小室 等(こむろ ひとし、1943年11月23日 - )は、… 小室 等(こむろ ひとし、1943年11月23日 - )は、日本のフォークシンガーで、PPMフォロワーズ、六文銭のリーダー。フォーライフ・レコード初代社長。オフィス・キーズ所属。娘は歌手のこむろゆい。
多摩美術大学:486人
小室 等(こむろ ひとし、1943年11月23日 - )は、… 小室 等(こむろ ひとし、1943年11月23日 - )は、日本のフォークシンガーで、PPMフォロワーズ、六文銭のリーダー。フォーライフ・レコード初代社長。オフィス・キーズ所属。娘は歌手のこむろゆい。
菊地 信義(きくち のぶよし、1943年10月19日 - 2… 菊地 信義(きくち のぶよし、1943年10月19日 - 2022年3月28日)は、日本の装幀家(菊地は「装幀者」と称する)。東京都出身。 多摩美術大学を中退後、広告代理店に入社。大学1年のとき、モーリス・ブランショの『文学空間』で、装幀に魅了される。1977年に装幀家として独立後、2008年までに1万数千冊の装幀を手がけた。タイトルの文字をぼかしたりゆらぎを持たせたりするデザインや、著者名のローマ字表記など、さまざまな特徴的なデザインを考案した。1984年、装幀の業績により第22回藤村記念歴程賞を受賞。1988年、第19回講談社出版文化賞ブックデザイン賞を受賞。2019年、菊地を取り上げたドキュメンタリー映画『つつんで、ひらいて』が公開された。
味戸 ケイコ(あじと ケイコ、1943年9月27日- )は、… 味戸 ケイコ(あじと ケイコ、1943年9月27日- )は、日本のイラストレーター、絵本作家。 北海道函館市 で生まれる。遺愛女子高等学校を経て、1965年に多摩美術大学 デザイン科を卒業する。 大学卒業後は印刷会社デザインルーム、PR誌を作る制作会社に勤めるが、パニック障害を起こし自宅待機でカット描きを1年間行っていた。会社勤めが合わないことを自覚し、フリーのイラストレーターになる。 1971年、菊地信義の依頼で『月刊エレクトーン』(ヤマハミュージックメディア)創刊号から1年間の表紙イラストの発注を受け、本格的にデビューする。この表紙画がイラスト年鑑に掲載され、1973年に年鑑を見たやなせたかし、原田奈翁雄からそれぞれ雑誌『詩とメルヘン』(サンリオ)、雑誌『終末から』(筑摩書房)の表紙画の依頼が舞い込み、以後、各方面で活躍する。
青野 聰(あおの そう、1943年7月27日 - )は、日本… 青野 聰(あおの そう、1943年7月27日 - )は、日本の小説家、元多摩美術大学教授。 東京都世田谷区梅丘出身。文藝評論家青野季吉と松井松栄の三男として生まれる。季吉は妻みづほがいた。2歳で母を喪い、継母に育てられる。 世田谷区立世田谷小学校、世田谷区立桜木中学校を経て、1959年、早稲田大学高等学院に入学、小説を乱読、アメフト部に所属。 1960年青野家に入籍。1966年、早稲田大学第一文学部演劇専修科中退。ヨーロッパや北アフリカ諸国を放浪した後、1971年、「早稲田文学」誌上にてデビュー。 『母と子の契約』(『文藝』1978年11月号掲載)が1979年1月発表の第80回芥川龍之介賞の候補となり、新世代の作家として注目される。
石川 鷹彦(いしかわ たかひこ、1943年7月16日 - )… 石川 鷹彦(いしかわ たかひこ、1943年7月16日 - )は、北海道札幌市生まれの編曲家、ギタリスト、スタジオ・ミュージシャンである。 北海道札幌市生まれ。小学生のときに東京に移る。1968年に同じ多摩美術大学の小室等とともに六文銭を結成。その後吉田拓郎・かぐや姫・イルカ・アリスらの演奏を担当。1970年代のフォーク・ニューミュージックシーンにおいて多くの演奏を残し、編曲家としても数々のヒット曲を生み出した。 1992年にさだまさしのアルバム『ほのぼの』をプロデュースして以来、さだのサポートメンバーとしての活動が多かった。『第47回NHK紅白歌合戦』においても、さだのサポートメンバーとして出演した。 1996年9月から10月にかけて、NHK趣味百科「アコースティック・ギター入門」に加藤和彦とともに講師として出演。
新谷 雅弘(しんたに まさひろ、1943年 - )は、日本の… 新谷 雅弘(しんたに まさひろ、1943年 - )は、日本のエディトリアルデザイナー、アートディレクター。 大阪市立工芸高校、多摩美術大学グラフィックデザイン科卒業。多摩美術大学入学直後に装幀家の菊地信義と出会い、共同制作を繰り返したのち、たどり着いたのが本のデザインだった。卒業後は恩師の福田繁雄の紹介で、アド・センターに入社。グラフィックデザイナーで絵本作家の堀内誠一の助手となる。1970年、堀内誠一とともに雑誌「an・an」(平凡出版・現マガジンハウス)の創刊に参加し、170号まで携わる。1975年、「Made in U.S.A.1-2」(読売新聞社)、「POPEYE」(マガジンハウス)を1976年の創刊から80号まで手がける。
