本田 早苗(ほんだ さなえ、1918年2月25日 - 没年不… 本田 早苗(ほんだ さなえ、1918年2月25日 - 没年不明 )は、日本の官僚、経営者。丸善石油社長を務めた。香川県出身。 1942年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に高文行政科に合格し、通商産業省に入省した。1969年7月に企業局長に就任し、1972年6月までに務めた。1976年6月に丸善石油副社長に就任し、1977年11月から1981年3月までに社長を務めた。 1991年4月に勲二等瑞宝章を受章。
玉 朝南(オク・チョナム、朝鮮語: 옥조남、1918年2月1… 玉 朝南(オク・チョナム、朝鮮語: 옥조남、1918年2月16日 - 1997年7月26日)は、大韓民国の教授、実業家、政治家。第6代韓国国会議員。 平安南道順川生まれ、ソウルまたは慶尚南道統営出身。平壌公立中学校、山口高等学校文科、東京帝国大学法律学科卒。株式会社朝鮮ポンプ製作所重役、新興大学校・慶熙大学校法科大学教授、漢陽大学校政経大学講師、国家再建最高会議交逓委員会諮問委員、高等考試委員、民主共和党京畿第13区党委員長・国会対策委員、民主共和党所属の第6代国会議員を務めた。 1997年7月26日、持病によりソウル大病院で死去。享年79。
大口 駿一(おおぐち しゅんいち、1918年1月15日 - … 大口 駿一(おおぐち しゅんいち、1918年1月15日 - 1990年2月21日)は、日本の経営者。東京都出身。 1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に農林省に入省。1965年6月に大臣官房長に就任し、1966年7月に食糧庁長官を経て、1968年6月から1969年11月までに農林事務次官を務めた。 その後は、日本水産に転じ、1973年5月に専務に就任し、1980年6月には社長に就任した。1986年6月には会長に就任。 1990年2月21日心不全のために死去。72歳没。
堀 太郎(ほり たろう、1917年 <大正6年> 12月25… 堀 太郎(ほり たろう、1917年 <大正6年> 12月25日 - 1995年 <平成7年> 11月17日 )は、日本の経営者、銀行家。十八銀行頭取を務めた。位階は従四位。 京都府京都市出身。1943年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に大蔵省に入省した。1968年7月に経済企画庁審議官、1970年7月に本州四国連絡橋公団理事、1973年6月に世界銀行日本代表理事兼大蔵省顧問兼外務省参与を経て、1976年12月に十八銀行に転じ、副頭取に就任し、1983年10月には頭取に昇格した。1990年2月には会長に就任。 1988年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1995年11月17日、心不全のために死去。
佐藤 忠義(さとう ただよし、1917年〈大正6年〉12月1… 佐藤 忠義(さとう ただよし、1917年〈大正6年〉12月11日 - 2020年〈令和2年〉9月5日)は、日本の経営者。四国電力社長を務めた。位階は従三位。 徳島県三好郡三加茂町(現東みよし町)出身。新潟高等学校を経て1941年に東京帝国大学経済学部を卒業し、1942年1月に三菱商事に入社。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。那智に配属。1942年7月、雉乗組となる。1943年11月、海軍主計大尉に昇進。同年12月、第二出水海軍航空隊に転じ、さらに第七二一海軍航空隊で勤務し、富高基地(現日向市)で終戦を迎えた。 1948年2月に日本発送電での勤務を経て、1951年5月に四国電力に転じ、1970年5月に取締役に就任し、1974年11月に常務を経て、1983年6月に副社長に就任し、1985年6月には社長に昇格。
武内 俊夫(たけうち としお、1917年 <大正6年> 12… 武内 俊夫(たけうち としお、1917年 <大正6年> 12月11日 - 2005 <平成17年> 6月20日)は、日本の経営者。トーメン (現在の豊田通商) 社長、会長を務めた。位階は従四位。 大阪府出身。1940年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に東洋綿花に入社。1967年11月に取締役に就任し、1969年11月に常務、1971年5月に専務、1976年4月に副社長を経て、1977年6月に社長に就任。1986年6月から1989年3月までに会長を務めた。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1988年4月に勲二等瑞宝章を受章。2005年死去。死没日付をもって従四位に叙された。
門司 親徳(もじ ちかのり、1917年12月9日 - 200… 門司 親徳(もじ ちかのり、1917年12月9日 - 2008年8月16日)は、日本の海軍軍人、実業家。短現6期。最終階級は海軍主計少佐。戦後は日本興業銀行取締役総務部長、丸三証券社長を務める。 1917年12月9日、東京府に生まれる。1933年に東京府立第六中学校を、1937年に浦和高等学校を、1941年に東京帝国大学経済学部を卒業し、日本興業銀行に入社。 1941年4月18日、6期短期現役海軍主計科士官として海軍経理学校に入校。同期生に中曽根康弘、鳩山威一郎がいる。8月11日、同校を卒業。8月、戦艦「陸奥」に乗組。1941年10月2日、「瑞鶴」に乗組、庶務主任に就任。12月、真珠湾攻撃及びマレー作戦により太平洋戦争開戦。
