小野 市兵衛(おの いちべえ、1913年2月4日 - 198… 小野 市兵衛(おの いちべえ、1913年2月4日 - 1989年2月12日)は、日本の経営者。大阪府大阪市出身。 1936年に大阪商科大学を卒業し、同年に小野市兵衛商店(現在の小野薬品工業)に入社。 1947年4月に専務に就任し、1956年5月には社長に昇格。1977年2月から会長を務めた。 1989年2月12日肺炎のために死去。76歳没。
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小野 市兵衛(おの いちべえ、1913年2月4日 - 198… 小野 市兵衛(おの いちべえ、1913年2月4日 - 1989年2月12日)は、日本の経営者。大阪府大阪市出身。 1936年に大阪商科大学を卒業し、同年に小野市兵衛商店(現在の小野薬品工業)に入社。 1947年4月に専務に就任し、1956年5月には社長に昇格。1977年2月から会長を務めた。 1989年2月12日肺炎のために死去。76歳没。
谷山 兵三(たにやま ひょうぞう、1913年1月25日 - … 谷山 兵三(たにやま ひょうぞう、1913年1月25日 - 1990年7月4日)は、日本の薬学者。長崎大学名誉教授。日本薬学会有功会員。徳島文化女子短期大学元学長。 大阪府吹田市出身。1938年に長崎医科大学附属薬学専門部卒業。大日本製薬、大阪帝国大学、京都帝国大学での研究を経て、1944年に大阪薬学専門学校(現大阪大学)講師に就任しその後、同校教授を経て大阪大学医学部助教授、近畿大学薬学部教授を歴任。1961年に長崎大学教授、1963年に同大学薬学部長に就任し1965年まで務めた。1970年に再び同大学薬学部長に就任し1972年まで務めた。 長崎大学退官後は徳島文化女子短期大学学長、大阪医療技術学園専門学校理事長、大阪生物工学専門学校(現大阪動植物海洋専門学校)名誉学長を歴任。
九里 正(くのり ただし、1913年 - 1944年)は、日… 九里 正(くのり ただし、1913年 - 1944年)は、日本の元アマチュア野球選手。父は日本の洋画家・九里四郎。祖父に海軍主計大監・貴族院議員の南郷茂光。伯父に海軍少将・南郷次郎、南郷三郎がいる。
武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、1912年〈大正元… 武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、1912年〈大正元年〉12月10日 - 1988年〈昭和63年〉7月26日)は、大阪市出身の日本の演劇評論家、演出家、映画監督。役者の型や口伝に影響されない狂言作者の意図に忠実な武智歌舞伎を世に問うたことで知られる。歌舞伎のみならず、能や文楽、オペラ、舞踏、映画の演出も手がけ、わいせつ図画公然陳列罪で起訴された「黒い雪裁判」の被告人の一人としても知られる。本名ははじめ武智 鐡二、のち西村 鐡二(にしむら てつじ)、のち川口 鐡二(かわぐち てつじ)。 日本演劇学会、伝統芸術の会、日本文芸家協会、日本オペラ協会、日本演劇協会、各会員。 1912年、大阪市梅田に生まれる。
田鍋 健(たなべ まさる 1912年 <大正元年> 10月2… 田鍋 健(たなべ まさる 1912年 <大正元年> 10月21日 - 1993年 <平成5年> 8月2日)は、日本の実業家。積水ハウス元会長・社長。 大阪府大阪市出身。東京帝国大学卒業後、1936年に日本窒素肥料株式会社入社。1950年、新日本窒素肥料株式会社(現・チッソ株式会社)熊本営業所長。戦後、積水化学工業株式会社に入社。1955年に同取締役、1957年に同専務取締役就任。1963年に積水ハウス代表取締役社長に就任。累積赤字のふくらんだ同社を合理化と近代化で再建、プレハブ業界トップに育て上げた。1992年同会長就任。1977年 藍綬褒章受章。1984年勲二等瑞宝章 (現 瑞宝重光章)受章。
川島 宙次(かわしま ちゅうじ、1912年10月15日 - … 川島 宙次(かわしま ちゅうじ、1912年10月15日 - 1998年)は、日本の民家研究家・画家。 東京生まれ。1932年大阪市立都島工業学校建築科卒。一級建築士。大林組に入り、住宅部長、大林ハウジング取締役を歴任。欧米、東南アジア諸国を歴訪し住居建築を研究。1990年第1回竹内芳太郎賞受賞。日本民族建築学会評議員、東京民芸協会会員、日本美術家連盟会員。
高野 百介(たかの ももすけ、1912年7月9日 - 戦死)… 高野 百介(たかの ももすけ、1912年7月9日 - 戦死)は、長野県出身のプロ野球選手(外野手)。
