武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12… 武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12月13日 - 1964年(昭和39年)8月21日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、駐トルコ大使。
東京大学:535人
武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12… 武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12月13日 - 1964年(昭和39年)8月21日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、駐トルコ大使。
杉村 陽太郎(すぎむらようたろう 1884年(明治17年)9… 杉村 陽太郎(すぎむらようたろう 1884年(明治17年)9月28日 - 1939年(昭和14年)3月24日)は、大正、昭和の外交官、IOC委員。
有田 八郎(ありた はちろう、旧字体: 有田 八郞、 188… 有田 八郎(ありた はちろう、旧字体: 有田 八郞、 1884年〈明治17年〉9月21日 - 1965年〈昭和40年〉3月4日)は、日本の外交官、政治家。貴族院議員(勅選)、衆議院議員(1期)。号は澤農。旧姓山本。新潟県平民。 新潟県佐渡郡真野村(現佐渡市真野)出身。山本家に生まれ、有田家の養子となった。早稲田中学校、第一高等学校を経て、1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学独法科卒業、外務省入省。 外務省ではアジア局長、オーストリア公使、外務次官、ベルギー大使、中華民国大使などを務める。1936年(昭和11年)、廣田内閣の外務大臣として初入閣。1938年(昭和13年)2月10日に貴族院議員に勅撰。
矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年… 矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年2月4日)は、日本の外交官。 矢野真三郎の三男として、福岡県朝倉郡(後の朝倉市)に生まれる。炭鉱経営者の篤志家佐藤慶太郎の無条件の奨学金支援によって、福岡県立中学修猷館、東京府立第一中学校を経て、1907年(明治40年)、第一高等学校英法科を首席で卒業し、1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業する(銀時計)。 1911年(明治44年)、高等文官試験行政科を首席合格して東京府試補となり、翌1912年、オックスフォード大学に留学。1913年(大正2年)に帰国して高等文官試験外交科を首席合格し、1914年(大正3年)、外交官補としてイギリスに在勤する。
德川 家正(とくがわ いえまさ、旧字体: 德川 家正、188… 德川 家正(とくがわ いえまさ、旧字体: 德川 家正、1884年〈明治17年〉3月23日 - 1963年〈昭和38年〉2月18日)は、日本の外交官・政治家。徳川宗家第17代当主。第16代当主・徳川家達の長男。位階・勲等・爵位は正二位勲一等公爵。最終学歴は東京帝国大学法科大学政治科卒業。称号(学位)は法学士。 戦前にカナダ公使、トルコ大使など官職を務め、父・家達の死後に家督を継いで襲爵し、貴族院議員となる。戦後は第13代にして最後の貴族院議長を務めた。その他の主な公職及び役職としては、社団法人全国治水砂防協会会長、日土協会会長、恩賜財団同胞援護会会長などを歴任した。 1884年(明治17年)3月23日、徳川家達の長男として東京府南豊島郡千駄ヶ谷村(現:東京都渋谷区千駄ヶ谷)で生まれる。
岡本 武三(おかもと たけぞう、1883年(明治16年)12… 岡本 武三(おかもと たけぞう、1883年(明治16年)12月7日 - 1943年(昭和18年)1月17日)は、日本の外交官。駐イラン公使。 京都府出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。同年、外交官及領事官試験合格し翌年に領事官補として上海に勤務した。以来、領事、外務事務官、同書記官、大使館二等書記官、同一等書記官、同参事官を歴任し、その間、中国、イギリス、イタリアに勤務。さらに天津総領事、イタリア大使館参事官を経て、1932年(昭和7年)から駐イラン公使を務めた。1938年(昭和13年)には、東亜研究所発足時の理事に就任している。 1943年(昭和18年)1月17日没、墓所は東京都文京区の護国寺。