笠間 祐一郎(かさま ゆういちろう、1917年 <大正6年>… 笠間 祐一郎(かさま ゆういちろう、1917年 <大正6年> 12月1日 - 2011年 <平成23年> 5月30日)は、日本の経営者。三井東圧化学(現在の三井化学)社長を務めた。位階は正四位。 福岡県出身。1940年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1941年5月に三井化学に転じ、1970年11月に三井東圧化学取締役に就任し、1974年11月に常務、1977年4月に専務、199年6月に副社長を経て、1981年6月には社長に就任。1985年6月に会長に就任し、1993年6月には相談役に就任し、三井化学でも務めた。 1968年4月に勲二等旭日重光章を受章。 2011年5月30日に老衰のために死去。
田代 毅(たしろ たけし、1917年11月24日 - 199… 田代 毅(たしろ たけし、1917年11月24日 - 1999年4月15日)は、日本の経営者。元住友信託銀行社長。東京都出身。 1940年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友信託銀行に入行。1964年5月に取締役に就任し、1967年12月に常務、1969年11月に専務、1972年5月に副社長を経て、1979年9月には社長に就任。1984年6月に会長に就任し、1989年6月に取締役相談役を経て、1991年6月には相談役に就任。 信託協会会長、京王電鉄取締役なども歴任。 1983年11月に藍綬褒章を受章し、1989年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1999年4月15日に呼吸不全のために死去。
庭山 慶一郎(にわやま けいいちろう、1917年9月29日 … 庭山 慶一郎(にわやま けいいちろう、1917年9月29日 - 2012年12月7日)は、日本の実業家。茶道家。中国古典研究家。文人。国内証券市場に公社債投資信託を導入した。経営者時代は「ミスター住専」と称された。父は「船場の絵描き」と呼ばれた庭山耕園で、画業顕彰のため画集や遺作展に尽力したほか、地元の大阪市立美術館に作品を寄贈している。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
有馬 洪(ありま こう、1917年8月22日 - )は、日本… 有馬 洪(ありま こう、1917年8月22日 - )は、日本の薬学研究者、経営者である。また、サッカー選手としてもプレーし、日本代表として1951年アジア競技大会など国際Aマッチ3試合に出場した。名前の読みを「ひろし」とする資料もある。 1941年3月、東京帝国大学医学部薬学科を卒業。 1947年3月、三共(現:第一三共)に入社。1969年12月に同社醗酵研究所の所長に就任。 1972年5月より同社取締役、1978年6月より同社常務取締役、1982年6月より同社監査役 をそれぞれ歴任した。なお、1990年を以て同社監査役を退任した。 東京帝国大学在学中はア式蹴球部に所属し、ハーフバックとしてプレー。
佐藤 剛彦(さとう たけひこ、1917年8月17日 - 20… 佐藤 剛彦(さとう たけひこ、1917年8月17日 - 2013年1月29日)は、日本の実業家。河北新報社代表取締役を務めた。 宮城県仙台市出身。1941年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に富士電機製造に入社。仙台営業所長を務めた。 1969年に河北新報社に転職。総務局長、販売局長、取締役、常務、専務を経て、1981年から2003年までに代表取締役を務めた。 東北放送取締役、河北ビル会長なども歴任した。 1991年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2013年1月29日、肺炎のために死去。95歳没。
岸田 寿夫(きしだ としお、1917年8月15日 - 200… 岸田 寿夫(きしだ としお、1917年8月15日 - 2007年12月8日)は、日本の経営者。大同特殊鋼社長を務めた。 滋賀県出身。1945年に東京帝国大学第二工学部冶金学科を卒業し、1946年に大同製鋼(のちの大同特殊鋼)に入社。1975年2月に取締役に就任し、1980年9月に常務、1982年9月に専務を経て、1984年9月に副社長に就任し、1988年6月には社長に昇格。1992年6月に取締役相談役に就任し、1994年6月に相談役に就任。 1993年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2007年12月8日に心不全のために死去。90歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
