津田 一男(つだ かずお、1919年(大正8年)7月20日 … 津田 一男(つだ かずお、1919年(大正8年)7月20日 - 1984年(昭和59年)12月26日)は、日本のプロ野球記者、野球解説者。広島県広島市出身。 出身校は、広島県立広島第一中学校(広島一中。のちの広島県立広島国泰寺高等学校)→神戸高等商業学校(神戸高商。のちの神戸大学)。中学時代はは堅守の内野手として鳴らしたものの、親の反対により野球を断念。戦後の復員以降は、知人と乾物店を経営しながら、母校・広島一中などで野球のコーチを務めたり、実業団野球チームの全広島に参加していた。 1948年(昭和23年)に中国新聞社へ入社し、運動部記者となりプロ野球記者としての活動を開始。1949年(昭和24年)秋の地元球団・広島カープ(のちの広島東洋カープ)創設以降はカープの番記者として活動。
松山 納(まつやま おさむ、1919年7月13日 - 200… 松山 納(まつやま おさむ、1919年7月13日 - 2002年10月2日)は、日本のタイ語学研究者。東京外国語大学名誉教授。 1919年、広島県広島市生まれ。東京帝国大学を卒業。 太平洋戦争後の1950年、東京外国語大学インドシナ語学科助教授に就任。後に教授昇進。1983年に定年退官し、名誉教授となった。門下に岩城雄次郎がいる。 2002年10月2日、急性肺炎のため死去。
頼實 正弘(頼実 正弘、よりざね まさひろ、1919年6月2… 頼實 正弘(頼実 正弘、よりざね まさひろ、1919年6月21日 - 2024年4月7日)は、日本の化学工学者である。広島大学名誉教授。 広島大学学長、広島県立大学学長、比治山大学学長、日本伝熱学会副会長などを歴任した。勲二等旭日重光章受章。 広島県生まれ。1937年広島県立広島第一中学校(のちの広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1941年広島高等工業学校(のちの広島大学工学部)機械工学科卒業。 1943年東京工業大学(のちの東京科学大学)化学工学科卒業。東京工業大学の研究助手などを経て、1951年文部教官任官、広島大学講師。1955年広島大学助教授。 1961年には東京工業大学から工学博士の学位を取得。
山根 実(やまね みのる、1919年6月4日 - )は、広島… 山根 実(やまね みのる、1919年6月4日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。
黒田 三郎(くろだ さぶろう、1919年(大正8年)2月26… 黒田 三郎(くろだ さぶろう、1919年(大正8年)2月26日 - 1980年(昭和55年)1月8日)は、日本の詩人。 東大経済学部卒。戦後の『智恵子抄』とも言える恋愛詩集『ひとりの女に』(1954年)と、妻の入院中、父娘2人の生活をうたった絶唱『小さなユリと』(1960年)で現代詩を誰にもわかる平明なものにした。ほかに『時代の囚人』(1965年)など。 広島県呉市出身。呉海兵団の副団長であった父・勇吉(海軍兵学校第21期)の退役に伴い、3歳からは、父の故郷・鹿児島で育つ。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制) 、第七高等学校造士館 (旧制) を経て東京大学経済学部卒業。戦時中、会社から派遣されたり現地召集で南洋の島々で過ごした。
伊予本 桃市(いよもと ももいち、1919年(大正8年) -… 伊予本 桃市(いよもと ももいち、1919年(大正8年) - 1974年(昭和49年)9月)は、日本の囲碁棋士。広島県出身、瀬越憲作門下、日本棋院所属、名誉八段。日本棋院中央会館の経営に携わり、国際囲碁協会を設立。会館の運営を巡って訴訟となり、日本棋院から退隠した。 広島県生口島に生まれる。1933年(昭和8年)瀬越憲作に入門。1935年初段。大手合で1941年前期、1943年前期第二部優勝。1952年五段。1954年六段。 1954年丸の内に日本棋院中央会館(館長岩本薫)が設立され、棋院と独立した中央会館運営委員会が運営に当たることとなると、運営委員となって運営に専念し、同年11月に開館となる。
