大島 久満次(おおしま くまじ、1865年12月10日〈慶応… 大島 久満次(おおしま くまじ、1865年12月10日〈慶応元年10月23日〉- 1918年〈大正7年〉4月27日)は、日本の台湾総督府・内務官僚、政治家。台湾総督府民政長官、神奈川県知事、衆議院議員。 豪農・永井匡威の五男として尾張国に生まれ、一等警視・大島正人の養子となる。1888年(明治21年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し衆議院書記官となる。1889年(明治22年)5月、高等試験に合格し法制局参事官試補となり、法制局参事官を務めた。1894年(明治27年)3月、大島に改姓した。 1896年(明治29年)、台湾総督府に転じ、民政局参事官、兼製薬所長、警視総長、総務局長などを歴任。同総督府の文官ナンバーツーで、同じ法制局官僚出身の石塚英蔵に次ぐ反後藤新平民政長官派の高官であり、石塚の関東州民政署民政長官転出後は、反後藤派官僚の筆頭となった。
平井 毓太郎(ひらい いくたろう、1865年11月28日(慶… 平井 毓太郎(ひらい いくたろう、1865年11月28日(慶応元年10月11日) - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の医学者、小児科医。京都帝国大学教授。旧姓木場。三重県出身。 娘・照子の婿・平井金三郎は岩村高俊の三男。
不破 彦麿(ふわ ひこまろ、1865年11月21日(慶応元年… 不破 彦麿(ふわ ひこまろ、1865年11月21日(慶応元年10月4日) - 1919年(大正8年)9月2日)は、日本の農商務・内務官僚。官選佐賀県知事、山口県下関市長。族籍は福岡県士族。 筑前国福岡(現在の福岡県福岡市)荒戸町で、福岡藩士・不破国雄の長男として生まれる。1892年7月、帝国大学法科大学を卒業。同月、農商務試補に任官し参事官室に配属された。 以後、農商務参事官兼農商務大臣秘書官、同省特許局審判官、佐賀県事務官、兵庫県事務官・第一部長兼第三部長、東京府事務官・内務部長などを歴任。 1911年10月、佐賀県知事に就任。1914年6月9日、知事を休職。1917年10月、下関市長に就任。
中松 盛雄(なかまつ もりお、1865年11月20日〈慶応元… 中松 盛雄(なかまつ もりお、1865年11月20日〈慶応元年10月3日〉 - 1952年〈昭和27年〉7月21日)は、日本の官僚、弁護士、弁理士。第9代特許局長。日本基督教会理事長。化学工業協会会長。族籍は和歌山県士族。 中松克正の二男。1891年(明治24年)帝国大学法科大学英法科(現東京大学法学部)を卒業。農商務省に入る。1907年(明治40年)12月25日から1913年(大正2年)6月13日まで第9代特許局長を務めた。退官後、1914年(大正3年)に弁護士・弁理士登録し、同年7月1日に現在の中村合同特許法律事務所の前身にあたる中松特許法律事務所を開設した。日本共立火災保険取締役を兼ねる。
謝花 昇(じゃはな のぼる、旧暦尚泰18年9月28日〈186… 謝花 昇(じゃはな のぼる、旧暦尚泰18年9月28日〈1865年11月16日〉 - 明治41年〈1908年〉10月29日)は、沖縄の社会運動家、自由民権運動家。帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)卒業。沖縄県初の農学士。東風平村(現:八重瀬町)出身。 東風平間切(現在の八重瀬町)の農家の出身。1882年(明治15年)に第1回県費留学生として上京し、学習院中等科に入学。中江兆民の教えを受ける。1885年(明治18年)から東京山林学校で学び、1891年(明治24年)に帝国大学農科大学を卒業。沖縄初の農学士となった。 卒業後、鹿児島県等の県外出身者が多数を占めていた沖縄県庁に技師として入り、沖縄の農政改革に務める。
清水 市太郎(しみず いちたろう、1865年11月14日〈慶… 清水 市太郎(しみず いちたろう、1865年11月14日〈慶応元年9月26日〉- 1934年〈昭和9年〉12月19日)は日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)、弁護士。 尾張国知多郡鬼崎村(後の愛知県常滑市)出身。1889年(明治22年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、イギリスのミドル・テンプルに留学した。帰国後に判事試補、海軍大学校教官、東京帝国大学法科大学講師を歴任し、日清戦争の際には捕獲審検所評定官を務めた。その後は法制局参事官を兼ね、退官後は弁護士を開業。 1899年(明治32年)には小栗富治郎の欧米視察に随伴した。1908年の第10回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後合わせて6期の当選を数えた。
橋本 圭三郎(はしもと けいざぶろう、1865年11月11日… 橋本 圭三郎(はしもと けいざぶろう、1865年11月11日(慶応元年9月23日) - 1959年(昭和34年)2月14日)は、日本の官僚・実業家。貴族院議員。新潟県長岡市千手町出身。 長岡藩士・橋本弥十郎の長男として生まれる。1884年(明治17年)に長岡学校を卒業、育英団体である長岡社の支援を受けて上京、大学予備門へ進学。1890年(明治23年)、東京帝国大学を卒業して法制局に入り、1893年に枢密院書記官となる。 その後、大蔵省へ移り、欧米出張を経て1905年(明治38年)に横浜税関長、1907年(明治40年)に主計局長、1911年(明治41年)には大蔵次官となる。さらに、1912年(明治42年)12月5日に貴族院議員に勅選され、1946年(昭和21年)まで努めた。