喜田村 健三(きたむら けんぞう、1917年(大正6年)6月… 喜田村 健三(きたむら けんぞう、1917年(大正6年)6月24日 - 没年不明)は日本の大蔵官僚、実業家。国税庁元次長。万有製薬(現:MSD、メルク・アンド・カンパニーの日本法人)元専務取締役。東京都世田谷区在籍。長男は弁護士(ミネルバ法律事務所所属)の喜田村洋一。 京都府京都市出身。喜田村眼科病院院長を務めた喜田村朔治の三男として生まれる。第三高等学校を卒業。1939年(昭和14年)高等試験行政科に合格。1940年(昭和15年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、大蔵省に入る。短期現役海軍主計科士官(5期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入学し、海軍主計中尉に任官。1941年(昭和16年)1月、経理学校を卒業し山城に配属。
青園 謙三郎(あおぞの けんざぶろう、1917年〈大正8年〉… 青園 謙三郎(あおぞの けんざぶろう、1917年〈大正8年〉6月3日 - 1993年〈平成5〉3月2日)は、福井県の郷土史研究家、実業家。位階は従五位。身をマスコミ業界に置きながら、生涯にわたり郷土の歴史を研究した。郷土史に関する著作が多くある。 1963年(昭和38年)4月、個人蔵の紙本著色柴田勝家像を発見した。 特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡の保存には、金沢大学法文学部教授・井上悦夫の奔走と福井県教育委員会の迅速な対応があったが、その際、青園も関係していた。すなわち1970年(昭和45年)8月18日、井上が農業構造改造事業の工事で遺構が破壊されていることを発見し、その夜当時福井テレビ副社長であった青園を通じて、須知邦武副知事に工事中止を申し入れたのである。
中込 達雄(なかごめ たつお、1917年5月5日 - 没年不… 中込 達雄(なかごめ たつお、1917年5月5日 - 没年不明)は、日本の経営者、銀行家。泉州銀行頭取を務めた。 山梨県出身。1944年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に大蔵省に入省。1966年に大臣官房会計課長、1969年に関東財務局長、1970年に住宅公団理事を経て、1972年には泉州銀行副頭取に就任し、1974年11月には頭取に昇格。1993年5月に会長、1996年6月に取締役相談役名誉会長、1998年6月に相談役名誉会長、1999年6月に顧問を経て、2000年6月には名誉顧問に就任。 2004年4月に瑞宝中綬章を受章。
渡辺 直治郎(わたなべ なおじろう、1917年4月11日 -… 渡辺 直治郎(わたなべ なおじろう、1917年4月11日 - 2003年8月9日 )は、日本の経営者。三菱製紙の社長・会長を務めた。 埼玉県出身。1940年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に三菱銀行に入行した。1968年11月に取締役に就任し、1971年5月に三菱製紙に転じ、常務に就任し、1973年11月に専務、1977年6月に副社長を経て、1978年6月に社長に就任。1985年6月に会長に就任し、1992年6月に取締役相談役を経て、1997年6月に相談役に就任。 1989年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2003年8月9日、心不全のために死去。86歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
秋田 正彌(あきた まさや、1917年3月29日 - 200… 秋田 正彌(あきた まさや、1917年3月29日 - 2001年8月7日)は、日本の経営者。大同特殊鋼社長を務めた。広島県出身。 1947年に東京大学工学部機械工学科を卒業し、同年に大同製鋼(のちの大同特殊鋼)に入社。1967年8月に取締役に就任し、1970年8月に常務、1973年8月に専務を経て、1978年9月に副社長に就任し、1982年9月には社長に昇格。1986年5月に取締役相談役に就任し、1998年6月に相談役に就任。 1974年3月に大河内記念技術賞を受賞し、1983年4月に藍綬褒章を受章。 2001年8月7日老衰のために死去。84歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
渡辺 文夫(わたなべ ふみお、1917年3月28日 - 20… 渡辺 文夫(わたなべ ふみお、1917年3月28日 - 2012年2月10日)は、日本の経営者。東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)社長・会長、日本航空会長、日本棋院理事長。公益社団法人日本コントラクトブリッジ連盟創設者。 東京府出身。東京帝国大学卒。 1939年、東京海上火災保険に入社。 1939年、短期現役海軍主計科士官(2期)を志願し、同年5月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。赤城に配属。鈴谷庶務主任、漢口軍需部付、筑波海軍航空隊主計長兼副官を歴任。1941年5月、主計大尉に昇進し、1943年6月、予備役に編入。同年12月、召集され軍需省航空兵器総局付となり、1944年11月、主計少佐に進み終戦を迎えた。