河合 博之(かわい ひろゆき、1883年〈明治16年〉8月 … 河合 博之(かわい ひろゆき、1883年〈明治16年〉8月 – 1933年〈昭和8年〉8月14日)は、日本の外交官。駐ポーランド公使。 神奈川県出身。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補、外交官補、大使館三等書記官、同二等書記官、同一等書記官を歴任した。1921年(大正10年)、帰国して外務書記官・参事官となった。1923年(大正12年)より駐ベルギー大使館参事官、駐フランス大使館参事官を務めた。1931年(昭和6年)に駐ポーランド公使に就任した。在任中に死去。
松永 直吉(まつなが なおきち、1883年(明治16年)4月… 松永 直吉(まつなが なおきち、1883年(明治16年)4月19日 - 1964年(昭和39年)7月28日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、駐オーストリア公使。 佐賀県出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業、外交官及領事官試験に合格した。外交官補として北京に赴任。天津領事官補、長沙領事官補、ハンブルク領事官補、ドイツ大使館三等書記官、シアトル領事、外務書記官・会計課長・人事課長、オタワ総領事、ベルギー大使館参事官、外務省条約局長などを歴任。1930年(昭和5年)、駐オランダ公使に就任し、1933年(昭和8年)に駐オーストリア公使に転じた。 1937年(昭和12年)に退官した後は、紀元2600年記念日本万国博覧会事務次長を務めた。
東郷 茂徳(とうごう しげのり、1882年〈明治15年〉12… 東郷 茂徳(とうごう しげのり、1882年〈明治15年〉12月10日 - 1950年〈昭和25年〉7月23日)は、日本の外交官、政治家。 東條内閣で外務大臣と拓務大臣、鈴木貫太郎内閣で外務大臣と大東亜大臣を務め、太平洋戦争開戦時および終戦時の外務大臣であった。この他、欧亜局長や駐ドイツ大使および駐ソ連大使を歴任。 萩原延壽『東郷茂徳 伝記と解説』によれば、茂徳は1882年12月10日に「朴茂徳」として鹿児島県日置郡苗代川村(現在の日置市東市来町美山)で生まれた。苗代川は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行させられた朝鮮人陶工の一部が、薩摩藩によって集められて形成された集落であった。
武者小路 公共(むしゃこうじ きんとも、1882年(明治15… 武者小路 公共(むしゃこうじ きんとも、1882年(明治15年)8月29日 - 1962年(昭和37年)4月21日)は、日本の華族、外交官、武者小路家第10代当主。爵位は子爵。位階は正二位。作家・武者小路実篤の兄。 子爵・武者小路実世の三男として東京府東京市麹町区(のち東京都千代田区)に生まれた。1887年(明治20年)に父・実世が肺結核で死去したため、武者小路家の家督と子爵位を継承した。 学習院高等科を経て、1907年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、外務省入省。上海総領事館勤務をふりだしにルーマニア兼ユーゴスラビア、デンマーク兼スウェーデンの各公使に就任。さらに1933年(昭和8年)に駐トルコ大使に就任。
藤田 栄介(ふじた えいすけ、1881年〈明治14年〉4月 … 藤田 栄介(ふじた えいすけ、1881年〈明治14年〉4月 – 1940年〈昭和15年〉3月10日)は、日本の外交官。駐ルーマニア公使。 鹿児島県鹿児島市加治屋町出身。中学造士館を経て、1904年7月第七高等学校造士館 (旧制)卒業(第一部法科志望、第1回卒業生)。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。1910年(明治43年)より領事官補として安東、牛荘に勤務した。その後、三等書記官、二等書記官、台湾総督府事務官、総領事・台湾総督府事務官、外務書記官・情報部第一課長を歴任した。1925年(大正14年)より済南総領事、青島総領事を務めた。1930年(昭和5年)、駐ルーマニア公使に任命され、駐ユーゴスラビア公使も兼任した。
青木 新(あおき あらた、1881年(明治14年)2月11日… 青木 新(あおき あらた、1881年(明治14年)2月11日 - 1970年(昭和45年)1月10日)は、日本の外交官。駐メキシコ公使、駐スペイン公使。 熊本県、現在の熊本市で、小学校教員・青木健次郎の長男として生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験合格した。シカゴ領事官補、副領事、領事、大使館三等書記官、同二等書記官、外務書記官、外務大臣秘書官、大使館一等書記官、同参事官、ホノルル総領事を歴任し、その間、中国、ロシア、アメリカ合衆国、ブラジルに赴任した。 1926年(大正15年)駐メキシコ公使に就任し、1930年(昭和5年)4月から同年8月までは駐キューバ公使も兼ねた。