田川 豊(たがわ ゆたか、1918年11月30日 - 198… 田川 豊(たがわ ゆたか、1918年11月30日 - 1981年8月22日)は、昭和中期から後期(1940年代後半~1970年代)のプロ野球選手・プロ野球審判員。
塚本 博睦(つかもと ひろよし、1918年10月14日 - … 塚本 博睦(つかもと ひろよし、1918年10月14日 - 2009年8月20日)は広島県呉市出身のプロ野球選手(外野手。主に中堅手)・野球指導者・監督。
児島 泰彦(こじま やすひこ、1918年(大正7年)9月1日… 児島 泰彦(こじま やすひこ、1918年(大正7年)9月1日 - 1945年(昭和20年)6月12日)は、日本の水泳選手。ベルリンオリンピック100メートル背泳ぎに出場。
村上 正名(むらかみ まさな、1918年6月26日 - 20… 村上 正名(むらかみ まさな、1918年6月26日 - 2002年2月9日)は、日本の教育学者、郷土史家。元広島大学附属福山中学校・高等学校教諭。勲四等旭日小綬章受章。後に従四位に叙せられた。 「東洋のポンペイ」と呼ばれる草戸千軒遺跡の発掘に尽力した。個人的な調査と資料をもとに草戸千軒集落の発掘と保存を粘り強く行政に訴えつづけ、1961年に福山市が行った発掘調査に続き、1973年に広島県により調査所が、1976年調査研究所を発足させるに至った。これ以降、1990年までに行われた全面的な調査と研究が継続され、草戸千軒遺跡の全貌が明らかになり、広島県立歴史博物館の創設をもたらすことにもなった。 また、姫谷焼について、日本陶磁協会誌『陶説』を場として、当時まだ地方窯(じかたよう)としか見られていなかった色絵姫谷焼の貴重性を広く世に広めた。
迫 幸一(さこ こういち、1918年6月20日 - 2010… 迫 幸一(さこ こういち、1918年6月20日 - 2010年10月29日)は、日本の写真家。 1918年(大正7年)、広島県呉市吉浦町に生まれる。1938年(昭和13年)、広島県立広島工業学校(現・広島県立広島工業高等学校)機械科を卒業した。1945年(昭和20年)、東洋工業勤務当時に広島市内で入市被爆する。 1952年(昭和27年)、『アサヒカメラ』に年間初入選する。1954年(昭和29年)には二科展に初めて入選し、以降も連続して入選した。1955年(昭和30年)、西ドイツの「国際主観写真展」に出品。 1957年(昭和32年)、オランダ美術館の「世界写真展」に出品する。1959年(昭和34年)にはニューヨーク近代美術館に出品後、5点が同館の永久保存対象となった。
小畑 実(おばた みのる、1918年6月7日 - 1986年… 小畑 実(おばた みのる、1918年6月7日 - 1986年5月1日)は、日本の元サッカー選手、元サッカー指導者。広島県出身。慶應義塾大学卒。 元日本代表FW。元東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)監督、元同チーム総監督。 1936年(昭和11年)、広島一中(現広島国泰寺高校)が全国中等学校蹴球選手権大会(現全国高校サッカー選手権)で初優勝を果たした時の左インナー(FW)。1937年(昭和12年)卒業。同年度卒に、久保道正(第一産業創業者)、藤田一暁(フジタ社長)、頼實正弘(広島大学学長)などがいる。 二宮洋一、津田幸男らとともに、戦前の慶應義塾大学体育会ソッカー部黄金時代の左インサイドとして活躍した。
大村 筆雄(おおむら ふでお、1918年4月10日 - 20… 大村 筆雄(おおむら ふでお、1918年4月10日 - 2008年9月29日)は、日本の大蔵官僚。 広島県福山市三之丸町生まれ。広島県立福山誠之館中学校から第六高等学校(文科乙類)に入学。六高時代は柔道部に入部。官僚の道を選ぶべく東京帝国大学法学部を目指し、1938年に入学。東京帝大法学部法律学科3年次の1940年10月に高等試験行政科及び司法科を合格。東京帝大法学部法律学科を卒業し、1941年 大蔵省に入省し、国民貯蓄奨励局に配属された。8か月の勤務の後、広島の部隊に陸軍二等兵として入隊。1944年3月 パラオ諸島の中心コロール島に着任した。米軍の攻略目標から外れた大村らの基幹部隊は、パラオ本島のジャングルの中で持久作戦に入る。
