渡辺 うめ(わたなべ うめ、1907年3月23日 - 201… 渡辺 うめ(わたなべ うめ、1907年3月23日 - 2014年9月16日)は、日本(青森県青森市出身)の農民・人形作家。太平洋戦争中に転居した夫の故郷の但馬地方の農村風景や農作業をする人々を描写した人形を製作していた。
北海道大学:1,255人
渡辺 うめ(わたなべ うめ、1907年3月23日 - 201… 渡辺 うめ(わたなべ うめ、1907年3月23日 - 2014年9月16日)は、日本(青森県青森市出身)の農民・人形作家。太平洋戦争中に転居した夫の故郷の但馬地方の農村風景や農作業をする人々を描写した人形を製作していた。
救仁郷 繁(くにごう しげる、1907年3月6日 - 200… 救仁郷 繁(くにごう しげる、1907年3月6日 - 2001年5月26日)は、日本の翻訳家、経済学者。 北海道札幌市生まれ。北海道帝国大学農学部農業経済学科卒。1962年「西ドイツの農業経済」で北海道大学農学博士。ソ連の農業経済などに関する著作を翻訳した。
有末 四郎(ありすえ しろう、1907年1月1日 - 199… 有末 四郎(ありすえ しろう、1907年1月1日 - 1991年7月6日)は、日本の厚生官僚。医師。医学者、軍人。医学博士。専門分野は内科学。 北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の子として生まれる。1932年北海道帝國大學医学部卒業。1937年同大学院(旧制)修了。1937年同医学部助手。その後、兄たちが所属する日本陸軍の衛生局に入隊。軍医となる。1944年北海道帝國大學で「Allergenに関する研究」にて医学博士を受く。1945年終戦により日本陸軍を離任。最終階級は陸軍軍医大尉。 1946年厚生省に入省。その後、北海道旭川保健所長。国立北海道第二療養所(現国立病院機構北海道医療センター)所長。
徳田 御稔(とくだ みとし、1906年10月13日 - 19… 徳田 御稔(とくだ みとし、1906年10月13日 - 1975年1月29日)は、日本の動物学者。 兵庫県神戸市に生まれる。北海道帝国大学農学部を卒業後、京都帝国大学理学部大学院に進学、第1講座駒井卓教授の指導を受けた。大学院入学後から、日本および近隣の大陸や島嶼のネズミ類の分類・生物地理の研究を精力的に行い、1941年には日本動物学会賞を受賞した。しかし、第2次世界大戦後は進化学やルイセンコ論争への啓蒙的な活動が主となり、戦前・戦中に行ったネズミ類分類の研究には関与しなくなった。ルイセンコ派として佐藤七郎らと共に、獲得形質が遺伝することを薬剤耐性の獲得で説明しようと試みたが(「ヤロビ農法」も参照のこと)、駒井卓は反ルイセンコ派の急先鋒となっていった。
新保 幸太郎(しんぽ こうたろう、1906年9月26日 - … 新保 幸太郎(しんぽ こうたろう、1906年9月26日 - 2005年4月26日)は、日本の医学者。専門は病理学。学位は、医学博士(北海道帝國大學)。元札幌医科大学学長。 北海道瀬棚郡瀬棚町(現在の久遠郡せたな町)生まれ。1926年北海道庁札幌第一中学校卒業。北海道帝国大学予科修了。1933年北海道帝国大学医学部卒業。同医学部副手に就く。1936年同医学部助手。1937年同医学部講師。1938年同医学部病理学第一講座助教授。1944年樺太医学専門学校病理学講座教授。1946年樺太医学専門学校校長事務取扱。1950年札幌医科大学医学部病理学講座教授。1961年同附属癌研究所所長。1965年札幌医科大学学長に就任。
川端 清策(かわばた せいさく、1906年〈明治39年〉8月… 川端 清策(かわばた せいさく、1906年〈明治39年〉8月31日 - 1985年〈昭和60年〉4月11日)は、日本の植物学者。高崎経済大学学長、同教授、北海道学芸大学教授、道都大学副学長、同教授、理学博士(北海道大学)。 群馬県伊勢崎市出身。1924年茨城県立太田中学校(現・茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)卒。1924年群馬県佐波郡豊受尋常高等小学校代用教員、1926年北海道空知郡岩見沢町志文尋常小学校代用教員。軍隊に入隊を経て、1931年第二高等学校 (旧制)卒、1935年北海道帝国大学理学部卒業(恩師:山田幸男)。 1935年東海高等女学校(現茨城県立第二日立第二高等学校)教諭、1937年茨城県師範学校教諭。
坂本 直行(さかもと なおゆき、1906年〈明治39年〉7月… 坂本 直行(さかもと なおゆき、1906年〈明治39年〉7月26日 - 1982年〈昭和57年〉5月2日)は、北海道出身の画家。北海道開拓民。郷士坂本家8代当主。「直行」を音読みした「ちょっこう」で知られる。 討幕運動の立役者として知られる坂本龍馬は、直行の祖父・坂本直寛のおじになる。龍馬の姉・高松千鶴が、直行の曽祖母となる。 1906年、のちに郷士坂本家7代当主となる坂本弥太郎(木材商社であるKing & Schulze商会釧路支店(本社 函館市 1910年設立)が発祥の坂本商会代表)・直意夫妻の次男として現在の釧路市で出生。1911年に郷士坂本家5代当主の坂本直寛(母・直意の父で、直行の祖父)が死去、1913年釧路大火で自宅家財を焼失し直寛の経営していた農場の施設の管理・処分のために、坂本家は1914年に札幌区に転居し、札幌二中(現・札幌西高)に通った。