吉岡 栄二郎(よしおか えいじろう、1943年 - )は、日… 吉岡 栄二郎(よしおか えいじろう、1943年 - )は、日本の写真美術史研究家、著作家。東京富士美術館で写真部門の創設に関わり、研究部長も務めた。 多摩美術大学で写真美術史を学んだ。 1984年からシルクロードの経路にあたる各国を取材し、中華人民共和国建国後としては初めて、イスタンブールから西安に至る古代のシルクロードの踏破を実現した。 1991年から東京富士美術館の写真部門の創設に関わって、ロバート・キャパの全作品を含む多数の作品の収蔵にあたり、ニューヨーク近代美術館からも高く評価されるコレクションの形成を進めた。 研究部長となり、「CAPA's LIFE」(1998年)、「20世紀と人間・ロバート・キャパ賞展」(2000年)、「アンドレ・ケルテス写真展」(2004年)、「絵画と写真の交差・印象派誕生の軌跡」(2010年)など、多数の写真展の企画を手がけた。
湯村 輝彦(ゆむら てるひこ、1942年11月1日 - )は… 湯村 輝彦(ゆむら てるひこ、1942年11月1日 - )は、イラストレーター、デザイナー、漫画家、音楽評論家。ヘタウマなイラストと、スウィート・ソウルなどのR&Bや、Gラップのフリークとしても知られる日本グラフィック界のベテランである。東京都新宿区角筈(現在の西新宿)生まれ。ペンネームはTerry Johnson(テリー・ジョンスン)、ゴンゾ。また、かつては、「FLAMINGO TERRY」、「FRAMINA TERRENO GONZO」、「TERRINO FLAMINI' GONZAREZ」、「紅鶴照万太」などのペンネームも用いていた。愛称は「キング・テリー」(略して、「キンテリ」とも)。
関根 伸夫(せきね のぶお、1942年9月19日 - 201… 関根 伸夫(せきね のぶお、1942年9月19日 - 2019年5月13日)は、日本の現代美術家、彫刻家。多摩美術大学客員教授。埼玉県大宮市(現・さいたま市)生まれ。埼玉県と米カリフォルニア州に在住した。 1968年から1970年にかけて「もの派」をリードする作品を次々に発表。その後、「公共空間を活性化させるアート」に関心を移し、1973年、環境美術研究所を設立。東京都庁舎シティーホール前の《水の神殿》をはじめ、さまざまなモニュメントやプロジェクトを実現している。 1962年から1968年まで、多摩美術大学絵画科に在籍し、斎藤義重と高松次郎に師事する。 高松次郎のイリュージョニスティックな絵と立体作品は当時の東京のアートシーンで中心的な存在だった。
北原 健雄(きたはら たけお、1942年8月14日 - 20… 北原 健雄(きたはら たけお、1942年8月14日 - 2013年9月16日)は、日本のアニメーター。東京ムービーや日本アニメーションに所属していた。長崎県平戸市出身。 「北原 匠」「きたはら たてお」と表記されることもある。本名は「きたはら たけかつ」。 『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』ではキャラクターデザインや作画監督を務めた。その後も『シティーハンター』で名を残す。 長崎県立猶興館高等学校卒業後は絵の世界に入りたいと上京し、多摩美術大学油絵科を受験するも不合格、そのうち画家で生活していくのは「夢のまた夢」と認識するようになり、グラフィックデザイナーを目指そうと方向転換、東京ムービーにアルバイトで入社する傍らでデザインスクールにも通う。
清水 忠男(しみず ただお、1942年 - )は、千葉県千葉… 清水 忠男(しみず ただお、1942年 - )は、千葉県千葉市出身のデザイナー。アメリカの事務所や大学で勤務後、千葉大学工学部助教授に就任し、デザインスタジオTADを設立。2014年から金沢美術工芸大学の大学院専任教授を務める。千葉大学名誉教授。インテリアデザイン、環境デザインを専門にしている。 ほか国内外での受賞多数。 ほか著書・論文多数。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
舟橋 全二(ふなばし ぜんじ、1942年- 2023年12月… 舟橋 全二(ふなばし ぜんじ、1942年- 2023年12月19日)は、日本のイラストレーター、グラフィックデザイナー。イラストレーターのささめやゆきとは従兄弟関係。 1942年神奈川県生まれ。65年、多摩美術大学グラフィックデザイン科卒業。70年からカナダ、アメリカに移住。80年に帰国、以後フリー。TIS会員。 1968年、日宣美出品作品「チャップリン」にて特選受賞。この作品は、つや消し銀紙にシルクスクリーンで刷ったものであった。その後大塚清六の事務所でアシスタントをする。1970年にカナダへ。「デザイナーとしてやって行く前に、できたら2〜3年外国で暮らしてみたい」という単純な同期であった。カナダでデザイナーとして計7年過ごした後、映画監督のジョン・コーティーからアニメーションの仕事を誘われ、カリフォルニアに移る。