原 一朗(はら いちろう、1918年4月10日 - 戦死)は… 原 一朗(はら いちろう、1918年4月10日 - 戦死)は広島県出身のプロ野球選手。
佐藤 溪(さとう けい、1918年(大正7年)3月31日 -… 佐藤 溪(さとう けい、1918年(大正7年)3月31日 - 1960年(昭和35年)12月30日)は、日本の画家、詩人。本名は忠義。溪山人、忠石、教祖とも号する。 第二次世界大戦中は中国・東南アジアで従軍する。1945年に復員したのちは、後述の放浪中に作成された作品とは対照をなす、神秘的な油彩画を多く制作した。1955年から5年に渡り日本全国を旅し、昭和30年代の風景や人物を絵画に残した。水彩、フェルトペン、鉛筆等による多彩な画風が特徴である。1959年、旅先の沼津で脳卒中のため倒れ、翌1960年、両親の住む湯布院町で、「父母の後光見たり萩深し」という辞世の句を残し死去。 佐藤の作品の多くは、1991年7月に大分県大分郡湯布院町(現大分県由布市湯布院町)に開館した由布院美術館で展示されていたが、2012年3月に同館が閉館することに伴い、2013年1月からは大分県別府市にある国の登録有形文化財聴潮閣内に開設された佐藤溪美術館で展示されている。
升田 幸三(ますだ こうそう/ますだ こうぞう、1918年〈… 升田 幸三(ますだ こうそう/ますだ こうぞう、1918年〈大正7年〉3月21日 - 1991年〈平成3年〉4月5日)は、将棋棋士、実力制第四代名人。棋士番号18。 木見金治郎の弟子であり、木村義雄・塚田正夫・大山康晴と死闘を演じ、木村引退後は大山と戦後将棋界で覇を競った。昭和の将棋界で一番のスター棋士である。 名前の読みは「こうそう」であるが、将棋界では「こうぞう」で通した。 父栄一、母カツノの四男として生まれる。1932年(昭和7年)2月に「日本一の将棋指し」を目指して家出。家出の時に愛する母の使う物差しの裏に墨でしたためた「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら…」の文言は、後に現実のものとなる(詳細は後述)。
久保 道正(くぼ みちまさ、1918年〈大正7年〉3月16日… 久保 道正(くぼ みちまさ、1918年〈大正7年〉3月16日 - 1992年〈平成4年〉6月28日)は、広島県広島市出身の実業家。第一産業(後のダイイチ/デオデオ/エディオンWEST、現エディオン WESTカンパニー)創業者。現エディオン社長、サンフレッチェ広島会長・久保允誉は長男、上新電機取締役を経てエディオン専務取締役の浄弘晴義は次男。 広島県広島市大手町(現在の同市中区大手町)生まれ。久保家は代々江州屋の屋号で刀剣商を営んでいた。寺下辰夫の小説『サンパギタ咲く戦線で』に太平洋戦争中、陸軍報道班員として広島宇品港からフィリピンに向かう寺下、尾崎士郎、石坂洋次郎らが、その前日、今日出海の短刀を軍刀に拵えるため、ふと久保刀剣店に立ち寄り、刀が出来る間、店の二階で御馳走に与り、訣れの酒宴を行なったエピソードが書かれている。
カン・タガミ(Kan Tagami、漢字:田上 寛、1918… カン・タガミ(Kan Tagami、漢字:田上 寛、1918年2月21日 - 2005年11月24日)は、アメリカ合衆国の軍人。連合国軍占領下の日本において、ダグラス・マッカーサーの個人通訳を務め、昭和天皇と一人で謁見した唯一の日系2世として知られる。 また、樫葉章(英語版)付きの青銅星章をはじめとして、アメリカ従軍記章、アジア・太平洋従軍章(英語版)、進駐軍記章(英語版)、第二次世界大戦戦勝記念章、戦闘歩兵バッジ(英語版)、朝鮮従軍記章(英語版)、国土防衛従軍章、国連朝鮮戦争従軍章(英語版)、予備軍年功記章(英語版)、キャリア・インテリジェンス・メダル(英語版)など、全部で11の勲章を授与された。
松谷 健一郎(まつたに けんいちろう、1918年〈大正7年〉… 松谷 健一郎(まつたに けんいちろう、1918年〈大正7年〉1月1日 - 2002年〈平成14年〉10月23日)は、日本の実業家。元中国電力代表取締役社長、元中国経済連合会会長。 広島市生まれ。旧制広島高等師範学校附属中学、旧制広島高等学校を経て、1941年(昭和16年)京都帝国大学工学部を卒業し、海軍を経て、中国配電入社。 1975年(昭和50年)中国電力株式会社取締役総合企画室第一企画室長、1977年(昭和52年)中国電力株式会社常務取締役、1979年(昭和54年)中国電力株式会社取締役副社長、1981年(昭和56年)中国電力株式会社代表取締役社長、1987年(昭和62年)中国経済連合会会長、1989年(平成元年)中国電力株式会社代表取締役会長、1995年(平成7年)中国電力株式会社相談役。