長野 泰一(ながの やすいち、1906年〈明治39年〉6月2… 長野 泰一(ながの やすいち、1906年〈明治39年〉6月22日 - 1998年〈平成10年〉2月9日)は日本のウイルス学者。東京大学教授。元日本ウイルス学会会長。三重県尾鷲市出身。 1954年、生体における抗ウイルス免疫の研究中にウイルス増殖を抑制するサイトカインであるインターフェロンを、世界に先駆けて小島保彦とともに発見した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
牧野 佐二郎(まきの さじろう、1906年6月21日 - 1… 牧野 佐二郎(まきの さじろう、1906年6月21日 - 1989年8月6日)は、日本の細胞遺伝学者。癌や染色体の研究で優れた業績を残した。北海道大学名誉教授。 千葉県成田市出身。1930年(昭和5年)北海道帝国大学農学部染色体学科卒業。 1932年(昭和7年)7月、自分の体に縄をつけて船上から倶多楽湖に潜り、エゾサンショウウオの幼形成熟個体を採集した。エゾサンショウウオの幼形成熟は1919年に発見されていたが、標本が残っておらず、牧野が獲たものが2020年の再発見まで唯一の標本となっていた。 1940年(昭和15年)「ハツカネズミ属の細胞学的研究」で理学博士。1947年(昭和22年)北海道帝大教授となり、山階鳥類研究所研究員、のち国立遺伝学研究所研究員を兼任。
中島 武(なかじま たけし、1906年(明治39年) - 1… 中島 武(なかじま たけし、1906年(明治39年) - 1980年(昭和55年)) は、橋梁技術者。世界で初めて鉄筋コンクリートローゼ橋を設計した。 北海道札幌市の出身。北海道大学卒業後、内務省に入省し、茨城県・岐阜県道路技師を経て、長野県道路技師に1934年(昭和8年)から1937年(昭和12年)に赴任。この間に田中豊に出会い、鉄筋コンクリート下路アーチ橋としては、ローゼ橋が最適との確信を強めるに至り、大手橋を設計した。1937年(昭和12年)には新潟県に転任するも『鉄筋コンクリートローゼ桁』を1940年(昭和15年)に出版し、長野県内に鉄筋コンクリートローゼ橋が数多く生まれる要因となった。
安 相漢(アン・サンハン、朝鮮語: 안상한/安相漢、1906… 安 相漢(アン・サンハン、朝鮮語: 안상한/安相漢、1906年 - 1979年7月16日)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。本貫は順興安氏(朝鮮語版)。 江原道横城郡出身。北海道帝国大学水産科卒。水産関係の官吏生活を18年間送った後、江原道江陵郡注文津副邑長、麗水水産大学(現・全南大学校麗水キャンパス)学長、釜山水産大学(現・釜慶大学校)教授・副学長、水産中央会会長、済州大学校学長、自由党所属の第2代国会議員、順興安氏大宗会会長を務めた。第2代国会文教委員長として文化保護法案を多く提出・通過させた。 1979年7月16日、ソウル市永登浦区の自宅にて持病により死去、享年75。
富樫 凱一(とがし がいいち、1905年11月17日 - 1… 富樫 凱一(とがし がいいち、1905年11月17日 - 1993年4月21日)は、日本の土木工学者、建設官僚。東名高速道路の全線開通、本州四国連絡橋の完成などに尽力。文化功労者。 北海道旭川市生まれ。北海道帝国大学卒業。内務省に入り、関門国道改良事務所長、建設省道路局長、技監などを歴任し、1960年退任。1966年日本道路公団総裁、1967年土木学会会長、1970年本州四国連絡橋公団総裁。1978年海洋架橋調査会会長。 技術者として、関門トンネルの設計・建設や東名高速道路建設に一貫して尽力した他、本州四国連絡橋の児島・坂出ルート(瀬戸大橋)の建設に関しては、開発公団初代総裁として長大吊り橋を始めとする新技術の導入・開発に当たった。
橋本 作市(はしもと さくいち、1905年〈明治38年〉10… 橋本 作市(はしもと さくいち、1905年〈明治38年〉10月7日 - 1973年〈昭和48年〉5月27日)は、昭和時代の政治家。北海道留萌市長(2期)。 北海道出身。1929年(昭和4年)北海道帝国大学水産専門部卒業。留萌町に奉職し、資源課長などを歴任した。 その後、留萌町助役を経て、1947年4月、留萌町議会議員となり、翌月には副議長となる。同年10月留萌市発足により、留萌市議会議員、同副議長に就任した。1951年の留萌市長選挙に立候補したが、現職の原田太八に敗れ落選した。 1954年2月に前市長の原田太八が任期途中で辞職したことに伴う翌3月の市長選挙には橋本作市、小澤久吉、城川徹郎の3人が立候補し、橋本は初当選を果たす。