森本 薫(もりもと かおる、1912年(明治45年)6月4日… 森本 薫(もりもと かおる、1912年(明治45年)6月4日 - 1946年(昭和21年)10月6日)は、日本の劇作家、演出家、翻訳家。代表作として『女の一生』や『華々しき一族』などがある。 1912年(明治45年)、大阪府西成郡中津町下三番(現・大阪市北区)に生まれる。中津第二尋常小学校、旧制北野中学校を経て第三高等学校文科へと進んだ。三高在学中は、ノエル・カワードやサマセット・モームなどのヨーロッパ近代戯曲を読みふけて過ごし、1932年(昭和7年)には処女作となる一幕ものの戯曲『ダムにて』を発表している。三高卒業後、京都帝国大学文学部英文科に進んだ森本は、入学から時を経ずして胸部疾患のために療養生活を余儀なくされた。
大谷 篤蔵(おおたに とくぞう、1912年3月22日 - 1… 大谷 篤蔵(おおたに とくぞう、1912年3月22日 - 1996年8月4日)は、日本の国文学者。 大阪市生まれ。1935年京都帝国大学文学部国文科卒。大学院で潁原退蔵に師事し近世文学、俳諧を専攻。出征したのち抑留され、1948年7月復員。1949年天理図書館司書研究員。1953年佐賀大学助教授、1958年大阪女子大学教授。75年定年退官、名誉教授、松蔭女子学院大学教授。89年退任、名誉教授。俳文学会代表。
鴻池 藤一(こうのいけ ふじかす、1912年1月23日 - … 鴻池 藤一(こうのいけ ふじかす、1912年1月23日 - 1994年3月9日)は、日本の経営者。鴻池組元会長。全国建設業協会元会長。 大阪府大阪市出身。1937年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、大林組での勤務を経て、1939年に鴻池組に入社した。1943年に副社長に就任し、1944年には社長に昇格。1962年には会長も兼任し、1985年から会長に専任した。 1994年3月9日腎不全のために京都大学医学部附属病院で死去。82歳没。
鐘ケ江 信光(かねがえ のぶみつ、1912年(大正元年)1月… 鐘ケ江 信光(かねがえ のぶみつ、1912年(大正元年)1月18日 - 2012年(平成24年)12月5日)は、日本の中国語学者。東京外国語大学名誉教授、元同大学学長。 大阪市出身。東京外国語学校支那語科卒。東京外国語大学助教授、教授、1971年4月から1975年3月まで学長、1976年(昭和51年)定年退官、名誉教授。1965年(昭和40年)から1967年(昭和42年)まで、NHKの中国語入門を担当した。2012年(平成24年)12月5日、老衰のため100歳で死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
塚本 洋太郎(つかもと ようたろう、1912年1月3日 - … 塚本 洋太郎(つかもと ようたろう、1912年1月3日 - 2005年3月12日)は、日本の園芸学者。京都大学名誉教授。専門は花卉園芸学。草花・花木・その他の観賞植物の研究を通じて花卉園芸学を学問的に体系化した。 朝鮮の大邱生まれ。本籍は福岡県北九州市八幡西区。 大阪府立豊中中学校(現:大阪府立豊中高等学校)から第五高等学校(現:熊本大学)を経て、京都帝国大学農学部農学科に入学。 大学では園芸学を専攻。1937年(昭和12年)京都帝国大学農学部農学科卒業後、助手として4年間園芸学第一研究室に勤務。大阪府立園芸学校に転出。この時期、第2次大戦中の園芸の荒廃を見て将来の花卉園芸学への道を決意する。戦後いち早く輸出用球根類の研究を開始。
小堀 林衛 (こぼり りんえい、1912年 - 1989年)… 小堀 林衛 (こぼり りんえい、1912年 - 1989年)は、日本の実業家。小堀住研(現・ヤマダホームズ)の創業者。滋賀県出身。 1912年、東浅井郡上草野村野瀬(現在の長浜市野瀬町)に生まれる。上草野小学校高等科卒業後、大阪の石けん工場で丁稚奉公として働く。1928年、竹中工務店入社。働きながら大阪市立都島工業専修学校建築科(現・大阪府立都島工業高等学校定時制課程)で学び1932年卒業。1950年、竹中工務店退職。1951年、三成建築工業株式会社設立。その後社名変更を重ね、1965年小堀住研とする。
吹田 徳雄(すいた とくお、1911年12月20日 - 19… 吹田 徳雄(すいた とくお、1911年12月20日 - 1981年12月18日)は日本の工学者。大阪大学名誉教授。原子力安全委員会初代委員長。理学博士(大阪帝国大学、1947年)。徳島県海部郡美波町(旧日和佐町)出身。 大阪市立都島工業学校、神戸高等工業学校電気科を経て、1937年に大阪帝国大学工学部電気工学科卒業。学生時代はテニス部のキャプテンであった。1949年、大阪大学工学部電気工学科の教授(電気材料学講座)となる。1957年、原子核工学専攻原子炉工学講座教授(電気工学兼務)。1963年には京都大学教授となり、1969年から1970年まで大阪大学工学部長事務取扱を勤めた。 1975年に大阪大学を退官し、近畿大学教授となる。