関場 不二彦(せきば ふじひこ、1865年11月7日(慶應1… 関場 不二彦(せきば ふじひこ、1865年11月7日(慶應1年9月19日)- 1939年(昭和14年)8月25日)は、日本の外科医、医史学者である。スクリバ門下十哲の一人で、北海道医学界の中心的存在であった。北海道医師会、札幌医師会の初代会長。『卵巣腫瘍ノ臨床上知見及外科的療法ノ追加』で医学博士(東京帝大)。 戦国時代末期は蒲生家に仕え、江戸時代中期に会津松平家家臣となる。曽祖父は北方警備で利尻島に赴き現地で病没(28歳)。祖父は戊辰戦争時に敢死隊指図役として若松城下で討死にした(62歳)。父の忠武は朱雀隊士で、斗南藩権少属を経て、青森県に採用され県の東京出張所員として上京。のち内務省官吏となる。
三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年1… 三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年10月29日)- 1939年(昭和14年)6月7日)は、日本の国史学者。貴族院帝国学士院会員議員、文学博士。 播磨国神東郡御立村の漢方医・幸田貞助の三男として生まれ、1875年に砥堀村で寺子屋を開いていた元姫路藩江戸詰藩士(足軽)・三上勝明の養子となる。養父は地元の小学校の校長を務めたのち、姫路市街に移り砂糖・乾物を商う「三上屋」に転じた。 その後旧制姫路中学校に進学するが、本科3年終了後、学校側の対応に不満を持ち自主退学。小学校の代用教員となったが、養父の希望で農学校進学のため上京し、本郷元町にあった進学予備校「進文学舎」を経て1881年に東京大学予備門入学、教師の勧めもあり入学先学部を農学から史学に変更し、1885年東京帝国大学文学部入学。
和田 英松(わだ ひでまつ、慶応元年9月10日(1865年1… 和田 英松(わだ ひでまつ、慶応元年9月10日(1865年10月29日)- 昭和12年(1937年)8月20日)は、日本の歴史学者(日本史学)・国文学者。文学博士。位階勲等は従三位勲二等。 備後国沼隈郡鞆町(現在の広島県福山市)にて和田五平・イトの二男として出生。1872年、母の生家に託せられ、照蓮寺の三宅某について習字読書を始める。1873年、備後国深津郡新涯小学校に通学し、櫛野瀬平に学ぶ。1874年、医師内海卓爾について習字読書を学ぶ。1878年、玉井正幹について漢籍を学ぶ。1880年、福山師範学校を受験、不合格。以来、宗家の家事を手伝いながら会計を掌り、もっぱら史書を読む。1884年、帝国大学文科大学古典講究科入学。
野副 重一(のぞえ じゅういち、1865年10月28日(慶応… 野副 重一(のぞえ じゅういち、1865年10月28日(慶応元年9月9日) - 1927年(昭和2年)3月28日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 肥前国高来郡諫早村(現在の長崎県諫早市)に木下助内の三男として生まれ、1882年(明治15年)に野副弥惣左衛門の養子となった。1892年(明治25年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した後、仙台市で弁護士事務所を開業した。 仙台市会議員、同議長を経て、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に当選した。 蔵王町立宮小学校には水難事故に遭った教え子を救おうとして殉職した小野さつき訓導への弔辞が展示されている。
永井 環(ながい たまき、1865年10月27日(慶応元年9… 永井 環(ながい たまき、1865年10月27日(慶応元年9月8日) - 1941年(昭和16年)12月15日)は、日本の裁判官、内務官僚、歴史家。官選宮崎県知事、門司市長、福岡県八幡市長、福井市長。 越前国足羽郡福井豊島中町(現福井県福井市豊島)出身。福井藩士・永井清也の長男として生まれ、永井熊之助の養子となる。1890年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年8月、判事試補に任官し千葉始審裁判所詰となる。 以後、千葉区裁判所判事、横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事を歴任。1894年12月、内務省に転じ長野県参事官に就任。以後、同県内務部第二課長・第三課長兼務、同内務部第一課長兼第二課長、群馬県警部長、群馬県書記官、北海道庁事務官・財務部長、同兼土木部長、同植民部長、静岡県書記官、兵庫県書記官、同事務官・第一部長、兵庫県立蚕業学校長事務取扱などを歴任。