田口 啓作(たぐち けいさく、1905年(明治38年)6月7… 田口 啓作(たぐち けいさく、1905年(明治38年)6月7日 - 1991年(平成3年)6月10日)は、日本の農学者。農学博士(北海道大学・論文博士・1957年)。専門は作物育種学。北海道拓殖短期大学元学長。 東京府(現在の東京都)生まれ。1933年(昭和8年)北海道帝国大学農学部卒業。同年、同農学部助手。1940年宮城農学校助教授。その後、農林水産省東北農業試験場主任研究員を経て、1957年(昭和32年)北海道大学農学部教授。同学生部長。同農学部附属農場長。1969年北海道大学定年退官。同名誉教授。北海道拓殖短期大学教授。1975年北海道拓殖短期大学学長。1981年北海道拓殖短期大学退職。1991年6月10日、肺梗塞のため逝去。
山田 勝巳(やまだ かつみ、1905年 6月6日 - 197… 山田 勝巳(やまだ かつみ、1905年 6月6日 - 1970年)は、日本のノルディック複合、スキージャンプ選手。1932年レークプラシッドオリンピック日本代表。 北海道札幌市生まれ。北海中、北海道帝国大学農学部林学科卒業後、1929年に青森県の大鰐営林署へ就職。青森林友会所属で競技を続けた。 1932年レークプラシッドオリンピックスキージャンプで32位、ノルディック複合32位。 のちに鰺ヶ沢営林署をへて北海道庁へ異動。一方で全日本スキー連盟技術委員や複合部長などを歴任した。 理論家肌で逆転の発想をよくすることから””逆さん”の愛称で慕われた。
網島 毅(あみしま つよし、1905年(明治38年)6月2日… 網島 毅(あみしま つよし、1905年(明治38年)6月2日 - 1995年(平成7年)4月2日)は、昭和時代から平成時代の通信技術者。 北海道小樽市出身。1929年(昭和4年)北海道大学工学部を卒業、逓信省工務局に奉職。無線課長、電波局電波課長、電波局長、電波管理局長官を歴任。この間、1936年(昭和11年)ベルリンオリンピック開催に際した日独間無線写真伝送実験、航空無線用超短波全方向式ビーコンの発明考案などに貢献した。 行政面では、1937年(昭和12年)カイロで行われた国際電信電話会議及び国際無線通信会議に政府委員として出席したほか、1948年(昭和23年)メキシコシティの国際短波放送会議にはSCAP代表の技術顧問として赴き、日本に対する国際放送周波数の割り当ての原則の確認を得た。
伊藤 秀五郎(いとう ひでごろう、1905年(明治38年)1… 伊藤 秀五郎(いとう ひでごろう、1905年(明治38年)1月20日 - 1976年(昭和51年)2月22日)は、日本の生物学者・登山家・アルピニスト・エスペランティスト。専門は、生物学・山岳文学論。元札幌静修短期大学学長。日本山岳会名誉会員。 神奈川県横浜市出身。北海道帝國大學予科卒。北海道帝國大學農学部卒。卒業後は、東京帝國大學医学部助手をしながら、日本各地の山々を登る。1935年(昭和10年)にはペンシルベニア大学にも生物学の研究のため留学。 1947年北海道学芸大学教育学部教授に就任。1958年北海道学芸大学退官。北海道教育庁教育長に就任。1965年教育庁停年退官。札幌医科大学教授。1972年札幌医科大学退官。
河野 広道(こうの ひろみち、1905年(明治38年)1月1… 河野 広道(こうの ひろみち、1905年(明治38年)1月17日 - 1963年(昭和38年)7月12日)は、日本の昆虫学者、考古学者。 1905年1月17日、北海道史研究者の河野常吉の息子として生まれる。北海道帝国大学農学部にて、昆虫学を学ぶ。 大学卒業後の1930年に、北海道帝国大学農学部の助手として採用される。1932年、27歳の時に「日本産象鼻虫科ノ研究(独文)」により、農学博士の学位を授与される。 また、考古学などの研究も始める。1935年に、「貝塚人骨とアイヌのイオマンテ」の論文を発表し、縄文遺跡の貝塚は、ゴミ捨て場というよりは、アイヌ儀礼の「物送り場」という解釈を論じる。1944年、北海道帝国大学を退職。
名取 武光(なとり たけみつ、1905年〈明治38年〉1月1… 名取 武光(なとり たけみつ、1905年〈明治38年〉1月13日 - 1987年〈昭和62年〉10月3日)は、日本の考古学者。 1905年(明治38年)1月13日、長野県諏訪郡富士見村に生まれる。 1919年(大正8年)4月、長野県立諏訪中学校に入学する。 1925年(大正14年)4月、北海道帝国大学予科に入学し、卒業後の1928年(昭和3年)4月、同大学農学部生物学科に進学する。 大学卒業後の1931年(昭和6年)4月、同大学農学部付属博物館に就職する。また、同年12月26日、中山きよと結婚した。 1933年(昭和8年)、北海道史跡名勝天然記念物調査委員となる。 1949年(昭和24年)8月8日、北海道大学理学部助教授となる。