河合 良一(かわい りょういち、1917年1月18日 - 2… 河合 良一(かわい りょういち、1917年1月18日 - 2008年11月3日)は、日本の経営者。小松製作所社長を務めた。 東京都で実業家河合良成の長男として生まれた。1939年に東京帝国大学経済学部を卒業。同年、短期現役海軍主計科士官(3期)を志願。同年10月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。1940年3月に経理学校を卒業。東京監督官事務所に配属。1944年11月、海軍主計少佐に進み、軍需省航空兵器総局勤務で終戦を迎えた。 日産自動車、商工省、農林省、通商産業省での勤務を経て、1954年に小松製作所に入社。1955年に取締役に就任し、1958年に常務、1960年に専務、1963年に副社長を経て、1964年に社長に就任。
長瀬 恒雄(ながせ つねお、1917年1月9日 - 2006… 長瀬 恒雄(ながせ つねお、1917年1月9日 - 2006年6月29日 )は、日本の経営者。 岐阜県高山市出身。1941年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に鉄道省に入省した。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進し終戦を迎えた。 国鉄で常務理事などを歴任し、1970年5月に日本交通公社(現在のJTB)常務に就任し、専務を経て、1976年6月に社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1990年6月から相談役を務めた。 2006年6月29日、死去。89歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
吉光 久(よしみつ ひさし、1917年1月8日 - 1996… 吉光 久(よしみつ ひさし、1917年1月8日 - 1996年10月24日)は、日本の経営者。日本合成ゴム(現在のJSR)社長を務めた。広島県出身。 1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、高文行政科にも合格し、1942年に商工省に入省。1966年に通商産業省化学工学長、1968年に重工業局長、1969年に中小企業庁長官を経て、1971年に日本開発銀行理事に就任。1974年11月に日本合成ゴム専務に就任し、1975年5月に副社長を経て、1982年6月に社長に就任。1987年6月には相談役に就任。 1988年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1996年10月24日呼吸不全のために死去。79歳没。
辜 振甫(こ しんぽ、1917年1月6日 - 2005年1月… 辜 振甫(こ しんぽ、1917年1月6日 - 2005年1月3日)は、中華民国(台湾)の財界人。台湾工商協進会(中国語版)理事長、台湾証券取引所初代理事長、海峡交流基金会初代理事長などを歴任した。字は公亮。祖籍は福建省恵安県。台湾の五大家族といわれる名家出身。 日本統治時代の台湾で一代で財閥を築き上げた辜顕栄の五男として生まれる。1941年(昭和16年)、台北帝国大学法学部卒業後、東京帝国大学でビジネス管理などを学ぶ。日本降伏時に日本軍の中宮悟郎や牧沢義夫らと台湾独立を画策、台湾総督の安藤利吉に協力を持ちかけたが拒否され、1946年に逮捕、国土不法占拠共謀罪で2年2か月の禁固刑を受ける。 その後台湾に戻り、中国国民党政権による土地改革などに協力、土地の供出の見返りとして得た台湾セメントなどの事業で、父の辜顕栄から引き継いだ事業を発展させた。
菅井 栄一郎(榮一郎、すがい えいいちろう、1917年〈大正… 菅井 栄一郎(榮一郎、すがい えいいちろう、1917年〈大正6年〉1月6日 - 1989年〈平成元年〉8月1日)は、日本の地方公務員、経営者。神奈川県教育長。東京都出身。位階は正五位。 1950年に東京大学法学部政治学科を卒業。神奈川県で農政部長、教育長などを経て、1971年にテレビ神奈川副社長に就任し、同年12月から1982年6月までに社長を務めた。 1977年から1983年までに神奈川県公安委員を務め、1979年には鎌倉女学院理事長、同中学校・高校校長に就任。 1987年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1989年8月1日心不全のために横浜市の自宅で死去。72歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