山内 敕靖(やまうち ただやす、1918年〈大正7年〉 - … 山内 敕靖(やまうち ただやす、1918年〈大正7年〉 - 1983年〈昭和58年〉8月28日)は、日本の実業家。元広島ガス社長、元広島商工会議所会頭。 広島市出身。広島県立広島第一中学校を経て旧制広島高等学校に入学。旧制高校では松谷健一郎元中国電力社長、山本朗元中国新聞社社長、永野厳雄元広島県知事らと同期で、友人だった。旧制高校では寮委員を務め留年したが、非常に人望があった。 旧制高校を卒業後は九州帝国大学工学部に進学、卒業後は住友金属工業に入社するも間もなく海軍に応召。終戦により復員するも、財閥解体により復職できず、四国ガスに勤務した後、1947年(昭和22年)、実父が重役をしていた広島ガスに入社。
大塚 全教(おおつか ぜんきょう、1918年 - 2007年… 大塚 全教(おおつか ぜんきょう、1918年 - 2007年10月29日)は、真言宗の尼僧、身体障害者。 広島県福山市出身。4歳でポリオ(小児まひ)となり、右腕と左肩から肘にかけて不自由となった。1939年大石順教に師事して1943年に出家得度、勧修寺境内で大石と暮らした。大石の設立した身体障害者自立支援団体「この花会」を引き継いだほか、自らも左足で書や絵画の創作活動を続けた。世界身体障害者芸術家協会名誉会員。 2007年10月29日、局所性腹膜炎のため死去。
正木 智海(まさき ちかい、1917年(大正6年)9月30日… 正木 智海(まさき ちかい、1917年(大正6年)9月30日 - 1991年12月8日)は、日本の洋画家。広島県大竹市生まれ(実家:智海山西念寺)。 福岡県八幡中学校卒業、広島県宮島駅に勤務しながら、野口弥太郎に師事を仰ぐ。 1934年、第2回西日本美術展に最年少17歳(当時)で入選。 1937年、広島県美術展入選。 1938年6月4日、中支派遣井上剛部隊として渡支。その後、華中鉄道会社営業課宣伝に勤務。 この時期、彫刻家石井鶴三、日本画家小杉放庵、田中青坪の知遇を得ると同時に、1936年以来に独立美術展への出品を続ける。 1940年、第11回独立美術展に西日本地区としては最年少(当時)で入選を果たす。
島田 虔次(しまだ けんじ、1917年(大正6年)8月12日… 島田 虔次(しまだ けんじ、1917年(大正6年)8月12日 - 2000年(平成12年)3月21日)は、日本の東洋史学者。京都大学名誉教授。1940年代から中国近世・近代思想史の研究を続け、その後の日本の研究を牽引した。 1917年、広島県三次市で生まれた。広島高等師範学校附属中学校(現:広島大学附属中学校・高等学校)、広島県立三次中学校(現:広島県立三次高等学校)、中華民国青島日本中学校を経て、1938年に第三高等学校文科丙類を卒業した。京都帝国大学文学部史学科で学び、1941年に卒業。 卒業後は長野県立野沢高等女学校(現:長野県野沢南高等学校)に勤務。1943年、東方文化研究所(現:京都大学人文科学研究所)助手に採用された。
安藤 良雄(あんどう よしお、1917年7月12日 - 19… 安藤 良雄(あんどう よしお、1917年7月12日 - 1985年5月6日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授、成城大学学長。 1917年、大蔵省の役人であった父の任地の広島市で生まれた。1935年3月、東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。旧制弘前高等学校に入学して学んだ。 1939年4月、東京帝国大学経済学部に入学し、土屋喬雄のゼミナールに学ぶ。1941年12月、東京帝国大学経済学部を卒業し、同大学助手となるが、1942年1月、応召。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、同年1月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年5月、経理学校を卒業し、1943年11月、主計大尉に進み、戦時中を通して海軍省に勤務し、戦時統制経済の実務に当たった。