斎藤 良衛(さいとう りょうえ、1880年(明治13年)11… 斎藤 良衛(さいとう りょうえ、1880年(明治13年)11月15日- 1956年(昭和31年)11月4日)は、日本の外交官。外務省通商局長を最後に退官し、南満州鉄道理事、同最高顧問、外務省顧問を務める。『支那ニ於ケル外国人ノ権利義務』で法学博士(東京帝国大学)。会津短期大学学長歴任。 旧会津藩士であった斎藤家に、医師の長男として生まれる。会津中学に進学し、同級生には岸本正雄や常盤盛衛などがいた。検定試験から東京帝国大学に進み、卒業の翌々年(1910年)に外交官及領事官試験合格(同期生は9名で首席合格者は斎藤博)。オタワやワシントンでの在勤もあったが、中国勤務が長く、本省では通商局課長、同局長を歴任した。
山崎 次郎(やまさき じろう、1880年(明治13年)1月2… 山崎 次郎(やまさき じろう、1880年(明治13年)1月21日 - 1958年(昭和33年)10月29日)は、日本の外交官。駐アルゼンチン公使。 静岡県に会田和保の二男として生まれ、山崎金重の養子となった。1906年(明治39年)、東京帝国大学を卒業し、法科大学法律学科仏蘭西法兼修。 翌年に外交官及領事官試験合格した。領事官補として広州、牛荘に、外交官補としてスペインに勤務した。さらにリヨン領事、アメリカ合衆国大使館三等書記官、アルゼンチン公使館二等書記官、同一等書記官、同代理公使、外務書記官・通商局総務課長、翻訳課長、会計課長、在ソビエト連邦日本国大使館参事官、ブラジル大使館参事官を歴任した}。
森 安三郎(もり やすさぶろう、1880年 - 1952年9… 森 安三郎(もり やすさぶろう、1880年 - 1952年9月25日)は、日本の外交官。
平田 知夫(ひらた ともお、1880年(明治13年) - 1… 平田 知夫(ひらた ともお、1880年(明治13年) - 1918年(大正7年)3月15日)は、日本の外交官。在カルカッタ領事を経て、在モスクワ領事を務めた。 福岡県宗像郡池野村(現宗像市)に、平田道見の長男として生まれる。福岡県立尋常中学修猷館(現福岡県立修猷館高等学校)、第一高等学校を経て、1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 在学中、1903年(明治36年)にはロシア帝国領浦潮から単身徒歩で朝鮮に向い、翌1904年(明治37年)には揚子江を遡って漢口から北京を訪れた。広田弘毅とは修猷館以来の同窓で親友であった。 1906年(明治39年)、第15回外交官及領事官試験に合格。
木村 鋭市(きむら えいいち、1879年(明治12年)5月2… 木村 鋭市(きむら えいいち、1879年(明治12年)5月26日 - 1947年(昭和22年)7月21日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使。 島根県出身。1906年(明治39年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。1908年(明治41年)、外交官及領事官試験・高等文官試験に合格し、外交官補となった。外務省参事官、ベルギー公使館三等書記官、フランス大使館二等書記官を務めた。1919年(大正8年)、パリ講和会議全権委員随員を務め、帰国後は亜細亜局の課長となった。ワシントン会議でも全権委員随員を務め、1923年(大正12年)からアメリカ合衆国大使館一等書記官、同参事官を歴任した。1925年(大正14年)より亜細亜局長となり、1927年(昭和2年)に駐チェコスロバキア公使に転じた。
岸 倉松(きし くらまつ、1878年(明治11年)11月23… 岸 倉松(きし くらまつ、1878年(明治11年)11月23日 - 1968年(昭和43年)4月1日)は、日本の外交官。幣原喜重郎首相の内閣総理大臣秘書官。東京帝国大学卒業。秋田県出身。 岸太右衛門の長男として生まれる。東京帝国大学卒業後、外務省に入省し、内閣調査局調査官、在アントワープ領事を経て1940年(昭和15年)に幣原喜重郎首相の内閣総理大臣秘書官となる。東京帝国大学時代は内閣総理大臣を歴任した広田弘毅と同期であった。 また私生活では正則英語学校の校長である斎藤秀三郎の長女・ふみと結婚し1男4女を儲ける。 1968年(昭和43年)4月1日、死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
鮭延 信道(さけのべ のぶみち、1878年(明治11年)10… 鮭延 信道(さけのべ のぶみち、1878年(明治11年)10月22日 - 1954年(昭和29年)10月27日)は、日本の外交官。駐チリ公使。 東京府に田中貫一の二男として生まれ、軍医鮭延良治の養子となった。鮭延家は加賀藩藩医の家柄で、良治の父の良節は手塚良仙の実弟、母は大槻俊斎の妹であった。 1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験合格した。領事官補、外務省参事官、大使館三等書記官、イギリス大使館二等書記官、カルカッタ(現在のコルカタ)総領事、大使館参事官、外務省大臣官房人事課長心得、駐チリ公使を歴任した。 1928年(昭和3年)に退官した後は、山中千之の後任として国際連盟常設委任統治委員会日本委員を務めた。
吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日… 吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。旧姓:竹内(たけうち)。 内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、外務大臣(第73・74・75・78・79代)、農林大臣(第5代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、衆議院議員(7期)、貴族院議員(勅選議員)、皇學館大学総長(初代)、二松學舎大学舎長(第5代)、日本自由党総裁(第2代)、民主自由党総裁、自由党総裁(初代)を歴任した。 東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、及び1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。
松平 恆雄(まつだいら つねお、1877年(明治10年)4月… 松平 恆雄(まつだいら つねお、1877年(明治10年)4月17日 - 1949年(昭和24年)11月14日)は、日本の外交官、政治家。
永井 松三(ながい まつぞう、1877年(明治10年)3月5… 永井 松三(ながい まつぞう、1877年(明治10年)3月5日 - 1957年(昭和32年)4月19日)は、日本の外交官。外務次官、駐ドイツ大使。IOC委員、貴族院勅選議員。 現在の愛知県名古屋市に永井松右衛門の長男として生まれる。 1895年(明治28年)に高等師範学校尋常中学科(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業後、私立東京英語学校を経て、第一高等学校、東京帝国大学を卒業。 1902年(明治35年)に外務省入省。天津、ニューヨーク、ワシントンDCに在勤する。1912年(明治45年)2月に駐サンフランシスコ総領事、その後、駐ベルギー大使、1930年12月から1932年5月まで外務次官、駐ドイツ大使などを歴任する。
菊池 義郎(きくち ぎろう、1877年〈明治10年〉2月10… 菊池 義郎(きくち ぎろう、1877年〈明治10年〉2月10日 - 1944年〈昭和19年〉9月22日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使。菊池侃二の子。 大阪府に衆議院議員・大阪府知事、菊池侃二の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。 同年在福州領事官補、叙従七位。1904年(明治37年)在ドイツ外交官補。1907年(明治40年)叙正七位。1907年(明治40年)在オーストリア大使館三等書記官。1908年(明治41年)在ロシア大使館三等書記官。 1910年(明治43年)に在厦門領事。1912年(大正元年)聖スタニスラフ勲章(英語版、ロシア語版)第三等受章。
奥山 清治(おくやま せいじ、1876年(明治9年)11月3… 奥山 清治(おくやま せいじ、1876年(明治9年)11月30日 - 1965年(昭和40年)5月17日)は、日本の外交官。駐ギリシャ公使。 山形県北村山郡出身。1896年(明治29年)に旧制山形中学卒業。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に外交官及領事官試験合格した。シンガポール領事官補、オーストリア公使館三等書記官、外務省参事官、ロシア大使館一等書記官、外務省人事課長、同文書課長、国際連盟事務局次長、駐ギリシャ公使を務めた。 退官後は国際連盟協会主事を務めた後、満州国駐日大使館最高顧問となった。
松田 道一(まつだ みちかず、1876年〈明治9年〉3月14… 松田 道一(まつだ みちかず、1876年〈明治9年〉3月14日 - 1946年〈昭和21年〉1月20日)は、日本の外交官。駐イタリア大使、駐オランダ公使。学位は、法学博士。 判事・弁護士の松田道夫の長男として東京府に生まれる。1900年(明治33年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格し、また判事検事登用試験にも合格して検事となった。1902年(明治35年)、外務省参事官に転じ、翻訳官を経て、ベルギー公使館三等書記官を務めた。1913年(大正2年)、外務省政務局第二課長となり、通商局長事務取扱、条約局長、国際連盟帝国事務局長・フランス大使館参事官を歴任した。1925年(大正14年)、駐オランダ公使となり、翌年に駐イタリア大使に転じた。
芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年〈明治7年〉1月2… 芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年〈明治7年〉1月24日 - 1965年〈昭和40年〉1月5日)は、日本の外交官、政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。新潟県中頸城郡下堀之内村(現:上越市諏訪)出身。犬養毅の娘婿。 大日本帝国きっての亜細亜通の外交官として知られ、日ソ基本条約締結による日ソ国交回復等に関わる。義父は犬養毅であり、犬養内閣においては外務大臣を務めた。第二次世界大戦終結後に公職追放を受けるが、解除後は1952年から3年間駐中華民国大使を務め、辞任後も自由アジア擁護連盟代表、自由アジア協会長として台湾擁護に奔走した。 1925年1月20日の北京での日ソ基本条約締結時、その5日前にスケートで腰の骨を折った為、ベッドの上で調印した。
水野 幸吉(みずの こうきち、1873年(明治6年)12月 … 水野 幸吉(みずの こうきち、1873年(明治6年)12月 - 1914年(大正3年)5月23日)は、明治時代から大正時代の外交官。位階および勲等は従四位・勲三等。号は酔香で、俳人としても活動した。 旧尾張藩の勘定吟味役の水野尋樹の次男として姫路市龍野町に生まれる。父は明治維新後、東京に出て刑部省の役人となり、1872年に兵庫県庁に転職し1876年に淡路島洲本の支庁に移った。母は産後の肥立ちが悪く、産んだ5年後の1878年に没した。家は貧しかった。 幸吉は姉の栄子を頼り苦学し、1885年に京都の平安義校を卒業後、第三高等中学校に入学した。愛知県出身者のための愛育社の奨学金により、1897年に東京帝国大学政治学科を卒業。
小幡 酉吉(おばた ゆうきち、1873年(明治6年)4月12… 小幡 酉吉(おばた ゆうきち、1873年(明治6年)4月12日 - 1947年(昭和22年)8月9日)は、日本の外交官。 石川県出身、1897年(明治30年)に東京帝国大学法科大学法律学科卒業。警視総監官房に半年間勤務後、外交官及領事官試験に合格して外務省に入り、1898年(明治31年)10月に天津在勤の領事官補へ任じられる。その後、シンガポール、オーストリア=ハンガリー帝国、イギリスでの勤務を経験した。1905年(明治38年)に中国へ転勤、芝罘領事、天津総領事などを務める。1908年(明治41年)柔術家の野口清と在留官民が設立した天津武術會で副会長を務める。 1916年(大正5年)に日本へ戻って外務省政務局長などを務めるが、1918年(大正7年)10月から1923年(大正12年)まで特命全権公使として再び中国へ派遣される。
阿部 守太郎(あべ もりたろう、明治5年11月10日(187… 阿部 守太郎(あべ もりたろう、明治5年11月10日(1872年12月10日) - 大正2年(1913年)9月6日)は、日本の外交官、外務省政務局長。対中国強硬論者に暗殺された。妻の生は末弘直方の次女。 大分県下毛郡桜洲村(現在の中津市)出身。第三高等中学校を経て、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。同年、高等文官試験に合格し、大蔵属として主計局、理財局、主税局に勤務した。翌1897年(明治30年)、外務書記官に転じ、通商局第二課長心得となった。1899年(明治32年)、参事官に昇進し、翌年からは加藤高明外務大臣の秘書官も兼任した。1901年(明治34年)、イギリス公使館二等書記官となり、1905年(明治38年)からは清国公使館一等書記官を務めた。
赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治… 赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治5年9月6日) - 1942年(昭和17年)5月6日)は、明治から昭和前期の外交官、衆議院議員(立憲民政党→立憲政友会)。 鹿児島県姶良郡蒲生村(現在の姶良市)に旧薩摩藩士・赤塚源太郎の三男として生まれた。1892年(明治25年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業、1894年(明治27年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。1898年(明治31年)外務省に入省し、廈門領事、釜山領事、マニラ領事、外務省通商局第一課長などを歴任し、1912年(明治45年)に広東総領事に就任した。
三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872… 三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872年2月24日) – 昭和16年(1941年)4月4日)は、日本の外交官。駐スイス公使。 千葉県出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。外交官補、ブラジル公使館三等書記官、オランダ公使館三等書記官、馬山領事、京城理事庁理事官・統監府書記官、スウェーデン公使館一等書記官、駐フランス大使館一等書記官、アメリカ合衆国大使館参事官を歴任した。1916年(大正5年)より駐スイス公使を務めた。その後、平和条約実施委員となった。 退官後は弁護士を開業した。