正野 重方(しょうの しげかた、1911年12月12日 - … 正野 重方(しょうの しげかた、1911年12月12日 - 1969年10月27日)は、日本の気象学者。理学博士。専門は気候力学。大阪市出身。 旧制大阪府立生野中学校、旧制大阪高校から東京帝国大学に進み、気象学を専攻。藤原咲平教授に師事した。1934年(昭和9年)、東京帝国大学理学部物理学科卒業。中央気象台付属測候技術官養成所講師、1938年(昭和13年)中央気象台技師、1939年(昭和14年)理学博士、1944年(昭和19年)東京帝国大学理学部助教授、1949年(昭和24年)東京大学理学部教授に就任。日本の気象学の基礎を築き、1950年(昭和25年)、大気擾乱の研究で日本学士院賞を受賞した。 1950年(昭和25年)、昭和天皇の招きで開かれた座談会形式の合同進講に宇田道隆、坪井忠二、辻光之助、藤本治義とともに出席。
入江 稔夫(いりえ としお、1911年(明治44年)11月5… 入江 稔夫(いりえ としお、1911年(明治44年)11月5日 - 1974年(昭和49年)5月8日)は、日本の水泳選手。大阪府高槻市出身。オリンピック出場2回。1932年ロサンゼルスオリンピックでは100メートル背泳ぎで銀メダルを獲得した。 1924年(大正13年)に茨木中学(現・大阪府立茨木高等学校)に入学。茨木中学校は、体育教諭杉本伝が指導に当たった水泳強豪校で、当時珍しい学校プールを擁し、高石勝男や石田恒信といったオリンピアンを輩出していた。3年生時に早くも背泳ぎの日本新記録を作る。1928年アムステルダムオリンピックには男子100m背泳ぎで参加。なお、アムステルダムオリンピックには茨木中から入江・高階富士夫(およびOBの高石)が選手として、杉本が飛込コーチとして参加している。
朝田 静夫(あさだ しずお、1911年10月13日 - 19… 朝田 静夫(あさだ しずお、1911年10月13日 - 1996年11月8日)は、元運輸事務次官および元日本航空社長。大阪府大阪市出身。丸紅社長の朝田照男は長男。 朝田栄治郎・玉夫妻の次男として生まれる。妻の久子は東洋綿花(現・トーメン)元代表取締役・田中彦三郎の長女。弟の朝田能雄は京都大学卒業後、三和銀行本店総務部長を経て、トーヨー・アド取締役社長を務めた。 生野中学、旧制浪速高校を経て、東京帝国大学法学部を卒業し、逓信省(総務省、日本郵政の前身)に入省。本所郵便局に配属。戦後の省庁再編で運輸省に移り、官房長、海運局長を経て、事務方トップの事務次官に就任。海運業界再編などを手掛けた。 退官後、政府の特殊会社だった日本航空に取締役として入社(天下り)、専務、副社長を経て、1971年社長に就任。
川崎 秀二(かわさき ひでじ、1911年(明治44年)9月1… 川崎 秀二(かわさき ひでじ、1911年(明治44年)9月14日 - 1978年(昭和53年)2月22日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は瑞宝章。父親は立憲民政党代議士の川崎克。元厚生労働大臣の川崎二郎は次男。 大阪府大阪市生まれ。1929年(昭和4年)旧制芝中学校卒業。1935年(昭和10年)早稲田大学政治経済学部を卒業。早大時代は陸上部に所属する傍ら、学内の弁論大会に参加し、痛烈な軍部批判を行って入賞したこともある。卒業後はNHKに入局するも、戦時中は応召により中国大陸を転戦、この時の経験から、戦後日中友好運動に挺身することとなる。 企画部副部長を最後にNHKを退職し、戦後初の総選挙となった1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に父親の地盤を引き継いで旧三重1区から日本進歩党公認で立候補し当選、以後当選11回を数える(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・井出一太郎・早川崇・中野四郎など)。
林 弥一郎(はやし やいちろう、1911年9月2日 - 19… 林 弥一郎(はやし やいちろう、1911年9月2日 - 1999年8月14日)は、大日本帝国陸軍の軍人、最終階級は陸軍少佐。日中友好会会長。中国人民解放軍空軍の父。大阪府出身。