阿部 栄夫(榮夫、あべ しげお、1917年 <大正6年> 1… 阿部 栄夫(榮夫、あべ しげお、1917年 <大正6年> 1月1日 - 1990年 <平成2年> 10月28日)は、日本の経営者。富士電機社長、会長を務めた。位階は正四位。 東京都出身。1939年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に富士電機製造(のちの富士電機)に入社。1967年11月に取締役に就任し、1970年11月に常務、1976年6月に専務を経て、1978年6月に副社長に就任し、1981年6月に社長に昇格。1986年6月に会長を就任。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1987年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1990年10月28日急性心不全のために死去。73歳没。死没日付をもって従七位から正四位に進階した。
嘉屋 實(かや みのる、1917年1月1日 - 2002年1… 嘉屋 實(かや みのる、1917年1月1日 - 2002年12月3日)は、日本の経営者。 山口県岩国市出身。広島高等学校を経て1939年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年、日本鉱業に入社した。短期現役海軍主計科士官(3期)を志願。同年10月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。1940年3月に経理学校を卒業。1941年10月、主計大尉、1944年11月、海軍主計少佐に進み終戦を迎えた。 1965年8月に共同石油に転じ、取締役に就任し、常務、専務を経て、1978年6月に副社長に就任し、1983年6月には社長に昇格した。1985年11月に会長に就任し、1990年6月から相談役を務めた。
坂田 正之(さかた まさゆき、1916年12月1日 - 19… 坂田 正之(さかた まさゆき、1916年12月1日 - 1990年10月12日)は、日本の経営者。東京都出身。 1946年に東京帝国大学法学部を卒業。 日本興業銀行での勤務を経て、1949年に坂田種苗(現在のサカタのタネ)に転じ、専務に就任し、1974年には社長に就任。1979年6月から会長を務めた。 1980年11月に藍綬褒章を受章。 1990年10月12日肺炎のために死去。73歳没。
小林 祐二(こばやし ゆうじ、1916年11月10日 - 2… 小林 祐二(こばやし ゆうじ、1916年11月10日 - 2002年2月28日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。 岡山県出身。1941年に東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業し、同年に旭化成に入社。1963年5月に取締役に就任し、1972年10月に常務、1974年11月に専務を経て、1975年5月から1978年3月までに副社長を務め、1978年6月には蝶理社長に就任。1985年6月に会長に就任し、1987年6月から常任相談役を務めた。 1983年11月に藍綬褒章を受章し、1988年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年2月28日肺炎のために死去。85歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
馬瀬 清亮(ませ せいすけ、1916年8月31日 - 199… 馬瀬 清亮(ませ せいすけ、1916年8月31日 - 1993年12月18日 )は、日本の経営者。北陸銀行頭取を務めた。 富山県出身。旧制富山高等学校を経て、1939年に東京帝国大学法学部を卒業。兵役を経て、1946年に北陸銀行に入行した。1961年5月に取締役に就任し、1964年11月に常務を経て、1970年3月に頭取に就任。1980年6月には会長に就任。 1978年11月には藍綬褒章を受章。 1993年12月18日、脳出血のために死去。77歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
吉田 雄三(よしだ ゆうぞう、1916年 <大正5年> 8月… 吉田 雄三(よしだ ゆうぞう、1916年 <大正5年> 8月8日 - 1992年 <平成4年> 1月25日)は、日本の経営者、銀行家。山陰合同銀行頭取を務めた。位階は正五位。 山形県出身。1940年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1967年4月に日本開発銀行理事を経て、1973年11月に山陰合同銀行に転じ、副頭取に就任し、1975年12月には頭取に昇格した。1983年6月には相談役に就任。 1984年11月に藍綬褒章を受章し、1989年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1992年1月25日、脳出血のために死去。75歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