伴 素彦(ばん もとひこ、1905年1月1日 - 1998年… 伴 素彦(ばん もとひこ、1905年1月1日 - 1998年9月3日)は、1920年代に活躍した元スキージャンプ選手、実業家。後に全日本スキー連盟の会長を務めた。京都府出身。 父親の伴房次郎は小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)第二代校長(在職期間1921年11月28日-1935年4月2日) 京都府生まれで小学3年生の時父親の転勤に伴い小樽へ移り住んだ。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校) - 北海道帝国大学農学部 - 日本製粉(現・ニップン)株式会社。 1926年の第4回全日本スキー選手権ジャンプ競技優勝。 1928年のサンモリッツオリンピックにスキージャンプ日本代表として出場するが、コーチも通訳もいない孤独な参戦を強いられたことに加え、台の規模や技術、道具など何もかもが自分たちがやってきたことと違うことに戸惑い本来のジャンプが全く出来ず、転倒もあって(元々、伴は着地は得意な選手であった)最下位に終わった。
小川 譲二(おがわ じょうじ、1904年4月10日 - 19… 小川 譲二(おがわ じょうじ、1904年4月10日 - 1974年1月21日)は、技官官僚・工学者。北海道大学出身初の北海道開発局局長。学校法人北海学園理事長。また、北海道における治水事業の第一人者である。 北海道札幌市生まれ。1928年北海道帝国大学工学部土木工学科を第1期生として卒業。 北海道庁に入庁し、札幌治水事務所に勤務。その後、釧路土木事務所所長、帯広土木現業所所長、石狩川治水事務所所長、北海道電源開発推進部長等を経て、1951年総理府技官・北海道開発局初代建設部長、1957年北海道開発局二代局長。1959年停年退官。1960年富士セメント(現、日鉄住金セメント)コンクリート工場建設実施本部長。
高杉 年雄(たかすぎ としお、1904年(明治37年)3月2… 高杉 年雄(たかすぎ としお、1904年(明治37年)3月29日-1984年(昭和59年)1月6日)は、日本の医学者、学校経営者。医学博士(北海道帝国大学)。 青森県弘前市で出生後、北海道札幌に移住。1921年北海道庁立札幌第二中学校卒業。1928年(昭和3年)北海道帝國大学医学部卒業。1930年同医学部助手。1933年北海道帝国大学にて論題「沃度代謝と消化器との関係」にて医学博士受く。1933年北海道帝国大学医学部第二内科講師。1934年同医学部第二内科助教授。1947年北海道大学医学部内科学第三講座初代教授及び北海道大学病院医科第三内科長に任命される。1955年(昭和30年)北海道大学医学部附属病院院長。
新井 耕吉郎(あらい こうきちろう、1904年〈明治37年〉… 新井 耕吉郎(あらい こうきちろう、1904年〈明治37年〉2月26日 - 1946年〈昭和21年〉6月19日)は、日本の農業技師。群馬県利根郡東村園原(現在の沼田市利根町園原)出身(昭和42年に勲五等瑞宝章叙勲)。 日本統治下の台湾において紅茶の栽培に尽力したことで知られる。その紅茶各種の研究・普及活動で台湾紅茶産業の発展に大きく寄与したことから「台湾紅茶の父」または「台湾紅茶の祖」と呼ばれている。 1921年、旧制沼田中学校(現在の群馬県立沼田高等学校)を卒業後、1925年、北海道帝国大学農学部農学実科を卒業。一年志願兵(幹部候補生)として歩兵第59連隊(宇都宮)で軍隊生活を送る。満期除隊後の1926年に台湾に渡り台湾総督府中央研究所平鎮茶業試験支所に助手として赴任。
三浦 敬三(みうら けいぞう、1904年(明治37年)2月1… 三浦 敬三(みうら けいぞう、1904年(明治37年)2月15日 - 2006年(平成18年)1月5日)は、日本のプロスキーヤー。 青森県青森市生まれ。青森県立第三中学校(現 青森県立青森高等学校)、北海道帝国大学(北海道大学)農学部卒業。 北大在学中に八甲田山での山スキーに魅せられ、卒業後、青森営林局に勤務。八甲田のフィルム記録にスキー滑降で参加した。青森林友スキー部に所属し、選手、監督、部長を経験した。全日本スキー連盟の技術委員を務めたこともある。 1955年(昭和30年)、51歳で青森営林局を退職し、東京都練馬区に移住。この頃から海外の山々で多くのスキー滑降を行った。また、山岳カメラマンとしても、数々の実績を残し、イタリア山岳写真ビエンナーレ展において、ピトリオ・セラ賞とバダカップ賞を受賞する。
村田 喜一(むらた きいち、1904年(明治37年) - 1… 村田 喜一(むらた きいち、1904年(明治37年) - 1987年(昭和62年))は、日本の農学者・水産学者・栄養学者。農学博士(北海道帝國大学)。医学博士(大阪帝國大学)。北海道大学名誉教授。元函館大学学長。石川県河北郡津幡町出身。 専門は食品衛生学。また、畜産学や水産食品化学の第一人者として知られ、各種ミルクの成分分析と水産皮革の実用化に貢献、特に急速皮革なめし法の研究は高く評価されている。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