井手 三千男(いで みちお、1941年5月9日 - 2006… 井手 三千男(いで みちお、1941年5月9日 - 2006年6月26日)は、日本の写真家。 広島市安佐北区安佐町出身。多摩芸術学園(現 多摩美術大学)写真科卒業。 4歳の夏(1945年8月6日)、自宅から広島市に投下された原子爆弾のキノコ雲を見る。多摩美大卒業後、広島市で広告会社に勤務していたが、1968年写真家として独立。 広島市や原爆資料館が刊行した出版物の編集の大半に関わり、被爆の記憶を印画紙に残した。『図説戦後広島市史』ではB-29が原爆投下直後にキノコ雲を撮影した6,000m上空からの撮影に挑んだ。また、広島県の文化財の出版にも携わり、多くの文化財を空撮などの様々な手法で撮影した。原爆ドームと厳島神社の世界遺産登録時には公式写真も撮影している。
長濱 治(ながはま おさむ、1941年(昭和16年)4月24… 長濱 治(ながはま おさむ、1941年(昭和16年)4月24日 - )は、日本の写真家。 1941年名古屋市生まれ。多摩美術大学彫刻科で彫刻や絵画を学んでいたが、大学卒業後、将来を決めかねていたところ、高校の同級生で写真家の加納典明の勧めもあり、写真に興味を持ち、技術を勉強するため、1964年にアドセンターに就職。写真家・立木義浩の元でアシスタントを始め、写真の道を歩み始める。 1966年よりフリーランスに。1960年代末から70年代にかけて、『平凡パンチ』のカメラマンとして、海外のロック・フェスティバルなどカウンターカルチャー周辺を取材撮影するほか、ファッション、広告、ポートレートなどの分野でも幅広く活躍。
吉田 旺(よしだ おう、1941年2月6日 - )は、福岡県… 吉田 旺(よしだ おう、1941年2月6日 - )は、福岡県若松市(現北九州市若松区)出身の作詞家。旧名:吉田央。 なお、1960年から1968年にかけて、フジテレビのテレビドラマの専属演出家として活躍していた吉田央は同姓同名の別人。 多摩美術大学卒業後、広告代理店に2年間勤務。以降、フリーデザイナーと作詞の二足の草鞋を履く。そして、賞金の3万円とステレオの商品が欲しくて月刊「平凡」の募集歌に応募。ちあきなおみのデビューシングルである「雨に濡れた慕情」で吉田も作詞家としてデビューを果たす。 第14回日本レコード大賞を受賞した「喝采」を始めとして、ちあきなおみの楽曲の中でも数多くの作詞を担当している。
藤井 旭(ふじい あきら、1941年1月12日 - 2022… 藤井 旭(ふじい あきら、1941年1月12日 - 2022年12月28日)は、日本のイラストレーター、天体写真家。天文宇宙の魅力を広く伝え、多様な天文ファンを先導する存在として国際的に知られる。50年以上にわたって第一線で活躍を続けた。 山口県山口市に生まれる。父は岸信介と旧制山口中学校の同級生で、山口県庁の職員を経て釣具店を経営していた。子供の頃は流星観測をしていた。山口県立山口高等学校在学中に天文部を創設。山口高校卒業後は多摩美術大学デザイン科に進学し、1963年同校を卒業。少年マガジンなどの雑誌のイラストを描く仕事に就いていた。その後、東京の光害から逃れるために福島県郡山市に移り住み、それまでやっていたイラスト描きの仕事を辞めて、郡山名物である薄皮饅頭の製造会社に入社して饅頭づくりに励んだ。
長澤 英俊(ながさわ ひでとし、1940年10月30日 - … 長澤 英俊(ながさわ ひでとし、1940年10月30日 - 2018年3月24日)は日本の彫刻家。現在の中国黒龍江省生まれ。 父親が日本軍の軍医として勤務していた満洲国牡丹江省東寧(トウネイ―現在の中国吉林省東寧・トンニン)で生まれた。1945年の敗戦時、ソ連軍が満洲に侵攻してきたため、長澤と家族は、突然の引揚げを余儀なくされた。助産婦だった母親の実家のある埼玉県比企郡川島郷三保谷村(現在の川島町)に定住した長澤は、県立川越高校時代に数学と絵画に傾倒し、多摩美術大学に進学してからは1963年の卒業まで、建築とインテリア・デザインを学ぶかたわら、空手と徒歩旅行に打ち込んだ。その間、東京上野で毎年開催されていた読売アンデパンダン展などをとおして「グタイ」、「ネオダダ」など当時最先端の前衛動向に親しく接し、芸術の本質が物質・物体に記録されなくても行為と精神に宿るものであることを理解した。