岩田 幸彰(いわた ゆきあき、1916年(大正5年)7月25… 岩田 幸彰(いわた ゆきあき、1916年(大正5年)7月25日 - 1994年(平成6年)3月15日)は、日本の会社役員及び日本ヨット協会役員、そして日本オリンピック(JOC)委員である。 長きに渡り日本オリンピック委員を務め、1964年東京オリンピック招致活動と運営に尽力。そして1972年札幌オリンピック招致活動成功の功労者の一人である。位階は正六位。 1916年(大正5年)、父・岩田幸美と母・道子の長男として生まれる。成城高校を卒業後、1938年(昭和13年)4月、東京帝国大学法学部政治学科に入学。 高校生の頃からスキーの滑降回転複合競技で大会に出場するなどスポーツを嗜んでいたが、東京帝国大学ではヨット部に所属し、1941年(昭和16年)の全日本選手権で東京帝国大学(東京大学)が明治神宮競技大会夏季海洋競技で初優勝した時の東京帝大ヨット部主将であり、雑誌「体育日本」に「暁の超特急」吉岡隆徳と並んで「競技界優秀選手十傑」に選ばれている。
長谷川 謙浩(はせがわ けんこう、1916年6月8日 - 1… 長谷川 謙浩(はせがわ けんこう、1916年6月8日 - 1994年11月12日)は、日本の実業家。川崎重工業社長、会長を務めた。福島県金山町中川出身。 1941年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、同年に川崎重工業に入社した。海軍技術将校、大尉を経て、主に船舶設計を手掛け、1971年11月に取締役に就任し、1975年5月に常務、1978年6月に専務、1980年6月に副社長を経て、1981年6月に社長に就任し、在任中は、造船不況で悪化していた業績の立て直しと1985年からの急激な円高の影響による経営再建に力を注いだ。1987年6月に会長に就任し、1992年から相談役を務めた。 政府の各種審議委員会委員や日本造船工業会会長や日本航空宇宙工業会会長や日本航空機開発協会理事長などを歴任した。
渡辺 孝友(わたなべ たかとも、1916年5月22日 - 1… 渡辺 孝友(わたなべ たかとも、1916年5月22日 - 1986年12月17日)は、日本の銀行家、経営者。島根県大田市出身。 1939年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年4月に日本銀行に入行。長崎支店長、総務部長を経て、1966年6月に営業局長に就任し、1968年1月から1975年2月までに理事を務めた。1975年4月に日本開発銀行副総裁に就任し、1979年4月には総裁に昇格した。 1986年12月17日脳内出血のために死去。70歳没。
亀井 正夫(かめい まさお、1916年4月20日 - 200… 亀井 正夫(かめい まさお、1916年4月20日 - 2002年6月23日)は、日本の実業家。住友電気工業元社長、会長。関西国際空港株式会社元会長。住友老壮会会長。社会経済生産性本部元会長。国鉄再建監理委員会委員長。政治改革推進協議会会長。「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同者。新しい日本をつくる国民会議元会長。勲一等旭日大綬章受章。 1916年兵庫県神戸市生まれ。旧制第一神戸中学校から岡山の旧制第六高等学校を経て1939年東京帝国大学法学部卒業。同年住友本社入社。1946年住友電気工業入社。1973年社長、1982年会長を経て1991年相談役に就任。1992年日本生産性本部会長。2001年より住友老壮会会長となる。
三井 敏正(みつい としまさ、1916年 <大正5年> 3月… 三井 敏正(みつい としまさ、1916年 <大正5年> 3月18日 - 1989年 <平成元年> 12月14日)は、日本の経営者。キャタピラー三菱社長を務めた。位階は従四位。 山口県出身。1938年に東京帝国大学工学部船舶学科を卒業し、同年に三菱重工業に入社した。1973年5月に取締役に就任し、1975年5月に常務、1980年6月に副社長を経て、1983年6月にキャタピラー三菱社長に就任し、1987年7月までに務めた。 1983年4月に藍綬褒章を受章し、1989年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年12月14日、結腸癌のために死去。73歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
根岸忠雄(ねぎし ただお、1916年2月28日 - )は、日… 根岸忠雄(ねぎし ただお、1916年2月28日 - )は、日本の実業家。東邦チタニウム社長、日鉱エンジニアリング社長。 埼玉県出身。旧制埼玉県立熊谷中学校、旧制浦和高校を経て、1940年、東京帝国大学工学部卒業。 大学卒業後、日本鉱業に入社。金属事業本部金属加工部長、倉見工場長を経て、1968年、理事金属加工事業本部管理室長、1969年に取締役、1973年、常務、1976年、専務、1979年、日鉱エンジニアリング社長となる。日鉱エンジニアリング退社後、東邦チタニウム社長となる。 チタニウム協会副理事長、日本伸銅協会理事も歴任した。
安川 敬二(やすかわ けいじ、1916年(大正5年)1月22… 安川 敬二(やすかわ けいじ、1916年(大正5年)1月22日 - 2009年(平成21年)7月10日)は、日本の実業家。 安川電機の創設者安川第五郎の次男として福岡県北九州市に生まれる。1940年(昭和15年)、東京帝国大学を卒業後、安川電機に入社。 1972年(昭和47年)、いとこである安川寛(第五郎の兄・安川清三郎の子)の後を受け安川電機の4代目社長に就任し、産業用ロボットの開発を推進した。 1985年(昭和60年)、創業家以外で初となる、菊池功に社長を譲り、会長に就任。1988年(昭和63年)に会長を退き、特別顧問を務めた。 また、1982年(昭和57年)より翌年まで日本電機工業会会長を務めた。