奈良 友夫(なら ともお、1917年6月20日 - )は広島… 奈良 友夫(なら ともお、1917年6月20日 - )は広島県出身の元プロ野球選手、内野手。
門前 眞佐人(もんぜん まさと、1917年5月15日 - 1… 門前 眞佐人(もんぜん まさと、1917年5月15日 - 1984年2月22日)は、広島県三次市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。大阪タイガース契約第1号選手。「眞」が旧字体であるため、媒体によって門前 真佐人と表記される。 旧制広陵中学3年次に正捕手となる。強肩強打で鳴らし、4年次には豪打広陵の4番に座る。1934年は夏の選手権広島予選決勝で何度も苦汁をなめさせられた藤村富美男率いる呉港中学にまたも惜敗(2対3)。呉港中はこの年、田川豊・橋本正吾・保手浜明らを揃え、高い総合力で川上哲治らの熊本工業などの全国の強豪をまったく寄せ付けず圧勝し全国制覇、門前らは地団駄を踏む。門前が最上級となった1935年、今度は広陵が白石勝巳・岡田宗芳・海蔵寺弘司・戒能朶一・秋山正信・室脇正信ら7人がプロ入りするという強力打線を形成。
末岡 圀孝(すえおか くにたか、1917年2月1日 - 19… 末岡 圀孝(すえおか くにたか、1917年2月1日 - 1998年11月)は、広島県出身のサッカー選手。 広島一中時代は、センターフォワード(CF)だった。早稲田大学理工学部に進学してア式蹴球部に所属、高橋英辰らが同期であり、1938年の全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝メンバーに名を連ねている。また、1940年4月の全日本蹴球選手権大會(第20回天皇杯全日本サッカー選手権大会)では早大WMWのメンバーとして大会準優勝に貢献した。 また、大学在学中の1939年8月27日には関東州代表戦でサッカー日本代表として初出場。また、同年9月の日満華交歓競技大会および1940年6月の紀元二千六百年奉祝東亜競技大会に出場し、国際Aマッチ1試合を含む合計4試合に出場した。
保手浜 明(ほてはま あきら、1917年 - 没年不明)は広… 保手浜 明(ほてはま あきら、1917年 - 没年不明)は広島県出身の元プロ野球選手。
岡村俊民(おかむら としたみ、1916年(大正5年)11月1… 岡村俊民(おかむら としたみ、1916年(大正5年)11月15日 - )は、日本の農学者。学位は、農学博士(北海道大学・論文博士・1960年)。北海道大学名誉教授。元北海道拓殖短期大学学長。広島県出身。 1934年(昭和9年)広島県立広島第一中学校卒業。1941年(昭和16年)北海道帝国大学農学部農学科卒業。 間もなく兵役のため入隊。1946年(昭和21年)復員。 1947年(昭和22年)北海道帝国大学農学部助手。1949年北海道大学農学部付属農林専門部教授。酪農学園短期大学酪農科助教授を経て、1963年(昭和38年)帯広畜産大学畜産学部教授。1965年(昭和40年)北海道大学農学部教授。1973年(昭和48年)同附属農場長。
平 参平(たいら さんぺい、本名:橘高 文夫、別名:近松 小… 平 参平(たいら さんぺい、本名:橘高 文夫、別名:近松 小二郎、1916年11月10日-1986年9月14日)は、日本の喜劇俳優。吉本新喜劇の男優。広島県府中市中須出身。吉本興業所属。岡八朗、花紀京、山田スミ子、木村進、桑原和男らとともに吉本新喜劇の黄金時代を担った看板座長。
上田 定(かみた さだむ、1916年(大正5年)10月24日… 上田 定(かみた さだむ、1916年(大正5年)10月24日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍兵曹長。 広島県出身。上田は5人兄弟姉妹の長男であった。中学を卒業後、呉海兵団に入団し、水雷学校普通科、舞鶴防備隊潜水学校、水雷学校高等科を修卒業。術科学校の高等科を卒業した下士官は、日本海軍の実務を担う人材であったが、上田の高等科卒業時の成績は抜群であった。 1941年(昭和16年)9月、上田は帰省を許された。上田は発熱した状態で帰省したが、故郷は豪雨に見舞われ川が氾濫した状態であった。