小山 温(おやま あつし、慶応元年8月28日(1865年10… 小山 温(おやま あつし、慶応元年8月28日(1865年10月17日) - 昭和19年(1944年)2月9日)は、日本の司法官僚、判事、衆議院議員。法学博士。 三河国碧海郡小山村(愛知県碧海郡小山村、刈谷町を経て現刈谷市)出身。1890年、東京帝国大学法科大学法律学科卒業。東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京控訴院部長、大審院判事を歴任した。1906年より法律取調委員。1907年、司法省監獄局長に就任し、1911年に司法省刑事局長に移った。1912年に司法次官に昇任し、1914年まで務めた。 次官退任後、1914年4月21日、錦鶏間祗候に任じられ、弁護士を開業した。1917年の第13回衆議院議員総選挙に愛知県郡部から立憲政友会の候補として出馬し、当選。
和田 万吉(わだ まんきち、慶応元年8月18日(1865年1… 和田 万吉(わだ まんきち、慶応元年8月18日(1865年10月7日) - 昭和9年(1934年)11月21日)は、明治から昭和にかけての国文学者・図書館学者・書誌学者。今沢慈海と並んで日本に本格的な図書館学を導入した人物として知られている。美濃国大垣出身。 大垣藩士和田為助の子として、大垣城城下町の東長町に生まれる。明治23年(1890年)に東京帝国大学国文科を卒業して東京帝国大学付属図書館大学に奉職する。明治25年(1892年)から4年間は学習院教授を兼ねる。明治29年(1896年)に東京帝国大学助教授兼附属図書館司書官となり、翌明治30年(1897年)に図書館長に昇進、以後27年間にわたって館長を務めた。
久米 金弥(くめ きんや、慶応元年8月12日(1865年10… 久米 金弥(くめ きんや、慶応元年8月12日(1865年10月1日) - 昭和7年(1932年)5月6日)は、日本の内務官僚、逓信官僚、農商務官僚。 東京府士族久米美由の長男として生まれる。1884年(明治17年)、東京大学を卒業後、内務省に入る。書記官、参事官、社寺局長を歴任した。のち逓信省に移り、参事官、通信局長を務めた。さらに農商務省に移り、特許局長、山林局長、農商務次官を歴任した。 特許局長を務めていた1904年(明治37年)に農商務大臣清浦奎吾とともに「工業所有権保護協会」を創設し、常務委員長、副会長に就任した。工業所有権保護協会は1910年(明治43年)に「帝国発明協会」と改称したが、引き続き副会長を務めた。
内田 康哉(うちだ こうさい / やすや、1865年9月29… 内田 康哉(うちだ こうさい / やすや、1865年9月29日〈慶応元年8月10日〉- 1936年〈昭和11年〉3月12日)は、日本の外交官、政治家。栄典は従一位勲一等伯爵。 明治・大正・昭和の3代にわたって外務大臣を務めた唯一の人物。戦前の日本を代表する外政家だが、その外交姿勢は時期によって揺れがあり、単純ではない。通算外相在職期間7年5か月は、現在に至るまで最長である。 熊本藩医・内田玄真と熊本士族黒田五左衛門長女ミカの子として肥後国八代郡竜北(現:熊本県八代郡氷川町)に生まれる。八代郡鏡町にあった名和童山の新川義塾などで学んだ後、同志社英学校に入学するも2年後に退学。東京帝国大学法科卒業後に外務省に入省し、ロンドン公使館勤務、清国北京公使館勤務中に一時、臨時代理公使・オーストリア公使兼スイス公使・アメリカ大使・ロシア大使などを歴任し、第4次伊藤内閣の外務次官を務めた。
桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶… 桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶応元年8月1日) - 1945年2月20日)は、日本の官僚。大蔵次官(心得)、台湾銀行頭取、第5代神戸市長(在任:1920年10月18日 - 1922年(大正11年)5月27日)。静岡県出身。 1865年9月20日(慶応元年8月1日)、後の静岡県に生まれる。大学予備門、東京帝国大学法学部を卒業後官僚となり、長野県参事官、石川県参事官、岡山県警部長、茨城県書記官、東京税務監督局長、神戸税関長、大蔵省主税局長、税関臨時工事部長、大蔵省関税局長、専売局長、大蔵次官(心得)、台湾銀行頭取などを歴任。 1920年(大正9年)、名市長と呼ばれた鹿島房次郎の後任として第5代神戸市長に就任。
森 外三郎(もり ほかさぶろう、1865年9月20日〈慶応元… 森 外三郎(もり ほかさぶろう、1865年9月20日〈慶応元年8月1日〉 - 1936年〈昭和11年〉3月6日)は石川県出身の数学者であり教育者。第三高等学校校長などを務めた。 1865年、石川県金沢に生まれる。第一高等学校を経て東京帝国大学理科大学に進んだ。1891年(明治24年)に同大学数学科を卒業。1892年(明治25年)には同郷の友人である香村小録に桜井一久の妹・倉を紹介、結婚に至る。 三重県尋常中学校教諭となった外三郎は、第三高等学校や学習院などで教授を歴任した。1909年(明治42年)よりイギリス・アメリカ・ドイツに留学し、当時欧米で最先端の教育として注目されていた新教育運動(日本では「大正自由教育運動」)に触れる。
渡辺 千代三郎(渡邊、わたなべ ちよさぶろう、1865年9月… 渡辺 千代三郎(渡邊、わたなべ ちよさぶろう、1865年9月20日(慶応元年8月1日)- 1936年(昭和11年)4月5日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。西成鉄道社長、大阪瓦斯社長、南海鉄道社長、貴族院勅選議員。 現在の岐阜県で渡辺新次郎の二男として生まれる。幼少より学問を好み、1889年(明治22年)7月、帝国大学法科大学法津学科を卒業した。卒業後、代言人(弁護士)の登録をしたが、1891年(明治24年)日本銀行に入行した。北海道支店長に昇進したが、その後辞職し、帝国商業銀行副支配人となる。 その後、大阪に移り北浜銀行頭取岩下清周の招きで同行副支配人となり、さらに支配人に就任した。西成鉄道社長、大阪瓦斯社長、南海鉄道社長、大阪株式取引所理事、帝国瓦斯協会(現日本ガス協会)会長なども務めた。