田村 正(たむら ただし、1904年(明治37年) ‐ 19… 田村 正(たむら ただし、1904年(明治37年) ‐ 1986年(昭和61年)2月8日)は、日本の農学者・水産学者。学位は、農学博士(北海道帝國大学)。専門は灌水増殖学。北海道大学名誉教授。函館短期大学学長。位階は従四位。新潟県出身。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
東海林 稔(しょうじ みのる、1903年〈明治36年〉11月… 東海林 稔(しょうじ みのる、1903年〈明治36年〉11月7日 - 1967年〈昭和42年〉10月1日)は、日本の地方公務員(群馬県庁職員)、政治家。日本社会党衆議院議員(4期)。 新潟県岩船郡瀬波町(現・村上市)出身。旧制新潟県立村上中学校(現・新潟県立村上高等学校)を経て、1927年(昭和2年)に北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業。 農林省に入り、台湾総督府技師・陸軍ジャワ司政官となり、ジャカルタ州経済部長となる。この時妻子を台湾に残した。戦後の1946年(昭和21年)に帰国。翌1947年(昭和22年)に群馬県庁に入り農地部長・経済部長などを歴任した後、1956年(昭和31年)に退職。
山田 忍(やまだ しのぶ、1903年(明治36年)10月23… 山田 忍(やまだ しのぶ、1903年(明治36年)10月23日 - 1996年(平成8年)5月18日)は、日本の農学者・地方公務員。学位は、農学博士(北海道大学)・理学博士(北海道大学)。帯広畜産大学名誉教授。また、専修大学北海道短期大学学長を務め、専修大学北海道短期大学の基盤創出に尽力した。山形県出身。 1927年(昭和2年)、北海道帝国大学農学部農芸化学科を卒業し、北海道庁に入庁。農産部農芸化学科長、北海道農事試験場根室支場長を経て、同中標津拓殖実習場長となる。1947年北海道庁を退官する。帯広農業専門学校教授・農学科長・附属農場長。1949年、学位論文「火山性地土性調査法と北海道に於ける火山性土壤」で北海道大学より農学博士の学位を取得、帯広畜産大学畜産学部教授に就任。
高倉 新一郎(たかくら しんいちろう、1902年11月23日… 高倉 新一郎(たかくら しんいちろう、1902年11月23日 - 1990年6月7日)は、日本の農業経済学者・歴史学者。北海道大学名誉教授。農業経済学・北海道史・アイヌ文化史で業績がある。 1902年、北海道帯広市で実業家・高倉安次郎の子として生まれた。札幌中学校(現北海道札幌南高等学校)で学び、1920年に北海道帝国大学入学した。農学部教授であった高岡熊雄に師事し、農政学植民学を学んだ。1926年、北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業。 卒業後は同年より、北海道帝国大学農学部副手に就き、1927年に助手、1936年に植民学講座の助教授に就任した。1945年、北海道帝国大学に学位論文『アイヌ政策史』を提出して農学博士号を取得。
東 隆(あずま たかし、1902年(明治35年)3月8日 -… 東 隆(あずま たかし、1902年(明治35年)3月8日 - 1964年(昭和39年)7月18日)は、日本の農協運動家、政治家。衆議院議員、参議院議員。 北海道上川郡東旭川村下兵村(現旭川市)で大分県から入植した屯田兵・東晋吾の三男として生まれる。旭川中学校を卒業し農業を継いだが、その後、勉学の道に進み北海道帝国大学予科に入学。1926年、同大学農学部農業経済学科を卒業。北海道庁技手に任官し、以後、農林主事、経済更生主任官、金融主任官、産業組合主任官、北海道農会幹事、同農業会専務理事、日本輸出農産物会社理事、同札幌支店長、肥料配給公団札幌支部長、北海道農業復興会議副議長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に北海道第一区から日本協同党所属で立候補して当選し衆議院議員を一期務め、国民協同党政策調査会副会長となった。
竹村 文祥(たけむら ぶんしょう、1902年1月10日 - … 竹村 文祥(たけむら ぶんしょう、1902年1月10日 - 1987年7月15日)は、日本の医師、性科学者、文筆家、翻訳家。 青森県出身。北海道帝国大学医学部卒。1933年「実験的腸閉塞論」で北大医学博士。今裕に師事。東京都立病院に19年間勤務。東京都立大塚病院副院長、城北診療所院長。医業のかたわら、戦後は性医学について多くの随筆的著作をなした。
長尾 正人(ながお せいじん、1901年10月21日 - 1… 長尾 正人(ながお せいじん、1901年10月21日 - 1986年10月1日)は、日本の植物育種学者。理学博士(京都帝國大學)。 香川県生まれ。1926年、北海道帝國大學農学部卒業。その後、北海道帝国大学農学部助手、京都帝国大学農学部助手、1933年には京都帝国大学にて「Number and behavior of chromosomes in the genus narcissus 水仙属植物における染色体の数並びに行動について」で理学博士受く。東京農業大学専門部専任講師を経て、1935年、北海道帝国大学農学部助教授。1939年、同農学部教授。1949年、北海道大学農学部教授。1961年、同農学部長。