小坂 徳三郎(こさか とくさぶろう、1916年1月20日 -… 小坂 徳三郎(こさか とくさぶろう、1916年1月20日 - 1996年2月23日)は、日本の実業家・政治家。信越化学工業社長・会長、信濃毎日新聞社長、衆議院議員、運輸大臣(53代)などを歴任した。 東京帝国大学卒業後、朝日新聞記者から、小坂財閥に戻り、信越化学工業社長に。財界活動も始め、財界の支援で1969年に政界入りした。将来の首相候補といわれ、一年生議員ながら、政策集団「新風政治研究会」を設立、当選2回で総理府総務長官で初入閣した。以降も経済企画庁長官や運輸大臣を歴任し、大平、中曽根康弘とともに「大中小」、安倍晋太郎、竹下とともに「安竹小」と総理総裁候補として目された。しかし、運輸大臣時代に国鉄改革をめぐって、土光敏夫や中曽根康弘首相など政財界の支持を失い、影響力が低下。
有田 一壽(ありた かずひさ、1916年1月1日 - 199… 有田 一壽(ありた かずひさ、1916年1月1日 - 1999年4月1日)は、日本の実業家、政治家、教育家。一寿とも。旧姓は正木。 日本統治時代の朝鮮平安北道新義州に生まれる。5歳で母親と、11歳で父親と死別し、福岡県築上町の叔父に引き取られる。小倉師範学校、福岡高等学校 (旧制)を経て、1941年東京帝国大学文学部教育学科を卒業。直ちに兵役に就く。 戦後は青葉ヶ丘女子高校(現・高稜高等学校)校長、福岡県教育委員(1948年当選)を務めた後、妻の兄である石橋健蔵が経営する若松築港(現・若築建設)に1952年に入社し、専務を経て、1958年社長に就任。後に会長(1976年)、名誉会長、相談役を歴任する。
大隈 孝一(おおくま こういち、1915年12月22日 - … 大隈 孝一(おおくま こういち、1915年12月22日 - 1997年8月23日)は、日本の経営者。大隈鉄工所(のちのオークマ)社長、会長を務めた。愛知県名古屋市出身。 1940年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、1943年に大隈鉄工所に入社した。副社長などを歴任し、1948年から1978年までに社長を務めた。 名古屋青年会議所初代会頭、中部経済連合会副会長、名城大学理事長、南山大学非常勤講師なども務めた。1977年に藍綬褒章を受章し、1992年に勲三等旭日中綬章を受章した。 1997年8月23日脳梗塞のために死去。81歳没。
関 正彦(せき まさひこ、1915年12月17日 - 201… 関 正彦(せき まさひこ、1915年12月17日 - 2011年12月14日)は、日本の経営者。三井銀行社長、会長を務めた。岡山県岡山市出身。 大阪高等学校を経て、1938年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に三井銀行に入行した。1968年11月に取締役に就任し、1971年5月に常務、1975年3月に専務、1977年12月に副社長を経て、1978年12月に社長に就任した。1982年2月に会長に就任し、1984年6月を相談役を経て、1997年7月からさくら銀行名誉顧問を務めた。 2011年12月14日脳梗塞のため死去、95歳没。
西村 恒三郎(にしむら つねさぶろう、1915年11月10日… 西村 恒三郎(にしむら つねさぶろう、1915年11月10日 - 1996年7月11日)は、日本の経営者。住友重機械工業社長、会長を務めた。 東京都出身。1939年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友機械工業(現在の住友重機械工業)に入社した。1965年5月に取締役に就任し、1967年1月に常務、1969年6月に専務、1971年7月に副社長を経て、1973年11月に社長に就任。1983年6月に会長に就任し、1987年6月から相談役を務めた。 1977年11月に藍綬褒章を受章し、1992年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1996年7月11日、肝不全のために死去。80歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
木下 祝郎(きのした しゅくお、1915年 <大正4年> 1… 木下 祝郎(きのした しゅくお、1915年 <大正4年> 10月31日 - 2011年 <平成23年> 3月19日)は、日本の農芸化学者、経営者。農学博士。協和発酵工業(現在の協和キリン)社長を務めた。位階は正四位。 京都府久美浜町(現京丹後市)出身。第八高等学校を経て、東京帝国大学に進み、1941年に同大農学部農芸化学科を卒業し、台湾総督府工業研究所に入所。同年12月開戦とともに徴兵され中国大陸南部に出兵、1946年5月に復員・帰国して協和産業(後の協和醗酵工業)に入社した。同社では、ペニシリンの量産化、ストレプトマイシン生産技術の導入などに取り組んだ。その後、同社東京研究所で、発酵によるアミノ酸製造技術(アミノ酸発酵)を発明した研究開発チームを主導した。