長尾 半平(ながお はんぺい、1865年9月17日(慶応元年… 長尾 半平(ながお はんぺい、1865年9月17日(慶応元年7月28日) - 1936年(昭和11年)6月20日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の土木技術者、鉄道技術者、教育者、政治家、実業家。俳人でもあり、「秋邨」と号した。 祖伯父は長尾秋水。1865年(慶応元年)村上藩士の長男として、越後国村上堀片(現・新潟県村上市堀片)で生まれる。若くしてクリスチャンとなり禁酒主義者となる。1879年から地元新潟の語学校に入学したが、同1885年学制改革により同学校が廃止し上京。築地英語学校に通うほか青山学院で聖書研究。 1887年(明治20年)大学予備門から工部大学校(現東京大学工学部)に進学し、後身の帝国大学工科大学土木工学科を1891年に卒業。
西村 天囚(にしむら てんしゅう、1865年9月12日(慶応… 西村 天囚(にしむら てんしゅう、1865年9月12日(慶応元年7月23日) - 1924年(大正13年)7月29日)は、日本のジャーナリスト。本名は時彦(ときつね)、で、天囚は号。他に碩園(せきえん)とも名乗った。字は子駿。大阪朝日新聞主筆で、コラム「天声人語」の名付け親である。 江戸時代に大坂につくられた学問所「懐徳堂」の復興にも尽力し、漢籍など天囚の旧蔵所が「碩園記念文庫」として保存されている。 祖先に西村織部丞時貫がいる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
金杉 英五郎(かなすぎ えいごろう、慶応元年7月13日(18… 金杉 英五郎(かなすぎ えいごろう、慶応元年7月13日(1865年9月2日)- 昭和17年(1942年)1月26日)は、日本の医学者、政治家。衆議院議員、貴族院勅選議員。 下総国香取郡鏑木村(千葉県香取郡古城村字鏑木、干潟町を経て現旭市)の名主金杉与右衛門の子として生まれる。叔父で、内務省書記官を務めていた金杉恒の養子となる。東京帝国大学医科大学にて医学を学んだ後、ドイツへ留学。ヴュルツブルク大学、エアランゲン大学で学んだ。その後、1892年に、高木兼寛経営の東京病院(現、東京慈恵会医科大学附属病院)にて勤務をする傍ら、東京慈恵医院医学校(現、東京慈恵会医科大学)にて、講義を行う。後に、東京慈恵医院医学校が、大学令に基づき、大学に昇格した際、東京慈恵会医科大学の初代学長となった。
白坂 栄彦(しらさか えいひこ、1865年(慶応元年)9月 … 白坂 栄彦(しらさか えいひこ、1865年(慶応元年)9月 - 1944年(昭和19年))は、日本の教育者、文部省官僚、県官吏。 熊本県蘆北郡佐敷村出身。1880年熊本県立熊本中学校に入学。1884年上京して大学予備門政治科に入学し、1889年に帝国大学に入学した。帝大入学にあたっては「旧藩主の若君の教授の任」を引き受け、この家庭教師の仕事が難物であったため、大学卒業が遅れたという。 1894年帝国大学法科大学政治学科を卒業後、教育への興味から、同年10月文部省に入省。実業学務局勤務の視学官となる。1901年岡山県に転出、内務部第三課長・県視学官を務めた。1904年、日露戦争が勃発すると、銃後の護り戦後の用意として、実科的女子教育の必要性を考え、白坂が中心となって、私立岡山実科女学校(現・就実学園)の創設発起人として名を連ねている。
有賀 長文(ありが ながふみ、1865年8月27日(慶応元年… 有賀 長文(ありが ながふみ、1865年8月27日(慶応元年7月7日) - 1938年(昭和13年)9月11日)は、日本の農商務官僚、実業家、三井財閥の幹部(三井合名会社理事長)。 摂津国大坂(現在の大阪府大阪市)で代々歌道を生業とする家系に生まれる。1889年(明治22年)帝国大学法科大学政治科を卒業後、井上毅長官の下、法制局の試補を経て、貴族院書記官に転じる。その後、農商務省へ入省、農商務書記官、参事官、工務局長を歴任する。1898年(明治31年)、大隈重信が板垣退助と連合して、第3次伊藤内閣の後を受けて、隈板内閣が発足すると、行政整理の一つとして大石正巳農商務大臣が、商務局と工務局の統合を打ち出す。
琴山河合(きんざんかわい、1865年8月6日〈慶応元年6月1… 琴山河合(きんざんかわい、1865年8月6日〈慶応元年6月15日〉- 1931年〈昭和6年〉3月14日)は、日本の林学者。本名は河合鈰太郎(かわいしたろう)。日本統治時代の台湾において阿里山森林資源の開発と、その手段として世界有数の登山鉄道阿里山森林鉄路の建設を提唱した。その功績から「阿里山開発の父」と呼ばれている。 1865年(慶応元年)、尾張国名古屋(現:愛知県名古屋市)で出生。1890年(明治23年)、帝国大学農科大学(現:東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部)林学科を卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学助教授に就任し、同年ドイツ、オーストリアへ留学、西側先進国の森林開発と営林制度を学ぶ。