古田島 薫平(こだじま くんぺい、1901年7月22日 - … 古田島 薫平(こだじま くんぺい、1901年7月22日 - 1989年8月23日)は、日本の政治家・実業家である。 元江別町議会議員・第7代江別町長・初代江別市長。関矢孫左衛門の孫。 1901年、新潟県北魚沼郡川口村(現・長岡市)で父の要次郎、母の田鶴の未子として生まれた。北海道帝国大学に入学し、農学を修め、1929年3月卒業と同時に、父の要次郎が1919年から社長を務めていた北越殖民社に入社し、東野幌の筋違に農場を開いた。 1934年には、冷水害対策の実現を国等に強く迫る地域の輿望を担って町議会議員に当選した。同年8月、薫平は殖民社の専務取締役に就任し、営農指導に力を注いだ。また、当時実用化の緒についていた町村敬貴創案の土管暗渠に着目し、社の渡辺楽治を介して教えを乞い、施工した。
御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 19… 御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 1984年10月12日)は、日本の実業家、医師。キヤノン創業者・初代社長。また、太平洋戦争以前は産婦人科医として御手洗産婦人科病院を開業。 名古屋大学名誉教授の御手洗玄洋や、キヤノン社長や日本経済団体連合会会長を務めた御手洗冨士夫は甥にあたる。 1901年、大分県南海部郡蒲江町(現・佐伯市)に生まれる。実家は代々医師の旧家。佐伯中学(現大分県立佐伯鶴城高等学校)を経て北海道大学予科に進学、恵迪寮の委員長をつとめる。1928年、北海道大学医学部卒業。上京して日本赤十字病院に勤務。731部隊の石井四郎と師を同じくする。 1933年11月、吉田五郎や内田三郎らの創設した精機光学研究所に共同経営者として参画。
渋沢 智雄(しぶさわともお、正字体:澁澤 智雄、1901年〈… 渋沢 智雄(しぶさわともお、正字体:澁澤 智雄、1901年〈明治34年〉3月5日 - 1947年〈昭和22年〉4月29日)は、日本の実業家。渋沢栄一 の孫にあたるが、 父・渋沢篤二が1913年に廃嫡されたため、本家とは別に分家筋として育った。兄に渋沢敬三(栄一の後継者)、次兄に渋沢信雄がいる。 1901年、3月5日に子爵・渋沢栄一の嫡男・篤二と妻・敦子の三男として東京府東京市深川区〈現在の東京都江東区〉に生まれる。 敦子の父(智雄の母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁である。子爵・渋沢敬三と渋沢信雄の弟にあたる。。 幼少期から身体が弱く、しばしば療養を要したと伝えられている。
真井 耕象(まない こうぞう、1901年3月3日 - 200… 真井 耕象(まない こうぞう、1901年3月3日 - 2000年2月16日)は、日本の土木工学者。北海道大学名誉教授。
林 文雄(はやし ふみお、1900年11月26日 - 194… 林 文雄(はやし ふみお、1900年11月26日 - 1947年7月18日)は、日本の医師。全生病院(国立療養所多磨全生園)、国立療養所長島愛生園、国立療養所星塚敬愛園(園長)に勤務し、国立療養所大島青松園で、病気療養をした。特に光田健輔を助け、光田反応を完成させた。クリスチャン、ヒューマニストであり、南九州、とくに奄美、沖縄のハンセン病患者救済に取り組み、理想の療養所建設に力を注いだが、志半ばで病に倒れた。 1900年11月26日、画家林竹治郎の息子として北海道札幌市に生まれる。1926年に北海道帝国大学医学部を卒業し、同年5月から全生病院に勤務。1930年、タイのバンコクで光田反応を名前をつけず発表。
稲村 順三(いなむら じゅんぞう、1900年9月30日 - … 稲村 順三(いなむら じゅんぞう、1900年9月30日 - 1955年2月21日)は、日本の農民運動家・政治家。衆議院議員(5期)。本名は「稲村 順蔵」、ペンネームは「村上 進」。 新潟県三条市出身。稲村道三郎の二男として生まれた。北海道帝国大学予科から東京帝国大学へ入学するが、兄・稲村隆一の影響を受け農民運動に関わるようになり大学を中退。1926年に労働農民党に入党し、雑誌「マルクス主義」の編集者。無産大衆党書記や社会大衆党書記を務め、1927年『労農』同人。1928年に日本大衆党に参加するが翌1929年5月21日に除名処分を受ける。1932年には秋田、新潟の農民運動に参加するも、1937年人民戦線事件で検挙され、釈放の後に帝国農業会嘱託や中央農会副参事として勤務する。
野口祥昌(のぐち よしまさ、1900年(明治33年)7月30… 野口祥昌(のぐち よしまさ、1900年(明治33年)7月30日 - 1970年(昭和45年))は、日本の農業経済学者。 茨城県出身。1918年(大正7年)茨城県立土浦中学校(後の茨城県立土浦第一高等学校)卒業。1927年(昭和2年)北海道帝國大学農学部農業経済学科卒業。同年、北海中学校(後の北海高等学校)教諭。1943年(昭和18年)札幌商業学校(後の北海学園札幌高等学校)教頭。1949年(昭和24年)北海学院兼任教授。1950年(昭和25年)北海短期大学開学に伴い北海短期大学経済科助教授。1959年(昭和34年)札幌商業高等学校(後の北海学園札幌高等学校)校長に就任。学校法人北海学園理事。1968年(昭和43年)上原轍三郎理事長の死去にともない暫定的に学校法人北海学園理事長事務取扱を兼任。