大橋 歩(おおはし あゆみ、1940年6月16日 - )は、… 大橋 歩(おおはし あゆみ、1940年6月16日 - )は、日本のイラストレーター、デザイナー。週刊「平凡パンチ」の表紙のイラストを創刊号から担当したことで知られる。本名、石井久美子。夫は彫刻作家の石井厚生。 三重県津市出身。三重県立四日市高等学校卒業。1959年、多摩美術大学絵画科油絵専攻入学。大学3年生の時、河原淳のゼミナールに入る。 1963年、イラストレーターを目指していた大橋は、大学4年生の時に同級生の紹介でヴァンヂャケットにデザイン画を持ち込む。そのとき会ったのが石津謙介の長男で企画部長の石津祥介で、その場で「メンズクラブ」のイラストを依頼される。1964年1月、「メンクラ」3ページに初めてイラストが掲載される。
河口 龍夫(かわぐち たつお、1940年2月15日 - )は… 河口 龍夫(かわぐち たつお、1940年2月15日 - )は、日本の前衛美術、現代美術家。筑波大学名誉教授。 兵庫県神戸市出身。1958年に多摩美術大学(絵画科)に入学。卒業後は神戸を拠点に作家活動を開始。1965年にグループ<位>を結成。 1960年代から作品の発表を始める。関係をテーマに制作活動を実施。芸術表現を単にひとつのスタイルにすることや、視覚にのみ依存する芸術のあるように抗する芸術表現を模索し、作品を精力的に発表する。 1983年より筑波大学芸術学系助教授、1991年教授。2003年3月退官。筑波大学名誉教授。2003年4月より、京都造形芸術大学客員教授及び倉敷芸術科学大学教授。 2016年度毎日芸術賞受賞。
長岡 国人(ながおか くにと、1940年 - )は日本の画家… 長岡 国人(ながおか くにと、1940年 - )は日本の画家。現代版画家。 長野県に生まれる。多摩美術大学デザイン科を卒業し、1966年から1991年までベルリンに滞在。ベルリン市立アカデミーグラフィック専攻卒業。ベルリン国立芸術大学および大学院版画・絵画専攻修了。
堀内 紀子(ほりうち としこ、1940年 - )は、東京に生… 堀内 紀子(ほりうち としこ、1940年 - )は、東京に生まれカナダを拠点とする造形作家。 テキスタイル・アーテイストとして布の特質を分析する中で、布と人間の関わり合いに注目し、子供達が遊べる遊具としての作品(プレイ・スカルプチャー)を手掛けるようになる。結婚後はマッカーダム(MacAdam)姓でも活動する。 1940年東京に生まれ、幼少期を満州で過ごす。堀内家は代々医者の家系で3人の男兄弟はみな医者になっている。 東京都立日比谷高等学校を経て、1964年多摩美術大学テキスタイル科卒業。1966年ミシガン州のクランブルック・アカデミー・オブ・アート修士課程を修了。その後、ニューヨークのデザイン事務所でインテリア・ファブリック・デザイナーとして2年間勤務する。
岩倉 信弥(いわくら しんや、1939年11月25日 - )… 岩倉 信弥(いわくら しんや、1939年11月25日 - )は、多摩美術大学教授、立命館大学客員教授。経営学博士。 1939年、和歌山県和歌山市生まれ。多摩美術大学の美術学部に進み、図案科立体デザイン専攻する。1964年に卒業後、本田技研工業に入社。本田宗一郎に見出され、ホンダ車を多くデザインした。岩倉が担当した主な代表例として、初代シビック、アコード、オデッセイなどが挙げられる。 同社常務取締役(商品担当)を務めた後、1999年11月に退社。1999年6月から1.多摩美術大学美術学部の客員教授に就任した後、2001年4月から同大学の生産デザイン学科、プロダクトデザイン専攻の教授を務めている。 2004年3月に立命館大学より博士(経営学)を取得(論文タイトルは『ホンダにみるデザイン・マネジメントの進化』)。
安齊 重男(あんざい しげお、1939年3月27日 - 20… 安齊 重男(あんざい しげお、1939年3月27日 - 2020年8月13日)は、神奈川県厚木市出身の写真家、アート・ドキュメンタリスト。「現代美術の伴走者」を自称し、国内外の現代美術の現場を写真によって記録した。多摩美術大学客員教授。 1939年神奈川県厚木市生まれ。神奈川県立平塚高等学校の応用化学科を1957年に卒業し、1964年までは日本石油中央技術研究所に務めた。独学で美術に踏み入り、現代美術作家としての道を歩み始める。 転機は1969年、李禹煥の個展を準備中の画廊を訪問した時のことである。持っていたカメラで光景を撮影する姿を見た李が「みんなの展覧会の写真を撮ってくれないか」と声をかけ、以来、同年代の作家たちの作品を35mmフィルムカメラで記録するようになった。
頓所 修身(とんしょ おさみ、1939年2月20日 - )は… 頓所 修身(とんしょ おさみ、1939年2月20日 - )は、日本映画の美術デザイナー。岩手県出身。多摩美術大学洋画科卒業。東宝スタジオ所属。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