中谷 弘吉(なかや ひろきち、慶応元年6月16日(1865年… 中谷 弘吉(なかや ひろきち、慶応元年6月16日(1865年8月6日) - 大正12年(1923年)10月23日)は、日本の逓信官僚。 京都府に西田初次郎の四男として生まれ、中谷源吾の養子となった。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。逓信事務官となり、1893年(明治26年)には宇都宮郵便電信局長となった。さらに逓信書記官、同参事官を歴任し、東京郵便電信局長、電気局長を経て、1914年(大正3年)に逓信次官に就任した。 退官後は新たに創設された日本染料製造株式会社の初代社長に就任した。
両角 彦六(もろずみ ひころく、慶応元年6月12日(1865… 両角 彦六(もろずみ ひころく、慶応元年6月12日(1865年8月3日) - 明治41年(1908年)3月21日)は、日本の衆議院議員(壬寅会→中正倶楽部)。弁護士。 信濃国諏訪(現在の長野県諏訪市)に諏訪藩士の子として生まれる。1884年(明治17年)に司法省法学校予科を修了し、1888年(明治21年)に東京帝国大学法科大学を卒業した。判事試補、司法省参事官試補、宮城控訴院書記長、函館地方裁判所判事、横浜区裁判所・横浜地方裁判所判事を歴任した。1893年(明治26年)に退官し、弁護士を開業した。また和仏法律学校(現在の法政大学)の理事兼講師、明治法律学校(現在の明治大学)講師、専修学校(現在の専修大学)講師を務めた。
近藤 虎五郎(こんどう とらごろう、1865年7月23日〈慶… 近藤 虎五郎(こんどう とらごろう、1865年7月23日〈慶応元年6月1日〉 - 1922年〈大正11年〉7月17日)は、明治-大正時代の土木技師。戦前前期の土木界を代表する人物の一人。日本初の工学博士。 村上藩士・近藤金彌の長男に生まれ、新潟学校を卒業。1878年(明治11年)9月明治天皇北越御巡行の折、特に学術優秀ということで、目録を贈られている。その後、東京帝国大学工科大学土木工学科に進学。常に主席を通し、特待生として1887年(明治20年)に卒業。私費で2年間米国留学し土木工学の先進技術を学び帰国。1890年(明治23年)内務省土木局に入り内務技師となり、1896年(明治29年)の河川法制定後国費による河川改修工事や湾岸・上下水道の新設工事の監督指導に当たる。
赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(… 赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(慶応元年5月30日) - 1900年(明治33年)11月5日)は明治時代の教育者、軍人、倫理学者。字は士朗、号は天心狂史、枕戟学人。死去時の地位は第一高等学校講師・陸軍歩兵中尉・従七位勲六等・文学士。 信濃国諏訪藩に生まれ、地元長野県諏訪郡で小学校教師を勤めた後、上京して第一高等中学校で語学、哲学を学び、寄宿寮で学生自治を主導した。日清戦争に参戦した後、東京帝国大学を卒業し、比較倫理学研究に着手したが、志半ばで死去した。 1865年(慶応元年)、信濃国諏訪郡高島城下において諏訪藩士赤沼豊亭と母の山田氏との間に生まれた。赤沼氏は代々諏訪藩に仕え、曽祖父豊綢、祖父豊肄と学問に通じたが、父豊亭中甫は幼少の内に両親を失い困窮し、田畑や家財を売り払ったが、代々伝わる蔵書は家に残され、読書の必要性を教えられた。
楠瀬 熊治(くすのせ くまじ、慶応元年5月15日(1865年… 楠瀬 熊治(くすのせ くまじ、慶応元年5月15日(1865年6月8日) - 昭和8年(1933年)6月17日)は、日本の海軍軍人、火薬学者。最終階級は海軍造兵中将従三位工学博士。東京帝国大学名誉教授。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)に沢村辰吾の三男として生まれ、楠瀬好静の養子となった。1891年(明治24年)に東京帝国大学工科大学火薬学科を卒業した後、フランスに留学した。1894年(明治27年)に帰国後、海軍少技士となった。1904年(明治37年)、造兵少監となり、翌年に造兵監督官としてイギリスに出張。1907年(明治40年)、造兵中監に昇進し、翌年に帰国。1911年(明治44年)、造兵大監となり、下瀬火薬製造所長、造兵廠火薬部長、海軍大学校教官などを務めた。
宮入 慶之助(みやいり けいのすけ、1865年6月8日〈慶応… 宮入 慶之助(みやいり けいのすけ、1865年6月8日〈慶応元年5月15日〉 - 1946年〈昭和21年〉4月6日)は日本の寄生虫学者、衛生学者。九州帝国大学教授。 信濃国更級郡西寺尾村(現・長野市松代町西寺尾)に松代藩士祐筆の宮入敬長の三男として生まれる。1890年東京帝国大学医科大学を卒業。1895年第一高等学校教授。1900年、内務技師として日本薬局方調査会の幹事を務め、1902年、ドイツのフリードリヒ・レフラー教授の下へ留学する。 帰国後1904年に京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)衛生学の初代教授に就任し、翌年医学博士の学位を得る。1912年九州帝国大学医学部衛生学第一講座担任に就任。