今井 三子(いまい さんし、1900年〈明治33年〉2月20… 今井 三子(いまい さんし、1900年〈明治33年〉2月20日 - 1976年〈昭和51年〉1月9日)は日本の植物病理学者、菌学者。 1900年(明治33年)2月20日に群馬県吾妻郡中之条町に生まれた。千葉高等園芸学校(現・千葉大学)在学中、同校で教鞭を執っていた菌類学者川村清一の影響を受け、1920年(大正9年)3月の卒業後、翌1921年(大正10年)10月に北海道帝国大学農学部農業生物科に進学した。1924年(大正13年)3月に同科を修了し、同年9月北大農学部で助手として伊藤誠哉および栃内吉彦の両氏に師事しつつ、学生の実験指導に携わった。1938年(昭和13年)には北海道に産するハラタケ科菌類に関する研究成果を『Studies on the Agaricaceae of Hokkaido. I & II』として発表し、同論文で農学博士を授与された。
岡井 正男(おかい まさお、1900年1月18日 - 没年不… 岡井 正男(おかい まさお、1900年1月18日 - 没年不明 )は農林技官。技官初の水産庁長官を務めた。退官後、極洋捕鯨副社長などに就任。 愛媛県出身。1922年、北海道帝国大学附属水産専門部(現北海道大学水産学部)卒業。水産庁次長を経て、1956年技官として初めて水産庁長官に昇格。1957年退任。1958年極洋捕鯨取締役。1959年極洋捕鯨専務取締役。1964年極洋捕鯨取締役副社長。日本鮭鱒資源保護協会会長なども務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
舘脇 操(たてわき みさお、1899年9月8日 - 1976… 舘脇 操(たてわき みさお、1899年9月8日 - 1976年7月18日)は、日本の植物学者。 神奈川県横浜市生まれ。1918年、北海道帝国大学予科入学。農学部に進み、植物学教室の宮部金吾に学ぶ。1924年同大学卒業。1933年農学博士取得、1945年理学博士取得。1935年北海道帝国大学助教授を経て1952年に北海道大学教授となり、1958年からは北海道大学附属植物園長を兼務した。1963年、定年により北大を退職した後は酪農学園大学、札幌商科大学教授を歴任。 植物分類地理学を専門とし、森林生態学に業績をあげた。1949年に北海道文化賞、1960年に日本農学賞、1972年に北海道新聞文化賞を受賞した。
山極 三郎(やまぎわ さぶろう、1899年(明治32年)5月… 山極 三郎(やまぎわ さぶろう、1899年(明治32年)5月15日 - 1993年(平成5年)5月18日)は、日本の動物学者・病理学者。専門は獣医病理学。農学博士。元帯広畜産大学学長。位階は従三位。父親は幻のノーベル賞受賞者といわれる山極勝三郎東大医学部教授(病理解剖学)。京都大学総長を務めた山極寿一は遠縁にあたる。 東京出身。1923年(大正12年)北海道帝国大学農学部卒。北大農学部畜産学科比較病理学教室では東大で父親山極勝三郎の研究を手伝い、父勝三郎と一緒に帝国学士院賞を受賞した市川厚一に学ぶ。1927年北海道大学 農学博士 「有尾類ノ尿生殖器系統」。 満鉄獣疫研究所研究科長を経て、1938年(昭和13年)同参事。
松澤 靖介(松沢、まつざわ やすすけ、1899年(明治32年… 松澤 靖介(松沢、まつざわ やすすけ、1899年(明治32年)4月16日 - 1959年(昭和34年)6月8日)は、昭和期の医師、政治家。参議院議員(1期)、医学博士。 山形県北村山郡長瀞村(東根町を経て現東根市または河北町)で、松澤幾太郎(後年、敬之と改名)の長男として生まれる。1926年(大正15年)北海道帝国大学医学部を卒業した。同年、同大学附属病院で勤務した。 1934年(昭和9年)至誠堂病院第4代病院長に就任。その他、山形県保険医指導委員長、同県社会保険審査会審査委員長、日本医師会代議員、同理事、第2代山形県医師会長、山県市医師会長、秋田鉄道医会副会長、山形県医療機関整備審議会会長、国民健康保険審査会委員長、山形県教育委員会委員長、都道府県教育委員会連絡協議会副会長、山形県打毬会会長などを務めた。
宮城 孝治(みやぎ こうじ、1898年11月24日 - 19… 宮城 孝治(みやぎ こうじ、1898年11月24日 - 1985年2月22日)は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長を務めた。 徳島県出身。1924年に北海道帝国大学農学部農業経済科を卒業し、同年に農商務省に入省。1944年5月に共栄火災海上保険に転じ、同年6月に常務、1947年3月に専務を経て、同年11月には社長に就任した。1964年6月には会長に退いた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1969年4月に勲四等旭日小綬章を受章した。 1985年2月22日、肝不全のために死去。86歳没。