田辺 光彰(たなべ みつあき、1939年2月15日 - 20… 田辺 光彰(たなべ みつあき、1939年2月15日 - 2015年3月30日)は、日本の彫刻家。 1939年(昭和14年)、神奈川県横浜市生まれ。神奈川県立横浜翠嵐高等学校、多摩美術大学彫刻科を卒業後、イサム・ノグチと出会い、影響を受ける。巨大なステンレス鋼製のモニュメント作品を数多く手がけ、農業、野生稲、種の保全などをテーマに活動した。2015年(平成27年)3月30日、肺炎のため川崎市の病院で死去。76歳没。
平島 正一(ひらしま まさかず、1939年1月8日 - )は… 平島 正一(ひらしま まさかず、1939年1月8日 - )は、日本の元俳優。福岡県出身。 多摩美術大学附属芸術学園演技科卒業。1960年5月に劇団現代座に入団し、1961年11月まで在籍。1962年5月、劇団青年座に入団。その後は劇団現代に所属していた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
大野 美代子(おおの みよこ、1939年 - 2016年8月… 大野 美代子(おおの みよこ、1939年 - 2016年8月)は、日本の建築家・橋梁デザイナー。 株式会社エムアンドエムデザイン事務所(M+M Design Office)の主宰を務め、橋梁や道路、その付属施設の景観デザインなどを手がける。愛知県立芸術大学と東京工業大学の非常勤講師を歴任。 岡山県出身。1958年、岡山県立岡山朝日高等学校卒業。1963年、 多摩美術大学美術学部デザイン科卒業。
太田 幸夫(おおた ゆきお、1939年 - )は、日本のサイ… 太田 幸夫(おおた ゆきお、1939年 - )は、日本のサイン・デザイナー、グラフィックデザイナー。日本サイン学会元会長。愛知県刈谷市出身。 多摩美術大学教授を経て現在、太田幸夫デザインアソシエーツ代表、NPO法人サインセンター理事長。ISO国内委員会委員。企業のCI(シンボルマークとデザイン計画)やピクトグラム、公共の案内サイン等を設計するデザイナーであり、国際規格検討デザインである非常口サインをデザインしたことで知られる。
酒井 賢(、1938年〈昭和13年〉6月2日 - )は、日本… 酒井 賢(、1938年〈昭和13年〉6月2日 - )は、日本映画の美術監督。岡山県真庭郡新庄村出身。 地元の岡山県立勝山高等学校を卒業後、多摩美術大学卒業。1961年に、東宝へ入社。美術助手として、黒澤明、成瀬巳喜男、市川崑、岡本喜八、森谷司郎、熊井啓、降旗康男などの監督作品に参加した後、美術監督に移行する。『「さよなら」の女たち』、『マイフェニックス』、『ゴジラVSキングギドラ』から『ゴジラVSスペースゴジラ』までのゴジラ作品を担当したあとの1998年、東宝を退社してフリーになる。小泉堯史監督作品『阿弥陀堂だより』(2002年)、『博士の愛した数式』(2006年)、『明日への遺言』(2008年)、『蜩ノ記』(2014年)、『峠 最後のサムライ』(2022年)の美術を手掛ける。
三宅 一生(みやけ いっせい、Issey Miyake、19… 三宅 一生(みやけ いっせい、Issey Miyake、1938年〈昭和13年〉4月22日 - 2022年〈令和4年〉8月5日)は、日本のファッションデザイナー。広島県広島市東蟹屋町(現在の同市東区)出身。 広島市立尾長小学校在学中7歳のとき被爆。広島大学附属東雲中学校~広島県立広島国泰寺高等学校卒業。小学校高学年のときの担任が絵の先生で、絵を描く楽しさを教えてもらう。広島の美術館や岡山県倉敷の大原美術館にもよく通った。ルオーが好きだったという。周囲から「将来は絵描きになるの?」とよく聞かれたが、絵描きは貧乏イメージがあったから、大人になってからの職業にしようとは考えなかった。また当時は被爆都市を励ますという意味での宝塚の広島公演がよくあり、5歳上の姉に連れて行ってもらった。
菅 啓次 菅 啓二(すが けいじ、1938年1月27日 - … 菅 啓次 菅 啓二(すが けいじ、1938年1月27日 - 1997年3月23日)は、日本の俳優。本名は菅原 壮彦(すがわら たけひこ)。 岩手県陸前高田市出身。多摩美術大学卒。 中村嘉葎雄の付き人を経て 萬屋錦之介に師事し中村プロダクションに所属する。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