澤柳 政太郎(さわやなぎ まさたろう、1865年5月17日〈… 澤柳 政太郎(さわやなぎ まさたろう、1865年5月17日〈慶応元年4月23日〉 - 1927年〈昭和2年〉12月24日)は、日本の文部官僚、教育者、貴族院勅選議員。大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たす。文部次官。東北帝国大学初代総長・京都帝国大学第5代総長・成城学園創立者・大正大学初代学長。子の一人に、美術史学者となった澤柳大五郎がいる。大学の自治をめぐり澤柳事件を引き起こし辞職した。 澤柳の最大の業績は成城小学校での〈教授の実験〉によって、「教育上の問題を実験的に研究して解決する」という近代教育学の方法を確立したことである。その結果、文字教育における「読み先習の法則」を発見した。また文部次官時代には小学校教育から変体仮名を廃止し、子どもたちの文字学習がスムーズに進むような改革も行った。
渡部 董之介(わたなべ とうのすけ、慶応元年4月15日(18… 渡部 董之介(わたなべ とうのすけ、慶応元年4月15日(1865年5月9日) - 昭和13年(1938年)2月9日)は、日本の文部官僚、教育者。 現在の岐阜県出身。1889年(明治22年)、帝国大学文科大学哲学科を卒業。文部省試補、視学官、参事官・書記官、参事官・図書審査官、図書監査官・図書課長心得などを歴任した後、第七高等学校造士館 (旧制)長に就任した。 その他、維新史料編纂会委員を務めた。
勝俣 英吉郎(かつまた えいきちろう、1865年4月13日〈… 勝俣 英吉郎(かつまた えいきちろう、1865年4月13日〈慶応元年3月18日〉 - 1930年〈昭和5年〉4月7日)は、明治から昭和時代前期の政治家、医師。長野県上田市長。俳号・かつ丸。 信濃国上田城下の上田藩医の家に生まれる。1879年(明治12年)東京外国語学校でドイツ語を学び、1883年(明治16年)東京大学医学部別課に入学し、1887年(明治20年)帝国大学医学大学を卒業し、1888年(明治21年)家業の医院を継ぐ。 1891年(明治24年)信陽医学会を創立し、同会長を務める。日清・日露戦争では日本赤十字社救護医として従軍。1909年(明治42年)長野県会議員に当選し、立憲民政党支部長に就任した。
原田 貞介(はらだ ていすけ、慶応元年3月7日(1865年4… 原田 貞介(はらだ ていすけ、慶応元年3月7日(1865年4月2日) - 1937年(昭和12年)9月30日)は、明治から大正時代の土木技術者、内務技監。工学博士。 原田精一の長男として周防国(現・山口県)に生まれ、1900年(明治33年)11月に家督を相続する。1883年(明治16年)旧東京大学理学部に入学するが、寄宿生一同のストライキに参加して1886年(明治19年)退学し、ドイツに自費留学する。シャロッテンブルク高等工芸学校(王立シャルロッテンブルク工科大学、現在のベルリン工科大学)に入学し、河海工学を修めて1891年(明治24年)卒業する。 翌年の1892年(明治25年)5月、内務省に入省し、土木監督署技師、1898年(明治31年)第4区(名古屋)土木監督署長、1905年(明治38年)名古屋土木出張所長、1911年(明治44年)下関土木出張所長を経て、1918年(大正7年)内務技監となり、1924年(大正13年)退官した。
南部 光臣(なんぶ みつおみ、1865年3月22日(元治2年… 南部 光臣(なんぶ みつおみ、1865年3月22日(元治2年2月25日)- 1931年(昭和6年)7月3日)は、明治から昭和初期の内務官僚、政治家、華族(男爵)。官選群馬県知事、貴族院男爵議員、宮中顧問官。旧名・烏丸千佳之二。 山城国京都烏丸通中立売(現京都市上京区)出身。公家・烏丸光徳の三男として生まれ、男爵・南部甕男の養子となり、1893年(明治26年)5月23日に南部に改姓の届出を行った。 1892年(明治25年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年12月、内務省に入省し内務省試補・土木局勤務となる。 1893年11月、香川県参事官に就任。以後、第四回内国勧業博覧会事務委員、兼内務省第二課長、内務書記官・土木局勤務、土木局長事務取扱、同局治水課長などを歴任し、1903年(明治36年)1月、内務省土木局長に就任。
呉 秀三(くれ しゅうぞう、元治2年2月17日〈1865年3… 呉 秀三(くれ しゅうぞう、元治2年2月17日〈1865年3月14日〉- 昭和7年〈1932年〉3月26日)は、日本の医学者、精神科医。東京帝国大学医科大学教授(精神病学講座)。師である榊俶の早世により役職を引き継ぎ、日本における近代的な精神病学を創立した。『日本の精神医学の父』とも呼ばれる。 クレペリン学派の新しい精神病学の普及を通じて、精神病患者の監護法を改めた。日本における最初の精神衛生団体である精神病者慈善救治会を組織(1902年)、三浦謹之助と共に日本神経学会を創立。日本の近代精神医学者のほとんどが、呉の影響を受けた人々といえる。 広島藩医呉黄石の三男として、江戸青山の広島藩邸(現東京都港区)に生まれた。