外林 大作(そとばやし だいさく、1916年10月11日 -… 外林 大作(そとばやし だいさく、1916年10月11日 - 2012年4月2日)は、日本の臨床心理学者、横浜市立大学名誉教授。 広島県福山市生まれ。旧制広島県立福山誠之館中学校、旧制水戸高等学校を経て、1941年に東京帝国大学文学部心理学科を卒業。1949年東京学芸大学助教授、1950年横浜市立大学助教授、1951年ロール・プレイング療法を日本に導入。1956年教授。1982年定年退官、名誉教授。1989年勲三等旭日中綬章受勲。
岡野 良定(おかの よしさだ、1916年9月10日 - 20… 岡野 良定(おかの よしさだ、1916年9月10日 - 2008年1月30日)は、実業家、元三菱自動車工業会長。サッカー選手、サッカー指導者、三菱重工業サッカー部(現:浦和レッズ)創設者、初代監督。選手時代のポジションはフォワード。 広島県広島市白島(現:中区白島)出身。広島一中(現:広島県立国泰寺高校)、広島高等学校卒業。一中時代からサッカー一筋で一中の2つ上の先輩にのちに東洋工業サッカー部を創設する山崎芳樹がいる。広高時代、1938年の第14回全国高等学校ア式蹴球大会では主将・フォワードとしてチームを優勝に導く。京都帝国大学経済学部進学後も蹴球部で活躍、1941年卒業。同年、三菱重工業入社。
奥原 義人(おくはら よしと、1916年〈大正5年〉9月9日… 奥原 義人(おくはら よしと、1916年〈大正5年〉9月9日 - 2001年〈平成13年〉11月19日)は、日本の実業家、政治家。元広島県呉市市長。呉信用金庫理事長。寿工業相談役。 広島県呉市出身。1931年、阿賀高小卒、同年に広島海軍第十一航空廠に勤務。1935年、東亜航空工業に転じ、のち取締役。 1945年、寿組社長。1946年、寿農機具製作所社長。1947年、奥原商店取締役。寿工業取締役、常務顧問をつとめた。 1951年、呉市議会議員に当選。1952年、同市議会議長。1961年11月に呉市長に当選。1978年、呉信用金庫入庫、同理事長。 趣味は囲碁、読書、ゴルフ。住所は呉市西中央5丁目。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
橋本 正吾(はしもと しょうご、1916年8月21日 - )… 橋本 正吾(はしもと しょうご、1916年8月21日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)。
藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1… 藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1992年5月28日)は、広島県呉市山手町出身のプロ野球選手・監督・解説者。
鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27… 鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、広島県呉市東二河通(現:西中央)出身 のプロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)」。
姿 節雄(すがた せつお、1916年 <大正5年> 5月15… 姿 節雄(すがた せつお、1916年 <大正5年> 5月15日 - 1999年 <平成11年> 2月18日)は日本の柔道家(講道館9段)。広島県神石郡神石町(現・神石高原町)古川出身。 子供の頃から柔道を始め(記録上の講道館入門は1932年4月で15歳の時)、1934年の3月に県立府中中学校を卒業する時には全国でも数少ない中学生での3段位に列せられた。 卒業後は上京して明治大学の専門部へ入学し、名人・三船久蔵の内弟子に。入学から3ヵ月後に4段、翌35年1月には2年生の弱冠18歳ながら5段に昇段して同年秋の講道館紅白試合では5段の部で5人抜きを達成している。 3年次の1936年4月30日に福岡市で開催された第1回全日本東西対抗大会(両軍32人ずつの抜き試合)には大会最年少選手として出場し、武専の名手・阿部謙四郎5段をあっさり横四方固で降したものの、続く南満州鉄道の加藤幸蔵5段には跳巻込で敗れた。