諸井 六郎(もろい ろくろう、1872年2月17日(明治5年… 諸井 六郎(もろい ろくろう、1872年2月17日(明治5年1月9日) - 1940年(昭和15年)5月6日)は、児玉郡本庄宿(現在の埼玉県本庄市)出身の明治期から大正期の外交官、郷土史家。従三位勲二等。兄の諸井恒平は秩父セメント会社の創設者。 中山道で最大の宿場町である本庄宿(1889年(明治22年)に児玉郡本庄町となる)に生まれた。ちょうど本庄宿では飛脚制度から近代郵便制度が始まり、六郎の父である諸井泉衛(東諸井家10代目当主、元は南諸井家の生まれ)が郵便取扱人に任命される。ここから東諸井家は「郵便諸井」と称されるようになる。泉衛の妻である佐久は渋沢栄一のおばに当たるので、栄一と泉衛の息子たちは従兄弟に当たる。
落合 謙太郎(おちあい けんたろう、1870年3月22日(明… 落合 謙太郎(おちあい けんたろう、1870年3月22日(明治3年2月21日) - 1926年(大正15年)6月4日)は、明治期から大正期の日本の外交官。ポーツマス会議・パリ講和会議に随員として、またローザンヌ近東和平会議やローマでの移民国際会議には首席全権となるなど、重要な国際会議に日本を代表し出席した。奉天総領事館の総領事や、イタリア国特命全権大使等も歴任し、ローマからの帰国途上船中で病没した。 落合謙太郎は、1870年3月22日(明治3年2月21日)、近江国浅井郡川道村(後の滋賀県東浅井郡大郷村、現・長浜市川道町)に落合孝平と母といの長男として生まれた。父は京都で岩垣月洲に学んでおり、学友には坂下門外の変を起こした河本正安がいた。
松井 慶四郎(まつい けいしろう、1868年3月28日〈慶応… 松井 慶四郎(まつい けいしろう、1868年3月28日〈慶応4年3月5日〉- 1946年〈昭和21年〉6月4日)は、日本の外交官、政治家。男爵。大阪府出身。松井保蔵二男。 妻の照子は西日本の鉄道王と呼ばれた実業家の今村清之助の娘。長女に日本の洋裁教育と服飾デザインの礎を作った田中千代、二女・貞子は安川電機社長の安川寛(安川敬一郎孫)の妻。長男はフランス大使となった松井明。慶四郎の死後、長男の明は襲爵手続をしなかった。
萩原 守一(はぎわら もりいち/しゅいち、1868年3月20… 萩原 守一(はぎわら もりいち/しゅいち、1868年3月20日〈慶応4年2月27日〉 - 1911年〈明治44年〉5月25日または5月26日)は、明治時代の日本の外交官。位階および勲等は従四位・勲三等。旧姓は石川。 長門国豊浦郡宇賀村(現在の山口県下関市)に生まれる。兄は石川耐蔵。 1893年(明治26年)、萩原明輔の後を継ぎ、萩原に改姓。 1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年9月、外交官及領事官試験に合格し外務省に入省して、外交官となった。 1897年からドイツ帝国公使館に勤務する。その後ベルギー、大韓帝国、清、アメリカ合衆国の公使館で書記官を務めた。1906年に奉天総領事館の総領事となる。
田付 七太(たつけ しちた、慶應3年9月1日(1867年9月… 田付 七太(たつけ しちた、慶應3年9月1日(1867年9月28日) - 昭和6年(1931年)5月31日)は、日本の外交官。駐ブラジル大使、駐オランダ公使、駐チリ公使。 山口県出身。坪井宗一の三男として生まれ、田付景賢の養子となった。養父の景賢は田付景澄の子孫で幕末の軍事奉行。1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補として元山、漢城に、外交官補としてフランスに勤務。フランス公使館三等書記官、同二等書記官、フランス大使館二等書記官、同一等書記官、外務書記官・大臣官房人事課長、ロシア大使館参事官、フランス大使館参事官を歴任した。1917年(大正6年)、駐チリ公使となり、アルゼンチン、ペルー、ボリビア各国の公使も兼任した。
畑 良太郎(はた りょうたろう、1867年4月4日〈慶応3年… 畑 良太郎(はた りょうたろう、1867年4月4日〈慶応3年2月30日〉- 1937年〈昭和12年〉4月5日)は、日本の外交官。駐ブラジル公使。駐スウェーデン公使。錦鶏間祗候。正三位勲一等。 信濃国(後の長野県)出身。1890年(明治23年)、帝国大学法科大学独法科を卒業し、外務省試補となった。1892年(明治25年)より駐オーストリア公使館交際官試補、駐オランダ公使館三等書記官、駐ドイツ公使館二等書記官、同一等書記官を歴任。1908年(明治41年)に外務書記官となり、さらに駐ドイツ大使館参事官になった。 その後、駐ブラジル公使、駐スウェーデン公使を歴任した。退官後の1925年(大正14年)に錦鶏間祗候となった。
山座 円次郎(やまざ えんじろう、慶応2年10月26日(18… 山座 円次郎(やまざ えんじろう、慶応2年10月26日(1866年12月2日) - 大正3年(1914年)5月28日)は、明治・大正期の日本の外交官。外務省政務局長、駐中国特命全権公使。