白鳥 庫吉(しらとり くらきち、1865年3月1日(元治2年… 白鳥 庫吉(しらとり くらきち、1865年3月1日(元治2年2月4日) - 1942年(昭和17年)3月30日)は、日本の東洋史家。東京帝国大学(現:東京大学)教授、東洋文庫理事長を歴任した。専門は東洋史。文学博士。邪馬台国北九州説の提唱者として有名。 上総国長柄郡長谷村(現:千葉県茂原市)に、白鳥嘉一郎と徳の次男として生まれる。戸籍名は倉吉であるが、これは村役人が誤って登録した名前である。庫吉本人も本名は庫吉と語っていた。 1879年、千葉中学に入学。当時師範学校校長兼千葉中学校総理であった那珂通世や、物理と化学を教えていた三宅米吉に出会う。1883年、千葉中学を主席で卒業、1887年一高卒業、1887年帝国大学(のち東京帝国大学、現:東京大学)文科大学(現:東京大学文学部)史学科に入学。
金井 延(かない のぶる、1865年2月26日〈元治2年2月… 金井 延(かない のぶる、1865年2月26日〈元治2年2月1日〉 - 1933年〈昭和8年〉8月13日)は、日本の法学者・経済学者・社会政策学者。学位は、法学博士。日露戦争開戦に際し、強硬に主戦論を主張したことで知られる。戸水寛人らを含む「東大七博士」のひとり。 静岡県出身。東京帝国大学を卒業した後、ドイツへ留学し、グスタフ・フォン・シュモラー、アドルフ・ワグナーらに師事。帰国後は社会政策学会に参加しその中心メンバーになるとともに、東京帝国大学にて、法科大学教授。同大学で1919年に経済学部が新設されると、初代学部長。1925年まで教授を務めた。ドイツにて修得した経済学、社会政策の立場に基づき、帰国後社会政策学会に参加して中心メンバーとなり、自由主義経済への批判や、国家による労働者の保護および金銀複本位制度などの提唱を行った。
内田 定槌(うちだ さだつち、1865年2月12日〈元治2年… 内田 定槌(うちだ さだつち、1865年2月12日〈元治2年1月17日〉- 1942年〈昭和17年〉6月2日)は、日本の外交官。駐ブラジル公使、駐スウェーデン公使、駐トルコ大使。 豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、外務省試補となった。翌年、上海副領事となり、漢城領事、ニューヨーク領事、同総領事を歴任した。1906年(明治39年)にブラジル弁理公使となり、翌年に特命全権公使となった。その後、スウェーデン公使に就任し、デンマーク公使、ノルウェー公使も兼ねた。1920年(大正9年)、トルコに派遣され、のち大使に昇格した。 退官後は日土協会会長、日土貿易協会顧問を務めた。
金子 銓太郎(かねこ せんたろう、元治2年1月15日(186… 金子 銓太郎(かねこ せんたろう、元治2年1月15日(1865年2月10日) - 昭和12年(1937年)11月18日)は、日本の文部官僚、教育者。 東京府出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。一年志願兵として、1891年(明治24年)に陸軍歩兵少尉となり、1895年(明治28年)に陸軍歩兵中尉に昇進し、さらに日露戦争に出征して陸軍歩兵大尉に昇進した。その間、大分県尋常中学校校長、大阪府第一尋常中学校校長を経て、1899年(明治32年)に陸軍教授となり、さらに文部省図書審査官、大阪府視学官、学習院教授を務めた。 その後、高知県立第一中学校校長、愛知県立第一中学校校長などを経て、1910年(明治43年)に第六高等学校校長に就任した。
入沢 達吉(いりさわ たつきち、1865年1月31日(元治2… 入沢 達吉(いりさわ たつきち、1865年1月31日(元治2年1月5日) - 1938年(昭和13年)11月8日)は、明治から昭和期にかけての内科医。学位は、医学博士。東京帝国大学教授、東京帝国大学附属医院長・同大学医学部長・宮内省侍医頭等を歴任、日本の内科学確立に貢献する。 入沢達吉は1865年1月31日(元治2年1月5日)に越後国新発田藩藩医入沢恭平の長男として、南蒲原郡今町(現新潟県見附市)に生まれた。1870年(明治3年)1月寺子屋にて手習いを覚え、1876年(明治9年)10月、叔父池田謙斎の勧めで上京し私塾に通う。1877年(明治10年)11月東京大学医学部予科に入学する。1883年(明治16年)東京大学医学部本科に進級、1889年(明治22年)1月31日東京帝国大学医科大学(学制変更により改名)を卒業し、ベルツ(Erwin von Bälz)に師事し内科無給助手となる。
中山 秀三郎(なかやま ひでさぶろう、1865年1月21日(… 中山 秀三郎(なかやま ひでさぶろう、1865年1月21日(元治元年12月24日) - 1936年(昭和11年)11月19日)は、明治から昭和時代の土木工学者、内務技師、逓信技師、東京帝国大学名誉教授。工学博士。 中山善之進の三男として、三河国額田郡奥殿村(現・愛知県岡崎市奥殿町)にて生まれる。1912年(大正元年)7月、兄の眞琴の跡を継ぐ。1888年(明治21年)帝国大学工科大学土木科を卒業し、関西鉄道会社技師として2年の実務経験を経て、1890年(明治23年)同大助教授。 1896年(明治29年)河海工学研究のため欧米へ留学し、帰国後、1898年(明治31年)同大教授。この間、帝国経済会議、学術研究会議、土木会議等会員を歴任。