角谷 静夫(かくたに しずお、1911年(明治44年)8月2… 角谷 静夫(かくたに しずお、1911年(明治44年)8月28日 - 2004年(平成16年)8月17日 )は、日本の数学者。イェール大学名誉教授。娘は日系アメリカ人文芸批評家のミチコ・カクタニ(角谷美智子)。関数解析や確率論の研究で著名。 大阪市生まれ。旧制甲南高等学校文科を経て、1934年東北帝国大学理学部数学科卒業。大阪帝国大学助教授、1940年、アメリカのプリンストン高等研究所に留学。太平洋戦争中も同研究所で研究を続けるが、1942年に母親の意志を受けて帰国。1948年、再びプリンストン高等研究所に戻る。1949年イェール大学准教授、1952年同教授。1982年、定年退職。 コネティカット州ニューヘブンにて死去。
橋岡 俊平(はしおか しゅんぺい、改姓名・岡本曠三(おかもと… 橋岡 俊平(はしおか しゅんぺい、改姓名・岡本曠三(おかもと こうぞう)、1911年7月7日 - 1978年8月7日)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ベルリンオリンピックバンタム級日本代表。法政大学卒業。大阪府大阪市出身。 1936年、全日本選手権にバンタム級で優勝を収めた。 同年、ベルリンオリンピックにバンタム級の日本代表として出場し、1回戦にポイント勝ちを収め、2回戦でポイント負けとなった。 日本アマチュアボクシング連盟副会長、関西、近畿、大阪府各アマチュアボクシング連盟各会長を務めた。 1978年8月7日、急性肺炎と腎不全のため67歳で死去した。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。
丹羽 正治(にわ まさはる、1911年4月19日 - 199… 丹羽 正治(にわ まさはる、1911年4月19日 - 1992年1月11日)は、日本の実業家。松下電工名誉会長、松下電器産業監査役、PHP研究所副所長、松下政経塾副塾長、産業構造審議会委員。大阪府堺市出身。 1932年に大阪商科大学高商部を卒業と同時に松下電器製作所へ入社。1939年に常務取締役に就任。1945年に系列会社の松下航空工業に移籍し専務取締役となる。1947年1月、松下幸之助が公職追放され、35歳の若さで松下電工代表取締役社長に就任、幸之助の経営哲学の忠実な実践者として同社を売上高1兆円の大企業に育てる。1977年2月に同社の代表取締役会長を経て、1989年2月に名誉会長に退く。 1992年1月11日午前10時49分に急性肝炎のため、大阪府守口市の病院で死亡。
黒田 了一(くろだ りょういち、1911年〈明治44年〉3月… 黒田 了一(くろだ りょういち、1911年〈明治44年〉3月16日 - 2003年〈平成15年〉7月24日)は、日本の法学者(憲法)・政治家・弁護士。大阪府知事(2期)。憲法改悪阻止各界連絡会議代表委員。 大阪市北区大淀町生まれ。旧制北野中・旧制三高から東北帝国大学法学部法律学科を卒業後、東北帝国大学法学部助手を経て満洲国高等鉄路警護学校教官などを歴任。終戦後5年間シベリア抑留を経験し、1950年(昭和25年)に帰国。大阪市立大学法学部助教授に就任し、憲法学を担当した。1956年に教授に昇任し学生部長・法学部長を歴任、日本学術会議「学問・思想の自由」委員会委員長・日本科学者会議全国参与・大阪護憲連合代表委員なども務めた。
西山 夘三(にしやま うぞう、1911年3月1日 - 199… 西山 夘三(にしやま うぞう、1911年3月1日 - 1994年4月2日)は日本の建築学者、建築家。都市計画家。住宅問題を科学的に研究する基礎を築いた。
釜洞 醇太郎(かまほら じゅんたろう、1911年2月23日 … 釜洞 醇太郎(かまほら じゅんたろう、1911年2月23日 - 1977年4月13日)は、日本の病理学者。元大阪大学総長。大阪市生まれ。 旧制大阪府立住吉中学校(現・大阪府立住吉高等学校)、旧制大阪高等学校を経て1936年、大阪帝国大学医学部卒業。同年12月、陸軍軍医に任命。1946年の復員まで中国戦線に従軍。1949年、大阪大学医学部講師。1952年、大阪大学微生物病研究所助教授、翌年同教授。1958年~69年、同所長を務めた。1969年〜75年、大阪大学総長。1977年4月13日、心筋梗塞のため死去。叙従三位、勲一等瑞宝章追贈。 1969年より大阪大学第9代総長を務めた。当時の大学紛争に対しては毅然と対処した一方、改革を推進し、人間科学部、溶接工学研究所、言語文化部、文学部日本学講座を創設した。