守分 勉(もりわけ つとむ、旧姓藤井、大正5年(1916年)… 守分 勉(もりわけ つとむ、旧姓藤井、大正5年(1916年)4月19日 - 平成12年(2000年)8月16日)は、日本の銀行家。元中国銀行頭取・会長。 中国地方各地で、税務署長を務めた地主藤井宇一郎の5男として、広島県深安郡千田村(現福山市)で生まれる。 京都帝大卒後、神戸海上保険勤務を経て守分家の婿養子となる。 1948年(昭和23年)中国銀行入行。支店長、役員等歴任。義父である守分十の死去に伴い、頭取に就任する。 頭取在任時は、自主健全経営を堅持したほか、時代に即応した経営戦略を打ち出し人事諸制度の整備、改革の実施、事務管理体制の強化、店舗網の整備拡充、総合オンライン体制への移行や相次ぐ関連会社の設立などの施策を講じた。
沢原 梧郎(澤原 梧郎、さわはら ごろう、1916年〈大正5… 沢原 梧郎(澤原 梧郎、さわはら ごろう、1916年〈大正5年〉3月14日 - 没年不明)は、日本の実業家、広島県多額納税者。辰栄工業会長。 広島県呉市出身。沢原亮吉の長男。沢原俊雄の孫。1941年、慶應義塾大学経済学部経済学科卒業。1948年3月より1952年3月まで呉市公安委員並びに委員長を務める。1963年7月より1978年7月まで広島県公安委員並びに委員長を務める。呉三田会会長を務める。 趣味は洋楽。宗教は真宗。住所は広島県呉市長ノ木町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
荒木 武(あらき たけし、1916年3月4日 - 1994年… 荒木 武(あらき たけし、1916年3月4日 - 1994年6月15日)は、日本の政治家、広島市市長(第27~30代)。
柿本 幸造(かきもと こうぞう、1915年11月30日 - … 柿本 幸造(かきもと こうぞう、1915年11月30日 - 1998年12月)は広島県(安芸高田市吉田町)出身の童画家。 「どんくまさん」シリーズ(蔵冨千鶴子作)の挿絵画家として知られる。1959年小学館児童文化賞受賞。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
半田 道玄(はんだ どうげん、大正4年(1915年)10月2… 半田 道玄(はんだ どうげん、大正4年(1915年)10月25日 - 昭和49年(1974年)4月13日)は、囲碁の棋士。広島県出身、鈴木為次郎名誉九段門下、日本棋院から関西棋院所属、九段。旧名は早巳。十段戦優勝、本因坊挑戦など。求道的な姿勢と、殿様碁とも言われた独特のゆったりした棋風で知られる。 広島県向島津部田生まれ、4歳で因島に移る。小学校入学頃に囲碁を覚え、1924年9歳で鈴木為次郎に入門するが、1か月で帰郷。1930年に大阪に移り、久保松勝喜代の研究会に参加するようになる。1934年入段し東京の大手合に参加。この頃、兄弟子の関山利一や、その弟子の梶原武雄らと研鑽する。1942年五段。1946年の第4期本因坊戦では予選を勝ち抜いて最終トーナメントに進出、初戦で藤沢庫之助八段に勝つが、2回戦で林有太郎七段に敗れる。
南 美江(みなみ よしえ、1915年〈大正4年〉10月5日 … 南 美江(みなみ よしえ、1915年〈大正4年〉10月5日 - 2010年〈平成22年〉8月6日)は、日本の女優。演劇集団 円所属。本名は南波 房江(なんば ふさえ)。 広島県広島市出身。神奈川県横浜市で育ち、横浜第一高等女学校(後の神奈川県立横浜平沼高等学校)を卒業後、宝塚音楽歌劇学校(後の宝塚音楽学校)に入る。 1933年、宝塚少女歌劇団(後の宝塚歌劇団)に入団し、『トウランドット姫』で初舞台を踏む。入団時の成績は76人中2位。23期生。 美空暁子の名で男役として活躍。愛称は「ナンちゃん」。 1941年、「戦時色が濃くなり、夢がなくなった」として退団。 かかり付け医が長岡輝子の知人だったことから、1942年に文学座研究生となり、南美江の名で、1944年に初舞台を踏んで以降、文学座で活動。
