元林の塾に入塾して学業を積み政治家となった。三重郡保々村の大地主であった。
海野 謙次郎(うんの けんじろう、1846年5月2日(弘化3… 海野 謙次郎(うんの けんじろう、1846年5月2日(弘化3年4月7日)- 1913年(大正2年)10月16日)は、幕末から明治期の大庄屋・銀行家・政治家。衆議院議員、三重県会議長。 伊勢国安濃郡粟加村(三重県安濃郡明合村大字粟加村、協和村、安濃村、安芸郡安濃村、安濃町を経て現津市安濃町粟加)で生まれる。津藩士・野田竹渓に師事し漢学を修めた。大庄屋役を務める。 廃藩置県後、小区戸長に就任。安濃郡書記、明合村会議員、所得税調査委員、所得税審査委員などを務める。1880年(明治13年)11月、三重県会議員に選出され1900年(明治33年)3月まで在任し、この間、同常置委員、同副議長、同議長(4期)なども務めた。
立見 尚文(たつみ なおふみ/なおぶみ、1845年8月21日… 立見 尚文(たつみ なおふみ/なおぶみ、1845年8月21日(弘化2年7月19日) - 1907年(明治40年)3月6日)は、幕末の桑名藩士、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。男爵。通称は鑑三郎。号は快堂。変名に倉田巴。 実父は桑名藩士(江戸詰め、200石)の町田伝太夫。桑名藩士・立見尚志の養子となった。松平定敬が桑名藩を継いだときに小姓となる。少年期より風伝流の槍術、柳生新陰流の剣術の使い手として知られる。藩校立教館、湯島の昌平坂学問所に学ぶ。 藩主松平定敬の京都所司代就任に伴い京都で藩の周旋役を任される。その後幕府陸軍に出向。歩兵第3連隊に籍を置きフランス式用兵術を学ぶ。フランス教官をして「立見は天成の軍人である。
大谷 嘉兵衞(おおたに かへえ、1845年1月29日(弘化元… 大谷 嘉兵衞(おおたに かへえ、1845年1月29日(弘化元年12月22日) - 1933年(昭和8年)2月3日)は、日本の商人、実業家、政治家。位階は正五位。勲等は勲三等。幼名は藤吉。名の「衞」は「衛」の旧字体のため、新字体で大谷 嘉兵衛とも表記される。 横浜市会議員、横浜市会議長、横浜商業会議所会頭、貴族院議員などを歴任した。 伊勢国出身の商人、実業家、政治家である。製茶貿易業に携わり、「茶聖」と呼ばれた。第2代横浜商業会議所(現在の横浜商工会議所)会頭や貴族院議員などを務めた。正五位勲三等。族籍は神奈川県平民。 伊勢国飯高郡谷野村(現在の三重県松阪市飯高町宮本)に、父の吉兵衛、母つなの4男1女の末子として生まれた。
林 宗右衛門(はやし そうえもん、1845年(弘化元年12月… 林 宗右衛門(はやし そうえもん、1845年(弘化元年12月)- 1896年(明治29年)12月30日)は、明治期の地主、政治家。貴族院多額納税者議員。 伊勢国員弁郡で生まれる。のち奄芸郡林村(三重県河芸郡明村、安芸郡芸濃町を経て現津市)の代々久居藩の大里正を務めた林家の養子となる。 1868年(明治元年)養父の跡を継いで林組大庄屋(大里正)に就任。農業、酒造業を営む。その後、楠平尾・林・中縄3村戸長、学務委員などを務めた。道路、橋梁改築のため私費を投じ、また学校に教材を寄付するなど公共のための出費を惜しまなかった。 1880年(明治13年)2月に三重県会議員に奄芸郡選挙区から選出されたが同年10月に辞職した。
立入 奇一(たていり きいち、1844年(弘化元年4月)- … 立入 奇一(たていり きいち、1844年(弘化元年4月)- 1895年(明治28年)2月5日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 伊賀国阿拝郡上野、現在の三重県伊賀市で生まれた。藤堂藩校崇広堂で学ぶ。江戸、京都に遊学した。地租改正掛、三重県出仕を経て、三重県会議員、同常置委員となる。伊賀街道隧道の計画立案、郡立中学校の設立、上野商工会の設立などに尽力した。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において三重6区から立憲改進党公認で立候補して当選する。1892年の第2回衆議院議員総選挙で再選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙で落選した。翌1895年に死去した。墓所は伊賀市大超寺。