高階 富士夫(たかしな ふじお、1911年 - ?)は、日本… 高階 富士夫(たかしな ふじお、1911年 - ?)は、日本の飛込競技選手。茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)在学中の1928年、アムステルダムオリンピックに飛板飛込で出場した。のちに辻 富士夫(つじ ふじお)。 茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)に学ぶ。茨木中学校は、体育教諭杉本伝が指導に当たった水泳強豪校で、当時珍しい学校プールを擁し、高石勝男や石田恒信といったオリンピアンを輩出していた。1927年、第3回日本選手権水泳競技大会の3m飛板飛込で優勝。 1928年アムステルダムオリンピックには、茨木中から高階と入江稔夫(およびOBの高石)が選手として参加しており、杉本が飛込コーチとして参加している。
岡元 義人(おかもと よしと、1910年(明治43年)9月2… 岡元 義人(おかもと よしと、1910年(明治43年)9月27日 - 1958年(昭和33年)11月17日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員。 鹿児島県姶良郡、のちの隼人町(現霧島市)で岡元常助の長男として生まれる。1923年(大正12年)宮崎県立小林中学校(宮崎県立小林高等学校)を卒業。さらに市立大阪工業学校(現大阪府立都島工業高等学校)機械科を卒業した。 1929年(昭和4年)大阪川西内燃機関研究所員となる。1931年(昭和6年)朝鮮西松組に転じた。以後、朝鮮水力電気機関庫主任、国際運輸自動車部主任を経て、承徳と天津市で華北運輸公司を経営し、さらに北京市で北支工廠を経営して終戦を迎えた。
大橋 棣(おおはし やすし、1910年7月17日 - 200… 大橋 棣(おおはし やすし、1910年7月17日 - 2004年9月9日)は大阪府出身のプロ野球選手、野球指導者(高校野球・社会人野球監督)。 旧制浪速中学校(現浪速高校)卒業後、関西大学に進学。強肩・好守の遊撃手として有名だった。その後、門司鉄道局に就職。門司鉄道局時代は、玉井栄など九州の選手の大阪タイガース・阪神軍入団に関わり、球団を側面からサポートした。 松木謙治郎が退団するときに阪神軍に助監督として入団するつもりだったが、阪神本社側の反対で選手として1942年10月登録された。翌1943年オフに退団。誰にでも食ってかかる事から「ケンカ大橋」の異名を持ち、ベンチではヤジ将軍として有名だった。
大沢 一郎(大澤 一郎、おおさわ いちろう、1910年(明治… 大沢 一郎(大澤 一郎、おおさわ いちろう、1910年(明治43年)6月9日 - 1986年(昭和61年)9月12日)は、日本の検察官、弁護士。検事総長。 大阪市出身。第四高等学校を経て、1932年京都帝国大学法学部を卒業。司法官試補となり、法務省矯正局長、大阪地方検察庁検事正、最高検察庁刑事部長、法務事務次官、最高検次長検事、東京高等検察庁検事長などを歴任。 1973年2月2日、検事総長に就任。在任中、日教組ゼネスト事件、協同飼料株価不正操作事件、石油ヤミカルテル事件などを指揮した。 1975年1月25日、検事総長を勇退し退官した。その後、ロッキード事件で偽証罪に問われた小佐野賢治の弁護団に加わった。
荻原 利次(おぎはら としつぐ、1910年6月6日 - 19… 荻原 利次(おぎはら としつぐ、1910年6月6日 - 1992年6月14日)は、日本の作曲家である。 大阪府に生まれる。15歳よりヴァイオリンを辻吉之助に学び、1929年(昭和4年)兵庫県甲陽中学校卒業後、日本大学国文科に籍を置くも、1933年(昭和8年)12月には中途退学した。1931年(昭和6年)から1932年(昭和7年)の間松平頼則についてピアノおよび作曲法を学び、1932年(昭和7年)自作室内楽発表会を開催後、1934年(昭和9年)には石田一郎、落合朝彦と共に独立作曲科協会を設立し、2回の発表会を行う。 1936年(昭和11年)、日本現代作曲家連盟に入会し、同年11月に上海に渡航してアレクサンドル・チェレプニンに師事して約4ヶ月間作曲法を学び、1942年(昭和17年)まで教示を受けた。
落合 正義(おちあい まさよし、1910年6月3日 - 19… 落合 正義(おちあい まさよし、1910年6月3日 - 1939年12月30日)は、日本の陸上競技選手。 現在の島根県安来市広瀬町生まれ。浪華商業学校(現在の大阪体育大学浪商中学校・高等学校)卒業、明治大学に進む。 1932年の日本陸上競技選手権大会の男子ハンマー投で優勝。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、男子ハンマー投げで12位。ロス五輪で同じくハンマー投げ代表選手の長尾雄治も明治大学の学生で、古山一郎とともに「明大のハンマートリオ」と呼ばれていたという 明治大学卒業後は、名古屋市で運動公園管理者として働く。1938年9月、松江の歩兵第63連隊に入隊。日中戦争が勃発すると第110師団衛生隊陸軍上等兵として北支へ出征。