中山節夫(なかやませつお、1937年7月29日 - )は日本… 中山節夫(なかやませつお、1937年7月29日 - )は日本の映画監督。熊本県菊池郡合志町(現合志市)出身。 1960年、多摩美術大学付属芸術学園映画科を卒業し、日活撮影所に入所。1962年よりフリーの助監督として多数の作品に携わった。その後熊本に帰郷し、1969年に映画デビュー作「あつい壁」を監督した。ハンセン病に対する根強い差別を扱い、話題になった。 2007年『新・あつい壁』を手がける。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
光延 博愛(みつのぶ ひろよし、1937年4月1日 - 没年… 光延 博愛(みつのぶ ひろよし、1937年4月1日 - 没年不明)は、日本のアニメーション演出家、アニメーション監督、アニメーターである。土田プロダクションに所属していた。福岡県大牟田市出身。 妻はスタジオ雲雀会長である光延幸子、息子はスタジオ雲雀社長の光延青児。 子供の頃から好きな漫画のイラストを模写することが好きで、中学入学後に漫画雑誌への投稿を始める。本人は一度、雑誌『漫画少年』に自分の作品が載ったことがあると話している。 多摩美術大学を卒業後、1959年(昭和34年)に東映動画に入社。当時は特にCMに興味を持っていなかったが、「これからは宣伝の時代。宣伝界にしがみついていれば何とか食っていけそう」と自分なりに考えて望んで、退社してフリーになる1966年(昭和41年)までCM課に配属されて勤務。
黒川 博通(くろかわ ひろみち、1937年〈昭和12年〉 -… 黒川 博通(くろかわ ひろみち、1937年〈昭和12年〉 - )は、日本の撮影技師。東京都出身。おもに光学撮影担当の撮影技師として、1960年代の東宝特撮映画の製作に携わった。 多摩美術大学在学中に、アルバイトとして映画『日本誕生』の造形に参加。大学卒業後の1961年に東宝特殊技術課に、光学撮影担当の撮影技師として勤務。 特撮監督の円谷英二とは仕事で直接関わる機会はなかったが、編集室の横に円谷の控室があったことから、円谷にマッサージを施していた。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
小華和 ためお(こはなわ ためお、本名:小華和 為雄(読みは… 小華和 ためお(こはなわ ためお、本名:小華和 為雄(読みは左記と同じ)、1936年9月18日 - )は、山形県酒田市出身のアニメーター、アニメーション監督である。
山下 勇三(やました ゆうぞう、1936年5月30日 - 2… 山下 勇三(やました ゆうぞう、1936年5月30日 - 2008年1月31日)は、グラフィックデザイナー。広島県広島市観音(現・広島市西区)出身。 広島市立観音小学校、山陽中学校(現・山陽高等学校)、崇徳高等学校を経て、1960年多摩美術大学図案科卒業、ライトパブリシティに入社。和田誠は大学の同窓でデザイン会社も同僚の盟友。1963年に独立して「山下勇三事務所」を設立した。1969年、矢崎泰久の推薦により、日本のタウン誌第一号と呼ばれる「新宿プレイマップ」のアートディレクターとなる。「新宿PLAY MAP」というタイトルとロゴ文字を作成し、創刊号に斬新なイラストレーションの表紙画を書いた。「新宿プレイマップ」は第3号で降板したが、「話の特集」では、井上ひさしが15年にわたって長期連載した小説「江戸紫絵巻源氏」のイラストレーションを担当したほか、同誌に30年間掲載された永六輔との「せきこえのどに浅田飴」の広告を手がけた。
諸口 あきら(もろぐち あきら、本名:南 弘人(みなみ ひろ… 諸口 あきら(もろぐち あきら、本名:南 弘人(みなみ ひろと)、1936年〈昭和11年〉5月21日 - 2017年〈平成29年〉9月10日 )は、日本のタレント、ラジオパーソナリティ、カントリーシンガー、俳優、評論家、書家。妻はプロゴルファーの中村悦子。 福岡県門司市(現在の北九州市門司区)出身で、多摩美術大学油絵学科を卒業した。1960年代に、「茂呂 弘人」や「諸口 旭」名義で俳優として活動した。 1970年代にカントリーシンガーとして一世を風靡したほか、関西地方を中心にディスクジョッキーや放送タレントとしての活動を展開した。『日本列島ズバリリクエスト』(KBS京都ラジオ)や『MBSヤングタウン』(毎日放送ラジオ)をはじめ、関西地方のラジオ局が制作する番組に数多く出演した。
和田 誠(わだ まこと、1936年〈昭和11年〉4月10日 … 和田 誠(わだ まこと、1936年〈昭和11年〉4月10日 - 2019年〈令和元年〉10月7日)は、日本のイラストレーター、グラフィックデザイナー、エッセイスト、映画監督。大阪府生まれ。 実父は築地小劇場の創立者メンバーの1人で、のち、ラジオドラマを多数演出し「ラジオの神様」と呼ばれた和田精。日劇レビューで演出家を担った山本紫朗は伯父にあたる。 妻は料理愛好家・シャンソン歌手の平野レミ。長男はロックバンド・TRICERATOPSの和田唱で、その妻は上野樹里。次男の和田率は元電通勤務で、現在は母・平野レミの料理サイト「remy」のクリエイティブ・ディレクター。率の妻は和田明日香。 父である精が勤務していたJOBK(現在のNHK大阪放送局)の当時の赴任地である大阪市東住吉区で生まれる。