高橋 忠介(たかはし ちゅうすけ、1915年9月20日 - … 高橋 忠介(たかはし ちゅうすけ、1915年9月20日 - 2001年9月6日)は、日本の経営者。ロイヤルホテル社長、会長を務めた。愛媛県出身。 1940年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友銀行に入行した。1966年に取締役に就任し、1969年に常務、1974年に専務、1977年に副頭取、1983年に副会長を経て、1985年4月にロイヤルホテル社長に就任。1988年6月から1995年6月までに会長を務めた。 2001年9月6日急性心筋梗塞のために死去。85歳没。
岩村 英郎(いわむら えいろう、1915年9月13日 - 1… 岩村 英郎(いわむら えいろう、1915年9月13日 - 1991年5月7日)は、日本の実業家。川崎製鉄社長、会長を務めた。大阪府大阪市出身。 1938年に東京帝国大学工学部冶金学科を卒業し、同年に川崎造船所に入社した。1950年に川崎製鉄に移り、常務、専務、副社長を経て、1977年6月に社長に就任し、1982年6月には会長に就任した。1988年6月に取締役相談役に就任し、1990年6月に相談役に就任した。 日本経営者団体連合会常任理事、日本卓球協会会長も務めた。 1985年11月に勲一等瑞宝章を受章。 1991年5月7日、肝不全のために死去。75歳没。
小林 久明(こばやし ひさあき、1915年9月3日 - 19… 小林 久明(こばやし ひさあき、1915年9月3日 - 1990年12月17日)は、日本の経営者。三菱鉱業セメント社長を務めた。長野県長野市出身。 1939年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、1948年に三菱鉱業に入社。1963年に三菱セメントに出向し、1967年5月に取締役に就任し、1970年11月に常務、1973年11月に三菱鉱業セメント専務、1974年11月に副社長を経て、1976年6月には社長に就任。1986年6月には会長に就任。 1987年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1990年12月17日心不全のために死去。75歳没。
渡辺 省吾(渡邉、わたなべ しょうご、1915年 <大正4年… 渡辺 省吾(渡邉、わたなべ しょうご、1915年 <大正4年> 8月31日 - 2007年 <平成19年> 5月22日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。位階は従三位。 東京都出身。1938年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1962年11月に日興証券常務に就任し、1963年11月に専務を経て、1966年11月に副社長に就任し、1970年11月には社長に昇格。1973年11月に会長に就任し、1981年12月に取締役相談役を経て、再び1982年10月に会長に就任し、1986年12月から相談役を務めた。 1975年から1992年までの間に日本証券業協会の会長の第3代・第7代・第12代を務めた。
秋山 太一郎(あきやま たいちろう、1915年〈大正4年〉8… 秋山 太一郎(あきやま たいちろう、1915年〈大正4年〉8月16日 - 2006年〈平成18年〉1月5日)は、日本の医学者、医学博士(東京大学)、実業家。補綴材(エピテーゼ、プロテーゼ)の研究者。株式会社高研の創業者。株式会社荘内日報社元社長・元会長。鶴岡市行政顧問。勲四等瑞宝章。山形県鶴岡市出身。「世界にさきがけ、独創に生きる」を座右の銘とした。 医療用高分子の研究の分野で活躍し、血液樹脂、合成高分子、医用シリコーン、医療用の生体モデルなどを開発し、医療技術の向上に貢献した。略歴は以下のとおり。
香月 義人(かつき よしと、1915年〈大正4年〉8月12日… 香月 義人(かつき よしと、1915年〈大正4年〉8月12日 - 1991年〈平成3年〉8月1日)は、日本の経営者。佐賀銀行頭取を務めた。位階は正五位。 佐賀県出身。1941年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年4月に日本興業銀行に入行。1965年11月に取締役、1969年11月に常務を経て、1973年5月には佐賀銀行頭取に就任。1980年5月に会長に就任。 1980年11月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1991年8月1日 急性心不全のために死去。75歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
舘野 万吉(たての まんきち、1915年6月20日 - 20… 舘野 万吉(たての まんきち、1915年6月20日 - 2015年11月18日)は、日本の実業家。元日本製鋼所社長。 旧制栃木県立栃木中学校を経て、1933年に東京帝国大学工学部卒業。1940年、日本製鋼所入社、大日本帝國海軍呉工場(広島)で戦艦大和、戦艦武蔵等の建造に従事した。1979年同社社長就任(のち相談役)。横浜カントリークラブ名誉理事。 1977年に藍綬褒章、1987年に勲二等瑞宝章を受章。 2015年11月18日、老衰のため死去。100歳没。