吉永 孝雄(よしなが たかお、1910年5月24日 - 19… 吉永 孝雄(よしなが たかお、1910年5月24日 - 1992年10月17日)は日本の文楽研究家、教育者。大阪府出身。 旧制大阪府立生野中学校、大阪高等学校から東京帝国大学に進み、国文学を専攻。浄瑠璃の研究で文学博士。 大阪府立大手前高等学校などで国語科教諭として教壇に立ち、大阪府立勝山高等学校教頭、大阪府立清水谷高等学校校長を務めた。 その傍ら、文楽の研究に取り組み、番付、ちらしなど興行関係資料、ビデオテープ、レコード、新聞・雑誌の記事切抜、写真など多数の資料を収集。その一部は、園田学園女子大学近松研究所に「吉永孝雄文庫」として寄贈されている。 後年は羽衣学園短期大学教授、学長となり、文楽の教育に従事。
外山 軍治(とやま ぐんじ、1910年〈明治43年〉3月24… 外山 軍治(とやま ぐんじ、1910年〈明治43年〉3月24日 - 1999年〈平成11年〉9月7日)は、日本の東洋史学者。大阪外国語大学名誉教授。位階は正四位。 1910年、大阪府大阪市で生まれた。本籍は徳島県板野郡土成町(現・阿波市)。大阪府立住吉中学校、大阪高等学校で学び、京都帝国大学文学部に進学。史学科(東洋史学専攻)で学び、羽田亨に師事した。1933年に卒業し、その後は羽田の指導の下、外務省文化事業部助成金を得て満蒙文化の研究に従事した。 戦後、大阪外国語大学教授に就いた。1962年に学位論文『金朝史の研究』を京都大学に提出して文学博士号を取得。1974年に大阪外国語大学を定年退官し、名誉教授となった。
丹羽 貴知蔵(にわ きちぞう、1910年 - 1992年)は… 丹羽 貴知蔵(にわ きちぞう、1910年 - 1992年)は、日本の金属学者。元北海道大学学長。
西田 太一郎(にしだ たいちろう、1910年(明治43年) … 西田 太一郎(にしだ たいちろう、1910年(明治43年) - 1982年(昭和57年)2月3日)は、日本の中国哲学者、法制史家。法学博士。京都大学名誉教授。第三高等学校、京都外国語大学教授。角川書店『新字源』編者の一人。 1910年、大阪府大阪市生まれ。1935年(昭和10年)、京都帝国大学文学部哲学科を卒業。大学では中国社会思想史および中国法制史を専攻した。 大学卒業後は、第三高等学校、京都大学に勤務。1962年(昭和37年)に「中国刑法史研究」を京都大学に提出して法学博士号を取得。1974年に定年退官し、名誉教授となった。その後も京都外国語大学教授として教鞭をとった。 中国思想史、中国法制史を専攻、『世界古典文学全集』『日本思想大系』等の訳注を担当した。
平岡 武夫(ひらおか たけお、1909年12月10日 - 1… 平岡 武夫(ひらおか たけお、1909年12月10日 - 1995年5月31日)は、中国哲学者、専攻は儒教経典の成立史的研究など。京都大学名誉教授。
飯田 しづえ(いいだ しづえ、1909年11月10日 - 2… 飯田 しづえ(いいだ しづえ、1909年11月10日 - 2003年3月30日)は、日本の政治家、市民活動家。大阪府内初の女性市議会議員として、1955年から7期、無所属の豊中市議会議員を務めた。 大阪府大阪市出身。大阪市電の車輌課の技手だった父松田信八、母志なの長女として生まれる。母方の姓である「中村」を継いで祖父の養女となった。1922年、大阪府立梅田高等女学校(1923年に移転し大手前高等女学校と改称)に入学、当時は女子が小学校を卒業して女学校へ行くことは珍しかったが、勉強好きの母の「受けるだけ受けさせてみたら」の一言で受験がかなったという。 女学校在学中に、新教育運動の流れをくむ国語教師や英語教師の影響を受けて映画や芝居に興味を持ち、次第に社会主義思想にも関心を寄せるようになった。
野間 光辰(のま こうしん、1909年11月7日 - 198… 野間 光辰(のま こうしん、1909年11月7日 - 1987年4月30日)は、日本の国文学者。号は般庵。京都大学名誉教授。専門は近世日本文学で、井原西鶴研究の第一人者。 大阪府出身。旧制浪速高等学校を経て、1933年、京都帝国大学国文科卒業。藤井乙男に師事。1949年、京都大学助教授となり、1951年、教授に昇任した。 1973年、定年退官し名誉教授、皇學館大学教授を1983年まで務めた。1981年勲二等瑞宝章受章。1987年4月30日叙正四位。 1974年、藤本箕山の『色道大鏡』を刊行した。実証的な学風で知られ、井原西鶴や近松門左衛門や曲亭馬琴の研究においても成果を残している。終生、羽織はかま姿で教壇に立ち、文人の風格を漂わせる名物教授だった。