内田 登一(うちだ とういち, 1898年1月15日-197… 内田 登一(うちだ とういち, 1898年1月15日-1974年8月17日)は、日本の昆虫学者。北海道大学名誉教授。専門はヒメバチ類の分類。農林害虫に関する論文も多数著し、昆虫生態学の研究をすすめ、指導的役割を果たした。 1898年(明治31)1月15日、埼玉県に生まれる。 1918年(大正7)北海道帝国大学予科に入学し、その後松村松年教授に師事、昆虫学を学ぶ。1924年(大正13)3月、北海道帝国大学農学部農業生物学科を卒業し、4月より同大学農学部助手となる。1930年(昭和5)5月、同大学農学部助教授となり、9月に農学の博士号を取得した。1935年には動物学昆虫学養蚕学の講座を担当している。
内田 正練(うちだ まさよし、1898年1月7日 - 194… 内田 正練(うちだ まさよし、1898年1月7日 - 1945年2月14日)は、日本の水泳選手。オリンピックに出場した日本最初の水泳選手の一人であり、日本でのクロール泳法の普及に尽力した。 静岡県浜松市に生まれる。内田家は浜松有数の名家で、父が産業家、母が産婦人科開業医師で、5人兄弟の二男であった。兄の内田千尋(東京帝国大学卒)が水府流太田派古式泳法の師範という環境で、内田も幼少時より水練に親しみ、古式泳法を習得した。 旧制浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)に入学すると、浜松中水泳部に属して水泳を研鑽した。内田は部員にとって憧れの存在であり、1学年後輩の田畑政治も内田に憧れた1人であった。
中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1898年 - 1975年)… 中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1898年 - 1975年)は、日本の化学者・農学者。農学博士(北海道帝國大學)。専門は、生物化学。北海道大学名誉教授・元北海学園大学教授。市立名寄短期大学元学長。北海道出身。 1922年北海道帝国大学農学部農芸化学科卒。同農学部助手を経て、1926年同農学部助教授(生物化学を担当)。1935年ドイツ・アメリカ合衆国に生物化学研究のため留学。 1942年北海道帝国大学農学部教授。1962年北海道大学停年退官。同名誉教授。北海学園大学教養部教授(物質科学・物質環境科学を担当)。1969年市立名寄短期大学3代学長に就任。1973年市立名寄短期大学学長退任。 1942年 北海道帝国大学より農学博士の学位を取得、論文の題は「澱粉より分離せられる新複糖類及びその構造並びにそれより導かれる澱粉分子の構成に対する考察」。
足立 仁(あだち まさし、1897年〈明治30年〉11月13… 足立 仁(あだち まさし、1897年〈明治30年〉11月13日 - 1978年〈昭和53年〉1月25日)は、日本の農学者・微生物学者。 1897年、東京府出身(北海道生まれ)。1921年(大正10年)に北海道帝国大学農学部農芸化学科卒業後、同大学助教授。台湾総督府高等農林学校教授などを経て、欧米遊学後の1928年(昭和3年)に台北帝国大学助教授に着任、1937年(昭和12年)同教授に昇任して務めた。ちなみに、台湾時代に住んでいた住居(台北市昭和町)は現在も同地で保存されており、レストラン「青田七六」として営業している。 戦後は、大阪府立大学や玉川大学などの教授を務めた。1965年に論文「Mikrobiologisch und Mikrobiochemische Untersuchungen uber die Rhizosphare der Kultur-pflanzen zur Verbesserung der Bodenfruchtbarkeit in den Tropen-und Subtropen-Bodenあ(熱帯及び亜熱帯における栽培作物の土地改良による根圏の微生物学的及び微生物化学的研究) 」を北海道大学に提出して農学博士号を取得。
犬飼 哲夫(いぬかい てつお、1897年10月31日 - 1… 犬飼 哲夫(いぬかい てつお、1897年10月31日 - 1989年7月31日)は、日本の動物学者。著書、研究論文等の名義はいずれも「犬飼哲夫」であるが、中学校卒業証書から学位記までの公文書では「犬飼哲男」と記載されている。 1897年、長野県に生まれる。北海道帝国大学農学部生物学科動物学分科に入学し、ヤツメウナギを研究対象とした発生学者の八田三郎(当初札幌農学校、東北帝国大学農科大学(北海道帝国大学農学部の前身)教授、北海道帝国大学農学部教授)の直系の弟子として、1920年代には発生生物学者であった。1930年頃に眼を痛め、これ以降は哺乳類を中心とした脊椎動物の応用動物学的な研究をおこなうようになる。