中里 斉(なかざと ひとし、1936年3月15日 - 201… 中里 斉(なかざと ひとし、1936年3月15日 - 2010年7月18日)は、日本の画家。東京都生まれ。ニューヨークにて制作活動をした。2010年、製作中の不慮の事故により急逝した。 東京府南多摩郡忠生村(現 東京都町田市)生まれ。1948年桜美林中学校に入学、1954年桜美林高等学校を卒業。1956年多摩美術大学美術学部絵画科(油画)に入学し、大沢昌助らに師事。1960年同大学卒業。半年ほど『北海タイムス』の美術記者として勤務した後、桜美林学園の専任講師となる。1962年アメリカに渡り、ウィスコンシン大学大学院(絵画専攻、版画副専攻)に入学。1964年ミルウォーキーのセント・ジェームス・ギャラリーで初個展を開催。
川崎 軍二(かわさき ぐんじ、1936年 - )は日本の映画… 川崎 軍二(かわさき ぐんじ、1936年 - )は日本の映画監督・AV監督。 1957年、多摩美術大学在学中に日活に美術スタッフとして入社。日活黄金期から日活ロマンポルノ時代まで20年間にわたり在籍。フリーになった後は、白井伸明監督に誘われ、アダルトビデオの制作を始める。 アダルトビデオ・Vシネマにおいて大人の愛情の物語を描く作品を数多く監督している。 現在は、グラフィティジャパン(「無敵の軍二」レーベル)、ホットエンターテイメント(「軍二」「黄軍二」レーベル)から定期的に作品がリリースされている。 この項目は、性風俗関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:性/PJ:性)。
江角 英明(えすみ えいめい、1935年10月5日 - 20… 江角 英明(えすみ えいめい、1935年10月5日 - 2004年8月22日)は、日本の俳優、声優、ナレーター。本名:江角 英明(えすみ ひであき)。別名義:江角 英。 島根県木次町(現・雲南市)出身。島根県立三刀屋高等学校、多摩美術大学附属芸術学園演劇科卒業。 劇団青年座、劇団俳優小劇場、グループ鬼宴同人、現代制作舎、ぱらーた企画、九プロダクションに所属していた。アマチュア劇団区民とつくる地場演劇の会代表。 劇団青年座の旗揚げ公演『第三の証言』を鑑賞したことから俳優を志し、多摩芸術学園卒業後の1957年に青年座に研究生として入団。1958年、『怪しき村の旅人』の村の青年役が初舞台。1959年の『第五福竜丸』が映画デビュー作となる。
島 州一(しま くにいち、1935年8月26日 - 2018… 島 州一(しま くにいち、1935年8月26日 - 2018年7月24日)は、日本の芸術家、美術家。 20世紀最大の発明コンピューターの出現による情報社会の到来を予見し、1970年代から情報を批判し、情報処理をメインテーマに自らの作品で、その方法を実践提示し続けた。 1935年8月26日、東京都千代田区麴町に父島眞一、母タイの長男として生まれる。1959年、多摩美術大学絵画科卒業。在学中は絵画より石版に熱中した。 1969年、カルピスの商標である黒人の扮装で画廊に座り、自分自身を作品として出品した。1971年、第10回現代日本美術展(東京都美術館)、芸術生活画廊コンクール展で「月と企業」により各コンクール賞受賞。
鈴木 儀雄(、1935年〈昭和10年〉 - )は、日本の映画… 鈴木 儀雄(、1935年〈昭和10年〉 - )は、日本の映画美術監督、娯楽デザイナー。東京都出身。 多摩美術大学彫刻科に在学中(1年生、19歳)の1954年に東宝のアルバイト募集を見て、開米栄三の造形助手として初代ゴジラのスーツ製作に参加する。1959年に大学を卒業し、3か月契約で東宝特殊技術課の撮影助手となる。その後、1961年より美術スタッフに転向する。 1968年に円谷英二に抜擢され、『マイティジャック』より円谷プロに美術監督(本編)として出向する。それ以降、『戦え! マイティジャック』や『恐怖劇場アンバランス』『独身のスキャット』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』といった一連の円谷プロ作品の美術監督を担当する。
佐藤 晨(さとう しん、1935年 - )は、昭和期の日本画… 佐藤 晨(さとう しん、1935年 - )は、昭和期の日本画家。東京都荒川区日暮里に生まれる。