上野 淳一(うえの じゅんいち、1909年11月1日 - 1… 上野 淳一(うえの じゅんいち、1909年11月1日 - 1997年10月19日)は、朝日新聞社の元社主。 朝日新聞社第3代社主・上野精一の息子であり、初代社主・上野理一の孫。岳父は三井財閥幹部の福井菊三郎。岳母の父は麻布中学校を創立した江原素六。息子は第4代社主の上野尚一。 北野中学校、広島高等学校 (旧制)、1934年京都帝国大学経済学部卒業。1937年に朝日新聞社に入社。戦後の1945年に戦争責任を明らかにするために退社。神戸商科大学事務局長、田中耕太郎最高裁判所長官の秘書官を務めた後、1952年に朝日新聞社に復帰した。1970年から社主となった。京都国立博物館評議員、仏教美術研究上野記念財団理事。
中川 順夫(なかがわ のりお、1909年9月5日 - 200… 中川 順夫(なかがわ のりお、1909年9月5日 - 2004年)は、日本の映画監督、脚本家である。伊世 亜夫の筆名も持つ。 1909年(明治41年)9月5日、大阪府に生まれる。 1926年(大正15年)、旧制・大阪府立今宮職工学校(現在の大阪府立今宮工科高等学校)を卒業、1930年(昭和5年)、新興キネマ演出部に入社した。1934年(昭和9年)、田坂具隆監督の『月よりの使者』に助監督としてついた後に、脚本部に異動した。1939年(昭和14年)、須山真砂樹監督の『泣き笑ひの天国』で脚本家としてデビューした。 その後、読売新聞社映画部、日本映画社に移籍し、ドキュメンタリー映画の製作に携わる。1940年(昭和15年)、『オモチャの科学』で監督としてデビューした。
前田 憲一(まえだ けんいち、1909年8月1日 - 199… 前田 憲一(まえだ けんいち、1909年8月1日 - 1995年10月14日)は、日本の電波工学者。学位は工学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授、元京都産業大学教授。 大阪府大阪市出身。 主に、電離層における電波の反射についての基礎研究を行った。なお、この研究成果は携帯電話に利用されている。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
仙石 永博(せんごく ながひろ、1909年4月20日 - 2… 仙石 永博(せんごく ながひろ、1909年4月20日 - 2001年1月20日)は、日本の経営者。住友倉庫社長、会長を務めた。大阪府大阪市出身。位階は従四位。 1934年に東京帝国大学法学部法科を卒業し、同年に住友倉庫に入社。1956年5月に取締役に就任し、1961年3月に常務、1966年11月に専務を経て、1970年11月には社長に就任。1976年6月に会長、1981年6月に取締役相談役を経て、1983年6月に相談役に就任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1974年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2001年1月20日肺炎のために死去。91歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
南部 知伸(なんぶ とものぶ、1909年4月18日 - 没年… 南部 知伸(なんぶ とものぶ、1909年4月18日 - 没年不明 )は、日本の経営者。 大阪府大阪市出身。1934年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に阪神電気鉄道に入社。1957年4月に阪神百貨店常務に就任し、専務を経て、1963年11月に社長に就任。1983年6月に会長に就任し、1990年6月には相談役に就任。1985年12月には大阪商工会議所副会頭に就任。 1981年11月に勲四等旭日小綬章を受章。
安井 琢磨(やすい たくま、1909年4月1日 - 1995… 安井 琢磨(やすい たくま、1909年4月1日 - 1995年12月17日)は、日本の経済学者、大阪大学名誉教授、東北大学名誉教授。経済学博士(1953年)。大阪府大阪市生まれ。