浜崎 忠治(はまざき ただはる、1915年9月28日 - 没… 浜崎 忠治(はまざき ただはる、1915年9月28日 - 没年不明)は、広島県呉市出身のプロ野球選手(投手、二塁手、三塁手)。パ・リーグ審判。
藤田 五郎(ふじた ごろう、1915年9月28日 - 195… 藤田 五郎(ふじた ごろう、1915年9月28日 - 1952年12月7日)は、日本の経済史学者。 広島県広島市生まれ。日本史学者・藤田精一の五男。1939年3月、東京帝国大学経済学部商業学科卒業。1940年福島高等商業学校助教授、翌年教授。戦後は福島大学商学部助教授になり、1951年には広島大学助教授に転じる。マニュファクチュア論を引き継ぎ、日本における封建制から資本主義への意向を論じた。1952年に「日本封建社会の経済的構造」により、東北大学から経済学博士の学位を授与されるが、同年に37歳で死去した。没後1953年『封建社会の展開過程』で毎日出版文化賞を受賞。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
前田 豊(まえだ ゆたか、1915年9月25日 - 1997… 前田 豊(まえだ ゆたか、1915年9月25日 - 1997年1月11日)は、日本のバレーボール選手(日本代表)、指導者。バレーボール日本男子代表監督、バレーボール日本女子代表初代監督、日本バレーボール協会副会長、国際バレーボール連盟(FIVB)副会長、アジアバレーボール連盟会長、日本体育協会理事、日本文化出版創業・社長など多くの要職に就き“バレー界の天皇”とも言われた。戦後日本のバレーボールの、国際舞台での活躍と底辺の広がり、両輪の発展に大きな役割を果たしたバレーボール指導者、日本のバレーボール育ての親。広島県佐伯郡廿日市町地御前(現廿日市市)出身。 全国家庭婦人バレーボール連盟(ママさんバレー)名誉会長を務めた前田琴子は妻、JOCマーケティング副委員長などを務めた元電通社員・前田実は長男、イトーヨーカドープリオール監督などを務めた前田健は三男。
海蔵寺 弘司(かいぞうじ こうじ、1915年9月20日 - … 海蔵寺 弘司(かいぞうじ こうじ、1915年9月20日 - 生死不明)は、広島県安芸郡府中町出身のプロ野球選手。 広陵中学校では1935年の第12回選抜野球大会にセンターとして出場し、準優勝メンバーとなる。 慶應義塾大学を経て1938年秋に南海軍へ入団。翌年のシーズン終了後に退団。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
正田 誠一(しょうだ せいいち、1915年〈大正4年〉5月1… 正田 誠一(しょうだ せいいち、1915年〈大正4年〉5月10日 - 1974年〈昭和49年〉10月11日)は、日本の経済学者。広島県安芸郡江田島村(後の江田島市)出身。原爆歌人として知られる正田篠枝の実弟。 広島県立第一中学校(後の広島県立広島国泰寺高等学校)、旧制広島高等学校を経て、九州大学法文学部経済学科を卒業。広島高時代は同校始まって以来の秀才との評判を得ていた。その後、日本鉄鋼連合会調査部、宇品内燃機有限会社、不二越鋼材株式会社の勤務を経て、1946年(昭和21年)に九州大学の講師に就任し、後に助教授、さらに教授に昇任した。 教授職においては工業政策や社会政策講座を担当する傍ら、九州の石炭産業の分析・研究に関する論文を多く執筆した。
松浦 卓造(まつうら たくぞう、1915年1月22日 - 1… 松浦 卓造(まつうら たくぞう、1915年1月22日 - 1977年3月11日)は、将棋棋士。八段。神田辰之助九段門下。広島県三原市出身。棋士番号なし。 商業学校を中退後にアマチュア強豪として活躍。 入門は遅く、27歳だった1942年に神田辰之助に入門。28歳で二段。 1944年に四段に昇段。 戦後の1946年の順位戦C級クラスに参加、10勝4敗の好成績で六段特進。以後トントン拍子にA級へ昇級。 晩年は病気のために休場する事がしばしばあり、第30期順位戦B級2組を休場したのが順位戦の最後となった。 主催者変更問題に伴う順位戦の中断期間の最中、1977年3月11日に現役死去。 研究熱心で、豪快な攻め将棋で知られる。