大鳥 富士太郎(おおとり ふじたろう、慶応元年12月23日(… 大鳥 富士太郎(おおとり ふじたろう、慶応元年12月23日(1866年2月8日)- 1931年(昭和6年)11月7日)は、日本の台湾総督府官僚、外交官。貴族院男爵議員。 江戸で幕臣・大鳥圭介の長男として生まれる。父の死去に伴い、1911年(明治44年)7日10日に男爵を襲爵した。 1890年(明治23年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科第一部を卒業。同年、外務省試補となるが、1896年(明治29年)台湾総督府に転じ台北県書記官となり、台湾総督府民政局参事官・台北県支庁長、総督秘書官を務めた。1901年(明治34年)外交官及領事官試験に合格。外交官に転じ、大韓帝国公使館勤務、オランダ公使館勤務、ウラジオストク総領事、外務書記官、フランス大使館参事官、駐メキシコ公使を歴任した。
内田 康哉(うちだ こうさい / やすや、1865年9月29… 内田 康哉(うちだ こうさい / やすや、1865年9月29日〈慶応元年8月10日〉- 1936年〈昭和11年〉3月12日)は、日本の外交官、政治家。栄典は従一位勲一等伯爵。 明治・大正・昭和の3代にわたって外務大臣を務めた唯一の人物。戦前の日本を代表する外政家だが、その外交姿勢は時期によって揺れがあり、単純ではない。通算外相在職期間7年5か月は、現在に至るまで最長である。 熊本藩医・内田玄真と熊本士族黒田五左衛門長女ミカの子として肥後国八代郡竜北(現:熊本県八代郡氷川町)に生まれる。八代郡鏡町にあった名和童山の新川義塾などで学んだ後、同志社英学校に入学するも2年後に退学。東京帝国大学法科卒業後に外務省に入省し、ロンドン公使館勤務、清国北京公使館勤務中に一時、臨時代理公使・オーストリア公使兼スイス公使・アメリカ大使・ロシア大使などを歴任し、第4次伊藤内閣の外務次官を務めた。
内田 定槌(うちだ さだつち、1865年2月12日〈元治2年… 内田 定槌(うちだ さだつち、1865年2月12日〈元治2年1月17日〉- 1942年〈昭和17年〉6月2日)は、日本の外交官。駐ブラジル公使、駐スウェーデン公使、駐トルコ大使。 豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、外務省試補となった。翌年、上海副領事となり、漢城領事、ニューヨーク領事、同総領事を歴任した。1906年(明治39年)にブラジル弁理公使となり、翌年に特命全権公使となった。その後、スウェーデン公使に就任し、デンマーク公使、ノルウェー公使も兼ねた。1920年(大正9年)、トルコに派遣され、のち大使に昇格した。 退官後は日土協会会長、日土貿易協会顧問を務めた。
中川 恒次郎(なかがわ つねじろう、1863年(文久3年)3… 中川 恒次郎(なかがわ つねじろう、1863年(文久3年)3月 - 1900年(明治33年)8月14日)は、明治時代の日本の外交官、経済学者。在タウンズビル日本帝国領事館や在シドニー日本帝国領事館の初代領事などを務めた。 1863年(文久3年)3月、江戸に生まれる。1884年(明治17年)、東京大学法理文学部政治学及理財学科を卒業し、文学士の学位を取得し、卒業後、大蔵省に入省した。 大蔵省勤務のかたわら、1886年(明治19年)から1887年(明治20年)にかけて『経済實學講義』二巻を著し、同書はドイツ歴史学派を日本で紹介した最初の導入書とされる。1887年(明治20年)の国家学会創立時には雑誌委員を務めた。
日置 益(ひおき えき、1861年12月21日〈文久元年11… 日置 益(ひおき えき、1861年12月21日〈文久元年11月20日〉- 1926年〈大正15年〉10月22日)は、日本の外交官。位階および勲等は正三位・勲一等。伊勢国(現在の三重県)出身。 伊勢国で日置伊右衛門の五男として生まれる。1888年(明治21年)に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、外務省に入る。 1905年(明治38年)、代理公使としてサンフランシスコに渡航したのち、仏僧釈宗演とともにワシントンでルーズベルト大統領と会見。 1914年(大正3年)に中国公使に就任。同年12月3日、加藤高明外相は日置に対華要求を訓令する。翌1915年(大正4年)1月18日、大隈重信内閣は袁世凱に対華21カ条要求を行い、日置はその交渉担当となった。
稲垣 満次郎(いながき まんじろう、1861年10月29日(… 稲垣 満次郎(いながき まんじろう、1861年10月29日(文久元年9月26日) - 1908年(明治41年)11月25日)は、明治時代の日本の外交官。著書で南進論を唱えたことで知られる。 肥前国松浦郡平戸(現在の長崎県平戸市)出身。父親は平戸藩士で同藩勘定奉行を務めた天野勇衛。藩立学校維新館、鹿児島私学校等を経て、1882年(明治15年)、東京大学文学部に入学。翌年東京大学明治十六年事件に巻き込まれて、英国ケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジに留学、ジョン・ロバート・シーリーに師事する。大学では日本人クラブを設立し、英国紳士のマナーを研究した。また、大学の理事会を説得し、日本人の入学試験からギリシャ語を免除させた。