貴志 康一(きし こういち、1909年3月31日 - 193… 貴志 康一(きし こういち、1909年3月31日 - 1937年11月17日)は、大阪府吹田市、大阪市都島区、兵庫県芦屋市出身の作曲家、指揮者、ヴァイオリニスト。 母の実家である大阪府三島郡吹田町(現:吹田市)の仙洞御料屋敷西尾邸に生まれる。父方の祖父は代々式部卿を務め、後にメリヤス業で成功した裕福な大商家である貴志彌右衛門(松花堂弁当の考案者)という環境で育つ。小学校5年生の時に、芦屋市に転居。14歳より、神戸市の深江文化村でミハイル・ヴェクスラーに直接ヴァイオリンを師事。音楽理論と作曲法を当時、宝塚交響楽団の指揮を務めていたヨーゼフ・ラスカより学ぶ。16歳の時に、大阪で、ヴァイオリニストとしてデビュー。
井上 友一郎(いのうえ ともいちろう、1909年3月15日 … 井上 友一郎(いのうえ ともいちろう、1909年3月15日 - 1997年7月1日)は、大阪府出身の小説家。 大阪府西成郡中津町(後の大阪市東淀川区。その後大淀区を経て現・北区)生まれ。本名は友一。 商業学校在学中、野球と小説乱読で学業を怠け、そのために中退し、その後各中学を転々とする。1929年、関西大学第二商業学校を卒業し、1930年に早稲田大学専門部法科入学。1931年『森林公園』を発表して川端康成に認められる。また坂口安吾、田村泰次郎らとの同人誌『桜』で活動し、1934年「道化者」を発表。 1936年、早稲田大学仏文科卒業。同年「人民文庫」に参加。 「都新聞」記者となり、1938年特派員として中国戦線に従軍した。
小野木常(おのぎ つね/じょう、1909年2月21日 - 1… 小野木常(おのぎ つね/じょう、1909年2月21日 - 1991年2月19日)は、日本の法学者。専門は破産法。学位は法学博士(京都大学・論文博士・1947年)。大阪大学名誉教授。山田正三門下。弟子に中野貞一郎など。 大阪市出身。1932年京都帝国大学法学部卒、1947年 法学博士の学位を取得。広島地方裁判所検事局検事、京都大学法学部助教授、京都大学法学部教授、大阪大学法学部教授兼任(のち大阪大学専任)、1971年大学紛争により退職、名誉教授。
蒼井 雄(あおい ゆう、1909年1月27日 - 1975年… 蒼井 雄(あおい ゆう、1909年1月27日 - 1975年7月21日)は、日本の探偵作家(名前の読み方には「あおい たけし」説もある)。本名は藤田優三。 電力会社の技術者を本業とする寡作なアマチュア作家ながら、日本において初めて鉄道ダイヤを題材とした長編探偵小説『船富家の惨劇』(1935)を著したことで、日本の推理小説史に名を残している。戦後に鉄道ダイヤを用いた推理小説を書いた鮎川哲也や松本清張も、この作品に影響を受けたという。 F・W・クロフツやイーデン・フィルポッツなど、1920年代以来の欧米探偵小説界においてリアリズム指向を持った作家の影響を受け、当時の日本の探偵小説界では珍しくリアリティ重視の本格探偵小説を書いたが、その活動期であった1930年代から1940年代には、時期尚早と地味な作風のため広く受け容れられることはなかった。
伊藤 武雄(いとう たけお、1909年(明治42年)1月11… 伊藤 武雄(いとう たけお、1909年(明治42年)1月11日 - 1977年(昭和52年)9月16日)は、日本のドイツ文学者。 大阪府大阪市生まれ。1921年大阪市浪速区難波立葉尋常小学校卒業、1925年大阪府立市岡中学校4年修了、1928年第三高等学校文科乙類卒業、1931年東京帝国大学文学部独文科卒業。 1933年に宇都宮高等農林学校非常勤講師に就いたのを皮切りに、1934年に第八高等学校専任講師、1935年教授に就任し、1948年に名古屋大学に転じて文学部助教授、1958年教授に就任した。 1959年「ケラー叙事文学の研究」で名大文学博士。同著で中日文化賞受賞。1972年に定年で退官した後は名誉教授となった。
柴谷 貞雄(しばたに さだお、1909年1月2日 - 200… 柴谷 貞雄(しばたに さだお、1909年1月2日 - 2001年9月24日)は、日本の実業家。阪急電鉄の社長、会長を務めた。大阪府堺市出身。 東京大学法学部を卒業し、阪急電鉄に入社した。1978年、前任の森薫に続く「生え抜き」の社長に就任した。5期10年の在任期間中、1983年に日本の鉄道会社として初めて全駅に自動改札機を導入するなど革新的な経営を進め、「関西私鉄の雄」の基盤を強化した。社長在任中は阪急ブレーブスのオーナーでもあった(1980年夏から1988年)。 球団オーナー代行は山口興一(当時の阪急電鉄副社長で後に関西テレビ放送社長)、球団代表は岡田栄。阪急黄金期からの世代交代や年間観客動員の増加に向けてレディースデー、球場近辺の市民に対し感謝デーを設けるなどファンサービスを良くしてきた。