14代目 酒井田 柿右衛門(さかいだ かきえもん、1934年… 14代目 酒井田 柿右衛門(さかいだ かきえもん、1934年8月26日 - 2013年6月15日)は、有田焼を代表する陶芸家で、“酒井田柿右衛門”の14代襲名者。本名:酒井田 柿右衛門、改名前-正(まさし)。 佐賀県西松浦郡有田町で、13代目の息子として生まれる。 佐賀県立伊万里高等学校では祖父・12代柿右衛門の勧めで美術部に所属。絵付けの基礎となる部分を会得するため多摩美術大学日本画科で日本画を学び、卒業後帰郷して父親に弟子入りする。下積みを重ね父と祖父(先々代)が蘇らせた“濁手”()の技法なども学んでいく。1971年、改名前の本名の酒井田 正()名義で日本工芸会会員となり、この後のほぼ10年は本名で公募展や個展に出品した。
水野 卓史(みずの たくし、1933年11月21日 - )は… 水野 卓史(みずの たくし、1933年11月21日 - )は日本のグラフィックデザイナー、アートディレクター。元・資生堂宣伝文化部顧問。水野デザイン事務所主宰。大阪府大阪市西区靭町出身。多摩美術大学卒業。子に川柳家の水野タケシ。 日本画家の父を持つ家庭に生まれる。のちに大阪府立寝屋川高等学校に進学後、美術部に入部し、デッサンを学んだことから、本格的なデザインへの道を志すと共に、そのまま多摩美術大学に進学。1955年、多摩美術大学図案科を卒業後、資生堂に入社。大阪支社宣伝文化部別室に配属される。 元々は大阪支社の別室チーフになるべき存在であったが、その当時、宣伝部に所属していた主任デザイナーが交通事故で物故したことから、急遽1959年に東京へ異動。
空 充秋(そら みつあき、1933年11月18日 - )は、… 空 充秋(そら みつあき、1933年11月18日 - )は、日本の彫刻家。石組みによる抽象彫刻が特徴。 本名は田中充昭。広島県出身。多摩美術大学卒(1957年)。1964年東京オリンピックの選手村に、石彫「石のスピーカー」を制作した。1986年、みなとみらい21彫刻展で優秀賞・神戸須磨離宮公園現代彫刻展で大賞。1988年、「生きる」で第19回中原悌二郎賞を受賞。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
東海林 隆(しょうじ たかし、1933年6月22日 - 20… 東海林 隆(しょうじ たかし、1933年6月22日 - 2022年2月9日)は、博報堂DYホールディングス相談役、博報財団理事。博報堂史上初めてクリエイティブ部門出身で社長となった。2011年第30回白川忍賞、2016年11月旭日中綬章を受章。 山形県出身。多摩美術大学図案科卒業後、八歐電機(現:富士通ゼネラル)入社。宣伝部で働くが、3年で独立しデザイン事務所を興す。独立から3年後、日本航空の仕事ができるグラフィックデザイナーを探していた博報堂から社員になることを条件に声がかかり、「日航のような大きな仕事はひとりではできない」として、博報堂入りを決める。 デザイナーからテレビCMなど広告の企画、制作を指揮するディレクターに昇格してからも話題作を相次いで制作し、日本航空、ソニーなどのCMでACC賞やクリオ賞などの国内外の広告賞を多数受賞した。
真鍋 博(まなべ ひろし、1932年7月3日 - 2000年… 真鍋 博(まなべ ひろし、1932年7月3日 - 2000年10月31日)は、日本のイラストレーター、アニメーター、エッセイスト。日本SF作家クラブ会員。 愛媛県宇摩郡別子山村(現・新居浜市)にて村の助役の家庭に生まれ、3歳のとき父の住友金属鉱山入社に伴い新居郡中萩村(現・新居浜市)に転居。 愛媛県立新居浜西高等学校を経て、1954年、多摩美術大学油画科卒業後、東京都の教員(地方公務員)として採用され港区立赤坂中学校に美術教師として勤務。多摩美術大学大学院美術研究科修了。 当初は油彩画が活動の中心であった。抽象的で洗練された画風を得意とし、星新一、筒井康隆などのSF小説の挿絵を多く描いた。特に、星新一については名コンビと称され、『悪魔のいる天国』のように、版が変わるごとに新たに多数のイラストを書きおろすようなこともやっている。
木村 一生(きむら いっしょう、1932年 - 2015年)… 木村 一生(きむら いっしょう、1932年 - 2015年)は、日本の抽象画家で、多摩美術大学名誉教授。本名は木村和夫。 1932年、長崎県長崎市生まれ。1951年、長崎県立長崎東高等学校卒業。東京芸術大学絵画科在学中の1955年に浜屋百貨店で初めての個展を開催。1957年、同大学を卒業後、1958年には読売アンデパンダン展に出品。1959年、モダンアート協会展に初出品し翌1960年に同会会員となる。1989年の「木村一生の世界」展(池田20世紀美術館企画)をはじめ多数の個展を開催。また、1960年から1985年にかけて「新表現展」に出品するなどグループ展にも数多く参加。1968年より多摩美術大学で後進の指導にも取り組み、1972年に助教授、1983年に教授就任。