都筑 馨六(つづき けいろく、1861年3月27日〈万延2年… 都筑 馨六(つづき けいろく、1861年3月27日〈万延2年2月17日〉- 1923年〈大正12年〉7月6日)は、日本の官僚、外交官、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、法学博士、男爵。位階は正二位、勲等は勲一等。都築と表記される場合がある。 上野国高崎藩稲荷台(現:群馬県高崎市)の名主・藤井安右衛門(のち安治)の二男として生まれる。満1歳を迎える前に西条藩士・都筑侗忠の養子となり、渋谷の藩邸で暮らすこととなった。幼少期から同藩士・阿曽沼正六綱義に素読の教えを受け、10歳のときからは芝新堀町の千村塾に通った。さらに横浜の修文館、カロザースの築地大学校で学ぶ。15歳のときに東京開成学校へ入学。1881年(明治14年)7月、旧東京大学文学部(政治理財学専攻)を卒業した。
林 権助(はやし ごんすけ、安政7年3月2日(1860年3月… 林 権助(はやし ごんすけ、安政7年3月2日(1860年3月23日) - 昭和14年(1939年)6月27日)は、明治・大正期の外交官・男爵。会津藩出身。林又三郎の子。会津藩大砲隊長・林権助安定は祖父。位階・勲等は従一位勲一等。
加藤 恒忠(かとう つねただ、安政6年1月22日(1859年… 加藤 恒忠(かとう つねただ、安政6年1月22日(1859年2月24日) - 大正12年(1923年)3月26日)は、日本の外交官、政治家。旧姓は大原。号は拓川。衆議院議員、貴族院勅選議員、松山市長、錦鶏間祗候。三男忠三郎は阪急電鉄の車掌、阪急百貨店の職員で、俳人正岡子規の妹リツの養子となり正岡家の祭祀を嗣いだ。 伊予国(現・愛媛県松山市)に伊予松山藩の儒者大原観山の三男として生まれる。父の死後、上京し、1876年(明治9年)給費の官吏養成所である司法省法学校(現在の東京大学法学部)に入学、フランス語とフランス法を学んだ。1879年1月廃絶していた縁戚の加藤家を興し加藤家戸主になった。同年2月校長の方針に反対し退学、中江兆民の塾に入る。
河上 謹一(かわかみ きんいち、安政3年3月23日(1856… 河上 謹一(かわかみ きんいち、安政3年3月23日(1856年4月27日) - 1945年(昭和20年)7月31日)は、戦前日本の外交官、実業家。岩国藩出身。東京大学法科大学第一期卒生。農商務省・文部省書記、東京商業学校校長、上海総領事、アメリカ合衆国領事、外務省通商局長、日本銀行理事、住友本店理事、南満洲鉄道監事。 安政3年(1856年)3月23日岩国藩士河上毅の長男として生まれた。慶応元年(1865年)藩校養老館に入学、後に敬義社で東沢瀉にも学んだ。明治3年(1870年)10月藩唯一の貢進生に抜擢され、東京に出て大学南校に入学、1878年(明治11年)6月東京大学法科大学を卒業し、日本初の法学士となった。
今立 吐酔(いまだて とすい、1855年3月14日〈安政2年… 今立 吐酔(いまだて とすい、1855年3月14日〈安政2年1月26日〉 - 1931年〈昭和6年〉)は、日本の教育者(理学士)・外交官。京都府京都中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)初代校長。 安政2年(1855年)、越前国今立郡松成村(現・福井県鯖江市松成町)の浄土真宗本願寺派の満願寺の第14世今立乗永の五男として生まれる。幼名は芳丸。神童と言われるほど幼い頃から優れた才能を現した。14、5才の時に吐酔と改名。 旧暦1871年(明治4年)、福井藩の藩校明新館(旧明道館)に入学、アメリカ人理化学者ウィリアム・グリフィスに学ぶ。1972年(明治5年)1月にグリフィスが大学南校(東京大学の前身の1つ)教授に転じて福井を去った後、武生進修小学校で1年間英語を教えた(教え子に松本源太郎・土肥慶蔵がいた)。
鈴木 充美(すずき みつよし/すずき じゅうび、安政元年6月… 鈴木 充美(すずき みつよし/すずき じゅうび、安政元年6月16日(1854年7月10日)- 昭和5年(1930年)5月23日)は、日本の政治家、外交官、弁護士。旧姓・木村。 伊勢国河曲郡神戸(現三重県鈴鹿市)で、神戸藩士・木村家の二男として生まれ、鈴木公充の養子となる。藩選抜により上京し、慶應義塾を経て、1881年(明治14年)、東京大学法学部を卒業。 学習院教授兼監事、外務省御用掛などを務める。1886年(明治19年)2月、朝鮮国仁川在勤領事に就任。1889年(明治22年)3月、香港在勤領事に転じ、1890年(明治23年)2月まで務めた。 第9代内務次官として1898年(明治31年)7月から10月まで勤める。