富田 愿之助(とみた げんのすけ、1865年1月1日(元治元… 富田 愿之助(とみた げんのすけ、1865年1月1日(元治元年12月4日) - 1927年(昭和2年)3月8日)は、衆議院議員(政友本党)、医師。 肥前国彼杵郡広田村(現在の長崎県佐世保市)出身。1888年(明治21年)、東京帝国大学医科大学別科を卒業。佐世保で医院を開業し、村会議員となり、市制施行後は市会議員、さらに市会議長として1914年(大正3年)までその職にあった。その後、県会議員、県参事会員に選ばれた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、西部合同瓦斯株式会社・五島電灯株式会社・有川電灯株式会社取締役、壱岐電灯株式会社監査役を務めた。
大庭 寛一(おおば かんいち、1865年(元治元年12月) … 大庭 寛一(おおば かんいち、1865年(元治元年12月) - 1916年(大正5年)3月)は、日本の内務・朝鮮総督府官僚。官選愛媛県知事。 長門国阿武郡萩で長州藩士の家に生まれる。父親は画家の大庭学僊(1820-1899)。1887年7月、帝国大学法科大学を卒業。1888年11月27日、内務省試補となり県治局に配属された。 以後、内務属・警保局勤務、群馬県参事官、兵庫県参事官などを歴任。1895年、李氏朝鮮の招聘を受け内務顧問官に就任。1897年まで務め、その後、佐賀県書記官、静岡県書記官を歴任。 1898年12月22日、愛媛県知事に就任。愛媛県農学校、松山・宇和島・今治の三高等女学校の設立など、中等教育の振興に尽力。
真水 英夫(まみず ひでお、1865年 - 1938年)は埼… 真水 英夫(まみず ひでお、1865年 - 1938年)は埼玉県出身の建築家。旧帝国図書館を設計したことで知られる。夏目漱石が東大予備門時代の仲間で作った十人会の一人。 埼玉県士族・齋藤歲寧の二男。1865年8月29日(慶応元年7月9日)武蔵国に生まれ、第一高等中学校を経て1892年(明治25年)7月に東京帝国大学工科大学の建築科を卒業。卒業前年の1891年夏には、同期生の伊東忠太らと共に各地の古い建築物を訪ねる見学旅行を行った。1887年(明治20年)3月に東京の真水こよの養子となり、1894年(明治27年)3月家督を相続。三菱に務めた後、文部省に入り建築課の技師として腕を振るった。 1897年(明治30年)4月には帝国図書館官制が公布され、上野公園内に新館の建設が決まる。
川上 元治郎(かわかみ もとじろう、1864年12月24日(… 川上 元治郎(かわかみ もとじろう、1864年12月24日(元治元年11月26日) - 1915年(大正4年)7月2日)は、日本の医師。政治家、衆議院議員(1期)。 新潟県泉村(後に栃尾市、現在は長岡市栃尾)の名主で、新潟県議会の第3代副議長を務めた川上金十郎の二男として生まれる。1885年、東京帝国大学別課医学部卒。同大学医学部助手となり、眼科医を開業する。その傍ら、日本医事週報主筆となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において新潟県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1903年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。1915年に死去した。墓所は護国寺。
国沢 新兵衛(くにさわ しんべえ、旧字体:國澤 新兵衞、18… 国沢 新兵衛(くにさわ しんべえ、旧字体:國澤 新兵衞、1864年12月21日(元治元年11月23日) - 1953年(昭和28年)11月26日)は、日本の鉄道官僚、実業家、政治家。工学博士(1915年(大正4年))。南満洲鉄道理事長、衆議院議員、日本通運初代社長。兄は洋画家の国沢新九郎。 土佐藩士・国沢四郎右衛門好古の子として江戸に生まれる。青木槐三の聞き取りでは、1879年(明治12年)に高知県から船で上京したという。美會神学校(後の青山学院)を経て、帝国大学工科大学土木学科に進む。在学中より日本鉄道(東北本線)の黒磯駅 - 白河駅建設に関与した。1889年(明治22年)帝国大学卒業後は鉄道技師として九州鉄道に入社し、長崎本線の佐賀駅付近の建設に従事した。
恩田 鉄弥(おんだ てつや、1864年12月16日(元治元年… 恩田 鉄弥(おんだ てつや、1864年12月16日(元治元年11月18日) - 1946年(昭和21年)6月10日)は、明治から昭和時代前期の園芸学者。農学者。農商務技師。園芸試験場場長。 大坂出身。駒場農学校を卒業し、1885年(明治18年)農学士の学位を得、福島県に出仕する。ついで福岡県尋常中学校教諭、埼玉県の埼玉県尋常師範学校教諭、岩手県農事講習所(岩手県立盛岡農業高等学校の前身)教師を経て、1892年(明治25年)岩手県技師を拝命する。1895年(明治28年)岩手県農事講習所長となり、1896年(明治29年)農商務農事試験場技師に任じ、1900年(明治33年)農商務技師を兼ね、初代園芸部長を務めた。
相原 祐弥(あいはら すけや、元治元年11月4日(1864年… 相原 祐弥(あいはら すけや、元治元年11月4日(1864年12月2日) - 没年不詳)は、日本の裁判官。 宮城県仙台市出身。小野祐治の二男として生まれ、相原安治の養子となった。1891年(明治24年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。秋田地方裁判所判事、前橋地方裁判所判事、東京地方裁判所、東京控訴院判事、東京控訴院部長、名古屋控訴院部長を歴任した。 大審院判事を務めた後、台湾総督府法院判官に転じ、高等法院長に就任した。